さよなら惨憺、またきて羽客6

 願い星集め 一日目
 デュースが星送りのスターゲイザーに選ばれた。
 スターゲイザーは、願い星とかいう願いの込められた星を回収して、星送り当日には太鼓を鳴らしたり踊ったりしなきゃいけないらしい。
 星送りはこの世界では子供も知っている有名な逸話を基にした伝統行事らしいから、大抵の生徒は飽き飽きしてるみたい。
 「星に願いを」なんて、七夕みたい。地域によっては七夕に太鼓を鳴らすところもあるみたいだし。
 でもエースとデュースには全然伝わらなかった。薔薇の王国には七夕なんてないだろうし、それもそうか。

 願い星集め 二日目
 デュースはスターゲイザーの役目を全うしようと頑張ってるけど、周囲はそうでもないみたい。
 学園長の言った通り、星に願いを託すことが幼稚だという生徒が殆どだし、非協力的過ぎる。
 それでも根気よく聞き出せば、みんな願いはあるみたいで、どうにか願い星を集められている。
 デュースの腕力とトレイ先輩の魔法の影響が大きいかもだけど。

 願い星集め 三日目
 スターゲイザーを手伝っている内、やっぱり七夕を思い出す。
 郷愁ってやつかもしれない。
 私は星に何を願えば良いんだろうかと、センチになったりする。
 昨日は正直、私達の分の願い星がひとつだけで助かったと思った。
 帰りたいなんて、よくしてくれてる友達の前で言えやしないし、後ろ向きな事ばかり言うと引かれちゃうかもしれないし。
 多分、もう帰れないし。
 あれだけ先生方が探してくれて手掛かりすらないんだから、きっとそう。
 最近は、それでグリムが学園でやっていくにはまだまだ私が必要だし、それでいいかって考えられるようになってきた。
 でも、故郷が恋しいのはずっと本当。


 デュースは、オンボロ寮の談話室に設置された古びたソファに背を預けたまま、深い溜息を吐いた。日が昇ったばかりの頃である。
 デュースの右手にはプリントアウトされた文書があり、彼はそれを繰り返し読んでいた。監督生の日記を翻訳した物の一部である。デュースとトレイ、イデアが星送りの行事でスターゲイザーに選ばれて奔走していた頃の出来事が綴られていた。
 異世界と思われる所在不明の地を彷徨する監督生を助ける手掛かりにはならなかったが、懐かしさでつい読み返す。

 星送りの当日、デュースは彼女に願いを聞いた。
 来年こそは自分のために願い星を使えとも言った。
 来年もこの学園にいること自体、彼女の願いと矛盾することだと気付いていなかった。
 何より、また来年も彼女はこの学園で一緒に過ごすものだと思っていた。
 それなのに今、唐突に別れの危機が訪れている。挨拶も無しに。無事でいられるかの保証も無く。デュースはこれは何の皮肉かと思って、精神が暗澹とした。
「寝なさい。無駄に起きててもパフォーマンスが低下するだけよ」
ソファに沈みかけたデュースの顔を掌で覆ったのは、ヴィルだ。
「有事に役立ちたいなら、ローテーションを守って休憩を取るのも大切な仕事の一つよ」

 数時間前の深夜、デュースを含む監督生と懇意だったハーツラビュル生五人は、教員の転送魔法によってオンボロ寮に強制召喚された。
 彼女の手記から異世界の情報を探す作業を行う為に、彼女とある程度親しかった者が集められたのである。
 何故手記から探すかと言えば、以前監督生の様子がおかしくなった折にオンボロ寮を検めた時、ジャミルが彼女は日記の一部を例の東方の言語で書いていたと証言したからだ。
 監督生自身に翻訳の魔法がかかっているので、此方の言語も故郷の言語も彼女の中では難易度は変わらない筈であり、寧ろその日の事を綴るだけなら魔法用語などがある此方の言語を用いた方が合理的ですらある。その状況の中でわざわざ異世界の言語を使って記すとなれば、此方にはない単語や概念についての記述、つまりは彼女の故郷たる異世界の情報があるのではないかと期待したのである。

 ハーツラビュル生五人が喚び出されたオンボロ寮には、ジャミルとイグニハイド寮で翻訳機能をアップデートされたオルトと、手の空いた教員達が既に作業をしていた。クルーウェルとバルガスに関してはオンボロ寮に顔を出さないものの、イグニハイドで奇怪な音声の分析や御母衣村周辺の地理の攻略を試みているらしい。
 そこに日の出とともにヴィルとルークとエペルが参加し、夜更け前から働き通しであったハーツラビュルの一年生二人に一旦の仮眠を取らせるようローテーションを組み、今に至る。教員は大人として、ヴィルは一番睡眠のとれた時間が長い自負から、せめて仮眠を取れと言い募るが、非常時に適切に休養するには相応の適性ないし訓練が要るのである。エースもデュースも、辛うじてソファで大人しくさせられただけで、まるで神経が休まっていなかった。

 そも現在、ローテーションを決めたもののルークとトレイは寮長不在にざわつき始めた自寮の監督に駆り出されその順序が守られるか既に怪しく、エースとデュースを除いた六人の学生は学園長、トレイン、ゴースト達と共にオンボロ寮を忙しなく右往左往している。その中でのうのうとブランケットを被っているだけでも、場違いさと罪悪感で眼が冴える。 

 こんな時に、一旦寝ろと言われたところで、素直に就寝できるわけもない。
 デュースは無為に監督生との共通の思い出を読み返しては、不安と焦燥感に苛まれて魘されていた。
「何なら人を増やしますか。夜更かししなかった生徒なら、もう充分寝た頃でしょう」
見かねたクロウリーの提案に、リドルが首を振る。
「非常時とはいえ、プライバシーを暴く作業です。面白半分の生徒が来ては後々困ることになるでしょう」
「じゃあ、ジャック君とか。真面目でしょう、彼」
「ジャックは昨日の段階から動いてるわ。あと、呼ばなかったのは獣人属だからよ」
今度は、クロウリーをヴィルが否定する。
 監督生の主観を通した記述から異世界を探る以上、監督生の感性を知る事になるが、ヴィルはそれを獣人属の友人にさせるのは酷だと考えていた。監督生の故郷に妖精も人魚も獣人もいなかったのだ。居たとすれば怪異に分類されるものであり、実在の獣人達が知れば無神経と思うような記述が出てきてもおかしくはいのだ。監督生が帰還した後の人間関係を考えると、ヒト属の生徒だけでを済ませるのが無難だというのが彼の見解であった。
 サバナクロー生が図書館に取り残されているのは、そういう訳である。


 そんな折だった。
 エースはブランケットを頭まで被ってソファに転がっていたエースが「え」と声をあげた。
 覚醒しきった声量だった。
 彼は、布の中で隠れてスマホを見ていたのである。

 ブランケットから顔を出したエースにつられて、皆スマホで掲示板を確認する。
 見れば、丁度件のスレッドが千件に到達し、書き込みができなくなったところだった。大半の閲覧者達はもう次のスレッドで雑談をしており、過疎状態ではあったが、その千件目の投稿者は明らかに妙だった。固定されたハンドルネームもなければ、所属寮だけを明らかにする仮の表記もない。
「仕様上、そんな書き込み方はできない筈じゃない?」
監督生がモー・ジョボーの捕獲に駆り出された頃の記録を当たっていたケイトも、手を止めて眉を寄せた。その指摘をオルトが肯う。
「というか、文字化けしてるのも変かも。文字化けは一般に、ロードが正常に行われていなかったり、文字コードを正確に読み取れていなかったりして起こるけれど、翻訳魔法がかけられている上に兄さんの管理しているところで起こる筈がないんだ」
監督生にかかった翻訳魔法をすり抜けた、女の声と同じ不可解さ。すわ怪異の干渉かと、教員が顔を顰める。
「復元は可能か?」
疑問符記号が入っている以上、虫食いになるのは承知しているが、手がかりがほしい。そう頼んだトレインに、オルトは頷いた。何パターンかのコードで復元を試して虫食いが少なく済む組み合わせを弾き出すまで、僅か数秒のことだった。オルトはタブレットに、解読した文字を打ち込んで見せる。

 『??ε?νγιον』

 虫食いは疑問符記号で埋めてある状態だが、監督生等の居る廃村にもカレッジにも不似合いな言語であることは皆直感的に察した。
「この文字の形、アンタ達の実家で見たわ。雷霆の槍を拝借した時よ」
単語そのものにはまるで心当たりが無いけれど、とヴィルが心当たりを挙げれば、ジャミルとリドルも頷いた。
 その情報にげんなりとしたのは学園長で、彼は仮面に覆われた眉間を抑えてぼやいた。
「……雷霆の槍といえば、あまりにも古い時代の遺物じゃありませんか」
もし雷霆の槍が地上にあった時代、つまりタイタンが地上にいた時代、それはただのヒト属には手に負えない程に古い歴史である。その頃は、獣人は獣に近く、人魚は未だ陸を知らず、妖精こそが豊かな文明を手にしていた混沌の時期だ。妖精族の口伝でしか記録の無いものも多い。どうか調査範囲をそこまで遡らせないでくれと願うのは、学園長ばかりではない。
「実家のデータベースに接続してみるね」
オルトが嘆きの島の古い資料にアクセスを試る。それに古代語を得意とするジャミル、既に掌の上に言語辞典を召喚していたトレインも、解読に加わった。


 そうして、オンボロ寮に雪のような静寂が訪れた。
 己の無力を無言で突き付けられたような、過ぎ行く時間だけが神経を痛めつけていくような、焦りと一体の脱力。

 無言の懊悩の中、エースは気まずそうに口を開いた。
「あの。文字化けとは関係無いんすけど、セイレーンって羽あるんすか」
要領の良さを自負するエースなら、そんな疑問をわざわざ口に出しはせず内心だけに留めておくものだが、この時ばかりは呆れの目をむけられる事より沈黙が続く方が耐え難かったのだ。
 それに、エースが最初に驚いたのはセイレーンについての投稿の方だったのだ。魔法にもエンコードにも造詣の深くないエースは、校内掲示板が文字化けすることの異常性など禄に知らかったのである。それよりも、セイレーンの名が規定以上のIQと社会性がある事が確認された種族かつ羽がある生物として挙がったことに戸惑いがあった。
「セイレーンって人魚みてえなモンって聞いたんすけど」
「それは誰から聞いたんだい。セイレーンというのは、女性の上半身に鳥の翼と下半身のある種族だよ」
リドルの呆れを含んだ訂正と質問に、エースが気まずそうに鼻の頭を掻いた。
「まあ、無理もないんじゃない? 正直けーくんも授業で触れるまでは人魚の一種だと思ってたもん」
ケイトが一年生の無知を庇えば、嘆けはされても非難は上がらなかった。
 なにぶん、人魚は種類が種類が多いので呼び分け方も多いのだ。ヒトに魚の下半身がついているだけでなく、リーチ兄弟のように上半身まで魚の特徴が顕著に出ている者もいれば、アズールのように下半身が魚類ではない者もいる。淡水と海水の種族の差や、ヒトに近い部分の面積の大きさ、下半身が何類かで、細かく分けられる。その上、陸の都会に住んでいるヒト属の大半が学園に入って初めて人魚や妖精の存在を認知するように、体系立って習うまでは生活圏の被らない種族については誤解していることもしばしばだ。
 海のことに疎い陸の人間からしてみれば、セイレーンを人魚の呼び方の一種と誤解するのも決して無理な話ではなかろう。そう共感を得たのだ。

 スレッドでも、海難事故の原因視されていることから海に住まう強大な生き物であることは共有されているが、よくよく読み返せば人魚と混同している書き込みもなくはない。こういったものが更に誤解を深化させたのだろうと、リドルは溜息を吐いた。
 匿名の有象無象からの情報共有に頼ることは、こういった事故が起こる可能性を孕んでいる。そう再認識させられた分、図書室で出典の確かな知識に頼れた頃が懐かしくすらあった。

 けれど、エースは己の知識が単なる誤解であるとは認め難いようだった。
「でも、監督生もセイレーンに魚の尾があるって言ってたんすよ。少なくとも、アイツの世界のセイレーンはそうなんじゃないっすか」
あの合宿の夜に監督生が話した八百比丘尼ではないもう一方の人魚の話とは、セイレーンのことだった。そう証言したエースに、エペルが「言っでだ!」と手を打つ。ジャミルも、動画に収める前の遣り取りを思い出して、そうだったと天井を仰いだ。
「えっと、監督生くんの地元、二股の魚の尾をしたセイレーンがロゴになってるカフェが有名って言ってました。そこの新作のフラペチーノが楽しみだった、って」
ヴィルの眼を気にしてすぐさま訛りを抑えたエペルは、たどたどしい標準語で仔細な情報を述べた。

 カフェ、とケイトが反芻する。リドルとヴィルが神妙な面持ちで顔を見合わせる。
 監督生の知識と飲食店のロゴが結び付いているということはつまり、監督生一人の勘違いという可能性も消え、あの世界のセイレーンには魚の尾がついていると広く認知されていることが確実ということだ。

 これではウブメに関しても、予想している特徴のある怪異であるかすら怪しい。
 羽毛の持ち主とウブメを繋ぐのは、ウブメが鳥の身体をしているという魔法世界における数多の伝承からの予測でしかないからだ。
 セイレーンを引っくり返された以上、ウブメもまるで別物である可能性も大いに出てきてしまったのだ。
 かの怪異に縁があるのは人魚か鳥か。はたまたどちらでもない可能性すら潰しきれていない。

 一進一退どころか、滞るばかりで解決の糸口がまるで見えない袋小路だ。
「……どっちも、ということはないでしょうか」
そんな中、オルトの引っ張り出してきた嘆きの島の資料とトレインが開いている辞典を交互に眺めていたジャミルが口を開いた。
 何がと聞き返される前に、彼は自ら補足した。
「セイレーン、いえ、御母衣村においてヒトならざるものの描写されているものの存在が、羽毛があり、かつ下肢に鱗を持つものであるのではと思ったので」

 ジャミルの推察への反応はまちまちだ。
「鶏なんかにも脚に鱗はあるって言ってませんでした?」
デュースはスレッドの流れを参考に、人魚という選択肢を忘れた方がいいのではなかったかと確認した。
 人魚の存在が出てくるのは偏に、女の怪異と思しき声を聞けるのが現地ではフロイドのみだという点に依るからだ。しかし、その後の調査では、人魚以外にも白鳥やペンギンなど一部の鳥系獣人や妖精族なども同胞を呼ぶ声が聞こえている。肝心の鶏の獣人属には聞こえなかったらしいので混乱を招いたが、人魚という括りに固執すべきでないことだけは確かであった。

 リドルは羽毛と鱗の両立する種について、考えを巡らせる。
「羽毛恐竜、いや翼のある蛇……いや、ドラゴンはどうだろう」
リドルの頭には、マレウスの姿が想起されていた。同胞にかえしてと呼びかける女の声が妖精族にも聞こえるとあらば、その首魁たるマレウスも恐らくは聞こえる側の人だろう。故の連想である。

 しかしジャミルは、新しく別の種族について検討するのを避けた。
「いや……俺は結局、セイレーンだと思う」
彼は、トレインの持っていた辞典の一頁を指差して見せる。
「さっき、オルトと先生と文字化けした言葉はπτερνγιονだったんじゃないかと話していたんだ」
一同の視線が、辞典の片隅に印刷された小さな活字に集まる。古い島の言葉だ。セイレーンの関与が疑われる魔の岩礁地帯も、古くはその言語が使われていたという。

 πτερνγιονの意味は、羽根であり、鱗。その両方を表す単語だった。
「セイレーンは、言語の曖昧さによって、古い文献では羽根があるのか鱗があるのか文脈でしかわからない。いや、岩礁地帯に生息することも相俟って、文脈ですらどちらでもとれてしまう」
ジャミルの意を汲んだトレインが、名門の魔法士養成学園に通う学生達ですらセイレーンを誤解していた訳を紐解いた。否、彼等の説では、誤解と呼ぶのも違うのだろう。
「監督生の故郷には人魚型のセイレーンが、こちらでは鳥人型のセイレーンが居る、そう考えるべきではない。セイレーンには、どちらもいると考えるべきなのだ」
突然の新説に口をあんぐり開けている一年生を余所に、トレインは本をもう一冊召喚した。工業的な製本ではないそれは、やや古い論文だった。


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 雨音がフロイドの鼓膜を打っている。
 低い天井が見えた。下ろし筵の、今にも雨が漏れてきそうな粗末な木造家屋の床に、フロイドは縫い留められていた。
 フロイドの身体を押さえるのは、男達の八本の手だ。荒れてかさついた男の手が、フロイドの手首を無遠慮に掴んでいた。
「美しい娘御じゃ」
「まっこと天女のよう」
黒い髪の矮躯の男達が四人、脂下がった顔でフロイドを見下ろしている。
 いずれも彫りの浅い顔に、生成りの肌をしている。人種的には監督生と同じであろう彼等だが、まるで全く知らない生き物のようで嫌悪感が募った。

 彼等は監督生と違って、フロイドを一人の人間として見てはいないのだ。
 子供が虫の羽をちぎるような無神経さを孕んだ、好奇の視線。隠しもしない邪な欲情。
 不快感が、フロイドの膚を撫でていく。

 男達に怒鳴り散らそうとして、フロイドは己に舌が無いことに気付いた。
 舌が半分よりも根本側で切られており、言葉がまともに発音できなかった。空気を振るわせるのは、まるで響かない喉から出た空気だけだ。皮肉にもそれは、原始的な人魚の威嚇音に似ていた。
 まるでなっていない抵抗に、男達が嗤う。

 切り取られた舌が痛んだ。
 塞がり切っていない傷が開いて、フロイドの咥内が血の味で満ちる。
 その痛みの中で、フロイドの妙に冷静な部分がこれは己の身体ではないと気付いた。
 思えば、フロイドより遥かに身長の小さい男達が、フロイドの手首を満足に片手で掴めてしまう訳がないのだ。
 切られた舌もそうだ。フロイドのものである筈がない。
 歯を打ち鳴らしたり擦り合わせたりして確かめれば、フロイドの歯列はあの特徴的な鋸状でもなかった。舌が歯に届かない所為で子細な状態までは分からないが、平たい歯が並んでいることだけは察せた。
 嫌悪感を堪えて男共の黒眼を覗き込めば、そこには金髪の女が映っていた。
 成程、天女。
 差し詰め、これは村の女の記憶だろう。それがフロイドの夢と混線したのだ。
 あるいは、彼女らの怨嗟がフロイドの夢を伝って主張しに来たか。


 フロイドのすぐ近くで、赤子が泣いていた。
 視界に赤子の姿を捉えることはできなかったが、それが男達の耳にも入っている音だということは彼等の反応から理解できた。
 劈くような悲壮の声が、雨音を掻き消す程に大きく強く響いていた。御母衣村を探索した時に散々聞いた声だ。赤子はあまりにも必死に喚くものだから、声の出ていないフロイド自身も無きわけ居ているような錯覚に陥る。

 フロイドは、幾度となく「これは夢だ」と自身に言い聞かせた。
 しかし、現実と切り離したからといって、この状態を受け入れられたかと言えば否だった。
 どれだけ己に夢だと言い聞かせても、痛みは依然として強かった。赤子の声が余計に悲痛を増幅させる。男達の噎せ返る体臭はリアルで、彼等に触れられていることへの嫌悪感は留まることを知らない。
 どれだけ「これは自分の身体ではない」と言い聞かせても、彼等の瞳が湛える歪な熱への憎悪を我慢できそうになかった。
 女性の身体に押し込められたフロイドの意識は、ただこれから起こることに怯えていた。


 フロイドは、人として見られていない女一人が多勢の男共に囲まれた時に何が起こるか知ってる。
 それは学園中に女と知られてしまった監督生の境遇が十分に示唆してくれていたことだった。
 幸い彼女には、半身とも言うべき火を吹く魔獣が居て、対等に口を利ける友が居た。教師や情のある上級生達も彼女の庇護者である。本人も一言われれば十言い返す程に達者であるし敵と見做せば鈍器で殴打する事にも抵抗が無い気質であったから、彼女はフロイドに悲壮を語ったことはない。
 けれどフロイドはラウンジの従業員の職務として、彼女と親しい上級生として、彼女に手を出さんとした愚かな男子生徒を絞め上げたこともある。その中で、男同士の喧嘩とはまるで異なる醜悪な意図を纏った加害欲求を垣間見た。弱く愛い生き物が負う惨憺さを知ってしまった。

 そして今、フロイドはその弱く愛い生物の立場だった。

 それも、ただ独り。
 援軍は見込めない。腕は細っこい女のもの。マジカルペンも無い上、身体は抑えられたまま身じろぎ一つ叶わない。呪文を唱える舌は切られて、悲鳴一つ満足にあげられない。
「正に迦陵頻伽よ。声を聞けんのは惜しいが」
「止めとけ止めとけ、喜作が狂うたのを忘れたか」
節くれた指に顎を掴まれて、フロイドの背にどっと冷や汗が伝った。身体が冷えて、膝が震える。抵抗を試みて脚床板を叩く踵も軽々掴まれて、脚に男の指が伝う。
 詠唱が無くともできる魔法を試みるも、大気中の魔力が薄すぎるのと精神が安定していないのとで上手く出力されなかった。本当はこの男達を切り裂いてやりたかったのに、旋毛風のような風が吹いて家屋を揺らしただけで、男達を脅すことも儘ならない。そも、この身体はフロイドが得意とする魔法と相性が良い訳でもなく、マジカルペンが無いとなれば制御が叶わないのも分かり切ったことであった。ブロットの溜まる感覚だけが、色濃く身体を苛んだ。
「口もいかん。まだ歯が残っとる」
「歯ぁ抜いたら咥えさせられるか」
皮膚の薄い部分を、厚くざらついた皮と整っていない爪が無遠慮に傷付けていく。

 フロイドの頭越しに談笑する男達は、会話の下劣さと残忍さに反して和やかだ。
 彼等の眼には、フロイドの侮蔑も苦痛も映らない。彼等のコミュニティは近似した嗜好の同性のみで完結している。その狭さと厚顔さが罷り通る異常性に、フロイドは彼等が己とはまるで異なる理屈を生きている集団だと強く実感した。
 声が出たなら、バカにしやがってと怒鳴り散らしていただろう。気色悪いと罵って、叫び出したかった。
 けれど実際には、咳き込むほど声を荒げても、威嚇にすらならなかった。力の差は歴然で、手足の自由を奪われては好きにされるのをただ待つだけ。
「舌使えんから気持ちええかわからんぞ」
哄笑が、フロイドの鼓膜に障る。俎板の上の鯉の屈辱を、フロイドはたった今知った。
「折角の顔が見れんもんになるぞ。下だけで我慢せえ」
「確かに、歯抜け婆の顔は勘弁」
男の一人がフロイドの髪を掴んだ。金糸の髪が抜けるのも構わず引っ張られて、頭を振って嫌がることも儘ならなくなる。強張った頬を、男の分厚い舌が嘗める。興奮で過剰に粘り気を帯びた唾液が頬を濡らす。歯磨き粉などとは縁遠い臭気が、フロイドの鼻腔を犯す。荒い鼻息が不規則に吹きかかる。

 血走った眼が、フロイドを見下ろしていた。
 その眼に映るフロイドは、ただの温い肉の袋でしかなかった。どれだけの拒絶も怒りも、彼等には意味を為さない。女という身体の機能にしか目を向けることのない彼等には、まるで無意味なことだからだ。彼等にとってフロイドは、良い欲を叶えるための器であって、意志のある生物ではなかった。

 フロイドの歯が、本人の意志から離れてガチガチ鳴った。

 発散されない怒りがフロイドの中で燻って燃えていた。なのに寒かった。怒りに熱っせられた以上に、恐ろしさが身体を芯まで冷やしていた。
 極寒の海で育った身でありながら、初めて経験する凍えだった。悍ましいという感情をたった今知ったばかりのように、新鮮な忌避感が身体を駆け巡っていた。
 そんな感情の動きすら、フロイドの屈辱を増幅させる。

 自身が矮小な生き物になっていく気がした。
 どこまでも貶められて、尊厳が奪われていく。


 「フロイド先輩、大丈夫ですか」

 フロイドは、掌を小さな柔い手に握られて目を覚ました。
「魘されてましたよ」
監督生の声だった。彼女はフロイドの手を握ったまま、彼の様子を窺っていた。
 窓の外はまだ暗い。不寝番が交代する時間はまだ先だが、フロイドの様子にこれでは休養にならぬと監督生が独断で起こしたのだ。グリムは監督生の横で寝息を立てていた。流石に学園の中庭で見るような、臍を天に晒した寝方ではないものの、満足に眠れているだけ上等であろうと、フロイドは片眉を上げた。
「ジャケットお返しした方が良いですよね」
フロイドが何も言わないので、監督生が質問を重ねる。監督生は、自身のジャケットの上からフロイドのジャケットも羽織っていた。ただのヒト属の身に夜は冷えるだろうと、寝る前のフロイドが貸し与えたのだ。けれど今、震えているのはフロイドの方だった。

 ジャケットを脱ごうとする監督生の手を、フロイドは強く握って止めた。
 フロイドの手は、寝る前に見た時よりも水掻きが更に大きくなっていた。鋭く硬くなった爪が、監督生の手の甲に食い込んでいた。フロイドは咄嗟に手の力を抜いたものの、それでも彼女は手を振り解きはしなかった。それが妙に有難くて、フロイドはジャケットの返却を断った。柔い掌から伝わる体温こそが、強張った身体を徐々に解していく。

 監督生は、フロイドの不調について何も聞かない。関心が無い訳ではないのだろうが、彼の方から喋るのを待っている態度だった。

 フロイドは客観的に考えて、件の悪夢を打ち明けるべきだと思っていた。あれはどう考えてもただの夢ではなかった。一般に夢と言えば記憶や体験を整理する脳の代謝であるが、あの夢にはフロイドの記憶も体験も掠らない。この御母衣村が見せた幻に他ならない。
 そう分かってはいるが、面子で生きているような男が自らの恐怖体験を語るのは容易ではなかった。

 嫌悪しか湧かない記憶を反芻する度、指先に力が入る。
 怒りと屈辱で、腕が震える。
「……あん時と丁度反対じゃん、オレ達」
フロイドは強がり半分に、もう半分は自身の心を整理する為に口を開いた。長らく口を利かなかったように、舌が縺れて声が枯れていた。最早、舌が健全に機能することに違和感すらある。だが、こうして喋ったことで、夢でのフロイドと現状のフロイドが全くの別物であることが体感として認識できて気分が回復する兆しをみせていた。

 監督生は、フロイドの言うあの時が御母衣村に迷い込む前のことを指すとすぐ合点して、控えめな所作で頷いた。折角寝ているグリムを起こさないように気を使っているのだろう。


 彼等が鏡を潜って御母衣村に来る前、監督生とグリムはラウンジで夕餉を食べていた。
 監督生は、オクタヴィネルの生徒と然して変わらない頻度でラウンジに勤務している身である。だからシフトの入っていない時まで職場に来るのは息が詰まるのではと心配されることもあるが、従業員割引が適用されるようになったので寧ろ友人たちよりラウンジで食事をすることが多かった。
 それに、オンボロ寮の二人だけで食べるなら、有象無象が入り乱れる食堂よりも気の知れた従業員もいるラウンジの方が素行の悪い輩に絡まれることも少ないし、縦しんばトラブルになっても面倒が少なく済むのも魅力だった。
 無論、その裏にはアズールの支配人としての反省と尽力があるのだが、それでも想定外が起こるのがナイトレイブンカレッジである。
 端的に言えば、監督生は珍しくラウンジでちょっかいをかけられていた。シェフのきまぐれサラダという名の旬野菜の寄せ集めに舌鼓を打っていた折、後ろから髪を掴まれて頬に唇が付くほどの距離で侮辱の言葉を吐いたのだ。それは周囲に聞こえる程の声量ではなかったが、監督生の顔色が怯えから怒りに変わるのが遠くからでも分かる程だった。
 男の舌が、監督生の頬に触れた。
 アズールがレジを打っていたフロイドに事態を収拾するよう合図を出すが、監督生が自力救済に走る方が早かった。
 磨き抜かれたカトラリーを寸分の躊躇いも無く男子生徒の腕に突き刺して逃れると、自ら武器を取ったのだ。それがトンカチという殺意漲る鈍器だったものだから、他の客が野次馬になった。
  面白半分に「やっちまえ」と叫ぶ客やどちらが勝つか賭け始める輩を掻き分けて、フロイドが二人の間に割って入る頃には、監督生は相手を三発撲っていた。相手が獣人でなければ、もっと多くの骨を砕けていたことだろう。一方監督生も腹に何発貰って、胃液を吐いていた。彼女と一緒にいたグリムといえば、誰より熱く拳を振り上げて監督生に発破をかけていた。
 フロイドはその惨状をどうにか収集、もとい男の方の頭を的確に瓶で殴って昏倒させた。揉めた相手の方は、素早くジェイドが回収してバックヤードに引きずっていく。

 未だ息の荒い監督生に、フロイドは瓶に入っていた水を与えて口を濯がせる。
「今日はもう帰んな。送ってやっから」
ラウンジの床に落ちてしまっていた監督生のジャケットを拾って、フロイドは彼女の手を引いて強制退店させる。

 これに異を唱えたのはグリムであった。彼はウォーターショットを食らったのか毛皮から水を滴らせていた。
「ふなーっあの野郎! オレ様を子分のバター犬って言いやがったんだゾ!!」
グリムと二人三脚の学園生活を送ってきた彼女には、その相棒への情を貶められるのは耐え難かったのだろうと、フロイドは一先ずの納得をした。それでも、紳士の社交場たるモストロ・ラウンジには、如何なる理由であれ乱闘はご法度。そう説こうとしたフロイドの口からは、本音だけが漏れていた。
「殺してやりゃ良かったのに」
グリムが平べったい眼で、フロイドを見上げる。

 けれど監督生は、それで漸く頬を綻ばせたのだった。
「日を改めて殺します」
彼女の腕は震えたままだったが、確固とした声音で宣った。特に冗談を言っているようには見えない、いつもの真面目な顔だった。この女はやると言えばやるのだ。有耶無耶にして引き下がっては軽んじられたままになると、彼女はよく知っている。
 フロイドは、その気丈さに感心しつつ、好ましく思った。ここで尻尾を丸めているような後輩では面白くないと、鷹揚な態度で軽口を返す。
「あは、そん時はオレも混ぜてよ」


 けれど、今のフロイドなら、その気丈さが本当に並のものではなかったのだと分かる。
 力では決して叶わない相手に髪を掴まれ貶められた屈辱と恐怖が、彼女を如何に打ちのめすものであるかを知ってしまったからだ。

 フロイドは、その彼女にならば話せると思った。
 きっと監督生はフロイドの抱いた恐怖を笑わない。下手な慰めや同情も口にはしないだろう。
 そんな確信を抱いた。
 そうすれば、フロイドは自身が思うよりずっと滑らかに素直に口を動かすことができた。
 男達に尊厳を奪われる悪夢を見たこと。それが御母衣村で起きた事象に違いないこと。
 フロイドが金髪の女の身体に押し込められ、それらを追体験したこと。女の力ではまるで叶わなかったこと。女の舌が切られていたこと。

 案の定、監督生はフロイドが話すのをただ黙って耳を傾けることに徹していた。
 だからフロイドは、漸く悪夢の要素を反芻することができた。

 そうして、纏まり切らずにぶつ切りになる短文をどうにか重ねて洗いざらい話す内、受け止めきれないが故に一旦放置した疑問とも向き合う時が来た。
「オレの夢とはいえ、あの女の身体でも魔法が使えたの。ヘンっつーか……いや、やっぱりっつーのかな……」
フロイドは、赤子淵で金髪の女に遭った時、確かに同胞だと直感したのだ。悪夢の中でフロイドが舌を使えないまま叫んだ声は、人のそれではなかった。原始的な人魚が稀に行う、喉頭ではなく気管の奥を使った発声が近い。あれは純然たるヒトの身でできるものではないだろう。尤も、フロイドは舌を切られたヒト属について詳しく知らないので、そこについて強く確信は持てなかったが。少なくとも、女の本性がただのヒト属ではなく魔力のあるものだという予想を強化するには充分だった。
 だがその可能性を理性的に肯定するには、幾つかの前提を是としなくてはならない。
「私も、その女の方は魔法の使える人だと思います。もっと言うなら異世界、フロイド先輩の同郷じゃないかって」

 フロイドは監督生も自身と同じ前提条件を想定していたことに、眼を瞬かせた。
「ウブメが金髪の女性だとして、それが御霊信仰によって菅原道真公みたいに神として祀られて鎮守神にされたとするなら、人々が彼女の恨みを恐れる程の力があった筈でしょう。人並外れたことができるとか、それこそ、魔法が使えるとか」
同時にフロイドは、この仮説を自らの口で言わずに済んだことに安堵を感じてもいた。
 本来在るべき世界を超えてしまう存在については監督生という実例がある以上は当然検討されるべきところだが、それが元の世界に帰れないまま非業の死を遂げてなお怪物視されつつ搾取されていたかもしれないなどフロイドの口から言うには憚られたのだ。

 監督生はなおも推論を重ねる。
「日記の方が大道芸を披露したかもって話があったじゃないですか」
監督生は日記をフロイドに見せようとしたが、暗がりで手元の文字が読めずに諦め、スマホの記録を見せてきた。
「大道芸の演目は色々ありますけど、私は手品を披露したんだと思います。あの時代だと手妻とか和妻って言うんでしょうか。今ではそれをマジックって言います。ほら、此方は魔法の世界ですから」
閉鎖的な村故に、手品がタネや仕掛けのあるものだとは認知されず、奇術として魔法と混同されたならば。長の娘まで嫁がせて男の血を欲しがった村の反応は、単に村の目撃者を逃がさない為や余所者の血を入れるだけではなく、魔法を求めたものだとしたら。そんな仮定は、監督生が日記を開いた時から薄らとあるものだった。今まで掲示板に書かないのは、根拠が乏しい自覚があり、推し測った所で希望も何も無い話になる所為だ。だが、フロイドの方が金髪の女と共鳴したことで、その想像は益々強まるばかりだった。
「少なくとも、ウブメと思われる羽毛がトンカチで加工できなかったことで、この持ち主は本来この世界には居る筈がない有翼の人に類する種族だということは確定でしょう。こんな閉鎖的な山奥の村に金髪の人がいる時点で、何処からか異郷の人が流れ着いたのだとしか考えられませんし」

 フロイドは、自身が就寝している際に監督生が羽毛に手を出していたことを知って、眉を顰めた。
 もしも呪物の類であったら彼女一人でどうするつもりだったのかと考えるのは、金属の舟や結界に弾かれて散々に痛い思いをしたフロイドとしては当然のことだった。
 しかし、結果として彼女に何事も無かったので、フロイドは一先ず小言を飲み込んだ。多少でも正体を絞り込んだことは、前進として評価できなくもない。分からないことの多すぎる御母衣村で、彼等は情報に飢えていた。
「ていうか、小エビちゃんの国で金髪って珍しいの?」
「はい。大抵は茶色や黒と言い表せる範疇の髪だと思います。稀に赤っぽくなる人もいますけど、梔子色と言われるほど色素が薄いのはまず人種的に違うかと。そも、金髪って潜性の形質遺伝ですし」
形質遺伝、とフロイドが反芻する。その概念は魔法のある世界であろうと存在する言葉だった。寧ろ、多様な種族が混じる世界であるからこそ、学問以前の体感としても広く認知されている。
 その中で、赤毛の人魚姫と黒髪の陸の王子の間にできた子が黒髪であったことは、教科書がカラー印刷になった以降の世代なら誰もが知ることであった。つまるところ、人魚並びにヒト属以外の血が流れる者にとっても、黒髪は顕性遺伝なのである。その事実が、フロイドの思考に引っかかったのだ。
「ふーん……ま、そういうこともあるか」

 フロイド聞くだけ聞いて勝手に納得して、床に横になった。
 随分と時間を雑談に費やしてしまったが、彼が不寝番をするのは最後の予定であった。眠れる気分ではなかったが、その努力をしなくてはいけないと思い直したのである。
 というよりも、これ以上喋っているのが面倒臭くなったのだ。
「え、何か気付いた顔しましたよね? 共有してくださいよ」
「あんま関係ないことだってぇ」
飽きたから寝ると言い始めたフロイドに、監督生が食い下がる。
「気になって不寝番を交代しても寝れなくなるじゃないですか」
「いいじゃん、アザラシちゃんの分も不寝番してよ。そっちのが安心だし」

 ついには監督生がフロイドの身体を揺すり始める。
 こんな対応をするのは、フロイドが到底眠れるような精神状態ではなく、単に不都合を誤魔化す為に話を打ち切ったのだと察しているからだ。そうでなければ、彼女はフロイドにこんな絡み方はしない。通常時の彼女ならば、眠気を訴えるフロイドには例えトレインが教鞭を振るっていようとも触りはしない。

 だからフロイドはとうとう観念して、寝返りを打って監督生の方を向いた。 
「あのさ、小エビちゃんってラウンジの水槽のメンテってしたことあったっけ」
フロイドの問いに、監督生が首を傾げつつ答える。
「いいえ。水槽は人魚の方々がやって下さるので、殆どノータッチです」
監督生は、何故このタイミングでラウンジが景観の為に飼っている魚の話が出てくるのかまるで分かっていない顔をしている。しかし彼女は、フロイドが思考の経緯を共有しないだけで、シリアスな場面で思考を放棄するような性格ではないことだけは信頼しているので、この脱線をただの誤魔化しだとは捉えてはいなかった。彼女の深い黒の瞳はフロイドに真っすぐ向けられ、話の続きを要求していた。
「じゃあ、水槽で繁殖させられた観賞魚が代を重ねる毎に地味な色になってくのって知ってる?」
「ええ、まあ。定期的に地味な体色の魚は水槽から間引いてるって聞きました」

 観賞魚達の派手な体色を維持するのも、水槽の管理を任された従業員の仕事であった。人魚が水槽を悠々と泳ぎながら内部から清掃や水質管理、魚の世話をこなす姿は、陸の人間の目を引くものだった。それに、その職務を担う学生は監督生に対しても友好的であったので、ラウンジで飼育している魚についても話題に上がったことは幾つかあった。
 いわく、天敵の居ない水槽では、生存に向かない個体が淘汰されない上、本来生殖に不利な色形の魚が子を残すようになることも少なくないという。弱肉強食の自然に揉まれて育った人魚の多くはこの不自然を嫌うが、人の手で間引くことで淘汰を再現することにもまた残酷性を感じざるを得ないところだった。
「そう。キレーな観賞魚の群を維持するコツは、間引くことと新しい血を入れること」
 日記の男が新しい血として残すべき形質の女とかけ合わされるなら、彼の主観で書かれた日記が金髪の似た顔の女ばかりの村だとされていることにもより自然な説明が付く。
 女を家畜か何かのように扱う村だと思いはしていたが、男は男で大概である。もし畜生道があるのなら、このような場所ではなかろうかとすら監督生は思った。それに追い打ちをかけるかの如く、フロイドが言葉を重ねる。
「ところで、あの日記じゃ黒髪の女の子は生まれてきてるんだよね。でも歓迎されなかった」
形質の遺伝する確率と実際に殖した結果は異なって然るべきだ。ましてメンデルの実験に用いた豆と違って、人は繁殖の相手を選ぶ。過酷な環境であれば、自然淘汰もされる上、間引かれることもあろう。

 御母衣村は女には生き難い村だ。
 そうでなくとも、嬰児は嬰詰に入れられて半ば放置するように育てるしかない時代、電気も通わない上に外界から隠れた村である。歓迎されない容姿の子供が幾つまで生き延びるかなど、予想するのも酷である。
 監督生は俯くように、小さく頷いた。
 悲しいかな、彼女も人の美醜が生き易さに大きく与することを、カレッジの生活で嫌というほど体験していた。
「ね、聞かなきゃ良かったでしょ」
フロイドはわざとらしく欠伸をして、この陰惨さを全く気に留めていませんという顔をした。面子で生きている男であるからだ。御母衣村の女に随分と肩入れした感情を抱いてしまっていることを悟られたくなかったのだ。まして、異郷の地に放り出された女への同情とあらば、監督生もいい気はしまい。

 フロイドは今度こそ、寝たふりをした。
 瞼を下ろして、思考を緩やかに停止させる。
 魔法が使える存在ならば、男女差があるとはいえ魔法も使えぬヒト相手に何故そこまでいいようにされたのか。何代にも渡る程の辱めを受け続ける前に、さっさと一人で逃げれば良かったではないか。もしそれが必然であるならば、フロイドやグリムが温存している魔力も無意味なのではないか。
 ついぞ口に出すことのなかった最大の疑念を、フロイドは脳裏から追い払うように固く眼を瞑る。
 しかし、無音は思考を不都合に冴えさせる。
 虫の一匹たりとも居ない山は恐ろしく静謐だ。田舎によくある蛙の唄も、鼠の鳴き声も聞こえない。喋らないと互いの呼吸音ばかりが耳につく。真に寝ているのはグリムだけで、フロイドも監督生もまるきり起きている者の呼吸しかしていない。
「ふふ、不器用な人。それだけ私達が切羽詰まってるってことかしら」
お優しいんですね、なんてフロイド・リーチには似合わない評価を下した監督生だが、当人からの反論はなかった。切羽詰まっているのは事実である。それに、フロイドは寝ている。そういうことになっていた。

 しんと静まった木造の家屋に、監督生の声が落ちる。
「正直ね、見ず知らずの土地に放り出されて、酷い目に遭うと、安寧の地が保障されなくたって逃げ出した方が楽になるって思う時もあります……きっと彼女も、彼女等もそう考えたことでしょう」
それはフロイドの声無き疑念への答えであり、共感の言葉だった。

 異端として開き直っているように見える彼女の内側が、非常時の心細さに引きずり出されていた。
 友の前では消して吐かれることのない弱音が、独り言の体を取って紡がれる。
 そも、銃や刃物の所持すら制限された国に住んでいた少女が、突如として人や物に向かって火を放てる魔獣や青少年等が居る世界に放り出されてなお能天気に自身の生存を保証されていると思える方が無茶なのだ。

 けれど、監督生の来歴を振り返れば、数多の困難はあれど、それを苦にして学園から逃げ出したことは一度もない。
 監督生という役を得て、その責を全うする姿は、疑いようもなくカレッジの一員だ。それどころか、傷害の犯人と対峙し、住居を賭けて不当契約に挑み、軟禁の憂き目に遭っても、彼女は学園で辛うじて得た居場所を捨てはしなかった。
 村の女達もそうだ。中には逃げようとした者もいるのだろうが、日記には限りは嫋やかなどという従順な形容で表されている。尊厳を奪われ続ける屈辱の生を受け入れ、子を為し、村を構成する一部となっていた。
 彼女等は、高潔な逃亡や死とは縁遠い、泥臭く惨めな生き汚さで地獄を歩んでいる。


 フロイドが薄眼を開けて窺えば、監督生がグリムを撫でているのが見えた。
 規則的に毛皮を上下させるグリムを起こさないよう、極めて緩慢な動作であった。フロイドならたとえ慎重に触られようとも眠りの妨げになるが、グリムは鼻をピスと鳴らしたきり静かなものだった。恐らくは、そうされることに慣れているのだろう。
「異郷でただ一人の状態で散々に打ちのめされた時、自分が取るに足らない虫ケラみたいに思わされた時――そんな自分に意義をくれる者がいたとしたら」
それが彼女にとって、この魔獣だったのだ。

 フロイドは遅まきながらに、ラウンジでグリムとの関係を揶揄された監督生が何故あれほどの憤怒を見せたかを理解した。
 彼女の相棒にして唯一の同寮生。二人で一人の生徒として扱われる彼等は、その関係性をとうに内面化していた。それどころか、もっと濃い精神的な癒着があった。そしてこの関係は、彼女にとって恐ろしく神聖なものだったのだ。
 学生達に立場で劣り、膂力で劣り、魔法も使えぬと蔑まれた彼女が、唯一生殺与奪の権を握る小さな命。
 この世界において、彼女が尊ぶべきもの。

 彼女を慕い、彼女を必要とする者が、彼女が決して取るに足らない存在などではないことを保証する。
 右も左も分からない世界において、生きることに目的を見出せる。矜持を持って生きることを肯定してくれる。
 彼女がグリムに抱く庇護欲は、彼女にとって如何にグリムが必要であったかの裏返しだ。
 故に親分の方がグリムであることに、彼女は異論を唱えない。


 けれども、彼女のグリムに触れる手付きは、慈母のそれであった。
 それもその筈で、家族を知らない彼にとって、生活を共にする監督生こそが家族なのだ。ヒトの暮らしを知らなかった彼に、生活の一切を教えたのは彼女だった。彼女との関わりに依って社会性のある生き物らしい感性を育んだ彼は、正しく彼女の子である。

 そこに在ったのは幼くも歪な母性だった。
 主体が幼すぎる上に主体的に選び取って始めた関係ではない所為で、依存と愛着が綯交ぜになって混沌としているが、それでも確かに彼女は彼を大切にしていた。

 思えば御母衣村の日記を目にした時、監督生が安全を確保する為にと自らの舌を切ることを何の抵抗も無く提案したのは、その場にグリムが居たからだろう。
 そも、厄介事を厭う彼女が初めて主体的にトラブルへ突っ込んでいったのは、グリムが拐われた時だった。自身の無力を嫌と言うほど知っている筈の彼女が、寮を崩壊させた組織相手に乗り込んでいくのは到底正気の行動ではなかった。

 愛情は時に、度を越えた忍耐を可能にする盾になり、無茶を通す利剣になり得る。
 悪く言えば理性的な判断や常識的な感情を狂わせる元凶でもあるが、苦境の中で彼女がそれにどれだけ支えられたか計り知れない。


 フロイドは漸く腑に落ちて、泣きたい心地になった。
 あの時、フロイドが垣間見た記憶の中でも、赤子が泣いていた。

 ウブメと呼ばれた女が村に漂着した時、既に彼女の退路は断たれていたのだ。
 そして、忌々しい男達の胤で、足枷は更に増える。半分は憎らしい生き物の血が混じったとしても、孤独の中で同胞を得たことは憎悪を鈍麻させるに足るものがあったのだろう。あるいは血の由緒に関わらず、小さな生き物が邪気の無い手を伸ばしてきたこと自体に救いを見出してしまったのであれば。
 フロイドには共感し難い情の深さではあるが、監督生という存在が彼に理解を促した。


 食べてはいけない。名乗ってはいけない。
 子を為してはならない。

 呪術的な意図はさておいて、それは本来関わらざる世界に対して愛着を持つことを危険視する戒めであった。
 一人なら、逃げ出すことは然して難しくない。右も左も分からない世界で、逃げ出した先により酷いものが待っていたとしても、後悔を負うのは一人分だけで済むからだ。
 けれど、守るべきものが居たならば、事情は変わってくる。自分が勝手なことをした所為で自身が幸せを願う者に一層の不幸が振りかかる可能性など、情の深い彼女等には到底耐えられない。

 フロイドは益々遣る瀬無い心地になって、無意味に寝返りを繰り返した。
 もう眠る気もなかった。

.


 「この村さぁ、燃やしちゃわない?」

 翌朝、仮眠を終えたばかりのグリムと監督生に、フロイドは脈絡無く提案した。
 彼は既に、監督生のトンカチを拝借して衣類と木造家屋の一部を材料にした松明を作っていた。グリムの耳から着火したと思しき青い炎が、棒の先で轟々と燃えている。

 フロイドの中では、一応の理由が存在した。
 気に食わないのだ。この村の何もかもが。

 監督生は、起き抜けの乱れた髪を整えることもせず、松明を掲げるフロイドを凝視していた。この人、徹夜して思考回路が駄目になったのかも。という眼差しであった。
 グリムに至っては、寝涎の跡のある口を前脚で拭ってチャムチャム言わせながら「コイツ、時間が無さ過ぎて自棄になってんだゾ」と率直な感想を隠さずに述べた。

 しかし、彼等に残された時間が僅かであるのも事実だった。
 フロイドが陸で生活できる期間はあと僅かであったし、学園から持ち込んだ水もとうに飲み切っている。後は渇いて死ぬか、この世界のものに口を付けるかの二択になる。
「まあ、普通に探索していても進展も望めないし、良いんじゃないですかね」
残る行動は破壊くらいであろうと監督生が消極的ながらも是認すれば、フロイドはグリムからの承認は待たずにとっとと火を放った。
「よしきた」
「全然よかねーんだゾ!?」

 グリムと監督生は少ない荷物を持って、炎から距離を取った。監督生が駆け出せば、抱えた鈴石がガロンガロンと大きく鳴った。
「ふな……」
入学式に乱入して火を吹き散らしていた魔獣が、常識人の顔で狼狽える。人間に育てられてすっかり社会常識を形成されているらしい。鈴石を抱える監督生の背にしがみついて、グリムはフロイドの凶行を戦々恐々といった面持ちで見ていた。

 青い炎が家を呑むのは、あっという間だった。
 ガソリンでも撒いたかのように、火はあっという間に木の壁を伝って、下ろし筵の屋根を落とした。黒い煙が濛々と立ち上って、熱が風を生む。壁は焦げて縮むように無くなっていき、フロイドがスマホで撮影することを思いついた頃には、家を燃やしていると言わねば何か分からぬ程になっていた。
 それでもなお、火の力は衰えを知らず、隣の家屋に燃え移って更なる炎を生んでいく。サファイアブルーの炎が、踊るように激しくどこまでも燃やしていく。その威力と無慈悲さは、ゲヘナあるいは煉獄すら想起させた。
 火種が魔獣のものであることを差し引いても、その速度は尋常な燃え方ではなかった。普通の物体を燃やしてるというよりも、魔法の張りぼてが剥がれていく雰囲気に近い。
 スレッドで御母衣村を土地のゴーストではないかと疑う声もあったように、正しく存在している空間ではないことは確かだった。尤も、赤子淵との位置関係の非現実性を鑑みればそれも驚くべきことではなかったが、放火を発端にこうも明らかになるのは意外であった。もっと早くに村を焼けばよかった、とはフロイドの弁である。

 二年前まで燃える火を間近で見る機会も無かったフロイドは、炎の刺激にあてられてハイになっていた。
 ストレスを発散するように高笑いしながら人家を焼く姿は、端的に言って狂人の才能があり過ぎた。それが動画として学園にも共有されたものだから、この光景に教員や同級生たちも慄いたことだろう。
 監督生といえば、上級生の蛮行を薄ら笑いで見ていた。僅かな愉悦を得ていると言い換えてもいい。フロイドほど素直に表出できるような性格ではなかったが、彼女とてこの村に嫌悪を抱いていたのだ。惨憺の遺物が炎に巻かれて無くなっていく光景は、少なからず胸のすくものだった。
「成程、木生火ってこういうことなんですね」
木は燃えて火を生むとはよく言ったものだと五行思想を実感し始めた監督生に、グリムが平べったい視線を向ける。
「言ってる場合か? もっと下がんねーと巻き込まれるんだゾ」

 しかし実際、この土地はその思想が強く表れた土地であることは、フロイドの様子や燃え盛る火からも伺い知れる。
 フロイドが今までで一番テンションが高いのは、自棄鉢の気持ちもあろうが、実際に調子が良いからだ。
 五行で言うなれば、火剋金。人々の営みの跡を焼き尽くす火は、フロイド及びその同胞と相性が悪かった金の気を弱める作用を果たしていたのである。


 とうとう床板だけになった家屋を一瞥して、監督生が声をあげる。
 フロイドが最も嫌悪を示した、一番大きい家屋の床下の地面には、金属の板が露出していた。基礎も碌にない小屋の下に、意図的に空間を作った形跡があり、それを金属で塞いでいたのだ。
「ああ、だから。だから先輩を同胞と呼んだの」
ごうと燃え盛る炎が風を起こす中、独り言に近かった監督生の声はフロイドの耳にはっきりと届いていた。
「天女の羽衣の話です。あの話、本当は隠された羽衣を見つけて、天女は故郷に帰れるんです」
御母衣村で歪めて伝えられた物語の顛末を、監督生が語り直す。
「羽衣を探して見つけるのは、天女が地上で作った息子なんです」

 狭義の同胞とは、母と血を同じくする者同士を指す。
 つまりは、同胞と呼ぶからにはフロイドを息子として見做し得る。フロイドは羽衣を見つける役に能う。
 御母衣村の実態を知らせる日記は探すまでもなく寄越したくせに、村や祠を延々と探索させたのは、探してほしい物があったからだろう。
 天女を帰す、その役目を同胞が果たすのを待っていたのだ。

 そこまで聞いたフロイドは、温存していた魔力を使って水を喚び、炎を消し止めた。
 フロイドでは金属板に触れることが能わず、監督生とグリムで金属板をこじ開ける。物体の形を容易に変えられるトンカチがあるので、難しいことではなかった。マンホールのイメージで金属を刳り貫けば、円形の穴を通して地下を見ることができた。
 そこには、湖沼にあったものと同じような金属の魔除けが所狭しと並び、その中央に着物が打ち掛けられていた。

 一目で人界のものではないと分かる、神々しい光沢を帯びた生地だった。
 雪のように眩く、波のように白く、貝のように滑らかで、月のように美しい。フェアリー・ガラで見た妖精達の羽の輝きに近い、自然美の神秘を凝縮したような圧を感じた。遠くからでも人間の手には余ると分かる、魔性の引力すら湛えている。
 周囲に並べられた魔除けの数が、如何にそれを外に出したくないかを語っていた。少なくとも、フロイドに取れる状態ではなかった。
 三人は顔を見合わせると、まず監督生がグリムに鈴石を預けて下に降りた。彼女が着物を回収し、グリムの手を借りて地上に戻るのが一番早かろうと考えるのは、体格的を鑑みても自然なことだった。


 地下に降り、着物に触れた監督生は、幻影を見た。

 祠で見た、黒いどろりとした粘液を滲ませたあの肉塊を感じたのだ。
 痛々しく毛羽立った表皮は、血を滲ませた細い血管が見えており、遠目には濃い桃色に見える。けれど流れるのはブロットの黒で、歪な呼気しか吐かない口からは歯を食いしばる怨嗟の音が聞こえる。
「あ……」
あの時はグリムが隣にいたこともあって、気味の悪さはあれど恐ろしくはなかったが、今はそうもいかない。
 着物の匂いが、祠で嗅いだものと同じことに気付いてしまった所為だ。
 フロイドから異郷から来た女がどのような扱いを受けていたか具体的に聞いてしまって所為だ。
 仙客の恩返しと称した民話の中で、自らの羽で機を織る女が描かれていたことに思い当った所為だ。

 日記にも家屋にも、この村が機を織ることを生業にしていたと思われる要素は無かった。
 だが献身の暗喩でもなく、確かに羽毛で織られた生地はそこにあった。羽を毟られたようにしか見えない皮膚を見た。
 監督生はその残酷さに慄いて、着物から手を放して自身の腕を掻き抱いた。

 鎮守神は、この羽の持ち主。天女と呼ばれた彼女はこの村で非業の死を遂げ、殺されて神にされたのだ。
 御霊信仰、という言葉が監督生の脳裏に過る。人が怨霊を祀るのは、その復讐が恐ろしいからだ。犯され産まされ奪われ続けたその境遇を、人ならば許しはしない。だから村民は彼女を神に変えたのだ。
 死してなお恨むことすら奪われて、都合よく消費され続ける異郷の女。その無念たるや――想像だけでも悪寒がした。

 呼吸が荒く不規則になった監督生は、着物に触れることを躊躇した。
 触ってはいけない気がしたのだ。御母衣村が日本であるならば、監督生は彼女を辱めた男達の同胞と言えよう。余所から迷い込んだ女を、罪悪の念が呪いを想起して、怯えを生んだ。
「子分ーッ どうかしたんだゾ?」
竦んだまま動作を停止した監督生に、グリムが呼びかける。

 その時、グリムが抱えた鈴石が鳴った。揺すった訳でもなのに、繰り返し繰り返し鳴った。
 その音は金属だらけの穴の中で反響して、聞くものの耳を苛んだ。反射した音が重なり合って、ワァンと監督生の頭に響く。
 絶え間無く鼓膜を揺らす音は、次第に大きく鳴りながら有機的な波長に変質していく。
 赤子の泣き声になっていく。

 監督生の頭上を、着物がひとりでに舞い上がる。
 鎮火した今、強い風など吹いてはいなかった。けれども、丸く刳り貫かれた穴を通って、それはフロイドの手に収まった。
 

 かえして、かえしておくれ。我が同胞よ。

 赤子の泣き声に、女の声が混じる。フロイドの鼓膜を、一層の泣き声が苛んだ。
 鈴を鳴らすのは見つけてもらうためだと、監督生が言ったのだ。
 赤子が泣くのは見つけてほしいからだと、誰かも言っていた。
 呼んでいるのだ。
 誰を、などと探すのも野暮だった。

 彼等は無風の空に、天女を見た。
 フロイドの手にしていた衣を羽織ると、それは黄金の髪を靡かせて羽ばたいていった。
 奪われていたものが返されたそれに、最早鎮守神として貶められていた姿はない。真白の翼で空を切って飛ぶ、美しい人だった。

 空に消えた女を見送ると、どっと心拍数の上昇を感じてグリムは座り込んだ。
 監督生は自力で穴から這い出て、呆然と空を見上げていた。
 彼等が赤子の声が聞こえなくなったことに気付くのは、それから暫くしてからだった。

 鈴石は天女とともに消え、燃え残った村の跡すら失せていた。
 彼等が結界の消失を知るのは、学園長が救援に現れてからだった。



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