さよなら惨憺、またきて羽客4

 フロイド、監督生、グリムが迷い込んだ空間は、監督生が嘗て暮らしていた世界と同一の国である。
 そんな情報に、図書館で膨大な文献を漁っていたサバナクローの一年生が本を床にたたき付けた。その音を皮切りに「やってらんねー」と少年達が徒労への怒りを露にする。

 図書館には、エースとデュースの不在から異常に気付いて駆けつけたリドル、トレイ、ケイトを始めとするハーツラビュル生の一部まで合流していた。
 川と山しか目印の無い村を探して古地図を広げ、ウブメを探して図鑑を捲り、禁足地の手掛かりを探して禁書を漁り、寮を超えての議論が幾度も勃発した。皆が知恵を絞り、労力を払った。
 それが全部無駄になった。
 遣る瀬無さが噴き上がるのも無理からぬことだった。

 投げ捨てられた本を拾って、ジャックは絶望に抗う為に声をあげた。
「落ち着け、まだ確定じゃねーだろ! 元号が一緒だっただけだ!」
こちらも有り得ない話ではなかった。羽子板だの納豆だの、名称や内容が監督生の故郷と一致する東方のものは珍しくないからだ。だからどこぞの国と監督生が暮らしていた国で使われた元号が被っているだけという可能性も無くはない。
 けれども、魔力の無い土地であることや、監督生自身が故郷に似ていると口にしていたことが、彼等に確信を持たせてしまっていた。
 まだ確定してはいないと言ったジャックすらも、内心では監督生達が自身と同じ世界には居ないのだと焦っていた。膨大な文献を読み込んだ時間が全くの無駄になったと嘆いていた。おかしくなった自律神経が、蟀谷から汗を噴き出させていた。本に水分を取られてかさついていた筈の手が、じっとり濡れていた。
 誰も否定の言葉を発しはしなかったが、賛同の言葉も無かった。
 沈痛な無言だけが図書室に満ちてた。
 それは絶望であり、疲労であり、これ以上の労役の拒否であった。

 レオナは混迷の中、深く息を吐いて宣言する。
「解散だ。付き合わせて悪かった」

 諦めの付かない顔をしているリドルだが、彼もレオナと同様の指示をした。
 彼等寮長には、寮生に学生として最善の生活を送らせる義務がある。明日も授業がある以上、絶望的な作業に協力させ続ける真似などできはしないのだ。
 トレイが片付けを引き受ければ、寮生達は本を戻す手間すらかけずに図書館から出て行った。取り残されていくジャックは、小さく引き攣った声で嗚咽を漏らす。
 エースとデュースに至っては、虚空を見つめたまま微動だに出来ていなかった。

 ケイトは愛想の良い顔をとうに捨てて、難しい顔でスマホの画面を眺めていた。
 彼のスマホ画面に表示された校内のオカルト掲示板も、一頻り現状を絶望視する意見が書き込まれていた。それもやがて鎮静化すれば、スレッドに書き込まれ得る速度は急減速して停滞が訪れる。図書館の彼等と何ら変わらない状態であった。

 退出していく人垣を見送ったリドルは、振り返らずにレオナに問う。
「レオナ先輩は帰らないのかい。お帰りになるのなら、書庫の鍵はボクが預かろう」
「こうも本に囲まれりゃ、読書の虫も疼く」
レオナの分かりやすい方便に、トレイが困った顔で小さく笑った。そんなトレイも、片づけを引き受けておきながら拾った本を棚に戻す気配はなく、新たに読み始めていた。
「スレも過疎ってきたし、今がクーポン独り占めの好機ッスかねぇ」
一度は席を立ったラギーも、背筋を伸ばしたり肩を回したりして身体を解すと、ジャックの隣に腰を下ろした。

 呆然としたままのエースとデュースを我に返らせたのは、スマホから顔を上げなかったケイトだった。
「もし向こうが本当にニホンとかいう異世界だったとして、監督生ちゃんの次にその世界のこと知ってんのってエースちゃんかデュースちゃんじゃない?」
仮に監督生の頭の中に帰還の手掛かりがあったとしても、魔術的な知識に疎い彼女がそれに自力で気付けるとは限らないと、ケイトは可能性を口にした。もしもそうであった場合、彼女の世界の知識と魔術的アプローチの両面を鑑みられるのは、カレッジに居る者の方なのだと。


 ケイトは、監督生が人魚伝説の怪談を語る動画を再生した。

 動画の背景はオンボロ寮。語るは百物語の、その一部。
 ボーカル&ダンスチャンピオンシップに向けた合宿の際、息抜きに一年生と二年生だけでこっそり夜更かしをした日の記録そのものだ。
『えーと……じゃあ、さっき話したのとは別の人魚の話をします。八百比丘尼っていって、人魚を食べた女性の話』
百物語と言いつつも、六人とグリムでは百も怪談が用意できなくて、然して怖くない話から不思議なだけの体験までぐだぐだと喋っていた。当然、監督生は故郷の話をしていた。そうでなくては、誰かとネタが被ってしまう。
『エお前、グロはナシだって』
『ソレ絶対リーチ先輩には黙っとけよ』
楽し気な声。厳しい練習に慣れ、一通りの意見の衝突や喧嘩を終結させた、中弛みの期間特有の態度。
 彼等は部屋に防音のまじないを施し、上級生達の目を盗んで親睦を深めたものの、翌朝には目の下の隈と肌の調子から全てを察した美の求道者たちに滾々と説教を受けた。そんな思い出が、エースとデュースにはずっと昔の出来事のように懐かしく感じた。
『兎に角ね、ある女の人が、人魚を食べてしまうんです。庚申待の講、えーっと、囲炉裏を囲んで寝ずに飲み食いして夜を明かす行事があるんですけど、まあ宴みたいな雰囲気だと思ってください。そこに修験者が妙な肉を持ってくるんです。人魚の肉を』
『君、存外いい性格してるな』
ウィンターホリデーに人魚と宴をする羽目になったジャミルが話題のチョイスに悪意があると指摘するも、撮影者が彼なのでその苦々しい顔は映ってはいなかった。画面の中の監督生は、カメラに悪戯っぽく目線を寄越して、話を続ける。
『皆気味悪がって食べなかったから、肉は余って長者の男が持ち帰ることになります。さっさと捨てれば良かったけれど、そうしなかったから、事情を知らない長者の娘が人魚の肉を口にしてしまう。ところでうちの国では、人魚を食べると陸人魚になって不老不死を得ると言われているんですよね』

 動画を見ていたリドルが異世界の人魚観に「メチャクチャだ」と頭を抱えていた。
 人魚の実在する世界で生き、同級生にも人魚を擁する彼としては、どうしてもそちらで想像してしまうのだろう。あれが不老不死であって堪るかという感想と、荒唐無稽さへの嫌悪で苦悶しているようだった。
『娘も人魚の肉に呪われて、不老不死になります。若い身体に白魚の肌を喜べたのも最初だけ。夫に何度も死に別れたり、知り合いも皆死んでしまったり、人としては生きられないことを悟ります』
画面の中のデュースは、頻りに喉仏を上下させていた。監督生が手にしている蝋燭の火が揺れる。彼等の背後では、ゴーストが意味深に彷徨しては不気味な雰囲気を演出していた。
『女は出家し、村を出て各地を巡っては椿等を植え、最後は入定。その齢は八百歳であったといわれています。だから八百比丘尼と呼ばれて、各地に伝承が残っているんです』
ゴースト達は時に話のオチに出てきて彼等を驚かせる役を担っていたが、今回の話は話の造り起伏が薄く、驚かせ甲斐の無い展開に暇を持て余しているようであった。
『ああ、入定は永遠の瞑想に入ることです。具体的には、断食の果てにミイラになります。でも、彼女は不老不死なので、彼女が飲まず食わずで篭もっていた洞に、一輪の椿が落ちていただけだそうで』

 監督生は話し終えたと言わんばかりに、小さく会釈した。
『え、そんだけなの』
『ええ、伝わっている話はそれだけ。でも、その後も目撃談はあるんだそうです。老成した振る舞いに反して、大変若い尼さんがいるって』
それが件の八百比丘尼かは定かでないと言い添えてから、監督生は目撃談についても語った。
『厳しい修行を課されてるとは思えない白魚の肌をしていて、尼なのに、気に入った男には魚料理を出してくれるんだそうです。何の魚かは絶対に教えてくれないそうで……ええ、きっと、同じ時間を添い遂げてくれる方が欲しいんだと思います』
今度こそ話を終えた監督生は、静かに燭の火を吹き消した。画面が暗くなり、そこで動画は終わった。


 成程、異国の話である。
 聞き慣れない単語と世界観は、賢者の島で暮らす少年達には殆ど未知のものだった。語り部の監督生からは極力平易な言葉に置き換えようとする努力が見られたが、それでも直前まで図書で東方について調べていたからこそ理解が追い付いた面もあった。

 レオナは東方の風俗史で庚申待を調べ、多神教同士が長い時間をかけて習合し合った上に民間信仰と俗習等が複雑に入り混じった極東の複合信仰に眉間を揉んだ。
「庚申とか天干地支がサラッと出てくるあたり、陰陽道の思想が根付いてんのか。アイツの国に占星術師が居るって言ってたのはソレか?」
レオナが、エースが掲示板に書き込んだ内容について尋ねる。魔法士の教養と素養を備えた者達から見るに、監督生は決してそれ等の習俗的あるいは原始的な祈りに詳しいようには思えない上、ただの風習や物語の一端として断片的に知っているの過ぎないように思えた。それでも、彼は文化の一致を見逃しはしなかった。文化の相似は、環境と人の思想が同じ方向性に収斂したということだ。

 エースが、頭の隅に埋もれていた雑談でしかなかった記憶を引っ張り出して答える。
「あ、そう。陰陽師って言ってたような。アー、何だったかな……アベノメーメー、みたいな名前の」
「アベノセイメイじゃなかったか?」
ジャックがエースのうろ覚えな名前を訂正すれば、デュースが手を打ってソレだとお墨付きを与えた。
 彼女の世界では結構な有名人らしく、グリムが「じゃあオンボロ寮に像を立ててグレートエイトにするんだゾ」と言い出したのを呆れ混じりに揶揄した記憶が、虫食い気味に思い出される。くだらない遣り取りでしかない筈だった。なのに、今やそれが貴重な手掛かりかもしれないのだから、数奇な話である。
「陰陽師か。魔法を持たない部族の中でも、暦のために占星術が発展すれば重宝されるのかもしれないね」

 リドルはレオナの言わんとすることを汲み取って頷いた。
 監督生の身体と感性が世界の異なる彼等と然して変わらない以上、魔法という部分を除いて異世界と多数の一致が見られることに不思議はなかった。
 環境が近ければ、文化は収斂する。海辺の民が海に敬意と畏怖を持つように、農耕を生活の主体とした民族が豊穣を齎す稲妻を神格化するように。祈りは相似し、収斂する。
 生きて死に、生活があり、群れて、産めよ増やせよと発展を望み、遺伝子の箱舟足らんとする本能に突き動かされて生きる。その根本的な営み方が似れば悩みも祈りも縋りたいものも似よう。
 ならば、この世界の知識も、かの怪奇な現象を紐解く助けになるかもしれない。図書室で文献を漁りに漁った時間も、決して無駄という訳ではなかったのかもしれない。二寮の寮長の口ぶりは、そんな希望を抱くに足る頼もしさがあった。

 学年一の博識たるリドルには異国の古い思想もインストールされているようで、彼は日付を確認しただけで占星術的な立場から。
「陰陽五行思想で言うなら、庚申は十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和だね。申は山岳信仰とも相性がいいから、山の民である御母衣村と関わりがあっても不思議じゃない。とはいっても、今日は乙巳だし、そもそもそれが人魚とどう繋がるかはまだ見えてこないし、今日は別に庚でも申でもないけれど……」
「もう少し監督生ちゃんの世界について知る材料があればピンと来そう?」
博覧強記を証明したリドルに、ケイトが自身のスマホの記録を見返しながら聞いた。それに倣って、エースとデュースも自身のスマホから動画フォルダを漁る。
「どうだろう。けれど、ボク達がかの世界に対する解像度を深めるにはそれしかないだろうね」

 スマホにある記録を当たるも早々に資料足り得る物が無いことが分かったトレイが、顎を擦りながら思案した。
「百物語と言ったか。ジャミルがオンボロ寮は風情があるので年中開催可能って言ってたな」
ならば彼女の故郷の物語を一番よく知っているのはオンボロ寮のゴーストではないか、と。

 デュースとジャックが立ち上がるのは、ほぼ同時だった。
 立った勢いで倒れた椅子もそのままに、二人は駆け出した。
 しかし、図書室の受付を横切った辺りで、デュースが忽然と消えた。
 ジャックの目の前で、魔法特有の空気の揺らぎを残して居なくなったのだ。

 驚いたジャックが振り返ると、その視線の先でエースも消えた。どうしてと問う間もなく、リドルまで姿を消す。次いでトレイとケイトも居なくなる。
「……トレインだな」
狼狽えるジャックとラギーを余所に、レオナは目を細めて僅かに残った魔法の残滓を見分した。そして、極めて冷静に断定した。トレインが魔法によって、監督生と親交の深かったハーツラビュルの面々を喚んだのだと。
「センセー方も漸く手が空いたってとこだろう」
今まで、トレインを含む教員達は、オクタヴィネル生の強い嘆願を受けて現地と時差が合致しそうな地理にある各国に問い合わせを行っていた。しかし、所在不明の生徒達が異世界に居る可能性が濃厚と分かって、問い合わせ作業からから手を引いたのだろう。そして新たに、解決の為に動き出したのだ。

 レオナの口許が、嫌味や皮肉を忘れて自然と綻んでいた。
 何せ、ナイトレイブンカレッジの教員といえば、悪童達の悪意にも動じない強者揃い。 世界で二番目の名門校を取り仕切る、屈指の優秀さを誇る大人達だ。
 先刻まで最年長として気を張らざるを得なかった立場のレオナは、肩の荷が軽くなったお陰か、今までより早いペースで本を捲っていた。

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 グリムの体温を背中に感じながら、監督生は野草を踏みしめた。
 スカートを履くようになってから欠かさず穿くようになったストッキングはとうに伝線している。

 迷い込んだ集落の跡が故郷のものであるのなら、監督生は元の世界に帰ったことになる。けれどそれを喜べる程、事態は単純でもなかった。

 まず心情的な理由として、この最悪の因習が窺える村を故郷の一部として認めるのはあまりに酷だった。
 そして切実な部分として、彼等は未だ結界から出る手段がなかった。結界の問題が解決しないことには、もし地続きの場所に監督生の家族が居る土地があったとしても、結局帰れはしない。
 それに、結界の中には生物らしい生物がいなかった。
 フロイドが気付いたように、この空間には本当に鼠一匹は愚か、虫すら見当たらない。最初こそはフロイドが気味悪がっているだけだったが、山を歩くことでそれは三人の中で強い確信に変わっていった。

 自分達以外の生き物が居ないのは不自然さもさることながら、現実的にも蛋白質がないという点で重大な危機だった。
 アズールの言う「食べるな」を守れない滞在期間になった時、監督生達はハルジオンなど食べている場合ではない。草食動物などと呼ばれはしても身体はヒトの監督生と、肉食動物に近いグリムとフロイドだ。帰れないどころか、餓死の心配をする必要すらあった。
 これならまだ、故郷のある世界よりも、衣食の揃ったカレッジの方が懐かしい。
「帰りましょう」
「帰るんだゾ」
監督生の背中で、グリムが拳を突き上げて答える。監督生は長い枝で虫の居ない蜘蛛の巣を払いながら、森の奥へ奥へと分け入った。
 目指すは、赤子淵だ。


 一行は、遭難直後とは異なり、今度は監督生を先頭として、殿をフロイドが務める形で歩いた。
 グリムは監督生の肩に前足を置いて負ぶさることで、安全確保と体力の温存を図りつつ、掲示板への両方共有の役を担った。爪で通り過ぎた樹に傷をつけて遭難防止の目印を付けたり、現在地の写真を掲示板に投稿しては記録を残す仕事もしていた。
 掲示板は彼等が異世界に居る疑惑が濃厚となってから随分と閲覧数が減ったが、幸いにも山歩きに対して助言をしてくれる学生達が掲示板を離れることはなかった。無論、その山歩きに詳しい面子には、山を愛する会に所属するジェイドも含まれている。フロイドが帰るまで見捨てないであろう助言者が確保されていることは、乏しい知識で歩き続ける彼等の精神を安定させるのに役立った。

 如何せん、現地の三人は山中の散策など素人だ。
 彼等の山歩きは、掲示板の集合知を除けば、バルガスのキャンプで培った経験くらいである。
 彼等は場所を移動しては写真を撮って、掲示板の知識人が川に近いと予測した方に進む作業を繰り返していた。
 その間、結界には何度もぶつかっていた。
 しかし、何度も透明の障壁との衝突を繰り返す内、分かったことも幾つかあった。

 例えば、結界はフロイドが触れた時より監督生やグリムが触れた時の方が被害が少ないことだ。
 図体の大きいフロイドが先陣を切った方が歩き易いことは明白であるのに、監督生が先頭を歩いているのはこの為である。フロイドが電流に似た鋭い痛みを感じた結界との接触を、彼等は何故かただ壁に当たるのと同じ感覚で済ませてしまえていた。因って、グリムより体が大きく一度に結界の有無を検分できる範囲が広い監督生が先頭に据えられたのである。
 そしてどうやら、彼等が水場に近づく程に結界から離れているようでもあった。
 言い換えるなら、水場こそがこの閉ざされた地の中央部である可能性が高いということだ。
 となれば、散策によってこの土地の手掛かりを得ることも期待できそうな気がしてくる。そんな予感だけが、地図も無く未知の土地を歩く彼等のモチベーションを辛うじて保っていた。


 もう二度と山には入んねぇ、とフロイドが両手の指の数より多く口にした頃だった。
「お、右側にケーリュー植物? があったってよ」
「良かった。じゃあ川が近いのね」
スマホで情報を集めていたグリムが、掲示板に投稿した写真について植物博士を自称する学生がコメントしたものを読み上げた。
 右側と言われた監督生が、容赦ない所作で右手の茂みを掻き分けて道とは言い難い道へ入っていく。
「赤ちゃんの声もだんだんデカくなってねぇ? オレ達が近づいてる所為?」
「かもしれません。でも結界のあった場所からは着実に離れられてます」
監督生が中途半端に避けた木の枝は、反動を伴って後続のフロイドの身体にそこそこの勢いで当たる。監督生が頭上の枝や蜘蛛の巣を払っても、身長が違い過ぎる所為でフロイドの頭にはいくつも汚れが付いた。虫もいないのにかかっている蜘蛛の巣は廃村の小屋と同様の不自然さを感じさせて、フロイドのメンタルを蝕んでいく。

 そも、フロイドの機嫌が最悪なのは、何も同行者との相性だけではない。
 山そのもの、環境そのものが、フロイドと滅法相性が悪かった。赤子の声に混じる女の声も、依然としてフロイドの耳にのみ届いており、じっとり鼓膜に纏わりつく声でフロイドを同胞と呼ぶ。
 鼻から吸い込む大気は、獣臭く、金臭い。一呼吸ごとに肺を通過する空気が「ここは良くない場所だ」とフロイドに訴えかける。有り体に言って、呪いと妄念の臭いだ。
 その不快感の強さたるや、この空気の悪さを気に留める様子の無い監督生とグリムの危機管理能力に不信感を覚える程であった。


 とうとう耳と鼻が馬鹿になってしまうとフロイドが覚悟した頃、グリムが水の匂いを感じて鼻を擦った。
「川のせせらぎが聞こえるんだゾ」
泥濘んできた地面に、三人の五感が川の存在を感じ取る。
「赤ちゃんの声も今までで一番大きいですね。赤子淵って名前だからですかね」
奇怪な雑音が忍耐の限界を超えかけているフロイドに反して、監督生はずっと聞いている声に警戒心が薄れてきた事を否めない様子だった。
「……そういうモンじゃねーと思うけど」
「そんな川ヤなんだゾ」
嫌な会話をしながらも、一行はせせらぎの音を追って茂みを分け入っていく。

 蔓科植物の暖簾を払うと、視界が開けて川が見えた。
 森の影から出たことと水面が日光を反射している事も相俟って、三人の瞳孔が収縮する。

 水流が分かる所まで川に近付けば、足元は泥濘から河川敷の砂利に変わった。
 日記に拠れば、祠と湖沼は川を挟んだ先の湖沼を渡った先にあり、隠匿されているという。三人の位置から湖沼は見えないが、碌な目印も無く森を歩きに歩いた彼等にとって、この川を渡った先にあると場所の検討が付くだけでも有難かった。
「淵と呼ばれてますけど、歩いて渡れる深さの川ですね」
「そうしよっかぁ」
見える範囲に橋などが無かった為、彼等は横着な手段を検討した。

 目算ではあるが、川幅は狭い部分で十メートル。水深は監督生の膝上といったところだった。中央付近なら、もっと深い部分があるだろう。
 本来ならば上級生として碌な装備も無い状態で渡るのは危険だと説くべき立場であるフロイドだが、彼の感性は水流の脅威を全く感じたことのない人魚のものである。そも、監督生の膝上は、長身のフロイドにとっては脛の位置にあたる。反対する理由が無かった。

 監督生の背中で水に濡れる心配すらないグリムは、掲示板で得た情報を読み上げる。
「川底で足を切りたくないなら靴は脱ぐなってよ」
山歩きのアドバイザーであるジェイドも人魚なので、膝より水位のある川を歩いて渡ることを止める者はいなかった。
「ヒトの脚って脆すぎない? あーあ、お気に入りだったのにさぁ」
フロイドは山道を歩きに歩いた所為で散々汚れている革靴を一瞥して、更にこれが水没して型崩れすることを想像した結果、もうまともには履けはしまいと悟ってげんなりと肩を落とした。しかし、背は腹に変えられない。ここで靴を汚さない為に川の切れ目を探すことに時間と労力を割いたり、無用な怪我を負ったりするくらいなら、靴の一足や二足捨てるべきだ。そう勘定できる程度には、フロイドも冷静だった。
「小エビちゃんもさ、帰ったら靴買いに行こーね」
靴との別れを受け入れたフロイドは、開き直った顔で水面を蹴った。悪戯っ子のような幼稚な仕草だが、輝く水の飛沫と軽快な音が不機嫌を糊塗するには幾分か役立った。
「今度は絶対ヒール高いの買います。ゴツくてナメられないやつ」
フロイドの誘いは帰還のモチベーションを保つための鼓舞でもあると察した監督生は、朗らかに、しかし切実さも伴った返事をした。
 靴の隙間から入ってくる水は冷たく、歩き疲れた足には沁みるようだった。

 川底の石に何度かバランスを崩しつつ、川の中央まで来た頃だった。
 フロイドと監督生は、呼吸を引き攣らせて足を止めた。

 対岸に、女が居た。

 くすんだ梔子色の髪を垂らし、薄汚れた着物を着た女だった。肌の色は抜けるように白く、胸に赤子を抱いている。赤子はやはり泣いていて、海鳴りのようにフロイドの鼓膜を圧迫した。
 フロイドの背に、汗がどっと伝った。
 来た道を辿って逃げるべきだと監督生を見遣るが、監督生の両眼は既に女に釘付けだった。その身体は硬直して石のようで、到底動かせるものでは無さそうだったのである。その彼女に釣られて、フロイドもつい女の様子を窺ってしまった。

 女は川の畔にしゃがんで、赤子の身体を布で巻いていた。
 フロイドや監督生をまるで意識していない動きだった。例えるなら、目の前で映像を再現されているような。この川の記憶をホログラムで再生しているような。そう感じさせる一心不乱さだった。
 女の赤子を見る目は血走っており、悍ましい程に生々しい。それでいて、祈るように切実であり、悲し気だった。

 悲し気なのだ。
 一切の事情を把握していない第三者にも、それだけは分かった。
 物言わぬ彼女の悔恨と悲壮が、瞋恚と憐憫が、暗澹と伝わっていた。
 この女は、今から我が子を川に流すのだ。

 フロイドは、理解し得ないものを見た衝撃に後退った。
 彼は、ヒトの子が水に呑まれては生きていけないことを知っている。水死体が如何に醜くなるか知っている。生き物が時として子殺しをすることも知っている。
 けれど眼前の光景は、それらの残酷な意図とはそぐわない祈りで満ちていた。それが恐ろしかった。
 隈に囲まれた金の眼には、フロイドには想像し難い祈りが宿っていた。
 ぞっとした。たった今から殺す我が子に向ける眼差しとは到底思えない、昏い母性を見た。

 ア、ア、と監督生の喉からか細く声が漏れていた。
 彼女は真っ青な顔で、女の手から子が離れゆくのを震えながら見ていた。フロイドより酷く汗をかいて、涙で頬を濡らしていた。信じられないものを見る目で、取り返しのつかない事をしようとする女を凝視していた。拳を握って泣く赤子から、意識を逸らせずにいた。
 赤子の声は依然として大きく、聞く者の脳を蝕んでいく。自身が今からどんな目に遭うかも認知できない、小さな命の叫び。怨嗟にすらならない、無垢で脆弱な生き物の主張。

 監督生の精神は子殺しを見届ける事には耐えられない。
 そう判断したフロイドは、彼女に撤退の指示を出そうとした。
 しかし間に合わなかった。


 監督生はフロイドにグリムを投げ寄越すや否や、走り出していた。
 突然のことに目を白黒させるグリムを、フロイドはどうにか抱きとめた。
 フロイドの制止の声は、監督生にはまるで届かなかった。膝より上に水が流れる川の中、流されゆく子供を追いかけて、監督生は全身が濡れるのも厭わず突っ込んでいった。
 

 これはそういう類の罠ではなかろうかと思たフロイドは、咄嗟に川底の石を拾って女に投げようとした。
 得体の知れぬ女とフロイドの距離は、五メートル程度。グリムを片手に持っていても、投げれば確実に当たる。硬い石ならば、小さくとも相当の殺傷能力が出せる近さだ。

 フロイドは大きく振りかぶった。しかし、石が女に当たることはなかった。
 投擲の途中で不自然に脱力したフロイドは、石を対岸へ捨てるだけの結果を残した。フロイドは脱力のまま、グリムを足元に滑り落とした。
 そして、自身の脚にかかることも構わず吐いた。
「おェ、ェエッ……ッ」
女と目が合ったのだ。あの血走った金の眼と。自分やその片割れとよく似た金色と。
 あれは、人ではないものの瞳だった。
 そして確かに、自身を同胞と呼ぶ女そのものだった。


 フロイドと監督生の乱心に驚嘆の声をあげるグリムだが、彼の台詞は二人の心を更に乱す事になる。
「おめーら、急に走り出したり、石放ったり、一体どうしちまったんだ?」
グリムには、あの母子が全く見えていなかったと言う。
 彼が言うには、川の半ばまで来た二人が、何もない場所でただ突然狂ったのだと。

 そんな訳がないと抗議しようとしたフロイドは、赤子の声が止んでいることに気付いて、監督生を探した。
 監督生は濡れ鼠の身体で、対岸に辿り着いていた。
 胸にはしかとあの赤子を抱いている、ように見えた。
「小エビちゃん……それ……」
監督生が抱いていたのは、赤子をと同じサイズの岩だった。放心した表情の監督生も、訳が分からぬという顔で首を傾げている。

 石は内部に空洞があるのか、揺すられる度にガロンと鳴った。密度の低さのためか見た目より重くはなく、体感では三キロ弱といったところだ。嬰児と変わらぬ重さである。

 カレッジの集合知で分かったことと言えば、振ると音の鳴る鉱物は鳴石もしくは鈴石と呼ばれていることくらいであった。
 鈴石とは、中の乾燥した粘土が遊離し、鉄分の多い結核体が残ることでできる鉱物であるらしい。とはいえ、大抵は手のひら大であり、直径が十センチを超えれば十分大きいと言われるサイズであるらしく、赤子大となれば明らかにイレギュラーである。また、乾燥の末にできる物であるから、川底にあるのも不自然であった。結果として、知識はより多くの不可解さを浮き彫りにした。
「なんで……? は? ……こわ……」
これにはフロイドも、本格的に頭を抱えた。ウブメと呼ばれるものについて調べた中に「ウブメに抱かされた赤子が気付いたら石に変わっていた」という旨の話があったことを思い出して、彼女の警戒心の無さを呪わずにはいられなかった。女から直接渡された訳ではないにせよ、この状況でウブメの怪を連想しない訳が無いのだ。


 余りに納得のできない事態であったが、フロイドはいつまでも川に入っている訳にもいかないと気付いて、監督生の待つ岸に上がった。
 濡れ鼠になったグリムも、岸で胴振るいして身体に付いた水を落としていた。幸い、一度グリムと共に川底に触れた監督生のスマホも、生活防水機能のお陰で健在である。

 傾いた陽は赤々と燃え、魚影一つない澄んだ水面を照らしている。森を彷徨い川を渡っている間に、時間は着実に過ぎていた。そう実感するには充分な色味だった。


 未だに石を抱いている監督生といえば、フロイドとは若干異なる狼狽の仕方をしていた。
「あの女の人、先輩には見えました?」
「……見たよぉ」
監督生とフロイドは、互いが正気なのか確かめるように顔を見合わせた。
「あの人、私が樹の上に見た人のような気がします」
そう聞いても、フロイドにこれといった驚きはなかった。目撃した金髪の女と、日記による村の女の描写。そして、ウブメは女に憑くという言葉。それ等からして、同一のレイヤーにある存在だと検討は付く。寧ろ、そうして説明を付けられるだけありがたいような気ずらした。フロイドは既に、不可解なものに触れ過ぎた所為で恐怖を抱く基準が麻痺してきているようだった。
 それは監督生も同様で、まやかしのように消えた母子への恐怖は、彼女の中では然して大きくないようだった。

 監督生は、憂いを帯びた瞳のままやや思案して、フロイドに打ち明けた。
「この村の民話が故郷の話と似てるって言ったじゃないですか」
そういえば結局聞くの忘れてた、とフロイドが相槌を打つ。
「仙客の恩返しは、鶴の恩返しって話に似てるんです。人の娘に化けた鶴は、恩人の男の為に羽で機を織って彼の暮らしを豊かにするけど、機織り作業を覗かれて正体が鶴だと知られて、逃げていく」
なお仙客とは、一般に神仙となって空を飛べるようになった者を指すが、鶴の別名としても用いられる言葉でもある。つまり、タイトルは全く同じと言っても良かった。けれど今になって、物語の決定的な違いが気にかかる。
「樵の女房は、天人女房とか、羽衣伝説とか言われてる話に似てて、天女の羽衣を隠して娶るところは似ているんですが、子を為した天女は子供に羽衣を探させて天に帰るんです」

 かの民話に出てきた異類の女は、嫁いだ先の村からは出た描写は無い。
 しかし、監督生の知る話では、どちらも異類の女に去られる結末で終わっている。
「嫁いだ女を帰すことを物語ですら良しとできないのは、御母衣村が見つかってはならない村だからでしょうか」
逃げた先に居場所がないことを、訓戒じみた物語にして知らしめている程だ。

 御母衣村に嫁いだ女は帰れない。
 天女のように帰り道を塞ぐような強引な手立てで娶られた女だとしても。仙客のように従順な女だったとしても。彼女達に帰る術はない。
 女の舌を切り取る因習が、助けを乞う手段を奪う。逃げた先で暮らす力を奪う。
 女を備品の如く扱う風習が、逃げる気力を奪う。呪いを強める。
 帰りたいという実現しない思いだけが、強く募る。

 カエシテ、カエシテオクレ、ワガハラカラ。

 その訴えは恐らく、孵してでも、還してでもないのだろう。
 監督生は確信に近い気持ちを抱きながら、岩の肌目を静かに撫でた。
「もし他所から村に来た人を見たなら、帰してと言うんじゃないですかね」

 ウブメに憑かれた女が狂って赤子を攫うのではない。
 川に赤子を流す女の姿を思い出して、監督生は彼女の心情を推し測った。
 まだ泣き声を上げられる、舌を切り取られる前のやや子ならば、他の土地に逃がす望みがある。自身が苦しんだ因習から逃がしてやりたいのが、親の心ではなかろうか。川の下流に別の村があるのなら、希望に縋りたくなるのではないだろうか。
 我が子だけでも帰してやってくれと思うのではないだろうか。

 フロイドは、監督生に件の女と同種の昏い母性を見た気がして、ふいと顔を逸らした。
「同情?」
「そうかもです」
監督生は存外素直に答えた。
 帰りたくても帰れなかった女だから、シンパシーがあるのだ。


 赤子をあやすように、監督生は石を揺すった。
 結局、岩を叩き割って中身を確かめてみる程の気概は無く、彼等はまた祠と湖沼を探して歩き出す。
 監督生の持ち物に岩が増えた所為で、グリムもここからは徒歩だ。濡れた毛皮を気にしながら、彼は監督生とフロイドの間を二本足で進む。

 監督生の腕の中で、岩がまたガロンと鳴った。

 赤子の声は、もうしなかった。
 その代わりとでもいうように、彼等の歩調に合わせて岩が鳴る。


 妙なものを一番間近で見た上に妙なものを拾ってしまった監督生は、周囲が驚く程気丈であった。
 本当の赤子を抱えて動くことになるよりはずっと気が楽だ、というのは彼女の弁である。
 思えば、監督生は初めて女の怪を見た時も、特に騒ぎ立てる事もなく日記の方にばかり関心を割いていた程である。彼女がその件で取り乱したのは、女の特徴を問われたことで自身の記憶に不自然な瑕疵があることに気付いた時だった。
フロイドは口にこそしなかったが、その辺りの神経が異常なのではないかと半ば本気で疑っている。
 その極めつけは、監督生が奇岩を持ち運ぶにあたって、破れ目が広がり過ぎて足を覆う役目を放棄したストッキングを脱いで、それをおんぶ紐代わりにして背負っていることである。
 監督生が先頭を歩くので、彼女の背にくっ付いたガロンガロンと鳴る奇怪な岩は、否が応でもフロイドの視界に入り続けた。
「これ、熊除けに良いかもですね」
「……小エビちゃん、ここに来て一度でもマトモに動物見かけた?」
「あんまり考えないようにしてたんですけど、タンパク質の確保もできなくないですか?」
「だから定住しようとすんなっての」
馬鹿なのこの子、と詰るフロイド。けれど、どちらかと言えば現実を見ているのは監督生の方であるという気もしていた。少なくとも、帰れる保証が無いことや、行く先に手掛かりの一つも無いかもしれないことも、すべての不都合な可能性から全力で目を逸らしているのはフロイドの方である自覚があった。この根なし草が板につきつつある女は、きっと帰れなくなったとしても順応する道を探すだろう。そんな予感すらあった。
「もっと建設的なこと言えねーの」
フロイドの八つ当たりじみた無茶振りに、監督生はふむと唸った後で小さく頷いた。
「じゃあ、こういうのはどうです。またうちの国の話なんですが」
監督生は、前を向いたまま切り出した。その視線の先には、落ち窪んだ土地が広がり、緑の沼が見えた。
「鈴って縁起物で、子供の着物の装飾にも好んで使われるんです。十三参りの着物を選ぶ時に教えてもらいました。神社、ええと神様を祀ってる社なんですけど、そこにも鈴が付いてるんですよ。鈴の音で、神様に人間が拝みにきたって気付いてもらうんだって」
監督生が干上がりかけた緑の沼の奥を指差せば、一同は岩戸に半ば閉ざされた洞があることに気付いた。
 洞の入り口には、注連縄としか思えない紙垂の付いた縄が下がっている。
 鎮守神の祠に違いない。

 寺社仏閣の教養などないグリムも含めて、三人は直感的な確信を持って洞を見つめた。探していた筈なのに、見つかったタイミングがあまりにも悪い。グリムは小さな眉間に皺を寄せて、口角を下げた。
「……じゃあ、何か。オレ様達は鈴石の音で、鎮守神とやらに気付かれてるっつーワケか?」
「最悪」
嫌な顔をしたフロイドだが、グリムの悲観を否定しなかった。隠匿されているらしい祠が、こうもあっさり見つかったのだ。それを幸運と呼ぶよりは、グリムの言うように怪異側の恣意が働いていると考える方が余程自然だった。


 ヘドロの臭いがむっと鼻に衝く。
 真っ暗な洞に吹き込む風の音が、どうしようもなく女の慟哭に似ている。

 最悪のタイミングで不安の種を植え付ける話題を提供した監督生といえば、大真面目に湖沼の周りの探索を続けていた。色々と恐怖心や危機感が麻痺してきてはいるが、根は勤勉なのだ。悪意も無い。
 だからフロイドもグリムも、監督生が「注連縄って天照大神が岩戸から出た後にもう岩戸に入らないように付けたっていうけれど、岩戸に神様がおわす状態でしても良いのかしら」と更に重ねた不穏な呟きを聞かなかったことにした。

 御母衣というだけにミドロを想定してはいたが、湖沼は最早緑を通り越して黒々として禍々しい気配を放っていた。色味もさることながら、匂いや粘度までブロットに近く、汚泥に棲む蛭すら逃げ出すであろう有様だ。
 その周囲には、落ち窪んだ地面に湿地性植物が茂り、彼等の足元を隠していた。
 特にガマの穂などは、監督生の背丈と変わらぬ長さがあり、地面と沼との境界をぼかしていて厄介極まった。先頭を歩く監督生は、沼に足を入れてしまって靴を取られかけることを既に二度繰り返していた。
「ガマの穂でも束ねてその木の枝にくっ付けたら、箒にできませんか?」
靴を泥まみれにした監督生は、沼の上を箒で飛べば祠までショートカットできるのではないかと投げやりに言った。しかしながら、ここに居るのは飛行術が得意でないフロイドと、魔法士としてあらゆる点で未熟なグリムと、魔法を使えない監督生だ。聞く前から答えは分かっているが、無茶な話だった。
「やってみよーじゃん? 沼の真ん中で落ちてもいいならだけど」
「ですよねー」
返ってきた冷たい拒絶に、監督生は遠い眼をする。川には何の戸惑いも無く入れた彼等だが、底の見えない沼に身体を浸してみようと思える程の蛮勇は無い。
「舟でも作りますか?」
監督生が、自生している樹に魔法のトンカチを振り下ろした。しかし、何も起きはしなかった。掲示板の工学に詳しい匿名のイグニハイド生に依れば、過去に隣家の樹を加工して裁判にまで発展した民事事件があったのお陰で、ある年代以降の魔法道具も生きた動物と自生してる状態の植物は加工の範囲外となっているらしい。
 ちなみに、人間に類するものは、死んでいても加工はできないという。ラウンジでトンカチを振り回す前に知りたかった知識だと、監督生は頬を膨らませるばかりだった。

 彼等は材料になりそうな植物を探す為に一度湖沼から離れた。
 周囲にある材料と彼等の想像力の限度から、葦舟か丸木舟かが妥当であろうとフロイドが提案する。
「丸木舟にしませんか。葦舟は嫌です」
監督生の返事は早かった。

 葦の舟は、日記で赤子を還す儀式に使われていたからだ。
 日記に描写された不具の赤子を葦の舟で流す行為は、彼女の母国を創世した神話を彷彿とさせた。確かあれも、原因は子作りの際に女神から声をかけたからだとされている。
 女が自由に口を聞いたから。そう汲み取れば、村の思想にも重なってくる。
 その思想なぞるのが恐ろしく、葦の舟を避けたい気持ちになっていたのだ。

 フロイドも監督生の反応から、日記の描写を思い出したのか、特に異議を唱えなかった。
 舟を作るのに適した樹を探して、湖沼に背を向けて森へと視線を移す。トンカチがあるとはいえ、木を切り倒すところは自力の魔法でどうにかしなくてはならない。最低限の工数で済む手頃な樹を探して、フロイドの金とオリーブの目が忙しなく動いた。


 そんな中、背丈を超える草を掻き分けて歩くグリムが声をあげた。
「おーい、こっちに舟があるんだゾ」
葦を掻き分けて顔を出したグリムに、監督生とフロイドが振り返る。

 グリムは見つけたのは、錆びついた金属でできた小舟だった。叢の中にぽつんと横たわっているが、舟の傍には係留柱があり、当時はそこまで湖沼があったことを伺わせた。
「きっと日記のヤツ等が使ってた舟なんだゾ」
「そうかも。これ、使えるかしら」
これで沼を渡ることができる、とグリムは耳をぴんと立てた。
 碌でもない因習を有する村人達が使っていたかもしれない道具であることに精神的な引っかかりを覚える監督生だが、舟を作る手間と労力を鑑みれば、拾ったものを使うのは悪くない手に思えた。

 風化しきって今にも係留柱から千切れてしまいそうな縄を、グリムは四本しかない指で器用に外し始めた。
 しかし、監督生は妙に感じる部分を口に出さずにはいられなかった。
「木材を加工する技術も材料も村にあるのに、どうしてこれは鉄なんだろう」
日記には確かに、赤子を流すのに葦の舟を使った描写があった。村には大小様々の精巧な木工が各家屋で見られた。その分、金属の舟だけが浮いている気がしたのだ。
「つか中に何か入ってね? 臭ぇんだけど」
フロイドは、心底嫌そうに鼻を抑えたまま指摘した。それを受けて、監督生が舟の座面の隙間に手を突っ込むと、金属が幾つか転がった。
 金属は全て、成人男性の親指ほどの大きさで、親指のように爪と関節の形があり、指紋があった。
「親指そのものに見えます」
「……オレにもそー見える」
金属特有の光沢と錆がなければ、死蝋化した本物の指だと思った事だろう。それは嫌に精巧に作り込まれており、何らかの儀式的な意図を伺わせた。こんな物を趣味や手慰みで作っていると思いたくない心情が八割の推察であったが、フロイドは指から強烈に発せられた金臭さと獣臭さをに確信に近いものを覚えていた。
「ぶっちゃけ、キショいんだゾ」
監督生もフロイドも、無言のままに頷いた。
 指の指紋がそれぞれ違うことも、指の形の反り方が異なることも、嫌にリアルに作り込まれていることも、何もかもが生理的に受け付けなかったからだ。



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