さよなら惨憺、またきて羽客2

 推定隠れ里の木造家屋に足を踏み入れたフロイドの第一声は「コレ物置小屋とかじゃねえの」だった。
 
 フロイドが小屋の中で直立すると、梁が頭に当たる程に天井が低かった所為だ。平均身長の低い民族の為に作られたに違いない、窮屈な小屋だった。
 中には、壁沿いに木材が積み上げられ、鳥の羽のような物も散らばっている。長らく人の手が入っていないことと、朽ちて建付けの悪い戸から風が入るのも相俟って、床は砂だらけで靴を履いたまま上がるしかなかった。
 これには、監督生がやや嫌悪を示した。土足文化に慣れているフロイドは特に気に留めた様子も無かったが、監督生はオンボロ寮に来たばかりの頃の荒れ放題だった屋敷を思い出してしまうこともあってか、汚さをしきりに嘆いていた。
「とりあえず写真撮っとくわ。窮屈過ぎて住めたモンじゃなさそ。ママゴトかよ」
「汚いですけど、ちゃんとヒトの民家だと思います。生活の跡もありますし」
監督生の真面目なレスポンスに、フロイドは頭を掻いた。
「生活の跡が揃い過ぎてるからママゴトじみてんでしょ。もし、廃村になる前に住んでた連中が村を立ち去ったなら、家財がこんなに残る筈ねえって。そう思わねえ?」
フロイドがスレッドで述べていた箱庭や生簀を想起させる不自然さが、ここに来て分かりやすい形となって表れていた。
 グリムは室内を見渡して漸く自身が居る場所はただの僻地ではないことを実感したのか、毛を逆立てて監督生の背後に隠れた。

 依然、赤子の泣く声は続いていた。
 喧しく泣いているくせに姿を見ることは叶わず、写真にぼやりと写り込む赤子は、その曖昧さで聞く者を益々苛立たせた。存在の希薄さは霊力の弱さか、実在性の薄さか、今のところ気に障るだけで害はないものの不快極まる。自分が世界で一番不幸だとでも主張するかのような悲壮感が、何より気を滅入らせた。

 フロイドは赤子の声の強調される沈黙を憎んで、監督生に話を振った。
「それよか、マジで小エビちゃんの故郷に近ぇの? 何か年代とか地域とか分かりそうなモンある?」
「はい。私の住んでいたところはもっと近代化してますけど、此処は資料館で見るような昔の日本っていうか、昔話に出てきそうな感じですね」
昔話、と反芻したフロイドに、監督生が頷く。電化製品は愚か、娯楽品一つ無い室内は、最低限度かつ原始的な暮らしを彼女に連想させたのである。

 お爺さんは山へ柴刈りへ、お婆さんは川へ洗濯へ、と監督生が諳じる。
 しかし、海生まれで魔法文明で育ったフロイドには山へ柴を刈りに行く意味も、洗濯の為に川に行く意味も今ひとつ理解しかねた。ただ、この小屋の住人は監督生の言うお昔話の爺さんとお婆さんの生活に近い日々を送っていたのだと納得することはできた。
 何せ、この小屋には魔法の跡は一つもなく、庶民が使う魔道具もなければ、監督生すら使えるような魔法のかかったアイテムすら無かった。魔法とは縁がないというより、魔法の存在しない世界の家と言うべき有り様だ。
「私が元々居たような魔法の無い世界に来ちゃったのかもですね」
勘弁してと言いかけたフロイドだが、唇をもにょと歪めて黙った。異世界に転送された可能性など考えたくもないことだが、監督生という存在が居る以上、異世界は実在すると認めざるを得ず、この可能性を否定する材料は何もないからだ。鏡の事故で異世界に繋がる現象も既に一度起こっている上、監督生という縁もある。
「まあ、仮に私の故郷と同じ世界だったとしても、常に実態も無い赤ちゃんが泣いてるのは尋常じゃないんですけど」
言うだけ言ってみた監督生は、室内の探索を始めた。彼女は、部屋の中心にある灰で溢れた四角の木枠、もとい囲炉裏の跡を気にしていた。
「異世界ドリフト説にしても、ツムが来た世界とか、他にも私たちが知っているものとは違う世界があるのかもですね。姿も碌に見えない赤ちゃんが常に泣いているのも別に普通な世界だったりして」
「それはそれで嫌なんだけどさぁ」

 監督生の雑な可能性の提示に一応の返事をしたフロイドだが、何も彼女がふざけて言った訳ではないことは察していた。
 彼女は図太いようで、存外シビアなものの見方をする。
 だから、心情的に受け付けない可能性でも考えの共有として報告してくるのだ。

 ただ、もしかしたら彼女は自身が言ったことをそこまで最悪とは思っていないかも知れないとも、フロイドは考えていた。彼女の経験則では、異なる世界には異なる常識があるのが当然だと刻まれているだけなのだと。
 思えば彼女は、自身の常識には無かった筈の魔法も、彼の世界では普通に動力として数えられるものとして受け入れてきた。世界が違えば常識と非常識の境も異なり、そこにに一個人の価値観で抵抗しても無駄だと彼女は知っている。謂わば、無常の世界に対する諦観があったのである。
 諦観は、人の都合に頓着しない世界に順応する為の麻酔だ。
 フロイドにツムが何者で何故積まれたがるのか分からぬまま世話をした日々があったように、監督生は魔獣が何者で何故喋れて何故魔法を使えるのか分からぬまま世話をしてきた。ヒト属だけの人類史を信じてきた身でありながら、人魚や獣人が何故か人間の系譜として名を連ねる進化論に異議を唱える事もなく、妖精の友まで作り、喋る絵画と茶会も嗜んだ。冷静に振り返れば、恐るべき適応力が為せることだ。しかしカレッジの学生達はそれが当たり前であるが故に、彼女が平穏を繕う為にいくつ故郷の常識を脳裏で屠ってきたかは気に留める者も無い。
 フロイドは、自分がこの立場になるかもしれない可能性に思い至って初めて、その絶望的な断絶に触れた気がした。

 現に彼女は、食べれないこともないからとハルジオンの花を集めたり、暖を取るべく囲炉裏が使い物になるか探っていたり、この世界に取り残された場合も生き残れるよう動いている。非常時には必要な冷静さではあるが、フロイドにはそれがどうも悲しく映った。
 九月にカレッジに迷い込んで以降、ずっと帰れなかった彼女には、帰れるという想像が碌についていないのだ。此処が誰も知らぬ第三の異世界であろうと、嘗てそうしたようにまた諦めを重ねて順応するのだろう。彼女にはいつか、この神経を逆撫でするばかりの赤子の声も、夏場の蝉のように気に留める必要もない雑音として馴染んでしまうのかもしれない。そう思わせる達観があった。
「絶対帰ろうね」
フロイドは背筋に寒さを覚え、自身を鼓舞すべく目標を口にした。具体的な方法すら分かっていない段階だが、言わないよりは良かった。意思を口にすると、集団の行動の方針がぶれずに済むからだ。それは、この箱庭じみた気味の悪い空間を受け入れないという意思表示でもあった。
「勿論、絶対帰るんだゾ!」
グリムが力強く答えれば、監督生も頷いた。
「ええ。絶対帰りましょう」

 返された言葉は二人とも偽らざる本音であったが、フロイドにはやはり監督生のそれだけ温度が異なって聞こえた。


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 掲示板の閲覧者達はフロイドの脳裏に閃く余所を超えない考察を並べるばかりで、どれも決定打に欠ける与太話の域も出ず、碌な進展はなかった。
 それども、万が一にでも手掛かりになり得る情報を拾い損ねるもの恐ろしく、フロイドは家財等を細かに写真に撮る作業を止めらえなかった。

 太陽の位置は高く、格子窓の間の間から見える空は、気味の悪い程にむらのない浅縹。しかし、家屋を囲む小高い樹々は日陰を多く作り、彼等の手元を暗くしていた。

 室内を漂う冷ややかながらも湿度の高い空気が、流れる汗を気化させる事も許さず、フロイドの身体を蝕んだ。
 監督生は故郷の気候と一緒だからと平然としているが、グリムは湿気でよれるヒゲを気にしてしきりに顔をこすっていた。

 出所の分からない泣き声は、依然として家鳴りのように室内全体を軋ませている。最初は沈黙を嫌っていたフロイドも、虚空に向かってウルセーと呻くだけになった。会話のネタが尽きたのである。
 笑い話をする気分でもなく、かといって身の上話は監督生が口を開くと気が沈む気がして避けており、現状の考察も碌に意見は出ていなかった。


 彼等は未だ、自身が今何処に居るのか皆目分かっていない。
 何故こんな場所に来てしまったかも分からない。分かるのは、オクタヴィネルから鏡舎に繋がる鏡を潜って移動する筈が、明らかに怪しい場所に逢着しまったことだけ。
 辺りは森林と称すべきか山と称すべきか、その最中にいる彼等には俯瞰して見る事が出来ないので、その規模も分からない。
 分からない尽くしのまま、頼った校内掲示板のスレッドは百を越え、二百を超えた。それも本気で行方を探そうとしているオクタヴィネルの寮生達を除けば、冷笑混じりのおちょくりや不謹慎な悪ノリと知識マウントでスレッドが埋められている有様だ。然して有用な情報もなく、不穏さだけが増している。


 そんな中、囲炉裏を再建させていた監督生がアッと声をあげた。
 灰を掻いていた彼女の手には、古びた紙が握られていた。
 灰と土が沈着して黄色味を帯びた灰色となっているその紙は、酷く古びている事を差し引いても、カレッジではまず見かけない質感であった。羊皮紙や洋紙とは違って、妙に目が粗く繊維が長いのだ。それは和紙と呼ばれる、東方の国々ではメジャーなものであったが、海では魔法を帯びない紙が流通しない事情も相俟って、フロイドの目には珍奇に映った。

 紙の内側には、縦書きの文字列が見えた。
 紙の左端には製本の為に糸を通したと思しき穴が複数あり、元は一枚だけのメモでないのだと窺わせる要素はあった。生憎フロイドやグリムには読めない文字であったが、国や文化の特定には有力な材料だ。
「灰の中から出てきました。日記か何かの一頁だと思うんです、けど」
監督生の歯切れが悪い。
「都合の悪いことしか書いてないです」
文字列は黒いイソメのようで、フロイドには辛うじて縦書きである事しか分からなかった。カレッジではまず習わない、縦しんば触れる機会があったとしてもフロイドの選択していない科目にしか出てこないような、マニアックな言語であろう。しかし監督生は、拾って直ぐに読み解けたらしい。
「フツー、囲炉裏の中に紙キレ入れたりしねーんだゾ。燃えちまうからな」
紙の出所を訝しんだグリムは、監督生の膝によじ登ってその内容を検めた。

 グリムの言った通り、火を起こす囲炉裏の中から紙が出てくるのは不自然で、いっそ作為すら感じる配置だった。燃やすべき秘密があるのなら、灰と一緒になっているべきだが、この紙には燃えた形跡すらなかった。誰かが、燃えていない囲炉裏に突っ込んで隠したというべき状態だった。
「トーホー支店の文字じゃねーか。確か子分の故郷もこんな字っつってたな」
グリム曰く、監督生の故郷の文字は東方地域の一部で使用されているものと同じ、あるいは酷似しているという。新年にミステリーショップが東方支店と組んで営業していた時、その事実に気付いた監督生は臨時のアルバイターとして大いに役立ったらしい。少なくとも、その際に監督生が眼にした文字については故郷のものと何ら変わりが無かったのだ。
「ヌホン語なの、これ」
「日本語です、先輩」
試しに文面を写真に撮って掲示板に載せれば、確かに東方のものであるとお墨付きを得た。独自にこの言語を習得したという者も現れた辺り、腐っても名門校というべきか、中々の知識層も閲覧しているようであった。

 訳文が掲載されるより早く監督生が朗読してみせれば、掲示板と現地を気まずい混乱が支配した。
 フロイドとグリムも、最悪の顔色のまま口許を抑えて固まる事しかできなかった。
 監督生の滔々とした声が、彼等の内耳にこびりついている。


 娘が生まれて間もなく、義父から聞かされた。
 女にはウブメが憑く。
 ウブメは死を唄い、災いを呼ぶ。
 ウブメは男を狂わせ、赤子を攫う。
 依って女の舌は切らねばならぬ。
 喋らせてはならぬ。
 唄わせてはならぬ。
 嗚呼なんということ。
 つまりヤオは、里の女達は、作られた唖だったのだ。
 知ってしまえば、彼女等の眼が恐ろしかった。
 女に口を利かせてはならぬ。
 女にウブメを憑かせてはならぬ。
 それが里の仕来たりだから。
 漸く生まれた娘もまた例外ではない。
 義父がそうしたように。今度は私がしなくてはならない。
 娘が喋り方を覚える前に、お馬が来る前に、この手を汚さなければならない。
 悍ましい。ここは桃源郷などではなかった。
 ここは地獄だ。
 けれど私には、娘を救えない。
 私も里の男だから。
 この村を捨てることなどできはしないのだから


 監督生は、やはり忌憚無く最悪の予想を共有してくる。
「フロイド先輩が狂う可能性があるってことですかね」
「勘弁して」
「なら私の舌を切った方が良いってことですかね?」
「ほんと黙って」
質の悪い事に、この女は善意で聞いていた。フロイドが乱心すればグリムも監督生も害を被る上にあらゆる事態の対処が難しくなるが、監督生が喋れなくなった所でスマホを筆記具として意思疎通出来なくもない分、監督生が犠牲を払った方が幾分かましだという心算なのだ。
 理性的な提案のようで、そこに一切監督生の苦痛が考慮されないあたり、フロイドは頭が痛かった。まだこの紙の内容が本当かどうかすら検証していないのに、自らの身体機能の一部を捨てる選択が出てくるのは、どう考えても尋常ではないからだ。自棄鉢なのか、生き物としての生存欲求に欠陥があるのか、判別しづらかった。

 掲示板の反応も同様で、紙の内容に頭を悩ませていた者も、今や監督生の箍の外れた提案に引いている。
「こ、子分に何かしてみろ、オレ様が承知しねーんだゾ!」
尻尾を瓶洗いブラシのように膨らませてフロイドと監督生の間に立ち塞がるグリムだけが、この場における良心だった。

 生と死の境界線が陸より曖昧な過酷な海で生きてきたフロイドは、他人が自分の犠牲になることに心を痛める質ではない。
 けれども、そこそこ自分に懐いている後輩相手にそんな簡単に選ぶ程薄情でもなかった。何より、訳の分からない情報に踊らされて取り返しのつかない犠牲を払うなど悍ましさすら覚えた。
 この得体の知れない村の因習に組み込まれてしまう気がした。

 フロイドは、精神の安寧の為にグリムを無言でもちもち撫でた。現実逃避である。
「や、やめ、やめるんだゾ」
グリムの毛皮は乾いていてさらさらとしているが、程よく伸びる皮がフロイドの掌に心地よい弾力を伝えてきた。ヒトの平熱より高い体温が、生き物の質感をより強調している。
 監督生は、真顔でグリムを捏ねるフロイドと、伸び縮みさせられるグリムを交互に見遣って「この人は既に狂ったかもしれない」という顔をした。

 しかし、フロイドの逃避は早々に打ち切られた。
 モストロ・ラウンジの業務を終えたアズールが、掲示板を仕切り始めたからである。
 アズール曰く、訳の分からぬ世界に漂泊した時の三原則とは「名乗らない」「食べない」「子を為さない」そして、異界のルールに組み込まれる行いをしないことであった。
 フロイドは、心情的忌避以外の理由で手を汚さずに済む選択を推してくれたアズールに甚く感謝した。この理由であれば、監督生も面倒なく引き下がってくれるからだ。
「じゃあハルジオンもお預けですね」
三原則を指折り数えた監督生は、花を窓から放った。グリムは名残惜しそうに窓の外を眼で追ってはいたが「腹が減る前に帰るんだゾ」とさっさと切り替えた。

 「じゃ、さっさと次の小屋見に行こ」


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 所変わって、ナイトレイブンカレッジ。夜のハーツラビュル寮。

 入浴を終えて部屋に戻ってきたエースは、自身のベッドの上でスマートフォンが震えていることに気が付いて手に取った。連絡は、部活の上級生から。バスケ部のレギュラーの座が一つ空くかも、などという希望的観測しかない報せだった。
 どうでもいいと思いつつも礼儀的に詳細を尋ねていく内、エースの表情はみるみる暗澹としてきた。
『フロイドのヤツ、なんか変なとこ迷い込んで帰って来れなさそうなんだよね。なんかマトモに電話もかけらんねーとこ居るっぽい』
他人の不幸は所詮他人事、というドライな自己中心性はカレッジではよく見られる感覚だ。他人がどうなろうとも、自身の野心の前では些細なこと。だからエースはその態度を非難する気力もなく、曖昧な相槌を適当に挟んで事の要点を聞き出すことに終始した。
『オンボロ寮のヤツらも一緒っぽくて。あ、お前監督生と仲良かったっけ?』
「まあ、そこそこ」
エースは、机に噛り付いて問題集を解いているデュースを見遣った。彼なら胸を張って恥ずかしげもなく親友だと答えただろうと思った。
『マ別にいっか、大事なのはフロイドが帰って来れそーにないってこと。アズールがラウンジの奴らとか使って探してるけど進展ないっぽいし』

 話を打ち切るように終わらせて、エースはモストロ・ラウンジの告知用アカウントを開く。
 いつものリアルタイムの閲覧を最も期待できるように設定された投稿時間とは異なる、突然のクーポンキャンペーンを告げる投稿があった。情報募集の文字と共に誘導されているリンクは、校内掲示板。それもオカルト掲示板。
「……なあ、それ後どんくらいで終わる?」
エースは、机にかじり付いているデュースに声をかけた。デュースはエースの存在にたった今気が付いたかのように勢いよく振り返って、時計と自身の机の上を交互に確認した。
「もう寝るのか? あと一時間待ってくれ。マジでヤバいんだ」
明日の小テストの範囲が広すぎて、とデュースが眉を下げる。デュースは、フラミンゴの世話と夕餉が終わった後も、ずっと机に向き合っていた。本当に危ういのだろう。

 エースは、今しがた知ったトラブルを相方に打ち明けるか悩み、唇を尖らせた。
 今伝えれば、デュースは絶対に明日のテストどころではなくなるのが目に見えていた。
 だからといって、実際に彼等にできることがあるかと言えば否だ。現地のフロイドや集合知を駆使するアズールにも手に負えていない状況に、ただの一年生が首を突っ込んで解決できるとは思えない。ならば知らない方が良い。エースとて明日に備えて寝るべきだろう。
 それは理に適った考え方であって、全くもって正しかった。
 けれどエースは、それを簡単に良しとできなかった。


 授業が終わった後、監督生が一緒にラウンジで夕餉にしようと誘ったのを、デュースとエースは小テストに備えたいからと断っていた。
 デュースはこの通りだが、エースが小テストを理由にしたのは半ば建前で、本当は気まずかったからだ。
 監督生の正体が女だと学園中に知られて以来、彼女が遠くなった気がしていた。

 別に、彼女の性別自体は大した問題ではなかった。デュースはともかく、エースは薄々そうだろうと思っていたし、そんなことで嫌うのも馬鹿らしかった。友達なのだから、特に関係性が変わる訳でもない。そう思っていたのに、周囲の目が変わった。露骨に監督生に優しくなる者もいれば、今まで無関心だったのに急に探りを入れてくる者も出た。エースとデュースのどっちかと付き合っているのでは、一番最初にオンボロ寮に泊ったのがエースというのは本当か、などと下世話な詮索もしばしばあった。
 そんなに親密に見られている立場なのに、エースは彼女が一番思い詰めていた時に、何も碌にしてやれなかった。学園の生徒達がした酷い仕打ちに、まだエースの心の方が癒えていなかった。
 だというのに、監督生はさっさと立ち直って、挙げ句にスカートを履くようになった。
 エースが女だろうが異世界人だろうが気にする事ないって、と軽口を叩けるようになるより早く、彼女は顔を上げていた。今まで適当にいなしていた悪意に毅然と応じるようになった。傷付きながらも、この学園に能動的に居場所を作ろうとしていた。その姿が、彼女の自立に思えた。
 客観的には喜ばしい変化かもしれない。けれど、エースには置いていかれている気がしたのだ。
 腐れ縁で一緒にいるのだと斜に構えて緩く駄弁っていられる関係が、不似合いに思えた。心地よかった関係性に更新を迫られている気がして、気が引けた。
 全てエースの勝手な強迫観念だ。
 監督生が何か言った訳ではなく、エースも彼女に要望がある訳でもない。
 監督生の肝心な部分は変わっていなくて、冷静沈着なのに情に厚くて義理堅いから流されやすい、エースとデュースを見放さなかったその気質も。真面目で慇懃なのにとんでもなく肝が据わっている、妙な図々しさすら感じるA組に馴染み切った性格も、何も変わってはいないのに。それが心地よかったのに。
 少し距離を取って、心が慣れて落ち着いてきたらまた元に戻ろう。そう思っていた。

 鏡舎で解散した授業後、監督生とグリムは手を振って「また明日」と言った。誰もが言葉通り、今日と変わらない明日の訪れを信じていた。
 それを最後にしたくなかった。余所余所しいまま終わらせていい訳がなかった。


 エースは自身の衝動を認めて、それを肯った。
「オレさ、今から寮抜け出すわ」
向かう先は、アズールがイデアとオルトを抱き込んで情報収取に奔走するキャンペーンの総本山、イグニハイド寮。お前も来るかと聞く代わりに、エースは掲示板を表示したままのスマートフォンを差し出した。デュースが断らないことなど、分かり切っていた。
 案の定、気の良い直情型の友は、二言返事で頷いた。


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 さて、イグニハイドに突撃したエースとデュースだが、寮に足を踏み入れて数秒で自身にやることが全くないことを理解した。

 そんなことは承知で来た筈だが、実際にその事実を突きつけられると滅入るものだ。
 ジェイドを始めとするオクタヴィネル生は引っ切り無しに至る所に連絡しており、イグニハイド生はパソコンの液晶に顔をくっつけて論文を漁っているし、イデアなどは合法にアクセスできない機関の記録をサルベージしていた。SF的な理論を並べ立てて喧々諤々に仮説を擦り合わせている者達もいれば、件の赤子の声の波形を色々な種族や国の者と比較して特徴を明らかにしようとしている者もいた。それ等は全く、エースとデュースの頭で処理できる範囲を超えていた。
 常に忙しなくタイピングの音と電話のコール音が聞こえた。ひっきりなしに鳴る音は、散弾飛び交う戦場のようだった。
 まず誰に声をかけていいか分からなかった。誰もが入ってきたエースとデュースの存在を無視していた。無視というは適切ではなく、気に留めていないと言うべきか、気付きすらしていない者も多かった。皆神経を張り詰めており、喋りかけてその集中の糸を切ろうものなら烈火のごとく怒られても仕方がない。そういう雰囲気だった。
 それもその筈で、ここは総本山。
 行方の知れない彼等の手掛かりを探すために身銭を切ったアズールに一番近い場所。フロイドの片割れたるジェイドの目が届く場所。一番必死な者が居るところだ。そんなところで、誰が作業の手を緩められようか。

 勿論、オクタヴィネルやイグニハイドにもただスマートフォンから掲示板を眺めるだけの必死とはかけ離れた者もいた。そういう学生は大抵寮の外か、個室に引き籠っているのである。
 何せ協調性も道徳心も欠ける悪童の巣窟であるから、鏡舎の外で煙草をふかして時間を潰したり、自寮で人員交代に備えるという名目で仮眠をとったりしても彼等の良心は痛みはしない。そも、機材の数に限りがあるのだから、仕事をしているふりをされるより邪魔にならずに済むと考えられていた程である。

 そんな訳で、イグニハイド寮の目に付く所は一番純度の高い修羅場になっていた。
「おや、エースさん、デュースさん。もしかして東方にお詳しいんですか? それともかの言語を翻訳できますか」
戦場で最初に二人に声をかけたのは、受話器とペンを持ったままのジェイドだった。やや早口なのは、彼が確認事項を電話先が一時保留にしたタイミングに詰め込んだからだろう。
「いえ、でも何かしたくて」
「何でもやります!」
エースとデュースは、軍隊式の敬礼でもするような勢いで姿勢を正した。返事をしたのはアズールだった。掲示板でキャンペーンの対応をしながら、この修羅場を仕切り、かつ自身でも調べ物をするマルチタスクぶりの中、一枚の書類を投げて寄越した。
「レオナさんに協力を取り付けてください。ついでに、サバナクローにはウチの臨時従業員もいますから、彼と組んで仕事のできる方を何人か引き入れられれば助かります」
アズールの手元を離れた書類は、魔法によって平たい状態のまま紙飛行機のように真っすぐ飛んで、エースの手中に収まった。見れば、ラギー宛の契約書とレオナ宛に協力を要請するメモがあった。
「キングスカラー先輩ですか」
一筋縄で協力を取り付けられる相手だろうかと逡巡するも、デュースの脚は既に駆け出していた。そんなものはサバナクローに着いてから考えるべきだとも思っていたからだ。
「そうです、彼は存外年下の泣き落としに弱い。あと安眠妨害の騒音にも!」
遠ざかるエースとデュースの背に、アズールが助言を叫んだ。いつぞやの敗因から学んだ智慧であった。


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 斯くしてサバナクロー寮へ駆け込んだエースとデュースだが、不発だった。
 肝心のレオナもラギーも不在だったのだ。
 そこで、サバナクロー廊下の肖像画に尋ねて曰く「獅子の王は学び舎へ」。

 普段のレオナの行動サイクルならばこの時間帯は精々寝ているか読書か夜食、いずれにせよ部屋から出ていることなどない時間であった。
 イレギュラーに舌打ちするが早いか、デュースは回れ右して鏡舎に戻っていった。遠ざかる後ろ姿は、短距離走と変わらないフォームと速度だった。そんな陸上部の新星との並走を早々に諦めたエースは、肖像画に質問を重ねる。
「何かもっと具体的に分かります?」
夜空を背景に描かれた老狒々の肖像画は、手にしている杖を揺すって空を仰いだ。ラピスラズリと魔法石を顔料にした星空が瞬く。
「星の導きに依れば――今昔の智慧を束ねし場所に」
「つまり?」
「図書室」
厳かで意味深だった老狒々が、エースの素っ気ないテンションに折れた。
 簡潔かつ具体的なのは、これは星占いの成果ではなく、額縁という狭い世界で暮らす彼の娯楽として極められた人間観察の累積だからだ。あるいはもっと単純に、鏡舎へ向かう最中の会話を聞き及んでいたのかもしれない。いずれにせよ、作りものの星は卜占の材料にはなり得ない。
「どうも」
「気を付けよ、瞬くは瑞兆の星の……や、最後まで聞かんか!」
近頃の若者は、と肖像画が杖を振り上げる老狒々に、エースはさっさと背を向けた。

 鏡を越えて、ストリートを駆け、校舎へ。
 走りながらデュースに電話でレオナの所在を告げれば、運動場まで駆けていたらしい彼とは図書室前の廊下で合流できた。驚くべき健脚である。


 「あの蛸野郎が俺にやらせてえのはコレだろ」

 図書室の一角を占領したレオナは、二人がアズールからのメモを見せるより早く口を開いた。
 大量の本を堆く積み上げた机に腰掛けたレオナは、ポケットから古びた鍵の束を取り出して見せる。禁書の管理されている地下書庫の鍵だ。
 禁書のある地下書庫は、司書あるいは教員、もしくは教員に権限を委任された寮長しか開けることができない。また中の物を読むにも、一定以上の資質と彼等の許可を必要とする。
 イデアもアズールもここまで手が回らない以上、禁書を調べるにはもう一人の寮長が必要なのだ。

 以前、監督生は禁書を校則に反する方法で入手していた。
 彼女が持っていた禁書は幸いにも危険思想故に発禁にされただけの物であったが、地下書庫には本そのものが帯びた魔力によって流通や閲覧を禁じられた物や、曰くつきの書物も多く所蔵されていた。
 何らかの拍子にそれらと何らかの縁を持ってしまった可能性も否定しきれない以上、地下書庫の中身も一度検められなくてはなるまい。

 レオナはそれらの事情を加味した上で、図書館を尋ねていた。鍵を入手する経緯からして、それは教員も知るところなのだろう。
「じゃあ、監督生達のことも、もう知ってるんですね」
「ああ。ウチの寮生の一人が海水に棲んでる魚を淡水に入れるとどうなるか煩く聞いて回ってやがったからな」
鬱陶しくて敵わんとレオナが肩を竦める一方、頼れる協力者が増えた事実にエースとデュースの頬を綻ばせた。
「別に俺が動く義理は無かったが、放っときゃジャックも朝まで騒ぎそうだったからな」
レオナとはやや離れた机に本を広げていたジャックは、己がレオナに協力を嘆願したことを明かされてバツの悪そうな顔をした。俯いたジャックを、ラギーが肘で突く。
「良かった。実のところ、僕達もそうしようと思ってたんです」
手間が省けたことを素直に喜んでいるデュースの発言に、レオナの顔が引き攣った。

 禁書本に埋もれていた三年生達が「今年の一年ヤベェな」とレオナに同情してみせる。
 彼等もサバナクローの寮生であるので、監督生がレオナの部屋に厄介になった際に如何に手段を選ばぬ交渉をしたかをよく知っていた。その女の友人達が揃って似たり寄ったりの無鉄砲ぶりを発揮するものだから、遠い眼にもなろう。類は友を呼ぶのか、朱に交われば赤くなると言うべきか。兎角あの監督生の同類項が複数揃っている時点で、レオナが押し負けるのは目に見えていた。
 ほどほどに調べ物を切り上げて所在不明の彼等を諦めるという選択肢が立ち消えた事を悟って、彼等はより必死な面持ちになって本を捲る作業に戻った。


 一方、アズールから従業員として動くよう書面で要請を受けたラギーは、契約の条件を読み込んでから露骨に作業の手が早くなった。
 ラギーがそうするに足る報酬が約束されたのだと、彼の反応から誰もが悟るところである。大盤振る舞いする質ではないアズールだが、今は金に糸目を付けていられる時ですらないのだろう。
「エースくんとデュースくんはこっちッス。禁書は触らず、上級生に任せて」
ラギーがジャックが座る机に、分厚い本を積み上げた。こちらは禁書ではなく、誰にでも貸し出されている本と図鑑だった。東方の民話集、東方民族史、赤竜国史、瑞穂島史など、タイトルからして東方に焦点を当てていることが察せられた。

 読み込んでいる本から顔を上げないまま、ジャックが説明する。
「レオナ寮長が知る限りじゃ、ウブメは極東に生息するヒトの赤子を攫う鳥型のモンスターって言うが、女に憑くなんざ聞いたことねえらしい。俺達はソレについての情報を洗うぞ」
「ハナから名前分かってんならヨユーじゃん」
漸くやれそうなことができたエースが、鼻の下を擦りながら頷く。その楽観は、半ば自己暗示的な強がりでもあった。その気丈さを、苦笑交じりに壁を指差したラギーが摘んでいく。
「全くその通り。調べるだけなら難しくないッスよ」
図書室の壁には、コピーされた本のページが大量に貼られていた。何れも数行に渡って赤い蛍光ペンでラインが引かれており、ウブメに関する情報が抜き出されていた。眩暈のする数だった。

 ジャックは読んでいた本に付箋を貼ると、図書館を忙しなく駆けまわっていたミーアキャットの獣人に手渡した。この彼こそが、本のコピーを取っては壁に貼る作業を担当しているようである。
「狼男の例で言ってもそうだ。ウェアウルフ、人狼、ライカンスロープ、ルー・ガルー……目撃された国や地域によって名が変わる。その上、俺達みたいなのをその狼男に含める奴も居る」
ジャックは、狼の耳を指で示しつつ二人に言い聞かせた。
 狼男とはハロウィンの仮装でも人気なほど有名なモンスターであり、ヒトに混じって暮らしながら夜な夜な狼に変じてヒトを食らうというのが定説だった。獣人属とは異なる存在であるが、獣人差別主義者達は悪意を持ってその呼称を混同してきた歴史もあった。
 つまるところ、同じものが幾つも名前を持つこともあり、逆に本質の異なるものが僅かな相似点から同じ名前で記録され得るのだ。それを考慮したならば、調査範囲と検討事項は大きく膨れ上がる。
「ハルピュイア、アルコノスト、シーリン、ガマユン、カリョウヒンカ、モー・ショボー、テング、セイレーン……鳥の特徴を持ったモンスターってだけでも死ぬ程居るぞ。速読できんと夜が明ける」
「ウブメをヤゴメドリとかウバメドリとか呼ぶ地域もあるってよ」
ジャックの隣で古びた図鑑を恐ろしい速度で捲る二年生達が、カフェイン飲料を呷りながら忠告してくる。細かい文字列を高速で追う眼は血走り、黒い瞳が痙攣しているかのように小刻みに動いていた。


 壁に貼った資料に、信憑性の低い情報だと指摘が入る。調べた情報を偽物だと言われた生徒が怒鳴る。
 眼精疲労を訴える少年が唸りながら目薬の点眼を繰り返す。泣きながら本を読む。
 調べた情報同士の矛盾に頭を抱え、壁に頭を打ち付ける。暴れる寮生をラギーが宥める。
 開かれた禁書が絹を裂いたような叫び声をあげ、対応していた三年生が慌てて本を閉じる。
 本から滲み出た呪いの残滓を、レオナが防護魔法で押し留める。

 積まれた本の山が崩れて、人が埋まる。
 情報量の多さに精神を病んだ男が、本のページを破って食べ始める。
 奇行に走る上級生を、ジャックが締め落として強制的に仮眠を取らせる。

 図書館を静かに使うなどというルールなど、誰もが忘れ去っているであろう光景だった。
 本との格闘で誰もが手いっぱいだった。

 堆い本の山と溺死しかねない量の情報の海に、エースとデュースは此処にも専門外の仕事しかないとを悟った。
 彼等に読書への親しみはない。まして、速読の技術など持ってはいない。
「はは……」
「上等っすよ」
それでも、意地と強がりが口をついて出た。デュースが、パァンと掌で自身の頬を叩く。エースもそれに倣って、一層の気合を入れた。

 気張る彼等の脳裏にあったのは、ウィンターホリデーの記憶だった。
 初めて受け取った、監督生からのヘルプコール。その時は結局、エースもデュースも彼女達が困っている案件に間に合いはしなかった。解決が済んでから現れたというのに、二人の顔を見た時に心底喜んだ彼女達の顔は忘れられそうになかった。

 今度は役に立たせてくれと、自身を叱咤する。
 今度こそ窮地に間に合ってみせろと、祈るような気持ちで眼前の文字を追った。



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