非合理的労働讃歌

 監督生がモストロ・ラウンジに勤めて、一年が経とうとしていた。
 監督生は学園内唯一の女生徒だ。客寄せに使わない手は無かった。一応、アズールも彼女が学園で唯一魔法の使えない最弱の存在である事を考慮して、最初の内は現場責任者兼武力装置のジェイドかフロイドのどちらかとシフトが被るよう調整していた。しかし、スカラビアやハーツラビュルの寮長などといった権威ある変人達と懇意にしている事が幸いしたのか、彼女が店内で諍いの火種になる事は無かった。要領も悪くはなく、監督生は仕事に慣れるに従って出勤頻度を増やし、すぐにシフト調整の意味を無いものにした。

 監督生は、よく働く。
 オンボロ寮生でありながら、オクタヴィネルの寮服を思わせる黒と紫のスーツで給仕する彼女の姿は、既に常連客やレギュラースタッフ達には見慣れたものになっていた。潔感重視の薄化粧に後れ毛の無いポニーテールは、色気こそ無いが、飲食業としては大正解だった。そういう店ではないので過剰な媚は要らないのだ。健全な営業の範疇の愛想と、貪欲な向上心が彼女の長所だった。作業効率の良さで言えば上位互換は少なくないが、面従腹背の輩まで働く拝金主義と利己主義の煮凝りたるモストロ・ラウンジにおいて、勤勉で誠実な従業員という意味では希少価値があった。


 ただし問題があるとすれば、監督生がモストロ・ラウンジに馴染み過ぎた事だ。
「支配人、オンボロ寮をモストロ・ラウンジ二号店にする計画に興味ありますか?」
厨房で作り置きのサラダを廃棄しながら、監督生はアズールに話を振った。ラストオーダーの時間を過ぎた店内は、品のある短調のバックミュージックと巨大な壁面水槽のエアポンプの音が静かに響いていた。オーダーが飛び交っていた嵐の時間が嘘のように静まった厨房では、声を張らずとも雑談が捗る。
「それはあなたが潰した計画でしょう。確かに僕はまだ諦めていませんが」
やるとしても去年より難易度が高くなるが、やれない事もない。アズールが頭の中で算盤を弾く。
「で、あなたは宿無しになってまで何をお求めですか」
その際はオクタヴィネル寮か二号店に寝食できるスペースも確保してほしいんですけど、と交渉を調節してくる監督生。もともと図太くできているのか、彼女は交渉に物怖じしない。例え彼女の寮が無くなったとしても、オクタヴィネルの一部は同僚として培ってきた気安さと、少々の下心によって彼女の入寮を歓迎するに違いないが。
「卒業後も支配人の下で働かせてほしいんです。ラウンジの経営を続けるかは知りませんけど、支配人は根っからの商人ですから、先輩個人に終身雇用という形が良いです」
厨房でソフトクリームマシンを解体して洗浄していたオクタヴィネル一年生が、酷い音を立てて噎せた。ホールから皿を回収してきたジェイドが、ここぞとばかりに茶々を入れる。
「ふふふ、終身雇用ですか。聞き様によってはプロポーズですね」
アズールは白手袋をした手で眼鏡のブリッジを押し上げた。アズールは完璧主義者なので、食洗器の駆動音と業務用冷蔵庫のモーター音が目立つ中で告白されて喜ぶ趣味は無い。それは眼前の女生徒も承知であろうから、そういった誤解は生まれなかった。だが、確かに厨房にいる誰もが正しく捕らえるとは限らない。
「そうですね、すみません。ただの進路相談です」
監督生は、口を大きく開けずに笑う。照れ笑いに近いその表情には、少々の情けなさが滲んでいた。仕送りどころか実家そのものがこの世界に存在しない彼女にとって、速やかに就職できるか否かは生存に関わる。卒業後の資金も貯蓄しておかなくてはと日々の食費すら切り詰めている事を、アズールも薄々は察していた。彼女の勤勉で貪欲な勤務態度は、切実さの裏返しでもあった。
「プロポーズするなら、ちゃんと指先も整えて、こんなひっつめ髪じゃない時が良いですね。ジェイド先輩とフロイド先輩にフラッシュモブとか頼んじゃおうかしら」
ソフトクリームマシンのノズルが、硬い金属音と共に床に落ちた。冗談めいた口調なのに、その横顔があまりに夢見がちだったからだ。勤務歴一年弱にして彼女が初めて見せた恋に蕩けた微笑に、アズールすら目を剥いた。仮にも学園唯一の女生徒、モストロ・ラウンジの客寄せパンダ。多くの男子生徒はこの女にそれなりの淡い夢を持っているのである。彼女にプロポーズを夢見させるような存在が居て、なおかつそのプランが悪趣味極まっているとくれば傷心であろう。
「おやおや。その際は是非とも協力させてくださいね」
ジェイドはアズールの苦い顔を満足気に一瞥して、ホールに戻っていった。フロイドはオクタヴィネル寮の一室で契約違反者と「対話」している為に不在だが、この話を聞けば面白がって協力するだろう。そして確実にプロポーズを失敗させる。
 だがその方が紅一点の客寄せパンダの価値が損なわれずに済むと勘定したアズールは、口を挟むのを控えて勤務作業に徹した。


 厨房では、陶製の食器が触れ合う音と、シンクを滑る流水と、ホールから僅かに聞えるエアエアポンプと囁き声が、柔らかく交じり合って頭を抜けていく。ホールスタッフからの最後の客が退店した合図を確認して、ジェイドが表玄関の施錠をした。実際の錠と魔法のプロテクトによる二重防犯だ。解除法は、寮監のアズールと副寮監のジェイドしか知らない事になっている。

 売上金が注文記録と合致する事を確かめるのは、大抵アズールの仕事だった。レジスターで打ち出した記録紙に打刻された日付に、アズールは監督生が突然の進路相談を持ちかけた理由を悟った。
「そういえば、二年生のこの時期はインターンの説明会がありましたね」
インターンとは、学生を対象にした職業体験であり、ナイトレイブンカレッジでもキャリア教育の一環として組み込まれているものだった。特に、魔法を必要とされる専門性の高い職業に関しては、ほぼ必須のキャリアカリキュラムであった。逆に言えば、魔法士ではなく魔法を使わない一般人として働いていくなら必要の無いカリキュラムでもある。しかし、魔法が使える事を入学条件の一つとするナイトレイブンカレッジでは、そのような選択肢は視野に入れるようなものではないという扱いだ。
「そうなんです。先生方にも心配をおかけしているんですけど、未だにどの企業にも受け入れてもらえなくて」
五十三連敗です、と監督生はフロアにモップをかける作業を止めずに答えた。長身の男達が使う想定のモップは、彼女が持つと棒術でもしているのかと思わせるほどに長く感じた。充分に水を吸った幅広で毛長のモップが、鈍重に床を這う。フロイドなら数分で終わらせる作業だが、彼女がやると三割増しの時間がかかる。それでも、四角いところを丸く掃いたりはしないので、アズールは彼女にモップを任せていた。

 監督生は、勤勉である。ナイトレイブンカレッジ生には珍しく丁寧で誠実であり、アズールの足元にも及ばないが努力家だ。
 魔法の無い世界で生まれ、この世界についてキンダーガーテン以下の常識も無かった彼女は、一年と少しで座学を平均点レベルにまで引き上げた。補習続きでシフトに穴を開けられるのを危惧したアズールが多少スパルタで仕込んだ記憶もあるが、それをするに値する向上心があった。結果的な評価は未だ平凡の範疇でしかないが、アズールはそれを彼女の成長曲線の終点とは思ってはいない。
 そんなモストロ・ラウンジを一年以内で軌道に乗せた敏腕経営者のアズールが認める従業員だというのに、彼女は履歴書で弾かれる。
 突如学園に出現した異世界人で、つまりは経歴が不明だから。優秀な魔法士という箔が付く筈のナイトレイブンカレッジ生という肩書きがあまりに無意味だから。奇怪な小動物じみたモンスターと併せて漸く一人として在籍する存在だから。思い当たる理由は幾らでもある。彼女が二年生にして進路選択に焦燥を感じるのは、無理からぬ事だった。

 「別にインターンなんてしなくとも、魔法が使えなくても出来る仕事なら就職できますよ」
その手の職種の求人がこの学園に来る事は期待できないが、世の中には魔法が使えない人も大勢生きている。そう助言しつつ、アズールは本気でモストロ・ラウンジ二号店を検討していた。卒業後はカフェから高級志向のリストランテにしてチェーン展開させても良い。顧客を学生の内から囲うのだと考えれば、卒業後も学園にモストロ・ラウンジを維持しておくもの悪くはない。
「先生も同じ事をおっしゃいました。私も、今みたいに魔法が使えなくても出来る仕事をしようと思っています」
一通り掃き終えたらしい監督生が、モップを専用バケツに突っ込んだ。壁面水槽から差し込む青い光が、彼女の頬を淡く照らしていた。
「ただ、グリムの夢って大魔法士になる事らしいんです。だからインターンはしておきたいみたいで」
モップを洗う音に混じって、アズールが予測しなかった事情が聞かされた。
「グリムさんのインターン?」
アズールは、魔法を使えない彼女に代わって魔法を使っている猫じみたモンスターの所業を思い出した。具体的には、彼がモストロ・ラウンジで雇用された時に割った皿の枚数を数えるなどした。そもそも、大魔法士とは魔法士の優秀さを讃える呼称であって職業ではないのだが。ヒーローになりたいと将来の夢を語る子供のような漠然とした進路に、アズールは平べったい目をした。
「勿論、私も付いていきますけど」
「それでも厳しいかと」
アズールは即答した。

 あの怠惰の王レオナ・キングスカラーも、対人恐怖症めいた挙動不審者イデア・シュラウドも、気分屋フロイド・リーチも、そこそこの時間で受け入れ先を見つけることができた。けれど、怠惰で気分屋で天才でもなければ名家の血も引かないモンスターは無理だ。
 勿論、彼女達が一年の時を知っている者の視線で言えば、二年次になってグリムも少しばかり落ち着いてきたと認めなくてはならない。もしかしたら、極力皿を割らずに洗い物が出来るようになったかもしれない。しかし、それでも魔法士として生きるのは無理だ。
 恐らく教授達も、今のアズールと同じ反応をしただろう。

 グリムは彼女を子分と呼ぶが、周囲からの認識は珍獣と猛獣使いの間柄に見えていた。つまり、飼い主の役割をする彼女がグリムの面倒を見ながら生きていくだろうという予想に、誰も疑問を抱かなかったのである。
「僕はてっきり、卒業後もあなたとグリムさんは一緒に暮らしていく気だとばかり思っていました」
紙幣を数え終えたアズールは、今日の売上金を封筒に入れた。マジカルペンを振って、壁面水槽の硝子面を洗浄し、曇りを取った。二振り目で、窓という窓を磨き上げた状態にする。
「ペットじゃないんですから。グリムは友達ですよ」
周囲が思うより監督生とグリムの関係は対等に近く、自立したものでありたいと望んでいるようであった。
「グリムは良い相棒だし、お互いがとっても大切だけど、どっちかの人生にずっとくっついていくのって健全じゃないでしょう」
友達ってそういうものでしょう。離れていても友達だし、一方の為に一方の人生が損なわれて良い筈が無い。
「それに私だって、いつまでこの世界に居るか分からないのに」
だから互いが最良の形で自立していける手段を探したいのだと、監督生は明かした。マジカルペンを振るアズールの手が止まる。 
 ラウンジで働き詰めなのは卒業後もこの世界で生きていく為の資金を気にしているからではないのか。魔法力も皆無でエレメンタリースクール以下の知識から、どうにか同年代のレベルまで這い上がろうとしていた努力は、一体何の為のものなのか。プロポーズ願望を育てる相手すらいるくせに? 終身雇用を打診してきたくせに?
 アズールの美しい銀髪を生やす頭の内側で、疑問符が異常繁殖した。
「まだ向こうの世界に帰るつもりだったんですか」
アズール自身が想定していたより、うんと響く声が出た。ラウンジがふと静まって、アズールは自身が声量を間違えた事に気付いた。
 また厨房でソフトクリームマシンが犠牲になった。あの一年生はいずれ指導をいれてやらねばなるまい。

 アズールは気まずそうに咳払いを一つした。アズールが支配人としてこの場にいなければ、居合わせた寮生達は閉店作業をやめて一斉に彼女を取り囲んで質問責めにしただろう。
 しかし、アズールは自身の動揺を正当であるとも感じていた。
「というか、学園長は未だに本気であなたが帰る方法を探し続けてくれているんですか」
いつも忙しいだの何だのと煙に撒いているではないか、とアズール。監督生の帰る手段が見付からない事は、誰もが暗黙の内に了解しているものだった。学園の雑用に借り出すには監督生の立場は余りに都合が良いので、そもそも学園長は最初から真面目に帰路を探した事などないのではと怪しんでいた者すらいた。
 少々の沈黙を経て、監督生は気まずそうに弁明する。
「いえ……別に帰れる保障もないんですけど、此処に留まれる保障も無いじゃないですか」
此方に来た時も突然だった訳ですし、と彼女はラウンド型に切り揃えられた爪で頬を掻いた。ささくれ立った指をしていた。仕事の片手間にする雑談にしては、重い相談である。
「だから私の事情に理解のある人に雇用してほしい訳なんです。ほら、支配人も私がこの世界に来た時の唐突さを覚えていらっしゃるでしょう?」
そういえばグリムを捕まえてくれたのも支配人でしたね、と懐かしげに眼が細まる監督生にアズールは何と答えて良いか分からなかった。

 しかしこれで、グリムの進路に真剣に懊悩していた理由に合点がいく。彼女はいつまでもこの世界にとっては異分子で、グリムはこの世界の生き物なのだから、この世界に居る以上は後者の進路を優先するのが筋だというのだ。
 この一つ年下の少女は、随分と不安定な世界に生きている。

 アズールは三振り目のマジカルペンで窓という窓のブラインドを降ろし、監督生に向き直った。
「確かインターンの受け入れ企業の中に、僕のコネクションで入れそうな企業がありましたよ」
監督生の顔がぱっと明るくなる。しかし用心深さも培ってはいたようで、すぐに冷静な顔付きに戻った。誰かが草食動物と称した黒目がちな眼が、アズールを映していた。
「でもお高いんでしょう?」
深夜帯の通販番組のような軽口で溢れる期待を留める。逼迫とは遠い声。取引は欲しいものがある方が不利というが、金も地位も魔法も無い彼女は取引のし甲斐も無い。そうやって、邪な欲望と悪徳契約の蔓延るラウンジを、人畜無害なまま適応してきた。それは傍目には痛快に見えなくもないが、商人には扱い難い。
「従業員価格でいきましょう」
使い勝手の良い従業員への投資だと思う事にして、アズールは行き場の無い異世界人とへの同情心を慈悲と言い替える事にした。
「明後日の新人スタッフの研修に監督役として加わること、今週の土日もシフトに入ること。二週間後の火曜、新商品の試食会をしますので、あなたも新商品のコンペに加わること」
何もアズールは専門的な知識がある訳でもない監督生がたった二週間で素晴らしいものを仕上げるとは思ってはいない。だが、今後も彼女を起用していくならば、新商品の企画手続きを覚えさせるのは両者にとって損ではない。
「試食会ですが、分からない事があればジェイドに聞きなさい。必要な食材の仕入れなど、必要な事は大抵知っていますから」
準備期間の短さに渋い表情を見せた監督生だったが、腹を決めるのは早かった。
「支配人は契約を違えないので心強いです」
インチキじみた条件を吹っかけた事も、契約を破らせようと工作した事もあった筈だが。監督生がオクタヴィネルに順応したのか、アズールが温くなったのかは、当人には区別の付かない事だった。

 ただ、アズールは、自身が思うよりずっとこの従業員を気に入っていた。


 来たる火曜。モストロ・ラウンジを平常時より少し早く閉めた夜、試食会と称した新商品のコンペディションが行われた。
 ある程度モストロ・ラウンジの経営の根幹に関わる従業員は、新商品を考案する役を負っていた。今回の企画担当者は急遽参加させた監督生も含めて五人。しかし、ハードルとなるアズールの精密な舌と利益追求に余念の無い経営理念は、簡単に通過できるものではない。コンペディションに参画した従業員達は青褪める程に緊張をしていた。あのマイペースが服を着ているようなフロイドでさえも。

 一皿目。ラウンジの上座に座るアズールの前に、フロイドが皿を差し出す。
 陶製の皿の上に盛られたのは、ラビオリだった。緑のソースのかかった平たい生成色の紡錘形に、胡桃が散りばめられている。青黴を有したチーズとバジルソースの匂いが強い。
「いつもこんな事をやっているんですね」
今回が初参加である監督生が、横に控えたジェイドに小声で尋ねた。
「その場に留まる為には全力で走り続けなければならないのです」
ジェイドが、まるでハーツラビュル生のように慇懃に答えてる。だがアズールも支持する事実だった。現状の売上を維持し続けるには、常に改良と開拓を怠ってはならない。

 アズールは無言のままカトラリーを手にすると、紡錘形をほんの一口分だけ口に運んだ。洋梨の風味が鼻に抜ける。滑らかなパスタ生地と柔い洋梨とチーズの食感の中で、胡桃の硬さと香ばしさがアクセントになっている。
「輝石の国の岩塩、薔薇の王国のオーロラ梨、チーズと小麦はドワーフ平原産……チーズはドルチェではなく古典的なピッカンテにしなさい。青黴の辛味がもう少し強い方がバランスが取れます」
フロイドはいつもの笑みを引っ込めて、従業員の一人として折り目正しく頷いた。
「どんな舌してるの」
緊張で不整脈気味の監督生が、怯えた様子で小さく嘆く。従業員からは、共感の溜息しか出ない。
「胡桃ももう少しローストして香ばしく。その代わり原価の低いドワーフ産を使えばいい。改善点は多いですが、味を調えれば店に出せる代物です。また一週間後に試験的に提供を開始します。頼みましたよフロイド」
フロイドがほっとした様子を見せ、いつもの力の抜けた表情に戻る。

 二皿目は、子羊のドルネケバブサンド。死刑囚のような顔をしたオクタヴィネル三年生が拵えてきた。アズールはまた、栗鼠の餌のような量を摂食して、感想を述べる。
「アイデース高原産の子羊を炭火焼きに? あなた鼻炎でしたか?」
「いいえ」
アズールの鼻と舌が、ガーリックとパプリカ、チリペッパー、クミン、バジルの香辛料のバランスの悪さを訴える。
「子羊の臭みが強いのに、こんなに優しい香辛料でどうするんです?」
匂いの強い肉や香辛料はただでさえポムフィオーレやサバナクローには好かれない傾向にあるのに、中途半端なスパイスでは想定する客層にも届かない。長所を殺し合ってどっちつかずの臭みが残る料理になっているとアズールが指摘すれば、死刑囚の顔が盛大に歪んだ。いつもの事だった。

 三皿目は、パストラミビーフのラズベリーソース仕立て。林檎チップで燻製された赤身肉に、粗挽き胡椒、ニンニク、コリアンダー、パプリカ、クミンが塗され、マスタードが載せられていた。フルーティな香りが華やかではある。アズールは一通り原産地と香辛料やソースの調合を言い当て、味を褒めつつも修正案を出した。しかし結論は不採用。
「盛り付けに凝り過ぎです。オーダーの飛び交う厨房じゃ作れない。客の回転率を下げてしまう。サンドにするにも、これではパンと合わない」
 四皿目は、三途鴨のコンフィと晩白柚ソース。フォアグラのソテーとクマラ芋を使ったヴィシソワーズも付いている。コンフィはしっとりした内部と、パリッとした皮の食感という基本を押さえてあった。白ワインの香りが華やかで、ナツメグやセージ、ローズマリーが肉の臭みを消していた。
「原価を考えなさいと言ったでしょう」
アズールの指摘に「ヴィシソワーズを外します」と宣言した従業員だが、コンフィとソースの時点で学生の価格ではないと一蹴された。

 そして五皿目が、監督生の番だった。ツナのサイコロステーキ、バルサミコ酢とオレンジのソース仕立て。優しい暖色で纏められた中にレッドペッパーの鮮やかな赤が散らばっている。盛り付けや色彩に関しては文句の付けようが無い。
「素晴らしい。家庭料理ならば」
制作に付き合ったジェイドが、盛大に舌打ちした。監督生もアラバスターのように蒼白だった顔を歪め、下唇を噛んで悔しさを堪えていた。アズールとしては、コンペディション初参加の彼女にこれといって期待してはいなかったのだが、彼女は経験者達に肩を並べるつもりで作ってきたらしい。
「これ以上の講評は控えます」
そもそも鮪は癖の強い魚であるために素人には扱いのだ。だが彼女がこの魚を選んだのはツナ好きの同居人の影響であろうとも察したアズールは、どこから批評すべきか迷って、結局口を閉ざした。これで一通りの講評は終わる。
「逆に傷付きます、支配人」
監督生が悲鳴じみた、しかしか細い声で嘆いた。その絶望が篭った声に、フロイドが身体をくの字に折って笑い出す。
「いい嫁になれるってさぁ、小エビちゃん」
フロイドが監督生の背を叩きながら、悪意ある解釈を吹聴する。それに乗じて、彼女に散散頼られたであろうジェイドは、胡散臭い愛想笑いのまま中指を立てた。他の従業員達も、アズールに文句を付けるタイミングを逃さない。
「パワハラじゃねーか」
「いやセクハラだわ」
扱き下ろされた鬱憤も相俟って、従業員達から野次が飛ぶ。品が無いのはいつもの事だ。監督生だけが、恥辱に顔を赤らめて俯いていた。
「そんなに駄目出しを聞きたかったんですか?」
言っておきますけどお前たちも最初は家庭料理に毛が生えた部類ですからね、とアズールが応じる。そんなにストイックな批評が欲しかったとは知りませんでした、と煽ったあたりで野次が収まる。その神懸かりな舌がもっと高いレベルから従業員を見下ろしている事を、オクタヴィネル生は知っていたからだ。
「……では、後はいつも通りに」
アズールが席を立って、テーブルから離れる。

 アズールが一口だけ突付いて残した料理を、今度は従業員達が立食形式で試食する。廃棄にもコストがかかるので、残飯は出さない方針である。なお、試食して改善点があると感じた従業員は、皿の縁に付箋を貼って案を共有するルールだった。
 従業員達は、まずフロイドのラビオリに群がる。そして、それが確かに頭抜けて高いクオリティである事を認めて舌打ち交じりに咀嚼する。監督生も、周囲に倣って各料理を一口ずつ啄ばむ。
 ラビオリを咀嚼したフロイドが「確かにドルチェだと味が弱いかも」とフォークを咥えたまま呻く。それを皮切りに「林檎チップとコリアンダーの相性が微妙」だの「臭み消したら羊らしさも消えるだろ」「羊に拘る意味ある?」などと、意見が各所から飛び出していく。発言の自由度が上がると共に、皿の縁に貼られる付箋も増えていく。誰も彼も、監督生から見れば驚くべき知識量であった。
 彼女は自身の無知を恥じた。ジェイドはこの二週間で、食材に関する基礎知識がエレメンタリースクール以下だった監督生の知識をミドルスクール並みに引き上げた。それでも、知らない食材も知らない産地も多く、次第に蚊帳の外になっていく。
「折角付き合っていただいたのに、ごめんなさい。講評の席にも並べないなんて不甲斐無いわ」
闊達に意見を交わす従業員達の輪から一歩引いた監督生は、ジェイドに謝った。ジェイドは恐らく、グリムと彼女の同級のハーツラビュル生達の次くらいには監督生の試作品を食べさせられていた。
「そうお気になさらず。次は蛸料理にしましょう。蛸なら僕もいくらでも試食に付き合えるので」
ジェイドは柔らかい口調のまま、アズールを一瞥して頷いていた。彼のフォークの先には、新たに鴨のコンフィが刺さっている。
「蛸のカルパッチョなんていかがです?」
「オレは蛸焼きがいいなぁ」
フロイドはモストロ・ラウンジのコンセプトを無視して好物を表明した。しかし二秒後には蛸トークにも飽きて、パストラミビーフを口に突っ込んで「クミンは余分じゃね?」と言い出す。
 監督生は苦渋に満ちた顔で、皿に残っていたサイコロステーキを片付けた。


 その日、試食会を解散させた後もアズールは、一人ラウンジのVIPルームに篭っていた。
 一週間後までに調理行程をマニュアル化して、通常の営業中にキッチンのスタッフが無理なく提供できるように仕込まねばならないからだ。一応そこまでをフロイドの仕事としてはいたが、天才故にフロイドはマニュアル化に向かない。どのスタッフも均一のクオリティで作れるよう配慮するのは得意ではないのだ。アズールはそれを見越して、キッチンの動線や調理行程を書き起こす作業をしていた。
 VIPルームの扉を叩く音があり、アズールは顔を上げる。
 規則的に三回されたノックがフロイドでもないことを示していた。音のした位置の高さからして、ジェイドよりうんと背が低い。アズールは逡巡の後、軽くペンを振って扉を開けた。
「オンボロ寮に規則が無くとも、校則ではとうに就寝時刻の筈ですが」
VIPルーム前の廊下には、監督生が立っていた。水槽を通した青白い光が揺らめく中、彼女は特に悪びれる様子も無く会釈した。夜更かしはお互い様ですと唇を吊り上げる。一旦は寮に帰ったらしく、モストロ・ラウンジで給仕する際の服装のままだが、解かれた髪が風呂上りの風情を伝えていた。
「失礼しますね、支配人。大勢の前での酷評を控えてくださった事には感謝します。けど、やっぱり教えていただかなくては気が済まなくて。具体的に、何が必要だったのか」
監督生がVIPルームのソファに腰掛け、膝の上にメモ帳を開く。ペンを持つ手の爪が緊張で白くなっている。桜貝のような爪だが、水仕事を厭わないその指先は皸をカバーしきれてはいなかった。
「相談ならポイントカードの提示を求めますよ」
アズールは紙面に走らせるペンを止て彼女を見遣った。せめて昼にした方が良いのではないかとアズールの中の良識が囁くが、そんな事を言い出すのは却って疚しい気がして最低限の抵抗だけした。この女は、時々というには結構な頻度で妙な度胸を発揮する。あるいは、男友達に囲まれ過ぎて、思春期の男との適切な距離の取り方を忘れてしまったのか。そこまで懸念したアズールだが、彼女にはレオナ・キングスカラーの自室で寝泊りした挙句に騒ぎ倒した前科があった事に気付いて深く考えるのを止めた。嘗て彼女がそうせざるを得ない状況を作ったのがアズール本人であるという事に思考が辿り着くと、死にたくなるからだ。
「従業員としての相談です。従業員価格でお願いします」
アズール・アーシェングロットの下で働く気が有るならば、あのレベルについていかなくてはならない。そう悟っている勤勉な双眸が、切実に訴える。彼女の向上心を鑑みれば、予想できない事もない展開ではあった。ウツボ二匹は他人にものを教えるには奔放過ぎるのだ。あれを宛がったアズールにも責任はある。
「……いいでしょう。あなたの質問を一つ答えるにつき、僕からの質問にも一つ答えてもらいますよ」
彼女は左右対称に整えられている眉をを少し歪ませたが、逡巡の末に承知した。

 「まず、ツナですが、腹シモは止めなさい。表面積の多い焼き方のくせに脂身が多過ぎる。サイコロステーキにしたいなら、使用する部位を見直すことです。そもそもあれは酸味の強い魚ですから、酢は慎重に選びなさい」
ツナはその知名度も相俟って、素人には扱い部類の難い魚である。主題を変えるのも一つの手ではないかと思っていたアズールだったが、双子好みの蛸料理にされるのは癪だったのでツナを前提に助言した。
「では赤身にして、もう少し酢を煮詰めてみるとかはどうです?」
監督生は頷きながらメモを取っていた。使用した食材に関してはそれなりに覚えてきているようで、代案は直ぐに出た。調理のスキルなら学内のカフェでやっていく分に追いついているが、食材やその扱い関しては未だ手探りなのだ。
「二つ目の質問ですね。ステーキにするなら血合いが良いでしょう。酢は熟成させたものを。煮詰めるべきはオレンジのソースだ」
「ありがとうございます。その方針で一旦作ってみます。先輩――ああ、いえ支配人、その際はまた試食してくださいますか」
それは三つ目の質問ですね、とは言わなかった。流石に狭量だと思われると感じたからだ。事前に連絡をくれるなら胃袋を開けておくと約束するくらい、してやっても痛くはない。

 「では次は僕から。卒業後も僕の下で働くと仰いましたが、僕の故郷は海ですよ。深海でもついて来る気はあるんですか」
監督生は一瞬瞠目して、頬を綻ばせた。ジェイドが聞いたらまた聞き様によってはプロポーズだと揶揄するかもしれない。そんな聞き方になってしまった。
「ああ、かのアズール・アーシェングロット支配人が契約内容を確認してくださるなんて、何だか天変地異の前触れみたい」
「茶化すな」
はやり監督生はモストロ・ラウンジに馴染み過ぎた、とアズールは眼鏡をずらして眉間を揉んだ。
「ごめんなさい。支配人の野心が海だけで納まるなんて、私ちっとも思ってなかったって気付いたら、笑えてきちゃって」
アズールは、嘗て彼女が自身を稀代の努力家と称した事を思い出した。他人から奪った才能を抜きにして、血の滲む努力を重ねに重ねて形成されたアズール自身を敬っている。だから彼女はアズールの栄光を疑わない。
「まあそうでしょう、僕は陸だろうが腕を伸ばします。今のは労働意欲を確認しただけですとも」
拝金主義と利己主義で構成されたアズールには、その尊敬と信頼の眼差しがやけに眩しかった。海中の喫茶店に馴染もうが、彼女の本質は日の光の届かぬ深海ではないと思い知る。覗いていると気恥ずかしくなる、日向を歩く陸の生き物の眼だった。
 いや、ただ陸の生き物というのは余りに雑な括りだ。彼女は麗らかな土地の生き物だ。飢える荒野でも、過酷な熱砂の土地でもない、この弱い生き物が毒を持たずに生きていける土地――異世界の人。

 アズールは、彼女に自身の故郷が海だなどと確認したのが急に馬鹿らしくなった。
 そもそも彼女にとっては、この世界の陸も海も慣れ親しんだ世界ではないのだ。
「……もし、元の世界に帰る術が見付かったとしても、あなたは僕の下で働くんですか」
アズールは、自身が中々に残酷な質問をしている事に気付いていた。監督生は膝の上で自身の手を握り締めていた。彼女が緊張した面持ちで、唇を薄く開く。

 彼女の呼気が声帯を振動させる直前、VIPルームに盛大に金属を打ち鳴らす轟音が響いた。

 短く引き攣った悲鳴をあげた監督生が、ソファから転げ落ちる。
 アズールも、眼鏡が鼻の先端までずり落ちた。

 VIPルームに、ハイハットシンバルを携えたターコイズブルーの髪の男が乱入する。垂れた瞼に金の右眼、フロイドだ。
 ハイハットシンバルは、店でたまに演奏するドラムセットの一部分である。アズールと監督生の視線を受け、フロイドはもう一度シンバルを鳴らした。煩いとアズールが怒鳴る前に、もう一人のターコイズブルーがトランペットを吹きながら突入してくる。トランペットはモストロ・ラウンジの備品ではない。恐らく、音楽室から拝借したものだ。
 ジェイドは監督生に向かって微笑んで、人魚特有の洒落にならない肺活量でトランペットを吹き鳴らした。珊瑚の海では祝い事の定番曲であったが、強弱記号を無視した狂気的なフォルティッシモが耳に痛い。それに合わせて、フロイドが滅茶苦茶なタップダンスを披露する。深夜である。
 どうしてこのタイミングで、と混乱を極めたアズールだが、彼の不自然に冷静さを残した部分が、表玄関の二重ロックを解けるのは自身を除いてジェイドだけなのだから疑問に思うまでも無いなと思考を切り捨てた。現実逃避である。

 ジェイドが演奏終える。
ポーズを決めたフロイドが「どう?」と余りに短い言葉で感想を求めた。監督生は縺れた舌でヒァとかフェとか不明瞭極まる声を漏らすだけで、意思疎通が困難だった。アズールはといえば、驚愕と怒り以外から感想を見つけられずにいた。もう少しで墨を吐く所だった。こめかみに青筋を浮かべながら、アズールは抗議の言葉を探す。
「プロポーズ、成功なさいましたか?」
トランペットを小脇に抱えたジェイドは、フロイドの言葉不足を補うように成果を尋ねた。フラッシュモブだ、といつかの会話がアズールの脳内に甦った。こんな、嫌がらせでしかないタイミングで。
 監督生は床に尻を付けたまま震えていた。青褪めた顔で。沸騰を知らせる薬缶のように。
「ひどい――ひどい――なんて酷い!」

 監督生が悲壮な声で叫んだ。
「私、まだそんなつもりなかったのよ! まだ、爪だって塗ってないし、制服だし! もう脚が浮腫んでる時間なのに! 全然……全然ちゃんとしてないのに……」
「エッ、ごめ〜ん、髪下ろしてるから今オッケーだと思って」
ジェイドはムッシュー・計画犯と呼ばれるに相応しい顔で笑っていた。アズールだけが、会話についていけない。
 正確には、アズールの優秀な記憶力は監督生の浮かれた恋の話を覚えていた。その記憶を参照した上で、彼女が今ここで怒っている内容について納得するのに抵抗があった。

 座り込んだままの監督生の首根を掴んだフロイドが、彼女を腕力で起立させた。
「ゴメンって。でも小エビちゃん、どうせ放っといたら進展しないっしょ」
フロイドは雑にマジカルペンを振って、監督生の指に色を付けた。その紫がかったシルバーは、アズールの髪と同じ色だった。
「もうね、コッチは聞き飽きてんの。小エビちゃんの偉大なるアズール支配人トークは。いい加減さぁ、アズールのクソみたいな話とか、別れ話とか聞きたくなってきてるワケ」
「おやおや気が早いですよ、フロイド」
「じゃあ何? ジェイドは、今日のアズール支配人も素敵でした〜みたいな話まだ聞いてられんの? いい加減ウザくない?」
フロイドの裏声による物真似にアズールが眼を剥く。あまりに夢見がちな横顔を見せられ過ぎて、フロイドはいい加減に飽きていた。

 先程まで叫んでいた監督生は、フロイドの言葉を否定できず、ウゥとかアワワとかしか言わない仕様に戻っていた。
 その哀れな小エビを、フロイドがアズールの正面に突き飛ばす。未だ濃く残っているシャンプーの香りが、アズールの鼻腔を擽った。眼前で揺れる髪は柔らかそうだった。
 監督生は自棄っ鉢なまでに素早くキレのある仕草で、立礼した。
「お、お慕いしております」
角度はおよそ直角、接客マニュアルにすら使ったことのない最敬礼である。
「答えなくて大丈夫です。お慕いしています。それだけです」
これ日和ったパターンだ、とフロイドが白けた顔をした。
「せ、先ぱ、支配人の下でお役に立てれば良かったんです。お傍だとか、隣だとかじゃなくていいんです。私がこの世界で生きていた事が、支配人の業績の一部になるなら幸せなんです。もしも、もしも叶えて下さるなら、声だって脚だって要らないんです」
取引は、欲しいものがある方が不利なのだ。欲しいばかりで、客観的な価値も見失って、明らかな損を自ら被ってくる。奪う立場の者に捧げさせてくれと強請る。倒錯した光景だった。
 一方の為に一方の人生が損なわれて良い筈が無いと友情を語った彼女が、恋慕の前に全面降伏で人生を差し出している。もっと賢く図太いと思っていた女が、こんなにも愚かで惨めに震えている。
 金も地位も魔法も無い彼女は、その身体すら取引のテーブルに載せて、俎板の上の鯉より従順に頭を垂れていた。彼女はモストロ・ラウンジに馴染んだのではなく、オクタヴィネルに毒されたのでもなく、アズール・アーシェングロットに傅く為に適応したのだ。勤勉も誠実も従順も努力も、全ては彼の為に。

 合理的ではない。等価ではない。商人には最も理解の及ばない事だった。
 アズールは、彼女の取引に対する答え方を知らない。

 勘定が合わない取引に、アズールは暫し呆けていた。
「額面通り使ってやれば良いじゃないですか。偉大なるアズール支配人」
白けた顔で、ジェイドが口を出した。「何たって、合理性を欠いているのはお互い様でしょう」本当にその女が取引材料を持っていないと思っていたのかと、虹彩異色症の双眸が嗤う。トラブルの火種にならぬようシフト調整してやっていたのはアズールだ。思春期の男子が通う学園で唯一の女生徒で、身寄りも無い都合の良い存在なのに、その身を取引の材料と見做さなかった。取引する事で彼女を損ないたくなかったのだろう、とジェイドが囁く。
「客寄せパンダとして雇ったのに、人件費を払ってまで清掃や厨房までやらせる必要はありましたか? ペンの一振りで壁面水槽を磨き上げるあなたが、わざわざ人力でフロアにモップをかけさせていたのは? 補習に時間を割かせたくないだけなら虎の巻でも渡して一夜漬けでもさせれば良かったのに、どうして彼女自身に知恵を付けさせたがったんです?」
ねえ、と困ってもいないのに困った顔をした男が、尖った歯を見せた。
「それこそ合理性に欠ける」
その損失に気付かないあなたではないでしょうに。

 アズールは、利益を生まない慈悲の価値を認めない。愛だの正義だのの意味が分からない。
 けれど、執着は分かる。
 傍に置きたかったのだ。金を払いたかった。知恵をつけてやりたかった。飢えないように、明日の心配をしないで眠れるように、騙されないように。
 不安定に世界にしがみ付いている彼女を、確かなものにしたかった。

 「もし、元の世界に帰る術が見付かったとしても、先輩が許すなら私はあなたの下で働きます。たとえ、海の中だって」

 フロイドがシンバルを鳴らした。
 二度目の騒音に、オクタヴィネル寮中からラウンジへと苦情が殺到する。轟々たる非難の声を、ジェイドのトランペットの爆音が容赦無く掻き消していった。



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