さよなら災厄、またきて至悪5

 エースのスマホを経由して事態を知ったトレインは、直ぐにオンボロ寮にやってきた。
 トレインに事態の顛末を話したのはレオナで、彼はトレインが探索に出た一年生達と合流した時点で自身の出方を粗方決めていたようであった。
「流石に獣人で治政に関わってる俺が黙すべき邪教の話をする訳にはいかねえが、匿名の誰かが話しても不信感を煽るだけだ。その点、歴史教師は適任だ」

 レオナは、監督生を正気に戻す為に「監督生の自我が猿の王に囚われていると解釈し直した上で、監督生の自我を連れ帰る」というシナリオを用意していた。
 勿論その状況を可能にするには、猿の王やその周辺に対する認知度を上げて猿の王の存在を強める必要もあったが、その点、多数の多感な魔法士が目にする掲示板はイマジネーションを集積させるには適した場であった。レオナとイデアが閲覧者の思想を誘導できるよう証拠品を作り、フロイドが家探しの最中にそれを見つけた体でネットの海に流す。その作業は、トレインと事情を知る面子による匿名の書き込みによって話を膨らませ、狙い通りに閲覧数を稼いでいった。

 無論、精巧な韻律による古代語の詩も彼等による捏造である。
 イデアが「話題を展開できるように多少の矛盾点を作るべき」として媒体の紙質や詩の形式を指定し、アズールが「自分で発見した情報こそ人の頭に残る」と具体的な地名を詩から削除するなどと提案し、レオナが古代語の韻律を確かめながら僅か数分で拵えたのだ。それを手が空いている者達が、IDを変え寮を変えて不特定多数に見せた匿名の書き込みでスレッドを賑やかし、リリアもトレインの証言を裏付ける知識人の顔をして話題の信憑性を嵩増しさせていく。
 時に話題を誘導し、猿の王の正体や遺跡のあった森などを、閲覧者があたかも集合知によって辿り着いた真実であると錯覚するように展開させる。
 輪郭の曖昧だった怪異を、形と由緒の分かるものに当てはめて、人が触れる次元のものへと昇華させていく。
『レオナ氏、獣人属がヒト属の少年を二ケ月間監禁してた事件見つかましたぞ』
「リリアさん、摩崖の谷の失踪事件について猿の王と関連付けた解釈を付けましたのでご確認下さい」
イデアが各国のデータベースから必要な要素を含む事件を探し、手の空いたものが投稿する為の体裁を整えて投稿する。その絵面は完全に劇場型犯罪グループの事務所か工房といった風情であったが、協調性など無いと称される彼等には珍しい程に良くできたチームプレーだった。


 ラギーが尊属に邪教の影響を受けた者がいる寮生のふりをして書き込んでいる途中、別室で作業していたルークが顔を出した。
 キャンバスを手にしたルークが部屋に入ってくると、むっと絵の具の匂いが立ち込める。
「できたよ。獅子の君、最終チェックをしておくれ」
ルークは、件の風景画風の宗教画に猿の王と囚われたヒト属の子の姿を加筆し、スレッドに新たな邪教の宗教画として掲載する為の絵を作っていたのだ。その出来栄えを問う彼は、飄々とした日頃の振る舞いからすれば珍しく、傍目から見ても緊張が伺える表情をしていた。未だ、絵筆を握っていた時の過集中から抜け出せずにいるのだ。技術力を要する上に、時間とも戦わねばならない作業の連続だったのだ。無理も無い。ルークの横顔の鋭さは張り詰めた弓の弦に似て、恐ろしく精悍だった。
 彼は今まで集中力を維持する為にと自ら一人で別室に籠って絵を製作していたが、この様子では早かれ遅かれ部屋の外に蹴り出されていたに違いない。絵筆を取ったルークは、矢を番えている際とは別種の緊張感を纏い、対峙した者を怯ませる爛々とした眼をしていた。作業に没頭していた時の過集中から抜け出せていないのだ。気配を消す必要が無い所為だろうか、殺気にも似た緊迫感は騒々しい程だった。
「流石じゃルーク。期待以上じゃ」
キャンバスを覗き込んだレオナとリリアが出来栄えに頷けば、ルークが肩を撫で下ろした。漸くルークの頬が緩んで、微笑らしい微笑上が戻った。
「それは良かった。私が見た猿の王に人相や表情も最大限近づけたという自信があるよ」
「ああ。一目見れば背筋がゾっとする。てめえの言う、ヒトに成り損ねた獣そのものだ」
レオナは意地悪く笑えど、決してルークの自画自賛を腐さなかった。その態度を見るに、実際の宗教画等で見られた猿の王の特徴を正確に捉えているの事には大いに成功しているのだろう。オクタヴィネルの三人とラギーも、作業の手を止めて猿の王を確認しに行った。

 今まで猿の王のイメージといえば、ルークが紫一色で描いたペン画と監督生の盗撮写真に写り込んだ薄ぼんやりしたイメージしかなかったが、これで鮮明な猿の王の姿が魔法士達に共有される事になる。
 巨大な猿の王は、現代の都市で生きる獣人とは異なり、四肢は毛深く姿勢も獣の特色が強い。何より、深い葡萄色の瞳にはヒトへの畏れと焦り、そして羨望を湛えているのがありありと描かれていた。
 トレインすら、猿の王の容貌に息を確認した際は一瞬呼吸を詰めた。塗り込められた禍々しさに、皮膚が粟立つのだ。鼻を刺すのは絵の具に含まれる有機溶剤の臭いだと分かっているのに、血腥い気配が見る者の脳を犯す。

 特筆すべきは、彼やカリムが嘗て目にした「赤い花を貪る猿の王」とは決定的に異なる部分を意図的に作った点だ。
 猿の王に捕らえられたヒトがまだ死んだ様子ではない事と、そのヒト属の外見的特徴を監督生に似せている事だ。

 監督生の無事も共有するイメージに含めようという魂胆であり、描かれたシーンはそのまま監督生の魂が捕えられている場の情景になる。謂わば、類感呪術の系譜である。
 過去にカリムを呪った者がヒトに似せた形の物を毒に付けることでカリムの心身に影響を及ぼしたように、象る事はイマジネーションに確かな形を与え、現実に干渉する力を強めるのだ。

 レオナの指が、絵のマチエールを確かめるようになぞっていった。
 画材は監督生が美術の授業の為に買い揃えた安価なアクリル絵の具と僅かな油絵具のみであったが、ルークの類稀な画力と技術力によって元々の風景画に馴染むタッチや陰影が付けられ、見事な一体化を果たしている。魔法で加筆部分の酸化と乾燥を見事に速めてあるので、絵の具の質感によって上描きした部分と元から描いてあった部分の見分けを付ける事も困難だ。写真越しなら、風景画風の絵とは別の、猿の王ごと描かれた宗教画が見つかったように見えるだろう。
「上出来だ。だが、この絵を公開するのは最後にする。猿の王の信者共がヒト属を攫っていた証言を増やしてからだ。草食動物が猿の王の森に居ると信じさせられる程度に話を深めてえ」
絵が問題なく完成した事に深く息を吐いたルークは、作業で凝り固まった背筋を伸ばした。
「ウィ。では私も、書き込み作業に参加しよう」
腕を軽く回した後、ルークは自身のスマホを取り出して、新たな作業に取り掛かろうとした。


 爆発の音がしたのは、その矢先であった。
 レオナとラギーが火薬の燃焼する臭いを悟って顔を見合わせる。スレッドにも、本校舎に居る一年生達が爆発音を認めた書き込みがされていた。外でオンボロ寮に人避けの魔法を敷いていたマレウスが、窓から顔を出して報告する。
「人の子が星見台から花火を打ち上げた」

 唐突な内容にルークが思わずといった風情で聞き返し、フロイドが窓から上半身を乗り出して空を確認する。星の見えない夜だった。
 賢者の島で最も標高の高い土地に位置するナイトレイブンカレッジの本校舎の、更に天辺にあるのが星見台だ。オンボロ寮と本校舎は地図上の直線距離では近いが、星見台との圧倒的な高低差では声も届かない。星見台で監督生が如何にして花火を打ち上げたかも伺えない。墨を流したような夜闇に覆われた屋上で正気ではない女が一人でいる事実が、少年たちの焦燥を煽った。
「人の想念が作り出した呪いの干渉ごとき、僕なら無視して彼女を回収に行けるが」
マレウスの提案に、レオナは盛大な舌打ちで返事をした。レオナの作戦はマレウスの莫大な魔力を前提としているが、日頃からの態度の悪さはこんな時でも変わらないらしい。
「お主は諸々を無視できるじゃろうが、多くの者にとってはそうではない。根本的な解決を優先させる時じゃ」

 リリアがマレウスを諭したのと同時に、二発目の花火が打ち上る。
 窓から身を乗り出していたフロイドは、白銀を散らして空に花開く光を見た。
 スレッドにも、二ヶ所から撮影された白色の花火の画像が投稿されていた。尾を垂直に伸ばし、安定した正円の花を開くそれは、明らかに素人の工作ではない。掲示板に集った生徒達もそれに気づいて、花火の出所について予測が書き込まれていく。
「ちとまずい傾向じゃ。どんどん話題が逸れていきおる」
所在が分かってしまった上に所持している火薬が花火に代わっていると分かった今、緊張感が欠けた為に面白半分で寄ってくる野次馬が出かねないとリリアが憂う。

 しかし彼らが何より危惧したのは、折角掲示板を使って恣意的に育んだ邪教への認識に余計な情報が混じったり、意識そのものが薄れていったりすることだった。


 三発目の花火が、青い光を散らして打ち上がる。
『ダーッ!? 偵察用に放ったドローンが問題児共を発見! 箒で星見台に行こうとしている模様!! オルト、追い払って安全確保!』
火薬だらけの所に耳燃えてる猫たん連れてくとかバカなのか!?? と早口で叫んだイデアは、ブレットにドローンが捉えた問題児達が表示の様子を表示した。箒に跨っているのは、ハーツラビュルの二人とグリムだけではなく、エペルとジャックまで合流していた。鏡舎から最高速度で飛んで来たオルトが彼等の進路を塞ぎにいく様子も映った。オルトの方が一年生達よりも明らかに飛行速度及び空中戦の性能が優れていたが、多勢に無勢の上に学友にビームを打つ訳にもいかず、苦戦を強いられているようだった。泥沼である。

 これ以上冗長にしていられるの猶予は無いと判断したレオナが、最終段階に入ると宣言した。
「……最後の絵を公開する」
二年生達はその強引さに些かの戸惑いを見せたが、混沌と化した現場を見れば反論の言葉は掻き消えた。まだ万全とは言い難いが、好機は遠ざかるばかりに違いない。三年生達とトレインは、とうに腹を括った顔をしていた。その中でもマレウスは、いつにも況して平静だった。
「構わない。この為に僕が居る」

 マレウスがルークの絵に手を翳したのを合図に、皆がスマホを取った。
 スレッドに森の光景や猿の王を思い起こすよう言葉を連ねつつ、彼等も脳裏の共通のイメージを展開させていく。


 猿の王の巨躯。毛深い四肢。とうに絶滅したギガントピテクスの遺伝子を有する獣人の相貌。
 ヒトに成り損ねた獣の瞳が湛える、ヒトへの畏れと焦り。そして羨望。子供を攫う猿の王。草に侵食された白い古代遺跡。猿の王に拐されたヒトの子供の連れていかれる場所。
 獣人が獣と共に森に棲んでいた時代。象の牙が川を作り、川が育んだ肥沃な土地が獣を生かしていたと言われる、掟の密林。
 自生する巨大なボダイジュ。その深い緑の葉。虎目石の色をしたキヌガサタケの大きさ。木々の間から漏れる熱帯の太陽光と、その温度と湿度。ジャボチカバの紫の実の、丸さとその連なり。ベンジャミンの幹に付けられた熊の爪跡と、その深さと熊の躯体。象の足跡の形の禿げを残すコケ。湿った土の感触。
 赤い花を探して樹々を渡る猿。攫われるヒトの子供。きっとそこに、彼女も居る。そう信じるべき場所。魔力を伴うイマジネーションを以て繋がる、この世ならざる不確かながらも在り得る場所。
 

 ルークが絵をオンボロ寮に取り付けられていた姿見の正面に置き、鏡面に掟の密林を映した。
 マレウスが鏡に手を翳したのを合図に、皆はスマホを取ってスレッドを扇動し、イマジネーションを中継する。

 マレウスの指先から、黄緑色の火花が散った。
 鏡に映り込んだ絵が、水面のように揺れ始める。
 スフマートの空気遠近法で表されていた筈の平面が、本物の遠近を得て、鏡の中に途方も無い奥行きを作っていく。魔法士の脳味噌に植え付けられた架空の密林が、絵を介して現世と接続されたのだ。鏡舎の鏡から各寮が見える時のように、オンボロ寮の姿身もまた、地図にない場所へ繋がる間口となったのである。

 鏡から湿った風が吹き込んで、森の匂いが少年達の鼻腔を擽った。
「ホント、規格外ッスね……」
ハロウィーンの夜にマレウスが闇の鏡をゴーストの世界と繋げたのは聞き及んでいたラギーだが、実際に目の前で空間を接続されるのは鮮明な衝撃があった。
 それも、今回はハロウィーンの時より更に厳しい条件での接続である。成功への安堵より先に、術者への畏怖が先立った。何せ、ゴーストの世界とつないだ時は、その世界の実態を知るゴースト達の力と闇の鏡という強力な魔導具があったが、今回は薄ぺらな伝聞でしかない信仰とスレッド越しの有象無象で作った認識を土台しかないのだ。子供が砂で作った城を維持する方がまだ簡単だろう。

 鏡面の揺らぎが収まった頃、額を汗で湿らせたマレウスが細い眉を吊り上げた。
「……永遠の島を参考にし過ぎたようだ」
マレウスの指先は、鏡面を叩くばかりで鏡を通過する気配は無かった。しかし、鏡からは森の匂いや生温い熱帯の風が吹き込んできていた。
 トレインとレオナが慎重な所作で鏡面に指先を付けると、二人の指は鏡に受け入れられた。次いで好奇心を隠さないジェイドが鏡に触れるも、彼の手はマレウスと同様に鏡面に阻まれてその先には入れないようだった。ジェイドの残念そうな顔を面白がったフロイドも鏡へと手を伸ばすが、彼もマレウスとジェイドと同様に鏡面に弾かれて終わった。
「掟の密林に妖精や人魚が入る余地は無い、ということでしょうか」
アズールが指先で鏡面をカツカツと叩きながら、考察を口にする。ルークも試そうと指を出すが、鏡から指を抜いたトレインが彼を止めた。
「やめておけ。ヒト属の場合、入れるには入れるが、歓迎はされていないようだ」
「Oh la la……掟の密林に入れるのは、住人足り得る獣と獣人であり、あくまでヒト属は獲物ということかな」
ルークの出した仮定を否定する者はいなかった。本来、異界とは誰もが受け入れられる場所ではないと、皆知っているからだ。例えば、永遠の島に入れるのは無垢な子供と妖精だけであり、大人は辿り着けないか、侵入を果たしても碌な目には遭わない。ゴーストの世界とて、生者が招待されたハロウィーンがイレギュラーなだけで、本来は死んだ者だけが行ける場所だった。曖昧で不安定な場所であるからこそ、異界は関わりある者しか受け入れられないのだ。

 妖精族や人魚も入れるように繋げ直す事もできない事は無いが時間がかかってしまうと、マレウスが思案する。その額は、珍しく汗で湿っていた。
「なに、後は小娘一人連れ帰るだけ。獣人属が二人いりゃ充分だ」
てめえ等は此処で詰めていろ、とマレウスを門番扱いしてレオナは、さっさと鏡を潜っていった。マレウスはレオナの態度を気にした様子も無く「人の子を頼んだ」と言い添えて見送った。犬猿の仲といえど実力者同士、目的を共有した状況下なら話が恐ろしい程さっぱり纏まるらしい。

 勘定に入れられていたラギーも、レオナの背中を追って急ぎ足で鏡に入った。


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 薄い鏡を抜けると、熱帯であった。
 オンボロ寮とはまるで異なる熱気と湿度が、ラギーの頬を撫でていく。多種多様な猿の鳴き声が繁く鼓膜を震わせる。

 鏡は、既に遺跡の中へと繋がっていた。遺跡の描かれた絵を使って繋いだのだから当然といえば当然なのだが、ラギーは碌な装備も無く熱帯の密林を歩かずに済んだ事を密かに安堵した。
「監督生くんを連れ帰るって、具体的にはどうするんスか」
スレッドの通りなら、囚われたヒト属の待遇は決まっている。殺されるか、赤い花を探す獣人側の手先にされるか、ヒトが隠し持ってるとされる赤い花の在りかを尋問されるかの三つだ。尤も、まだ彼女は死んでいなければ、ヒト属すら赤い花の正体に心当たりは無いので、答えようのない尋問にあっていると考えるのは妥当だろう。
「そのままだ。あの草食動物を引っ掴まえて、トカゲ野郎に元の世界に戻させる」
レオナは、ジャケットの内にしまっていた手鏡を取り出した。ゴーストの世界に行く際と同じく、今回も待機している者との通信手段は人見の鏡を使用する。電波の有無に関わらず連絡が取れる上、元の世界へと接続する為の鏡でもあった。ミラーボールの鏡を使って異空間同士から人を移動させることができたマレウスなら、手鏡を通して彼等を呼び戻すのも訳無いことであった。
 しかしこの方法は、人が掟の密林を出入りするだけで、この密林も遺跡も猿の王も何も何も変えられない事を意味していた。つまり、また何処かで赤い花を探し始める者が出る可能性は消えはしないのだ。監督生が再び狂わないとも限らない。
 ラギーの疑念を察したレオナが、苦々しく頷く。
「此処は言ってみりゃ人類史の業だ。古今東西の有象無象が寄り集めた信仰の影を、どう葬ればいい。一度人類滅亡でもして歴史ごと漂白されろってか」
出来ない事に目を向ける前にやれる事をやるべきだと、レオナはとうに割り切っているようであった。恐らくは今後も、猿の王に影響される現れるヒト属は現れるだろう。そして、ラギーの知る彼のように人知れず死んでいく。あるいはスレッドで発覚したような人々のように誰かを巻き込みつつ、しかし誰にもその心を顧みられる事も無く破滅していく。
「まあ、何も変わらねえとまでは言わねえよ。此処にこうして繋げられた事も、若い魔法士達の意識に信仰ではなく胡乱な存在として猿の王が刻まれた事も、てめえが症候群の名前を広めた事も、長い目で見りゃ無駄じゃねえ。対症療法の前例が一つできたとでも思っておけよ」
彼はとうに、ラギーが症候群に勝手に名付けた事を察していたらしい。レオナはさっさと会話を切り上げて、遺跡の中を歩き始めた。


 遺跡は内部まで蔦や苔に侵食されて崩れかけ、窓あるいは狭間があったらしい穴からは木の枝が突き出ていた。遺跡を構築する白かったらしい石材は、薄茶や灰緑に変わっている。殊に壁面は、風化による崩壊のみならず、引っ掻き傷や抉った跡で覆われて凹凸も目立つ。天井からは、砂と虫の死骸が断続的に降ってくる。上階からは、埃と土の臭いに混じって熟れた果実の匂いがした。猿が食料を運び入れているのだ。貯蔵しているのか猿の王への貢物かまでは定かではないが、猿共の根城になっている事だけは確かだろう。
『寄越せ』
『寄越せっ』
『赤い花を寄越せっ』
上階から聞こえる獣とも獣人ともつかない猿叫に意識を向ければ、聞き取れてしまった。遥か古代の森であれば、現代人には通じない筈なのに、姦しい言葉達はラギーの内耳を占拠した。興奮と妄執の声。それも一体や二体ではなく、老いた声から稚い声まで幅広い音域が重なり合って響いてくるから、余計に気味が悪かった。頭を攪拌されるような、嫌な喧噪だ。
『寄越せ』
『寄越せ』
『寄越せ』
『赤い花』
『寄越せ』
『赤い花ッ』

 
 長居していては気がおかしくなる。そう感じたラギーは、上階に登るべく遺跡の窓に足をかけた。
 遺跡に這う蔦を手繰り、魔法で強化を施しつつ形成すれば簡易的な箒の代替品ができた。広い上にまともに構造物が残っているかも怪しい遺跡で階段を探すより、飛んだ方が早いに違いないという判断だった。
「やめとけ」
レオナがラギーのベルトを掴むのと、外壁を登ってきた猿とラギーが眼を合わせたのはほぼ同時だった。

 金の体毛に黒い顔をした猿は、窓から顔を出したラギーに一瞬戸惑った顔をして、直ぐに警戒と威嚇の態度を示した。ラギーの尻尾が、一気に逆立った。
「ラフ・ウィズ・ミー!」
叫ぼうと歯を見せた猿は、ラギーが咄嗟に放った魔法によって口を抑えた。そして、外壁から手を離したことで、猿は真っ逆さまに落ちていった。
 ややラギーが自身の口を抑える動作を解くと、遥か下から猿の悲鳴が聞こえてきた。この時初めて、ラギーは自身の所在地がそこそこに高所にある事を知った。猿か鳥くらいしか大きな動物が至れない場所にあるからそこ、猿の根城になっているのだ。
「外は猿がわんさか居やがる。いちいち黙らせてたらブロットが保たねえぞ。飛ぶのは草食動物を回収してからにしろ」
階段を探すと告げたレオナに、ラギーは漸く肩の力を抜いた。
「そういうの、もっと早く言ってくんないッスかね」
「そら失敬。その立派な耳が飾りだとは思ってなかったんでな」
ラギーの警戒が漫ろになっていたのは上階からの不気味な喧騒に気を取られていた所為だが、敵地に差しを踏み入れた以上わざわざ弁明するのは情けない気がして、ラギーは短い返事以上の言葉は省いた。

 レオナは太陽光が差し込んでいる方とは逆側の、窓の無い壁を一部砂に変え、さっさと歩いて行った。
 その迷いの無さに、ラギーは改めてレオナが民間人が知る由もない事を随分と知っているのだと実感した。彼が掲示板に掲載した情報は、本当に極僅かなのだろう。ラギーはそう思いながら、レオナの背を追った。


 階段は、壁を三つ砂にした先にあった。
 階段に続く通路は、光が全く差し込まず酷く暗かった。その為か、屋内で猿達と遭遇する事は無かった。
 猿は基本的に、外壁を登って直接目的の部屋を訪れているのだろう。彼らが全く使わない所為で、階段の入り口は殆ど壁に紛れていた。絡まった蔦を払い、堆積して粘土じみた硬さになった糞尿を蹴り崩して漸く人が通れるような代物だったのだ。

 階段は、通路から離れて奥へと進む毎に暗さを増していった。
 遂に獣人の中でも夜目が利く方である夜行性動物の遺伝子を受け継ぐ二人の眼を以てしても足元が見えなくなって、レオナが立ち止まった。
 レオナはくぐもった声で短い呪文を唱えると、大きく息を吸って、乳白色の煙を吐いた。闇の中でも白さの分かる煙だ。それは煙草の副流煙のように緩やかに天井へと広がって、発光する雲になった。雲に照らされて、天井の下は本物の曇天の日と変わらぬ明るさになった。光は柔いが、光源はレオナの頭から僅か数十センチ程度しか離れていないというのに、蛍光灯を幾つも配置したような広い範囲を照らす力があった。
「何スか、これ」
ラギーは顔を顰めて、手にしていた箒の絵を握り締めた。
「古代呪文。西サラスヴァティの祈晴師の符丁で、光あれ」
「いや、ソッチじゃなくて」
ラギーに無視された光る雲は、不機嫌にパチパチと音を立てた。空間の照度が露骨に下がって、雲は雨雲のような厚みを以てラギーの周囲に集まり始める。どうやらレオナの出した雲は自律するらしい。平時なら魔法の高度さに舌を巻くであろうラギーだが、今は遺跡の壁面の方が気になっていた。

 ラギーが指差す壁には、連面と絵が彫り込まれていた。暗さ故に植物に覆われず、猿が立ち入らなかった階段は、遺跡が比較的元の形で残っていたのだ。
 洞窟絵画めいた原始的なデフォルメはあるが、黒炭と赤土で丁寧に色が付けられたそれは、建設時の文明の高度さを伺わせる古代のヒト属達の画だった。

 恐らくは、権力者ほど上に、そして大きく描かれる等の法則があるのだろう。階段に沿って上から、玉座に座る支配層、祭祀の様子、河に網を投げる漁民となっていた。これらは細い鼻筋が長く通った、アーモンド型を強調した眼に描かれたヒト属の顔で描かれていた。しかし、ラギー達が上ってきた最下層には、身体的特徴が明らかに異なる者が這っていた。
 それ等は身にまとう衣服すらなく、鞭打たれる様や鎖に繋がれたまま土を耕す場面等が描かれており、奴隷の身分であることは容易に察が付いた。問題は、容姿が不気味かつ不格好に描かれている点だ。例えば、彼等の頭だが角だか長い耳だか分からない鋭角の突起物が生えている上、顔は鼻筋というものは無視されてマズルのように鼻から下が不自然に膨れていた。眼はギョロリと丸く飛び出す程に大きく、突き出た下顎からは左右非対称の牙が覗いている。獣面と言い切るには間の抜けた相貌で、異形と言うには滑稽で、野蛮さと愚鈍さばかりがカリカチュアされている。彼らが徹底した軽侮を以て描かれている事は、美術的な教養に明るくないラギーでも感じ取れる程だった。

 レオナは雲の照度を上げて壁を照らすと、忌々しげに長い尾を揺らした。
 彼の視線の先には、楕円を分割したような車輪じみた象形文字が並んでいる。レオナが捏造した猿の王に纏わる詩に用いられていた文字も散見できたが、やはりラギーに解読できるものではなかった。それよりラギーの眼を引いたのは、文字の下の、ヒト属と思しき男に短刀を首筋に押し付けられた小さな異形の絵であった。どう見ても首を掻き切られて殺される直前の場面だというのに、知恵の足りなそうな相貌は間抜け顔のままだ。松明を持ったヒト属の無機質にすら見える整った左右対称の顔が、死にゆく奴隷を睥睨している。
「この文明では実際の様態に問わず、ヒトは五本指で、害獣は三本指で表される」
レオナはラギーの質問には直接答えず、壁画の見方を教えた。それは革新的なものではなく、直感的な嫌悪を確信に変えさせるだけのものであったが、ラギーにはそれで十分だった。
 異形の奴隷の指は、歪に短く太く露骨に不便そうな形だが、どれも四本に揃えられていた。ヒトには足りず、獣には多い。
「……ヒトに成り損ねた獣ってわけッスか」
嫌な表現だと、ラギーは改めて顔を顰めた。

 壁画を一瞥した時から、もっと言えば猿の王について開示された時から薄々気づいてはいたが、この神殿を建てたヒト属は獣人を随分と虐げていたらしい。
 ヒト未満どころか、家畜以下だ。耕牛の方がまだ良い待遇で飼育されていた事が、絵から十二分に伝わった。

 そして、日の当たる箇所に風化でできたとは思えない引っ掻き傷めいた損傷が多かった理由を合点した。
 恐らくはそこにも、獣人にとって屈辱的な仕打ちを現した壁画が描かれていたのだろう。そして、暗がりで壁画の模様など見えない階段の壁のみ絵が遺されたのだ。

 ラギーは、この森の生き物達は魔法も火も使えないのだという事も確信した。
 先史時代とはいえ、獣人とて道具と火を使う文明を築いてきた。それをできるだけの知能と骨格を有しているのであれば、当然の収斂だろう。しかし、壁画に描かれた獣人達には、火など与えられなかったに違いない。非力なヒト属が膂力自慢の種である獣人を支配するには、暗闇を歩く術を取り上げ、智慧を遠ざけた方が都合が良いのだから。
 ――獣が持たざる赤い花。ヒトのみが持ちたる叡智の赤。
 やはり、赤い花の正体は火なのだろう。
 火をヒト属のみの特権として彼等から遠ざけた結果が生んだ無知と齟齬が、赤い花なのだ。松明を持つヒトの絵は、火という知識を欠いた目で見れば確かに、巨大な赤い花を掲げ持っているようにも見えなくはない。

 魔法があれば火種が無くとも物を燃やし暗闇を照らせるかもしれないが、恐らく魔法が発現した獣人の子は間引かれている。
 そうでなければ、四本指の子を殺すヒト属の様子を、わざわざ後世に残るよう壁に彫り込みはしないだろう。尤も、智慧を摘まれた環境下で萎えたイマジネーションでは、有用な魔法が使えたかは怪しいが。

 とうに滅んだ文明に今なお蔓延る地獄のような価値観の源流を見た気がして、ラギーはうんざりとした気分で壁画を見上げた。

 何が一等嫌かと言えば、分かってしまう事だ。
 このヒト属至上主義の文明に反旗を翻したのなら、この遺跡を奪ってみせた者がいるのなら、獣人の信仰にもなろうと納得してしまうことだ。それも、獣そのものとしてはとうに滅んだ種にして、ヒトなど一捻りであろう怪物のごとき巨躯。追い詰められた者が最後に縋るのは、圧倒的な暴力だ。猿の王の存在は、うってつけだったに違いない。

 そして、後世にこの猿の王の存在を知って祀り上げた獣人達の思想も、決して突飛ではないと腑に落ちてしまえた。ヒト属への失望と怨嗟が、ありふれたものであると実感してしまえた。


 まずい傾向だ、とラギーは壁画から目を反らす。
「記憶と想像の集積なんざ、青史に焼き付いた影みてえなもんだ。此処も、此奴等もだ」
だから、今を生きている人間が何をしようと彼等は救えないのだ。レオナはそう静かに釘を刺した。
 ラギーも、それくらいは分かっているが、分かっているからこそ遣る瀬ない。
「何でオレなんて連れて来たんスか」
ラギーは頷く代わりに、無力さを認めた。
 事実、此処に来ることに、ラギーの力は必要とは言えなかった。レオナは民間人より遥かに事情に詳しい上、遺跡を残して衰退していったヒト属の文明も、猿の王も、邪教も、一介の獣人が軽々しく知って良いものでもなかった。殊に、ラギーはスラムという出自もハイエナという種も、虐げられた者の屈辱に共感しやすい立場である。普通の感性であれば、ラギーをこの場に連れてくること自体を忌避して然るべきだろう。そんな思いが、がラギーの口をついて出ていた。
 しかしレオナは、ラギーの肩書に対して、何の不安も抱いていない顔であった。それどころか、ラギーの問いにハッと短く息を吐いただけの嘲笑を返す。
「どうにもできねえ過去の同胞の為に身の振り方を間違えるような、そんなお優しいタマかよテメエは」
信頼というには余りに性格の悪い文句だったが、寧ろ、希望的観測めいた性善説を押し付けられるより、ずっとラギーの性に合った回答だった。付き合いの長さと理解の深さからなる露悪的な見解は、反論も謙遜も差し挟む余地を与えない。こんな時でも皮肉屋ぶりを崩さないレオナに、非日常に対面した緊張に飲まれかけていたラギーの肩の力が抜けていく。


 「で、ラギー。てめえはまだ話してねえ事がありやがるな」

 壁画に向けられていたサマーグリーンの瞳が、ラギーを真っすぐ見据えていた。
 今度はレオナが質問をする番だと、その眼が雄弁に告げている。彼がラギーを此処まで連れて来た上で、かの文明に対する質問まで許したのは、レオナ自身もラギーに聞いておきたい事があったからだ。しかし、症候群の名付け親がラギーだと既に発覚している今、ラギーから語るべき事など特に思い当たらず、ラギーは視線を彷徨わせた。
「じゃあ俺から聞くが、どうして売られっ子症候群なんて名なんだ? 草食動物や他の奴等を見るに、全員が全員売られっ子って訳じゃねえだろ」
全員の共通項として付けるなら赤い花症候群の方が妥当であろと言われれば、確かにそうだとしか言いようがなかった。
「大したことじゃねッスよ。そりゃオレは地元が地元ッスから、気が触れるから寂しい子供には赤い花を摘ませるなっつー話はありましたけど。オレが実際見たことある奴が売られっ子だったんで、そのインパクトに引き摺られたっつーか。ほか、話題にするには症状にわかりやすい名前が要るでしょ。そんだけッスよ」
ラギーが実際に遭った赤い花に執着する狂い方をした者が売られっ子だったから、そう名付けただけだ。眼に見えて狂い果て衰弱していくその子供を、だれも救いはしなかった。その異様さが赤い花よりラギーの心を蝕んでいたのだ。
 現に、狂いゆく者を傍観する人々の為の言葉はあっても、異常をきたした者そのものを表す言葉はラギーが付けるまでは存在しなかった。人は興味がないものや話題にする価値も無いものには、名前を付けはしない。ここで言う「寂しい子供」というのは、要は誰にも気に留められない、顧みさせる力も無い者の事だ。ラギーが昨日今日始まった訳でもない現象の名付け親になってしまったのも、そういった縁である。

 ラギーの返答に一切の意図や含みが無いことを確認したレオナだが、まだ納得とは遠い顔をしていた。
「寂しい子供――その代表格が売られっ子だったっつう訳か。だが、あの草食動物が、売られっ子と同じ寂しい子供だって? そりゃこの現状とは随分矛盾するじゃねえか」
スレッドが作られ、不特定多数の好奇心と心配を集め、複数人が彼女の為に動いている。それはラギーの知る誰にも気に留められない者でも、顧みさせる力も無い者という条件には、当て嵌まっていない気もする。
「入学したばかりなら兎も角、あの毛玉やハーツラビュルの一年坊主どもと仲良しこよしでやってたじゃねえか」
「そうは言っても――」

 ラギーは言いかけたまま、はたと口を閉ざした。ここにきて漸く、でラギーは自身が監督生について他人より余計に知っている事があったと気付いたのだ。
「アイツ……オレ以外にはまだ話してなかったんだ……」
ラギーは小麦畑と同じ色をした金髪に指を突っ込み、頭を乱雑に掻いた。思案の為の、無意味な声が混じった溜め息が吐き出される。他人のセンシティブな話を本人不在の状態でしなくてはならない気拙さと、ある種の面倒臭さがラギーの言語野を圧迫していた。
「――監督生くん、退校するみたいッスよ」

 ラギーが聞いたのは、つい先週のことだ。バイト先のラウンジで、監督生の動きが妙に悪いのが目に付いて、彼女に直接聞いたのだ。
 あれから一週間の時間があったのだから、ラギーは自分以外の者も当然聞き及んでいるものだと思っていた。しかし考えてみれば、その時が最後に見た彼女のまともな姿だった。つまり、この話は、教員と極一部しか知らない事項だろう。レオナがわざわざ追及の時間を取るのも道理であった。
「誰も知らない世界から手違いで来たらしいけど、ソコに帰る方法が分からないって事が分かったみたいで」


 ラギーの視線が、手元に落ちる。
 皸とささくればかりの貧乏人の指が視界に入る。痩せて骨ばった関節と胼胝の目立つ、労働者の手だ。中流家庭以上と苦労知らずの上流階級出身が殆どのカレッジにおいて、ラギー程汚い手をした生徒はいなかった。監督生を除いては。寧ろ、まだ激務に慣れず硬い皮膚が作られる前の彼女の方が、生傷が多かったり潰れかけの肉刺が主張していたりと酷い手をしていた。
『この世界で生きるしかない。けど、だからこそ、皆と一緒に卒業することはできない。そう言われました』
閉店後のモストロ・ラウンジでそう打ち明けた監督生の声は、今までにない程弱々しかった。疲弊した双眸の下に刻まれた濃い隈は、如実に寝不足を訴えている。彼女は最近になって、ラウンジのバイトと学園の雑務の他にも、ミステリーショップの店番や大食堂の厨房など仕事を増やしたようだった。金が要るのだ。
 いつか二親の居る元の世界に帰るつもりだった時は、学園長が支給する生活費でその日その日を凌げれば良かったものの、この世界で就職や自立を考えるならそうもいかない。そも、今までとて認識阻害の魔法や魔導具を使う事すらない杜撰な男装で済ませていた事とて、彼女が在学する期間を長く見積もっていなかった所為だ。元の世界に帰るという大前提だった選択肢が消えた以上、彼女には大幅な軌道修正が要求されていた。別の学校に入り直すか、学歴を問わない就職先を探すべきだというのが、教員達の意見であった。

 彼女の打ち明けるところに依れば、戸籍の取得など在学中にすべき書類の手配までは学園長が面倒を見る予定でいるらしい。
 いずれにせよ、彼女がカレッジを出ることは決定事項だった。魔法士養成学校かつ男子校であるナイトレイブンカレッジでの学歴は、魔法が使えない女である彼女の人生には何ら役立ちはしないどころか、不審さすら与える要素になりかねないからだ。
『残念です。折角、この生活にも慣れてきた頃だったのに。ちょっとは仲良くなれたかなって、思った人達もいるのに』
また一からやり直さなきゃ、と彼女は俯いた。

 思えば監督生は、能動的に学外へ出た経験も無い、真性の世間知らずだ。
 魔法も獣人も存在しない異世界の生まれであるから、グレートセブンも知らなければ、マレウス・ドラコニアの知名度にも鈍感だった。誰より庇護や支援を必要としている立場だったに違いない立場でありながら監督生だの猛獣使いだのと他人の世話をせねばならない役まで求められていた彼女が、この学園で友と呼べる存在を作って生活できていたこと自体、奇跡的な偶然の賜物といっていい。それを、また常識も通じない世界で、繰り返さなくてはならないというのだ。
 今までの彼女の苦労について子細には知らないラギーも、気が遠くなる思いがした。彼女がどれだけ必死に自身の居場所を守っていたか知っているだけに、オンボロ寮を出なくてはならなくなる彼女が哀れだった。それも、今度は陽気なお調子者の魔獣という相方もなく、ただ独りきりになる。

 監督生は周囲を一通り警戒してから、声をうんと潜めて打ち明けた。
『トレイン先生は古いお人ですから、家庭に入りなさいと言うんです。独りで生きるよりは楽だろうって……そうなのかしら』
サバナクローの一件で既に監督生の性別を知っているラギーが相手であるからか、彼女の口調には嫋やかさが戻っていて、いっそう弱弱しい。
『トレイン先生は家政学部のある女子高に転入できないかって熱心に資料を集めてくださってるから、到底こんなこと言えやしないのだけど』
頼りきり、依存して、上手くいかなくなったら、年を取った状態で放り出されてしまうことに怯えなくてはならない。そうならない為には、やはり金と学が要る。しかし、魔法も使えず、日中は授業を受けている身では、碌に貯金も貯まらない。自身の選択肢が削られていく不安を、監督生は静かに吐露した。
『独りで生きられない事を理由に結婚したら、その人が私の生命線になっちゃうってことでしょう』

 その時ラギーは、曖昧な相槌しか返せなかった。
 言い知れない断絶を感じていた。価値観がまるで違う、と漠然と思ったのだ。
 結婚という単語をそこまでネガティブに語る女は、彼等の観測圏にはいなかったのだ。彼が女を丁重に扱う文化の根付いた獣人として育っていたことを差し引いても、出会ったことのない人種だった。スラムの女を搾取する男は居るが、結婚とはまるで別物の概念だ。番った相手を虐げるという発想自体が稀有なのに、籍を入れる前からその心配をして落ち込む彼女は、どこか珍妙にすら映った。
 生きている時代が半世紀以上ずれているような、あるいは途轍もなく辺鄙な土地の土着信仰者か。そんな違和感を感じた後、これが異世界で生まれ育った人間の価値観で、彼女とこの世界の亀裂なのだと気付いた。

 多様な人種や種族の集まるカレッジでは、そもそも魔法が使えない事や性別の違いなどが目に付くことも手伝って、彼女の感覚や価値観について気にされた事は無かった。しかし、同じ魔法が使えない者同士、ヒト属同士、女性同士、と同じ属性で揃ったコミュニティに入れば、彼女の異質さは浮き彫りになるだろう。彼女が本当の孤独を知るのは、この学園を出た後に違いない。ラギーですらそんな確信を抱いたのだ。その不安は、監督生自身が誰より深く鮮明に感じている事だろう。


 ラギーは、自身が監督生を「寂しい子供」に該当すると疑わなかった理由として、レオナに彼女の事情を説明した。
 レオナは、ラギーの拙い説明を黙って聞いていた。
「あと、一番気にしてたのはグリムのことッスね。グリムくんに酷い裏切りをしてしまうって」
二人で一人分の生徒でいる約束も反故にしてしまうことや、大魔法士になるまで見届けられないことを、監督生は悔いていた。グリムより自身の将来の為に進路を選択する事に、罪悪感を感じているようだった。
「喧嘩別れになるのが怖くて言い出せないって、悩んでたみたいッス」
結局、悩んだまま、結論を出すより前に、彼女は狂気に呑まれてしまった。ラギー以外の相談者を見つける前に、彼女は猿の王に捕まったのだ。


 ラギーが一通り話し終えると、レオナはやや脱力した。
 監督生が売られっ子症候群に該当してしまった理由について納得がいったらしい。
「じゃあ、草食動物の心配は杞憂だな」
レオナは柔らかい息を吐いて、ラギーのずっと背後を指差した。

 耳を澄ませば、暗がりの奥から足音が近付いてくる。靴音ではなく、爪が地面を掻く音だった。やがて、光る青い瞳と炎が見えて、それがグリムだと分かった。
「どうして此処に」
「アイツ等も毛玉には甘えからな」
ラギーは典型的な猫好きオタクのイデアと、オンボロ寮生贔屓のマレウスを思い浮かべて、曖昧な相槌を打った。彼等なら、オルトに捕縛されたグリムが自分も監督生を連れ戻しに行くと言い出したら応じてしまったのだろう。そう推測出来てしまったのだ。
「ふなーっ!?」
レオナは杖を一振りすると、グリムを一気に足元まで引き寄せた。
「や、やっと追いついたんだゾ……」
グリムは肩で息をしながら、ダラと舌を出して体温を下げる仕草をした。彼等は誰か追ってくることなど想定せずに歩いてきたので、グリムは自力でレオナの砂や僅かな残り香を手掛かりに階段を突き止め、此処まで追ってきたのだ。途中、一度は外から上階に行こうとしたのか、鼻頭に目立つ引っ掻き傷を作っていた。小さな身体は埃塗れで、皮肉屋でなくともボロ雑巾と形容してしまうであろう風情だった。汗みずくになった肉球は、地面に四本指の跡を付けていた。

 レオナはグリムの首の皮を摘まむと、視線が真っすぐかち合う高さまで持ち上げた。
「なあ、聞いたか毛玉。折角連れ戻しても、監督生はこの学園を去ることが決まってるらしい。骨折り損だったか?」
意地悪く問うレオナに、グリムが耳を尖らせる。
「何だそれ。オレ様はそんなん知らねーんだゾ」
「退校するんだと」
「……元の世界に帰る方法が分かったのか?」
やはり監督生は、未だグリムに何も打ち明けられずにいたらしい。この学園で得た初めての友であり、相棒であった彼等だ。別れを切り出すには、彼女に残された気力が乏しすぎた。
「逆だ。帰れなくなったから、テメエに付き合ってやる余裕も無くなったんだと」
グリムが小さく息を飲む。

 ラギーは「何もこのタイミングで伝えなくても」と割って入ろうかとも思ったが、監督生と再会させる前に教えてやった方が良いと考え直して、一歩身を引いていた。レオナに合わせて露悪的な顔を作ったラギーは、グリムの出方を窺うのみだ。
 とはいえ、必要な答えは既に出ているのだ。
 レオナが獣人二人で充分だと告げたにも関わらず、グリムは掟の密林など碌々知らないくせに単身で乗り込んできた。その時点で、彼等は利害関係などとうに超えているのだ。擦過傷を作ってなお、薄気味悪い遺跡を汗みずくになって走ってきた事自体が、既に答えなのだ。


 グリムのサファイヤの双眸は、じっとレオナを見ていた。レオナの性根が悪いにしても、こんな場面でわざわざ笑えもしない冗談を言う男でないことくらい、グリムも知っているのだ。だからこそ彼は戸惑って、悲壮を押し殺しながら小さな頭を懸命に働かせて言葉を探していた。
「恨むか?」
レオナが挑発的に問えば、グリムの大きな猫眼が数回瞬いた。
「オメエ本気で言ってんのか?」
「ああ。二人で一人の生徒だ何だと言いながら、とんだ裏切り者だ。お前もご苦労なこった」
悪役の台詞を読ませれば、レオナの右に出る者はいない。どろりとした低い声で監督生を詰ったレオナに、グリムはとうとう悲壮を忘れて怒りを取った。ふざけんじゃねぇ! とグリムが音が響くのも構わず一喝する。
「そんなこと思うワケねーんだゾ!」
灰色の毛並みは余すところなく逆立って、三又の尾が脚より太く膨れ上がっていた。耳に宿した青い炎が、音を立てて爆ぜている。

 短くも鋭い牙を剥き出したグリムは、鉤爪を剥き出した腕を振り上げる。けれど彼は依然としてレオナに持ち上げられたままであったので、リーチの差から一向に攻撃らしい攻撃を繰り出せずにいた。
 しかしグリム本人は至って真剣であるので、フゥフゥ言いながら。
「子分がえれぇ目に遭ってんなら、親分のオレ様が駆けつけてやんのは当然なんだゾ! 二人で一人じゃなくなったって、見放す理由になんざならねーんだゾ!」

 グリムの啖呵を聞きながら、ラギーは頬の内側を噛んで笑みを抑えた。
 レオナも、想定以上にしっかりした言葉が返ってきたことに肩眉を吊り上げた。ニヒルだが、解答をそこそこ気に入ったのだと分かる笑い方だった。
「おう。草食動物にも聞かせてやれ」
急に軟化したレオナの態度に、試された事を悟ったグリムが頓狂な声をあげれば、ラギーはついに耐えれなくなって噴き出した。募っていた不安と後味の悪さが霧散していく感覚に、緊張の糸が緩んだ所為だ。
「まあ、退校云々は後でちゃんと本人に聞けよ」
レオナはグリムを光る雲の上に放ると、再び歩き出す。
 階段の終わりが近づけば、猿の声がより鮮明に、果物の匂いは濃くなっていく。壁画の頂上に描かれた古代文明の支配者層に中指を立ててから、彼等は長かった階段を抜けていった。


 上階は、遺跡の損傷の具合が殊更に激しかった。
 人間一人が余裕をもって隠れられる程に大ぶりな瓦礫がごろごろと転がり、壁や天井の穴や途切れ目から太陽光が降り注ぐ。日向には、蔦や苔だけでなくガジュマルのような低木まで茂っていた。数本の柱で辛うじて支えられている天井は穴だらけで、今にも崩れそうな石に絡み付き根を張った植物が辛うじて構造物を繋いでいる。

 レオナはグリムを乗せていた雲を引っ込めると、自分達に認識阻害の呪文をかけて気配を消した。身を潜める場所には事欠かない場所であったが、この階には至る所に猿が居た。窓からも次々と猿が入ってきては、瓦礫に登ったり蔦を伝ったりと忙しなく屋内を移動してく。中には霊長目系の獣人も複数見られたが、彼等はレオナが作った詩にあったように、獣と隔てなく群れているようであった。その数の多さたるや、まともに相手取るには躊躇する物量だった。

 唯一破損のない壁を指差したグリムの口を、ラギーは慌てて塞ぐ。魔法によって認識されづらくなっているとはいえ、大声を上げたり触ったりすれば流石に気付かれる。
「もがが……」
「見りゃ分かる。いよいよ本丸ってわけだ」
レオナが掠れる程の小声で、グリムに返事をする。
 グリムが驚いていたのは、そこ土や動物の血を塗ったような絵があったことだ。巨大な異形の男が子供を長い両腕で抑えて、頭から食い殺している絵だ。これがカリムが古代遺跡に描かれてたと言っていた絵なのだと、彼等は一目で理解した。ルークが描いた絵と構図もモチーフも一致していたからだ。
 階段で見た壁画と比べると、用いられた道具が明らかに原始的で、描き手はおろか描かれた文化すら異なっている。猿の王がこの遺跡を奪ってから描かせたものなのだろう。階段の壁画を知らぬまま見ればただ稚拙でグロテスクな絵という感想しか抱けなかっただろうが、今のラギーはルークの言っていたことを感覚的に理解できた。ヒトへの畏れと焦り、そして羨望。彼等を虐げた文明への反発と、それしか文明の在り方を知らないであろう歪さが、その絵にはあった。
『寄越せ』
『寄越せっ』
『赤い花を寄越せっ』
『寄越せ』
『赤い花』
『寄越せ』
『寄越せ』
『赤い花ッ』
相変わらず、猿達の声は姦しい。老いた猿も、垂れた乳を子にしゃぶらせる牝も、獣人と思しき体躯の牡も、皆興奮気味に体を揺らしている。
 彼等は本当に、それを手に入れれば忌まわしい支配の記憶から抜け出せると思っているのだ。彼等獣人の末裔は、とうに火を手にしたというのに。未だその傷口は残されたまま、現代の何も知らない者まで巻き込んで膿んでいる。

 猿の群れを追っていけば、猿の王に辿り着いた。探すまでもなく、猿や獣人が為す群の頭越しに目視できた。三メートルという体長は、与太ではないようである。
 彼等は監督生も猿の王の傍に居る事を嗅覚で感じ取り、顔を見合わせた。
『言え、赤い花は何処にある?』
猿の王の声はその身体の大きさに見合う程に太く低く、聞く者の鼓膜を舐るように震わせる。取り巻いていた猿達の鳴き声が、興奮の声からパントグラントと呼ばれる上位個体を前にした時の鳴き方に切り替わった。猿の王を見つめる猿の熱に浮かされた目は、心酔の二字がよく似合う。

 三人は瓦礫の上に登って、猿の王の全貌と監督生の姿を確認した。
 うず高く積まれた果物の山を背に、猿の王は屈んで監督生の顔を覗き込みながら話していた。その体格差たるや、監督生がままごとに使われる人形のように見える程だ。生気の無い監督生の様態が、一層彼女を無機物のように見せていた。
 猿の王は、赤子にするように監督生の頭を撫でた。平均的な人間の顔など片手で包めてしまう猿の王の巨大な掌が、彼女の顔に影を落とす。
『赤い花さえ差し出したなら、お前はこの群れの一員になれる。悪い話じゃないだろう。赤い花を見せてくれ』
痩せぎすの女の首など指の二本だけで圧し折る事も可能だろう思わせる猿の王だが、よく見れば彼の手は四つ指だった。先天性の欠損ではなく、親指を付け根から切り取った古い傷跡があった。壁画の通りの手の形をしていた。見れば、老いた猿の獣人は殆ど四つ指だった。火を取り上げられ、魔法を摘まれたのと同様に、道具を持つことすら制限された結果だろう。猿の王の人差し指が、恨めし気に監督生の頬を滑る。伸びた爪が頬に傷を付けないぎりぎりの塩梅で、太い指と鋭い爪の存在を主張させている。
『腹が空いただろう。果物を好きなだけ食べていい。ただし、この群れの一員になったなら、だが』

 猿の王の声は、決して大きくはない。それは幼子に囁くような穏やかさと静けさがあり、表層的には友好的に聞こえなくもない。しかし、その瞳は厳かなまでに冷酷で、滾る瞋恚で満ちていた。
 口許の笑みは親愛の証などではなく、憎いヒトという生き物の生殺与奪の権を完全に握った事への愉悦と嗜虐だ。
 手前が飢えさせたくせに、とラギーは舌打ちを押し殺す。階段の壁画や四本しかない指を見た時に湧いた彼等への同情心のようなものが、掻き消えた瞬間だった。


 猿の王は果物の山から黄色の実を取って、監督生の顔に押し付けた。
『何を迷う? お前はヒトの群には属せない。誰もお前を顧みない。いずれ忘れられる、いずれ疎まれる。そうだろう』
熟れた果実が潰れ、黄色の汁が滴る。噎せ返るような甘い香りは、腐臭に似ていた。
『お前には、守ってくれる仲間が必要だ。新しい群が必要だ。お前を疎まない群、私の群だ。赤い花があれば、おぞましい何もかもを滅ぼせる。お前の元居た群を、お前を虐げた者を、人間を、今度は私が支配しよう』
監督生は魔力への耐性が低いから中てられたのではないと、ラギーは今更ながらに確信した。孤独に付け込まれたから、引き摺り込まれたのだ。彼等と同じくヒトの群を憎む者としての仲間意識を抱かれたか、懐柔できると踏まれたか。新しく群に属させてやると、嗜虐心の隠しきれていない甘い言葉で誘って、支配の手が彼女の細い身体を撫で回わす。簡単に折れる場所を辿るように、黄ばんだ厚い爪が薄そうな皮膚の上を這っていく。

彼等は救えないと断言したレオナの言わんとすることを、ラギーは感覚的に理解した。獣と呼ばれた彼等は、その心根も獣のまま。欠けた存在として描かれた彼等は、その所以を証明するように愚かさと陰惨さのしみついた不完全な生き物になっていた。
 支配され虐げられた知性ある獣達は、支配し虐げることを選び、立場を変えて同じ地獄を繰り返す。復讐心と残虐さだけは陰惨な程に立派なくせに、上等な体躯も膂力も知性も持ち合わせているのに、欲する物については他者に求めるばかりで自分で探す事すら碌にしてはしない。考えないから、花の正体に永遠に辿り着けない。例え赤い花を手に入れたとて彼等が本当に欲しいものは復讐と支配であって、彼等は永久に満たされない。短絡的で万能な解決策として理想化された架空の花を探し続ける、呪われた魂だ。


 監督生の返事は、興奮気味な猿の鳴き声に掻き消されて聞こえなかった。
 監督生が偏執的に花を探すようになって数日。大きい声など出せる体力があるとも思えないが、彼女の返答を聞けない事にラギーはやや不安に思った。監督生が花を探し続けるのは猿の王への賛同によるものか、保身の為の時間稼ぎなのか傍目には判然としないからだ。此処でもこれだけの時間が経っているなら監督生が猿の王の悪意に気付けないとは思い難いが、迫る孤独への焦燥は人の眼を濁らせる。
 しかし、もしも助けに行ったこと自体が間違いだと思える結果になったら、という懸念は無かった。縦しんば、今彼女がそう持っていたとしても、此処に彼女の孤独の反証となる男が三人いるのだ。その筆頭のグリムは眉間に千尋の谷もかくやといった深い皺を刻んで、誰より強い反感を猿の王に向けている。そちらの存在感の方が不安より余程強かった。


 猿の王は、山と積まれた果物を掬って投げ銭のように床に巻いた。それを猿達が喜んでそれを拾う。権威の誇示か、群の蓄えの多さのアピールか、取り巻く猿達の声は益々興奮気味になっていく。
 果物の山が崩されれば、その影に隠されていたものも露になった。それは、青銅の器であったり、布であったり、かつての文明から簒奪したと思しき道具類。そして、粘土細工のような飾りのついた首飾りや、黄ばんだ白骨まで混じっていた。周囲の猿の反応からして彼等の仲間の骨でないとするなら、やはりヒトの骨なのだろう。
『私には何でもある。家来も、食料も、圧倒的な力も、ヒトが持っていた道具も扱える。足りないのは、あの赤い花だけ。眩しいあの花だけ』
猿の王は、金属の擦れ合う音が不協和音を奏でるのも構わす、それらの戦利品も群衆に見せつけるように撒いた。猿の王の所作は、次第に荒くなっていく。語気も随分と強くなった。赤い花が一向に手に入らない苛立ちを、ついぞ隠さなくなってきている。
『知らない? 嘘を吐くんじゃない。ヒトは皆それを扱える。獣とて馬鹿じゃあないんだ。それくらい知っている。さあ、差し出せ』
一際低く大きな声で、猿の王は監督生を恫喝した。尋問が拷問に切り替わる時間が近付いていると予感させるには充分だった。


 レオナは指先の動きでラギーとグリムの視線を集めると、限りなく声を潜めて切り出す。作戦会議というには一方的かつ簡潔過ぎる指示だった。
「俺が気を引く」
こうも猿の王が監督生と接触していれば、彼女を穏便に奪還するのは無理だろう。彼等は一も二も無く承知した。
「その間にオレが監督生くんを攫うんスね」
「オレ様は?」
レオナは唇の端を吊り上げ、グリムの額を掌で覆うようにして撫でた。グリムの頭頂に生えている毛がもさもさと色々な方向に向くのもお構いなしである。その手付きは露骨に無遠慮だが、どうしようもない慈みと祈りに似た念が宿っていた。
 監督生に振りかかった呪いを解く役など、グリム以上の適任もいまい。ラギーも願掛けのようにグリム頭部を念入りに撫でておいた。彼等は既に、この小さくて破天荒な獣が監督生にどれだけ可愛がられているか知っている。思春期のヴィランは決して口にはできないが、その祈りは真実のキスに期待するような情念と大差無い。

 レオナは瓦礫に絡む蔦で箒を作ると、グリムに押し付けた。
 ラギーもそれに倣って、箒に魔法で強化を施す。監督生を回収したら、いよいよ飛んで逃げるだけだ。後はマレウスに連絡をして、元の世界に喚ばれるのを待てばいい。とはいえ、猿の王や監督生を取り巻く猿達の数からして、彼等を振り切って囮となったレオナと再度合流するにはそこそこの荒事を覚悟せねばならない事も彼等は承知だった。
「グリムくんはオレと一緒に来て」
ラギーはグリムと連れたって瓦礫を飛び移り、レオナから離れた。


 レオナは猿の王の視界に入る位置まで駆け上がると、自身にかけていた認識阻害魔法を解いた。
 途端に、一斉に侵入者の存在に気付いた猿達が鳴いた。上位個体に諂った鳴き方から警戒と威嚇の音に切り替わったそれは、一段と姦しい。その侵入者への敵意と混乱で沸く猿の群を擦り抜けて、ラギーとグリムは猿の王の背後に回り込む。

 ラギーは崩れかけた柱に身を隠しつつ、マジカルペンを振って監督生に認識阻害の魔法の魔法をかけた。オレンジ色の光が蝶の鱗粉のように舞って、監督生を包む。
 しかし、魔法は上手くはいかず、弾かれた。
 本来、魔法への耐性が無い監督生に魔法をかけるのは、効き過ぎる事はあってもその逆は無い。魔法を弾いたのは監督生自身ではなくこの異界の仕様だろうと、少年達は直感した。ヒト属がこの空間では歓迎されない言ったトレインは、こういったヒト属の不利を想定していたのかもしれない。ラギーは、犬歯を見せるような舌打ちを零した。グリムは瓦礫から手を出して、身振りでレオナに更なる時間稼ぎを要求する。

 さてどうやって監督生を攫うべきかと思案するラギーだが、レオナは彼等の失敗に別段想定外という顔も見せなかった。最初から用意していた台本を読むような冷静さで、猿の王に喋りかける。
「ここが猿のお寺か? 随分ご立派なことで」
『捕らえろ』
猿の王が短く指示をすれば、レオナの近くに居た猿が一斉に動いた。
「マァ、待て。待ってくれよ。怪しいモンじゃない」
レオナはへらへらした態度のまま猿をひらりと躱して、会話を続ける。レオナの煽っているんだか遜っているんだかよく分からない態度は、他人を絶妙に苛付かせた。
「俺ァ崖を登ってやってきたんだ。この森の王サマに謁見するために。いやはや、現物を見るとアレだ……予想以上に――……デカい。イヤ、本当にデカい!」
レオナは緩慢な口調で適当な言葉を並べ、乱闘の火蓋が切られるタイミングを先延ばしにする。猿の王の美点を真面目に考えるのはプライドが許さなかったのか、本当にお世辞で素直な誉め言葉が思いつかなかったのか、日頃の皮肉で用いる語彙力が嘘のように単調に大きさだけを褒めそやし続けた。自分を馬鹿に見せて警戒心を削ぐ意図としては、大成功である。苛立った猿達の視線は、普くレオナに注がれている。しかし、当の猿の王はつれない。
『崖から投げ捨てろ』
無感動に言い捨てた猿の王は、監督生に向き直る。
 監督生は、この場に現れたレオナに慌てる事もなければ驚く事もなかった。レオナを認識したかどうかすら怪しい。茫洋とした目付きで、無気力に呼吸だけしている。衰弱がそうさせるのか、掟の密林という異界がかのぞの思考と気力を制限するのかは判然としないが、兎角彼女が自力で逃げる事は期待できそうにない。

 幸い、レオナの阿呆のふりが功を奏したか、未だ猿の王が直々に動く兆候は無い。レオナは適度に悲鳴を上げつつ、膂力と魔法で襲い来る猿を受け流して時間を稼ぎ続けていた。
 しかし、レオナと言えど数の不利は痛手だ。このまま時間だけが過ぎれば、徐々に後退を余儀なくされていずれは猿の王の指示通りに崖から落ちる羽目になるだろう。その前に猿の王が動いても不味い。あの巨体で襲いかかられれば勝ち目は薄いどころか、先に遺跡が倒壊しかねず誰の安全も保障できなくなる。
 いっそユニーク魔法で猿の王の身体の自由を奪えないかとも考えるが、あまり現実的ではなかった。殊にラギーの場合、体格があまりに違う相手を動かすのは負担だ。それも、規格外に大きい上に現存していない獣人という身体構造への理解が浅いものを相手取るには、魔力の消耗が激し過ぎる。そも異界における主のような存在を相手に魔法を通せるだろうかという、不確定要素への不安もあった。監督生にかけようと思った魔法が弾かれた彼等は、そんな可能性も検討しなくてはならず、頭を悩ませた。




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