さよなら災厄、また来て至悪3

 サバナクローの自室でベッドに横臥したラギーは、スマホで校内限定掲示板の様子を追っていた。
 実のところ「売られっ子症候群」という名は、ラギーが勝手に付けた名称である。検索しても揺さぶられっ子症候群しか出て来ないのは無理からぬ話だった。
 その症状に名前はない。しかしラギーは、監督生と同じ症状で死んでいった子の存在を知っていた。
 物知りの祖母も「寂しい子に赤い花を摘ませちゃいけない。気が触れてしまうから」と口にする。症候群あるいは精神の異常として、昔から存在ているのは確かなようである。

 ただ、名の付かないものは記憶に留まらない。
 そして何より、この症状にかかる者はそもそも誰かの記憶に留まるに値しないと烙印を押された者なのだ。


 ラギーは昨年、長期休暇を利用して訪れた出稼ぎ先で、売られっ子に遭った。
 ラギー達出稼ぎ衆を雇った綿花農園の大地主が、使用人として連れていたのだ。一年生の中でも小柄でサバナクロー中から骨と皮だけと揶揄されていた当時のラギーより、更に華奢で小さなヒト属の少年だった。顔はよく覚えていない。覚えているのは、よく焼けた肌と、ささくれだらけの指くらいだ。
 スラム育ちのラギーにとっては、年端のいかない子供が親に売り飛ばされる現実をよく知っていた。だから居場所も帰る場所も無い子供そのものを珍しいとは感じなかった。売られっ子が大人達にベルト鞭で打たれる様も、反吐が出そうだとは思えどこれも特別な事ではないとも知っていた。何より、ラギーに金を出すのは鞭を持っている雇い主の方であったので、ラギーが口を挟める事でもなかった。
 ラギーは売られっ子の名前も聞かなかった。幾つの時に売られたのかも知らない。一年と経たずに顔を忘れた。
 けれど、彼は日に二回しか与えられないパンを、赤い花と交換していた事でラギーの記憶に留まっていた。一度渡した花と同じ種類の花は引き換えれなかったが、ラギーは色変え魔法で本来は赤くない花まで赤くしてパンをせしめた。そうしてただでさえ華奢な売られっ子は益々窶れ、血走った眼で赤い花を集め続けた。
 奴は気が触れていると、誰ともなく口にした。
 だが誰も彼を引き留めなかった。ラギーもパンを返さなかった。出稼ぎ人達は手前の事で精一杯で、一時的な付き合いに過ぎない他人を気遣ってやる余裕も無かったのだ。雇い主達は使い物にならなくなった者をゴミを見る眼差しで見るだけだった。

 結局、売られっ子はラギーが滞在している期間内に死んだ。呆気無い最期だった。
 大地主の娘が付けていたシューズクリップを、売られっ子が盗ったのだ。掠め盗ると表現するには、余りにもお粗末な手腕だった。ラギー以外にも目撃者がそれなりに居て、当然ながら現行犯で捕まった。激怒した大地主はステッキで幾度も彼を打ち据えたが、それでも握り締めたシュークリップを離さなかった。
 クリップには、赤いサテンで作られた薔薇が付いていた。
 売られっ子は偽物の薔薇を握り締め、譫言のように「きっとこれかもしれない。これかもしれない」と呟いていたが、それも僅かな間だけ。彼の呼吸は直ぐに途絶えた。
 ステッキが振り下ろされる度に脆い皮膚が裂けて血が飛び、細い骨が幾度となく折れる様子は凄惨だった。それでも所有物を折檻しただけの大地主は、警邏に幾らか握らせれば何らお咎めも受けはしなかった。

 売られっ子が殺された日、ラギーは何か憑き物が落ちたように冷静になり、ロクでもない職場に当たってしまったと漸く口にできた。
 そうして、掏った大地主の財布から今までの日当と交通費を頂戴し、さっさと農園を出た。
 何故今までそうしなかったのだろうかと、疑問に感じるほどだった。気が触れていたのは赤い花を握り締めていた彼か、それとも傍観に徹していたラギー自身なのか、それすら怪しかった。
 よって、売られっ子についてラギーが一等覚えているのは、彼自身についてよりも、そのどろりとした後味の悪さの方だった。


 だからラギーは、虚ろな眼で植物園で赤い花ばかりを摘む監督生を目にした時、言い知れぬ焦燥を覚えた。
『周りは軒並み魔法士で男だから、まず監督生くんが加害者になる可能性は無いかなって思ってて……』
誘導されたオカルト掲示板で、監督生の危険性について触れなかったラギーは大いに顰蹙を買ったが、その加害性ついて言及しなかったのは意図的なものだった。
 魔法士の卵として研鑽を積んでいる男達と、魔法も使えない少女。多勢に無勢。男と女。圧倒的な差は、どう足掻いても埋まらな。彼女の草食動物と称されるに相応しい逃げ足ばかり優れた華奢な体躯は、あの日の彼のように簡単に殺されてしまいそうだと思った。

 案の定、掲示板の中でささくれた不安が膨れていく。
 ラギーが監督生の件を相談板に載せたのは、薄らと寒い喪失の予感を一人で抱えていることに嫌気がさしただけだったのに。後味の悪さと不快感を味わう道連れを欲っしただけだったのに。誘導されたオカルト板では、関連事件が見つけ出されて不穏さばかりが強調されていく。
 監督生への嫌悪が恐れと混じって排斥意識に変われば、攻撃的な書き込みが増えていく。


 ラギーは、ベッドシーツの上で、胎児のように丸まって小さく息を吐いた。

 思考が、沈んでいく。
 女の体を男の服に押し込めて、取ってつけたような男言葉で、時に無理をして笑う。そんな日々が、続く筈がない事くらい、誰にでも分かる事だったのに。
 本物の草食動物とは違って硬い蹄も鋭い角も無い彼女が、連帯も協調も無い学び舎で足掻く様は、傍目には分別が無いようにすら映るだろう。彼女をイカレ女と称した匿名の声は、ある種正しい。廃墟のような寮しか暮らす場所が無かったが故の選択肢の乏しさは、優秀な魔法士として将来を嘱望される程に恵まれた少年達には理解できないに違いない。

 けれど、寝食の保障された生活の有難みを心底知っているラギーには、彼女が正気であった事を知っている。
 逃げても居場所はない彼女は、殺されかけた相手に縋る事を厭わない。手段を選ぶことすら許されなかった彼女の必死さが、ラギーの胸裡を引っ掻いていく。鼻腔の湿度の高さに反して、心がざらざらと乾いていた。


「Bonsoir!」

 夜分だというのに不似合いに明るい声と共に、ラギーの部屋をノックする者があった。
 聞き覚えのある異国かぶれの挨拶に、垂れていたラギーの耳と尻尾が本能に染み付いた畏怖と警戒で膨れた。獣と狩人は天敵である。そのルークが獣人が殆どを占めるサバナクローにズカズカ入って来た現実は、飲み込み難かった。
 しかし、無垢に驚嘆できるほど来訪への心当たりは無かったかといえば、そうでもなかった。誰かが気付いて訪ねて来ることを、ラギーは何処かで期待していたのだ。そうでなければ、匿名の掲示板にわざわざ手入力で特徴的な口調を反映させはしまい。
「ボンソワ、ッスか。ポムフィオーレじゃオヤスミの時間じゃないんスか」
ベッドを這い出て部屋の戸を開けたラギーは、完璧な化粧を施したルークを見上げた。体臭の薄さと僅かに感じるソープとポムフィオーレ寮独特の香りから、一度は風呂に入ってから寮を出たのだと悟った。
「獅子の君が、私の描いた絵について聞きたいと招いてくれたんだ。君からも是非話を聞きたいからついでに呼んでくるように、ともね」
「レオナさんが」
寮生への用ならレオナが直接呼びつけた方が早かろうに、ラギーが肩を竦める。二回に分けて連絡を取る事すら面倒臭がる寮長の怠惰さは、こんな時でも変わりなくて不思議と気が落ち着いてきた。
 彼がルークを自寮まで呼びつけるなど明らかにイレギュラーなのに、レオナの判断ならばと思っているラギーが居るのだ。

 ラギーの丸い耳がピンと立つ。
 じゃあ王様を待たせちゃ悪いッスね、とわざとらしい程に軽薄な声を出して寮長室に急いだ。


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 サバナクロー内で最も広い部屋を一人で使用するレオナの部屋には、ルークとラギー以外にも三人の客が居た。
 リリアとアズールとイデアだ。イデアに関しては生身ではなく例の空中浮遊するタブレットのみなので頭数として数えていいのか怪しいが、カレッジの学生にとっては見慣れた光景であったのでラギーも極自然にそれをイデアとして認識して会釈した。

 リリアは、華奢な手には些か厳ついスマホでオカルト掲示板の件のスレッドを表示させながら、ラギーとルークに微笑みかけた。
 彼等は既に、売られっ子症候群についての発信源がラギーである事を把握している上、掲示板では伏せている情報もある事まで察しているようだった。つまるところ、レオナの部屋に集まったのは何らかの有識者、あるいはラギーのような参考人であるらしい。
「不特定多数が見ておるスレじゃ言い辛い事もあろうと思ってな」
リリアの縦長の瞳孔を持つ眼が意味深に細められれば、アズールが眉根をぐっと寄せて俯いた。アズールの視線は、自身の靴先ではなく、彼と壁の間に立てかけた似に向けられていた。荷は薄いが大きく、実験で使うような魔力を通さない白布に包まれている。警戒の必要な品を持参したらしい。ラギーにはそれが本件と何の関わりがあるのか見当も付かなかったが、オクタヴィネルの者が呼ばれている事に関しては特に疑問を抱かなかった。監督生とその周囲を浸食した異常が発覚する切欠を作ったのはオクタヴィネルであり、水面下での影響を多く受けていたのも間違いなく彼女の勤務先であるモストロ・ラウンジだ。他では知り得ない情報が一番出る確率も高かろう。
『拙者には何もありませんが』
「お前は情報統制と情報収集に要る。管理人だろうが」
無関係を主張したイデアが、レオナにピシャと一蹴された。

 レオナはイデアに対して横柄な口を聞くが、彼の役割と技術力は買っているようだった。
 校内掲示板は代々生徒によって運営されており、今年はその管理をイデアに任されていた。放っておけば直ぐに揉めるカレッジ生達が匿名で好き勝手言える掲示板は簡単に治安が最悪になる上、なまじ能力的に優秀な生徒も居る所為でハッキング合戦や邪悪なプロパガンダ等の情報戦が次々と湧く。今の掲示板が心無い書き込みばかりであろうと会話不能の手の付けられない混沌に陥っていないのは、偏にイデアの功績である。
 情報統制という単語に不穏さを覚えつつも自身の役割を了解したらしいイデアは、タブレットに件の掲示板を表示させる事を返事の代わりとした。

 掲示板では、監督生を捜索に行った二人と一匹がトレインと合流するまで暇を持て余しており、関連事件の情報を張り付けては不安を煽るスレッドで埋められていた。
 英雄の国で起きた少年による連続猟奇殺人が話題の中心になっているが、薔薇の王国より出身者が少なく反応も乏しい。目新しい情報も無く停滞に近い状況である。


 さて、とリリアが本題に入る合図をした。
 彼は手元のスマホの画面をスクロールさせ、ルークの投稿したイラストを表示する。
 紫のアイライナーで手早く描かれた絵は、簡潔だがスケッチやペン画のような克明さがあった。誰がどう見ても、巨大な異形の男が子供を長い両腕で抑えて、頭から食い殺している絵だ。人食いの男は、監督生に憑くオッサンと仮称されていた手の長い怪異と外見的特徴が見事に符合している。ルークの画力の高さやオッサンが特徴的過ぎることが、気の所為や偶然で片付ける事を許さない。
 紫一色の絵が、不気味な存在感を以てラギーの視線を縫い留める。
 しかし、符合はそれだけに留まらないようだった。

 レオナがベッドに腰掛けたままアズールを顎で示せば、アズールは気拙そうに頷いて壁に立てかけていた荷物の包みを解いた。
 現れたのは、幅百センチ程の風景画であった。自然と一体化して崩れかけの白い遺跡に、猿が出入りしている油絵だ。学園に飾られた肖像画と同様に顔料に魔力が込められているらしく、キャンバスの中は樹々が風に揺れている。しかし、学園の肖像画達のように喋ったり音を出したりする程のものではなかった。たまに蔦を伝ってやってきた猿が画面を横切るくらいで、特に面白みの無い構図だ。
 しかし、ラギーとルークはほぼ同時に息を飲んだ。
「Oh la la ! 私の描いた背景と同じ建物だね。蔦や樹々の植生から見ても、同じ場所だ」

 ルークがアイライナーで描き起こした「叡智を貪る森の王」の背景にある遺跡と、窓の形も数も階段の造りも全く同じだったのだ。
 オッサンと呼んでいた男は見当たらないが、ルークが言うことには背景が完璧に一致しているらしい。
「こりゃ宗教画だ。テメェら、これについて何処まで知ってる?」
レオナが低い声で問う。その台詞に得意の皮肉は無く、何処までも簡潔だ。閉じている時の方が多いレオナの眼は、珍しく警戒心を伴った光が宿っている。
 その様子に、ラギーは事態が根深いものであると悟ったが、特段答えられる情報を持ち得ていないので、肩を竦めて首を振ることしかできなかった。

 絵の具の感じからして、そこそこ年季が入っている絵であることは伺える。
 しかし、遺跡と猿の取り合わせがメジャーなモチーフという話などラギーには聞いた事も無い。
 世間的にも意味を持つ取り合わせでは無さそうなことは、美術に詳しいであろうルークの反応からも伺えた。然してメジャーな宗教ではなさそうだと察せただけである。レオナを前に発言する価値も無い。


 ルークは顎に手を当てて、ふむと首を傾げる。傾げられた頭から、切り揃えられた髪が重力に従って垂れていた。
「私も幼い頃に連れられたオークション会場で一度見ただけなんだ。タイトルも、赤い花を貪る猿の王だったと記憶しているよ」
ルークは記憶を辿るように喋るペースを落として言葉を紡いだ。
「絵に花は描かれていなかったけれど、食いちぎられた子供が赤い花に見えたのが印象的で覚えていたんだ」
シャープな顔の輪郭に金糸の髪をサラサラと垂らすルークは彼自身が美人画として飾られていそうな風情があったが、彼の記憶する絵は一般的な美しさとは遠いようだった。
 子供の血肉を見て花を連想する幼い狩人を想像したラギーは、思わずウヘェと呻く。サイコパスの方? と呟いたのはイデアだ。しかしルークは、自身の感性をに対する批判など聞こえなかったかのように考察を重ねた。
「描かれた植物……例えば巨大なボダイジュ、虎目石の色をしたキヌガサタケ、原種のジャボチカバ、ベンジャミンの幹に付けられた熊の爪跡、象の足跡の形の禿げを残すコケの様子などからして……象牙の村あたりの森を描いていると思ったくらいだろうか。思い出せることが少なくて済まないね」
仔細に語られた植生に、リリアすらも一寸瞠目した。年齢不詳の余裕に満ちた顔が一瞬崩れ、感嘆の声が漏れていた。

 その答えで納得しなかったのは、レオナだ。
「――それで、ヒトに成り損ねた獣だって?」
獅子そのもののように、レオナが鼻に皺を寄せて低く唸った。
 ヒトに成り損ねた獣というのは大方、獣人属への罵倒として使用される概念であるからだ。
 その背景には、文明化によって軟弱でも生き残れる社会形態が確立されるに従い、獣人の肉体的強靭さという優位性の価値が薄れてきた事も原因として挙げられるのだろう。現に、獣人の集落は経済的に窮していても、ヒトより屈強で生存に長けている事を理由に支援が後回しにされがちという風潮もあった。故に、百獣の王の立場と遺伝子を有するレオナは、その言葉を聞き流せはしないのだ。

 ルークも己の失言に思い当って、嗚呼っと声をあげた。
「私が軽率だった。あの言葉は決して君達への侮辱ではないし、君達が完璧でないと思ったことも無いよ」
他ならぬ狩人の台詞だ。謝罪を受け取ったレオナは、それ以上の弁明を求める事無く怒気を引っ込めた。
 迂闊にそれ以上を聞けば、体中が痒くなる賛辞が襲ってくることを理解している事もレオナは理解していた。美を追う彼が、爛々と見つめる獲物を認めていない筈がない。
「ただ、描かれていた猿の王には、食らっているヒトの子への畏れと焦り、そして羨望があるように見えたんだ」
生き物を食らう行為には、往々にして征服の意味が伴う事がある。人間と括られる生き物同士でも同様で、箒以上の移動手段が確立されていなかった時代には、夕焼けの草原の南部にも討ち取った敵対部族を食す文化があったとされていた。そして世の中には、愛着や憧憬による同一化願望の果てに相手を食す食人文化も存在する。ルークはヒトの子供に食らいつく大男の瞳に、後者の執着を見出したと言うのだ。
「……そうかよ」
レオナは僅かばかりに目を見開いたものの、口数少なく相槌を打って済ませた。右手でチョコレートブラウンの髪を掻き、暫しの思案に耽る。


 イデアのタブレットが映像通信の画面に切り替わり、スカラビアの内装が映された。
『カリムも取引先のコレクターに模造品を見せられただけで、詳しくは知らないそうです』
タブレットは、ジャミルのスマホとも繋がっていたらしい。警護を優先して寮を封鎖したスカラビアとは、リモートで連絡を取り合っていたらしい。
「アレをオッサンと呼ぶことにしたのは、お主の提案か?」
『いえ、フロイドです。猿の王だなどとは知らなかったもので』
『オレも写真だけじゃ分からなかったな。ルークの絵で初めて気付いたって感じだ』
リリアの質問を、スカラビアの二人は淀みなく返す。まるで疚しい事のない人間の声だった。
『絵のタイトルも間違ってたみたいだしな。実質何も知らないんだ』
『そういう訳で今回は何も力になれる事はありません』
快活に無知を明かしたカリムの後で、ジャミルが慇懃な口調で関わり合いを拒絶する。
「俺にそのコレクターの住所送れ。後は好きにしろ」
レオナもあっさりそれを承諾して、通信を切った。イデアのタブレットも、再び掲示板のリアルタイム表示へと戻った。


 最後に、レオナとリリアの視線がアズールへと向けられた。
「僕は、報酬を支払っていただけなかった方のご実家から頂いただけです。極めて珍しい絵だというので受け取ったまでで、今の今まで倉庫に眠らせていました。フロイドが背景の遺跡と似ていると言い出さなければ、僕は本件と何の関連すら見出しませんでしたよ」
アズールの具合が悪そうなのは、監督生の件にオクタヴィネルが関わった部分が多過ぎるからだろう。その上、寮に置いていた絵が呪物の類であったとなれば、更なる誹りは避けられないに違いない。幸いアズールは、この期に及んで保身の為の嘘や取り繕った説明で誤魔化す程視野の狭い男ではなかった。聴取の意図は未だ開示されずとも、持っている情報はさっさと吐いた。
「絵の持ち主だった方の情報もご必要ですか」
レオナが視線のみで肯えば、アズールは淀み無く債権者の名前と住所を明かす。ラギーにとっては名前だけでは顔や所属寮を思い出すに至れないような男であったが、アズールは手元に資料を用意しているかのように流暢に個人情報を開示した。レオナは、手元のスマホでその情報を何処ぞに送っているらしい。
 ラギーにはレオナが何処と連絡を取っているのか察しが付いてしまって、ささくれた指で服の裾を掴んだ。レオナの眉間に寄る皺の深さと苦々しさが、ホリデーでもないのに実家に帰らざるを得なくなった時のそれに近かった所為だ。夕焼けの草原の王家が関わる事態とは、碌なものではないだろう。
「で、そのフロイドは」
「オンボロ寮にファラス手稿を取りに戻りました。トレイン先生が探されているようですし、オンボロ寮のセキュリティで禁書を置いておくわけにはいきませんからね」
アズールは挽回の機会を取り溢すまいとリーチ兄弟も使って動いているようだったが、そちらに関してはレオナの興味の外であるらしい。レオナはスマホに視線を戻して、話を半分すら聞いていない時特有の気怠い相槌を打っただけだった。
「まあ、フロイドは人魚じゃしな。陸の確執には疎かろう」
「どうだか。あのウツボ、嫌に鼻は良いぜ」

 リリアとレオナがフロイドも呼ぶべきかと言い始めたところで、イデアが掲示板の進展を告げた。
『噂をすればってヤツですな』
最新の投稿者は「うつぼ」の固定ハンドルネーム、つまりはフロイドだった。

 漸くトレインが監督生の捜索隊と合流して本校内を調べる様子が実況され始めた所に、フロイドが割り込むように動画だけの投稿をしたのだ。
『オカ板で無言リンクはフラグ扱いですぞ』
呆れと期待が半分ずつ混じった声でオタク特有のマナーを説きながら、イデアは動画を開いた。

 動画を読み込んだタブレットに、薄暗い部屋の中で椅子に座る二人の男子生徒が映る。部屋はオンボロ寮の空き部屋のようで、極端に物が無い。
『ごべ、ごべっごべんなざいっごべんなざいっ』
『ごべんなざ、ごべんなざいぃ』
男子生徒達は、椅子に座ったまま謝罪を繰り返していた。顔を殴られているのか、頬が変色している上、発音が拙い。
 彼等は椅子の後ろで手を縛られているらしく、頭を振る激しさに反して上半身の可動域が不自然に狭い上、椅子が絶え間無くギシギシと鳴っていた。そのノイズに混じって、フロイドと思しき撮影者の息遣いが聞こえるのも最悪だ。彼等は明らかに撮影者に怯えて震えていたし、殺風景すぎる背景も相俟って拷問を受ける捕虜のような風情だった。
『ぼぼぼくたぢ、監督生、ざんに……しゅ、手稿を渡じまじた……』
『と、とじょ、館の、じょ、書庫から盗みまじだ……』
彼らの身体の震えが、歯を打ち鳴らす音として聞き取れた。縺れる舌が生む吃音は、鼻濁点も交じって耳障りだが、彼らの事情は実に分かり易かった。大方、ファラス手稿と症候群の取り合わせの拙さを知って手稿を取り返そうとしたところを、フロイドと鉢合わせたのだろう。どう見ても賢い連中には見えなかった。

 底冷えした無言を貫く撮影者に、不味いと感じたらしい男達は早口で弁明を重ねる。
『ぢがう! 監督生が悪いんだ! 変わっだ花を作る方法を聞いだがら! 尋常じゃないのがほじいっでいうがら……』
常道の品種改良はサイエンス部がやっている。あのサイエンスが手出ししない範囲で探すなら邪道しかないと、彼等は足りない頭で考えたのだ。
『あの女がいげないんだ! 何でもずるって言うがら! 野良犬みでえな身体のぐぜにっ手なんで握っで! うう、うううーっ』
自分達は誑かされたのだと、彼等は必死に主張していた。件の精神干渉による一時の錯乱だと言えば彼等も責任を問われる可能性は薄かろうに、彼等は女体への下心で動いたと素直に認めた上で被害者の顔をしているのだから救えない。同情を買うどころか愚かさを強調するだけの効果しかない涙に、視聴したレオナが心底怪訝な顔をしていた。育ちが良すぎる彼は、度を越えて愚かな人間を見る機会が乏しいのだ。

 動画を見終えて画面がスレッドに戻れば、恐ろしい速度で彼等の個人情報が出揃っていた。
 千人を超えない学園であるので、掲示板に顔が晒されれば特出した功績の無い生徒であっても分からない筈がない。不安と鬱憤をぶつける都合のいい相手を見つけたと言わんばかりに、罵詈雑言の嵐が吹き荒ぶ。
「ま、監督生一人で書庫から禁書を盗むよりは現実的な真相じゃな」
動画を見終えたリリアの声は、実に冷ややかだった。彼の大きな眼は、今や軽侮によって半分閉ざされていた。

 しかし、彼等の動画に一番不快感を示していたのは、アズールだった。
『あ、待って。クラレンス・クリッターって彼、おっぱいビーバー氏では? ほら、執拗にスレで監督生氏のオッパイの話してて、ビーバーの獣人ってバラされてた人』
オクタヴィネル生だったよね、とイデアが言いきる前にアズールが盛大な溜め息を吐いた。そのまま六秒間、きっちり息を吐く。アンガーマネジメントの作法の一つであった。他寮に居る手前、冷静沈着を装うアズールだが、問題児の続出に心底苛立っているのは火を見るより明らかだ。
「……もう一人はイグニハイド生でしょう」
『そう。毎週末、モストロ・ラウンジでバイトしてる二年生の』
アズールが心底嫌そうな顔でタブレットを睨めつける。

 イデアとアズールが責任を押し付け合う最中、アズールのスマホが鳴った。フロイドがアズール個人へと動画を追加で寄越したのだ。
 それは不特定多数が閲覧するスレッドには敢えて投稿しなかった動画であったが、イデアの技術を前にしては機密も何も無かった。イデアは特に何の説明も無く、彼らの通信をハッキングして自身のタブレットに動画を再生させた。
『お前等がファラス手稿盗んだのってもしかしてさぁ』
個人宛であった所為か、今回の動画にはフロイドの声も編集されずに入っていた。先程の投稿から数分しか経っていない筈だが、縛られた二人の顔には痣が見るからに増えている。両方の鼻腔から血を垂らして、更に喋り辛そうな様相になっていた。
『管理があまぐて、簡単にもぢだぜだっで、い、いっでだがら……ア、ア、アジェングロっッドが……』
『ア、アズ……じ、じ支配人が、ブァラズ手稿はっ、ど、どっ毒にも薬にもならないっで、いっでだがら!』
こんな事になるなど思わなかった、と涎で薄まった血を口から垂らしながら主張する生徒達をフロイドが蹴り飛ばす。
『だってさアズール。これ、アカイカせんせーに引き渡す前にどーにかしなきゃだよ』
フロイドは椅子ごと倒れた寮生の上に座り、カメラに向けて言った。カメラは定点ではなく、フロイドを画面の中央に収めるよう動いていた。となれば撮影者はジェイドに違いない。ジェイドならば暴行を加えるまでもなく彼等に口を割らせる事ができただろうに、そうしなかったのは愉快犯と呼ばれがちなリーチ兄弟も寮生の愚行にはほとほと腹に据えかねていた故だろう。そう確信させる苛立ちが、短い動画から伝わっていた。
 イデアが勝ち誇った声で『ホラ、君の影響だった! 拙者無罪!』とアズールを煽る。

 レオナはイデアのタブレットを引っ掴むと、それでアズールの頭を叩いた。
「大体てめえの所為じゃねえか」
『ぁ痛ァっ!』
叩かれたアズールより早くイデアが悲鳴を上げた。タブレットに痛覚が接続されている訳ではないので、ただの反射である。一方イデアにリアクションを盗られたアズールは、ずれた眼鏡を直すこともなく呆けていた。
 アズール自身も騒動の要因の一つになっているとはいえ、その姿は流石に哀れを誘った。


 ルークがレオナからタブレットを回収し、アズールと距離を取らせると、わざとらしい咳払いを一つして話題を変えさせた。
「そろそろ話を猿の王に戻すべきじゃないかい? トリックスターに憑くモノについて、獅子の君は詳しく知っているのだろう?」
ルークはレオナから回収して宙に放った。自由の身になったタブレットが再び宙に浮けば、イデアもルークの言葉に乗っかって話題の軌道修正を図る。イデアも、いつまでも自寮の生徒の過ちについて掘り下げたくはないのだ。
『そうですぞ。結局その絵って何なんでつか。わざわざオフで集合かけたあたりそこそこの重大事実の発表がないと白けますぞ』
「てめぇはオフじゃねえだろ」
タブレットだけ寄越したくせにと、レオナが平べったい眼をした。リリアは「今更じゃな」と生温い諦観を示している。
『検索しても全然出こないのも気になりますな。絵にあった遺跡はストリートビューじゃ見つからないし。絵が珍しいとか言われてたあたり、とうに廃れたマイナー教か邪教では?』
イデアはタブレットをストリートビューに切り替え、象牙の村周辺の航空図を表示させた。レオナに掴まれていた時は「タブレットが壊れる」だの「これだから野蛮人は」だのと聞き取り難い早口で批難を並べ立てていたイデアだが、一応はそれなりに調べていたようであった。彼は口調こそ軽薄だったが、確信めいた響きをもっていた。

 そも、宗教画とは通常、読み書きのできない者にも神の威光を示して宗教の存在を広める意義がある。目立つべきであり知らしめられなてくてはならない物の筈である。それなのに秘匿されているかのような露出度の低さとは、到底尋常ではなかろう。そうイデアは踏んでいるのだ。
「両方正解だ」
レオナは長い尾でベッドを叩き、不機嫌に頷いた。リリアも訳知り顔で腕を組む。
「今はもう取り潰された宗教であり、邪教じゃな」


 邪教と聞けば、ラギーとアズールの顔が目に見えて強張った。
 ルークも後輩二人程ではないにせよ、決して穏やかとは言い難い様相だった。

 イマジネーションが魔法の原動力になる事を承知している世界、殊に魔法士おいて、思想と価値観を共有することを容易にする宗教は取り扱いが一際慎重だ。
 禁忌を禁忌と思わぬ思想が集まれば、通常は無意識に倫理と常識が抑圧しているが故に為し得ない魔法にすら手がかかるからだ。
「これが描かれたのは二世紀以上前、ヒトが獣人をケダモノと呼んでいた時代。種族同士で争い迫害し合った末、獣人属の一部がヒト属憎しで立ち上げた邪教だ。猿の王はその象徴。太古の昔、森中の猿を従えたギガントピテクスの獣人が、ヒトを超克せんとしていたっつう伝説から祀り上げられた偶像だ」
ラギーは、ルークの描いた猿の王を再度見遣った。巨猿の遺伝子を持つ獣人と言われれば、長い腕にも大きすぎる体躯にも納得がいった。すぐに獣人という正体に行きつかなかったのは、獣人といえばヒト属より高い位置に付いた獣耳がある筈だという先入観があった所為だろう。まして、ギガントピテクスは現存しない生き物だ。ヒトと変わらぬ耳の形に惑わされれば、まず正体を見失う。
「猿の王の逸話には、赤い花の存在が欠かせない」
レオナはなおも説明を続けた。
「猿の王は、ヒト特有の力が宿るとされる赤い花を探していた。その花を手に入れれば、ヒトを超えた存在として世の総てを支配できるんだと。邪教の信徒達もまた、その花を探してるって話だ」


 レオナの唇が軽薄に歪む。
 王を名乗り邪教の偶像とされた者がオッサン呼ばわりされているのは、良い気味ではあるのだろう。皮肉と嘲りしかない、乾いた微笑だった。
「ヒトに成り損ねた獣ってのは、猿山の王に関しちゃ的確な表現だ」
それにしても、ただ一枚の絵を見ただけのルークが、猿の王が抱くヒト属への執着を的確に当てるとは。その感性の鋭さと勘の良さには肝胆寒からしめられる思いがすると、レオナは吐き捨てた。


 一方、寮に邪教の絵画を置いていたと発覚してしまったアズールの顔色は芳しくない。魔法士が魔女として狩られていた時代の終焉と共に、邪教と呼ばれ得る思想集団の取り締まりも厳しくなっているかからだ。危険な呪物を持ち込んだに等しい失態だ。
「……なら、監督生さんに憑いていたのが猿の王なら、一連の異常事態はこの絵が引き起こしたと言うんですか」
さあな、とレオナが意地悪く答える。ファラス手稿の時の態度とはまるで違ったので、今度はアズールの所為という訳ではなさそうだと皆何となく察せはしたが、絵に対する忌避感は拭えない。

 リリアが油絵の具の絵肌を指でなぞりながら、アズールを宥める。
「絵自体に大層な呪いが込められている訳でもなし、それどころか啓蒙する口も無し。皆ロクにオッサンの姿も知らんとなると、学園で振興しとる訳じゃなさそうじゃな。となれば、此処に絵があるのは偶然じゃろう。まして、ヒトと獣人の諍いの種を、人魚のお主が持っていて何になる。絵そのものの存在は気にせんで良かろう」
アズールを邪教の徒と貶める為に絵を押し付けたと解釈するにしても、人魚という属性が邪魔をする。そういった意味で、リリアは宗教画の登場を偶然だと結論付けていた。逆に、獣人の所属割合が最も高いサバナクローにこれがあれば、彼らはもっと慌てていたに違いない。
 レオナもリリアの見解に頷き、忌々しげに補足した。
「そも、今その教えの全貌と経緯を知るのは、古くから続く王族を除けば妖精のような長命種くらいだろうよ。宗教自体はヒトと獣人の和平と共に駆逐され、経典は悉く焚書された。偶像も市民の手で破壊され、時に為政者によって押収された」
勿論、獣人の多い夕焼けの草原も差別思想を助長する教義に手を焼いてきた歴史がある。レオナが猿の王を知っているのは、そういった家柄故である。


 レオナは一旦言葉を切って、風景画に視線を落とした。

 宗教が取り潰されても、人々の記憶まで消した訳ではない。
 信仰の本流は断絶したとはいえ、その枝葉は確実に世に広がったままである事も、その画が明らかにしていた。
 権威が躍起になって押さえつけたところで、奪えないのが信仰だ。信仰は思想であり、アイデンティティであり、生活だからだ。迫害を受けた宗教は得てして、名を変え、信仰者にのみ分かる符丁のみを残す等の変質を経て密かに受け継がれる。恐らくは、宗教画から猿の王や貪られるヒトが消えて風景画の体で描かれるようになったのも、そういった理由だろう。
 そうして姿を変えた思想は権威の目を逃れ、現代に紛れるよう形を変えて、あるいは美化されて、現代に遺されてしまった。

 それは最早、信仰する人々すら原型を知らないかもしれない。その思想を仰ぐ人々も、それが禁じられた宗教だと認識しているかすら定かではない。
 それでも確かに、邪教の名残は現存していた。
 ヒトと獣人が血を流し合った歴史を経て、世界に普く散った獣人の子孫の一部に、脈々と受け継がれてしまった。そこまでに何世代を経たことだろうか、何人の意識を経由しただろうか。果てしなさ過ぎて一介の学生には見当もつかない量の時間と人数が関わってしまった事だけは確かである。
 そこまで世界に蔓延り円熟したそれは、呪いに等しい。

 呪いは絵ではなく、人の心の奥底に、思想の狭間に。意識の片隅に澱となって、想像力に干渉する影響だ。マジネーションを濁らせる程に円熟したそれは、魔力を媒介して現実を蝕む。
「じゃ、監督生くんに憑いたオッサンは――売られっ子共に花を探させたのは――」
特定のイマジネーションの集積が売られっ子症候群などという超常の現象を生んだのではと、仮定を口に出しかけたラギー。しかし、言い切る前に矛盾に気付いて、彼は自らの考えを指摘し始めた。
「いや、獣人の信仰なのに被害者も加害者もヒト属って……いや、獣人の信仰がヒト属を呪って――」
ラギーの口を、ルークの大きな手が塞ぐ。

 ルークのグローブに覆われた掌は、ラギーの口を強く押さえていた。
 ハイエナの口許に手を出す事が如何に危険かを承知している筈の男の行動に、ラギーが瞠目して硬直する。
「いけない。君がそう思うのなら、尚更それ以上を口に出してはいけない。考えてもいけない」

 ルークの静止を受け、ラギーの背にどろりとした汗が伝った。
 価宗教は取り扱いが一際慎重なのは、値観を共有することを容易にするからだ。禁忌を禁忌と思わぬ思想が集まれば、通常は無意識に倫理と常識が抑圧しているが故に為し得ない魔法にすら手がかかる。否定や肯定の次元ではなく、存在を認めること自体がリスクなのだ。
 邪教と価値観を共有してはならない。理解しようとしてはならない。魔力を持つものがその考えに深入りすることは、そのイマジネーションが現実を蝕む魔力を強めることに加担することだ。


 しかし、レオナは不敵に笑う。
「いいや。口に出すべきだ。疑問を並べ立てることは、理解に繋がる。理解は想像の解像度を上げ、イマジネーションを強化する」
だからいけないのだろうと反論しかけたルークは、中途半端に口を開けたまま黙した。言葉を発する前に、レオナの考えを察するに至ったらしい。
 同じくこれから起こすべき事を察したらしいイデアは、タブレット越しに心底面倒臭そうな詠嘆を漏らしていた。
『僕が呼ばれたのは情報統制って、そういう』
そういうのは情報操作って言うんでは、と泥のような小声がスピーカーからブツブツ聞こえるも、拒否も否定も無かった。

 リリアは面白くなってきたとばかりに好戦的に笑ったが、アズールは上級生たちが正気なのかと確認していた。
 ラギーもどちらかといえば、アズールに寄った心境であったが、指揮を取るのがレオナなら異存はなかった。
「有象無象が構成する抽象的な想像じゃあ、対処するにも雲を掴むようなもんだろう」
まずは実体を定めてやるべきだと、レオナが口角を上げた。

 百獣の王の血を受け継ぐ男から、猿の王への宣戦布告であった。

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