異邦人たち

 よく晴れた月曜の昼休み、グラウンドに吹き渡る温い風が芝生を撫でていく。
 その木陰で微睡んでいたフロイドを叩き起こしたアズールは、異常事態を宣言した。
「ジェイドを見ませんでしたか」
「なぁに、無断欠勤? あ、ちげーわ。シフトあったのオレじゃん」
フロイドが眼を擦りながら、半分眠ったような声で応じる。アズールは豪快に舌打ちした。基本的に自分を優雅に見せたがる彼が屋外で不機嫌を露わにするのは珍しい事だった。その上、フロイドの無断欠勤と悪びれない態度には構いもしない。そのイレギュラーな対応に漸く、本格的にまずい事態だと実感したフロイドは上体を起こした。
「昨日の夕方見たっきり。アイツ何かしたの」
「監督生さんを、人魚に変えました」


 フロイドが一瞬呼吸を止めて、マジで? と聞き返すが、アズールは神妙に頷くだけだった。
 アズールはつい先程、グリムを連れたエース・トラッポラとデュース・スペードに泣きつかれて監督生の様態を知ったばかりだった。監督生と同居するグリムによれば、土曜日にジェイドが一時的に人魚になる魔法薬を彼女に飲ませたらしい。
 ジェイドと監督生は、恋仲にあった。だから、休日を人魚の姿で海底散策するデートに費やすというアイデアは、別に不自然ではなかった。服薬した監督生が未だに人魚の姿のまま人間に戻れない事を除きさえすれば。
 ジェイドの説明によれば、日曜の夕方には薬の効果も切れるので学業には差し支えないとのことだったが、監督生は未だ陸地を歩けずにいる。とりあえず監督生は浴槽に浸かりながら薬の効果が抜けるのを待つ事にしたらしいが、この学園において監督生とグリムは二人で一人分の籍なのだ。グリムの小さな身体では、魔法薬学の大鍋を掻き回す事にも四苦八苦し、魔法史では眠気を堪えきれずにノートを取り損ねていた。そこで彼は、ジェイドに責任を持って一刻も早く監督生を回復させろと陳情に来たのだ。しかし、校舎にもモストロ・ラウンジにも、ジェイドは居なかった。
「……それ、本当に人間に戻れる保障あんの?」
「知りませんよ」
顛末を聞いたフロイドが、口角を下げて呻いた。ジェイドは魔法薬学を得意としている。飛行術と倫理学を除いては成績優秀な生徒だ。からこそ、アズールとフロイドは青褪めた顔を見合わせあった。恋人を自身と同じ種にしたいとジェイドが考えていたなら、監督生の二本脚はもう戻ってはこないだろう。
「遂にやっちゃったか〜」
「やっちゃった、じゃ済みませんよ。もしそうなら良くて退学、悪くて実刑です。僕もお前も監督責任を問われますよ」
ジェイドをひっ捕らえて聴取しない事には埒が明かぬとアズールが息巻く。
「何でオレまで」
「同室でしょう。犯罪を抑止する義務があります」
ゲェ、とフロイドが長い舌を出した。

 フロイドとジェイドは、兄弟であり同じ寮の同じ部屋を共有しているので、互いの行動についてある程度把握している事が多い。
 しかし、その土日だけは例外だった。兄弟の恋愛事情には興味が無いからだ。何処にデートしようが山でも海でも好きに行けば良いと思っていた。
「珊瑚の海で小エビちゃんとデートするっつって土曜の朝に出てったんだよ。そんで、日曜の昼に帰ってきた。死にそうな顔で、僕はもうダメですっつーから、あっそう? って」
それっきり、フロイドはジェイドと会話をしていない。今朝フロイドが朝食を掻き込んでいる時も遭わなかったが、モストロ・ラウンジの仕込みで明朝から出ている事もあれば、朝の気だるさのままに寝こけている事もあるので気にも留めなかった。

 デート直後に落ち込んでいる理由くらい聞いておくべきだったかもしれない、とフロイドは後悔した。
 もし意図的に監督生を完全な人魚にできたなら、ジェイドの機嫌は良かった筈だ。もしも完全な人魚にされた事に絶望した監督生がジェイドを見限ったなら、彼女は既に教員などに告発しているか、オンボロ寮に帰還する事自体無かっただろうからこの可能性も除外していい。ジェイドは単に魔法薬を失敗していて、未だに人間に戻れなていないのがただの事故だったとしても、監督生に合わせる顔が無くなったなどと思うような可愛らしい良心をジェイドが持っているかは怪しい。
 ジェイドの事をよく知っていると思っていた幼馴染と双子の彼等だからこそ、事情の全貌が飲み込めずにいた。
「死にそうな顔を見た時点で食い下がりなさい。仮にも兄弟でしょう」
お陰で何もしらないまま尻拭いをさせられている、とアズールはフロイドにあたった。別にこれはジェイドを心配した発言ではない。自分に火の粉がかからなければ、アズールは何も言わなかっただろう。オクタヴィネルのモットーは自己責任なので。他人が苦しもうが、苦しむ弱さを持ったのが悪いのだという精神である。
「知らねーよ。つか他の兄弟はマジで死んでんだもん」
フロイドは舌打ちで応じた。多産多死なウツボの倫理に正直だった。イルカやクジラ等の例外はあれど、海の者は大抵がそうであるので、フロイドが特別に冷酷という訳ではない。アズールも苦々しい顔でその言い分を認めた。

 だが、オクタヴィネル寮生の不祥事は、寮監たるアズールの不祥事である事に変りはない。アズールはモストロ・ラウンジの常連客や従業員達を使って、ジェイドの捜索網を展開した。彼を捕獲した者にはポイントカード一枚分を贈呈すると告知したのである。



 そしてアズールとフロイドは、どうにか示談で済ませようとオンボロ寮に急いだ。
 一応、菓子折りも持参した。ゼリーの詰め合わせだった。浴槽から出られぬ身に湿気り易い焼き菓を渡すのはナンセンスだと、アズールが購買部で選らんだのだ。
 教授が既に知っているかは怪しいが、彼等の保身の為には大人達の手を借りずに解決するか、せめて監督生を穏便な方に丸め込んでから大人を頼りたかった。

 オンボロ寮は、ナイトレイブンカレッジ校舎の東側に位置する丘にポツンと建っている。
 監督生の掃除と少々のリフォームによって「古びていて利便性の少ない」程度の形容に収まるようになってきた寮舎内は、ゴースト達が不安気に彷徨っていた。彼等に案内してもらう事で、アズールとフロイドは浴室に辿り着いた。
 浴室は、オクタヴィネルの寮舎と違って狭かった。脱衣所と合わせて二帖半あるかないかだ。
 湿気で錆びた手摺りとシミの目立つ天井に比べて、タイル張りの床だけが新しい。浸水防止にリフォームしたのだろうが、ジェイドのピアスと揃いの菱形のターコイズブルーを基調としたタイルのセンスに、施工した人物を察したフロイドは少々寒気がした。ウツボは雄が雌の住居を訪問する配偶システムの生き物だからだ。恐らくジェイドは、テラリウムを製作する際のような凝り性を発揮して、頻繁に通う巣を楽しく整えたことだろう。

 フロイドくらいの長身の男が入ったら湯船の半分が溢れてしまいそうな狭い浴槽に、下半身を魚の尾に変えられた監督生が詰まっていた。
 上半身はパーカー型のラッシュガードを着ていたが、身体的な特徴はウツボの人魚であることを明らかにしていた。こういった薬には大抵、変身後の形となる生き物の一部が要る。ジェイドが彼女に他の人魚の血肉を摂取する事を許す筈もないので、彼女がウツボの姿になったのは当然といえば当然だった。
「グリムったら。皆には内緒にしてって言ったのに」
監督生の情緒は、二人の予想より遥かに落ち着いている。ジェイドに腹を立てている様子は無く、今日は様子を見る予定だと明かした。あまりに朗らかなので、アズールとフロイドは謝罪のタイミングを失い、示談交渉も宙に浮いた。ただの見舞い品になった菓子折りは、浴槽の縁に鎮座している。
「残念ですが、あなたのご友人の八割は既に知っています。教授達も既にご存知かも」
アズールは彼女に外界の様子を教えた。動揺した監督生が尾を跳ね上げ、水面がざばざばと揺れた。水位が減った浴槽は更に窮屈に見えて哀れだったので、フロイドは蛇口を捻って水を足してやった。いっそ学園内にバレたならオクタヴィネルの中庭にでも移れるのにね、とフロイドが慰めればアズールが嫌な顔をした。フロイドもジェイドもあそこでたまに泳ぐが、オクタヴィネル寮舎自体が海中にある為に、野良猫と同じくらいの感覚で鮫も迷い込む。他寮かつ人間であった彼女に「鮫より弱く遅かったので食い殺されても仕方がありませんでした」という自己責任論を適用する訳にもいかないのだ。
「どうしましょう。ジェイドさん、怒られてないといいんですけど……私、魔法に対抗する魔力が無い所為か、そういう魔法薬に対する耐性が無いんです。魔法士ならありえないくらい効果を引き摺ってしまうらしくって。人間に戻るタイミングが遅いのは、ジェイドさんの所為じゃないんです」
監督生は暢気にジェイドの心配をしていた。彼が賞金首になって捜索されているなどとは思ってもいないらしい。まして、自分が人間に戻れないかもしれないとは微塵も疑っていない。この能天気で大人しげな人間の前でのジェイドは、非常に慇懃で真っ当な人間として振舞うよう努めていたからだ。少なくとも、アズールとの契約の件で対立した時より恐ろしい面は見せていない。監督生の中では、優秀ながらも飛行術が苦手でキノコと山が大好きで、実は下半身が魚の先輩なのだ。倫理学の授業でテキストの丸暗記以外は死んでいるジェイドも、オクタヴィネル寮の空き部屋で嬉々として造反者を絞め上げるジェイドも、きっと彼女は知らない。
「そのジェイドなんだけどさ、昨日ちょーっと様子がおかしかったの。小エビちゃん何か知んねぇ?」
どうかしら、と監督生。フロイドは、片割れが人間と交際するにあたって、過酷で生臭い深海の生存競争を生き抜いたジェイド・リーチの姿を見せるなと幾度か忠告してやった事があった。だからフロイドの知るジェイドと、監督生の目に映るジェイドは違って当然なのだ。だが、視点が違うからこそ得られる情報もあるのではないか。そう期待しての質問だった。
「もしかして、私がはしゃぎ過ぎた所為で帰りの時間がギリギリになってしまったからかしら。なのに此処まで送っていただいたから、予定が狂ってしまったんだわ。ジェイドさん、怒ってらっしゃるの?」
お店? とアズールとフロイドが顔を見合わせる。恐らくモストロ・ラウンジのことだろうが、最初からジェイドにシフトは入っていなかった。この日の為に予定を空けたのだから当然だ。夕方どころか夜だって、何の予定も無かった筈だ。
 ジェイドがどうしたのかと問う監督生に、アズールは愛想笑いで茶を濁した。ジェイドは監督生に嘘の理由を付けて、デートを中断して戻ってきた。死にそうな顔で「僕はもうダメです」と言い出すような事情で。

 アズールは黒手袋を嵌めた手で眼鏡のブリッジを押し上げて、努めて穏やかな顔を作った。
「はしゃいでいたんですか。そんな風に喜んでいただけたなら、きっとジェイドも満足だったでしょう」
そうだといいんですけど、と監督生。美しい思い出に浸る、夢見がちな少女の貌だった。それだけに、監督生とジェイドの感想が食い違う事が気にかかる。
「……あなたは怒っていないのですか。不安でしょう、今も尾鰭が付いたままでは」
「いいえ、そんなに。ジェイドさんは魔法薬学は得意と仰っていたし、水に浸かっているのも嫌いではありませんし」
人魚となって滑る皮膚と鰓を備えてなお、柔らかいと感じさせる微笑が二人を見上げた。素敵なお土産を楽しんでいる風情だった。流石のアズールも、一生人魚のままかもしれないのにと言うのは憚られた。

 だが、彼女が人魚という存在を易しく見積もり過ぎている事は伝わってしまった。
 陸の人間の多くは「魚は慣れるが懐かない」と言う。どんなに人魚に優しくしても、優しさを返す事はないと信じているのだ。だからこそ、慈悲を見せた海の魔女が特別偉大とされるのだ。オクタヴィネル寮が契約を特に重んじるのは、アズールが寮監になる前からの伝統的な寮風だった。魚に信頼は無い。対価と書状と契約があって、初めて人魚の言葉は陸の人間に届く。人魚の差し出した物を保証書も確認せず飲み干す監督生は、この世界では余りに非常識だった。
 だから人魚を愛せた。だから無垢なまでに、人魚に裏切られる事を考えずにいられるのだ。


 気まずくなったアズールが、フロイドを見遣る。フロイドは制服が濡れるのも厭わず、浴室のタイルに腰を下ろした。
「デートの話聞いて良い?」
構いませんよ、と答える監督生だが、その笑みに照れが混じった。唐突だが、ジェイドと何があったかを知るのは悪くないと判断したアズールは、そのままフロイドに会話の主導権を預けた。
「人魚はコイバナ好きって知ってた?」
「そうなんですか? ああ、でもだからこそ人魚姫の伝説が語り継がれているのかもしれませんね」
でしょ、とフロイドは適当な事を言い出した。
 人魚姫については、一年生も履修する魔法史の授業で扱う。人間に恋をして陸に上がった人魚として、彼女に脚を与えた海の魔女の慈悲深さと、その魔法の威力、そして愚かな夢物語の顛末を学ぶのだ。その際に、アズールは監督生に「今では種族を超えた恋愛も珍しくはない」と教えた事があった。今思えば、その時から彼女はジェイドを好いていたのかもしれないが、アズールはとんだ言葉足らずだった。今では珍しくないというのは、少し前までは珍しい事であったという意味だ。
 人間と人魚の恋が語り継がれるのは、その障害の多さ故。陸に上がって王子の世界に合わせて生きようとした人魚姫が愛されるのは、人魚らしくないからだ。人魚からしてみれば、人魚姫の決断は、尋常ならざる健気というべきか、愚かというべきか、夢物語に相応しいというべきものだった。
 フロイドもアズールも、そしてジェイドも、人魚姫の判断を支持しないし理解しない。一般的な人魚とはそういうものだった。勿論、他人の恋の話に首を突っ込むのを好む訳もない。

 フロイドは、謝罪を兼ねて手渡した筈の菓子折りを勝手に開封し始めた。六角柱のカップに入った緑のゼリーを取り出し、ビーニルの蓋を躊躇無く剥がしていった。
 アズールはそれを咎めるが、監督生は別段気にしてはいないようで、折角だから皆で食べましょうと提案する。台所にも寄れない身体の彼女は、昼餉の用意も出来なくて腹が空いていたらしい。
「またアトランティカ記念博物館にでも行ったの?」
フロイドが、彼女の首に下がる貝のネックレスを顎で示した。博物館の唯一といっていい土産品だった。
「はい。何度行っても良いところですね。それに、先輩方に追いかけられた時の事も、写真を拝見した時の事も、とても懐かしかったです」
「やっぱ定期的に見たいよね、昔のアズールの写真」
アズールがわざとらしく咳払いをして、ゼリーを取る。
「あと沈没船を見に行きました。大きなガレオン船でした」
監督生もゼリーに手を伸ばす。緑色の寒天に浮かぶナタデココの白い立方体が美しいものだった。水掻きの付いた手では、ビーニルの蓋を開けるのに苦労していたが、それでも彼女は御機嫌だ。一方フロイドは、大きな手に対して華奢過ぎる備え付けのプラスチックスプーンに四苦八苦していた。
「オレたちがよく肝試ししてた所かも」
監督生が楽しげに頷く。ジェイドから幼い頃の話を沢山聞いたのだと、頬を綻ばせていた。軍艦にも大型商船にも利用されていた船種であるから、海底に沈んでいるガレオン船は珍しくない。そして、どの沈没船も決まってスリルに満ちていた。
「でもちょっと文教地区から外れてね? 船内とかほぼ鮫の巣じゃん」
スプーンを放棄して直接カップに唇を付けてゼリーを啜り始めたフロイドは、長い舌でナタデココを掬い取ってから顔を上げた。アズールは決して小さくはない手でスプーンを摘み、器用に緑色を口に運んでいた。
「小エビちゃん肝据わってんねぇ」
フロイドもジェイドも、何度か鮫に追いかけられた事がある。全長が三メートルを超えた頃には、鮫を追いかける側に回った。魔法という攻撃手段があるフロイド達は、大型の肉食水生生物に体格で負ける事があろうと大抵は切り抜けられる。だが魔法の使えない監督生にとっては、決して対峙すべき相手ではない。
「でも、オクタヴィネルの中庭にも居る程度の鮫って仰ってましたよ」
フロイドが声をあげて笑った。ジェイドは嘘など吐いていないが、危険に対する説明責任を果たしたかは怪しい。アズールは、危険に嬉々として突っ込んでいく愉快犯を極めたウツボの双子に振り回されてきた過去に思いを馳せた。恐らく、ジェイドに悪気は無く、単純に自分の事を知ってもらおうとして監督生を鮫の巣に連れ回したのだ。
「日が落ちたら、オーロラを見ました」
夜空に緑の帯が揺らめいて綺麗だったと監督生が報告する。ジェイドさんの尻尾みたいでしたと惚気られて、フロイドは益々笑った。フロイドにもジェイドと然して変らぬ長さの尾があり、今の監督生も似た色の尾があるというのに、抽象的な空の模様で特定人物しか連想できないのだから。恋は視野を狭窄させる良い証明になってしまった。
「随分と北の方まで行ったんですね」
監督生が、ゼリーを口に運ぶ。ゼリーの透き通った緑にまで、北の夜空を重ねているような蕩けた眼つきだった。しかしオーロラが出るような場所は、もう流氷に覆われる部分か多くなっていて、人間の思考では遊泳しようなど考えられない環境だ。一体どこまで連れ回したのかと、アズールは頭痛を覚え始めている。
「はい。先輩方の生まれはそのあたりだとお聞きしました」
フロイドから笑みが消えた。あそこはリーチ兄弟すら護身術を身に付けろとわざわざ言われるような場所だったからだ。

 アッと監督生が声をあげる。
「そういえば二日目に、ペンギンを見たんです。可愛いねって言っていたら、シャチの群に襲われて丸呑みされてしまって……気まずい思いをさせてしまったかも……」
だから落ち込んでいるのかも、と思い至った監督生に、アズールもフロイドも食い気味に否定した。
「アイツそんなん絶対気にしねーって」
食物連鎖だし、とフロイド。監督生が酷く怯えるなどしていればジェイドも気まずかろうが、弱肉強食は海での常識だ。可愛かろうが、弱ければ死ぬし運が悪くても死ぬ。そもそも、ジェイドがペンギンを可愛いと思っていたかすら怪しい。

 フロイドが故郷で見てきたシャチという生き物は、時に集団で波を起こして獲物を狩る。海面に浮いた氷板に逃げたアザラシやペンギンを海中に落とすのだ。そのまま食らい付けば良い方で、知能が高いだけに獲物を弄ぶ楽しさも知っている。ペンギンを尾で空中に執拗に打ち上げたり、逃げようと藻掻くアザラシを鼻先で突き回して恐怖を長引かせたりと、性格の悪さでは跳び抜けている。フロイドとジェイドはそれを娯楽として眺めたり、時にシャチの真似をして雑魚を尾鰭で打ち上げたりして遊んだものだった。


 二人は聞けば聞くほどジェイドが信用ならなくなってきた。
「失礼、ゼリーを食べたら身体が冷えてしまって。お茶を淹れて来ても良いですか?」
アズールは、中座を申し出る。彼等が寒さに強い事など彼女はとうに知っている筈だが、人が良いのか疑わなかった。
「ええ勿論。ごめんなさいね、そんな事をお客様にさせてしまうなんて」
それに乗じて、フロイドも浴室から出る。ゼリーのカップを捨ててくるとか適当な理由を付ける事も億劫で、黙ってアズールの後を追う。
 二人分の体重を受けた廊下の木板が、歩く度に音を立てて軋んだ。
「……次回からあなたも二人の外出に付いていきなさい」
「次回があると思ってんの?」
フロイドが半眼でアズールに聞き返す。監督生は持ち前の豪運と肝の太さと危機意識の薄さが起こした奇跡から怯えるような目に遭わずに済んでいたが、人間を連れ回すコースではなかった。


 ジェイドは凡庸だ。
 ナイトレイブンカレッジに入学したばかりの頃、当時のオクタヴィネル寮監だった鯨の人魚が、リーチ兄弟とアズールを上から下まで値踏みするような「人魚らしい」眼で眺め回した末にそう言った。当時は意味が分からなかったが、学園生活の中で人間だの獣人だのといった比較対象が身近になった事で、一年生達もそれを理解した。陸の人間の良識に則って運営される学園において、ジェイドという人魚は普通のままだった。
 無論、名門たるナイトレイブンカレッジに入学できる人魚という意味ならば、飛び切り優秀だった。陸の文化に適応するという意味で、あまりにも典型的な人魚らし過ぎるという意味だったのだ。
 アズールは努力家で、念入りな調査と血の滲む努力を努力と思わない類稀な精神力で陸の理屈に馴染んだ。契約という理性的なユニーク魔法の特性も、良識だの倫理だのとルールに守られたがる陸の勝手と相性が良かった。
 フロイドは気分屋だが天才で、その気にさえなれば完璧に人の皮を被れた。その気になる事が乏しいと言えばそれまでだが、賢い分フロイド本人が苦労する事は無かった。
 だがジェイドは、無意味に困ったような微笑を貼り付けて慇懃に振舞うが、彼と三日触れ合った者は人魚――それも凶暴な肉食の冷血動物らしい本性に気付くだろう。

 種族を超えた恋愛も珍しいとは呼べない程度に見られるようになった今も、未だに人魚を野蛮だの冷血動物だのと呼ぶ輩は居る。
 繕う気の薄いフロイドに言わせれば、反論の余地も無い事実だった。人魚だって、その長い歴史の中で「魚は慣れるが懐かない」を内面化している。人魚は自身を主語に友情だの愛情を語らない。その気持ちが大切な程、信じてはもらえない事を吹聴して何になるのかと虚しくなるからだ。尤も、人魚姫のように、王子の為に声も尾鰭も失う健気さが陸の愛情だと定義するならば、正気の人魚達は愛情など持っていない事になる。
 物語の人魚姫が陸の人間に慕われるのは、王子を海に引き摺り込んだり二本の脚を奪ったりしないからだ。愛しているからと頭から食らったり、溺れる王子と海底でダンスする事を夢見たりしないからだ。つまり、並大抵の人魚ではないからだ。ジェイドの感性はどちらかと言えば、並大抵の人魚の方だった。

 キッチンを探し当てたフロイドが、あまりに良識に則った結論を述べた。
「やっぱ人魚とニンゲンはムリ。特に小エビちゃん、よわよわのフワフワだもん」
せめてジェイドがもう少し人間のフリが上手ければ、とフロイドは左右反転した双眸の片割れを思った。だがジェイドの本能は、人魚の愛し方をしたがっている。本当のジェイド・リーチに触れて欲しくて、彼女を故郷の海へ連れ回した。
「アズールも見たでしょ、あの短い尾鰭。水掻き浅過ぎだし。真っ先に死んでったどの兄弟よりもヨワそーなの」
リーチ兄弟は、人魚の姿なら四メートルはある。だが、あの狭い浴槽に収まる監督生といったら、長めに見積もっても精々二メートル半。小魚でしかない。ラッシュガードを妨げない背鰭の貧弱さも、フロイドには信じ難かった。
「小エビちゃんに何かあったらさ、ぜってージェイド泣くよ……ジェイドが弱くなんのヤだなぁ」
面白くないなぁと零すフロイドに、アズールは無言のまま頷いた。アズールも、ジェイドの執着には足元にも及ばないが、監督生の事は気に入っていた。少なくとも、自身が寮監でいる内は五体満足のままでいてほしいと思っているし、生きて卒業するくらいはしてほしいと思っている。

 茶を淹れると言い訳した手前、アズールは戸棚を漁って茶筒を引っ張り出した。
「げぇ、アイツ紅茶置いてる」
 安っぽい香辛料の瓶と実際安いであろう緑茶缶の隣に、モストロ・ラウンジで上客に出す紅茶と同じ茶葉が置いてあった。同じグラム数でも、ハーツラビュルの何でもない日のお茶会で使用する茶葉の四倍の値段のものだ。食器棚には、二人分の可愛らしいティーカップがそろえてあった。カップには薄いピンクの花の柄があしらわれていた。桃の花だ。花言葉は、私はあなたの虜。毒舌の冴える幼馴染が、随分と可愛らしい事をするものだとアズールは思ったが、ジェイドと彼女にもティータイム楽しむような穏やかな交友の方法がある事に安堵してもいた。
「見なかった事にしてやりましょう」
アズールは薬缶で湯を用意するのを億劫に感じ、マジカルペンを振った。空中に水の塊が踊り、宙に浮いたまま沸騰した。そこへスプーン三杯分の茶葉を放ってやれば、沸騰水が餌を食む鯉のように茶葉を飲んで瞬く間に黄緑色に変った。
 アズールはペンを振って、浴室へ緑茶を転送した。

 フロイドは、ジェイドに気を揉んでやるのは飽きたと言い出し、好奇心の赴くままに戸棚を物色し始める。正確には飽きようと努めていた。飽き性にも飽きないものがある事は、アズールとの付き合いで既に証明してしまっているというのに。
「……オレまだ戻りたくない。トイレ借りてるって言っといて」
二人は寮内をうろつくゴースト達に、ここで聞いた一切の会話を口外しないよう睨んで、フロイドはキッチンに寝そべった。狭い床だった。フロイドが手足を広げきる前に、食器棚や壁が邪魔をしてくる。


 人間の女にだけは惚れたくないな、とフロイドは思った。
 頭の先から尾鰭の先まで好きで溢れているのに、たった一・九メートルの人間の身体に押し込められているジェイドが哀れだった。多分、フロイドならその窮屈さは耐えられない。
 弱い人間を傷付けないように、人間の良識だとか道徳だとかに縛られてやらなければいけないのも、可哀想だった。あの柔らな生き物さえ好きにならなければ、好き好んで束縛されてやる必要もなかったのに。

 フロイドも、監督生の事は好きだ。お気に入りの靴に付いている靴紐と同じくらい好きだ。
 小エビと呼ぶに相応しい矮小な体躯と腰の低さでありながら、それに見合わぬ根性と度胸がある事を興味深く思っていたし、散々騙し騙され合った後でもアズールと笑い合える能天気さを面白がっていたし、何より彼女といるとジェイドが楽しそうなのが好きだった。
 けれどジェイドが居ないと、ふつふつと不愉快さが湧いてくる。


 フロイドが浴槽に戻った時、アズールは漸く「人魚の姿が永続したらどうするか」という話題に漕ぎ着けていた。
 監督生は、ソレは心の準備が全然無かったので困りますね、と悠長な返事をしていた。
「学園に居る時は先輩方みたいに人間の姿になる薬を服用しなきゃいけないのはちょっと手間ですね。元は人間だから、余計ややこしいというか」
「……一生薬を飲み続けないといけないなんて、ゾッとするでしょう」
大抵の魔法薬は、ヒキガエルの腐った味がする。ラギー・ブッチに言わせれば、腐ったヒキガエルの方がまだまともな味らしいが。リーチ兄弟やアズールが定期服用する薬も、その類のものだった。
「でも、ジェイドさんとお揃いなら我慢できます」
首に下がった貝のペンダントを、監督生がそっと握る。桃の花の笑みだった。永遠に人魚の身体になったとして、この女は人魚にはなれない。少なくとも、並大抵の方の人魚には馴染めない。
「あなたは人魚がどういうものか知らないでしょう」
彼女は理解しないだろうが、人魚というものを単に下半身が水生生物の人間と括るのは、大いなる誤認なのだ。
 大雑把な括りでは人間の仲間になってはいるが、陸に住まうモノと海に住まうモノを同じ分別を持つ生き物と括れる方がおかしいのだ。片や胎生、片や卵生。二親に無二のものとして慈しんで育てられる人間と、大量に生み出されて生存競争に負けて死んでいく兄弟を当たり前に切り捨てながら育っていく人魚。愛や慈しみの形に断絶があり、人間達は海の者の倫理観の低さを侮蔑する。勿論、陸に上がる人魚達はその身体を人の形にするように人の規則に従うが、本質が人魚である事実は変わらない。
 人間は人魚として生きてはいけないし、人魚もまた人間の姿を得たところで人魚なのだ。
 その断絶を、監督生はきっと理解できない。

 監督生は暫し真剣に押し黙ってから、声を潜めた。
「……青いエイリアン。前時代的な人は人魚をそう呼んでいるって」
ジェイドと交際するに当たって、恋人の立場について悪友から多少は聞いたと彼女は告げた。教えてくれた友人を怒らないでやってくれとも。けれどフロイドもアズールも、人間が人魚を人間扱いしない事を責める気は無かった。人魚とて、人間を異なる生き物と見做しているからだ。
「あとは冷血動物とかぁ?」
「アニサキスに脳を犯された野蛮人、なんてのもありますね」
「半魚野郎」
寧ろ二人は、人魚が何と呼ばれているか更に具体的に挙げ始めた。彼女の悪友は、それなりに気を使っていたのだろう。青いエイリアンは、最も優しい部類の蔑称だった。
「モルガナの息子……ああ、モルガナは前時代的な人魚の名です。このマーメイドの所業は教科書に詳しく載っていますよ」
男を洗脳したり、女を騙して海に沈めたり、幼子も犬も鴎も波と共に浚っていった野蛮で狡猾な人魚だと、アズールは補足した。陸の人間にとって、人魚は無罪という訳でもないのだと。半ば脅すような語り口だった。

 監督生が、冷たい湯船に沈む。口からコポコポと息を吐ききって、鰓呼吸に切り替わる。
「知っています。知っていますとも。私だって、魔法史の授業で寝ていた訳じゃないんです」
水に浸かっても喋れるのが人魚の声帯だ。身内を卑下する人魚達を、人魚の姿をした人間が批難する。拗ねたような口調だった。
「でも、目の前の事を信じたっていいじゃないですか例えば今日、先輩方がお見舞いに来てくださった礼節を。そういえば、いつかフロイド先輩は私を背に乗せてくださいましたね。きっとアニサキスに脳を犯された野蛮人は、そんな事はしませんもの」
彼女はアズールの努力を尊敬している。アトランティカ記念博物館の警備員の人の良さを知っている。モストロ・ラウンジの人魚達の勤勉さを覚えている。例え、アズールの正体が幼少期のコンプレックスを引き摺っている子供だとしても、わざわざ暴き立てていこうとは思わない。努力と知力によって作り上げられた優等生のアズールを支持したい。ジェイド・リーチが慇懃で穏やかな恋人であろうとするならば、少なくとも恋人の前ではそれが彼なのだと、監督生は思う事にしている。
「そんなんでジェイドのことも分かった気でいんの」
フロイドに言わせれば、被捕食者の怠漫だった。チョウチンアンコウのチョウチンだけを見るようにしていたら、さっさと食われてしまうのに。
 フロイドは、彼女の細い頚や、体長に見合って短いリーチしかない腕を見遣る。爪は人魚らしい硬質なものに変っていたが、それでもうんと小さい。別に魔法なんて無くとも、簡単に圧し折れてしまいそうな身体だった。そんな無防備で脆い生き物が、曖昧な楽観で寄りかかってくるのだから、きっとジェイドは窮屈だろうとフロイドは思った。

.

 「怖くなったんです。彼女が、冷たい海であんまりにも温いままだから」
その日の業後、ジェイドは自室で見付かった。ほぼ一日中、ずっとベッドで無気力に突っ伏していたらしい。フロイドとジェイドは同室であるから、ジェイドがベッドで寝ていようとフロイドだと思われたのだろう。リーチ兄弟の布団を剥ぎ取ってまで確かめようとする命知らずはアズールを除いたオクタヴィネルには居なかったのだ。
「怖かったの? ジェイドが?」
小エビちゃんがじゃなくて? とフロイドは思わず聞き返した。

 唯一の兄弟で片割れだった筈なのに、ジェイドはフロイドの理解の外に行ってしまう事が多かった。椎茸を育て始めた時の比ではない。ジェイドはキノコを可愛がっているが、切り刻んで食べる事も失う事も別に恐ろしいとは言わなかった。
「あなたも見たでしょう。あの短い尾鰭、飾りみたいな背鰭、細い頚に、毒も持たない身体。冷たい海には余りにミスマッチだと、気付いていましたとも」
それでもジェイドは、彼女と海へ行った。
 ジェイドの魔法薬は、本当に一時的な変化のみのものを用意していたらしい。何なら、ジェイドはフロイドに報告されるまで監督生が人魚のままである事を知らずにいた。

 彼はただ、人間を模していないジェイド・リーチを彼女に見てほしかっただけだった。そして、人魚姫と同じ愛し方を出来ない事を知ってほしかった。青いエイリアンであることを許されたがった。
 あるいは、揃いの生き物になれないジェイドの苦痛を、彼女にも知らせたかったのだ。
「彼女はずっと、学園やラウンジで見せる態度と全く変らずにいました」
蓋を開けてみれば、ジェイドが拍子抜けにすら感じる大らかさで、監督生は深海を遊覧した。ジェイドも最初はその態度に概ね満足だった。けれど、暗く鋭利な冷水に揺蕩う内、それは違和感と焦燥に変わっていった。生き物は環境の変化に相応の対応をしようと努める筈なのに、弱く毒も無い生き物が、ただ黙って連れ回されている。その脆さと愚かさに、この娘は簡単に死んでしまうと確信を覚えたからだ。
 彼女は、沈没船に跋扈する鮫も、河豚毒でハイになった海豚も、クラーケンに絡め取られた海豹も、ペンギンを丸呑みしたシャチも、学園の馬車に乗れなかった低俗な人魚達も、肖像画でも眺めているような風情で捉えていた。
 まるで彼女に実態が無いような気がして、その手を握っているのが恐ろしくなった。一瞬眼を離したら次に見た時には海の藻屑になっているような、酷い喪失を予感させられた。恐ろしかった。

 フロイドはジェイドの自白を一通り聞き終えた。
 途中で飽きなかったのは、ジェイドの口から出る話の方が監督生の報告より遥かに詳細で刺激に富んでいたからだ。ジェイドはベッドに顔を埋めたまま、動こうとしないままだった。日課のキノコ栽培セットへの霧吹きすらすっぽかしている。
 話を聞く片手間に、スマホでアズールにジェイドが見つかった旨を報告しておいたが、それ以降頻繁にジェイドのスマホが鳴るようになってしまった。恐らく、アズールからのお叱りの電話だ。
「海に連れて行ったのは間違いでした」
ジェイドはささやかなエゴであの弱い生き物を深海に引き摺り回した事を後悔していた。
 掛け替えのない誰かを愛するという事は、喪失への恐怖がつき纏うという事だ。片割れの醜態に、フロイドは幻滅だのダサいだのと言っておくべきかと迷ったが、ウミウシの触覚ほどには慈悲があったので口を閉ざした。フロイドは、未だそのような感傷を体験した事が無かった。
「教えてくださいフロイド、どうしてあなたは彼女に素手で触れるんですか」
どうしてあの脆い生き物を相手に戯れに絞める真似事など出来るんですか、とジェイドが恨めし気な声で聞いた。野蛮で過酷な環境で育まれた苛烈で生臭い感性にどうにか蓋をしても、代わりの中身が無いので行き詰ってしまう。
 思えば、ジェイドは監督生と接触する際は、必ず手袋をしていた。寮服は勿論、制服や行事の時ですら。フロイドは今まで、飛行術の際にジェイドが監督生から距離をおくのは、飛行技術の不恰好を恥じているのだとばかり思っていた。ただ一枚の布を経ていないだけで、ジェイドがそんなにも緊張するものだと誰が察してやれただろうか。
 ジェイドは、昨日初めて己が青いエイリアンである事を恥じた。彼女の儚さを前にすると、自身が本当に脳をアニサキスに犯された野蛮人であるような気すらした。
 より精巧に人間らしく振舞わなくてはならない。そうすべきなのに、ジェイドにはその方法が分からなかった。人間としての顔を繕おうとすると、深海にまで着いてきてくれた彼女との幸福が脳裏にちらつく。彼女の前では人で在るべきなのに、人魚として彼女に触れていたいという願望に蓋をしきれない。

 ジェイドは、歯を軋ませた。エナメル質同士が擦れ合う生理的に嫌な音が、広くはない部屋に響く。
「うるさいんだけど」
ジェイドは繰り返し顎を前後させていた。尖った歯と歯を擦り合わせるように。牙を削るように。
「そんなんしても何もなんねーよ」
フロイドは、ジェイドのベッドに乗り上げ、脇腹を蹴りこんだ。
「教えてください、どうしたら良いのか」
「しらねーって」
ジェイドの隣に、フロイドが寝転んだ。大柄な男二人分の体重を受けて、ベッドのスプリングが軋んだ。

 フロイドは、天井を向いたままジェイドに告発した。
「……小エビちゃん、本当は怖かったっつってた」
フロイドは、昼を過ぎてもオンボロ寮に居座って彼女と話をした。夕餉が作れないだろうからと、アズールがフロイドを残したのだ。その際にした問答の末に、とうとう監督生は本音を漏らしていた。
「ホントはジェイドには秘密って言われたけど、そんな義理ねーし」
対価も無いし、あってもジェイドの方が大事だと、フロイドは言った。
『本当に楽しかったんです。オーロラは綺麗でしたし。でも、海は寒いし、本当は鮫も怖かったし、シャチはもっと怖かったんです』
好いた男の故郷と言われて、誰が嫌な顔を見せられようか。少なくとも監督生は、その手の体面を気にする娘だった。同郷のフロイドにも打ち明けるのを散々渋ったが、少々の脅迫と物理交渉で吐いた。
「途中で耐久実験されてんのかと思ったって」
「……していたかもしれません」
おまえサイテー、とフロイドが無感動な声で切り返す。何を見せても平気な顔をしているから、甘え過ぎた。その自覚がジェイドの胸中にもあった。

 「でも、お前とお揃いだから人魚にもなれるって。オレは考え甘過ぎてどーかと思うケド」
人魚、それもリーチ兄弟は凶暴な肉食の冷血動物だった。獲物を追いかけるのは楽しいし、追い詰めて弄ぶのは強者の特権と疑わない。利益にならない慈悲に価値を置かない。卑劣を厭わない。正義は無い。好悪だけが全て。
「ええ、なれませんね。彼女が僕らと同じだなんて」
けれど彼女が人魚たるジェイド・リーチに寄り添う気がある事は、彼の救い足り得た。

 ジェイドは彼女と同じ環境を歩める生き物でありたいし、この種特有の感性に共感がほしいと感じる事もある。
 けれど、あの娘に同じ生き物になってほしいかと言えば、ジェイドは答え倦ねた。
 ジェイドは、触る者を傷付けない丸い爪が好きだった。細い頚をうんと伸ばして見上げてくる、小さな彼女が好きだった。弱い生き物の癖に恐怖を噛み殺して動ける胆力が好きだった。自分に迫る危機には鈍感なのに他人の心配を欠かさないアンバランスが好きだった。あの桃の花の笑みが好きだった。そのどの要素も損ないたくはないと思う。


 モストロ・ラウンジのアカウントから、一斉送信されたジェイド捜索キャンペーンの終了の連絡が入った。端末のランプを光らせるそれを、フロイドはそれを未読のまま削除した。
「そもそも、小エビちゃんから見りゃ皆エイリアンなんだって。異世界のエイリアン。青いエイリアンが今更どうだって話らしーよ」
極端なカテゴライズの話、魔法が使えない世界に居た彼女は、その得体の知れない技術を使う彼等全員と同じ文化や価値で生きている訳が無かった。
「動物言語学で子豚と話した日、購買でメンチカツ売られてて吐いたんだって」
オレらは魚も食えば上半身に似てる方だって食うのにね、とフロイドが鋭利な歯をカチカチ鳴らした。
「おトモダチにどうして野蛮だと思わないの? って聞いてたらしーの。ウケる。でも結局、小エビちゃんは未だに購買行くし、豚食べるのもやめなかった」
今まで豚に痛みがある事くらい知っていたのに、ソレが分かるようになった途端に家畜に親身になろうとする方が傲慢だ。言葉が通じるからという勝手な区分で憐憫の向け方を決めるのも、理性的ではない。駆け込んだ保健室で、養護教諭にそう諭されて監督生はこの世界との断絶を知った。そしてどちらが野蛮で低俗なのか、優劣を付ける事を止めたらしい。
『十六まで、質量保存とか量子力学とか、そういうのを世界の真実だと思って生きてきたんです。箒や絨毯で空は飛べないし、水の中で息は出来ないし、ポケットを叩いてもビスケットは増えないんです。勿論、肖像画は動かないし喋らないし、写真には魂なんて記録されなくて光線を再構成した像を焼き付けるだけだったんです』
今まで信じていた常識が足元からひっくり返されて、当たり前が当たり前のように否定される日々を送っていた。
『先輩、私が何を言っているか分かりますか。それとも、低俗な未開の文明だと思われますか』
その時フロイドが彼女の言い分を理解できなかったように、彼女もまたこの世界を理解できなかった。フロイドには確かに彼女の世界は低俗で不便だと思った。それこそ、野蛮と言われ得るような。

 「小エビちゃんってさ、自分のこと、野蛮だとかゴーマンだとか思ってんの。お前と一緒だよ」
似合いのエイリアン達だと、フロイドは評した。
「あと、オレらのことソンケーしてるってさ」
人魚達が陸の文化に戸惑ったように、監督生はこの世界で散々に混乱を体験した。生きる為に必死で順応しようと努力した。けれど、人魚達は、自分で選んで陸へ向かう馬車に乗った。
 自らの価値観を否定され、常識を覆される事を厭わなかった青いエイリアン達の向上心を尊敬すると、彼女は言った。


 フロイドのスマホが、珍しい通知音を発した。
 監督生から、脚が治ったという報告だった。そして「今日話した事はジェイドさんには内緒にしてください」とも。禁止されれば喋りたくなるのが人の性。フロイドは人魚だが、束縛に対する反感は人の比ではなかった。
 まして、兄弟の情緒を弄んだ女となれば、従ってやる義理も無い。

 フロイドは監督生に適当な返信をして、彼女の通知をミュートした。
 既にミュートしているアズールからは、モストロ・ラウンジへの出勤を催促する通知が二桁ほど入っていたが、今日は無視する事にした。
「知ってた? 小エビちゃんもマジでエイリアンって呼ばれてんだって。毛玉を連れたエイリアンって」
血統主義の貴族階級の出身には、身内に魔法が使えない者が一切居おらず、魔法を使えない人間をフィクション上の存在のように思っている者が少なからずいた。そういう輩はナイトレイブンカレッジのような魔法士専用の学園や研究院だのを通って貴族社会で生きていくので、監督生は正にエイリアンで、侮蔑の対象だった。
「は? 殺しましょう、そいつら」
「あはっ、いつものジェイドじゃん。おかえり」
ベッドに突っ伏して死んでいたジェイドが起き上がる。ジェイドの目尻の赤らみを、フロイドは見ないことにした。

 慈しみ方は不勉強だが、敵の叩き潰し方には自信がある。
 そう宣言したジェイドが歯を見せた。フロイドが久方ぶりに見る懐かしい兄弟の笑みだった。



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