咬魚に真珠

 人魚の涙は、真珠となって零れ落ちる。

 陸の生き物達が人魚にそんな幻想を抱いているとジェイドが知ったのは、同じ時期に生まれた兄弟姉妹達が未だ半数程も残っていたくらいには幼い頃の話だ。その時はフロイドと共に尾鰭をくねらせて、荒唐無稽な妄想を嘲ったものだった。
「僕達だって普通に泣きますよ。ただ、水中に棲む人魚が泣いたところで涙は海水と見分けが付きませんから、そんな風に思われたのかも知れませんね」
陸で生活を始めて二年目の冬期休暇明け、モストロ・ラウンジの仕込み作業の最中に人魚の涙について問われたジェイドは、特に感慨も無い涼しげな声で返答した。
 思えば、アズールがオーバーブロットした際、ジェイドには確かに彼が泣いていたように思えたが、海中の出来事であった為に多くの生徒にとってはそうは見えなかったのかもしれない。
 人魚にとっての当たりは、決して陸の常識ではないのだ。そのまた逆も然り。陸では、人魚の存在自体が当たり前ではないのだ。当たり前でないものに当たり前でない事を期待する心理に免じて、ジェイドは呆れを噛み殺して微笑を返した。

 ジェイドの手元では丁度、微塵切りにされていく玉葱が粘膜を刺激する臭気を発していた。しかし、換気の良い厨房では泣く程の強烈さは無く、涙を見せてやる事は叶わなかった。寧ろ、質問してきたラギーの方が瞳に涙を溜めていた。ウツボの人魚も鼻は利くが、大気の中ではハイエナの獣人の方が敏感なのだろう。
「じゃ人魚を泣かせるだけで真珠が手に入るなんて上手い話も無しッスか。なぁんだ」
頓狂な質問を繰り出した戦犯のラギーは、稼ぎにならぬと知った時点で人魚に対する関心を早々に失ったようだった。彼の視線は既に莢豌豆に戻っており、機械的な手付きで莢の筋を取り除く作業を再開させていた。そんな簡単に真珠が手に入ったら大儲けだと思ったんスけど、と臆面も無く言ってみせるハイエナは逸そ小気味良い。

 彼等の直ぐ近くで果物を煮詰めていたフロイドといえば、眼を細めて「オレ達、眼から炭酸カルシウム出すと思われてんだぁ」と笑っていた。笑いと共に震える横隔膜に合わせて、チョウザメのピアスが機嫌よく揺れていた。質問者に人魚への畏怖や軽侮が無かった事も幸いしたのだろう、今日のフロイドは頓珍漢な発想に楽しさを見出したようだった。
「そーいえば、小エビちゃんにも同じ事聞かれたっけ」
フロイドが片手で大鍋を揺すって、煮込んでいた林檎を攪拌する。飴色になった林檎が、蕩けんばかりの甘い香りを放っていた。
「故郷の童話にそんな話があったってさ」

 ラギーが興味の無い事を隠さない相槌を返して、会話は打ち切られた。フロイドも会話を広げるつもりは無かったようで、欠伸をひとつ溢すだけだった。
 彼女の故郷といえば、魔法も魔導品も無く、モンスターは愚か知的生物といえばヒト族のみを指すような世界だと彼等は聞いている。彼女は自身の経歴を隠してはいないが、聞いたところで魔法士を目指す少年達にとっては退屈な情報なのだ。

 けれどジェイドは、思わず玉葱を寸分違わず精密に刻み続けていた手を止めていた。もう同じ話題を口にする気分ではないであろうフロイドの横顔を、横目で見ては行き場の無い関心に歯を疼かせていた。
 ジェイドだけは、彼女の故郷の話題に心拍が変化するのを感じていたからだ。

 ジェイドは、陸の生き物が人魚の存在を知らなかったとしても気にはしない。事実、希少性故に人魚を御伽噺の存在だと思っていたという学生も少なくはなかった。そういう時は相手の無知を哀れむだけで、ジェイドは他人からの偏見や評価を別段重要だと思った事は無い。
 けれど、彼女の事であれば別だった。
 彼女の知る童話の人魚は、果たして友好的な生き物として書かれているのであろうか。実際の人魚を目の当たりにした彼女に、どれほどの驚きがあったのだろうか。無意味と分っていながらも、それが気にかかっていた。
 偏にジェイド・リーチは、彼女に恋をしていた。


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 透明のティーポットを満たす琥珀色の湯の中で浮き沈みする茶葉を、監督生は妖精の踊りでも見ているかのような楽しげな瞳で覗いていた。輝く黒い瞳は、ジェイドが初めて山から持ち帰った黒耀石に似ている。

 本日の紅茶は、薔薇の王国の王室でも使われているブランドのブレンドティーであり、ジェイドの鼻も存分に楽しませていた。冬季休暇が終わったとはいえ、メインストリートにはまだ雪も残っている気温である。寒冷地の人魚であるが故に体温の低いジェイドは普通にしているが、監督生の吐く息は白く、温かい飲み物というだけで有り難がっている節すら感じられた。
 監督生の草食動物と称されるに相応しい黒目がちな眼が、この時ばかりは無警戒に蕩けている。ジェイドはその瞬間の為に、定期的に監督生を試食会と称した軽食に誘っていた。


 中庭の四阿で丸テーブルを挟んでジェイドと対面する監督生は、麗らかな冬の陽光を受けて黒髪を艶やかに輝かせていた。夜の帳のような黒一色の髪なのに、自然光を受けるとまるで彼女自身が輝いているかのようだった。太陽の下に映える乳白色の肌が作る黒髪との対比でそうさせるのか、ジェイドの欲目がそう見せるのか、恐らくは後者であろう。けれど、逢瀬を重ねていずれはオンボロ寮の庭、次いで談話室、最終的には彼女の部屋で、と望むジェイドが、四阿で概ねの満足を得ているのもそのお陰であった。
 選び抜いた陶製のケーキ皿にアップルパイを載せれば、芳ばしさに釣られて彼女の控えめな鼻孔が小刻みに収縮した。
 彼女の鼻は筋は通っているのに小ぶりでやや低く、柔和な印象を与える。彫りの深い人種が多いカレッジでは珍しい造形だった。それが男女の差なのか人種の差なのかは、まだ陸の生き物の多様性に二年ばかりしか触れていないジェイドには分りかねたが、兎角気に入っていた。大勢居た弟や妹が弱肉強食の海で淘汰されていった時も当たり前に受け入れていた彼が、庇護欲という情動の存在に納得する程である。
「時期に輝石の国で林檎が旬を迎えるので林檎を生かしたデザートメニューの開発しているんです。是非監督生さんの感想も聞かせてください」
「ああ、豊作村の」
監督生が、親しみのある情報に顔を綻ばせる。最近、彼女とグリムがエペルの実家からの仕送りである豊作村の林檎を分けてもらった事くらい、ジェイドは調査を済ませていた。
「そうです。折角ですから今年はヴィルさんにマジカメで宣伝していただこうと思っているので。打って付けでしょう」
嘗てヴィルのアカウントにミステリー・ドリンクを掲載させる事に成功したモストロ・ラウンジは、またも彼の拡散力を狙っていた。ポムフィオーレ生の実家の品とあれば、オクタヴィネルが手を回す労力を最小限にヴィルの投稿をコントロールできる。少なくとも、ジェイドにはそれが出来る能力と老獪さがあった。しかし、それを監督生の前で仄めかさずにいられなかったあたり、思慕に頭が茹っている事を否定できない。
「こわい人」
恐ろしい有能さに裏打ちされた風格を滲ませるジェイドに、監督生が肩を竦めて笑い返す。
「恐ろしかったですか」
「ええ。とっても」
ジェエイドは、わざとらしく肩を落として消沈した素振りを見せた。この女がその程度の事で怯えるような根性をしている訳が無いと理解していたが、恐ろしいという評価が全くの嘘ではない事も承知していた。

 何せ、ジェイドは監督生にアズールと不当な契約を結ぶよう誘導した過去がある。
 結果として監督生とその協力者達にひと泡食わされる形で落着したものの、彼女の唯一の居場所であった寮を差し押さえ、魔法で攻撃し、海中で追い掛け回した事実は消えはしない。
 魔法も使えぬ身でオクタヴィネルのトップスリーを出し抜いた上、その内の一人と暢気に談笑する間柄になっている監督生も相当に図太いに違いない。それでも、一度二人の間に引かれた溝は消える事無くそこにあった。彼女は異世界人故に世間知らずだが、決して馬鹿ではないのだ。だから、人目のある昼下がりの四阿の中でどんなに気を緩めようとも、彼女はジェイドに絆されはしないし、その適切な評価を揺るがせる事も無かった。
 気安さを見せる一方で決して手放されない警戒心が、ジェイドと彼女を学友という清楚な名の付いたラベルに押し込める。彼女の世界の柔い部分に、ジェイドは未だ手が届いていなかった。


 それでも良い、とジェイドは思う。
 餌付けされて簡単に認識を改める程度に愚かな女であれば、きっとジェイドは彼女にそこまでの関心を抱かなかった。有象無象と同じようにジェイドの貼り付けた笑みに絡め取られるようでは、つまらない。
 牙も角も無い上に逃げ足も速いとは言い難い身で、犇く悪意を紙一重で躱していく彼女だから面白いのだ。
 外見の艶やかさと存在の柔らかさに反して、泥臭く足掻く日々を送らされている彼女だから価値があるのだ。
 このアンバランスで珍妙な生き物が、どうか美しい均衡を宿したままで在り続けてほしい。ジェイドはそんな祈りにも似た思慕を噛み締めて、彼女を日々観測していた。


 腕時計で時間を確認したジェイドは、充分に蒸らす事が出来た紅茶を二人分のティーカップに分けた。
 勿論、ゴールデンドロップは監督生のカップに注ぐ。華やかな香りが二人の間に広がって、監督生が感歎の吐息を漏らした。
 監督生は、この茶葉の正確な価値を知りはしない。モストロ・ラウンジで提供する高級紅茶の数倍も値が張るなど、夢にも思ってはいまい。何せ、彼女は学内の雑務をこなした報酬で暮らしているような素寒貧である。ジェイドも彼女を恐縮させる事は本位ではないので、その辺りの説明は避けている。監督生は、ただジェイドから紅茶を淹れるのが得意だと申告されており、だから上等な味がするのだろうと無邪気に思っているのだ。その甲斐あって、ティーカップに口を付ける監督生は終始楽しげである。

 強めの渋みと濃厚なコクを有する紅茶が、林檎の風味やパイ生地の芳ばしさを引き立てる。
「わ、カスタードが入ってる」
百四十四層に重ねられたパイ生地をフォークで割って、監督生は小さな口でちまちまと菓子を食んだ。
「林檎の酸味との相性がよろしいかと」
「はい。抜群です」
一応は試食会の名目であるのに監督生の感想は極めて少なく凡庸で、石を広い食いした際のグリムの方がまだ滑らかに喋るであろうお粗末さだった。
 然して大きくはないパイを、監督生は黙々と咀嚼する。それでも、ジェイドは彼女の小さな顎が上下する様を幾らでも見ていられると思った。彼女の幸福を、血色の良くなった頬や緩む眦が言葉より雄弁に伝えていたからだ。
 ジェイドは監督生が甘味に集中できるようにお喋りを控えて、彼女のペースを真似てフォークを口に運んだ。普段の彼であれば三口とかからず食べきるであろうそれを、焦れったいほど緩慢に嚥下する。そうすると益々飢えた心地がして、監督生の小作りな唇にばかり目がいってしまう。あの赤が美味しい違いないと、唾液が過剰に分泌されていくのだ。

 時折覗く監督生の歯は、その狭い顎に納まるに相応しく小さかった。
 それでも大事に手入れはされているようで、茶会の頻度に反して真っ白で滑らかなのが余計に可愛らしい。丸こくて短いそれは草食の獣たちとも異なり、逸そ作り物に見えた。歯という器官が担っている役割の凶暴さを、一切感じさせないのだ。調理された物以外を摂食している姿が想像し難い程に頼りなく、ただ愛玩の為にあると言われた方が、まだ納得できる。
 殊に、前歯などは然したる厚みも無いので、ジェイドの顎の力なら真珠や氷砂糖のように噛み砕けてしまえそうだった。
 砂糖を連想したのは、漂うアップルパイの甘い香りの影響に違いない。けれど実のところ、この女を口に含んで見たいという願望が顔を出す事自体は、ジェイドにとって非日常的なものではなかった。彼女の使っているシャンプーが風に乗って鼻腔を擽る時、まめに塗り直す蜂蜜のリップクリームが艶めく時、やはり同様の考えが過ぎる。
 己の腹の底には、この人間一人分の空白があると。
 ジェイドは度々、彼女と対面していると自身が怪物にでもなったような心地を覚える事があった。

 監督生が熱を帯びた視線の意図に気付く前に、ジェイドは可愛いばかりで役に立ちそうにない歯列から目を逸らした。
「あの、本当に美味しいですよ」
しかし繕うのが一歩遅かったらしい。感想の薄さに対する不服の表れだと思たのか、監督生は唇を尖らせてアップルパイへの賛辞を捻り出そうとしていた。バニラビーンズが入ったカスタードがどうの、と懸命に言葉を尽くしている姿は微笑ましいものがあったが、生憎具体的かつ建設的な批評ならアズールが既に出し尽くしていた。
「失礼。監督生さんのお口の端に付いているカスタードについて、どう指摘すべきか考えておりまして」
拙い感想を一生懸命喋っていた監督生が、慌てて口を手で隠す。薄く平たい耳が、じわりと赤味を帯びていく。同級生の問題児達と並んでいる時は面倒見の良さを発揮し達観した風情さえ見せる彼女だが、気を張る必要の無い場では相応の幼さがあった。
「取って差し上げます。ほら、顔を上げて」
わざとらしく揶揄を滲ませた笑みを作って、ジェイドは彼女の唇をポケットティッシュで拭う。過剰に子供扱いされた事を拗ねる監督生が、頬の内側を噛んでむくれていた。自分で出来ます、と顔を顰める監督生の抗議は聞えなかったふりをした。彼女の手で拭われては、口にカスタードなど付いていない事が露呈してしまうからだ。
 ティッシュと手袋に隔てられてなお、ジェイドは彼女の白い皮膚の柔さを意識せざるを得なかった。中間テストやオンボロ寮の件で二人が敵対していた時分、彼女に傷を負わせた事もあった筈なのに。
「……意地が悪いですよ」
「おや、心外です」


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 総合文化祭も明け、通常の時間割に戻った学園の放課後は閑静である。
 穏やかという言葉とは縁の無い学園であるが、静寂はよく似合った。殊に日暮れとなると、伝統を重んじる古風な建築様式も相俟って、暗澹とした厳かさが常に取り巻いていた。ジェイドの育った暗い海に似た沈黙だ。
 悪意は得てして、暗闇に紛れて獲物を探している。憎悪は喧騒を避けて、静謐と共にある。
 ジェイドは、空き教室に佇む男子学生四人を睥睨したまま沈黙を維持していた。

 一九〇センチあるジェイドは、彼等と同じ地平に立っていても彼等を見下ろす形となる。元より吊り眼がちな双眸は、瞬き一つせず侮蔑の色を湛えていた。
 地平線の彼方に沈みかけた夕日が廊下の窓から橙の光を差し込ませ、あらゆる物の影を引き伸ばしている。男子達にもかかるジェイドの影は、彼の本来の姿を想起させる程に長かった。逆光によって陰の落ちたジェイドの顔は、見る者が拾える情報が極端に少ない。表情の抜け落ちた眉の下で、金とオリーブの瞳が生臭い程に爛々と燃えていた。
 果てしなく威圧的なジェイドに、男子生徒達も言葉を失って、降伏を示すように脱力する。
 リーダー格と思しきサバナクロー寮の一際ふくよかな体躯の男子生徒が腕の力を抜くと、彼等の中心にあった異物がずるりと床に落ちた。
 男子より遥かに華奢な躯体が、自律清掃魔法で磨かれた床に転がって、乱れた黒髪が広がる。監督生だった。彼女のシャンプーの匂いは血に掻き消され、小さな鼻からは血が流れ続けている。乳白色の肌に、血の深い赤が嫌味な程によく映えた。

 見逃してくれと媚びた笑みを浮かべようとした男子生徒が、ジェイドの沈黙に飲まれて口を閉ざした。

 何をしているのかなど、ジェイドが彼等に聞くまでもなかった。
 床に伏した彼女は、痛々しい様相ではあったが、荒く不規則な呼吸からして気を失ってはいないようだった。苦しげに胸が上下する度、しきりに喉を上下させて唾を飲んでいた。腫れている頬からして、口内も出血しているのだろう。そう当たりをつけたジェイドは、彼女の前に跪いてハンカチを差し出した。
 ハンカチを摘まむジェイドの指は、押し殺した激情の為に強張っていた。黒手袋に包まれていなければ、真っ白になった関節や色付いた爪が晒されているところだった。

 監督生は、腫れた瞼を僅かに上げてジェイドの姿を確認した。一瞬、助けを乞うような表情が浮かべた彼女だが、直ぐに顔を逸らした。その今更遅すぎる強がり方に、ジェイドは己が彼女と親しくなり過ぎた事を悟った。
「立てますか」
沈黙を破ったジェイドの声に、男達は弾かれたように反応した。聞かれてもいないのに、男声の四重奏が弁明を紡ぐ。
 この女がいけないのだ。トレインに贔屓されている。この女から誘ってきたのだ。ヴィル・シェーンハイトにも色目を使っている。魔法も使えないくせに、俺達に楯突いたから――支離滅裂で身勝手な犯行動機が矢継ぎ早に語られる。しかし、どれもジェイドにとっては聞くに値するものではなかった。

 ジェイドは監督生の口元に自身のハンカチを押し当て、血を吐かせてやった。
 アイロンで几帳面に折り目を付けられた白いハンカチが、みるみる赤く染まっていく。どうにも出血が落ち着く気配がなかったので、ジェイドは彼女の治療を優先すべく彼女を立たせようとした。
 ジェイドが監督生の腕を掴んで引っ張れば、彼女が足に力を入れるまでもなく人形のように持ち上がった。拍子抜けする程に軽い身体だった。この華奢さを気に入っていた筈のジェイドだが、この時ばかりは血の気が失せた。そして、このか弱さがくだらない男達をつけ上がらせるのだと遣る瀬無くもあった。

 空き教室から退出する際、ジェイドはもののついでのように男子生徒を見渡した。
「ルイス・クックくん、スカットル・バットくん、マックス・E・ライトくん、フィル・チャートくん」
彼等一人一人の名を、ジェイドは自身の管理する生徒情報を元に言い当てた。この内の一人はオクタヴィネルの寮生だったが、ジェイドは彼に特別強い失望を表す事はなかった。鰯の群れから一匹一匹を尊重する事が無いように、彼等は等しくジェイドの牙の前で震える雑魚に過ぎなかった。
「今年はバスケ部の一年生が少なくなってしまいますね。フロイドが悲しみます」
ジェイドは彼等の共通点である部活動を当て、世間話のような口調で締めくくった。それ以上の言葉は必要としなかった。
 不純物の無い憎悪の形が、静寂と共に男子生徒達の耳を打つ。彼の静かな宣告と、特に役職も無い下級生を正確に言い当てる情報力と記憶力に、彼等は充分に逃げ場が無い事を理解したからだ。寧ろ、声を荒げる事すらないジェイドの冷淡な態度が、一層彼等に寒気を与えていた。


 ジェイドは監督生を半ば引き摺る形で廊下を歩き、オンボロ寮まで運び込んだ。殆どの部活も解散している時刻であったので、保健室が空いていなかったのだ。

 最初は彼女を背負おうとしたジェイドだが、意識は明瞭であるらしい彼女に拒否され、身長差があり過ぎるが故に肩を貸すにも苦労した。ヴィル相手にも色目を使っているなどと言われた所為で、ジェイドに寄りかかる事にも気後れしているようだった。

 監督生の状態を見たオンボロ寮のゴーストが、彼女の周りで慌てふためく。
「酷い顔だ」
「グリ坊はどうしたんだい」
痩身のゴーストと肥満体のゴーストが、監督生の左右をうろうろ浮遊する。口を開こうとする監督生だが、痛みで顔を顰めるだけで碌に返答はできていなかった。まだ口元には、ハンカチが必要なようだった。
「クルーウェル先生の補習です。今日はサイエンス部が無いので、まだかかるかと」
ジェイドは彼女に代わって答えた。幸い、人の良いゴースト達はジェイドが彼女達の予定を把握している事を不審には思わなかったらしく、単純に監督生の災難を嘆くだけだった。
 ゴーストは彼女を心配しているものの、どこか慣れた雰囲気だった。
 実際、彼女が怪我をするのは初めてではないのだろう。マジフト大会ではディスクを食らって昏倒していたし、オーバーブロットの現場には常に立ち会っていた。けれど、きっとそれだけではないのだろう。魔法士達の男子校に魔法の使えない女生徒が一人で放り込まれているのだ。今日のような不条理な暴力に晒される機会も、ジェイドが知らなかっただけに違いない。
 その証拠に、帰寮した監督生の行動には迷いが無かった。

 監督生はよたよたと洗面台に向かうと、血を吐き出して口を濯いだ。
「あの」
カツ、と小さな音を立てて落ちた赤い塊に、ジェイドは思わず声を出した。赤い塊は、古くともよく手入れされた陶製の白い流し台を滑っていく。それは見間違える筈も無く、彼女の歯だった。
 それに動揺したのはジェイドだけで、監督生は鏡の裏の棚から硝子瓶を取り出して手早く呷っていた。ラベルの文言からして、強烈な魔法薬である事が窺えた。アズールやヴィルでも作るのに苦労するような、折れた骨も即刻癒合する飛び切りの回復薬だ。そんな物を常備しているという事実が、ジェイドの懸念を肯定していた。

 薬を飲み下した監督生の喉が鳴った。
 途端、監督生の腫れた瞼が、数度激しく痙攣し始める。眼を覆っていた瞼は小刻みに震えながらも収縮し、元の薄い二重に形を変えていく。
 彼女の腫れた頬は、収縮の過程で皮膚の内側に蛇でも飼っているのではと思わせる程不自然に蠢いた。鼻の下に血の小川を作り続けていた鼻血が漸く止まって、歪んだ鼻筋があるべき形へと戻っていく。彼女の肋の辺りからも骨の軋む音が響いていて、ジェイドは今更ながらにそちらも折れていたのだと悟った。

 グロテスクな光景だった。ジェイドは流血や暴力では忌避感を抱かない性質だが、魔法薬によって人体が超自然的な様子を見せる様は流石に不気味であると感じた。けれど、ジェイドより魔法に疎い筈の監督生は、一連の状態に一切の動揺を見せなかった。
「……初めてではないのですね」
ジェイドは彼女に何と声をかけるべきか暫し迷ったが、沈黙はもっと気拙いと感じて口を開いた。
 今日までジェイドは愚かにも、魔法も牙も角も無い彼女が犇く悪意に囲まれて全くの無事であったと思い込んでいた。そうであって欲しがっていた。当たり前でないものに当たり前でない事を期待する心理が、当然の結末を予測する事を避けていたのだ。或いは、この女を傷付けた者は自分達の他には殆ど無いのだと信じたいつまらない独占欲が、彼の眼を曇らせていたのだろう。
「はい。いや、もろに顔に食らうのは初めてなんですけど」
回復薬で喋れるようになった監督生は、舌で歯が抜けた箇所を確かめていた。位置や歯の大きさからして、抜けたのは第一小臼歯だろう。

 思えば、一人前の生徒に満たない彼女は、秋頃は小魚が群れるようにグリムや友人達と常に一緒だった。それが最近は、成績に差が付いた事で別行動が目立っていた。彼女という異例中に異例を許せない連中は、その隙を狙ってきたのだろう。文化祭の為にオンボロ寮を合宿場にした所為で、敵意の無い男子生徒に囲まれている日常に慣れてしまったのも、彼女の警戒心が緩んだ原因かもしれない。
 そういう意味では、彼女を定期的に試食会に誘っていたジェイドも、その一端を担っている。その心当たりが、ジェイドの罪悪感を突付いていた。

 監督生は、何度も不完全な歯列を確かめて、鼻を啜った。怪我の跡はもう一つも残ってはいないのに、酷く痛ましい顔をしていた。
「あのポーション、本当に苦くて嫌になります」
言うべき言葉はそれではなかろうとジェイドは口を挟みかけたが、どうにか堪えて口を閉じた。彼女が同情されるのを嫌がっているのは明白だったからだ。
「始めて保健室に担ぎこまれた時、サムさんに勧められたんです。出血大サービスの大特価、一月九千マドルの十回払い……でもすっごく苦くて……」
監督生は俯いて、苦味を理由に口を塞ぐふりをして顔を隠した。彼女らしくない饒舌さは、別の言葉が滑り出てしまうのを畏れているかのようだった。
「苦くて嫌になっちゃうんです。ほんとに嫌になる……苦いから……」
苦さを言い訳として繰り返す監督生に、ジェイドは努めて愚鈍な声で返事をする。
「良薬口に苦し、というやつでしょうか」
二人の身長差の為に、ジェイドは覗き込まない限り彼女の顔を確認する事はできない。けれど、彼女の足元に滴り落ちていく涙を指摘しないのは、彼の希少な善意によるものだった。

 木造のフローリングに、直径一センチに満たない水玉が幾つも作られていく。
 オンボロの名に相応しい古い木は、濡れた箇所が直ぐに色を変える。その分、水を吸うのも早かった。彼女が干からびる程泣いたとしても、水溜りのひとつも出来はしないだろう。彼女にとってはその方が都合が良い事もジェイドは承知していたが、それがどうにも口惜しかった。
 滴る水の粒が真珠ならばと、くだらない感傷がジェイドの心を引っ掻いく。
 涙の落ちる音がしたなら、見て見ぬふりが出来ない程の質量があったなら。彼女の頑なに握り締めた拳を取って、己の手を握らせる理由になったのに。
 あり得もしない過程の話が、ジェイドの脳裏に閃いては消えていく。


 今このタイミングで彼女に助けを求められたら、ジェイドは喜んで彼女を守る為に手を尽くすだろう。
 嘗てスカラビアの騒動に巻き込まれた彼女が助けを求めてきた時とは、決して同じような対応にはならないだろう。茶番を挟んだり大義名分を用意したりなど、今のジェイドにはできそうにないからだ。
 きっとジェイドは、彼女の望む距離を踏み越えて、何処までも手を尽くす。そして、彼女の細やかな矜持も踏み躙って、正真正銘の弱者にしてしまう。
 それは酷く残酷で、甘美な想定だった。


 ジェイドは彼女の眼を盗んで、落ちた歯を拾い上げた。
 幸い、黒い手袋は血の染みが目立たない。親指と人差し指の間に挟んで、触感を頼りに形を確かめた。

 二人でアップルパイを食べた時に見た、ミルクの多いカスタードクリームより遥かに白かった彼女の歯列が、ジェイドの脳裏で瞬いていた。
 真珠や氷砂糖のようだと思っていた歯は、存外硬くて尖っている。折れた歯根が為す歪な形は、バロックパールのそれだった。尤も、母貝を異物から守る過程で形成される真珠とは逆に、このエナメル質のバロックパールは排斥の履歴を証明し、彼女がこの世界にとって異物であると突き付けるばかりだった。

 ジェイドは指の腹で小さな歯の形を堪能してから、何食わぬ顔でスラックスのポケットに仕舞う。
 可愛いばかりの歯だった。彼女を殴った男の拳は全くの無事であったし、彼等に歯形の一つも残してやれなかった。皮の厚いウツボなどには、文字通り歯が立たないに違いない。


 漸く涙が止まった監督生は、淡々とした手付きで片付けを始めた。
 時期にグリムが帰ってくるので、急いで暴力の痕跡を消してしまいたいのだ。流し台に転がる異物が無くなった事に、気が付きもしなかった。
 ジェイドは、それを手伝うふりをして、さっさと流しを片付けた。歯を返してやるつもりは無かった。賢者の島の歯科医なら、取れた歯も一緒に持って行けば医療魔法で完璧に元通りにしてくれるに違いない。そんな常識も、ジェイドは彼女に教えてやる気になれなかった。何もかも元通りにしてしまいたがる彼女に、ジェイドが知る痕が欲しかったのだ。哀れみを拒否する彼女の意向に従ってやる駄賃として、役立たずの歯の一本くらい貰ってしまいたかったのだ。

 監督生は「グリムが帰ってきちゃう」と豪快にすら思える手付きで顔を洗った。人中に伸びていた血の跡が無くなれば、歳相応の柔和な顔が戻ってきていた。
「ハンカチ、ありがとうございました。明日にでも買って返しますね」
監督生が、ジェイドに向き直る。つい先程まで泣き言を溢していた筈なのに、もう未来の話をしていた。結局、この女はジェイドに寄りかからずとも勝手に前を向くのだ。
「洗っていただけるだけで結構ですよ」
謝辞を伝える真っ直ぐな瞳に、ジェイドはヘテロクロミアを瞬かせる。深海で生きてきた彼に、黒耀石の眼差しは残酷な程に眩しく映った。
「血の染みは落ちませんから」
魔法薬の金額について話した所為で遠慮されていると思ったらしい監督生が、健気にも食い下がる。彼女の血に浸ったハンカチであればそのまま貰ってしまいたかったが、ジェイドにも社会性があるので曖昧な微笑を浮かべるだけで留めた。
「箔が付くでしょう」
冗談めかして言ったジェイドに、監督生が肩を竦めて笑い返す。
「こわい人」
「恐ろしかったですか」
「ええ。とっても」
いつかの遣り取りをなぞって、ジェエイドはわざとらしく肩を落として消沈した素振りを見せた。そうして意識的に、いつもの二人の距離感を取り戻すよう努めるのだ。


 監督生が身の不幸を嘆いて男に縋るよう女なら、きっとジェイドは彼女を好きにはならなかった。

 実際、ジェイド程の口巧者なら、彼女が自ら助けを求めるよう誘惑する事くらい容易な筈だった。ジェイドなくしては安寧を得られぬよう依存するよう仕込む事とて、難しくはない。その気になれば、彼女をジェイドの管理する生簀で泳ぐ可愛いばかりの生き物にしてしまえる。
 それをしないのは、彼女にそうであってほしくないからだ。

 彼女が自らの手に墜ちてくる事に悦びを感じる以上に、彼女が可哀想な人だとか不幸せな魂だとかと同列になる事を、ジェイド自身が忌避していた。

 アズールに歯向かって無謀な契約をした時の、不安を懸命に押し込めて挑んできた彼女が好きなのだ。
 人魚二尾に追い立てられてなお、冷たい水の中で燃えるように輝いた意志の強い眼差しが好きだった。
 簡単に壊せる柔な身でありながら、愚かなほど直向きで諦めの悪い、彼女の危うさが愛しかった。
 その不調和で合理生に欠ける女に、どうか美しい均衡を崩さず在り続けてほしいと祈ったのは、他ならぬジェイドだ。平凡で賢明な最適解ばかりを選んでいくつまらない連中や、容易に悪意に流される有象無象などに、決して埋もれる事はない彼女だから美しいのだ。

 彼女が彼女である事に意味を感じる程度に、ジェイドは彼女を愛していたのだ。


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 翌週、監督生はモストロ・ラウンジにグリムを連れたって現れた。
 ラウンジは文化祭前とは比べ物にならない程の盛況で、彼女が席に案内されるまで三十分以上の待ち時間を要した。ヴィルが豊作村の林檎ジュースをマジカメにアップしたお陰で、モストロ・ラウンジのアップルパイが学外からも注目される人気商品になっていたからである。

 果汁のみを使用した林檎ジュースと砂糖や油を大量に使っているアップルパイでは味もカロリーも大違いだであり、美容に気を使うヴィルなら糖質過多な菓子など口にしはしないだろう。しかし、流行物を愛する多くの消費者にとっては、ヴィルが宣伝した林檎と同じブランドの物を使っているというだけで充分に付加価値があったらしい。
「美味いアップルパイが流行ってるって聞いたんだゾ!」
メニュー表を捲って話題の商品を確かめるグリムは、正にオクタヴィネルが掌で転がす典型的な消費者層に位置していた。

 暢気に菓子を楽しみにしているグリムは、自身の補習中に起きた監督生の不幸を知らないようだった。
 監督生も必要以上の人に打ち明ける気は無いようで、この世の残酷さを欠片も知らぬ顔でカウンターに腰掛けていた。
「アップルパイと紅茶のセットを二つ」
注文を取りに行ったジェイドが面を食らう程、監督生は朗らかだった。筋肉の弛緩した目尻や頬などは今にも蕩けそうで、滑らかな肌は瑞々しく血色が良い。傷一つ見当たらない白い皮膚は、悪意を以って傷つけられる痛みなど知っているのか疑わしい程に完璧だった。
「茶葉はいかがなさいますか」
「先輩のお勧めでお願いします」
メニュー表を開いて確認するジェイドは、グリムに悟られないよう監督生の歯を盗み見る。
 薄く唇を開いて笑う監督生の歯列は、やはり小作りで白く輝いていた。一見は普段と何一つ代わらない彼女だが、その内の左側の第一小臼歯だけは人工物なのだ。彼女を担当した歯科医を除けば、彼だけが知っている変化だった。ジェイドだけが、傷一つ見当たらない彼女の本当を知っている。そんな不謹慎な優越感が、ジェイドの眦を下げさせた。
「そんな事言ったら、一番高いヤツにされちまうんだゾ」
「今日はそれでいいの」
お礼も兼ねているから、と言外に告げた監督生にジェイドは控えめに頷く。二人しか分からない文脈を含んだ遣り取りに、ジェイドは眼を細めて笑みを深くした。

 魔法によってインプラントされた人工歯根は骨格の成長にも対応可能なので顎骨や歯茎の変化による不調和が生じづらく、未成年者の治療でもメジャーなのだと彼女に教えてやったのはジェイドだった。尤も、保険適応外の技術であったし、そもそも彼女には保険証どころか身分証も無いので、彼女はジェイドなくしては受診すらできなかっただろう。
 彼女は知らないが、ジェイドは彼女の治療費の殆どを負担していた。更にその金の出所を追うと彼女に手を出した男達の財布に行き着くのだが、それは益々彼女の知り存ぜぬ話である。
 監督生はただ、歯科医の紹介とハンカチの礼のつもりで来ていた。もし彼女が諸々の顛末を知れば、肩を竦めて「こわい人」と言うだけでは済まないだろう。ジェイドもそう承知しているので、特に明かす気は無かった。

 給仕しているフロイドが、ジェイドにジェスチャーで早くオーダーを取って戻れとサインを出していた。
「秋摘みのダージリンは如何でしょう」
ジェイドは白々しくもそれに気付かないふりをして、わざと冗長にメニューを選ばせる。
「それともアールグレイがお好きでしょうか」
「先輩の淹れてくれる紅茶はどれも好きです」
「紅茶だけですか?」
「アップルパイも」
「他には」
深追いしたジェイドに、監督生が困ったように眉を寄せる。彼女の薄く平たい耳が、じわりと赤味を帯びていた。
「……意地が悪いですよ」
なだらかな頬まで朱が滲めば、いよいよ美味しそうだった。
 恥ずかしげに微笑む唇からは、白く丸い歯が覗いていた。


.


 以降、アップルパイと紅茶のセットの注文は、感謝なり朗報なりを伝える合図として定番化した。

 例えば、ジェイドが仄めかした通り錬金術の抜き打ちテストがあった時や、教えてやった薬草になる魔法植物の見分け方が役立った時。監督生は決まって、ラウンジのカウンターでジェイドが注文を取りに来るのを待っていた。勤務中であるので交わす言葉は極めて少ないが、そも金銭に余裕などある訳もない彼女がラウンジの売上に貢献しようとやってくる時点でジェイドには充分健気に映っていた。
 そのやりとりはあっと言う間にジェイドの勤務時の楽しみの一つに組み込まれ、キッチン担当の日でも彼女が来れば出て行くようになった。それどころか、監督生の来訪に気付いたホールスタッフがジェイドを呼ぶようになるまで、時間はかからなかった。

 またある時、学園のイベントを成功させた報告として彼女は訪れた。
 また別の日、上等な靴を手に入れた喜びを分かち合う為に彼女はパイを頼んだ。
 男子生徒との喧嘩に勝って来た時も、オーバーブロットに巻き込まれて復帰した時も。無事に期末テストを乗り切れた時も、研修から帰ってきた時も。決まって彼女はラウンジに来て、カウンターでジェイドを待っていた。
 彼女はいつも、少ない言葉と雄弁な態度で歓喜の報告をする。すっかり己の喜びに共感してくれて当然だと思っているのだ。無論、ジェイドがそうさせた。ジェイドには全く利益にならないくだらない話題にも丁寧に相槌を打ったし、多様な祝いの言葉を添えてきたからだ。


 だから、故郷に帰る方法が見付かった時も、彼女はラウンジに来た。

 その日の彼女は、今までで一番朗らかに笑っていた。
 ついに帰る事ができるのだと、安堵と興奮で黒耀石の瞳が濡れていた。故郷を語る彼女は、普段よりうんと幼い身振り手振りをしていた。ジェイドが始めて見る、幸せで満ち満ちた表情をしていた。
 ラウンジの薄明かりの下でも、希望を掴んだ彼女は一等眩しくて、逸そ残酷な程美しかった。

 彼女の笑みに眼を焼かれながら、ジェイドは己を叱咤してどうにか祝辞を捻り出した。
 笑みの形を作った唇の端は痙攣を始めそうだったし、気を抜けば別れを呪う言葉が漏れ出そうだった。それでもジェイドは、彼女を引き止めようとする手を握り締めたまま笑い返した。指の関節が軋む程、手袋をしていてなお掌に爪が沈む程、強く強く拳を作った。
 彼女の幸福を翳らせるなどできなかったからだ。


 彼女の帰りを待っている魔法の無い世界は、きっと退屈だろう。
 そして、魔物や人魚が居ない代わりに、彼女の保護者や友人など大切な人々が居るのだろう。魔法薬で傷を消す日々の代わりに、本当に痛みの無い日々があるのだろう。そちらの方が、彼女は幸せに違いない。

 予定調和を足蹴にして刺激を取ってきたジェイドには、考えたくはない幸福の形だった。
 けれども、ジェイドの価値観では不要のものだからと彼女から平穏を奪う真似はできそうになかった。
 全てを攫っていく激しい恋に身を委ねられる程の愚かさは無く、ただ丁重に積み上げた愛しさだけがジェイドを蝕んでいたからだ。


.


 監督生を見送った日、ジェイドは彼女に花を渡した。
 今更別れ難くするのは気遣いに欠けると思い、オクタヴィネルの何人かと連盟にした。監督生は、同級生達と握手やハグをして、同じようにジェイドの腕に納まっては数秒で離れていった。それでもジェイドの視界は潤んで、涙腺は火傷しそうな程に熱を帯びていた。


 監督生を抱いた腕は、何日経っても熱かった。彼女の体温を思い出す度、彼女を放した咎のようにじくじくと疼くのだ。

 あまりに熱が引かないと、ジェイドはアトランティカの海中で対峙した監督生を思い出す。
 黒髪が水流に任せて広がる様子。喋る度に口から吐き出された泡の煌き。怯えと焦燥を飲み込んだまま真っ直ぐ見つめ返してきた瞳の強さ。尾鰭が掠めただけで簡単に切れてしまった皮膚の脆さ。海水に淡く広がった赤い血潮。
 あの日のジェイドには、彼女の眼を二度と開かなくする事も、尾鰭の中で身体の至る所の骨を砕いてやる事もできた。ただそこまでする必要が無かっただけの話だ。あの時のジェイドなら、彼女から何もかも奪う事は容易だった。
 そして今でも、自身の尾の中で永遠に眠る彼女が揺蕩う様を夢想する。そんな幸福の形もあろうと、彼女を失った腕が疼くのだ。
 その機会はジェイドが自ら手放したというのに。口惜しさと、恋しさと、そうしなかった安堵が一緒に押し寄せて、空虚になる。


 ジェイドの腹の底には、相変わらずあの人間一人分の空白がある。

 ついぞ腹に収め損ねた彼女の代わりに、ジェイドは彼女から唯一奪った歯を食んだ。
 長い舌で嬲るように形や硬さを確かめる。小さくて滑らかで、彼女のようだった。歯列に収まっているときは丸こく見えていた歯だが、小臼歯なので相応の凹凸が備わっていた。流石に甘くはなく、古びた血の味がする。ジェイドはやはり真珠を連想した。
 流石に炭酸カルシウムよりは硬いけれど、ジェイドの鋭く長い歯に挟まれれば彼女の歯は簡単に割れた。細かくなった監督生の歯とジェイドの歯が擦れて、彼の口の中で音が鳴る。
 飲み下しても、腹の足しにもなりはしない。
 却って恋しさと虚しさが強調されて、ジェイドを苛んだ。


 異物として排斥されかけては痛みと悔しさに泣いていた彼女の涙が、どうして真珠にならないのだろう。
 もし彼女の涙が白珠となって落ちていたなら、今頃はオンボロ寮の床が埋まっていただろう。それくらいの質量があれば、ジェイドの腹に空いた虚も満ちるかもしれないのに。

 荒唐無稽な妄想がジェイドを満たせば、彼の盈月の瞳から雫となって零れた。人魚のそれも、やはり珠にはならなかった。
 涙は頬を濡らして唇を伝い、音も無く足元に落ちていく。深い海の味がした。




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