アプリコットの密室

 ホールスタッフから監督生がモストロ・ラウンジに来店したと知らせを受けたアズールは、書類仕事を脇に置いて彼女の元へと急いだ。
 いつも高級志向を押し出したデザインのラウンジには不相応な清貧を極める格好をしている監督生だが、今回は輪をかけてみすぼらしかった。殊に、彼女の荒れた肌や眼の下の隈と眦の赤みは、精神的な不調を如実に語っていた。夜通し泣いたのだろうな、とラウンジに居た誰もが察する有様だ。そして同時に、彼女が外面を繕いたいと思わせるような男も居なくなったのだろうという事も察せられた。少なくとも昨日までの彼女ならば、精一杯の背伸びをして、可愛らしいと称される少女であろうとしただろうに。

 アズールは努めて内心を悟らせない営業用の微笑を湛えたまま、監督生を上から下まで一通り見遣った。彼女の喪失感溢れる顔には一抹の安堵を、量産品の革靴に包まれた二歩脚には、粘ついた落胆を覚えた。この女はアズールの予定を何処までも狂わせる。その儘ならなさが、忌々しくも愛しかった。
 アズールは、監督生に恋をしていた。

 座席に案内されるのを待たず、監督生の罅割れた唇が動く。アーシェングロット先輩、と呼ぶ彼女の声は小さくてともすればバックミュージックに掻き消されてしまいそうであった。
「私の個人情報、売りましたね」
恨みがましい口調だった。けれど監督生がアズールに向ける眼差しは、既に諦観の方が強かった。その逞しさに幾分か助けられて、アズールは澄ましきった商人の笑みを維持したまま答えることができた。
「ええ。あなたとお付き合いしていた方が取引したいといらっしゃいましたので」
その様子では破局したようですが、とアズール。
「やっぱり。酷い人」
監督生は疲弊しきった溜息を零した。ここで盛大に糾弾して慰謝料の一つも取らないのは、彼女の愚かなところであり、温和という美点でもあった。
「それは僕の事でしょうか。それとも、彼の事?」
「どっちもです……でもきっと、許せないのは彼の方です」
アズールは会話を続けながら、彼女を自身の客としてVIPルームへ誘った。普段ならばポイントカードが貯まっていないだの、相談ではないだのと警戒を見せるであろう彼女だが、今回ばかりは夢遊病患者めいた足取りでついてきた。
 その付け入る隙の多さに、アズールの柔らかな唇がいっそう深い弧を描けば、艶めく笑い黒子が目立つ。紳士的とは言い難い笑みだった。淡い青の眼は、色調に似合わぬ熱が篭っていた。
「カクテルをサービスしましょう。元々、失恋した生徒には一杯無料で出してやっていたんです」
もっとも、男子校なので恋愛に漕ぎ着く生徒自体が少なくて他寮生には忘れ去られたサービスですが。とアズールは流れるように嘘を吐く。


 監督生に男ができたとアズールが知ったのは、数ヶ月前のことだった。
 アズールの牽制の行き届いたナイトレイブンカレッジでは起こり得ぬ事故であるから、当然ながら相手は学外の者だった。かといって因縁のロイヤルソードアカデミー生という訳でもなく、ただ凡庸な才能しかない魔法士の卵だった。そんな彼と監督生は、買い出しに行った街で偶然知り合ったらしい。所謂軟派である。安い手口だとアズールは軽侮の念を抱いたが、彼女はそうは思わなかったようである。
 カレッジでは異端として浮きに浮き過ぎて女として見られる以前の扱いだったので、彼女は嬉しかったのだろう。彼女に必要以上に絡む男共をアズールがとれだけ念入りに取り除いているか彼女が知っていれば、考え方も変ったかも知れないが。

 当然ながらアズールは、彼女を全く祝福できはしなかった。
 一等アズールが許せないのは、彼女が心を許した男は魔法士で、人魚だった事だ。種族の違いに悩んで手を伸ばし損ねた自分が阿呆のようで惨めになった。
 自分の方が街で知り合っただけの男より余程彼女をを知っていたし、余程愛していたのだと、毎夜泣き濡れた。魔法と化粧で姿を誤魔化す技術とプライドの高さが無ければ、アズールは今の監督生よりうんと酷い様相だった。ジェイドとフロイドには気付かれて揶揄われもしたが、そんな事には頓着していられない程にアズールの執着は深かった。


 嘗てはアズールも彼女を愚かで何も持っていない矮小な女だと思っていた事もあったが、どのような苦境でも決して投げ出さず足掻く彼女にすっかり肩入れしていた。その泥臭い強かさに一度はしてやられた身なれど彼女を憎めないのは、彼女がアズールのの血を吐くような努力を拾い上げて、価値を付けてしまったからだ。
 この女の瞳に、希望を見たからだ。
 彼女と居ると、アズールは自身を好きでいられた。結果を出す為の手段でしかなかった奔走も、間違ってはいなかったと思えた。
 お人好しで、狡猾で、泥臭くて、彼女は何処までも興味深かった。矮小で脆い人間の器に見合わぬ強かさが目映かった。
 その得難い人を、アズールは法悦に近い気持ちで凝望していた。

 アズールにとって、監督生は海底に差す一条の光だった。あるいは手を伸ばしても届かない、遠い空の星だった。
 その素性を調べ上げた時、彼女が異なる世界に帰りたがっていると知ったから。人魚の居ない海しかない世界に帰りたがる女を、遠目に観測するだけで充分に幸せで居られた筈だったのだ。
 あのカレッジの馬車にすら乗れなかった凡庸な男が、彼女に手を出すまでは。
 あの男さえ居なければ、アズールは彼女を泣かせずに済んだ。彼女を一点も曇らせる事なく、慈悲をもって接する事ができたに違いない。いずれ元の世界に帰りたいと願う彼女の儚い望みすら、叶えてやろうと思った程だ。

 あの凡庸な人魚が、アズールを狂わせた。そして、いずれこの世界を発つ気でありながらもこの世界の者に気を許す彼女の脆さが、アズールの背を押してしまった。
 この女は、人魚を愛する事が出来る。人寂しさに屈する事がある。目映いばかりの光ではなく、この世界の住人にも手に入れられる可能性があるのだと、アズールは知ってしまった。手に入る望みがあるものを、どうしてアズールが我慢できようか。


 アズールは、監督生を誘い込んだVIPルームの扉の鍵を後手に閉めた。
 傷付いた様子の彼女をたんと慰めてやりたい劣情と支配欲を押さえ込んで、まずは事情の把握と確認を優先させた。アズールは彼女と男の間に何があったかを彼女以上に把握してはいたが、彼女の心情について正確に理解しているとは言い難かった。彼女を知らなくては、完璧とは程遠い。
「どうして別れたのかお聞きしても?」
 ただの世間話や知的好奇心の類に聞こえるよう最大限努めた声音で尋ねながら、アズールはカクテルを作った。それが彼女を不愉快にさせたとしても、聞かずにはいられなかった。
 アズールは未成年とは思い難い洗練されきった動作でアプリコットリキュールとフレッシュレモンジュースと粉糖をシェイクし、氷の入ったタンブラーに注いだ。アプリコットの甘酸っぱい芳香が部屋に広がっていく。オレンジがかった黄色をソーダで割って軽くステアし、レモンスライスで飾る。その一連の流れを監督生はただ見ていた。
「分かっているでしょう。悪趣味ですよ」
彼女は草臥れた溜息を吐き出した後、懐から薬瓶を取り出した。アズールが作って、取引として彼に渡した筈のものだった。

 アズールは、彼と取引をしていた。彼は、自身がナイトレイブンカレッジの秘密である事を弁えて素直には素性を語らない彼女に悩んでいた。彼女が何者でも受け入れるから、本当の事が知りたいのだと宣った。夢物語のように美しい愛だった。
 それでもアズールが彼の欲望を叶えたのは、学園長には学外の者との契約を禁じられなかったからだ。あの許し難い男を契約書で縛る機会を、強欲で執念深いアズールが逃す訳がなかった。
「契約の対価が私を永久に人魚にする事だなんて。そんなの、私が受け入れる訳がないって、最初から思った上で取引きしたでしょう」
薬瓶がアズールに返却される。無色透明かつ無味無臭のそれは、人間が一生涯人魚に変じたままになる薬だった。決して安くはない材料を注ぎ込んだ、アズールの傑作だ。
「ええ、勿論です」
嘘だった。アズールは、彼女は薬瓶の存在なんて知る事もなく、姿を変える事になると思っていた。黙って食事にでも薬を混入させるだけでそれが叶うのだ。彼女が二本脚のままこの薬の効能を理解するに至っている現状に、違和感すら抱いていた。
 彼女と交際していた男は、アズールの予想を超えて愚かだったという事だ。彼は馬鹿正直にも、愛し合っている彼女なら同じ種族になることも受け入れてくれるだろうと踏んで全てを話したのだろう。人はそれを純朴とか、傲慢だと言うのだろう。愛しているなら、その人の為に何だって出来るし許される。正に夢物語の住人が抱いている、無垢で純粋な恋慕だった。

 アズールは、彼の手口の何が彼女の気に障って破局に至ったのか詳細に知る必要があった。過去のデータから学習して対策を万全にしたがるのがアズールだからだ。
 アズールも、彼女をいずれ自身と同じ種に変えて暗い海に攫ってしまおうと考えていたからだ。
「だって、酷いじゃないですか。どうして私の都合も聞かずに人魚になってくれとか海で暮らそうだとか言えるんでしょう」
彼が愛と銘打った思慕に内包された傲慢さに気付いた時、彼女にかけられていた恋の魔法が解けてしまったらしい。
「ええ、ええ。別れて正解でしたね」
あたかも彼女の心理を端から分かっていたかのように頷いて、アズールは脳内のリストに謙虚と書き入れた。
「貴方が付き合うには値しない男だったでしょう。中途半端な詮索癖も、無償の愛を貰って当然だと言う傲慢さも」
未練は塵一つとして残さない方が良い。そんなアズールの打算的な慰めに、彼女は鼻を啜った。


 アズールとしては、彼女が人魚になる事を受け入れようが、受け入れずまいがどちらでも良かった。
 アズールの思惑にも気付かず契約に乗ってくるような愚かで凡庸な男を蹴落とすのは、利用してからで充分だと思っていたし、最悪の場合は記憶の改竄でも研究しようと思っていた。彼等の破局の方が先に訪れたのは、アズールには予想外の出来事だ。れけど、これも最終的な目標と照らし合わせるなら悪くはない結果だった。
 無論、一番理想的なのは、人魚にされた彼女が彼に愛想を尽かし、海の中で一人彷徨っているところをアズールが回収するパターンであったが――ひとまず彼女が人魚になれば、人魚が存在しないという彼女が元居た世界には帰れなくなる。
 アズールはとうに、彼女から脚を奪って、故郷を奪おうと決めていた。彼女がこの世界の者に愛を注げると知ってしまったその日から、ずっと焼け付くような焦燥が彼女を手に入れよと囁いていた。慈悲を手放すのに躊躇いはなかった。先にアズールの心を奪ったのは彼女なのだから。
 

 監督生は、カクテルを煽った。
「私の身の上を知っている筈なのに、どうしてこれ以上私に失わせようとするんでしょう。元の世界から追い出されて、今度は陸からも離れろだなんて。どうして私以外が勝手に決めるんでしょう」
どうしてあんなに傲慢で強欲な人魚を好いてしまったのだろう、と監督生が唇を噛んだ。彼女を人魚に変え、海に引摺り込もうとした黒幕こそがアズールだと知らずに。
 アプリコットフィズの甘い香りが、彼女の涙腺を刺激する。その酒に付けられた言葉が「私に振り向いて」である事も、きっと彼女は微塵も知らない。

 アズールは、傷心の彼女にどうつけ込むべきか思案しながら脚を組み替えた。
 愚かで浅はかな人魚と同じ轍を踏まないよう、アズールは彼女から何を奪って何を与えるべきか再考する。
 アズールは、彼女の愛した男を唆し、彼等の恋を壊した。そしていずれは、彼女の帰路を完全に塞いで、彼女を手に入れるだろう。
「ねえアーシェングロット先輩、貴方にも怒ってるんですよ、私」
「申し訳ございません。この償いは如何様にでも」
「嘘です。ちっとも悪いと思ってないクセに」
ずばり言い当てられて、アズールは苦笑した。その点においては、アズールは心の底から契約に頷いた男の軽率性が悪いと思っているからだ。監督生もアズールの正確を承知なだけあって、本気で非難しているというより呆れや八つ当たりに近い文句だった。酔うと管を巻くタイプなのだ。
「ええ、そうですね。だってあなたには、きっとすぐにもっと相応しい人が現れる」
別れて正解だと言ったじゃないですか、とアズール。

 アズールは、タンブラーに付着した監督生のリップを盗み見る。誰より欲深いアズールは、彼女を根刮ぎ奪いたがった。彼女の脚も、唇も、心すらも。
 だから今は、与える者のふりをするのだ。
「でも、あなたを傷付けたままでいるのは僕も不本意だ。何なりと要望を聞きましょう」
橋を渡るに対価が要る。欲しいならば、まずはアズールから支払わねばならない。
 欲しいものは退路と故郷以外なら何でもくれてやる。そして、彼女をすり減らすばかりのこの世界で、アズールだけが彼女に与える者だと刷り込んでしまいたかった。

 なおも戸惑う監督生に、アズールは提案を持ちかける。謙虚に、優しい声音で。逸る鼓動を隠しながら。
「信用ならないなら言い換えましょう。あなたは、ディア・クロウリーが秘密にしていた事を僕が漏洩したと知った訳ですが、どうすれば口を噤んでくれますか?」
監督生は、漸く笑った。
 ここまで言い訳を重ねさせられたアズールは少々恥かしさを覚えたが、信用が最低値まで下がっているなら後は上がるだけだと割り切った。
「じゃあ先輩、もう一杯いただいても?」
「呆れる程の無欲ですね、結構。お作りしましょう」
監督生は、とうに空になったタンブラーを右手でカラカラと揺すった。
「私、この匂い好きなんです」
「僕もですよ」
アプリコットの花言葉って「臆病な愛」って言うんだそうですよ、と監督生は左手に頬を預けながら囁いた。新しいタンブラーに氷の落ちる音が、硬質に響く。
「もし、また私が誰かと別れたら、その度にサービスしてくれますか」

 淡い黄色のリキュールが、アズールの皮算用を嘲笑う。
「そんな日が来ない事を祈ってますよ」
他の男の傍で笑う彼女など、二度と見たくはなかった。けれど、そうなった時も、アズールのやる事は変らないだろう。

 いつか、この女を仄暗い海の底へ攫えたならば。
 そんな甘ったるい妄執の香りが、VIPルームを満たしていった。



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