さようならフロイドくん

 私がフロイドくんと出会ったのは、よく晴れた日の午後でした。
 その時の私はまだ生後一週間程度で、ようやく薄らと体毛が生えてきた兄弟姉妹たちと一緒のダンボールの中でミューミュー鳴いておりました。お日様みたいな右眼とお月様みたいな左眼に、じっと見つめられていたことを私は今でも覚えています。私はあの好奇心いっぱいの眼差しに射抜かれて、彼を好きになってしまったのですから。

 私はネズミ目ネズミ上科キヌゲネズミ科、つまりハムスターで、フロイドくんに出会うまで名前はありませんでした。
 彼に出会うまで世話をしてくれたのはラギーさんで、母さんに私や兄弟姉妹たちを生ませたのも彼です。彼はハムスターが欲しい人に一匹五百マドルでハムスターを渡すアルバイトをしているそうで、兄弟姉妹たちを「五百マドルちゃん」と呼んで大層かわいがっていました。けれど、私にはその名前をくれませんでした。
 ラギーさんが言うには、私は模様が不細工で、後ろ足が欠けていて、身体が妙に大きいから兄弟姉妹たちのような売り物にはなれないそうなのです。確かに私は、同じ日に生まれた筈の兄弟姉妹が妙に小さいのを不思議に思っていました。彼等の左右対称に揃った走りやすそうな後ろ足を羨ましく思っていました。私は売り物になれなくて、生きるのに向いていない個体なのだそうです。
 だんだん少なくなっていくご飯の量に、私は自分がラギーさんにとって不都合な生き物なのだと自覚しました。ただ、ラギーさんは私達ネズミ目の言葉を理解なさっているようで、私がミューミュー泣いていると、慰めてくださいました。ラギーさんに代わって私の面倒を見てくださる方をどうにか探すとお約束してくださいました。
 それがフロイドくんだったのです。

 ラギーさんはダンボールの隅に居た私を掴み上げて、フロイドさんの掌に置きました。
「フロイドくん、ちっせー生き物とか好きじゃないッスか?」
「え〜? 別に」
フロイドくんの掌は、ラギーさんと同じ形の筈なのにとても広々としていました。水掻きの部分が大きくて、指の間から転がり落ちる心配もない素敵な手でした。体温は少し低くて、良い匂いです。
「違うんスか。監督生くんのこと、ちっさくて可愛いっていつも言ってるじゃないッスか。リドルくんだって小さくてお気に入りでしょ?」
「小エビちゃんはそーゆーのじゃないっていうか……ウン、小エビちゃんは小さくなくても多分可愛いっていうか」
「女の子ってこういう小動物好きッスよ」
「エッ、マジ? じゃオレひとつ貰う!」
小エビちゃんという名前が出る度、フロイドくんの体温が僅かに上がるのを私は足の裏で感じていました。フロイドくんは既に好きな女の子が居るんだな、と短過ぎる恋の終わりに気付いて悲しくなりました。でも同時に、こんなに分かりやすく思慕を暖めているフロイドくんの純粋さに胸を打たれました。なんて可愛い人なんだろうと、惚れ直しました。
 ラギーさんは私の事を大き過ぎるから可愛がってはもらえないだろうとおっしゃっていましたが、きっとそれが全てではないのだと思います。だって、フロイドくんはこんなに大きいのに、とっても可愛いのです。

 私は可愛いハムスターにはなれませんでしたが、可愛いフロイドくんのハムスターになることができました。名前もいただきました。フロイドさんが「ちっこくて潰しそう」と連呼なさるので、私は「チコ」になりました。ちっこい、なんてフロイドさんの掌の上で初めて言われました。なんだか、やっと真っ当なハムスターになれた気分でした。
 そしてなんと、フロイドくんは私を五百マドルにもしてくれました。
 ラギーさんは「まさかお前も五百マドルになるとは」と驚きながら、今まで見た中で一番の笑顔を向けてくださいました。フロイドくんは、私の神様です。だからその恩に報いるためにも、私はフロイドくんと小エビちゃんなる少女の仲を応援しようと決めたのです。


 フロイドくんのお部屋は、やっぱり良い匂いがしました。
 でもフロイドくんだけの匂いとも少し違って、部屋に飾られた植物や菌類が美味しそうな香りをさせているのです。土や植物の入った硝子ケースも素敵です。フロイドくんはそれらに愛着を持っていないようですが、私は大いに気に入りました。
 ダンボールの外の世界がこんなにも素敵だったなんて。夢のようでした。

 私はフロイドくんの掌から降ろされ、お部屋を探索させてもらいました。
 フロイドくんのお部屋には、ベッドが二つありました。片方が彼の物で、片方が同居人の物なのでしょう。シーツに染み付いた匂いから、二人が兄弟であることを私は察しました。私も兄弟姉妹と一緒に住んでいた身なので、大変親近感が湧きます。
 お部屋の窓からは、海という景色が広がっていました。美しく澄んだ水が、遠くから降り注ぐお日様の光を受けて、青く揺らめく模様を作っていました。時々小さな魚が窓からこちらを覗いていきます。綺麗でした。幻想的とはこういうものを指すのでしょう。けれど、私はこの建物の外では生きられないだろうな、と直感しました。泳いだ経験はありませんし、水はどちらかと言えば怖いものだったので。
 それでも、フロイドくんの傍で見る景色だから、素晴らしかったのです。
 不揃いに転がっている靴の中に潜ると、フロイドくんは「そこはダメ」と言って私を抱えます。フロイドくんは「ダンボールごと貰ってこれば良かったなぁ」と頭を掻いていました。それから、乱雑にテキストの積まれた勉強机に降ろしてもらいました。
 開きっぱなしもテキストには、鼻毛を描き足された白黒のおじいさんの顔写真の横に、可愛い女の子のイラストがありました。そこだけペンのタッチが丁寧で、この女の子が小エビちゃんさんなのだと思いました。彼はこの娘と一緒に授業なるものを受けているのかしら。それとも勉強の間中ずっとこの娘のことばかり考えて、上の空で授業を受けているのかしら。いずれにせよ手慰みに横顔を丁寧に描いてしまうくらい、この娘のことで頭がいっぱいなんだろうな、と思います。ちょうど今の私がフロイドくんで頭がいっぱいになっているみたいに。
 恋をしているフロイドくんは、悔しいけれどやっぱりどうしようもなく可愛くって愛しいです。

 テキストはラギーさんが持っていた物と全く同じ物があり、二人は同じ勉強をしているのだなと確信しました。けれど、フロイドくんはラギーさんのように動物言語は堪能でないようで、私の言葉を分かってはくれませんでした。「なんかキューキュー鳴いてる」程度にしか思ってくれないようでした。それでも、私は彼にたくさんの感謝の言葉を伝えずにはいられませんでした。
 ありがとうフロイドくん、これからもよろしくお願いします。
 大好きです。ずっとずっと、仲良くしましょう。


 部屋の外から悠々とした足音が聞こえて「アッ、ヤベ」とフロイドくんが小さく呟きました。
 足音はお部屋の前で止まりました。同居人のようです。フロイドくんは一瞬だけ考える素振りを見せた後、私を掴んで勉強机の引き出しに押し込みました。
 彼は「ちょっと隠れてて」と囁き、引き出しを手早く閉めます。鍵を閉める前に「ウンチしちゃダメだからね」ともおっしゃりました。もちろんです。私は女の子ですから、大好きなフロイドくんの部屋で粗相なんてできません。
 私はフロイドくんの言うとおり、引き出しの中で息を潜めました。引き出しの中はキャップの取れたペンや、ビー玉や、尖った鉱石のような物がたくさん仕舞われていました。フロイドくんのコレクションかもしれません。私はそれらを踏まないように気を付けながら、鍵穴から彼の様子を窺いました。
 もしかしたら、同居人の方には私を引き取ったことを全くお話していないのかもしれません。ネズミを嫌いな人だったらどうしましょう。

 けれど私は、フロイドくんが私を隠した意図はもっと純粋なものだと理解しておりました。だから、私は彼に従いました。
 きっと、フロイドくんは真っ先に小エビちゃんさんに私を見せたいのです。私を理由にこの部屋に彼女を呼びたいのです。もし同居人の方がフロイドくんより先に小エビちゃんさんに「ハムスターが部屋に居るよ」と声をかける事態になってはならないのです。
 私は小さくとも獣の端くれなので、成熟した雄が好いた個体にどのようなことをなさりたいのか把握しております。私の父と母とて、出会いこそは人工的なものでしたが、生殖の欲求は大自然の理の赴くままに存在しておりました。
 私は一介の獣として、フロイドくんの遺伝子の螺旋を紡げぬ矮小な胎を悔しく思うと同時に、私には叶わないことができる小エビちゃんさんを応援したいと思いました。


 同居人の方は、フロイドくんにジェイドと呼ばれていました。
 鍵穴から覗く分には、フロイドくんと見分けが付かないくらいにそっくりな容姿です。でもやっぱり、私にはフロイドくんの方が格好良いなぁと思いました。
「監督生さんが貴方から借りた漫画を返しにラウンジに来ていますよ」
「マジ? すぐ行く! ね、ジェイド、オレ寝癖とか付いてない!?」
 言うが早いか、フロイドくんの足音があっという間に遠ざかっていきました。
 おやおや、とジェイドさんは穏やかに笑います。私も、フロイドくんの慌てぶりを微笑ましいと感じました。お部屋や引き出しの様子を見るに、彼はそんなことに頓着しないタチでしょうに。いつだって恋する雄は雌に選ばれたくて必死なのです。


 それからフロイドくんは、随分遅くに帰ってきました。
 しきりに「小エビちゃんがね」とジェイドさんに話しかけます。
 小エビちゃん、アラビアータ好きなんだって。今度作ったげよ。小エビちゃん、まぁたアザラシちゃんに振り回されてやんの。小エビちゃん、予習したトコがちょうど小テストに出たんだって。勉強見てあげたら喜ぶと思う? 小エビちゃん、小エビちゃん。もう何度聞かされたでしょう。
 ジェイドさんは短くて当たり障りの無い返答だけ返して、大半を聞き流していました。それでも私は、ちゃんとフロイドくんの話を聞きました。フロイドくんがご機嫌だと私も嬉しいのです。欲を言うなら、彼の意識の中にほんのちょっぴり私も混ざれたらもっと幸せなのだけど。
 ところで、フロイドくんはいつ私にご飯をくれるのかしら。ジェイドさんが寝付いてからかしら。

 この日は結局、フロイドくんの方がジェイドさんより先に寝てしまいました。
 寝る子は育つと言いますし、フロイドくんの大きな身体と大らかな心はこうして出来上がったのかもしれません。ちょっと大らか過ぎる気もしますが。


 それからというもの、フロイドくんとジェイドさんは一緒に部屋を出ることが分かりました。彼等がラギーさんと一緒の身分なら、勉強をしに行っているに違いありません。
 フロイドくんとジェイドさんはほぼ同じタイミングで帰ってきて、同じ服に着替えてまた出て行きます。フロイドくんが部屋に居るときは、大抵ジェイドさんが居ます。
 どちらかというとジェイドさんが部屋に居る時間の方が多くて、彼は主に、土や植物の入った硝子ケースの手入れをしていました。それはテラリウムというらしく、どうやらフロイドくんの趣味ではなく彼の物だったようです。

 とても穏やかな時間でした。
 しかし困ったことに、私はまだご飯をもらえていませんでした。
 そしてもっと困った事に、私はフロイドくんの引き出しの中で粗相をしていました。不可抗力でした。引き出しの外に出られなかったのですから。私はまだ、フロイドくんにおトイレの場所を教えていただいてません。オシッコは数時間で乾きましたが、足元に転がるポピーの種子のようなウンチは消えてくれません。足元にころころと転がって存在を主張するウンチに、泣きたい気持ちになります。
 引き出しの中は暗くて臭くて、つらいです。
 でももっと悲しいのは、ウンチしちゃだめだと言ったフロイドくんとの約束を守れなかったことです。バレたらきっと嫌われてしまいます。
 今すぐ引き出しから出て行きたいのに、ウンチしたことが知られるのが恐ろしくて、私は引き出しの隅で震えていました。
 どうして私は出来損ないなのでしょう。

 せっかくフロイドくんが私を貰ってくれたのに、ダンボールの外の世界を見せてくれたのに。どうして。どうして。


 お腹が空きました。
 どうしてもお腹が空いて、引き出しの中にあったペンの柄を齧りました。歯に物が当たると、空腹が少しだけ紛れる気がします。
 あれからフロイドくんは、もう二回ほどベッドで寝ました。ジェイドさんが居なくなって、お部屋がフロイドさんだけになるタイミングが三度ありました。けれど、そのいずれの時も、フロイドくんは私の方を見ませんでした。
 お部屋でのフロイドくんは、小エビちゃんに貸す漫画を読んだり、バスケットボールを指の上で回したり、鼻唄を歌ったりしていました。穏やかな時間を過ごしているようでした。
 きっとすぐに引き出しを開けてくださらないのは、粗相した私への罰かもしれません。フロイドくんのコレクションのペンを齧ってしまったのを怒っているのかもしれません。出来損ないでごめんなさい。お腹がへって苦しいです。どうか助けて。うんと良い子にします。
 許されるなら、フロイドくんの大きな掌にもう一度乗りたいです。もう二度と小エビちゃんと自分を比べるようなおこがましいことはしません。良い子になります。
 フロイドくん、こっちを向いて。早く助けてください。私は鍵穴に口を近づけて、キューキュー鳴きました。泣きながら鳴きました。声が掠れて、自分でも何を言っているか分かりませんでした。そもそもフロイドくんは、私の言葉が通じないようでした。ネズミ語は授業では扱わないのかもしれません。
 でも、私をここに閉じ込めたのはフロイドくんです。私がずっと飲まず食わずなのも、彼は知っている筈です。助けてフロイドくん。
 もしかして、私のこと忘れちゃったわけじゃ、ないよね?


 どうしても我慢ができなくて、自分のウンチを食べました。
 カリカリに乾燥していて殆ど味がありませんでした。今は空腹より、お水がないことが一等苦しいです。齧ったペンからインクが漏れ出たのを、夢中で吸いました。とても苦くて、絶対に身体に良くないとは思いつつ、止められませんでした。インクは私の手足にも飛び散って、フロイドくんの引き出しを汚しました。ビー玉も鉱石も汚してしまいました。フロイドくんが引き出しを開けたらビックリしてしまうと思います。それでも、私は引き出しから出たくてたまりません。
 どうにか出られはしないかと、何度も引き出しを引っ掻きました。指の爪が剥げました。喉が渇いていたので、手から出た血はことごとく吸いました。もうこんな生活は嫌です。ダンボールに居た方が良かった。
 フロイドくん、本当に私のことを忘れてしまったのかしら。
 お願いだから、私が引き出しを引っ掻く音をポルターガイストなんて現象で片付けないで。
 フロイドくん、フロイドくん。はやく私を思い出してください。

.

 フロイドくんが引き出しを空けたのは、それから随分と経った後です。
「そういえば、ラギーさんからチコちゃんは元気か聞かれましたが、フロイドはチコちゃんという方をご存知ですか?」「知らね」という会話がなされてから、二日以上は経っていました。ジェイドさんが「海洋生物の名前ではないあたり、貴方の知り合いではないのかもしれませんね。とはいえ僕もとんと見当が付かないので困りました」と言い出した時、私はこれ以上ない絶望を覚えました。もう誰も私の事を見つけてくださらないのだと思いました。

 私を探してくださったのは、小エビちゃんさんです。小エビちゃんさんは、やはり可愛くて小柄な女の子で「ラギー先輩からフロイド先輩がハムスターを飼ってらっしゃるって聞いたんですけど」ときらきらした瞳でフロイドくんに尋ねたそうです。
 そこで漸く、フロイドくんの頭に私の存在が甦ったようでした。


 フロイドくんは蒼白な顔で、私のいる引き出しを開けました。
「キャッ」
悲鳴をあげたのは小エビちゃんさんです。
 さぞ驚いたことでしょう。
 引き出しの中はインクで汚れきっていましたし、ウンチやオシッコの跡も酷いものですから。臭いだって、人間の女の子にはきついに違いありません。
 汚物の臭いと、私の死臭が鼻を刺した筈です。

 私の身体は既に痩せ細っていて、お腹の中は殆ど胃液で溶けていました。空腹に耐えかねて齧った手は、もう指がありません。言われなければ誰もハムスターだとは分からない姿です。
「ひ、酷い……」
小エビちゃんさんは優しい女の子でした。初対面の私のために泣いてくださいました。
 フロイドくんはといえば、酸欠の魚のようでした。口をパクパクさせながら、私の骸と彼女の泣き顔を交互に見ていました。彼は「こんなつもりじゃなかった」と、喘ぐように言いました。
 引き出しの隅で横たわる私を持ち上げたフロイドくんの手は、初めてお会いした日よりうんと冷たくて、震えていました。彼は私の軽さに慄いていました。罪悪感でいっぱいの眼が、私を見つめていました。

 二人は暫く引き出しの前で泣きました。
 フロイドくんの涙が、私の見窄らしい毛皮に吸われていきました。フロイドくんは背も掌も大きいのに、幼い子供のようでした。
 私は本当に酷い仕打ちを受けたと思います。誰にも知られずに朽ちていくのは、辛く苦しいのです。とても惨めでした。けれど、やっぱり私はフロイドくんが好きなので「ごめんね」と言われてしまうと、それ以上責める気持ちが無くなってしまうのでした。
 だから仕方なく、二人分の涙に免じて祟ることをやめました。
 そも、私のために誰かが泣いてくれたこと自体、これが初めてでしたので。

 二人は少し話し合って、オンボロ寮なるゴーストの先輩方がいらっしゃる場所に私を埋葬することを決めました。
 人間の文化では、家族が死んでしまった時はお墓なる物を作るそうです。こうすることで、亡くなった者を忘れないようにするのだそうです。ハムスターや人魚は多産な分、家族の死には幾分か大らかですから、私やフロイドくんには無い発想です。でも、兄弟姉妹たちのようにフロイドくんや彼女とも家族になれるなら、悪くはありません。
 土は柔らかくて、引き出しの固い木材の上よりはずっと安らかでした。


 さようなら、フロイドくん。
 幸せとは言い難い日々の方が長かったけど、私はあなたをずっと愛していました。あなたはどうかお幸せに。
 小エビちゃんさんを私と同じ目に遭わせたら、今度こそ祟ろうと思います。
 だからどうか、私のことを忘れずにいてください。



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