怪物が卵膜を破るまで 後

 「生徒達との契約を破棄します」
数時間で保健室から戻ってきたジェイドは、自室に着くなり早々にアズールから今後の方針を宣言されて目を剥いた。

 やはり、寮長の宿題に答えるには、そうする他にないようだとアズールは結論付けた。
 フロイドは特に考える素振りもなく、アズールがそれで良いならと頷いていた。詳細を問うのはジェイドの役目だった。
「契約のシステム化が必要なんです。テストやイベントで、一斉に契約者を増やす。それは悪くない。けれど、逆ギレした違反者も同じタイミングで大量に出てくるのは捌ききれない。いちいち校舎の廊下や談話室や自室前で彼等に応じていては悪目立ちが過ぎる。事務所となる空間が欲しい」
 狭い三人部屋で、アズールはリーチ兄弟に向き合って現状の問題点から切り出した。寮長の介入で不本意な醜態を晒したジェイドは、その意見には同意しかなかった。事務所あるいは拠点があれば、契約違反者と効率的に話し合えるし、身体に分からせてやるのも楽になる。
 しかし、そんなスペースを用意するのは難しい。
 マイナーな愛好会でも立ち上げて部室を使用するといった手はなくはないが、アズールはもっと効率的な方法を見つけたのだ。
「情報収集と契約の受付口を兼ねたカフェを学内に設立するんです。つまり、交渉相手は学園長。交渉材料は、既に魔法を奪った生徒達との契約破棄」

 飲食は、アズールの実家がリストランテなので多少の心得と伝手があった。何より、人の生理欲求を満たすものなので関心がない人の方が少ないジャンルだ。殊に男子高校生は食欲で満ちている。カフェという選択の理由は頷ける。だがジェイドは、交渉相手と内容に不安はあった。
「学園長が応じるでしょうか」
「応じさせます。ナイトレイブンカレッジは名門ですから、ショボい魔法しか使えない生徒ばかりじゃ困るでしょう。まだ今年はロイヤルソードアカデミーとのマジフト大会も控えてますし。何なら、二割までならカフェの売上を上納して良い」
アズールは淀みなく答えた。
 実のところ、寮長と学園長の遣り取りで確信したのだ。教職者として明らかにモラルの低すぎる様子を目の当たりにして、彼の目溢しが貰える範囲が存外広い事を理解できた。
 恐らく寮長は、ヒントを与えるつもりで意図的にアズールと学園長を引き会わせていた。ジェイドに魔法をかけたのにアズールだけ無傷で残したのがその証だ。
「いけんじゃね? あのカラス、結構金のかかる趣味してるっぽいじゃん」
学園長の冷淡さを間近で見たフロイドも、金と外聞を交渉のカードにすることに賛成した。彼はスマホで、学園長のソーシャルネットワーキングサービスのアカウントを開いた。連休の旅に世界各地に脚を運んでいるようで、観光名所や高そうな土産物の写真ばかりがアップされていた。
「スカラビアの方に聞いたところ、保護者から賄賂を受け取って寮舎に宝物庫を作ったとか」
「ああ、アルアジームの」
ならばカフェもいけるか、と顔を付き合わせる。

 無論、利益を出せると信じてもらえるレベルの営業企画書も用意せねばならない。幸いにして、数字とプロデュースはジェイドの得意分野であったし、企画も情報戦略もアズールの特技だった。
「カフェの従業員は基本的に契約違反者を働かせる予定ですが、僕が寮長になったらオクタヴィネル生全員を雇います。勿論、彼等には正当に休みと賃金を与えるんです。学生にとって、仕送り以外で自由になる金は貴重でしょう」
雇用者として与える者の役割を担う事で、アズールはより組織を掌握し易くなる。懐の潤ったオクタヴィネル生は、より欲を深めてアズールの導入した資本主義に傾倒する。経済の概念は、契約や取引に親しみを生む。効率的な支配図だった。


 スリルと奸策の喜びが、彼等の背筋を駆ける。実に久々の快感だった。

 学園長は間違いなく寮長を凌ぐ大魔法士だ。カードの切り方を間違えては、手酷い報いを受けるだろう。だがアズールは、二度同じ失敗をするつもりはなかった。
 寮長室で飲まされた苦汁が、糧となって彼の背を押した。


 より成功率を上げるべく、アズールは寮長から直接交渉の方法について聞きに行った。
 これには少々抵抗があったが、アズールは自身の定めた目的を達成する為なら泥でも啜ろうと決めた。それが彼の矜持でもあった。
 寮長は、宿題の答えを告げると、必ず実行しろと念を押した。及第点らしい。
 彼には学園長の勘所を教授してもらい、交渉のカードの切る順番まで聞いてもらった。教えたがりの性分なのか、あまりに教わりすぎたので、アスールは睡眠薬のレシピを渡す羽目になった。それでも、寮長の入れ知恵はどれも有意義だった。


 結果から言えば、オクタヴィネルにカフェの建設許可が下り、生徒達に魔法が戻った。
 学園長への上納金が売上の一割に留まったのは、寮長の入れ知恵の成果と、アズールの口八丁の功績だった。

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 ウィンターホリデー前々日、オクタヴィネル寮内は浮き足立っていた。
 誰も彼も、お祭り気分であった。テスト明けの暇も相俟って、他寮生までオクタヴィネルへ集まってくる始末。しかしそれも、寮長が許可してどんどん入寮させた。
 人魚達は躊躇無く変身を解除し、中庭の中央へと泳ぎ出していく。人間と獣人は、中庭の見える硝子窓に張り付く者と、水中呼吸薬を購入する者に別れた。水中呼吸薬は一瓶千マドル。内容量に対して少々高価だが、お祭り価格だ。それに品質の保証も完璧だった。製作者は学年二位の秀才、アズール・アーシェングロットだからだ。となれば勿論、売り捌くのはリーチ兄弟の仕事である。

 オクタヴィネルの廊下で、フロイドが声を張り上げる。
「水中呼吸薬で〜す。中庭の特等席で見れるよー。アッ、ウミヘビくんとラッコちゃん! 呼吸薬買って!」
部活仲間のジャミルとその同学年にして主人のカリムを見付けたフロイドは、恐るべき脚の長さを利用して距離を詰めた。
「ごめんな、オレはジャミルの作ったものしか口にしないって決めてるんだ」
「俺もカリムの側に居なくちゃいけないから中庭には出られない。悪いな」
売上には繋がらなかったので、フロイドはさっさと離れた。

 ジェイドは、車内販売でもするのかというサイズのワゴンに呼吸薬を並べて、廊下や中庭前を行き来しては売って回っていた。
「おや、ラギーさん。水中呼吸薬はいかがですか。特等席で観戦できますよ」
硝子窓に張り付いていたラギーに、ジェイドが声をかける。ラギーはそういう贅沢に金を使わない性質だ。案の定、ラギーはそれを断った。ただホリデー前なので、故郷に持ち帰る土産話が欲しかったのである。
「レオナさんがどうせ八百長って言うんですけど、どうなんスか?」
「まさか。実力を示しておなかければ、これだけの人数を集める意味がない」
ジェイドは別れ際に、ラギーのポケットに半光沢紙を突っ込んでいった。
 学内カフェのオープニングスタッフを募集するチラシであった。店の名は「モストロ・ラウンジ」。所在はオクタヴィネル寮、鏡舎正面。支配人はアズール・アーシェングロット。一月よりオープン予定。
 モストロとは怪物という意味だったか、とラギーは支配人の胡散臭い笑みを思い出していた。あの底無しの強欲にピッタリの名ではないか。カフェに入ったつもりが、食い物にされるのは客の方だった、なんてオチを想像したラギーは低く笑った。学園指定バイト先の文字では拭いきれない胡散臭さの店だが、時給はそれなりに良かった。


 ヴィル・シェーンハイトとルーク・ハントは、既に人魚達と交じって中庭の特等席に居た。水中呼吸薬は買わずに、彼等自身で用意した。魔法薬学に特化した生徒が多いと知られているポムフィオーレ生の矜持があったからだ。
「本当に決闘する気かしら。まるでお祭りみたいな態度じゃない」
寮長がその座を巡って決闘の申し込みを受けるのは、珍しい事ではなかった。だが、本当に寮長の器がある優秀な生徒なら、そんな事はせずとも寮長はその席を譲る。リドルのような規格外は例外にせよ、決闘を申し込むのは大抵が自身の力量を知らないか、寮長の実力を測れない馬鹿ばかりだった。しかし今回、決闘を申し込んだのは、アズールだ。腹の黒さは最早隠しきれないところではあったが、上級生から見た彼は、礼儀正しく、決して羽目を外さない男だった。
「政治的なセレモニーなんだろう。ポムフィオーレとは随分勝手が違うようだね」
ルークは、人魚達の翻る尾を物珍しそうに見詰めていた。


 中庭に学園長が到着する。

 ざわついていた寮内は、一瞬で静まり返った。彼が手鏡を掲げたからだ。
 それを合図に、中庭の中央にアズールと現オクタヴィネル寮長が進み出る。学園長を挟んで対峙する彼等は、人の形をしていた。
「てっきり僕は、指名していただけるのかとばかり思っていましたよ」
アズールは、観衆にも聞えるように声を張った。寮長は確かに、アズ−ルを認めていた。更には、己のシンパにまで目をかけてやれと根回ししていた。だが、それ以上の御膳立ては無かった。結局は、慈悲と知恵の他にも証明すべきものが残っていたということだ。
「はは、決闘は必要だろう。美しい伝統だ。それに、慈悲の寮の長は、こんな機会でもなきゃ戦闘スキルを示す機会も無いもんだ」
美しく、好戦的な笑みだった。険悪さは無い。けれど、どちらにも手加減しようなどという思いも無かった。いずれにせよ、ナイトレイブンカレッジの生徒達は、力の無い者の下になど付きはしないのだから。

 学園長が「どちらが勝っても遺恨を残さぬように」と忠告して決闘の手続きを説明する。
 寮長の余裕綽々な態度を思い出すと、アズールの身は竦む。けれど、意地を張り通せない程度のものではなかった。
 アズールは、マジフトの寮対抗戦に出た寮長の動きを何度も視聴した。彼の魔法の傾向や戦術の癖を覚えた。脅し方も圧力のかけ方も、彼から習った。以前対峙した時よりも、互いへの理解度は深かった。知れば知る程悍ましくなりはしたが、魔法の打ち合いなら勝算はあるだろうという見解も変わらなかった。
 今は互いの手の内を知り、胸の内を知っている。オクタヴィネル寮長は、温和な顔をしていても軽薄で、情に厚そうな口振りで計算高い。残忍な魔法が作れて、それを阿呆みたいな遠距離からでも正確に打ってくる。何故か身を切らずにアズールの情報をさらりと集めるだけの人脈と能力があって、恐ろしくも学園長の転がし方まで知っている。そのくせ、小さな頃からの夢を追いかけていて、教えたがりのお節介。アズールとは、一生分かり合えないであろうという事だけは確かだった。けれど、不思議とアズールの鼓動を落ち着かせたのも、彼への知識だった。敬意と言い換えても良い。
 アズールは大きく息を吸って、胸を張った。

 合図となる手鏡が割れた。

 海中の中庭では自由落下によって鏡を割る事は叶わないので、学園長が魔法で割るのだ。派手な音をさせながら、鏡面の欠片が水に舞った。それはすぐに水に溶け、観客と決闘者を隔てる透明な境界となった。

 アズールは素早くマジカルペンを抜いて、魔法を放った。大砲を思わせる豪快な破裂音と同時に、衝撃波が海水を切り裂いた。寮長は盾の呪文で衝撃から身を守る。防ぐと同時に解析された。恐らく、再び同じ手を使えば無効化の呪文を打ってくるだろう。魔法で編まれた防護壁にぶつかった衝撃は、無数の泡に変わった。
 その実、アズールの本命の攻撃は泡だった。泡は微細に振動し、幽かな音を放つ。それは共鳴し、反響し、寮長の周囲で騒音に変る。寮長が防音魔法を唱えるタイミングを見計らって、アズールは実行中の魔法を封印する呪いを放つ。当たりはしたが、効果は半減させられた。防衛魔法の腕もさることながら、呪術への耐性にも恵まれているようだった。
 鯨の人魚相手に、目眩ましは通じない。海豚の類も同様だが、彼等は目を瞑っていても障害物を避けて歩ける程度に耳が良いからだ。人間の形に変じてもその特性はある程度引き継がれるが、人魚の状態では殊更に理不尽かつ精密なエコーロケーションを扱ってくるだろう。アズールの泡は、その防止策だった。少なくとも、騒音が取り巻く間は寮長は人魚の姿に戻らないだろうと踏んでの事だった。
 観客の獣人の一部からも「耳が痛い」「煩い」と苦情が来るが、その対処は学園長の領分だった。
 騒音に紛れて、耳鳴りがやってくる。アズールの頭蓋骨が体内からの高音に揺れる。三半規管を壊す、寮長の十八番だ。寮長の唇が一切動いていない状態で発動した事に驚きつつ、アズールは冷静に対抗呪文を唱える。事前に仕組みを理解しておいて正解だった。
「お前は人魚にならなくてもいいのかい、アーシェングロット」
寮長は、アズールが蛸の姿にプレックスを抱いている事も勿論把握していた。安い挑発である。
「……そっちこそ」
寮長がマジカルペンを振る。何処から召喚されたのか、海水しかなかった空間に無数の針が浮かぶ。先端は全て、アズールを向いていた。先端恐怖症には悪夢でしかない光景を睨むアズール。無生物といえど、陣を描かない召喚のコストはそれなりに高い。先端に毒が仕込まれているにしても恐らく半数以上は幻覚。などと分析したアズールを嘲う「全部本物だよ」の声。
 ストールを母衣の代わりに広げ、アズールは咄嗟に急所への命中を防ぐ。
 銀の針がアズールの足元に突き刺さる。
 その命中精度の悪さに違和感を覚えた時には、遅かった。アズールのすぐ近くに、針で描かれた召喚陣が出来上がっていた。アズールは咄嗟に水を蹴って、陣から距離を取る。その無防備な背を凍結魔法が掠めた。
 針で作られた陣から、寮長の使い魔が出現する。長い胴をくねらせとぐろを巻いていくソレは、水龍の眷属、蛟だった。
「同じ事を考えていたようですね」
 寮長を取り巻いていた泡の規則的過ぎる配置に、観客がアッと声を漏らす。アズールもまた、泡で召喚陣を作っていた。泡を一際煩く鳴らして、陣の中からアズールの使い魔が出現する。その召喚された生き物に、誰もが絶句した。
 ソレは長い胴をくねらせ、歯を剥き出して笑う。人魚姿のフロイドだった。
「……そんなのアリか?」
 動揺を隠せない寮長を、アズールがマジカルペンで狙う。
 主人の危機に蛟が動いた。寮長の頚動脈へ最短距離を走った閃光は、蛟に逸らされて肩の肉を切るだけに終わった。蛟の角が砕けて落ちた。
 蛟は蛇のような身体をくねらせ、毒の混じった呼気を吐いてアズールを威嚇する。フロイドが鰭を逆立て、威嚇し返す。
 寮長の抉れた肩から吹き出した血は、海水を赤く染めていた。

 そもそもリーチって人魚だったの? という他寮生の反応に、水中呼吸薬を売り捌いていたジェイドは噴き出した。
「学友を使い魔にするなんて、彼はどういう倫理観してるんだい」
ジェイドの姿を見つけたリドルが詰め寄る。その後ろにはトレイも控えていた。こんな男を寮長にしてはとんでもないと嘆くリドルに、ジェイドは口元を抑えて笑った。
「人魚とはいえ、フロイドにだって人権ってものがおありだよ! 確かに強暴だけど、こんな扱いは間違ってる!」
「おや、お優しいのですね。陸に上がったばかりなので、僕達はその辺りの機微に少し疎くて」
「そーそー、金魚ちゃん優しくってビックリ〜」
「ギャッ」
ジェイドの影からフロイドが顔を出す。こちらは人間の姿だ。指の間に水中呼吸薬を挟んで持っている。リドルが目をまん丸くして、中庭のフロイドと目の前のフロイドを交互に見比べた。
 中庭のフロイドは、蛟の吐いた毒の中を突っ切って、寮長へ真っ直ぐ泳いだ。その直後、蛟の後脚で背中から引き裂かれた。リドルが引き攣った悲鳴をあげる。血は出ない。フロイドの四メートル近い身体が霧散した。幻影だったのだ。
 リドルは胸を撫で降ろす。優しいねぇ、と本物の方のフロイドが目を細めた。リドルは揶揄われた上に厄介な人魚に気に入られてしまった事を悟って、中庭へ逃げていく。水中呼吸薬は無くとも、彼は水中に対応する呪文を知っていた。トレイはリーチ兄弟に「あまり揶揄ってくれるな」と釘を刺し、リドルの後を追った。

 寮長が人魚に実体が無いと気付けなかったのは、動揺と泡で作った騒音の所為だろう。あの男の意表を付く事ができたと、アズールは唇の端を吊り上げた。

 蛟が幻影に気を取られている隙に、アズールは緑の閃光を放つ。それは水中で蓬の枝でできた矢に姿を変え、蛟の眼球に突き刺さった。蛟が金切り声を上げてのたうつ。矢の刺さった眼球を中心に、緑の草が生えていく。アスファルトを押し退けて伸びる雑草のように、鱗を引き剥がしながら蓬が茂っていく。
 もう長くは持たない蛟の影から、寮長がマジカルペンを振った。煌々とした炎が渦を描きながらアズールを飲む。アズールは自身の周囲に防護壁を張ろうとして、踏みとどまった。代わりに、未だ出血の止まらない肩へ腐蝕魔法を放った。水中でまともな炎を出すのは難易度の高い行為だからだ。二度の召喚を行った後では、魔力の消費が激し過ぎる。案の定、温い水流がアズールの皮膚を撫でるだけで、炎は幻覚だった。
 腐蝕魔法を食らった寮長は、傷口から肉を腐らせた。舌打ちの後、自分のマジカルペンで片腕を切り捨てた。派手な損傷に、観客が盛り上がる。ナイトレイブンカレッジの決闘において、死か意識不明を除けば降参以外の幕引きはない。戦闘は続行する。

 アズールが咳込む。鼻血が出た。
 まだ魔力の限界は先の筈だが、幻覚の炎に舐められた身体が軋んでいた。おかしい。そう思った時には、脚の関節が消えていた。
 人に変身する為の魔法を解除されたのだ。あの炎の紛い物を直接食らうべきではなかった。寧ろ、幻覚と見抜き易いあの炎は、無防備に魔法を受けさせる為の演出だったのだ。そう反省しても遅く、アズールの両脚が四つずつに裂けていった。不規則な吸盤が姿を現していく。
 アズールは、人魚の姿に引き摺り戻された。

 学生達が、世にも珍しい蛸の人魚の姿に息を呑む。グレートセブンと同じ、艶めく黒い脚が水を蹴っていた。
「畜生っ」
蛸の下半身は魔法の打ち合いによる戦闘には不向きだ。面積が大き過ぎて躱し辛いし、速度も出ない。死に掛けの蛟が、アズールの蛸脚を二本纏めて噛み千切っていった。アズールは大きく体勢を崩し、眼鏡を落とした。蛟はそのまま海底に伏して、二度と浮上しなかった。蒼い血が水に散っていく。
「はは、的が大きくて良いな、とッ」
寮長が素早くマジカルペンを振った。決闘の最初に聞いたものと同じ、大砲を思わせる豪快な破裂音が中庭に響く。衝撃波は海水を切り裂いて、アズールに直撃した。左腕と、上半身を庇った三本目の蛸脚が爆ぜ飛ばされた。たった一度食らっただけの魔法を再現できてしまう寮長に、観衆が舌を巻く。
 騒音が発生する泡をに揉まれながら、アズールは反撃を図る。彼は血の鉄を媒介にして、無数の剃刀を召喚した。薄い刃の群は、水を切り裂くように寮長へと飛んでいく。寮長はコートを翻して躱すが、スラックスに包まれた脚に幾つもの切り傷を作った。
 だが時期に、寮長の周囲に施した騒音を生む泡の効果も切れるだろう。そうなれば、寮長が人魚にならない理由が無くなる。
 その上、二人とも出血が酷い。短期決戦に持ち込みたいのは同じだろう。それでも虚勢を忘れず、好戦的な笑みすら貼り付けて、互いを睨み合う。

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 「アズ君、肖像権とか煩いタイプだから止めいた方がいーよ」
ケイト・ダイヤモンドが人魚の姿を晒すアズールに向けてスマホのカメラを向けた時、忠告してきた者がいた。ケイトと同学年の、オクタヴィネル副寮長だった。
「拡散禁止的な〜? 折角映えんのに残念だねぇ」
見れば、ケイトの他にもアズールの姿を写真に収めている者は居た。不規則な吸盤が並ぶ軟体の脚も、吹き出す血の青さも、全てが物珍しかったからだ。最早、禍々しさと血生臭さすら、被写体の魅力の一部となっていた。皆、眼前の暴力の応酬に、残虐を忌避する心も麻痺させて魅入っていた。
「そ。去年の同クラのよしみで教えたげる。多分、アイツら投稿したアカウント調べられて洒落にならない使用料ブン取られるよ」
「いや、副寮長なんだから止めてよ」
「権利者が使用料請求すんのは正当な権利じゃん? 俺ら慈悲深ぇからさぁ、両者の権利をソンチョーしちゃうワケ」
「無慈悲無慈悲」
中庭の中央では、熾烈な決闘が続いていた。両者とも小細工を弄している余裕など無いかと思えば、未だ化かし合いは健在である。
 アズールの操る剃刀が規則的な法則をもって落下して召喚陣を作れば、寮長は召喚を強制キャンセルする詠唱で対抗した。寮長が一度見せた召喚方法を一年生にされてはたまらない。しかしそれはブラフだったようで、詠唱の隙に本命が召喚される。魔方陣はアズールの脚に彫られていた。アズールは、脚の一本を自ら捨てたのだ。
 アズールの血煙を纏って、使い魔が姿を現す。それは一見、裸の女のように見えたが、猛禽じみた貌と鰭を有していた。セイレーンだ。
 セイレーンは、豊かな胸に見える気嚢をいっぱいに膨らませて、魔力の篭った歌を紡ぐ。聞く者全てを惑わせる、幻惑と滅びの歌だ。

 観衆に被害が及ばないのは学園長の加護あっての事だが、その庇護下から外れている決闘者達には致死毒と変らない。
 アズールは防音魔法を自身にかけて対策したが、既に防音魔法を封じる呪いを受けている寮長は、圧倒的に不利である。寮長の瞳孔は不自然に拡散し、呼吸も怪しくなっていた。精神錯乱の初期症状だ。
「つか、アズ君? のこと寮長サンは気に入ってたんじゃないの? 学園長にモストロ・ラウンジの建設を交渉するの手伝ったって聞いたし、結構推してたんじゃないの?」
満身創痍で戦う必要性の無さを、ケイトは今更ながら指摘する。
 寮長は歯を食い縛り、マジカルペンの先端を自身の太腿に突き刺していた。痛覚によって正気を引き戻すのは、原始的な狂気の緊急回避方法だ。
 再び歌に囚われる前に、寮長が音響魔法を展開する。セイレーンの歌に逆位相の音を重ねて、音を相殺する気なのだ。
「けーくん情報通ね? よく知ってんじゃん」
ウチの寮生も何人かユニーク魔法奪われてたからね、とケイト。それが返却された今、ここで苦情を言っても意味の無い事だと分かっている彼は、決して声を荒げない。
「あの二人、暴力の前に交渉で片付けたがるタイプじゃん? だからさ、ナメられない交渉のカードが要るのさ。ヤバい暴力も使えますよ。手足千切れようが食らい付きますよ。味方で居てほしいでしょうって。想像力の足りない奴等に実力の程を見せてあげるワケ。慈悲だよ一種の」
オクタヴィネルの慈悲は、婉曲的かつ都合良く解釈されがちである。今更築かれた寮風でもないので、二年生の彼等は特にそれを指摘しなかった。
 けれど確かに、想像力の足りない輩に脅威を正しく認識させてやる為に身体を張っているのだとすれば、とんだ献身である。ナイトレイブンカレッジの魔法医療は素晴らしいが、数日で治る怪我ばかりではない。砕けた骨や抉れた肉を再生させるのは、大人でも泣く程痛いし吐く程気持ちが悪いと評判だった。それでも、生涯残る傷を負う場合もあるし、どうにもならない怪我もある。
「でも、あー見えてウチの寮長、結構野心家なのよ」
「寧ろフツーにそう見えてるかも」
「卒業したら起業したいんだって。で、同級生とか後輩とかを引き抜いていきたいらしくって。今までせっせと土壌を整えてたワケ。だから実は、アズ君に一番生徒との契約を破棄してもらいたがってたの、あの人かも」
セイレーンの歌が聞えたり聞えなくなったりを繰り返す。アズールはセイレーンの音響攻撃を支援しつつ、寮長の魔法耐性を引き剥がす呪いを編む。
 寮長はセイレーンに錯乱の魔法をかけ、アズールを襲うよう仕向けていた。錯乱したセイレーンは、アズールの首に掴みかかる。
「全力で鼻っ柱圧し折ってやりたかったろうな」
「慈悲は〜?」

 やっちまえ、と観客の一人が叫んだ。アズールの契約に異議申し立てした生徒の一人であった。寮長を応援するオクタヴィネル生のコールと、アズールへの罵声が混じる。
「でも、寮長がアズ君を気に入ってるのも本当。努力家で優秀だしね。間違えても、すぐ改めて立ち直せるヤツが本当に賢い奴なんだって、あの人いつも言ってた」
寮長の耳からは、赤いもやのように血が出ていた。過負荷と魔力の連続行使で、酷い頭痛に襲われている事は想像に難くない。
 アズールも、詠唱の度に口から血と墨を漏らしていた。酷い声だった。
 だがやはり、両者とも爛々とした眼のぎらつきは消えない。瞬きすら惜しんで、互いを刮目し合っていた。
「寮長が引き抜いていきたい奴もそう。間違えても、すぐ改めて立ち直せるヤツ。一度契約詐欺に引っ掛かって痛い目見たら、警戒心をちゃんと鍛え直せってコト。マァ逆に言えば、これ以降に似た手口でやられる馬鹿には価値とか無いから、アズ君を野放しにしてんだけどサ」
寮長が欲しいのはあの秀才のおどろどろしい野心と暴力に揉まれて強く育った「賢い奴」なのだと、副寮長が笑う。
 結局これは、統治されるオクタヴィネル寮生を賢く振舞わせる為のパフォーマンスではあった。そして同時に、寮長が「賢い奴」に己の力量を訴える機会でもあったのだ。野心の為に身を切って骨を折って泥を啜る。アズールも寮長も、厄介なところが似通ってしまった。
「後輩を試金石にしないでよ」
「寧ろ砥石にしてんのよ」
確かにこんなにも血生臭い戦いを繰り広げている男を警戒しない奴は余程の馬鹿だろう、とケイトは中庭の決闘を仰ぎ見る。
 彼等はつくづく嫌らしい戦い方をする。膨大な知識と想像力によって可能にされる戦術である事は確かだが、最早インテリジェンスへの敬意よりも泥臭さが目立つ戦局になってきていた。どちらも引かぬ闘争心が、海中で火花を散らす。勝利への野心と渇望が、観衆に恐怖すら植え付けた。

 ケイトは写真を撮った。
 マジカメに投稿する為ではない。今後、自身が研鑽していく為に、この記録が必要だと思ったからだ。

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 イグニハイドの談話室では、モニターでオクタヴィネル寮内の決闘を中継放送していた。
 撮影は、イデア・シュラウドが制作したドローンによるものだ。イデア自身、寮長が変る可能性のある決闘であれば、見る価値はあると認めていた。ただ誤算だったのは、イデア自身も寮生達に紛れて談話室で観戦する羽目になったことだ。
 本来なら自室のモニターで観戦する予定でいたイデアだが、セイレーンの歌が流れた際に談話室が壊滅の危機に陥ったので、事態の沈静化に顔を出さざるを得なくなったのだ。そのまま「何かあった時の為に一緒に見てください」と泣き付かれ、談話室の末席でモニターを見詰めている。
 イデアが嘗てボードゲーム部で見た大人しそうな少年は、凶暴さを隠しもせず、二学年上の男と対等かそれ以上にやり合っていた。その顔は、もう青年と呼ぶ方が相応しい気がした。

 既に満身創痍の決闘者達がなおも戦いの手を緩めぬ様に、寮生の殆どは慄いていた。
「痛覚バグってんのかな人魚って」
決闘者達の執念は、セイレーンの歌より恐ろしかった。
 セイレーンの被害にあった生徒は、未だ数人は談話室の隅で昏倒している状態だが、最早誰の意識の中にも無かった。皆、モニターの中の陰惨な戦いぶりに、さっさと降参してしまえばよかろうにと気を揉んでいた。
 寮長の座ってそこまで欲しいもんなの? と目配せし合う。アズールや寮長にとって寮の掌握は壮大な野望の通過点として必要なのだが、そんな事情など知らない彼等は、学園という狭い箱庭における名誉の為に死ねる人種かと誤解してしまっていた。

 ついにオクタヴィネル寮長に残っていた腕も吹き飛ばされた。
 寮長は、手と一緒に散ったマジカルペンをどうにか口でキャッチした。投降どころか、反撃とばかりにアズールの右腕が砕かれる。アズールも当然のように、残った蛸脚でマジカルペンを拾って試合続行の構えを見せた。
「決闘と殺し合いを混同してらっしゃる? 蛮族なの?」
もしそこが中庭であれば、必死に応援を送る彼等の学友や身を案じて祈る下級生などがいる手前、彼等の目を憚って口を噤んだだろう。しかしイグニハイド寮生だけの談話室では、どうも口が緩くなる。人はモニターで隔たった相手には、現実味が薄れて気楽になってしまうものなのだ。
 寧ろ、中庭で狂気的な戦闘行為を間近に観戦している生徒達の感性が麻痺しているのだ。学生の感性でいえば、談話室に居る側の方が理性的な評価ができているとすら言えた。
「誰だよ、あんなバケモンをアズ君とか呼んでたの」
両者のマジカルペンの魔法石は、既に黒く染まっていない部分の方が少なかった。
 中庭の中央部は、青と赤の血で禍々しく濁っている。イグニハイドが崇拝する死者の国の王の棲まう処より、うんと地獄に相応しい光景だった。
「悪魔だよもう」
デビルフィッシュとはよく言ったものだと、異形の姿を晒すアズールに畏怖の視線が集まる。眼鏡が無いと存外目付きの悪さが目立つな、などと能天気な感想を抱いているのはイデアぐらいのものだ。
 イグニハイドには、アズールに賭けチェスで散々に搾取されたボードゲーム部員も、悪徳契約に引っ掛かった者も在籍している。自分達は一体何者を可愛がっていたのかと、彼等は蝋燭より血の気の失せた顔色をしていた。
「悪魔が勝っちゃった……」

 モニターの中では、満身創痍のアズールが、海底に沈み行く青年を見下ろしていた。
 リドルに次ぐ一年寮長の誕生の瞬間だった。
 画面からは疎らな拍手が聞えたが、談話室はただただ沈黙があるだけだった。

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 アズールは保健室で眼を覚ました。
 シミの目立つ天井と、薄くて遮光性の期待できないカーテンと、消毒液の匂いから、アズールは自身が保健室に居ると判断した。身体の感覚が曖昧で、意識も気だるく、いまいち覚醒しきっていない自覚があった。

 けれどアズールは、決闘に勝った事だけは明確に覚えていた。
 勝者として、新たなオクタヴィネル寮長として、素晴らしい演説をしようとした事も覚えている。だが、声を張る為に息を吸い込んだ瞬間、リーチ兄弟に乱入されて、そこからからの記憶が曖昧だった。既に意識が朦朧としているアズールを見かねた双子が、新寮長の尊厳と威厳を慮って、速やかな回収に努めてくれたのかもしれない。ああるいは、演説の途中で倒れて運ばれたのかもしれない。そう分析するが、今のアズールにはどちらでも良い事だった。
 いずれれにせよ、アズールは勝った。

 今はその一点がただ爽快だった。拳を突き上げて「バケモノ鯨に勝った!」と高らかに笑った。
 正確には、拳を突き上げようとしたが折れた腕は動かず、声が酷く掠れて喘ぐような吐息が勢いよく漏れた。
 そこで漸く、アズールは己の怪我の重症度を思い出し、痛みを認識した。


 アズールは痛みに呻いたが、カーテンの向こうに人の気配を感じて声を噛み殺した。
「いやはや、昔を思い出しますねぇ」
保健室の応急スペースの方から、学園長の能天気な声がした。同時に、珈琲の匂いが立ち込める。
「我々の頃は決闘に降参なんて制度はありませんからな。よく腕から吹き飛ばされて、マジカルペンを咥えて闘ったものだ」
「おや、トレイン先生もでしたか」
トレインとクルーウェルの声がして、カーテンに三人分の影が映る。
 珈琲片手に昔話に花を咲かせる教員達は、然して生徒を心配した様子はない。何故なら、彼等が古き良き大魔法士だからだ。野心に燃える魔法士は得てして闘争心が強いものだと、通過儀礼のようにすら思っているらしい。
「なに、その分だけ寮長への尊敬も厚かった。あの頃は良かった」

 保健室の戸が開く音がして、慣れ親しんだ揃いの靴音がやって来た。ジェイドとフロイドだ。
 アズールには姿が見えなくとも、教員の雑談を耳にしたフロイドが心底嫌そうな顔をしているであろう事が分かった。
「調子はどうです」
ジェイドが挨拶とほぼ同時にカーテンを開けた。一気に眩くなった視界に、アズールは眼を眇める。
 フロイドは遠慮の欠片も無い手付きで、アズールに眼鏡をかけさせた。アズールはそこで初めて、自身がまだ人魚の形をしている事に認識が追いついた。
 蛸脚が散々負傷した後で人間の形になるとどうなるのかアズール自身でも見当がつかないので、それは妥当な処置だと言えたが、落ち着かない気分になるのも確かだった。アズールの下半身は、棺桶のような水槽に浸けられていた。水槽を満たすのは、海水に塩分濃度を似せた再生促進液だろう。痛みの原因の八割がそれだった。痛くないところなど無かったが、脚の痛覚は特に酷い。
「めちゃくちゃ痛いんですけど、良い気分です」
咳払いを何度かして、アズールは漸くまともな声を出した。
「左様で」
強がりと本音のどちらにも合致する返答に、ジェイドは半ば呆れていた。
 だが教師陣はその回答を気に入ったようで、アズールに白湯をくれた。珈琲は刺激が強すぎるので当分は止めておけとのことだった。両腕が使い物にならないアズールは、無事な蛸脚でマグを受け取った。

 アズールの回答を気に入った者はもう一人居たようで、カーテン越しに「笑うと痛いから止めてくれ」と場違いに朗らかな声がした。オクタヴィネルの元寮長である。
 クルーウェルが気を利かせてカーテンを開けると、アズール以上に悲惨な様態の男が笑っていた。敗者とは思えぬ態度だった。両腕を固定され、片足を天井に吊られて、一人では食事も儘ならない姿だが、やはり底抜けに愛想が良かった。その面の皮を、アズールは一等恐ろしく思った。
「お前、俺のことをバケモノ鯨って呼んでたんだね」
「聞いてらしたんですか」
今まで彼を寮長と呼んできたアズールは、彼を嫌味無く呼べる名を探し、逡巡の後に先輩と称する事にした。
「ああ。マァ、お前も今にアズ君じゃなくてバケモノ蛸って呼ばれるようになるよ」
「呼ばせません。語呂が悪いですし」
アズ君に未練は無いが、アズールは蛸の身体にコンプレックスがあったアズールは断固として拒否した。ジェイドが「ではインチキタコ野郎で」と益々酷い折衷案を出すまで、戯言が続いた。
 思えば、彼等が雑談と言えるような会話をしたのはこれが初めてだった。
 今日の彼はバケモノ鯨ぶりが形を潜めていて、アズールにも好きに喋らせてくれるようだった。あるいは、ただアズールの気が大きくなっていただけかもしれないが。


 化かし合って殺し合った男同士が顔を合わせているというのに、保健室は不思議なほど険悪さに欠けていた。
 通常なら緩衝材になる筈の教師陣が、完全に仕事を放棄して寛いでいた。この場では寧ろ邪魔ですらあった。フロイドに至っては早々に見舞いに飽いて、体重計に乗ったり身長を測ったりしていた。保健室には不適切な音量で「ジェイドの身長越えたかもしんねー」とはしゃいでいる。
「そうそう。副寮長ですが、お二人が寝ている間に僕が務める事に決まりましたよ」
教師陣から貰った珈琲を啜りながら、ジェイドは何でもない事のように告げた。実際、アズールも元寮長もその変化に驚くどころか、納得を感じていた。元の副寮長ではアズールについてこないという予感もあったし、アズールの横に控えるのはリーチ兄弟が一等似合いだったからだ。
「平和的に魔法薬の調合の成果を競って決めましたよ。お二人が散々にやり合った所為で、流石に副寮長まで武力一辺倒で決める訳にはいかないと言われまして」
「誰が武力一辺倒だ」
例え殴り合いでもジェイドが制していただろう、とアズールは思った。しかしアズールは、ジェイドが作ったという魔法薬の詰まった瓶を見せられて、憎まれ口を慎んだ。薄荷の香りがする半透明なアイスブルーの液体のそれは、人魚用の鎮痛薬だ。少々首を捻って伺えば、それと同じ薬が元寮長の枕元にもあった。
「全ては副寮長の提案ですよ。ああ、もう今は元副寮長でしたね」
人望という単語の毒は、やはりアズールの胸に潜伏したままだった。勝ってなお、アズールは自身に劣る要素がある事に意識が傾いた。
 同時に、アズールは少々の安堵を覚えてもいた。この先輩達は、寮長や副寮長という座をこんな形で奪われても、ウィンターホリデーが明ければ普通に学友と過ごすのだろうという予感があったからだ。そう見えるよう振舞う事が先達からの気遣いなのかもしれないが、アズールはそれを黙って受け取る他にない。

 ジェイドは珈琲を飲み干すと、流しにマグを片付けに行った。
「貴方は治療に専念してください。ラウンジの準備は僕達が計画通りに進めますので」
ホリデーの間に身体をどうにかしてください、とジェイドは言いたい事だけ言って保健室を出て行った。視力検査表のランドルト環の切れ目をマジックペンで埋めたフロイドが、トレインと揉め始めたからだ。

 その後も、見舞い客は来た。教員以外は元寮長の客だった。
 教員やリーチ兄弟から、会話ができる程度の容態だと伝わったのだろう。短い時間で大勢が押し寄せた。アズールはこの賑やかしい様子に、漸く今がホリデー前日なのだと実感した。午後には実家に帰るという寮生達も、競うように顔を出した。
 見舞い客達に愛想を振りまく寮長は、いつもよりどこかすっきりした顔をしていた。四年次ではこんなに思い切りやり合えまいと、楽しげですらあった。その所為か、過激な決闘に苦言を呈した者は少なかった。それどころか、口と片脚しかまともに動かない寮長が「何もお構いもできませんで」と言うのは、上級生の間では洒落たジョークとして認識されるようだった。結局、アズールはこの日だけでその文句を片手では数え切れない程聞く事になった。

 元寮長の客には花や小物などを渡す生徒もいて、夕方にはベッドの周りが随分賑やかになっていた。
 腹に花束を置かれ、脇に鯨のぬいぐるみを添えられた彼は、弄ばれているようですらあった。それらを片付けたのは元副寮長で、彼はホリデーも学園に居残る事を決めたようだった。彼は生花を適当な瓶に生けて飾ったり、使えも飾れもしそうにない物をベッド下に纏めて押し込んだり、雑ではあったが手際は良かった。面倒臭そうな声音で「排泄だけは世話しませんからね」と釘を刺したが、それ以外の殆どをやってから消灯時間寸前に帰っていった。
 副寮長とは、その手の気質の者がなれる役職なのかもしれない。彼自身は、ボトルシップを飾っていった。寮長室でアズールが見たものとはまた違う、蓄光素材のパーツが美しい貨物船がボトルに封入されていた。


 その夜、アズールは眠れなかった。
 精神は痛覚と戦闘の興奮で冴えているのに、身体が一日中全く動かせなかったのだから、当然の不調和である。
 それは元寮長も同様の様で、静まった部屋に、二人の不規則な吐息が目立った。時折、不快に耐えかねて、どちらともなく唸る。人前では常に余裕ぶって振舞う男達にも、感覚はあるのだ。貰ったばかりの鎮痛薬で痛みを鎮めても、不快は不快だ。骨に篭った熱が疼いて、身体中がもぞ痒かった。

 ついに眠りを諦めたアズールが、向かいのベッドに声をかける。
 低い掠れた声が返ってきた。日中の愛想は無い。けれどアズールは、こちらの方が取っ付き易いと感じていた。
 もっとも元寮長の事なので、そんな後輩の心情も織り込み済みで態度を変えているのかもしれないが。この容態でそこまで演じる必要もなかろう、とアズールは一先ず信じることにした。
「そういえば僕、まだあなたに魔法を一つも教えてもらっていませんでした」
「その代わり、交渉の仕方を教えてやったじゃあないか」
けれど、寮長が最初にアズールを呼びつけた口実は、よく効く睡眠薬のレシピと引き換えに取っておきの魔法を教えるというものだった。方便ではあったが、アズールは睡眠薬のレシピを開示してしまっているので、どうせなら彼の魔法についても明かされるべきだ。
「お前なら、そう遠くない内に自力で出来るようになるよ。多分、ホリデー明けて一ヶ月以内に」
「その時間を惜しんで何が悪いんです」
療養中の暇に空かせて魔導書を片端から読み漁るのだろう、と指摘されるアズール。それは図星であったが、一つの魔法の習得が早ければまた新たに習得する魔法に時間が割けるというものだ。
 何もアズールが欲しいのは、一つだけではない。アズールが超えたいのはこの男だけではない。自分が持っていないものは全て欲しいし、誰より強く、誰より賢く在りたい。そう渇仰する底なしの強欲こそが、アズールをアズール足らしめていた。
「そんな簡単に追いつかれたら、俺への敬意が減っちゃうだろう」
「別に減りませんよ」
「そうか。敬意を抱いてくれてたんだなあ」
また「言わされた」とアズールは歯噛みした。

 敬意が無いとえば嘘になるが、有ると言うつもりなど微塵も無かったのだ。
 案の定、元寮長は図々しくも先輩風を吹かせてくる。
「なあアーシェングロット、卒業したら俺の会社においで」
「あなたの下はもう二度と御免です」
「残念だ。……マァそう言うとは思ったけどね」
決して冗談の声音ではなかった。この男がアズールを認めているのは本当なのだ。
 アズールは横目で、淡く発光するボトルシップを見遣った。そして、ベッドの端に敷き詰められたクッションや、飾られた花に視線を移す。きっと、この男の背中を追って行きたい男達は、少なくないのだろう。
「でもいいさ、お前はラウンジで寮生を即戦力に鍛えてくれるんだろう。充分だよ」
うちを研修所替わりにするなと、アズールが不平を漏らす。だが事実、アズールは自身の利益の為ではあるが、寮生を労働者として鍛え上げるつもりでいたし、必要なら簿記も仕込む予定だった。
「本当に、お前の働きは充分過ぎるよ」
しみじみとアズールを讃える声には、嫉妬の色すらない。
 結局アズールは、何処までもこの男の未来図の一部だったのだ。

 じゃあ魔法を教えてくれとアズールは要求を通そうとするが、のらりくらりと躱される。
「代わりと言っちゃなんだけど、俺の秘密を教えてあげよう。闇の鏡を除けば学園の誰も知らない弱みだ」
「自分から言えるような弱みに価値はあるんですか」
「さあ? 強請ろうにも俺にはもう寮長の地位は無いからなぁ」
打ち明けたくなっただけではないかと指摘すれば、その通りだとあっけらかんと肯われる。弱み足りえる秘密とは、保持している者には相当な重みなのだ。
 それをアズールに打ち明けるのは、客観的には最悪の選択と言えたが、この男にとってはそうでもないようだった。アズールが黙っていると、彼は勝手に告白を続けた。

 「俺さ。本当はイルカの人魚なんだ」

 エッと頓狂な声を出すアズールに、バケモノ鯨だった男が笑う。
「俺はあんまり力で抑え込むのは向いてなくてね。可愛いイルカじゃあナメられる。牽制になる分かり易いカードが欲しかったんだ」

 寮生どころか学園の全員を欺いていた事は、確かに信用の失墜に繋がるだろう。けれどあの男は、寮長の座から降ろされても人望を失わなかったように、恐らくはバケモノ鯨でなくなっても飄々と人の心を掌握し続けるだろう。今更嘘が発覚したとて、この学園で本性を隠し通しつつも三年間も強者の側として歩んできた実力は確かなのだから。
 有用な弱みではない。そう思いつつも、アズールは彼の話に耳を傾けた。
 自身ではどうにもならない部分にコンプレックスを持った男の懊悩に共鳴するものを感じたからだ。

 隠し通す事は重荷になっていたのだと、元寮長は明かした。
 誰の前でも本来の姿に戻れなかったのがこたえたと。本来の身の丈より大きな生き物として振舞い続けて、疲れていたと。
「あんまり自分の瑕疵を隠す事ばかりに躍起になると、しんどくなるぞ」
是非とも反面教師にしてくれ、とだけ言って彼はアズールに寮長の座を託した。
 彼はとうに、アズールが大量の契約書で覆い隠している瑕にも気付いているのだろう。
 確かに、自分に根付いていない力は、ふとした拍子に奪われるのではないかと不安を呼び込む事があった。膨らみ続ける不安をいずれ持て余す時が来る事を、きっとその男は体験したのだ。
 彼は悪徳契約を言葉として咎めはしなかったが、その告白は忠告でもあると分からない程アズールは愚かではなかった。

 リドルの圧政を一年と持たぬと告げた時と同じように、彼はアズールの治政があとどれだけ保つか勘定したのかもしれない。アズールに辛酸を舐めさせ得る人材が、この学園にあとどれだけ居るか数えたのかもしれない。
 あるいは、先に意識が回復したらしい彼は、契約書という鍍金が剥がされる悪夢に魘されるアズールの寝言を聞いていたのかもしれない。
「賢くやれよ、アーシェングロット。陸は海より狭いが、海じゃ見れなかったものが沢山あるだろうよ。時に打ちのめされるだろうが、うちの寮を背負ったからには強かでいてくれ」
 先輩風吹かせて好き勝手に口出ししてくれる。そう思わなくもないアズールだったが、たかが二学年分の歳の差と侮れる相手でもなかった。
 それにこの二年年上の男は、青年期の僅かな歳月が人生と人格の形成にどれほど影響を齎すのか、きっと身を以って知っている。
 アズールは彼と書類の無い約束をして、もう少しだけ夜更かしをした。

.

 年明け、アズールと元寮長はどうにかホリデー中にリハビリを終え、年内復帰を果たした。
 元より、そうするつもりで決闘をホリデー前々日に設定したのだが、スケジュールと体力は相当厳しい状態だった。それでも、アズール不在時のリーチ兄弟の下準備もあって、アズールはオクタヴィネル寮長兼モストロ・ラウンジ支配人として弱みの一つも晒さず歩き出せた。

 ホリデーが明けたアズールはまず、決闘直後に完遂できなかった演説をし、オクタヴィネルの反乱分子を可愛がった。アズールのオクトピット姿を見世物感覚でマジカメにアップした連中からは、肖像権を盾に絞りに絞った。
 モストロ・ラウンジの方は、従業員の教育をどうにか完了させ、紳士の社交場として一月中のオープンを果たした。まだ小規模だが、契約違反者と肖像権侵害者には人件費がかからないので利益率は上々だ。何より、社交場の空気と密やかなアルコールは人の口を滑りやすくさせ、情報収集に大いに貢献した。

 アズールの悪徳契約も、早々に再開した。契約の悪評は広まっているものの、それでもアズールの手を借りたがるものは多いのだ。
 ラウンジにVIPルームというアズールの許可無くしては開かない空間を作り、そこが新たな契約の相談窓口兼になった。万一、話し合いが過激化しても、教員の目には届かない。最適な場所だった。
 アズールは、先輩から振舞われる不味い手料理に悩まされていた生徒からは、味覚を消す魔法薬と引き換えに、実家の有名パティスリーのレシピを持ってこさせた。その後の彼の実家がどうなったかはアズールの責任の範囲に無いが、モストロ・ラウンジのメニューは増えた。
 また、実践魔法の実技試験の監督になったアズールは、受験者に魔力増強剤を売りつけ、試験監督としてそれを暴く事で教員からの信頼を得たし、担保にさせた希少な魔法植物をごっそり手に入れた。
 他にも、喧嘩の調停、魔法動物の繁殖、差別主義の教員の告発。アズールは順調に契約書を増やした。懲りずにユニーク魔法を担保にする者も、少なからず居た。モストロ・ラウンジ建設の交渉手段として契約破棄した前例がある為、奪われてもいずれ返ってくるだろうと無根拠な楽観を抱いているらしい。
 アズールの契約を上手く利用できたものは極めて少数であったが、自分だけは何とかなると見積もるのが馬鹿の特徴なのだ。

 オクタヴィネルの環境は大きく変わった。
 しかしそれでいて、最初からアズールが全てを支配していたかのように、アズールの権威と畏怖は隅々まで行き渡った。

.

 そして、変化はもう一つ。
 アズールは、所謂オタサーの姫から脱落した。可愛くもなければ大人しくも無い面を散々に晒したので当然ではあったが、アズールをアズ君などと呼んで喜んで搾取されてくれる輩はもう、何処にも居なくなっていた。
 嘗てアズール目当てで部活に来ていたボードゲーム部の幽霊部員は完全に幽霊に戻り、幽霊部員ではなかった筈の生徒達もアズールを恐れて出席を避けていた。中には、退部届を出した者もいた。

 結果、閑散とした部室にイデア・シュラウドが顔を出すようになった。
 散々アズールが可愛い後輩を装って愛想を振りまいていた時はどうにもならなかった彼は、ボードゲーム部の人口減少であっさり部活に復帰したのだった。

 夕暮れの部活棟。この日もイデアはアズールより早く部室に着いて、一人でエフェクト過多なソーシャルゲームで暇を潰していた。
 日当たりの悪い部室は電灯も点けられておらず、イデアの炎のように輝きながら揺らめく青い紙とタブレットのスクリーンだけが光源になっていた。暗さも寒さも深海育ちのアズールには特に気になる事でもないので、彼が入室しても部室は薄暗いままにされた。淡い青に沈む部室で、二人きりでボードを囲む。それだけが最近の活動内容だった。
「今日も対戦お願いできますか」
それまでイデアとアズールは、まともに会話した事すら無かったが、ゲームを介して最近ではそれなりに口を聞くようになっていた。ボードゲーム部の人口を増加させたアズールに一度だけ鬱陶しそうな視線を寄越したきり、これといった意思疎通が無かった秋とは大違いである。
 当時のイデアは、人の増えた部活が苦痛で、媚びた態度の後輩を気味悪がっていたのだ。つまり、大勢から脅威と認識されるようになった現状のアズールは、漸くイデアにとっての脅威ではなくなったのだった。
 この逆転現象に気付いたアズールは、イデアを何と捻くれた人種かと思った。
「何か賭けます?」
「花京院の魂も賭けよう」
「マドルで言うとどの程度の価値なんですか、その方の魂って」
「ごめん忘れて。え、本当にアズール氏ジョジョ知らない? 男子高校生の必修科目じゃないの?」
アズールが最初に対局を申し込んだ時のイデアは「僕ァ君の取り巻きみたいに優しかないよ」と、陰鬱ながらも鋭い双眸で値踏みしてきたものだが、真剣勝負を何度か繰り返した結果こうなった。
 イデアはアバンギャルドな外見に反して、剥き出しのオタクであった。
 各界に絶賛と倫理的批判を生み出す魔法工学の論文を仕上げてくる男の本性がこれだと、誰が予見できただろうか。そう気後れした時期もあったが、アズールとイデアの関係は悪くなかった。数度の対局を経て、互いにとって対等に知能戦を繰り広げられる、希少な相手だと気付いてしまったからだ。

 結局、二人は缶珈琲を賭けてチェスをした。
 結果はアズールの三勝二敗。因みに昨日は二勝三敗だった。

 一応、最初に賭けをした時は、双方とももっと高価な物を要求していたのだ。
 現に、今のモストロ・ラウンジに導入されているクラウド型POSシステムはイデアが作ったものになっている。逆に、イデアの気に入っているアイドルのコンサートチケットを取らされたり、グッズの転売屋を廃業させられたり、そこそこ手間のかかる事を要求されたりもした。
 けれど、勝敗が勝敗をコントロールできない相手と分かると、互いに節度を覚えた。確実に要求を通したいなら契約なり依頼なりした方が早かろうと、今では賭けも勝者の自尊心を満たす為だけのものだ。
 友達と何ら変わらない、珍妙な付き合いが形成されつつあった。

 次はガイスターが良いだの、バックギャモンは運要素が強くて嫌だのと言いつつ、気付けば次の活動の約束をしてしまう。

 アズールは、スチール缶から直接安っぽい珈琲を啜った。
 イデアは乱雑な手付きで駄菓子を机の上に出し、片端から開封していた。知育菓子めいた粘度状の砂糖の塊を付属のスティックで形成して、露骨に人工的な色彩のパウダーを振りかける。ツイステッドフルーツの匂いがした。


 思えばイデアは、最初からアズールに可愛い後輩という幻想を抱いてはいなかった。
 アズールの本性に気付いて掌を返した取り巻き達に関しては、欠片も共感するところが無いようで「君は最初から残酷で強欲だったのにね」と一蹴していた。そして、残酷さと強欲さを認めた上で、友達みたいに賭け事に興じてくれる。図太くて強かで、不思議な男だった。

 イデアは、アズールに搾取されない。
 獲物にされるような愚かさも下心も持ち合わせていないからだ。
 そして彼は、アズールを畏怖しない。無闇に他者を恐れる必要が無い程度の、才能と賢さがあった。
 万一、とばっちりを食らっても、上手く捌ける実力もあるのだろう。アズールは彼と直接的に衝突した事は無かったが、特殊な髪から漏れ出る魔力と、イレギュラーな授業の受け方が許される状態からその力の程は窺い知れる。
 きっとイデアも、アズールを打ちのめす事が出来る人種だ。
 アズールの眼にはイデアが新種の生き物のように映っていた。
 陸にはアズールの理解の及ばない者が多く居るのだと、彼を通して益々実感した。


 しかし、アズールはその数週間後の寮長会で知る事になる。
 上級生の寮長クラスの生徒は皆、イデアや元オクタヴィネル寮長にも勝るとも劣らない曲者で揃っているのだと。
 アズールの支配したものは、学内において七分の一でしかないことを。
 まだ世界がうんと広いことを。
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