怪物が卵膜を破るまで 前

 ナイトレイブンカレッジに入学したてのアズール・アーシェングロットは、美少女と見紛う白皙の少年だった。

 銀の輝きを放つウィステリアの髪は軽やかで、眼鏡越しに覗く知的な双眸は海を思わせる。加えて、微笑みと共に動く口許の黒子は艶っぽい。神秘的な美人だと、誰もが口を揃えた。そんな彼が、非活動的なオタクの吹き溜りと名高いボードゲーム部に入部希望届けを出した時は、ボードゲーム部は浮き足立った。

 外界との接触を断たれた男子校に肩まで浸かっている上級生達にとって、中性的で可愛い後輩を獲得する事は一種のステータスだった。中には本気でその手の趣味や性的嗜好の者も居はするが、全体の傾向として、癒しを求めてチヤホヤしたがる、という具合だった。
 しかし大抵、そういった可愛い子は運動部だったり、軽音部だったり、カースト上位の華やかで活動的な部活に取られていくのが常だった。
 その年度でいえば、ハーツラビュルの紅薔薇ことリドル・ローズハートは高嶺の花らしく乗馬部に入った。痩せぎすだが大きな耳の愛らしいラギー・ブッチはマジフト部に取られた上に早々にレオナ・キングスカラーに尻尾を振っていた。誰にでも明るく隔てなく接してくれると評判のカリム・アルアジームは、目付きの悪い従者が付いていて近寄り難い上、唯一彼等が別行動となる部活は軽音部にもっていかれた。
 ちなみにフロイド・リーチは垂れ目が柔和な印象で可愛いと称せなくもなかったが、入学式の段階から大人しい文化部には手の余る問題児だと発覚していた。彼と似た容姿のジェイド・リーチに関しては、一見大人しいように見えたが我が強い上に興味が無い物にはとことん関心を払わないので、既に冴えない上級生達の心を何度か折っていた。

 そんな訳で、ボードゲーム部は予想外の優良株の獲得に沸きに沸いた。
 アズールは、見た目が良いだけでなく、礼儀正しく、適度に大人しかった。入部の理由も、休日を勉強に充てたかったと生真面目なもので、上級生達の庇護欲を多いに擽った。普段は殆ど部に顔を出していない幽霊部員も出席率を大幅に上げ、アズールを寄って集って猫可愛がりした。
「アズ君、アズ君、お菓子食べる?」
「馬鹿っ、アズ君は少食だからそういうの食べないんだよ」
依怙贔屓を超えて、稚児の扱いである。例えばエペル・フェルミエのように、男らしさに直向な憧れを抱く生徒なら、馬鹿にするなと食って掛かっても可笑しくはない対応だ。けれど、アズールは曖昧な愛想笑いを湛えて「お気持ちだけ」とフォローした。

 アズールは、贔屓される事が嫌いではなかった。
 それが己の優秀さを買われての事であれば最も理想的だが、容姿とて血の滲む努力の末に獲得したものだ。褒められて然るべきだと思っていた。それに、こういった取り巻きをも有効に使える社交性と強かさを備えていた。
「アズ君、チェスできる?」
副部長のイグニハイド三年生が、大理石のチェス盤を引っ張り出して、アズールに尋ねた。アズールは、頭脳戦が大得意でチェスに関しては幼少の頃から負け知らずだったが、謙遜で油断を誘う事にも抵抗が無かった。
「はい、この前ルールを教えていただいたので」
アズールは目の前の男の得意教科や実家の職業などを思い出し、益になり得る材料を探す。アズールは入部前から、在学生の殆どの基本的なプロフィールを抑えていた。この部で有益な人材といえば、名門シュラウド家の出身で魔法工学では異端の天才として学外にも名を馳せるイデア・シュラウド二年生が圧倒的だが、副部長も実家が太い部類の男だった。部活動の中でも、祖父が錬金術の研究者だと吹聴していた。
「そうだ先輩、賭けをしませんか。僕が負けたら、来週は部活の皆さんにお菓子を焼いて持って行きますね」
部室が沸いた。副部長を応援するコールがかかる。チームスポーツが出来るような人数も揃えていない部活なので、原価も手間も知れていた。けれど、アズールは知っていた。彼等にとって「可愛いアズ君」の手作りならば相当の価値がある事を。
「先輩が負けたら……お菓子だと僕は食べられないので、ええと、キミアの魂についての書を借りてきてくれませんか? 」
それは図書館にある錬金術に関する魔導書だが、上級生にしか貸し出しが許可されていなかった。それだけ危険で高度な術が記されている代物という事だが、既に貸し出し許可のある上級生達にとっては、小さすぎる負担だった。案の定、副部長は「そんなんでいいの?」と頭を掻く。無論、そう言わせる為に無欲を装っただけで、欲しいものは他にあった。
「じゃあ、ガオケレナの樹液も付けてください」
アズールは、魔法薬学も錬金術も自主学習を欠かさない。けれど、そうなればどうしても材料の確保でコストが嵩む。まして、高等な術を試すとなれば、相応に高価で希少な材料が必要になってくる。ガオケレナの樹液はその筆頭であった。
「……十グラム程度なら」
「嬉しいです」
被せ気味に、覆す予知を与えないようアズールは大袈裟に喜んで見せた。可愛い後輩に「約束ですよ」と手を握られ、副部長はカクカク頷いた。
 勿論、アズールはチェスに勝った。悩むふりをしたり意味の薄い手を打ったり、苦戦に見せかけながらも、しかし内心では焦る事すらなく極めて余裕で勝った。

 アズールは、時に敢えて負けるなどのバランス調整を挟みながらも、この方法で上級生達から色々なものを搾り取った。ナイトレイブンカレッジは名門中の名門であるから、絞り甲斐のある生徒は多いのだ。
 本入部までの期間だけで勘定しても、恐ろしい額が動いた。

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 秋も深まり、新一年生も皆が正式な入部先を決め、寮対抗のマジフト大会も幕を閉じた。
 クラスや部活、そして寮への所属意識がそれぞれ醸成されてきた頃合である。

 アズールとリーチ兄弟は、この頃から表立って連むようになった。一年生にして人並よりうんと背が高い上にそっくりな双子を連れていては悪目立ちするので、今まで表立った接触は避けていたのだ。
 けれど、寮への所属意識が強まった頃合ならば、部活も趣味も異なる彼等が常に一緒に居ても、同寮だからで済まされる。よって、彼等が珊瑚の海の出身の人魚で入学以前からの付き合いである事を知っているのは、少数の同郷の生徒だけだった。そして、そういう手合いは、既にアズールの強かさを知っている為に、余計な口は挟まないでいるのだった。

 図書館の一角、机に齧り付くアズールの傍には、やはりリーチ兄弟が控えていた。
 アズールは、過去の試験データ百年分を調査し、全学年分の対策ノートを作っていた。
「金魚ちゃんが寮長になってから、首輪付けてる生徒増えたよねぇ」
持ち出し禁止の本が詰まった棚にもたれたフロイドが、声量を気にせず喋る。見かねて、アズールはマジカルペンを一振りして自分達の周りに防音魔法をかけた。秋学期の一年生では習いすらしない魔法だが、アズールは既にカレッジの必修科目で習う程度の事は一通り実用できるようになっていた。
「リドルさんのユニーク魔法ですね。決闘を制して寮長になったものの、急な厳罰化に寮生達が対応しきれていないようですよ」
金魚とはまたぴったりな名を付けましたね、とジェイドが釣り目がちなヘテロクロミアを細める。金とオリーブの双眸は、生々しく輝いた。
 リドルは、入学して一週間でハーツラビュルの寮長に挑み、その座を勝ち取っていた。しかし鮮やかな実践魔法の手腕に反して、人心掌握術と政治力に欠けていた。突然八百を超える法律を丸暗記する必要性に迫られたハーツラビュル生は、前寮長が柔軟で緩い対応をしていた時とのギャップも手伝って、随分と苦悶していた。既にノイローゼ気味も者も少なくはなかった。
「彼の統治に不満を抱く方も多いようですが、アズールはその哀れな人々に力を貸して差し上げなくて良いんですか?」
ジェイドが嗜虐心に由来する笑みを浮かべる時、薄らと開いた口からは凶暴なまでに尖った歯がよく見える。アズールは、入学前から困っている人魚を見つけては、その解決を餌に「契約」をしていた。対価は色々で、ある者からは美しい声を担保として取り、ある者からは泳力を奪った。全ては、アズールがより優れた存在になれるよう、アズールだけが有利になるよう仕組んだ取引だ。ナイトレイブンカレッジは、闇の鏡に選ばれた優秀な魔法使いしか入学が許されない学園であるから、優れた能力を持つ者も多い。彼等には格好の餌場だった。
 ジェイドの提案に「金魚ちゃんカワイソー」と反応するフロイドも、満更ではない様子だ。しかし、アズールは首を横に振った。
「リドルさんを引き摺り降ろすには時期尚早ですよ。彼にはもっと不満を生んでもらわなくては」
まずは弱い者から食っていくのが定石。そうして力を付け、より大物を狩る為の牙を研ぐのだ。
 アズールは、何処までも計画的で、貪欲な男だった。未だ多くの生徒はその本性を知らないのだから、双子はおかしくて堪らなかった。


 そして次第に、会話は近況報告へと移る。
 話題は主に最近の部活と、そこで観測される人間関係についてだった。
 フロイドは、ダンスもパルクールも気に入っていたが、結局は要領が良く面倒見も良いジャミルと抱き合わされるようにバスケ部に落ち着いた。ジェイドは、山を愛する会なるマイナー部の極北を突き進んでいた。アズールは相変わらず、ボードゲーム部の癒しに飢えた冴えないオタク達に可愛がられている。
 運動部と室内文化部と屋外マイナー部。意図したものではないが、三者三様と言うに相応しい多様性を発揮し、見事に方向性が別れた。それは結果的に、あらゆる所属のカモ、もとい悩める人々をリサーチするには適した分散の具合であった。
「アズールがオタサーの姫って呼ばれてんの、マジ?」
「マジです。イデア・シュラウドは釣れませんでしたが」
フロイドの問いに、ジェイドが勝手に返事をした。微塵も困っていないであろう事が何故か雄弁に伝わる困り顔で、残念ですねと首を振った。
「最近は殆ど部活に顔を出さなくなりましたよ。僕はこんなにも話しかけやすい雰囲気を作ってやってるのに」
特に反論も無いアズールは、作業の手を止めずに近況を述べた。イデアは式典などの行事すら本体で登場せず、タブレットで対応している男だ。マレウス・ドラコニアを除けば、最も接触の難易度が高い存在と言えた。故に、現状では形式上の接点を持っているだけでも上々だと、アズールは既に割り切っている。
「まあ、問題はありません。いずれ寮長会議でもお会いできるでしょうし。焦る必要もない」
既に寮長になる事が確定しているかのように話すアズールに、ジェイドが茶々を入れる。
「飛行術の補習でお会いする方が早いかもしれませんね」
「なるほど。ジェイドにも彼と接触するチャンスはありそうだ」
嫌味を言い合う二人を横目に、フロイドは欠伸を噛み殺した。

 フロイドの手中には、ジェイドの作成した資料があった。
 オクタヴィネル寮長と、そのシンパ達のプロフィールだ。寮長の座は決闘で奪ってしまえば良いが、統治がハーツラビュルの二の舞では意味が無い。反乱分子になりそうな者は潰すか、矯正してやらねばならない。その為の情報が、細かい字で記されていた。
 地味な作業を苦手としていながらも、片割れが作ったものなので、フロイドは垂れ眼を萎々させながらも眼を通していた。
「アズールはオクタヴィネルでも姫やんの?」
「しませんよ。試験の結果が出れば、ボドゲ部でも自然とその扱いはなくなるでしょうし。姫がやりたいならフロイドに譲りますよ」
アズールは手元の本を閉じて、肩を回しながら答えた。人間の姿では作業量が人魚の時の五分の一に落ちるのが厄介だったが、彼は非常によくこなしていた。
「オレ〜? ベタベタされんの嫌いだからムリ」
フロイドが心底嫌そうな顔で舌を出す。しかしアズールは何処吹く風。意識は、既に頭の中で描いた学園掌握の計画に向いていた。
「でしょうね。お前はクイーンの方が向いている」
「褒めてんの?」
「褒めてますよ。キングの次に価値が高く、最も攻撃的だと」
全方向の何処でも好きな所に行けるなんてフロイドらしいじゃありませんか、とジェイドまで口を出す。

 アズールの瞳は、野心に満ちていた。その表情があまりに好戦的なので、フロイドも機嫌を直した。
 彼等には、やるべき事とやりたい事で溢れていた。楽しい悪巧みの計画に、ジェイドは笑みを深める。
 幾重にも罠を張り巡らせる、その仕込みの時期を彼等は謳歌していた。

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 来たる定期考査の成績発表日。
 一年生の廊下の壁に、総合順位が貼り出された。
 アズールの名は、一番上に載っていた。その下に、リドルの名が続く。これはアルファベッドの順でしかなかった。両者とも、各教科全てが満点だった。
 モーゼス・トレインが「今年の一年は豊作だ」と唇の端を吊り上げる。マレウスやイデア、ヴィルなどが入学した昨年度も同じ事を言っていたと知るのは、教員のみである。

 順位表の効果は絶大で「アズールは凄い」という評価は瞬く間に校内を駆けた。

 アズールはここぞとばかりに、柔和な笑みを更に安売りして、徹底的に愛想の良さを周囲に印象付けた。
 リドルと比較された時、誰もがアズールの方を頼るよう仕向けたかったのだ。元より、短気な上に厳格過ぎる事が知られてしまっているリドルが相手では、その印象操作は難しい事ではなかった。
 全校生徒へ優秀さを印象付けたアズールは、次回のテスト期間に自身が制作したテスト対策ノートを餌にして大勢の生徒達と一気に契約する予定でいた。多くの能力を奪って、アズールはより強くなる。そして、自身の思い通りになる奴隷を大量に獲得するのだ。


 アズールの評価は他学年にも伝わり、オクタヴィネル寮長も一年のフロアに顔を出した。
 寮服の上からコートを羽織り、紳士然としたステッキを手にしている。ナイトレイブンカレッジは元より服装に関しての規則は緩いが、一目で頂点に立つものだから許される格好だと分かった。寮長はアズールと然して変らない身長の筈だが、コートが彼を一回りも二回りも大きく見せていた。
「おめでとうアーシェングロット、お前の向上心には恐れ入る。俺も寮長として鼻が高いよ」
慈悲の精神に基く寮を束ねる者に相応しい声音で、彼はアズールを褒めた。凪いだ海のような声だった。
 しかしその男も、同学年のオクタヴィネル生の中ではトップの成績を維持していた。謙遜してか、レオナが本気を出せば負けると彼が言っているのを聞いた者も少なくない。それは既に寮内に競争相手が居ない事の証でもあった。一度テストで良い点を取っただけの下級生などまるで脅威として受け取っていない態度に、アズールの拳に力が入る。
「ありがとうざいます、寮長。これからも励みます」
宣戦布告と同じ質量をもって、しかし笑みを崩さず、アズールは力強く応じた。
「ああ、若いって素晴らしいね」
寮長は、涼やかな笑みを返すだけだった。
 アズールは、何も知らない輩から下手に稚児扱いされるより、実力を認める体で軽んじられる方が、何倍も精神を逆撫でする事を知った。

 たった二年の歳の差だ。たかが二年、とアズールは唇を噛んだ。物理的にはアズールと然して変らぬ高さの目線から、遥かに見下ろされている気がして背筋が粟立つ。
 アズールは半ば本能的に、彼をいけ好かないと感じた。彼が自分が欲しがっている座に居座る男に、好意は抱けない。蹴落とす予定の獲物に認知された焦燥が、アズールの若い膚を撫でていた。

 廊下に高らかな足音を響かせて去っていく寮長の背を睨み、アズールは改めて決心した。
 元より多くを掌握するには、大勢の駒がいる。となれば権力も必要だ。今年度の前半の内にオクタヴィネル寮長の座も手に入れておきたい。だがそれだけでは足りない。この男の鼻を明かしてやりたいと、加虐心が顔を出していた。

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 オクタヴィネル寮長との二度目の接触は、大食堂だった。
 すっかり肌寒くなった季節で、ウィンターホリデー前のテストを控えていた。
「不眠に悩む生徒に睡眠薬を処方してやったんだって? 海の魔女に恥じない慈悲深さで大変結構」
チキンサラダを食べようとしていたアズールの横に、寮長が当然のように座った。彼の手にはトマトリゾットの皿があった。反対側の隣に座っていたリーチ兄弟も目を丸くしたが、すぐに後輩の顔に切り替えて挨拶をした。
「ありがとうございます。流石は寮長、お耳が早くていらっしゃる」
アズールは、出来る限り感情を表に出さないよう返答をした。
 不眠症の生徒は寮長と親しい後輩で、アズールは寮長の個人情報を含む情報を対価に睡眠薬を調合してやったのだ。無論、この取引は秘密にするという事も契約の範囲だった。契約に違反するなら、リーチ兄弟との話し合いの場を設けねばならない。
「なに、見違える程に体調が良くなったから気になってね。詳しい話は教えてくれなかったが、よっぽど効くとみえる。レシピを聞いても?」
能天気な声音に、リーチ兄弟が判断を迷う。その机の下で、アズールは疑わしきは罰せよと二人にサインを送った。
「……寮長も僕に取っておきの魔法を教えてくださるなら」
「おっと。マァ、そうだ。先輩が下級生に一方的にせびるのは健全じゃあないな」
寮長は人の良い顔で、自身の図々しさを謝った。彼のコロンからは、南の海の匂いがした。

 アズールにとってあの睡眠薬は品質にこそ自信はあるが「取っておき」であるかといえば、否である。だからこそ、その程度のレシピの開示で済むならば、この男の手の内を知ってみたかった。
「いいよ。何が知りたい? 道具への魔力付与による自律清掃? 効率的に金を増加させる錬金法?」
先輩だから多めに教えてあげよう、と寮長が愛想良く話を進める。しかし、提案にあるのは、殆どが三年生の授業課題の範疇だ。協調性に欠けた曲者揃いの学園で寮を預かる男が、こんなにも無害な訳がないと、アズールは平べったい眼をした。
「それとも、体内のグルタミン酸をドウモイ酸に変換して海馬の神経細胞を破壊する実践魔法が知りたい? 三半規管と蝸牛を満たす内リンパ液を過剰増加させる呪文?」
案の定、急に物騒な魔法が飛び出した。体系立った名が付けられていないそれは、彼が独自に考案したものだろう。アズールは、一時的に聴力を弱める薬を処方してやった騒音被害に悩む生徒から、この男は人体を蝕む魔法が得意だと聞いていた。
「俺もね、人魚から人間になった時、人体についてかなり頑張って学んだんだ。そうしたら詳しくなり過ぎちゃってね」
アズールも大方は彼と同じ理由で人体への造詣が深いので、先述の魔法をかけられた者が如何に悲惨な目に遭うかは想像できた。
 寮長は、アズールの眼を覗き込んだ。彼が人魚だという事は、遅刻癖を対策してやった生徒から聞いていた。彼は、アズールが何を知っているかを知っていた。わざと流出した情報を自ら喋る事で、アズールの掴んだ情報を無価値なものにすり替えんとしているのだ。わざわざ「俺も」と言ったあたり、彼はアズール達が人魚である事も掴んでいるのだろう。
 アズールの喉が鳴る。
 やはりこの男は、腐っても寮長だ。残酷な事が出来る男だ。目端が利き過ぎる。情報戦で出し抜かれた。こんなにも早く、アズールの手の内を正確に把握されてしまった。

 眼鏡のレンズ越しに、アズールは寮長の愛想の良い瞳を見遣った。饒舌な口に反して、そこはやはり凪いだ海のように静かで、アズールに本当の感情を読ませない。
 アズールと彼の間にあるのは、たかが二歳の差だ。されど、青年期の二年は大きい。それを改めて突きつけられた。
「知りたかったら今夜、寮長室においで。お友達も一緒でいいよ」
いつの間にかリゾットを完食した寮長は、軽やかに退席した。


 アズールは、手付かずのサラダを食べる気になれず、そっとジェイドに押し付けた。
 アイツ苦手、とフロイドが眉を下げる。会話の主導権をずっと握られ続けてストレスの溜まったアズールの胸の内を代弁するようだった。
「やっぱ寮長室行ったら、海馬の神経細胞壊されたりすんの?」
僕ならそうする、とアズール。事前に謀反の芽を摘んでおくのは、統治として間違ってはいないからだ。これにはジェイドも同意した。
「困りました。明日の今頃には、きっと僕達は自分の名前すら覚えてはいないでしょう」
珍しく、本当に困った声音だった。

 それでも、最早彼等に退路は無い。
 彼等に出来る事は、夜までに出来る限り交渉材料を集めたり、武力衝突に備えた用意を整えたりする事だけだった。
 幸い、テストが近かったので、対策ノートを餌に強力な魔法を担保として預けてくれた生徒は少なくなかった。だが、相手の陣地に呼び出されている側の彼等には、どれだけ備えが有っても足りはしない。

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 オクタヴィネル寮は、海の魔女の精神に基く寮なので、海中に寮舎が建っている。
 海の魔女が人魚だからか、希少な人魚の生徒は大抵がオクタヴィネルに振り分けられる。その所為か、歴代の寮長は全て人魚だった。よって寮長を決める決闘は海中である中庭で行われるのが常だった。
 アズールも、その伝統に名を連ねるつもりでいたので、海中で魔法のみを使用する決闘については研究を重ねていた。だが、寮舎は普通に大気で満ちている。まして寮長室などアウェーそのもの。向こうはアズールより、二年分陸上戦に慣れている。陸の戦争映画を齧ったらしいジェイドが「扉を開けた瞬間、トラップのピンが外れて部屋諸共吹き飛ぶのでは」と言い出すので、アズールの気分は最悪だった。


 寮則で定められた消灯時間の三十分前。
 寮長室を前に立ったアズールは、深く息を吐いて呼吸を整えた。
 敵地に切り込むのはアズール一人だ。
 彼は、ジャケットの内ポケットや袖口に、強烈な魔法薬を入れた小瓶を幾つも仕込んでいた。懐のスマホは、ワンプッシュでジェイドに繋がるよう設定し直してある。
 リーチ兄弟は、認識阻害の魔法を纏った上で、獲物を片手に離れた所で待機していた。もっとも、アズールとリーチ兄弟は熱い友情ではなく露悪的な快楽で結ばれた関係なので、不味そうだったら見捨てられたり寝返られたりするリスクも無視できなかったが。
「来たね、アーシェングロット。どうぞお入り」
アズールがノックをする前に、室内から許可が出た。
 寮長は、鯨の人魚だ。アズールは遅刻癖の生徒から聞いた情報を思い出し、一人納得した。恐らくは、扉という障害物があろうと反響定位によって「見えている」のだろう。リーチ兄弟が人の形になってなお、鼻が利くのと同じことだった。

 防護魔法をかけた手袋でノブを捻り、アズールは摺り足で入室した。
「夜分に失礼します、寮長」
 扉を開けたすぐ足元に練成陣でも描かれてはいないかと用心したアズールだが、その様子は無かった。アズールが寮長室を見たのは初めてだった。最高学年の部屋より広いというのは本当で、観光ホテルの一室のようだった。広いスペースは、幾つかボトルシップが飾られているだけで、持て余されている。一番上がこれだというのに、一番下っ端のアズール達は三人部屋若しくは四人部屋に詰め込まれているというのだから、上下関係の厳しさが伺える。
「夜に来いと言ったのは俺だからね。そろそろお前と話しておくべきだと思ってね」
寮長はベッドに腰掛け、一脚しかない事務作業用の椅子をアズールに譲った。

 アズールは、体内のグルタミン酸をドウモイ酸に変換して海馬の神経細胞を破壊する実践魔法とやらを教授される前に、礼節だの謙虚だのを身体に教え込まれる事を覚悟していた。けれど、寮長は驚く程に平静だった。何もしない事が拷問になり得るという話はオクタヴィネルでは有名だが、別段そのつもりでもないらしい。
 寮長は、一冊の本をアズールに寄越した。

 分厚いカラー刷りのそれは、魔導書でも禁書でもなく、ファッションカタログだった。
 指定された服で過ごせば済む寮生活の上に、実家の海中では全裸で過ごすアズールには、あまり馴染みのない物である。
「俺のお勧めは三十七ページのやつ。付箋のところ」
付箋に従ってページを開くと、様々な形状の杖が載っていた。寮長が使っている物と同じ形状の杖を見つけ、アズールはそっと視線を上げた。
「お前は大人しそうな顔だから、クラシカルな彫刻がある方が似合うだろう。魔法石は、蛸の脚に絡むようにはめ込むべきだ。眼に嵌めるのは品が無い」
アズールは、自身が既に蛸の人魚とまで知られている事に気付かされた。しかし、彼がそれ以上に気を取られたのは、寮長がアズールに杖を選んでいるという事実だった。
 学校に魔法石を嵌め込んだ杖を持ち込めるは、寮長だけだからだ。

 アズールは、カタログと寮長の顔を交互に見た。
 敵意は無い。最善かつ最も平和な形で事態が収まろうとしている気配がした。けれど、アズールの疑問は消えない。
 この男が、アズールに寮長の器があると認めているとは到底思えないからだ。

 いつまでも警戒を解かないアズールに、寮長が苦笑する。それはやはり、目下の者に向ける笑みの形だった。
「マァ杖を選びながら聞いてくれ」
寮長は、手慰みにボトルシップを弄りつつ喋り出す。いつだって、この男は口調こそ柔和だがアズールに口を挟ませない。
 喋る間はある筈なのに、この男の雰囲気と言葉選びがアズールを黙らせるのだ。下手に喋ると、彼の望む事を「言わされる」気がする。
「俺は貿易がしたいんだ。自分で会社作って、陸の宝も海の財宝も全部俺の船に積んで世界を渡るのが、エレメンタリースクールからの夢でね」
彼の手の中で、ボトルシップに封入された海が魔力を受けてうねる。精密に再現されたガレオン船が波に揺れる。
「多分、四年次は寮生の面倒なんか見ちゃいられない。寮長も今年でそろそろお終いって訳さ。この椅子が欲しいんだろう、アーシェングロット」
丁度良かったじゃないか、と寮長。
「俺の周りの奴等を嗅ぎ回って契約する手間が省けただろう」

 寮長の掌の上で、海原が荒む。硝子瓶の中で、雷が瞬いていた。
「あとお前、百人の生徒を相手ににテスト対策ノートを渡す代わりに四十番以内に入るよう契約しているんだって? 百七人だったか? 担保にユニーク魔法まで預かるなんて、面白い事を考えたじゃあないか」
 彼は、アズールの契約の悪徳さも充分に把握しているようだった。その顔にはもう、愛想の良さは無い。交渉をする者の眼だった。

 アズールは、彼の事情に従ってオクタヴィネル掌握を来年度に持ち越した場合のスケジュールを考えた。そちらの方が遥かに安全なのは確かだ。
 けれど、それでは余りに無駄が多かった。アズールのオクタヴィネル掌握は、あくまで通過点なのだ。より多くの人を使って効率的に契約書を増やす為の、機構を作る手段だ。手段の為に足踏みをしているようでは、全くの本末転倒。
 何より、リーチ兄弟も面白くないと言うだろう。

 寮長が理屈で交渉をする気でいる事を確信したアズールは、彼にばかり有利な言い分を並べ立てられるのは御免だと口を開く。
「あなたは誤解してらっしゃる。僕が彼等とした契約は正当なものですよ」
合意があり、双方に利益があると思った上で契約書にサインをしたのだから、契約によって追い詰められる者がいるならば自業自得だ。リーチ兄弟に妨害されて契約を果たせ無かった為に痛い目を見たとしても、失敗した時のリスクも勘定に入れておかない方が悪い。というのが、彼等が通してきた理屈である。そう説明しようとしたアズールだが、はたと気付く。「言わされた」と。

 ふうん、と寮長は感情の無い相槌を返す。やはり何もかも知っている顔だった。
「正当、ね。そうだろう。不当に奪うより旨味がある。そういえば、リドル・ローズハートも本当に正当だったよ。彼は利己主義とは全く違うが、明文化された法に則って正しく在ろうとしている。マ、それでも、あの調子じゃ後一年と持たずに女王の絶対王政は崩壊するだろうが」
如何に契約へと文句が付こうが躱せるだけの知恵と用意がアズールにある事くらい、この男はとうに把握している。その上で、在り方を問うているのだ。
「別に俺は来年度を待たずに寮長へ指名してやっても良いんだ。だが、可愛い寮生達を任せてやるには、お前にゃ人望が無さ過ぎる」
「では、どうしろと」
寮長の座の対価に何を命じられるのかと構えたアズールだが、寮長は契約はしないと断った。
 契約を恐れた訳ではない事は、その態度から明らかだった。取引材料が双方に同じだけある事を期待すらしていない、冷えた眼だった。書面の上ですら対等に振舞う事を厭う、圧倒的強者の自負を感じさせる声だった。テストの結果を褒められた時と同じように、アズールの自尊心をチクチクと突き刺し、精神を逆撫でする。

 軽薄な人魚の双眸が、アズールを値踏みする。
「僕は別に決闘でその座を奪ってやっても良いんですよ」
「マァお前ならできるだろうよ――だが俺は、今ここでお前を鎮圧する事が出来る」

 ボトルシップの中の雷が、一際大きく鳴った。
 それを合図に、ベッド側の壁がノックされた。隣室は副寮長だ。アズールは反射的に、袖口に隠した魔法薬を握り締めた。しかし、その緊張に水を差すタイミングで、廊下の明かりが消えた。部屋が一段と暗くなる。

 たった今、消灯時刻が過ぎたのだ。
 消灯時間過ぎの徘徊は罰則に値する、という校則を咄嗟に思い出せないアズールではない。寮長あるいは副寮長は寮生を罰することが出来るという寮則も知っている。アズールは、この問答のタイミングまで完全に掌の上だった事を理解した。

 マジカルペンを振る速度は、寮長よりアズールの方が速いかもしれない。けれど眼前の男の恐ろしいところは、自身が倒れた後の事も算段に入れているであろう事だった。仮に、アズールが寮長との衝突を切り抜けても、隣室の副寮長が出てくるに違いない。アズールの頭には、ジェイドの作成した寮長のシンパ達のプロフィールも入っていた。玉石混交でも数は多い。それが廊下に控えていないとも限らない。少なくとも、寮長は今も彼等が何処に居るかくらい「見えている」だろう。リーチ兄弟を呼ぶにしても、分が悪い。寮長が呼び出したと証言しない限りアズール達は深夜徘徊者扱いだ。寮生全員が寮長と副寮長に協力する。
 アズールは短時間の内に衝突のパターンをシミュレートした。その度に、人望が無いという寮長の評価が遅効性の毒のように効いた。
 アズールは、自身がカードを切り損ねた事を悟った。最後まで理屈での交渉を貫くべきだったのだ。
「お前を取り押さえるついでに、野心ごと忘れさせてやる事もできる」
手本のような脅迫。
 アズールの背に、冷ややかな汗が伝う。鯨の腹の中で彷徨している気分だった。


 寮長は、アズールに膠着という名の反省時間をたっぷりやった後、助け舟を出した。
「お前が持ってる薬を手放すなら、話し合いを続けよう」
アズールに拒否権は無いも同然だった。手袋の中がぐっしょり湿って冷えていた。その凍える手を開いて、薬瓶を献上した。集めたガオケレナの樹液の殆どを費やした至高の毒液であったが、ついぞ役目を果たさなかった。
 寮長は薬液の色ですぐに正体を絞り込んだらしく、アズールの技術力と攻撃性の高さに驚嘆した。そして、よく材料を集めたものだと感嘆した。その素直さに余裕を感じとったアズールは、歯軋りを噛み殺した。
「何たって、俺は海の魔女の慈悲を継ぐ寮の長だからな。賢い子にはやり直すチャンスだって与えてやりたい」
寮長は最早白々しさを隠さない。これがこの男の本性なのだ。
 ヴィル・シェーンハイトいわく、オクタヴィネルの人間はみんな息をするように人を罠にかける。その頂点に立つ男なのだから、当然だ。
「僕は何をすれば?」
アズールは子供のように不貞腐れた声で聞いた。

.

 ジェイドは、寮長室から解放されたアズールを出迎えた時、真っ先に名前を覚えているか確かめた。顔色が余りに良くなかったからだ。フロイドはジェイドの背中に引っ付いたまま、無言を貫いていた。待機時間が長過ぎたのだ。それでも撤退しなかったのは、フロイドなりに一人敵地に切り込んだアズールを心配していたからだ。
 結論から言えば、アズールは五体満足で寮長室から帰還した。真っ暗な廊下を三人並んで、マジカルペンで作った幽かな鬼火を頼りに狭い三人部屋へと帰った。足取りも確かだった。記憶も欠落は無い。円周率もジェイドが止めと言わない限り淀みなく言えたし、西の海の古い兵法を諳んじる事もできた。ユニコーンの角を煎じる時の留意点もしっかり覚えていた。
 だが、明らかに、アズールの精神はエラーを吐いていた。端的に言って、打ちのめされていた。
「バケモノ鯨め……」
アズールは、低い声で呪詛を吐いた。
 結局、あの部屋では全てが寮長のペースで進行し、アズールは彼の機嫌を損ねないよう本当の稚児のように頷くだけの生き物にされてしまった。思えば、アズールは大食堂で彼に声をかけられてから、ずっと空回っていたような気がする。未知への畏怖で、後手後手にしか動けていなかった。認知を弄る魔法でもかけられていたのかもしれないと、今更ながらに疑った。そうだと思いたかった。
「掘られましたか?」
「殺すぞ」
「ならアレに何をされたって言うんです」
ジェイドとフロイドは、アズールから血の気の多さが失われていなかった事に少し安堵した様子だった。

 アズールは暫し間をおいて、小さな声で明かした。
「宿題を出されました。寮長としての資格が欲しければ、海の魔女の寮を継ぐに相応しい慈悲を見せろと。賢い者にはやり直すチャンスを与えてやれと。その上で、損をするなと」
何ソレ謎かけ? とフロイド。
「やり直すチャンスって、契約破棄しろってコト? 奪ったモン返したら損するに決まってんじゃん」
フロイドは乱雑にピアスをサイドチェストに放り、ベッドに横たわった。風呂に入れとアズールとジェイドが口を揃える。その甲斐も無く、すぐに寝息が聞えてきた。朝にシャワーを浴びると、フロイドは高い確率で遅刻するのだが、今日に限ってはアズールも強く言えなかった。宿題の条件が、ずっと頭の大部分を占領していた。


 三人は寮長の宿題について悩んだまま、定期テストの日を向かえた。
 宿題について考えたままテストを解いたアズールは、魔法解析学で失点して学年二位に甘んじる事になった。
 宿題について考えたままテストを解いたジェイドは、前回より成績を大幅に落として、担任にカウンセリングを検討された。
 宿題について考えたままテストを解いたフロイドは、解答欄に鯨の絵を描いて職員室に呼び出された。
 最悪である。

 具体的に何が最も悪いかと言えば、職員室でバルガスとクルーウェルに絞られたフロイドが、苛立ちに任せて職員室で暴れ、反省分三十枚で済んだところを反省文六十枚と担任と学園長と寮長に囲まれた四者面談にまで発展させたさせた事だ。
 フロイドが不在の間、アズールとジェイドは抗議に来た契約違反者達を二人だけで捌かねばならなかった。彼等は、ユニーク魔法を担保にアズールからテスト対策ノートを受け取る契約をしたものの、契約時の条件を満たせなかった上、自業自得を反省する事無く契約撤回を求めてくる連中だ。実に愚かで、哀れとしか言い難い。
 アズールは、これらにやり直すチャンスを与えてやれと言う寮長の言葉が信じられなかった。自己判断に基いてハイリスクな契約に応じたくせに、勝手な都合で契約撤回を求めてくる連中だ。あのテスト対策ノートがあって満点を取れない時点で、やり直すに値する賢い者など居はしない。彼等に再びチャンスを与えようなどと、愚かさを助長させるだけではないかとすら思った。

 オクタヴィネル寮舎の一角、契約に対して異議申し立てする生徒を煽ったジェイドが横っ面を殴られたのを記録してから、二人は正当防衛と言わんばかりにマジカルペンを抜いた。
 それからは流れ作業の暴力だった。
 ジェイドはフロイドより暴力に訴えるまでの猶予が長いように思われているが、実のところ武力交渉は大得意だった。ただフロイドより、言葉や秘密の掌握といった婉曲的な支配で愉悦を覚える性質が強い為、暴力に至るまでの過程が長いだけだ。婉曲的な好意を愉しむ余裕がなければ、即刻拳が出るし、長い脚が振り落とされる。
「慈悲って何でしょう」
愚かな連中に阿鼻叫喚の地獄を見せてやっていたアズールは、ふと零した。寮長の言う慈悲が分からなくなっていた。
 殊に、拳を硬化魔法で強化したジェイドがサバナクロー生の鼻骨と前歯を纏めて圧し折るのを見ていると、アズールに言い知れぬ不安が過ぎった。もしや、自分達に最も遠い単語が慈悲なのではないかと。
「慈悲……僕もよく分からなくなってきました」
ジェイドが、横たわるスカラビア生の指を踏んだまま、ポムフィオーレ生の顔面に右フックを叩き込んだ。振り向き様にハーツラビュル生を蹴り飛ばし、後ろの所属寮不明の上級生に裏拳を入れる。それらを横目に、アズールは契約違反者を的にして新しく奪った魔法の試し撃ちを行った。
「ア、アズ君っなななんてひどデァアアッ」
中にはボードゲーム部の上級生も居たが、アズールは無表情のまま凍結呪文を放った。振り上げた右手の指がフリーズドライになってもげたが、右腕全体を損傷させるのは効果範囲も威力も足りないらしかった。
 陸のスポーツを覚えたらしいジェイドは、スタンド式フェイスロックから試していた。プロレス技はあくまでショーなので、乱闘だの実用には向いていなかった。アズールは、隙が大きくなっているジェイドに被害が行かないよう、契約違反者達を炎の魔法で一斉に炙った。

 ジェイドも宿題について考えているようで、脇固めをかけた生徒の耳元で「慈悲って何だと思いますか?」と囁いていた。答えは無かった。今度は、既に満身創痍の生徒にチキンウィングフェイスロックをかけ、ジェイドは先程同様の質問をした。すると「いっそさっさと殺してくれ」と返答があったので、彼等は益々答えから遠ざかった。
「慈悲」
「ええ、慈悲」
ジェイドが絞めていた生徒の肩の骨が折れた。ジェイドは、答えの出ない問いに対する苛立ちを暴力で発散していた。いつもの貼り付けた笑みすら忘れて、真顔で問いかけていた。
「そもそも慈悲を見せろ、とは曖昧ではありませんか」
どうも寮長の言い回しが引っ掛かるらしい。彼等の視界の隅では、アズールに発火魔法を掛けられた生徒達が中庭の海へと飛び込んで行くのが映っていた。アズールはもののついでに体内のグルタミン酸をドウモイ酸に変換する魔法式を試してみようとしたが、効果が確かめづらかったのでこの場では断念した。代わりに呼吸器に毒霧を流し込んでやった。
「慈悲を与えろではなく?」
誰に見せろというんでしょうか、とジェイド。彼の瞳孔は開ききっている。
「与えるのはチャンスだった筈」
二人が条件を確認し合う。アズールは、寮長の言葉を思い出しながら首を傾げた。此処にフロイドが居たら、やはり「何ソレ謎かけ?」と顔を顰めるのだろう。フロイドが不在なので、代わりにジェイドが顔を顰めた。
「契約を解消するチャンス? 二度と達成できない契約に引っ掛からず生きるチャンス?」
「さあ」
ジェイドは思い切り眉間に皺を寄せた。両耳に掌を押し当てる。

 「ウ、ウウッ!? ウェッ……グウェエッ」

 ジェイドは急いで背を丸めたと思いきや、蒼白な顔で嘔吐した。
 会話の途中の出来事である。二人の革靴めがけて、未消化の昼餉が大量に落ちていった。その吐瀉物の上に、ジェイドの巨体が転がる。ジェイドは平衡感覚を失っているようで、眼球を不随意に忙しなく動かしていた。
 アズールは唖然とした。
 しかし、すぐに思い当たって、辺りを見回した。 三半規管と蝸牛を満たす内リンパ液が急激に過剰増加させられたら、このような症状になる筈だからだ。
 
 その魔法を作った男の姿を、アズールは見つけた。

 オクタヴィネル寮長は、学園長と連れたって廊下を歩いていた。
 まだ顔が豆粒のように小さくしか見えない距離だが、寮長のマジカルペンの白い光が視認できた。呪文の射程圏の広さと精密性が、男の優秀さを物語っていた。
「こんな堂々とした暴力沙汰は困りますよ。どうなってるんですか、君の寮」
死屍累々の生徒達を跨いで、学園長が苦情を垂れる。叱責する内容に反して、鷹揚で共感性に欠けた声だった。まだ動ける契約違反者達は、蜘蛛の子を散らすように撤退していった。
 その半歩後ろを、寮長がコートを翻しながら歩いている。脇にフロイドの頭をがっしり挟んで、引き摺っていた。フロイドは病院に連れて行かれた犬のように消沈した顔で態度で、大人しく連行されている。
「そうは言われましても。彼等は正当防衛だそうですよ。一番先に被害にあったのは、ジェイド・リーチでしょう」
身体を丸めて嘔吐するジェイドの背を擦りながら、アズールは頷いた。先程まで職員室に居たであろう彼等が事の始まりを見ている筈がないが、寮長はアズール達の手口を把握しているので、このくらい当てられても最早不思議とは思わなかった。寧ろ、ジェイドが暴行された記録を撮っていて良かったと素直に思えた。
 寮長は、平衡感覚を失ったままのジェイドの側にしゃがんだ。彼のマジカルペンが光っているのは学園長も気付いているだろうに、白々しく心配の動作をみせた。
「御覧ください学園長。可哀想に、こんなに震えて。彼を保健室へ連れて行っても?」
「……ええ、そうしましょう」
学園長が言い終わる前に、ジェイドの姿が掻き消えた。詠唱も予備動作も何も無かった。
 寮長の脇の下で、フロイドが「マジか……」と小さく声を漏らした。空間転移魔法をこうも軽々と他人に打てるのは、大魔法士でも稀だからだ。保健室へ移動させられたのだと文脈で理解できなかったら、もっと取り乱していただろう。

 アズールは寮長のマジカルペンの光が消えたのを確認して、息を吐いた。
 寮長はあの愛想の良い笑みで、白々しい演技を続ける。誰が見ても嘘だと分かるという点では演技ですらないのかもしれないが、穏便に済まそうという意思表示として有効ではあった。学園長の仮面の下の双眸は、静かに寮長の決裁を見ていた。
「アーシェングロットは無事なようで良かった。お前はこの中で誰より優秀だからね。お前が居ないと、きっと一年の全校統一試験の平均点が大幅に下がってしまうよ。ネェそうでしょう学園長」
学園長は金の爪の付いた指をカチャカチャ鳴らしながら、辺りの生徒達を一瞥した。ある者は骨を砕かれ、ある者は歯を折られている。ある者は火傷をこさえ、またある者は凍傷を作っていた。
「そうでしょうねぇ」
ある者は乾涸びて皹割れ、ある者は爛れて変色している。あるいは緑の粘液を垂らしている。痙攣する者、未だ幻覚にのたうつ者、石のように硬直して微動だにしない者まで、様々だった。正当防衛として戦ったというよりも、実験の意図をもって嬲ったのは明らかだ。言い換えれば、アズールの優秀さの前では実験用ラット程度にしかならない連中という事でもある。
「どうせ彼等は大成しませんよ。愚かで弱すぎる。将来、ナイトレイブンカレッジの生徒として誰かに経歴を誇る事も無い」
そうでしょうねぇ、と学園長。

 床に芋虫のように転がっている生徒達は、学園長の流され易さに愕然とした。
 学園長の利己主義と事なかれ主義には皆薄々気付いてはいたが、いざ自身が見捨てられる立場になると薄情さに驚いた。
 この教職者は、自身の名誉に傷が付かなければ生徒がどんな目に遭っても構いはしないのだ。
「とはいえ、この人数では保健室がいっぱいになってしまいますから、オクタヴィネルの空き部屋と談話室を貸しましょう」
寮長は穏やかな笑みのまま、伏している生徒を蹴り転がして通路の脇に寄せた。
「反省文を書いて心を入れ替えたリーチ君なら、看病だってしてやれるだろう」
「エッ、オレ?」
急に話を振られたフロイドは、素っ頓狂な声をあげた。フロイドは漸くダウナーな状態から脱却したようで、身を捻って得寮長の脇から抜け出した。怖い大人と怖い上級生に見詰められ、フロイドは渋い顔でも了承するしかなかった。職員室で散々な目に遭ったばかりなのだ。
「では、僕は治療薬を作ります。やりすぎてしまったと反省しているので」
アズールも、優等生の顔を貼り付け直して白々しい会話に参加した。自分から対価を言わなくては、どんな仕事を押し付けられるか分かったものではないからだ。
「流石は我が寮生、海の魔女に恥じない慈悲深さだ。ネ、学園長。子供の喧嘩には、仲直りの余地が必要でしょう」
「そういう事ならそういう事にしておきましょう。私、優しいので」
学園長が、音も無く姿を消した。
 特に酷い怪我をした生徒達も同時に回収されたようで、何人かの姿も消えた。

 アズールの背中に、フロイドが蝉のようにくっ付く。
 フロイドには、誰一人笑ってはいないのに笑顔ばかりで溢れる空間が耐えられなかったのだ。アズールのじっとりした背中と、床に転がる生徒達の苦悶と屈辱に濡れた醜面の方がまだ安心できた。
「宿題は順調か?」
寮長は特に関心も無さそうな口振りで尋ねた。実際、アズールが宿題を達成できようができまいが、寮長には損も益も無いのでどちらでも良いのだろう。
「な訳ねーじゃん。言ってること謎だし。曖昧すぎだし」
フロイドが唇を尖らせる。アズールは黙したままだった。
「自由度が高いって言ってほしいな」
寮長はマジカルペンを振った。寮舎の扉が一斉に開き、談話室まで障害物の無い通路が確保された。浮遊魔法をかけた怪我人達を、ヘリウムガスの入った風船のように牽引していく。
 フロイドとアズールはそれに習って、怪我人を運搬する手伝いをした。フロイドが浮遊させた生徒は、乱雑に揺らされて痛みに呻いていた。壁に頭をぶつけたり、手足を擦ったりして、下手な引越し業者のような運び方だった。
 アズールは、血や焦げ付きで汚れた床に修復呪文をかける事も忘れなかった。海では血の汚れなんて勝手に水に溶けて薄まっていったので、陸の不便さを改めて実感していた。一斉に契約する度にこの騒ぎでは、到底やっていられない。
 窓硝子に映ったアズールは、飛行術の直後のような酷い顔をしていた。

 陸にまで脚を伸ばして初めて、自分より厄介な人魚を見た。
 アズールは十六の冬にして、世界は広くて捻くれているのだと気付いた。
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