溺れる

 人魚には魂が無いらしい。
 陸の差別主義者が「変身薬を飲んでいるとしても人魚を決して人間として扱ってはならない」と主張する第一の理由がそれだった。ジェイド・リーチは別段、その定説を気にした事も無かったが、今になって初めて自身に魂なるものが無いのだと実感した。
 そうでなければ、恋する女の煌く瞳を見詰め返してなお、一度も同じ視線を返してやれなかった理由が説明できなかった。

 「僕たち、もう他人に戻りましょう」

 放課後の植物園は閑静だった。特に声を張った訳でもないジェイドの宣告は、温帯ゾーンの一角で寒々しい程によく聞えた。聞えなかったふりも聞き返す事も許さない、絶対的な権限を持つ提案だった。

 ジェイドは、数秒前まで恋人と定義されていた女を、他人行儀に「監督生さん」と呼び直した。
 交際期間にして、一年と少し。彼女と一通りの季節を共にした。それでも、ジェイドはいとも簡単に彼女を切り捨ててみせた。
「貴方に飽きてきたんです。貴方は僕の事を伺ってばかりで、とても退屈なので」
ジェイドの言葉を咀嚼した彼女は、真っ青な顔になった。けれど反論や抵抗の言葉は一切無く、扁桃型の眼をじわりと潤ませただけだった。
 しかし涙の一滴も零さず、彼女は震える唇の端を無理矢理吊り上げた。いつからか彼女は、本心とは異なる表情を作るのが巧くなっていた。それはこんな時でも発揮されるようで、泣いて喚かれるよりもうんと悲壮な姿だった。
 誰が見ても感情を伴わない貼り付けた笑みで、彼女は淑やかな言葉を選んだ謝罪を搾り出した。
「そう、ですか。貴方に相応しい人になれなくて、申し訳ありません」
歪な笑顔で、彼女はジェイドを仰ぎ見た。困ったように下がった眉で、彼女は全ての不幸を受容した。
 そして、演劇の幕が下ろされる際のような恭しさと虚しさを漂わせる所作で、彼女は最後の挨拶をして、植物園から立ち去っていく。この女は、最後までジェイドに従順だった。別れの際まで、そう在ろうと努めていた。
 それがやはり、ジェイドには堪らなく退屈だった。


 独り植物園に残されたジェイドは、栽培しているシイタケの水遣りを続けた。
 幾つもあるシイタケ原木に、霧吹きで全体が軽く濡れる程度に水をかける。シイタケの傘の裏側を覗き込んで、収穫できそうなものを切っていく。彼女が去っていっても、ジェイドは日課には一切の支障が無かった。

 強いて支障があるとすれば、一つだけ。収穫したシイタケの譲渡先が宙に浮いた事だ。モストロ・ラウンジは既に供給過多だと拒否されているので、また引き取り手を捜さねばならない。困りましたね、と呟いた男は貼り付けた笑みのまま唇に手を翳すだけだった。

.

 海にボトルメッセージを流し続けるような愛だった。
 彼女は、ジェイドから同じ感情が帰ってこない事を決して責めなかった。ただ彼女一人では抱えきれなくなった思いの丈を波に持っていってもらうような、見返りを求めない愛だった。
 本当は、彼女とてジェイドに同じ感情を送って欲しかったに違いない。けれど、ジェイドはそうしなかったし、する義理もなかったのだ。

 元はといえば、彼女がジェイドに一方的に惚れたのが切欠だった。
 告白も彼女からだ。思いの丈が伝われば満足という以前に、その思いを隠し通す事を観念しただけのような吐露だった。それを興味本位で拾い上げて、交際を許したのがジェイドだった。
 ジェイドは、彼女が何故自身に惚れたのかに興味は無かった。ただ交際という状態や、この女への好奇心から交際を決めた。それは、彼がこの女の展望を全く考慮していない、軽い決断だった。
 彼女も、その好意の非対称性を承知していた。その上で、交際に至った。
 だから常に、全ての主導権はジェイドにあった。

 彼女は自分自身がジェイドに何ら愛着を抱かれる理由が無いと弁え、精々飽きられないように、一分一秒でも長く気紛れが続くよう努めてきた。ジェイドの趣味に付き合い、ジェイドの好きな物を好きになり、先回りしてジェイその欲するものを取り寄せ、ジェイドの好みの女になろうとした。傍目にも、その努力と献身が分かるほど、彼女はジェイドの為に変った。
 ジェイドに言わせれば、その献身こそがつまらなくなった原因なのだけれど。


 最初の内は、ジェイドも彼女の気遣いを心地良く享受できた。

 彼女は険しい山にも付いて来たし、ジェイドが植物や菌類を特に愛でている事を知れば、その地域の植生をある程度予習してから山に入るようになった。フロイドなら十秒程でうんざりするような植物の話も、彼女は熱心に耳を傾けた。
 山の装備に慣れてくれば、登頂後は彼女が用意した握り飯で昼を共にするようになった。ジェイドのキノコへの偏愛を知っている彼女は、握り飯の具にそれを巧みに反映させた。
 例えば、シイタケの時雨煮や、梅とナメタケの醤油付け、シメジの炊き込みご飯。必ず二種以上作ってきては「どちらがお口に合いますか」と聞いては改良を重ねる努力もしていた。
 ジェイドは燃費が悪くてよく食べる。それを満足させようとする彼女は、必然的にどんどん大荷物になった。それでも、先を歩くジェイドが振り返る度に幸せそうに笑うので、好意とはこうも便利で効率の悪いものなのかと知った。

 彼女はキノコの栽培にも携わった。栽培はあくまでジェイドの趣味なので、手を出させ過ぎるのは避けたが、ホリデーやラウンジの繁忙期などどうしても植物園に行けない時に彼女は役立った。
 此処とは異なる世界から来たという彼女は、ジェイドの知らなかったキノコの調理法を知っていた。彼女の料理はラウンジのものに比べて大味だが、どれも美味しかった。母がよく家事を仕込んでくれる人だったと聞いた。
 時雨煮や炊き込みご飯も物珍しかったが、乾かして粉末にしてしまう加工法は特に便利だった。彼女は出汁と称して何にでも入れてみせたし、生のままより保存が利いた。シイタケの軸で作った粉末入りの料理をフロイドに食べさせる事に成功した時は、彼女と手を叩いて笑った。
 彼女曰く、香りが強いのは傘の部分の方で、軸は香りが乏しく旨味が強いのだと。研究家は生来の性分らしい。その知識欲の殆どを、彼女はジェイドに割くようになった。

 彼女はジェイドの肌がその辺の女より遥かに美しい事を気にして、美容の為に夜十時以降は就寝する事を決めていたらしいが、それでも誘えば夜の散歩を断らなかった。
 海中のオクタヴィネル寮からは見えない星を、オンボロ寮の屋根に登って追いかけた事もある。
 ジェイドが占星術を好んでいると分かれば、彼女は星座を覚えてきた。
『この世界って、星の位置まであっちと違うんですね。きっとジェイド先輩が誘ってくれなかったら、一生気付く事なんて無かったと思います』
占星術の教師が聞けば憤慨で泣くであろうと、その時のジェイドは愉快だった。けれど彼女は、至って大真面目に言っていた。恐らくは、世辞ではなく真実なのだ。
 彼女は本来、この世界の天体などテスト期間でもなければ覚える予定はなかっただろう。獣の王の名が付いた星も、古より導きの星と称された光も、彼女には然したる意味も無かった筈だ。ただジェイドが愛したものとして、価値が生まれてしまったのだ。彼と共に同じ景色を見る為に、彼女は星々の配列に関心を持ち、宇宙の神秘に敬意を払うようになった。
 星の名が分からない時も、彼女はジェイドが時間を忘れて星を眺めている傍らにそっと寄り添った。
 ジェイドの視線を辿って、同じ星を見上げようとした。分からないなりに、彼女はジェイドの見ている世界や胸の内を共に見ようとしていた。
 数多の星を映した彼女の虹彩は、まるでひとつの星のようだった。

 星空の下になくても彼女が星の散った眼をする時があると気付いたのは、いつだったか。
 ジェイドを見ている彼女の瞳は、鮮烈に輝いていた。強く興味関心のある物を見詰める時、人の瞳孔は拡散するのだ。ただそれだけの現象が、星を思わせるほど強烈だった。
 その眩いばかりの視線は、一度気付いてしまうと煩くて仕方が無かった。凡庸な扁桃型の眼に嵌った星は、暗い海に親しんだ人魚には明る過ぎた。
 ジェイドは人を観察する事は好きだが、見られる立場というものに慣れてはいなかった。なのに彼女は、草食動物とすら称された黒目がちな眼をずっと向けてくるのだった。

 そしてその眼は、ジェイドの一挙手一投足、瞬きの回数すら逃すまいとしていた。
 身振りや仕草、表情の作り方、視線の配り方の一つ一つからジェイドの機微を探ろうとした。ジェイドを観察し、彼の好む物に近付こうとした。ジェイドの隣に並んでも違和感の無い、淑女になろうとした。
 彼女はジェイドに嫌われる事を極端に恐れ、常に彼を伺っていた。そして、僅かでも好かれようと必死だった。
 必死過ぎて、まるで溺れているようだった。


 例えばジェイドが、入学当初より少しばかり伸びた髪を切った彼女に、残念がる僅かにでも見せれば、彼女は髪を念入りに伸ばし始めた。男子校の中で浮かないよう短く切られていた髪は、今ではすっかり肩に付く程になった。戯れに似合うと言ってやった髪飾りをいつも付けてくる。その飾りに合わせて、彼女は化粧と髪形を変えた。
 化粧の匂いが気になった素振りを見せれば、香料の少ないものをあれやこれやと試して、最終的には化粧品を無香料で揃えるようになった。四角かった爪の形も、女性的なオーバルに変わった。
 彼女は付き合ったばかりの頃は、少年にすら見えなくもない未発達な少女だった彼女は、いつの間にか姿を消した。
 劇的な変化ばかりではなく、肌艶や髪質、所作や言葉遣いに至るまで徐々に変わっていった。それは代謝を繰り返して細胞が入れ替わるような僅かずつの変化ではあったが、確実に彼女を変質させていった。

 客観的な評価で言えば、彼女は美しくなった。女性的な可憐さを手に入れたと言っていい。髪は艶やかに伸ばされ、整えられた爪に隙は無く、随分とたおやかになった。
 笑う時は歯を見せず、左右対象に淑やかに口角を上げてみせる。その笑みがジェイドの笑い方に似ていると、もう何人に言われた事だろう。身振りや仕草、表情の作り方、視線の配り方、発話のリズム、話すスピード等、彼女はジェイドに寄せた振舞い方をした。
 もはや熟年夫婦のそれだと、誰もが思っただろう。好意を抱き合っている間柄の者同士は、所作が似てくるものなのだ。
 けれど彼女は、意図的にジェイドに寄せていた。相手の言動や仕草等を鏡のように真似るミラーリングという好意の醸成に有効なテクニックを教えたのは、他でもなくジェイドだったからだ。人当たりの良さを褒められた時、ジェイドはただの種明かしとして教えただけつもりだった。自身に好意を向けている相手に教えたらどうなるか、考えていない訳ではなかったが、こうも徹底されるとも思わなかったのだ。

 彼女はジェイドと深く共鳴する為に、彼に近付いていった。心にジェイド・リーチの人格を飼うようになった。
 ジェイドの好きな物を好きになり、ジェイドの欲しいものを察し、時に先回りして用意した。彼女の全ては、ジェイドで回っていた。
 他人はそれを健気と言った。献身と呼ぶのだと、ジェイドも知っている。
 だが、彼女がジェイドに完璧に応えれば応える程、ジェイドの中で何かが冷めていった。彼女はジェイドが白と言えば黒いものでも白と言う。赤い薔薇でも白く塗ってくるだろう。
 そう確信した時、ジェイドの彼女との関わりを止めたいと思った。

 ジェイドは元より、予定調和が嫌いなのだ。何処までも自分の思考をトレースしてくる女は、常に予想の範囲に居て、退屈だった。
 彼女を切り捨てるのには、充分な理由だろう。

.

 ジェイドは、収穫したシイタケをバスケットに詰め終えると、原木を元に戻した。湿度を保つ為に施されたビニールカーテンを潜り、キノコの栽培スペースを後にする。スペースの外は、やや暖かく、麗らかな空気である。温暖湿潤気候の春を模した空調が、ジェイドの頬を撫でた。
「追いかけて歌うべきじゃなかったのか?」
温帯ゾーンに、サイエンス部が顔を出した。緑の短髪に赤いゴーグルが映える好青年が、ジェイドに口出しをした。トレイ・クローバーだ。ゴム手袋をした腕で、吸血ヨモギの鉢を抱えている。部活で使用する材料を運搬している最中のようだった。
 彼は丁寧にも、通路で監督生と擦れ違った事をジェイドに報告した。「泣いていたぞ」と困ったように眉を下げるこの男だが、ジェイドが追いかけるとは本気で思っていないらしい。嘗て幽霊の姫を相手にプロポーズをさせられた時に、ジェイドが最も女の心理に理解を示していたにも関わらず、それを踏み躙って自身の好奇心を優先させた事を覚えているからだ。

 ジェイドはやはり、追いかけなどしなかった。穏やかな表情を崩さず、首を振ってみせた。
「流石にそれは。僕がフッた立場なので」
けれど、やはり今回もジェイドは平手打ちを貰うべき立場ではあったし、彼にもその覚悟はできていた。もっとも、彼女が最後までジェイドに恭順を示したので、その用意は無駄になったのだが。
「トレイさんこそ、慰めて差し上げたら良かったのでは? それこそ歌でも歌って」
もう手前の女ではなくなったのだと、これ以上に分かり易い言葉もない。ジェイドの露骨に性格の悪い返答に、トレイは片眉を吊り上げた。
 だが同時に納得した。不自然が自然に戻っただけだったのだと。寧ろ、監督生はよくも今までこの男との関係を続けられたものだと感心すら芽生えさせていた。
「両手が塞がってさえなければ、そうしたかもな」
トレイはそう言って、ジェイドの前から去って行った。亜寒帯ゾーンの入り口の方では、既に鉢を運び終えたルーク・ハントがトレイに手を振っていた。

 ルークの観察を好む眼は、瞬きすらせずジェイドを見ていた。
けれどジェイドが会釈をすると、すうと伏せられた。この男にとって、女性を泣かせるような輩は獲物として不合格なのだろう。
 無言の侮蔑を背に受けて、ジェイドは温室を真っ直ぐ歩いた。ハリツバキにも、水を遣らねばならない。


 ハリツバキは、温帯ゾーンの日照時間の長い区域に植えられている、その名の通り玻璃でできているかのように透き通った葉を持つ椿だ。ジェイドが趣味のテラリウムに使うので育てていた。
 彼女に告白されたのも、丁度この花を摘んだ帰りだった。
 薔薇色の頬とはよく言ったものだと思いながら、ジェイドは彼女の吐いた愛を受け取った。声は人の記憶から最初に消えていく感覚だと言われているが、ジェイドは未だ彼女の震える声を覚えていた。

 ハリツバキは奇しくも、と言うより当然、監督生が授業以外で初めて扱った魔法植物だ。
 美しい花だ。けれど「私に近付かないで」という花言葉に相応しく、葉は薄く鋭利で、瑠璃色の花には毒があった。
 この花の爽やかな甘い香りに誘われた蝶々が、毒に侵されてころりと地に落ちる様をジェイドは愛していた。この日も、既にハリツバキの根元には、蝶や蜂の死骸が転がっていた。この哀れな虫達が、この艶やかな花の養分になるのだ。高所に茂る野生のハリツバキなら、透明の葉に気付かず飛んだ小鳥が葉に身を切り刻まれて養分になる事もある。
 そうジェイドが説明してやっても、監督生はこの花の美しさに魅入られていた。美しい物を見詰める彼女の瞳には、やはり星が散っていた。

 花の毒の作用に、魔力の無い人間に対する魅了の効果があると分かったのは、随分と最近の事だった。

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 カタクリ、キクザキイチゲ、キランソウ。
 これは、監督生の元居た世界にもあったと、彼女がジェイドに教えてくれたものだった。
 どれも温暖湿潤気候の春に見頃を迎える植物だ。植物園には魔法植物以外にも一通りの植物が揃っているので、探せば温帯ゾーンで見る事ができるだろう。ジェイドは特に探す気はなかったが、去年訪れた山に咲いていたカタクリを思い出していた。独特で見栄えする紅紫の花を咲かせるので、緑の茂る山にあってもあの花はよく目立つのだ。

 あの頃の監督生はまだ髪も短くて、よく喋った。
 彼女の祖母は、カタクリをカタカゴと呼んで、地下の鱗茎を日干しして採集できる僅かなデンプンで整腸剤を拵えてくれたらしい。カタクリが腹痛や下痢に効くのはどちらの世界でも共通なのかと思いながら、ジェイドは彼女の話を聞いていた。花開く僅かな時間に立ち会えたと言うのに、彼女は「若葉なら茹でておひたしにすると美味しいんですけどねぇ」と育ち過ぎている事を残念がっていた。彼女のような気質の者を、彼女の故郷の言い回しでは花より団子と言うらしかった。

 ジェイドは、あの頃の彼女の事をよく思い出す。
 あの付き合いたての頃が、一番楽しかったからだ。
 彼女は、ジェイドの知らない話を提供してくれた。祖母のこと、母から習った料理、あちらの世界の星々、あちらの世界の草花。彼女自身のこと。
 その頃の彼女は、よく口を開けて笑った。目許に皺を寄せて、大きく開いた口を申し訳程度に小さい掌で押さえて。少年達に交じっても違和感が無いくらいに活発で、実直な人間だった。ジェイドとは全く共通項の無い生き物だった。


 そも、ジェイドがこの女を観察に値すると感じたのは、彼女が異なる世界から放り出された人間だからだ。
 魔力を持たない小さな身体で、ろくに力もない上にこの世界の知識もない彼女は、名門の男子校たるナイトレイブンカレッジでは浮きに浮いていて好奇心が疼いたからだ。簡単に死んでしまいそうな弱者だった彼女が、二度も海中で人魚二匹と対峙する事を選び、決して臆さなかったからだ。持たざる者の分際で、あのアズールを出し抜いたからだ。

 彼女は不思議な生き物だった。
 自身の事で手いっぱいだろうに厄介事の対処にいつも狩り出されて、それでも倦まず奔走していた。彼女は暴力にも魔法にも疎く、人並の危機感では足りない筈なのに、人と関わる事を恐れなかった。闊達で、意志の強い眼をしていた。
 異形の姿を晒した後のアズールにも、まるで怯えはしなかった。住居を奪われた怒りをぶつける事もなく、彼を可愛いと言ったり心配だと言ったり努力を賞賛したりと、随分図太くできているものだとジェイドは感心してしまっていた。
 その時の彼女は、確かに面白かったのだ。
 彼女がジェイドを真似る必要など、何処にも無かったのに。

 ジェイドは、自身の事を然して面白い人種だとは思っていない。
 ジェイドは有象無象より優秀で油断ならない男であったが、片割れのフロイドと幼馴染のアズールが常に隣に居れば、そう見えるのも無理からぬ事だった。
 抜群の才能と運動神経を気紛れと衝動性に任せて常識すら飛び越えていくフロイドは、誰にも予測できない結果を生む事が多々あった。アズールは血の滲むような努力家で、底無しの強欲と向上心を常に全力で稼動させて突き進む様は、悍ましくも快く、何処にだっていける強さがあった。ジェイドを愉しませる面白いものは、常にジェイドの外にあったのだ。
 そのコレクションの中に、異なる世界から来た女を入れても良いのではと思っていた時期もあった。なのにどうして、有り余る探究心と適応力をジェイドに注いでしまったのか、彼女が残念でならなかった。
 彼女ジェイドの面影を濃くしていく度、彼女はつまらなくなっていった。それは、ジェイドはつまらない男だと突きつけられているようで、恐ろしくもあった。
 ジェイドは変化を愛していたが、それだけは許し難かった。あの女が無価値なものに滑落していく様をこれ以上傍で見ているのは、耐え難い苦痛だった。
 彼女の溺れんばかりの愛は、ジェイドの息まで止めてしまいそうだった。

.

 ジェイドがオクタヴィネル寮に戻ると、寮生達は水温が下がっている時のような、ぎこちない様子だった。
 神経をひりつかせて、緊張に強張った眼付きでジェイドを伺っている。端的に言って、鬱陶しい態度だ。

 監督生との破局が伝わったな、とジェイドは一人合点した。
 監督生の変貌は露骨であったので、学園の誰もが彼女とジェイドの関係性を認知していた。であれば、その破局も共通の話題として伝達されたであろう。皆、監督生に同情しているというよりは、ジェイドの機嫌が損なわれていないかを心配しているようだった。殊に、今日のモストロ・ラウンジのシフトが入っている者は、死刑囚のような風情だった。

 アズールはラウンジの開店前だというのに、部屋の前の廊下でジェイドを待っていた。
「今日はフロイドと一緒に仕事をしてきてください」
言外に、お前がラウンジに居ては仕事がやりづらいと伝えてくるアズールに、寮生の萎縮ぶりを見たジェイドは反論できなかった。

 モストロ・ラウンジのホールの監督と引き換えに、ジェイドは造反者との「話し合い」をする事になった。
 店の金に手を付けた男から、損害の補填と謝罪の証を貰わなくてはならないのだ。もっとも、彼が金庫に手を付けるようVIPルームを手薄にし、金庫の鍵を掴ませたのは、アズールの指示であったが。


 フロイドは、既に哀れなオクタヴィネル生を空き部屋に突っ込んで謝罪をさせている最中だった。
「別にいーよ。オレ一人で。ジェイド小エビちゃんとこ行けば? 謝ってきなよ」
フロイドは、横領を働いた哀れな寮生の頭に革靴を置いたまま、ジェイドの参加を拒否した。床に額を付けた男が、蛙のような声を漏らした。
「フロイドまで妙な事を言うんですね」
フロイドは座った眼のまま、ジェイドを見遣った。
 恐らく、監督生とジェイドの事に関しては、彼が一番よく知っていただろう。ジェイドの付属物となって彼の後を付いて回っていた彼女が、ジェイドに謝る必要のある事をする筈が無いと誰より承知していた。今ジェイドが彼女に謝って前言を撤回したならば、彼女が笑ってよりを戻す事に応じるであろうとも分かりきっていた。
「……いいの?」
「いいんです」
ジェイドは、このような遣り取りを彼女の同級生達とも繰り返す事になるのではと察して、少々遠い眼をした。
「小エビちゃん、アッチに帰っちゃうかもよ」
「おや、知っていたんですか」
「アズールから聞いた」
彼女が元居た世界へ帰還する方法が見付かったのは、一ヶ月程前の事だ。けれどその事実は、未だ教員と各寮の寮長と副寮長だけの秘密に留められていた。
 肝心の監督生の態度が煮え切らなかったからだ。せめてこの学期だけ修業したいとか、グリムが卒業するまで居たいとか、色々と言い訳を重ねていた。挙句、ジェイドの方をちらと上目遣いで伺って、許されるならばこの世界に居たいと打診する始末。学園長も厄介事を処理させる人員を失うのは惜しいようで、未だ帰還の手段をキープしたまま、彼女を学園に居座らせていた。
「小エビちゃんが帰っちゃったらお前の所為だよ」
フロイドは恨みがましい眼を向けた。金とオリーブの垂れ眼は、拗ねた子供のように不満を露わにしていた。フロイドは存外、あの女を気に入っていたのだ。だからジェイドはフロイドに伝えたくなかったのだ。引きとめようと言うに決まっている。
 けれど、フロイドの愛着は、決して特別な男女のそれではない。エレメンタリースクールの時分、フロイドが強請るのでオキアミを飼った事があるが、飼って二週間もしない内にジェイドが飼育係りになってしまった。フロイドが監督生に向ける愛着は、その類のものだと、ジェイドは察していた。オキアミは寿命まで面倒を見たが、人間となればそうもいかない。
「彼女が帰るとしたら、それは彼女の意思ですよ」
フロイドは、足元の男を勢いよく蹴った。


 ジェイドに何を言ってもどうにもならぬと悟ったものの苛立ちの納まらないフロイドは、哀れな寮生に恐怖を刻み込む仕事に精を出した。
 男に自身の罪状を自覚させ、損害を補填する為に如何なるものも捧げるという旨の誓約書にサインさせるのはジェイドがやった。「幸い」にも彼はアロワナの人魚であったので、足りない分は鱗で賄わせた。
 人魚の鱗はそれなりの値で取引される。陸に上がって人間に交じって生活する人魚が台頭してきた事で、現代では認可外の取引は軒並み摘発されるようになったが、それが却って鱗に高値を付ける切欠になっていた。アズールやリーチ兄弟のように体表に鱗の無い魚には、殆ど関係の無い話ではあったが。

 フロイドが共感性の欠片も無い手付きで鱗を引き抜く度、男は泣いて暴れた。
 喚かないのは、人魚に変身させたときに不要になった彼の靴下を口に押し込んだからだ。のたうつ下肢を押さえ込みながら、ジェイドは鮮やかな鱗が剥げていく様を茫洋と見ていた。

 ジェイド達がこうして同胞の鱗を剥ぐのは、今日が初めてではなかった。
 確か半年前、ジェイドにとっては三度目のウィンター・ホリデーだった。スタッフ不足で冬季休業中のモストロ・ラウンジの中で、一年生のニシキゴイの鱗を剥いだ。彼の実家はそこそこに裕福だったので、大きな怪我とまではいかなかったが、痛みと恐ろしさに酷く泣いて喚いていた。「やっぱ何か噛ませねーとうるせーわ」とフロイドが苛立っていた事を、ジェイドはよく覚えていた。
 仕方なくタオルを取りに店を出た時、扉の前で蒼白な顔をした監督生と鉢合わせたからだ。

 思えば、ジェイドは監督生に人魚の姿で追い回したり二度と楯突かないよう締め上げたりした事はあったが、それ以外の非道な面を見せた事が無かった。無抵抗の生徒に拷問めいた事をしているリーチ兄弟の姿に、彼女は明らかに怯えていた。
 眼を見開いて、浅い呼吸を繰り返し、暴力への忌避感を露わにしていた。
 ジェイドは、こんな己を好いた娘でも正常な感性をしているのだと今更ながらに思った。嫌われただろうと納得した。
 けれど後日、彼女の弱みを揃えて口止めをしに行ったジェイドに、彼女はあの貼り付けた笑みで応じた。弱みを握っていると脅すより早く、リーチ兄弟の仕事を黙っていると彼女から口を開いた。彼女は、ジェイドの陰惨さも残虐さも受け入れようとしていた。
 目の前の暴力より、ジェイドの抱える残酷さより、ただジェイドとの関係性が壊れる事の方を恐れていた。
 彼女は、自ら自身の正常な感性に蓋をした。罪悪と恐怖に震える心を殺して、彼女はジェイド・リーチに寄せた笑み作り、共犯者として振舞ってみせた。
 ジェイドの為に。ジェイドがそうさせてしまった。


 一切を砂に変える男にも、海中の異形達にも、敢然と対峙した彼女が、ただジェイドに嫌われる事に怯えている。
 ジェイドの為に、この女は退屈極まる人間になっていく。彼女の感性も感情も何もかもが損なわれていく。
 大きな口を開けて笑う彼女も、カタクリの若葉を食べたがった彼女も、少年のように活発だった彼女も、恐れを知らなかった彼女も、もう死んでしまった。
 きっと、彼女達の死因はジェイドなのだ。


 彼女と星を見た。山を見た。花を見た。
『私、ジェイド先輩のお陰で、この世界のことが好きになれそうです』
ジェイドが陸に上がった際に覚えた感動を、彼女にも共有したかった。元の世界より好いてほしいとすら思ってしまった。それだけの衝動を、ジェイドは今更になって後悔している。
 ジェイドは、彼女の世界の星を知らない。人魚の居ない海を想像できない。彼女に母の味の料理を作ってやることはできない。祖母と同じ方法でカタクリを煎じてやることができない。けれど、それらを大切にしている事くらい分かっていた。
 ジェイドとは全く別の生き物の彼女が好きだった。そう気付いたのは、随分失ってからだったのだけど。

 彼女が大切にしていたものとジェイドを天秤にかけて、前者を捨てていく度、彼女と関わった事を後悔した。
 一等苦痛だったのは、そこまでしなくとも良いと言えなかった己の醜さだ。
 共有するのは楽しかったのだ。共犯者である事は、愉悦を生んだ。己を慕う女に傅かれるのは、幸福だった。彼女を自身で上書きしていく事に、悦びを見出すのは当然の欲だろう。
 ジェイドの仄暗い歓びに、彼女が気付かない訳が無い。だから彼女はジェイド・リーチの真似を続けるのだ。ただ彼女は、ジェイドが彼女自身を好いていたとは思いもしなかっただけで。

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 ジェイドとフロイドは、無言のままに人魚の鱗を剥いだ。
 朱色の美しい鱗だった。鱗を剥がしたところは薄桃色の皮膚が痛々しく覗いている。滲んだ血が滴って、ジェイドの手袋を染めていた。
 ジェイド達の同胞がこんなにも苦しんでいる。鱗を剥がれた彼は、碌に泳げなくなるかもしれない。もう海には戻れなくなるかもしれない。けれどジェイドは無感動に作業を続けさせた。
 彼等が損なわれていくのは全く平気だった。
 ただ彼女が損なわれていく事実だけが、ジェイドを苦しめる事ができた。
 彼女の魂なるものが、傷付いてしまう気がした。

 せめてこれ以上損なわれる前に、元の在るべき場所に帰ってほしかった。人魚の居ない海が、彼女には似合っている。


 全てはただ、このジェイドに染まる前の彼女が上等過ぎただけの話だ。
 損なわれる前の彼女を愛し過ぎた。
 窒息させてしまいそうな愛だった。



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