延長戦

 モストロ・ラウンジの更衣室で、監督生がテディベアに向けて鋏を振り回していた。

 全長三十センチ程度の可愛らしいテディベアに、幾度も刃が突き立てられる。ラウンジの制服を着たままの彼女の右手には、携帯用ソーイングセットの小さな糸切り鋏が握られていた。クリーム色のベアの左足は、既に床に落ちている。布の断面から覗く綿が、溢れる血肉のようで痛々しい。職場の更衣室で繰り広げられるメルヘンと猟奇が同居した絵面に、アズールは思わず眉を顰めた。

 アズールは、勤務後にVIPルームに寄るように伝えた監督生がいつまでも姿を現さない事を不審に思い、更衣室まで見に来たのだ。ノックをしても不審な物音が続くだけだったので、已む無く突入した次第である。
「乱心者の真似事なら余所でやってくれませんか」
彼女が特に理由も無く物を壊したり刃物を出したりする性格ではない事などアズールも承知ではあったが、そうも訊かねばならない惨状だった。しかし、アズールの声は、彼女の耳に届かなかった。

 監督生は鬼気迫る表情だった。アズールの存在にすら気付かず、無茶苦茶な手付きでテディベアに刃を入れ続ける。
 ぬいぐるみを切るには余りに短過ぎる刃が、彼女の手元で不安定に上下している。刃の先がボア生地の短い毛足にに滑って、ベアの頬に引っ掻き傷を付ける。巧緻性を大きく失った手は極めて効率の悪い鋏の入れ方しか出来ていない。彼女の呼吸は短く浅く、憤怒や憎悪というより、恐怖の色が濃い手付きだ。
 錯乱の呪いや幻覚の魔法をかけられている線を疑ったアズールだが、彼女自身からは魔法の気配は無い。魔法がかかっているのは、テディベアだ。アズールには然程脅威には見えないが、彼女は形振り構わぬ恐慌状態に陥る程度の恐怖を味わったらしい。
「ねえ、何してるんですか」
アズールは先程より大きな声で問いかけた。監督生の手を掴んで、鋏とベアを預かれば、漸く監督生はアズールの存在を認識する。その眼の焦点は、未だ怪しい。
「また得体の知れない物を貰った、なんて馬鹿なこと言わないでくださいよ」
監督生は、荒い呼吸を繰り返しながら、驚いたようにアズールを見た。

 数回の瞬きを経て、漸く彼女の焦点が定まってきた。
 監督生は未だ現状を認識できているのか怪しい動転ぶりを見せていたので、やや気不味く感じたアズールは「ノックして入りましたよ」と言い添いえる。
「このベアは?」
アズールは、損傷したテディベアからに視線を落とした。十中八九それが原因だろうと予測は付くが、基本的に家計が逼迫している監督生に、必要性の薄いインテリアなど買う余裕があるとも思えない。アズールに分からないのは、如何なる経緯でこれが彼女の手に渡ったかだ。
 監督生は以前、悪意の貰い物をきっかけに酷い目に遭いかけていた。アズールは、彼女がその程度の対策も出来ない愚か者だとは思っていない。それだけに不可解だった。彼女が信頼している人間から、悪意を向けられていたと可能性もあるが、それが従業員のであれば最悪だ。支配人たるアズールも、監督責任に問われる。
「私、ちゃんと捨てた筈なんです」
監督生は、要領を得ない返答をした。アズールが聞き返せば、彼女はより具体的な経緯を答えるよう努めた。
「お昼休みに、本校舎のロッカーに入っていました。申し訳ないと思ったんですが、差出人が無かったのでコッソリ捨てました。でも……戻ってきたんです……こ、これ、勝手に動くんです……」
アズールは、床に落ちたベアの手足を拾い上げた。魔法解析学に基いて、疑惑の物体を検分する。注視して見れば特に難しいものではなく、簡易修復魔法と自動追尾魔法がかけられているだけだった。
 切り刻まれた布地が、元の姿に戻ろうとしてアズールの掌の上で蠢いていた。魔法に造詣の深くない彼女にしてみれば、壊しても壊しても自己修復しては追いかけてくる不気味な物に感じただろう。だが、布と綿で出来た柔らかさの塊が多少動くところで、特に脅威には思えなかった。
 そんなアズールの腑に落ちない表情を見て、監督生は絶望的な声をあげた。
「クルーウェル先生に相談しても、可愛らしいじゃないかって、相手にされませんでした」
アズールもクルーウェルに同感だった。だが、一緒にされるのは癪で、首を傾げて傾聴の姿勢を作ってやる。
「チャッキーみたいになっちゃうんじゃないかって、私はすごく怖かったのに」
何度か捨てては戻ってきてを繰り返し、ならばと刻んでからバイトに赴いたものの、ラウンジの更衣室にまで姿を現した為に気が動転したらしい。
「チャッキー?」
聞き慣れない単語に思わず聞き返せば、監督生は唇を噛んだ。
「……例えば、私が寝静まったタイミングで、包丁を持って寝室にやってくるとか。フワフワの手を突っ込んで気道を塞いでくるとか。そういう怖さです」
縛っておけばいいのでは、と思ったアズールだが、口を噤む賢さを持ち合わせてはいた。この物体にかけられた魔法の種類を把握できない以上、彼女は何をされるか分からない恐怖に怯える必要はあったのだと気付いたからだ。

 アズールは手の中で蠢く綿と布の塊を、炎の魔法で燃やしてやった。
 アズールの手の上で踊る真紅の炎は、白手袋や袖を焦がさず、ベアだけを包んで煌煌と燃える。その神秘的な炎の出現に、監督生がワッと驚嘆の声をあげる。
 簡易修復魔法がかけられているといえど、それを上回る魔力を出力して二度と修復されないよう燃やし尽すのはアズールには簡単だった。けれど、彼女に代わって魔法を行使するグリムや、よく連んでいる同級生達に同じ事が出来るかといえば、難しいだろう。

 アズールの手の中で、テディベアはすっかり灰に変わろうとしていた。
 狭い更衣室に焦げ臭さが満ちるのに伴って、監督生も落ち着きを取り戻してきた。
 テディベアの胴体があったであろう部分に、現状の炎力では燃え残るであろう物がある事に気付いたアズールは、それを咄嗟に握り込んだ。掌の中で、麻雀牌程の大きさの金属の硬い感触が主張する。
「これがあなたを追ってきたのは、追尾魔法がかけられていたからです。スポーツ中継やドローン撮影などにも使われる技術だと、既に講義を受けたのでは?」
気の利いた助言より先に、講釈が口を付いて出た。だが、同情めいた発言をしなかったのは、アズールの理性だ。可哀想だ何だと称して契約を迫るアズールだが、彼女を可哀想な者として扱う事には抵抗を覚えていたからだ。
「そ、そうなんですか。今度調べますね」
アズールの対応は決して外れではなかったようで、監督生も早々に被害者の顔から闊達な従業員の顔に切り替えてきた。
「直ぐ着替えて戻ります。ありがとうございました」
時は金なりを体現したような切り替えの早さだ。しかしアズールは、それがこの決して強くはない生き物のせめてもの矜持だと知ってしまっていた。だから彼も、何でもない様子で礼を受け流す。
 アズールは握り込んだ燃え残りを素早く握り込んで、ポケットに押し込んだ。そして更衣室を後にし、閉店作業中の店内に戻っていった。


 レオナ・キングスカラーの言葉を借りるなら、アズールは監督生に悪党として敗北した。
 けれど彼女は、悪党という訳ではなかった。もし再び対峙する事があったとしても、それはきっと悪党と被害者の図になる筈だ。つまりアズールは、彼女に悪党として敗北したまま、それを覆す手段を永劫失っている。
 アズールは、自分から勝ち逃げしていった彼女が、弱い生き物や可哀想な者である事が許せない。

 丁度売上金の確認と回収を終えた様子のジェイドに、アズールは無言のままポケットに入れていた金属の塊を押し付ける。
 テディベアの腹にあったそれは、盗聴器の類だろう。ジェイドは興味深そうに肩眉を上げたが、何も言わずにそれを胸ポケットに入れた。ジェイドは聡く、調べ物の得意な男だ。今更具体的な説明も必要とはしていないようで、さっさと視線を手元の帳簿に戻して業務を続けた。
 時刻は午後九時半を回っていた。従業員の全員が学生である為、モストロ・ラウンジ平日の営業時間は短い。フロアの清掃を終えたカサゴの人魚が、大口を開けて欠伸をしていた。

 店の奥から、保存期間の過ぎた食材を廃棄したフロイドが帰ってくる。その後ろに、着替えを終えた監督生も見えた。所属寮を示すベストの無いブレザーの制服も、最早見慣れた姿だった。
「今日は僕が施錠しますから、先に帰りなさい」
アズールは従業員達に指示を出し、監督生をVIPルームに招く。
「昇給早くない? 贔屓だぞアーシェングロット」
従業員の一人が監督生に「懐に余裕できたら飯行こ」と手を振る。監督生は彼に応えて、手を振り返す。数分前まで更衣室で狂態を演じていた事などを全く悟らせない、朗らかさすら感じる笑みだった。彼女は、相変わらず平静を装うのが上手い。
「昇給じゃありませんけどね」
しかし従業員が勘違いしたのも無理からぬ事で、アズールが従業員を個室に呼ぶのは大抵、金銭の絡んだ契約更新くらいのものだ。契約違反者たるイソギンチャク共を働かせていた時は、返済不能の泥沼な契約で更に搾り取ったり折檻を行ったりも頻繁だったが、彼女がそのような仕打ちを受ける必要が無い事は従業員なら誰もが知っていた。
「変な契約迫られたら俺達ストで対抗してやるからな」
上級生の従業員が、茶化しながら退勤していく。監督生を可愛がるついでにアズールを悪し様に言っていくのも恒例化しつつあった。もっとも、営業時間中まで浮つくようなら上級生だろうとフロイドが絞めるので、アズールも適当に聞き流した。彼等を無視して、VIPルームを施錠する。


 監督生とアズールがVIPルームで対峙するのは、オンボロ寮を担保に契約を迫った時以来だった。その時とは違って一対一の対面だが、革張りのソファに座る監督生の所在無さ気な様子は相変わらずだ。寧ろ、監督生一人で座っている分、頼りなさが目立つような気すらした。
「取引の提案があります」
監督生の真正面に腰を下ろしたアズールは、彼女に紙袋を渡した。その中には、白く濁った液体で満たされた瓶が五本入っている。監督生は、紙袋の中身とアズールを交互に見遣った。
「マニキュア、ですか?」
彼女は賢い。彼女はあくまで紙袋を覗くだけで、中身には決して触ろうとはしなかった。

 彼女はアズールに、取引の詳細と事情の説明を求めた。
「以前、あなたが違法薬物を掴まされた時、真っ先に出所は僕だろうと疑われたんです」
彼女がフェアリーパウダーやニンフドラッグと称される粗悪なドラッグを発端とした事件に巻き込まれたのは、まだどちらの記憶にも新しい。その犯人は処罰されたものの、臨時バイトのラギー曰く、世論ではアズールが第一容疑者にされていたのだ。
「そ、そんな事が……あの節は本当にごめんなさい」
監督生は、極めて素直に謝った。彼女は、事件の為にアズールが深夜に呼び出された事に関しては再三詫びていたが、容疑者にされていた件までは初耳だったのだろう。目をまん丸に見開いて驚いていた。
 彼女があまりに罪悪感でいっぱいの顔をするのでアズールは少々愉快な心地になったが、謝罪に付き合っていては本旨から逸れる気配を感じ「容疑は晴れたのでお構い無く」と素っ気無く打ち切った。
「ただ、あなたが今後そのような物を掴まされる度に僕に嫌疑が向くのはストレスだ。そこで、あなたには自衛手段を持っていてほしいんです」
そう言われては、監督生は頷く他にない。
「その対価は?」
「だから、自衛手段を持っていてほしいと頼んでいるじゃありませんか。その代わり、僕がそれを授けます」
監督生はさも意外だという顔をした。その慎重な構え方は当然の防衛策ではあるが、無償でテディベアから助けてやったばかりのアズールには少々不当に感じた。
「何かを得る為の契約ではなく、ただ互いの不幸を軽減する為の取引です。別にあなたから奪いたい物なんてもうありませんし」
アズールは、彼女に紙袋の中身をローテーブルに広げさせた。細長いキャップの付いた小さな硝子瓶が、几帳面に一列に並んでいく。刷毛の柄を兼ねているキャップはそれぞれ色違いで、ラベル代わりの模様が入っていた。いずれも中身は白いが、注視して見比べれば光の加減によって偏光の加減や僅かな色味がやや異なっている事が分かる。それもその筈で、五本とも液体の組成が異なるのだ。
「特定の魔法物質に触れると一時的に色が変るマニキュアを五種作りました。もし何か受け取った時、爪で触れてみて色が変るかどうかを異物混入の指標にしてください」
「まあ凄い」
そうでしょうとも、と言わんばかりにアズール口角をあげた。その様子に、漸く監督生も笑った。

 アズールはマニキュアの瓶を開け、彼女の手を取った。
 水仕事に荒れた指先だ。ヴィル・シェーンハイトなら、鉄分不足の爪だと眉を顰めるだろう。けれどこれでも、バイト代が入る前よりは幾分か手入れされるようになった方だとアズールは知っていた。丸く短く切り揃えられた爪は、清潔に保たれている。桜貝でも貼り付けているようだとすら思った。
「実演しましょう」
自分で出来ます、と監督生は手を引っ込めたがった。しかし、アズールが特に手を離す気が無い事を悟ると、直ぐに大人しくなった。
 アズールが社交以外で陸の女の手を取ったのは、これが初めてだった。指を摘んでみて、見た目から予想するよりうんと小さくて華奢に感じた。動かないように指を抑える手に少しを入れれば、彼女の指の幅がいっそう細くに見えて、妙に緊張した。

 両の人差し指から、爪の油分をポケットティッシュで拭き取っていく。少量のマニキュアを刷毛に付けて、エッジから慎重に塗り込めた。
 細かい凹凸のある爪に、バッフィングをしてやるべきかと思ったアズールだが、夜も遅いので言及は避けた。監督生の爪は薄く、アズールは長く伸ばすのに向いていなさそうだと感想を抱いた。
 爪の表面に、刷毛が滑っていく。刷毛を握ったアズールの手は、爪の根元から先端へと手早く動いていった。爪の左右の際も、塗料が皮膚に付かない擦れ擦れまで丁寧に塗られていく。
 マニキュアの白色は、塗り広げられると半透明の膜のようになった。それは真珠の表層部に似て、光の当たり方によって柔い七色の光沢を見せた。
 丸い爪を二枚、見事に宝石と違わぬ品格で彩ったアズールは、自らの仕事ぶりに感嘆した。

 アズールは、人差し指に使ったマニキュアを紙袋に戻した。そして、また違う色のキャップの硝子瓶を開ける。やはり中身は白色で、刷毛に取ると半透明に見えた。
「では中指を。どの指にどれを塗ろうが構いませんが、それぞれ検知出来る対象物が異なるので必ず五種類全て使ってください。混ぜるのも無しです」
監督生は、生乾きの人差し指を不自然に緊張させながら、中指を突き出した。中指の爪は人差し指に比べてやや面積が大きいが、アズールには微々たる差に思えた。どの指も細く、どの爪も丸くて薄い。塗り辛い爪だと零せば、監督生は首を傾げた。
「私、誰かに爪を飾ってもらうなんて初めてです」
二人が顔を上げれば、指先に意識を向けた体勢の所為で、予想より近い距離で視線がぶつかった。監督生は、戸惑いの中に緊張と満悦を一滴ずつ混ぜ込んだような表情をしていた。
「飾る? 実用性重視ですよ、これは」
マニキュアなんて随分久しぶりだと、彼女は明かした。逼迫した家計において、自身を飾る為の出費は極めて優先度が低くなる。当然、オンボロ寮暮らしには縁の無い代物だろう。彼女はお洒落が出来て嬉しいと喜んでみせた。これを使い続けるよう指示されているのだから、実質的にはお洒落の為の選択肢が一つ潰えたとも言い換えられる筈だが、彼女は至って無邪気にも目を輝かせていた。

 薬指の爪も、マニキュアの種類を変えて塗り始める。
「ふふ、素敵。真珠みたいな色ですね」
「錬金術の応用で作れますよ。発色に拘ろうと思うと難しいですが」
どれも同じような色味に揃えつつ、速乾性や剥がれ辛さを追及するのは、更に難しかった。それを全てクリアしたのは、アズールが半端物を渡すなど死んでも矜持が許さない完璧主義者だからだ。
「やっぱり、凄いじゃないですか。こんなに爪が綺麗だったの、初めてです」
監督生は批判にも容赦は無いが、それ以上に賛辞を送る事に躊躇いが無かった。忌々しい程に憎みきれない女だと、アズールは改めて感じた。心の凝り固まった部分に沁みていきそうな、人懐こさを恐ろしく思う。

 監督生は完璧な善人などとは到底呼べないが、彼女と多少の関わりを持った者なら、お人好しだの面倒見が良いだの、善良な要素の方を多く挙げてくるだろう。その人の良さは嘗て敵対した者が相手でも作用して、彼女はアズールの美点を幾つも拾いあげ、心の柔い部分を蝕もうとする。
 彼女を社会的に、或いは身体的に屈服させる手段は幾らでも思いつくというのに、アズールが彼女に敵う事は一生無いような気持ちにさせられる。何をしたら敵うのか分からない。加えて、敵対していない現状が糖蜜のように甘く、劣等感を暈してしまう。


 監督生の全ての爪を塗り終えた後、アズールは彼女の薬指の爪にを魔法薬を一滴垂らしてやった。
「今のは水中呼吸薬です。あなたも飲んだ事があるでしょう」
艶めく白色を湛えていた薬指の爪は、たちまち鮮やかな青に変った。透明感のある爽やかな青に、監督生の眼が煌く。
「ワッ、すごい。綺麗っ」
「薬に入っているケルピーの体液に反応するんです。あれは肺呼吸の生き物を水中で呼吸できるようにしますが、地上での呼吸を不可能にする猛毒でもあるので」
それを水場の無い所で不用意に口にしたら、待っているのは窒息死だ。そう脅せば、監督生は青色になった爪を反対の手で握り締め、コクコクと頷いた。
 その物騒な魔法薬を何の説明も無く渡したのは、嘗てのアズールだと忘れた訳でもあるまいに。

 そのリアクションがアズールの全能感を擽ったので、薬品を変えて他の指も実演してやった。
 指先が鮮やかに色を変えていく様は、大いに監督生を感嘆させた。凄い、綺麗、便利、分かり易い、頼もしい、と次々に賛辞の言葉が紡がれる。その反応の良さは、アズールの優越感を擽って止まなかった。
「どんな物体に爪が反応するかは隠した方が良いので、普段は手袋で隠しておきなさい」
こんなに面白いのに勿体無いですね、と監督生。けれど、あくまで自衛の手段だと弁えてはいるので、彼女は素直にアズールの指示に従った。彼女が庭弄り用の軍手と実験用のゴム手袋しか持っていなかったので、ラウンジの予備制服から一番小さなサイズを貸し出す事になったのは、全くの余談である。

.

 翌日、昼食後のアズールとフロイドは、監督生に遭遇した。
 特に用事は無かったが、フロイドが彼等に絡みに行ったのでアズールも同伴した。
 彼女は、空き教室で同級生のエース・トラッポラとグリムと菓子パンを齧っている最中だった。大抵の昼は大食堂に居る彼等にしては、珍しい行動だった。彼女は学園で一人になる事を極力避けているので、人目の多いところに紛れている事の方が多いのだ。
 しかし今日は、いつも彼等と一緒に居るデュース・スペードが教員に呼び出されているため、空き教室で昼を済ませつつ彼を待っているらしい。彼は、魔法薬学でへまをして、クルーウェルに絞られている最中だった。

 フロイドは、圧し掛かるようにエースの肩に肘を置いて、飴を噛み砕く。アズールは、そのフロイドの横に座った。
「イシダイ先生、今日チョー機嫌悪かったじゃん。サバちゃんご愁傷様」
クルーウェルの機嫌が悪いのは、朝からフロイドのクラスの授業があった所為だ。フロイドは混ぜるなと言った物を嬉々として混ぜ、鍋を禍々しい色の液体で溢れさせ、教室中を玉虫色の気体で満たして、防御呪文の間に合わなかった生徒五人を保健室送りにしたのだ。二年生の間ではとうに知れた話題だったが、そんな事情を知らないらしいエースはクルーウェルへの中傷に参戦した。課題が多いだの、授業が難しいだの、私語に厳しいだの、すぐに居眠りがバレるだの、聞いていて呆れる内容だ。
「お前、個人的に補習してもらってるんだろ? よく嫌にならないよね」
エースが監督生に話を振る。彼女は、この世界で暮らしていくには常識が足りなさ過ぎると、空きコマにクルーウェルの特別講義を入れられていた。
「オレ様も付き合ってられねーんだゾ」
 監督生がグリムを抱き上げ、頬を伸ばした。その手は、アズールが渡した手袋で覆われていた。
「言っておくけど、エースもグリムも自業自得で怒られる事が殆どだからね」
グリムが耳を伏せる。事実、彼女がクルーウェルに怒られるのは、無知を除けばこの問題児達の監督不行き届きが殆どだった。

 でもね、と彼女は薄い唇を尖らせた。罪悪感の滲む目を、そっと伏せて言葉を紡ぐ。
「先生の指示は明確だし、親切よ……でも、本当の事を言うと、私もちょっと苦手なの」
監督生は、声を潜めて打ち明けた。エースが口を歪ませて笑う。
 アズールは、彼女の苦手意識を意外に感じた。確かにクルーウェルの果てしなく上から見下ろしてくる精神性はいけ好かないが、彼の授業を不満に感じた事は無かったので。彼の講義は、実用的であり、評価基準も明確だった。寧ろアズールにしてみれば、好ましい部類だったのだ。
 目を見開いたアズールの様子を呵責と解釈したのか、彼女は言い訳を連ねる。
「その、子犬って呼ばれるの、変な感じするというか」
「あ、分かる。特殊性癖くさくね?」
教員の悪口を共有できて浮かれているエースが、楽しげにクルーウェルの口真似をしてみせた。この悪童ぶりだから、この男は子犬と呼ばれるより駄犬として叱られる方が多いのだ。
「……というか、先生が仰ると人間以下っぽい響きなのが、ちょっと」
彼女が口を濁す。割と本気で不愉快に思っているらしい顔だと、男達は悟った。
「満点取ろうが在校生は全員子犬呼ばわりですよ、あの男は」
「小エビちゃんは子犬じゃなくてエビなのにねぇ」
フロイドの大振りな手が、彼女の頭を雑に撫で回す。それこそ小さな生き物に対する扱いだった。
「もう。人間ですからね」
監督生はキャッキャと笑って、不愉快な顔をさっさと引っ込めた。

 けれどアズールの脳裏では、彼女を下等生物と罵った男の声が反芻されていた。
 魔法が使えずとも、常識に不足があろうと、彼女は気丈にやっている。けれどそれは、彼女が何も気にしていないからではない。生徒全員が受けている扱いにも秘かに傷付いてしまう程度には、彼女は気にしていた。そうならざるを得ない程度に、彼女を見下す視線が取り巻いていた。その事実は、何故かアズールの劣等感まで刺激する。
「昨年は獣人の生徒だけドギー呼ばわりする教員が居ましたが、レオナ・キングスカラーが彼の講義に出席して以降見なくなりましたね」
「あー、オレもあのセンセ嫌いだったわ」
とはいえ、生徒全員を分け隔てなく子犬呼ばわりするクルーウェルは教師を続けているので、特に慰めにはならない。しかし幸いな事に、話は他の教員の悪口へと流れていった。

 南向きの大きな硝子窓から太陽光が降り注ぐ空き教室は、換気の良い大食堂より麗らかだ。モーゼズ・トレインの話が冗長で眠たいという話題も、また冗長で眠たいものになりつつあった。
 飽いてきたフロイドが、ポケットを探る。
「そうだ、小エビちゃんにも飴あげる」
ずっと肘置きにされているエースが、オレには無いのかと抗議する。エースはフロイドと部活が一緒の所為か、ジェイドやアズールよりは彼に気を許しているようだった。もっとも、エースの不平は「は? 無いけど?」で一蹴されたが。

 監督生が、フロイドに手渡された飴のビニル包装を開く。
「エッ!? ひゃ、うわっ」
鼈甲色の飴が小さな蝙蝠に姿を変えて飛び出した。彼女の周りを飛び回って、悪戯に彼女の頬を突き回す。フロイドが渡したのは、その手の魔法が仕組まれたジョークグッズだ。
 フロイドとエースは、見事に仕掛けに引っ掛かった彼女を指差して笑った。
「お前、蝙蝠飴も知らなかったのかよ!」
「早く捕まえて食べなよ」
「た、食べられるんですか」
彼女はフロイドの指示通り飴を捕まえようと右往左往したが、グリムにも「お前、ドン臭ぇんだゾ」と笑われる始末だった。
 これでは日が暮れると呆れたアズールは、マジカルペンを軽く振って飴を撃ち落とした。皮膜を広げた姿勢で一時停止したままの蝙蝠の形で、漸く飴は彼女の掌に納まる。

 監督生は、蝙蝠まま硬直した飴を物珍し気に眺め、引っくり返したり光に翳したりした。そうして好奇心を満足させた後、手袋を取って小指から順に爪を押し当てた。
「購買でも売っている商品ですから問題は無いですよ」
彼女のマニキュアはアズールが塗った順のままだったようで、人差し指が橙色に変った。脳を犯す毒として知られるクエレブレの鱗など、毒竜由来の魔法物質は親指の塗料が黒く変色するように作った。彼女はそれを警戒して、明らかに魔法が仕込まれている物体でも検分したがった。だが、この場で爪の反応を見たがるのは、単純に爪の色が変るのが面白いという理由でしかないだろう。
 パールホワイトだった爪が夕日のような橙色に輝くのを見て、エースがスゲェとはしゃいだ。女のお洒落だの身嗜みには然して興味は無いらしいが、魔法の仕組みや変化の仕掛けには心躍らせる歳なのだ。

 監督生の爪を見たフロイドは「モストロで売んの?」とアズールに尋ねた。アズールは首を振る。広く売り出せば、多くの人間にマニキュアがどんな物体に反応するか知られる事になる。それは、どんな物体の使用を避ければ彼女のセキュリティを素通りできるかと、抜け穴を考えさせる余地になる。あくまで、彼女一人が密やかに使わねば意味が無い。
「なるほど。製作者のアズールだけが、あのマニキュアに検知されない毒を知っている訳ですか。彼女に一服盛りたければ、アズールを通せと。マニキュアを量産して売るより利益率が高そうで良いじゃないですか」
廊下側の窓から、ジェイドが覗いていた。挨拶代わりの邪悪な提案に、監督生は小エビの渾名に恥じぬ動きで退く。
「しませんよ」
「おや、どうしてでしょう。マッチポンプはお得意でしょう」
「リスクが高い」
ジェイドは薄らと唇を吊り上げて、アズールを手招きで呼んだ。手元には、プリントの束が用意されている。
 フロイドと下級生達に解散の挨拶をして、アズールは席を立った。

 ジェイドが寄越したプリントには、イグニハイド寮生のプロフィールが詳細に載っていた。
 本名と出席番号や所属寮と部活から始まり、健康診断の受信結果や、マジカメの裏アカウントの投稿履歴、最近の趣味まで仔細に綴られている。その情報量は、コピー用紙六枚に渡った。不平不満と劣情を支離滅裂に吐き出すマジカメの裏アカウントの投稿は、特に見るに耐えない。
 眉を顰めたアズールの顔を覗き、ジェイドは笑みを深めた。残虐を愉しむ愉悦の双眸が、うっそり細められた。
「今夜のラウンジは支配人不在だと伝えなくてはなりませんね」

.

 神殿をモチーフにした建築に近未来的にすら見える電子工学技術を組み込んだイグニハイド寮は、消灯時間前でも常に薄暗い。エレベーターの電灯や電子掲示板の青白い光が、廊下の光源となっていた。
 エンタシスの柱に背を預けたアズールは、通り過ぎていくイグニハイド生を値踏みするような眼で見送った。

 イグニハイド生は、オクタヴィネルの寮長たるアズールが他寮に来ている事に物珍し気な視線を送る者も居はしたが、基本的には視線を合わせぬよう俯きがちに擦れ違っていった。彼等は、アズールが三桁の生徒を奴隷に変えた男である事を忘れていない。アズールを視認した彼等が咄嗟にリーチ兄弟の影を探して視線を彷徨わせるのは、仕方の無い習性となっていた。
 大型船の影が陽を遮った時のような、畏怖と警戒の香りが立ち込めていた。

 エレベーターの到着を知らせる電子音が小気味よく響けば、アズールから逃げるように学生達がそれに乗り込んでいく。
 電子機器の駆動音だけが、静寂に色を添える。

 アズールの対面の電子掲示板がハックされ、髑髏のアイコンだけの画面に切り替わった。
「おや、イデアさん。ご心配なさらずとも、貴方の寮で揉め事を起こしたりはしませんよ」
イデアは人前に姿を表さない。けれど、学園中のあらゆる電子機器をハッキング出来る天才故に、学園中のあらゆる事を把握している。電子掲示板の髑髏アイコンからの返事は無い。
「ただ少し、僕の使い魔を回収しに来ただけなんです」
コポッと、泡の割れる音がした。無機質な寮舎が、生臭い磯の香りに満ちる。
「ハグノン・ペイン三年生は僕のレモラに好かれてしまったようで。少々お借りしても?」
レモラは、アズールが召喚し使役する魔物の一種だ。幾つもの強力な吸盤を持ち、船に張り付いては航海を妨げる事で知られる海の怪物である。レモラが好むのは、竜骨の破損する音、船乗りの焦燥、人々の混乱と悲鳴、無様に垂れ流される糞尿。更に彼が躾けた個体は、これらに加えてアズールの歌声と、モストロ・ラウンジの廃棄食料と、アズールの憎悪する生き物がお気に入りだった。ペインがどれに該当するかは、言うまでもない。イデアは陰鬱と陰気を交配させたような深い溜め息を吐いた後、短く返事をした。
『――いいよ』
「ありがとうございます。今度お好きなゲームに付き合います」
電光掲示板の髑髏が消え、一瞬の暗転の後に、元の掲示に戻った。
 その遣り取りの様子を、ペインは青褪めた顔で見ていた。彼はアズールから距離を取り、有象無象のイグニハイド生達と共にエレベーターに乗った筈だった。けれど、大理石の床に脚が縫い止められたまま、エレベーターホールから動けなかったのだ。まるで脚に重石がついているかのように、長大な生き物に絡み付かれているかのように。

 エレベーターに置き去りにされ、イデアに見捨てられ、彼はアズールと二人きり。
 アズールと目が合う。彼は確かに、ペインをフルネームで呼んでいた。
イグニハイドの薄暗い廊下で、コポッコポッと泡が生まれては割れる音が耳を擽る。磯と潮の臭いが鼻に衝く。ペインの足元で、生き物の這いずる音がしていた。


 「ごヴべべブボぼぼボッ」
ペインは、バスタブに身体を沈ませた。バスタブに張られた水を飲まされて、窒息寸前で引き上げられるのを、もう幾度も繰り返している。藻掻いても、彼の身体に纏わり付く滑る「何か」が彼の四肢を抑えて抵抗を許さなかった。アズールはそれを、レモラと呼んでいた。

 ペインは、イグニハイド寮舎からアズールに拉致された。
 しかし、自身が何処に連れて行かれたかはまるで把握できてはいなかった。ただバスタブとパイプ椅子があるだけの薄暗いタイル張りの部屋に飛ばされ、水責めに遇っている。
 壁面は全面が水槽で、ケルプの森が広がっていた。しかし、オクタヴィネル寮にそのような風景が望める場所も無い。ペインも大魔法士を目指して三年間カレッジに身を置いているので、空間の殆どは幻覚だと察しは付いていた。本当はイグニハイドの空き部屋かもしれないし、アズールの私室の風呂場かもしれない。あるいは、実は屋外で、リーチ兄弟も一緒になってペインが溺れる様子を見学しているのかもしれない。パイプ椅子に座ってペインを睥睨するアズールは、彼に殆ど何も情報を与えはしなかった。与えるのは、苦痛だけだ。
 痛覚だけは、確実に幻覚ではなかった。鼻や口から滴る水が、呼吸を妨げて肺を軋ませる。その苦しさも痛みも、現実としてペインを蝕んだ。腕や首にずるりと巻き付いた生臭いものが、また彼の頭を押さえて水面へと近付ける。
 それをどうにか引き剥がそうと格闘もしたが、滑って掴めない上、皮膚に張り付いた器官が強力にくっついて離れなかった。無理に引っ張ると、顔の皮ごと引き千切られそうな吸着力だった。彼に出来る唯一の抵抗は、水に呼吸器が浸かる直前まで精一杯空気を吸う事だけだ。
「ゴポッオゲッ、ひ、げほっげふっ、ど、どどど、どうして、がばッヴばばぼぼッ」

 鰓呼吸の出来ない生き物が、水面から顔を上げる度に無様な呼吸を繰り返す。鼻から入った水が、喉の奥に伝って咳を誘発する。その様子を無感動に見詰めていたアズールだが、それも飽いてきて手元のプリントに視線を落とした。ジェイドが一晩で纏めてきた、ペインのプロフィール資料だ。
 ハグノン・ペイン、イグニハイド寮三年生。映画研究会所属。輝石の国出身だが、母親の生まれは嘆きの島で、毎年ホリデーには必ず島に行く。六歳の夏に、嘆きの島の海岸で漂流物に脚を絡め取られて溺れた経験があり、以来、水泳と昆布が苦手。得意科目は魔法分析学。特技は機械工学。イデア・シュラウドを尊敬しているが、未だに会話した事がない。人見知りで、妄想癖。マザコン気味の内弁慶。優しくされるとすぐに付け上がる。内向的な性格と男子校生活が災いして、女性への免疫が極めて少ない。緊張すると吃音が激しく、毎晩それを自己嫌悪してマジカメの裏アカウントに自虐を綴っている――資料の一枚目から、ずっとこの調子である。卑屈で消極的だが強欲、という印象を受けた。彼を一言で言うなら、典型的な「可哀想な人」。

 アズールは、再び無様な男に視線を戻した。
「ボゲエッごぱっ、どどど、どうじでっアアアズールぐんっ」
勤勉の精神に基く寮生として、ペインはアズールの契約や相談に頼らず過ごしていた。だというのに、契約違反者達と同等かそれ以上に苛烈な仕打ちを受け、理不尽さに泣き濡れていた。既に鼻水も唾液も溶けたバスタブに、涙も混じっていく。幸いにも、身体の何処も彼処も水浸しの彼が泣いたところで、目立つのは洟を啜る音くらいだ。しかし、やはり小汚い様相には変らない。アズールは、水飛沫が革靴に掛からないよう、脚をバスタブから遠ざけるようにして座り直した。
「うちのラウンジの更衣室から、過剰包装の盗聴器が見付かったもので。警告してさしあげようかと」
冬の海を思わせるアズールの凍てた瞳が、静かに男を見下ろした。
「魔法でも機械でも、使用者に相応のリテラシーが無いなら、使わない方がよろしい」
アズールは、胸ポケットから表面に焼けた跡のある麻雀牌程の大きさの金属を、彼に投げて寄越した。自由の利かない四肢ではキャッチする事も叶わず、それはバスタブの底に沈んでいった。だが男にとって、その小物は充分に見覚えがあるものだった。監督生に魔法の掛かったテディベアを贈ったのも、その腹に盗聴器を仕込んだのも、彼だからだ。
「あああ、ああ。二度と、ラウンジには、オクタヴィネルには仕込まない、改める、ゆ、ゆゆるしてくれ」
アズールの声が聞えてきた時は少々不味いとは思ったが、テディベアが侵入したのは更衣室だ。唯一の女子たる監督生の一人部屋となっている為に、会話は一切無く、ラウンジの業務情報が漏れ聞える事もない場所だ。
「ここ今回だって、な何も聞いちゃいない。僕のパソコンを確かめてくれでぼぼボボボッ」
アズールは、彼が喋っている途中で水に突っ込ませた。
「勿論、調査済みですよ」
ペインがベアを通して聞いたのは、衣擦れの音と、監督生の小さな悲鳴と荒い呼吸音だけ。それはアズールの予想の範疇であったし、既にペインのパソコンは押収されて実際の音声データも確認済だった。恐怖で息を詰まらせ、上手く動かない横隔膜によって喘ぐような短く小さな声が断続的に続く。ただそれだけの聴覚情報だった。
 だがそれは、助けを呼ぶ事を選ばず自ら鋏を取ったあの女が、隠そうと努めている姿だ。他人が無闇にそれを暴き立てる事に、アズールは反吐が出そうだった。アズールは、彼女を下等な生き物だなどと決して認めてはいない。まして、この無様な男が己を負かした女の脅威になるなど、あってはならない事だった。

 アズールが、レモラの名を呼ぶ。すると、それは視認できる体色に変化し、全貌を現した。
 レモラは、烏賊と蟹を折衷したような外見をしている。二本の長い触腕の先端に鋏が付いている事と、硬い甲殻を持ち合わせている事以外は、ほぼ烏賊の特徴を備えていた。二本の長い触腕と八本の脚に並ぶ吸盤は非常に強く、体色と偏光を自在に変える体表は巧妙な擬態を可能にしている。殊にその擬態は今回、ペインを穏便に誘拐するのに存分に役立った。魔法動物の擬態は、ただの動物の擬態とは段違いである。
「は、ひ」
水から顔を引き抜かれたペインは、レモラの姿に絶句した。彼に絡んでいた部分など、ほんの末端だったと分かってしまったからだ。身体を本来の赤茶けた色に戻したそれは、バスタブの外にも身体が大きくはみ出ている事がよく分かった。
 吸盤の生えた四本脚の先端で彼を撫で回し、押さえ付け、また水を吸わせては引き上げる。この生き物は頭が良い。緩急を付けて動作を予測し難くさせるなどといった、恐怖を持続させる術を心得ている。
 ペインは暴れるが、やはりレモラは微動だにしない。バスタブが傾かないのも、レモラが別の脚を四本使って支えているからだ。鋏の付いた触腕は未だ待機中で、お利口にアズールの指示を待っている。

 アズールは、脚を組み替えた。そして、レモラの眼前にプリントを一枚落としてやった。そこには、ペインの母親の顔写真がカラー印刷されていた。その印刷を模して、レモラは甲殻にペインの母親の顔を浮き上がらせる。
 ペインが大好きな母親の顔を見る度、この日の痛みと己の愚かさを思い出せるようにというアズールの気遣いだった。
「彼女に動くテディベアを贈って何がしたかったのか、聞かせてもらっても?」
母親の顔を携えたレモラの脚を首に絡められたペインは、ヒィッと短い悲鳴をあげた。
「アアアズールぐんにばっ、めいわくがげないっがらっ」
「僕は何がしたかったのかと聞いているんですが」
レモラが、男の身体に回した脚を絞め上げる。一番下の肋骨が圧し折れる音がした。首に回った脚が締まれば、縊られる鶏のような悲鳴があがった。
 もっとも、アズールの問い掛けの答えならば、彼のマジカメの裏アカウントに八割方載ってはいた。けれど時には、喋らせるのも必要だった。そうしなくては、この男はただラウンジの盗聴だけを悔いるだろうから。

 拘束を緩めてやれば、ペインは泣きながら喋った。頭の悪い途切れ途切れの文章を、酷い吃音を交えて紡いだ。
 監督生と彼は、飛行術の補習で知り合い、数回口を聞いただけの仲だった。だが、この男の女性に優しくされると勘違いを起こすコミュニケーション不良が災いして、監督生に劣情を抱くようになったらしい。彼が映画研究会に所属しているという事で話題を合わせた監督生は、元の世界の映画について話した事があった。その中に、チャイルド・プレイと呼ばれるホラー映画があった。殺人鬼の魂が入った人形であるチャッキーが、生身の人間の身体を乗っ取るべく人を殺していく話だ。彼がそれに心を惹かれたのは、チャッキーの正体に気付いた少年が周囲の人間に危険を知らせても、全く取り合ってもらえずに孤立していくくだりだった。
 彼は、監督生をテディベアのチャッキーで脅かしたかったのだ。この世界でチャッキーについて知っているのは、監督生と彼だけだ。周りは、単純な魔法がかかっているだけの綿と布の塊など、恐れはしない。監督生は孤立するだろう。人脈は、魔法の使えない彼女の生命線だ。彼女の恐怖に寄り添えるのは、チャッキーについて話した事があるペインだけ。彼女が自分を頼る。それを慰め、涙を拭いてやる。ペインにとって、それは酷く甘やかな妄想だった。
 実際、その卑劣と陰険を反吐で煮詰めたようなマッチポンプは、監督生を脅かすという点では成功していたし、誰もテディベアを脅威に思う彼女に共感しなかった件も彼の思惑通りだった。

 アズールは、海溝より深い溜息を吐いた。
 アズールの思考は、嫌悪と憎悪で混ぜ返されていた。とりあえずレモラに男を好きにして良いと許しを出してやったが、イグニハイドへ穏便に寮生を返せない事をイデアにどう詫びるかを考え損ねていた。

 幻影の水槽で、ケルプが踊る。
 ペインは、レモラの鋏で耳を削がれ、汚い悲鳴をあげていた。彼が暴れる度、水の音が派手に響く。
 レモラの鋏は、糸切り鋏に形がよく似ている。監督生は恐怖に震える手で幾度もテディベアを刺していたが、レモラは鋏の扱いを違えない。簡単に死にはしない箇所から、緩慢に切り刻む事をただ愉しんでいた。
 アズールは彼を睥睨して、口癖のように「可哀想な人」と呟いた。彼女にの朗らかさにあてられ、絆された惨めな男。自分だけが彼女の力になれる状況を夢見て、下手な姦計を巡らせた無様な男。
 この世で最も軽侮すべき生き物だと思った。腸が瞋恚で煮え繰り返る。

 そしてアズールは、確信を得た。
 アズール自身もまた、彼女に恋をしていると。


 二度と同じ土俵で戦う事は無かろうと悟っているのに、彼女にばかり目が行ってしまう。その理由に、今更ながら合点がいった。
 彼女の強かさに膝を折ったアズールは、今や彼女の一挙手一投足で劣等感すら甘く蕩かされてしまう。
 敵意すら萎んでいるというのに、彼女を優越する存在でありたいと考えてしまうのは、ただの本能だった。好いた女に己が優秀な雄だと認めさせたい、当たり前の衝動と執着だった。

 アズールは、彼女の小さな手を取った時の緊張を反芻した。
 己が誂えたマニキュアを塗り込めた時に感じた支配欲の充足を振り返る。そこには確かに、下心があった気がする。あのマニキュアは、毒と美に彩られた価値観を持つポムフィオーレ寮生達には売れるであろう自信があった。それでもなお、商売の気が起きないのは、独占欲の現われだ。ジェイドの言うマッチポンプなど、絶対にする気は無い。他人があの女に邪な目を向けていると考えただけで、気が狂いそうだった。

 主人の情緒の変化を悟ったレモラが、ペインの両腕を纏めて圧し折った。既にバスタブの中の水は真赤になっていたが、最早アズールの知った事ではなかった。
 幻影の水槽が揺らぎ、ケルプの森にノイズが走る。
 ペインは痛みのあまり嘔吐した。そういった物を好物とするレモラの脚が、吐瀉物を求めて彼の喉を探る。窒息感と食道粘膜が傷付けられる男の呻きは、アズールに届かない。
 ただアズールは、盗聴によって記録された監督生の悲鳴について思い出していた。
 衣擦れの音と、恐怖で息を詰まらせる潰れた音、小さな悲鳴、荒い呼吸音。上手く動かない横隔膜によって、短く喘ぐような小さな吐息が断続的に続くだけの音声データ。アズールの優秀極まる海馬は、幾度もそれを再生していた。

 アズールは、彼女を下等生物などと軽侮する連中を許しはしない。
 どれだけ不利なカードを揃えられても、けして屈さず前を見ているしなやかさに、アズールは敬意を抱いている。
 けれど、彼女が見せる弱い生き物らしさに劣情を催していた事もまた、事実だった。
 例えば、指の細さ、爪の薄さ。革張りのソファに所在無く収まる小さな身体。駄菓子の蝙蝠も捕まえられない運動神経。愛想良い振る舞いを心がける彼女が、人の何気ない言動に苦手意識を持つ瞬間。嘗ては彼女が完璧でない事を実感する度、これに負けたのかと苛立ちが込み上げたというのに。今は愛しさが勝る。この女はアズール以外の脅威に晒されずに生きるべきだとすら思っていた。
 
 とどのつまり、アズールは、目の前の男と同じ種の性欲を持っていた。
 優しい言葉をかけられて、絆されて、あの女に手を差し伸べる快感を夢想する馬鹿な男。アズールが彼を熱烈に憎むのも、結局は同じ穴の狢に対する嫌悪だった。
 憎悪と劣情が混線して、自己嫌悪を生成する。


 思案にかまけたアズールは、手にしていたプリントを取り落とした。
 足元で不恰好に広がるプリントが視界に入っても、アズールはそれを拾う気にもなれない。床に散らばったプリントを、赤味がかった水飛沫が汚していく様をただ見ていた。
 タイルの床に、千切られたペインの指が転がっていった。

.

 来たるウィンターホリデー。
 多くの生徒が帰省し、課題の多さに苦しみつつも、家族の団欒や旅行などで楽しい思い出を作る中、とうに課題を終えたアズールは私室のデスクに突っ伏していた。
『おや〜? まさか監督生氏いらっしゃらなかった? 脈ナシどころかマイマスでは?』
ふひひっと特徴的な笑い声。デスク中央に置いたノートパソコンから、イデアの愉快さを隠さない音声が伝達された。

 ペインは厳重に口止めした後に、魔法薬を濫用して手足をくっ付けてから医務室に送り込んだ。現在は車椅子に乗れば帰省も可能という程度に回復したが、母親の顔を見たくないという理由で学園に残っているらしい。だが、アズールが彼を攫った瞬間の目撃者でありイグニハイド寮長のイデアには、多少の説明が必要だった。
 結果、イデアは倫理観の薄い男であったのでペインの件は追及しない事を約束してくれたが、アズールが監督生に懸想している事を知られてしまった。
 リア充なる恋愛強者を嫌うイデアだが、一方的で惨めな劣情を持て余す卑屈な愚痴となれば話は別だ。まして相手は、同じ部のアズール。ボードゲームを介して僅かながらに育んだ友情があった。そして何より、普段から高慢ちきなまでに自信たっぷりな態度で優秀さをひけらかす男が、魔法も使えない少女の一挙手一投足で情緒をおかしくさせるのだから、面白いコンテンツにならない訳がなかった。
『てか、アズール氏が直接誘えばよかったのに』
アズールは、リーチ兄弟を買収してウィンターホリデーにオクタヴィネルに遊びに来るよう誘わせた。けれど一向に音沙汰は無かった。
「僕が誘ったらパワハラでしょう。僕は雇用者ですよ」
リーチ兄弟も職場の副支配人と現場監督を務める訳だが、アズールが直接誘うよりは幾分か体裁が良い。アズールの下心に気付かれて、気不味くなるなるリスクも無い。実のところ、後者のリスクに日和っただけでもあるが。

 アズールには、秀才の自負がある。頭は切れるし、魔力も強いし、そこらの同年代より自由になる金と使えるコネが圧倒的に多い。客観的に見て雄として優秀だと結論付けるには充分な要素があった。しかし、それがその他大勢を上回る好感度を築く材料足り得るかと言えば、アズールには自信が無かった。
 学業ではリドル・ローズハートに劣り、財力ではカリム・アルアジームに劣り、権力ではマレウス・ドラコニアやレオナ・キングスカラーに遠く及ばない。体力に関しては、比較対象を作るまでもない。接触回数や共感といった観点では、グリムと同級生が群を抜いていた。次点で同学年のジャック・ハウルが来るだろうか。いずれにせよ、アズールは論外だ。業務分掌上の事情もあるが、恐らくはリーチ兄弟の方がまだ親しい筈だ。
 彼女の中でアズール・アーシェングロットが何者なのか。雇用者という肩書きを省いたら、何が残るのか。そのあまりに頼りない関係性を進展させるのが先決だった。
 雇用者ではなく、グズでノロマなタコ野郎でもない己を開示する手段が欲しいのだ。
『ま、ホリデーまで職場に来たいかっつったら否ですわな。つか何するつもりだったんでつか。ホムパ? これだから陽キャは』
イデアがノンブレスで陽キャの悪口を言い始めるのを、アズールは聞き流した。アズールは社交的な装いを習得しているが、根本的には陽気さとは遠い男なので、然してダメージは無かった。寧ろオクタヴィネル寮舎を職場と称される方が心に刺さった。
「タコパだろうが映画鑑賞だろうが星巡りだろうが用意はあります」
 享楽の共有は共感と親近感を増幅させる。よってホームパーティ。本当ならストレスを共有した方が早いが、リスクが高いのでそちらは棄却した。何より、アズールは弱っている彼女を前にして格好を付けていられる程度の平静を保つ自信が無かったので。

 タコパだと共食いではござらんか、とイデアが人魚の倫理観を疑う。タコパはフロイドの案で、映画鑑賞はジェイドの案だった。二人がまともなアイデアを出したのはこれきりで、後は面倒臭そうに「ヤっちゃえば?」とか「ストックホルム症候群にでも期待してみては?」とか論外かつ物騒な案しか出さなくなった。つまるところ、アズールに残されたライフラインはイデアだけなのだった。イデアは陰キャを自称する対人スキルがマイナス値に振りきった輩だが、客観性を失いがちな今のアズールには必要だった。
「最有力プランは、ゲストルーム一面に星空を展開しての星巡りです。実際に飛ばなくて良いし、彼女、地学は好きなようですから」
そのノリ無理っすわ〜、とイデアは蕁麻疹でも発症したような声音を出すが、代案が無いようなので話は続く。アズールは、プレアデス星団に分け入ったりアルデバランの橙の光に照らされたりしなから一曲踊れるよう、秘かにラウンジのピアノを自動演奏が可能な物に買い換えていた。彼女が占星術でアルデバランを幸運の兆しの星として習った事も、勿論把握した上で検討した。
『ま、箒で飛ばないっての重要ですな。氏の場合、箒に跨るよりその場で跳躍した方が星に近そうですし』
「あなたが言います?」
『だってアズール氏が空飛ぶのって、魔法の絨毯でもなきゃ無理ですぞ。ひっくり返ってたじゃん、この前』
飛行術においてどんぐりの背比べにも似た底辺争いに興じる二人が、苛立ち交じりに言い争う。
 次第に主題から脱線していくが、端からイデアにはアズールを真っ当に応援してやる程の人情も無ければ、恋愛至上主義者でもないので、仕方の無い展開ではあった。

 隣室のリーチ兄弟が煩いと壁を蹴るまで、無為な雑談は続いた。
「明日こそ、明日こそ彼女は来ます。報告を楽しみにしていなさい」
負け惜しみのような口調で、アズールは通話を切った。


 その翌日の夜、イデアは心底楽しく報告を聞いた。
『フラグ回収お疲れさまでーす』
監督生がオクタヴィネルを訪ねなかったからだ。
『だから言ったでしょ脈ナシって。女の子の行けたら行きますは絶対来ないし、また連絡しますの後に待ってるのは着拒だし、優しいねって賛辞はタイプじゃありませんの言い替えだって。拙者もシロアリ駆除業者にしか繋がらないアドレス貰って泣いた事あるし。元気出してアズール氏』
「あなたアドレスとか聞くタイプじゃないでしょう……そもそも彼女は連絡手段を持ってないんです。逼迫した方なので」
今時スマホ持ってないのは信憑性に欠ける、とイデアが鼻で笑う。
『さっき防犯カメラチェックしたけど、監督生氏ならホリデー初日からスカラビアに滞在してるっぽいでござるよ。あっちは寮生全員が残ってるみたいだし、スカラビアの方が楽しいんじゃない?』
彼の観測では、ジャミルと鏡の間に行って以来、彼女は自身の寮にすら帰ってきていないらしい。
 アズールは絶句した。
『もう魔法の絨毯で星間飛行しちゃったんじゃない? 星がダイヤモンドみたいとか言っちゃったりして。高所で風に煽られて、吊橋効果でドキドキしちゃったりして』
イデアは、人の不幸を蜜のように噛み締めていた。生意気で物騒で可愛気の無い後輩が、今はとても可愛かった。
「あのボロ雑巾に先を越されるなんて」
アズールは、搾り出すような声で呻いた。
『国宝ですぞ』
「所詮レプリカです」
君だって見せようとした星々は偽物だ、とイデア。

 遣る瀬無さで、アズールは萎々とデスクに突っ伏した。
「……僕は、彼女にいいところを見せなきゃいけないのに」

 嘗て、アズールは彼女に対して失敗した。
 オーバーブロットの醜態の事ではない。あれも恥だが、あくまでアズールの問題で、彼女が傷付く事ではなかった。
 アズールの後悔は、彼女が暴漢との遭遇にショックを受けていた夜の事だ。あの日、アズールは打ちひしがれる彼女に「癪に障る」と吐き捨てた。彼女への愛着を自覚していなかった事を差し引いても、あまりに粗末だった。紳士としての振る舞いを習得している筈のアズール・アーシェングロットにとって、明らかなエラーだった。
 あの女がたかが他人に傷付けられている事が許せない、ただそれだけの情動を自制できなかった。
 彼女がそれを何処まで気に病んだかは分からないが、共感と信頼を得る機会を失った事だけは確かだった。
 アズールはその失点を挽回する機会をずっと欲していたのだ。

 アズールの落ち込みように、流石のイデアも煽り過ぎた事を自覚した。
 しかし煽る語彙もネットスラングも豊富だが、イデアは慰めだとか励ましの言葉に関しては疎かった。アーとかウーとか、無力な鳴き声を漏らした。
 挙句、やっと捻り出した慰めの言葉は、オクタヴィネル寮舎に響く轟音に掻き消された。


 轟音はモストロ・ラウンジの方から聞えた。
 悩める子羊の顔から支配人兼寮長の顔に切り替えたアズールは、すぐさま帽子を被って部屋を出た。その数歩先を、リーチ兄弟が駆けていた。
「ふな゛ぁああ…………」
カウンター席を薙ぎ倒し、シャンデリアを落とし、それはラウンジの床に無様に転がった。

 ジェイドがラウンジの電灯を付けた。
 床に転がっていたのは、監督生とグリムと、カリムが所有する筈の魔法の絨毯だった。
 彼女等は、呆然とリーチ兄弟を見上げ、所在地を確認した後「牢獄から脱出した」と安堵の表情を浮かべた。オクタヴィネルの誰もが状況を飲み込めていないが、恐らくは彼女達も混乱から脱却しきれていないのだろう、目先の事に精一杯でアズールの存在にすら気付いていないようだった。
「もう逃げられないぞ、盗人どもめ!」
仔細な状況を確認する間もなく、スカラビアの寮服を纏った男達がラウンジに駆け込んでくる。
「大人しくお縄につけ!」
この状況で分かるのは、スカラビアで騒動があった事と、恐らくは騒動の中心か近い位置に監督生がいた事、牢獄のような場所に入れられていた事、魔法の絨毯を合法的に所持している訳ではなさそうだという事くらいだ。
 盗人だから牢獄に入れられたのか、牢獄から脱出するのに魔法の絨毯を持ち出したから盗人なのか、それはアズールには判別し難い。ただ、アズールの寮長でも支配人でもない部分が「星間飛行したのかのかもしれない」と、場違いな苛立ちを見せていた。

 アズールは、オクタヴィネル寮長らしい顔を作ってから、声を張った。
「君たち、こんな深夜に一体なんの騒ぎです?」
アズールはできる限り紳士らしい所作で、監督生とスカラビア生の間に割って入った。

 監督生は床に伏したまま、唇を固く引き結んでグリムを掻き抱いた。その手に手袋は無かった。指先は土と埃に汚れ、マニキュアを塗ってやった爪が欠けている。彼女はアズールを見上げたが、縋るのを躊躇った。
 スカラビア生は、オクタヴィネルには関係が無い事だと反発する。
 そのどれもが、アズールの神経を逆撫でした。
「よく見れば、床に転がって震えているのは監督生さんとグリムさんじゃありませんか」
芝居がかった所作で、監督生とグリムを一瞥する。監督生は僅かに顎を引いてぎこちない会釈のような動きをした。その時、胸ポケットにスマホが入っているのが見えた。
「あまりに小汚いので、雑巾かと思いましたよ」

 アズールは、この女の懸命さを愛していた。冷静さと慎重さを評価している。蛮勇に近い勇気を失いたくないと思っている。けれど、たった今この女が自身に縋らなかった事が堪らなく腹立たしかった。
 追い立てられて無様に震える様子を晒す彼女が堪らなく憎かった。

 アズールはさも正当であるかのような口振りで、スカラビア生を甚振った。
 紳士の社交場を、野蛮極まる圧倒的な暴力が支配した。
 アズールのそれは半ば八つ当たりにも近い暴力であったが、こういう時は地力の差を強く示しておくべきだと理解していた。
 彼女が持ち得ない強大な魔法の力で、相手を次々に無力化していく。誰よりも優れた生き物である事を証明するように、時に残虐に、時に冷酷に力を行使した。
 これで、スカラビアにはオクタヴィネルの一部が彼女の側に付いたと思われただろう。遅かれ早かれ、彼女はアズール達と共闘する事になる。

 アズールは、穏やかで楽しいホリデーを共有するプランを脇に捨てた。
 厚い面の皮の下で、劣情が蠢く。享楽の共有する相手より、ストレスを共有した相手の方が関係性の構築は早いのだ。そんな心理学的な知識と打算がアズールの背中を押していた。
 

 幾度も夢想した、この女に手を差し伸べる快感がすぐそこにあった。



back
top
[bookmark]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -