非合理的恋愛讃歌 後

 翌朝、エースのスマホに通知があった。
 昨日に面接を担当した人事からだった。部署の発表と事前研修の日付と共に、理想的な条件が部面が並んでいた。デュースを叩き起こして、歓びを分かち合った。後輩が「何故同じ布団で寝ているのか」という眼を向けてくるのも、エースにとっては最早些事だった。
 人間というものは現金で、自身に余裕があって機嫌が良いと、他人の世話を焼く仏心も生まれてくる。エースは、監督生を慰めに行ってやるべきではなかろうかと思った。一飯の恩がありながら、悪いままオンボロ寮を出てしまった事も気にかかる。
 傷心には自棄食いが効くと見越して、エースは購買でチェリーパイをホールで購入した。

 そして、オンボロ寮へ行く途中、植物園と分岐する道でグリムとぶつかった。
「行かねえ方が良いんだゾ。痴情の縺れってヤツだ」
オンボロ寮から退避してきたであろう彼は、近場のベンチに腰を下ろした。三叉の尻尾が不機嫌に揺れている。まだ、一時間目の予鈴すら鳴っていない時間だ。痴情という単語が余りにも似合わない青空を見上げて、グリムは欠伸を放った。
「アズールの野郎、早朝から押しかけてきやがったんだゾ」
「あの人、見合いがあるんじゃねーの」
「知らねえ。ジェイドがどうとか変身薬がどうとか言ってた気がするが、オレ様を抓み出しやがったヤツの事情なんて興味ねえんだゾ」
「変身薬で他人に成りすますのって違法なんだけど」
知らねえ、とグリムが声を荒げる。だがエースは、アズールが見合いの場ではなく、監督生のところに現れた事実に安堵を覚えていた。
 植物園に、白衣の後輩達が列を成して入っていく。その白い背中が見えなくなった辺りで、予鈴が鳴った。グラウンドからは、バルガスがホイッスルで生徒に号令をかける音が聞えていた。

 エースは、グリムの隣に腰を下ろした。
「グリムは就職どうすんの」
内定が二件、と我儘で奔放だった獣からは想像し難いしっかりとした返答があった。グリムの大きな耳の中で、蒼い炎が静かに燃えていた。
「本命は狩猟魔法士なんだゾ。子分がジビエも悪くねえっつーからな」
「結局食い気か」
エースは喉の奥で笑った。だが、獣の鼻の良さは、確かに狩猟には適性と言えた。お前が狩られる側になるんじゃねえの、と揶揄すれば、声変わりを知らない声が反論に喚く。成長していく同期に、変らない部分を見つけて嬉しがるのは、最高学年特有の感傷だった。
「子分がカフェやりたいっつーから、良い肉を降ろしてやりてーんだゾ。オレ様は親分だからな」
「あー……、お前が一番男前だよ。チェリーパイ食う?」
彼女の過ぎた献身に遣る瀬無さを感じていた原因を悟って、エースはグリムの頭を鷲掴むように撫で回した。監督生は報われる事を想定していないが、彼女が健全な方向性でを気にかける存在は存外多いのだ。グリムもエースもそうだ。

 エースはいつか、理想の結婚相手を一緒に泣いたり笑ったりできて、どんなに辛い時でも一緒に頑張れる者だと定義した事がある。アズールはどうだろうか。在学中の青い春で、泣き顔も笑顔も晒し合った彼女の手を取らなかったら、他に誰の手を取るというのだろう。
「なんでアイツあんなに自己評価低いかね」
 エースとグリムは備えつけのフォークでパイを二分割した。しかし途中で面倒になって、後は手で掴んだ。男子校の中なので、多少の行儀の悪さはいつもの事だ。
 エースの指が、柔らかさと香ばしさを備えたパイ生地に沈み込む。
「やっぱオレ様みてえな大天才といると参っちまうのかもしれねえんだゾ」
グリムの猫や狸とは異なる細く鋭い歯ばかりが揃った口が、パイを咀嚼する
「じゃあオレの所為だわ。オレが優秀過ぎたから」
。二人はベンチにカスを溢しながら、揉めているであろうオンボロ寮を見詰めていた。気にはなるが、心配とは少し異なる感慨だった。グリムもエースも、アズールと監督生の一番酷い騒動は一年次で見ているので、それ以上はなかろうという達観があった。
 エースには、二人が対面したからには納まるところに収まるであろうという確信もあった。
 いくらアズールが優秀で尊大とはいえ、好きでもない人間の一生を背負うほど出来た人間ではない事を察していたからだ。彼は商人だ。支配人ではあるが、統治者ではない。そんな器の男が、ただ一人の人間に支配者として扱われる事に合意出来るのは、単に彼女が特別だからだ。難しい言葉を並べ立てて筋道立てて理屈を作るよりも、好意が道理を蹴り飛ばしてしまう事もあると、あの石頭達は知るべきだとすら思う。

.

 グリムの申告通り、早朝のオンボロ寮は揉めていた。
 訪ねてきたアズールに、監督生は青褪めたまま、暫し絶句していた。
 それはもう、心底驚いていた。未だ昨夜の残りを朝食として再加熱している最中の、非常識な時間だったからだ。今日がアズールとって商談と同義の見合いがある日だと知っていたから。アズールが額に青筋を浮かべていて、非常に険悪な人相だったから。
「ジェイドに預けた伝言、聞かせていただきましたとも」
オクタヴィネルの寮長だった時分から愛用している蛸のグロテスク彫刻で飾られたステッキが、威圧的に床を打つ。

 アズールは、彼女と契約したときからずっとその気でいたのだ。
 アズールとて、生半可な覚悟と執着で契約したわけではない。互いの好意に基いて、人生の全てを捧げる取引をしたのだ。伴侶と同義である筈だった。
 彼女とは、卒業後の仕事や生活まで話し合っているつもりでいた。しかし前提条件の認識齟齬で、ただの仕事の企画として扱われていたと知って酷くショックを受けた。
「私への引け目があるというのならお気になさらず? ふざけているんですか、あなた」
契約の穴をついて相手の願いを阻むのは珊瑚の海で暮らしていた時からの十八番だが、それをいざ自身がやられたとなると、腸が煮えくり返る思いだった。

 監督生が身を竦ませる。アズールに怒られる経験自体が初めてだった。
 彼女はアズールの忠実なる従業員として、それはもう従順だった。やる気があったし、気も利いたし、イソギンチャクの四倍は働いた。彼に褒められる為なら、どんな苦労も努力も惜しまなかった。今回とて、アズールの更なる栄華を第一に考えていた。
「いいえ。私はいつだって支配人の為に動きます」
監督生は、スカートの裾を握り込んで泣き出したいのを抑えて、震える声で弁明した。
「――どうだか。少なくとも、あなたがふざけた伝言を託さなければ、僕がジェイドに変身薬を飲ませてベネッサ・キャンベルの相手をさせるなどというハイリスクな時間の作り方はせずに済んだ」
監督生が喉から引き攣った音を出し、両手で口を押さえた。穏便だとか、人の機嫌を取るとか、そういったミッションにリーチ兄弟の起用は最悪の選択だ。だが、電話一本で断れる話でもない上、変身薬での成りすましは違法である以上、使える人材は限られた。
 重要な用件を土壇場の電話一本で断る無礼者として信用を失うか、アズールに化けたジェイドに肖像権を玩ばれて弄り倒されるか。どちらも耐え難い選択だった。今回は、アズールの尊厳を一つ棄てて社会的信用を取ったと言えよう。
「だがあの愉快犯がどれだけ好き勝手しようが知った事か。あなたが僕の貞節を軽んじている方が余程大事だ。キャンベルの方が有益だからそちらと番えと? 冗談じゃないぞ」
アズールの怒りは収まらない。冷静沈着な凍てた海を思わせる眼が、今や瞳が収縮して水平方向のスリットとなっていた。海の底に棲まう者の瞳だ。
「教えてあげましょう、美貌なんてものはね、加齢に伴って目減りする資産です。結婚なんて長期資産化に考慮すべきものじゃない。親のコネが何です。僕にだってそれくらいはある。何なら貴族の弱みだって知っている」
そもそも、モストロ・ラウンジを開いた動機こそ、コネクションの開拓と情報収集の効率化の為だ。アズールは自力で使えるカードを増やし、人脈を開拓できる男だ。
「僕を見縊らないでくれ。アズール・アーシェングロットだぞ。陸も海も、怠惰なイソギンチャクも優秀な従業員も、銀の髪梳きだろうがただのフォークだって、僕のものだ。僕なら全部、正しく有意義に使える。この僕が、君を欲しいと言っているんだぞ」
いつもの品の良い敬語が時折剥がれて、すっかり地金が出ている。アズールは、大股で監督生に詰め寄る。品の良い革靴が、オンボロ寮の粗末な木板を軋ませる。

 卒業後の彼女に、海の見える丘のカフェテリアを持たせたかったのは、アズールの趣味だ。
 専業主婦として囲い込む事もシミュレートしたが、七寮を行き来してはやたらと知人を増やしたこの人懐こい女には、窮屈過ぎると考え直した。それにラウンジの働きぶりからして、魔法の使えない彼女が必死に身に付けてきた能力を腐らせるのも勿体無い。そんな事情を踏まえて提案したつもりだった。収益はさておいて、知人と常連客を相手に長閑な時を提供する場となれば、身寄りの無い彼女も孤独ではなかろうと考えていた。下見の段階で素敵な町とか、居心地の良い所とか言われて、彼女も完全にその気だと思っていた。
 とんだ道化である。アズールは、自宅を兼ねたカフェテリアの二階で寝起きする彼女を幾度も想定していた。潮風に髪を靡かせる彼女が最も映えるバルコニーの様式を、幾度も検討しては施工業者を煩わせた。
 その積み上げた計画を、またこの女にご破算にされる。
 味方だと思っていたのに、後ろから刺された気分だった。

 「他に何が不安だ。言いなさい。どれもこれもくだらないと断言できるぞ。僕は既に人間どもより八つも多い脳味噌で考えに考えた。僕に君より相応しい人間がいるものか」
アズールの言葉に嘘はない。今まで、あらゆる手段で欲しいものを手に入れてきた。今後もぞうだ。寧ろ一度失敗して、より強かになった自負すらある。
「わ、私は、支配人に有益な物を何もあげられません。特別なものは、何ひとつ……」
監督生は、自身の主君の横に立つ自分を想像した。眩暈がした。相応しくなさに怖気立ってしまう。
 彼女はアズールが望むなら、何だって差し出せる。けれど、アズールが欲しがる特別なものは何も無い事を知っていた。差し出せるのは、精々が時間と労働力。故に凡百の従業員の一人。その中で、最も信頼できるもので在れば良い。とうにそう弁えていたというのに、絡み付くような異形の瞳が逃避を許さない。傍に侍らせて欲しいなどと、無意味で甘い夢を口にしてしまいそうになる。
 その浅ましさを恐れて俯く彼女を、アズールは睥睨した。
「有益? 益しかないでしょう。あなたが居てくれたら、僕は望まない縁談を断るのに時間を割かなくて良い。こんな腸が煮えくり返る思いをせずに済む。業務に集中できる。有意義な休日を過ごせる。生活の質が向上する……――そこら他人が僕に何か与えるより僕自身の生産性が向上した方が有益なんですよ、分かるでしょう。そしてそれは、あなたにしか出来ない」
蒼白だった監督生は一変、耳朶まで真赤になった。茹った小エビのようになって、エとかヒとか掠れた声を漏らすばかり。モストロ・ラウンジを引き継ごうと、どれだけ経済学のテキストを積み上げても、監督生は大きすぎる好意の前ではいつも凡骨だ。この凡骨が偉大なる支配人と並ぶのが、やはり監督生には想像し難い。監督生にとって、アズールは偉大過ぎた。
 私には過ぎた取引だと、申し訳無さで泣き入りそうな声を漏らす監督生に、アズールは眼を見開いた。
「あなたに僕は勿体無いと? 僕が付けた価値をあなたは信じないっていうのか」
反語である。アズールは薄い瞼が破れてしまいそうな程、彼女を睨め付けた。

 数拍の沈黙の内、アズールの堪忍袋の緒が切れた。監督生の手を引つ掴んで、アズールは言い放つ。
「では市場調査をしましょう」
魔法石の嵌った杖が、再び床を打つ。
 空間転移魔法の呪文だ、と監督生が気付いた時には、彼等は植物園に立っていた。

.

 一方、エース達は、フロイドにチェリーパイの四分の三を強奪されていた。昨日とは違い、フロイドは人間の身形で学園に来ていた。
 まだフロイドの髪が湿っている事に気付いたエースは「野次馬の為に上陸したんすか?」と顔を顰めたが「は? 悪い?」の一言で閉廷した。チェリーパイについては、言及すらさせてもらえなかった。
「お、ジェイドも間に合ったじゃん。まだ小エビちゃんたちモメてるよ〜」
暫くして、ジェイドも顔を見せた。彼の左頬は、紅葉が張り付いたように赤く腫れていた。その派手な痕に目を奪われたエースに、ジェイドは愉快極まる様子で自白した。
「変身薬で姿を変えていた時に出来た傷は、元の姿に戻っても影響するようですね」
よくよく彼を見れば、まだ虹彩がいつものヘテロクロミアではなく、アズールと同じ淡い青のままで、完全に元の姿に戻りきっていなかった。アズールに変身してキャンベルと会い、縁談を断ってきたらしい。亡国の王女に毒草のブーケを渡して平手打ちを食らった時より、もっと早い段階での破談に成功したと聞いて、フロイドは手を打って喜んでいた。
 今回も平手打ちを食らう程度に失礼な真似をしてきたらしい。エースには、未だにこの双子と主従ごっこを続けているアズールの精神力を理解しかねる。卒業後もこのコミュニティと付きあっていくであろう監督生に、少しばかり同情した。
「さて、今回はどう盛り上げましょう」
ジェイドがタイムアタックじみた破談を敢行したのは、やはり野次馬の為である。
「またラッパ吹く?」
「またって……いや、やっぱ知りたくないんで結構」

 リーチ兄弟と駄弁っている最中、植物園で奇声があがった。
 マンドラゴラの収穫シーズンには未だ早い。監督生の悲鳴だった。一拍遅れて、クルーウェルの怒声と生徒のざわめきが聞えてくる。
「オンボロ寮に居た筈だゾ!?」
「空間転移魔法でしょ」
エースは真っ先に、グリムを小脇に抱えて温室へ走った。
 植物園内では、監督生を抱えたアズールが乱入して騒動を起こしていた。元はクルーウェルが二年生に蓬莱の玉の枝から玉を収穫する方法を教授している最中だったらしいが、蓬莱の玉の枝は放置されて萎れ始めていた。あの植物は繊細なのだ。

 アズールに片手で抱えられる監督生の脚は宙に浮いていて、ハイジャック犯と人質のような状態だった。実際、授業妨害という立派なテロだ。アズールの杖が獲物としても立派な質量と長さがある形状な事も相俟って、最悪の絵面だった。
「アズール、キレてんねぇ」
フロイドとジェイドは、長い脚で悠々歩いてエースの後ろに立った。薄笑いの唇の隙間から、陰惨な歯を覗かせている。

 アズールは、混乱するクルーウェルから教鞭を強奪した。
「そこの! アズール・アーシェングロットが魔法の使えない女を娶るのは不自然か!?」
最前列に座していた生徒が巻き込まれた。
「えっ僕!? えっ?」
「不自然か!?」
「ふ、ふ不自然じゃないです!」
監督生はアズールの暴走に激しい羞恥に覚え、か細い声で謝罪を繰り返していた。二年生の殆どは唯一の女生徒として監督生を知っているし、殆どが偉大な既卒生としてアズールの顔も知っている。それだけに現場は混乱を極めた。生徒達の頭にはもう蓬莱の玉など無く、只管に疑問符で埋まっていた。
「そこの赤毛! アズール・アーシェングロットが身寄りの無い女に惚れるのは変か!?」
二列目の生徒が巻き込まれた。
「へ、へんじゃないです」
アズールは、身分違いの恋慕に竦む監督生に、市場調査と称して生徒の意見を聞かせて回る気だった。力技である。こんな状況で、一介の生徒がアズールに真っ当な意見を言える筈もない。
「そこの獣人! アズール・アーシェングロットに後輩との恋愛結婚は不相応か!?」
「エッ、そうなんですか、ふ、不相応じゃないです、はい」
彼等の知る優秀な大魔法士たるアズールは何処にもいない。感情が臨界点に達したアズールの癇癪を知らない彼等は、アズールの豹変にただ怯えた。リーチ兄弟の馬鹿みたいな哄笑が、植物園に響いていた。

 いち早く混乱から回復したクルーウェルが拘束魔法を放つ。
「バッッボーイ! そういう青春劇は在学時に済ませておけ、この駄犬!」
だが拘束魔法はフロイドのユニーク魔法で逸らされ、無罪の生徒を硬直させるだけに終わった。
「僕達はコレを見に来たんですよ」
頬を腫らしたままのジェイドは上機嫌だ。フロイドと二人がかりでクルーウェルの教育的指導を阻害し、アズールの逃走を援護した。
 アズールは再び空間転移魔法で、別の授業に乱入していった。飛行術の途中であろうグラウンドから、バルガスの悲鳴が聞えた。自慢の肺活量に見合った轟音だった。

 バルガスの声に気を取られたリーチ兄弟に、クルーウェルが魔法をかける。二メートル近い巨体が、仲良く熱帯ゾーンまで吹き飛ばされた。
 革靴をツカツカいわせて迫るクルーウェルに、エースは必死に釈明した。グリムも尻尾を股の下に挟んで、命乞いじみた声をあげていた。
「オレは居合わせただけっつーか、アズール先輩は止められませんって」
監督生を助けられず申し訳ないと、平身低頭で謝った。仮に止める力があったとしても、わざわざ厄介事に首を突っ込むような殊勝な性格ではないが、この騒動を理由に内定が取り消される事を懸念したからだ。
「……駄犬ども、正直に話せ」
 迫るクルーウェルは、ただならぬ迫力があった。当然だ。彼は教員の中でこそ若いが、リーチ兄弟よりずっと社会人歴の長い大魔法士だ。彼にかかればエースも生まれたての子犬も同然なのだ。授業で大釜を焦がしては、幾度も鞭を食らったが、今が一番怖かった。
「オレ様も子分もただの巻き添えなんだゾ!」
「ほんっと、すんませんっした!」
「エースにムリヤリ連れてこられたんだゾ!」
「オイ、テメッ」
そうか、とクルーウェルが目を細める。吊り上った眉が歪められる。麗人はどんな顔でも美しいが、真顔は肝が冷えた。
「俺は純粋に巻き込まれた身だが、はっきり言おう。あの狂態は中々に愉快だ」
エースは幻聴を疑った。

 硬直するグリムとエースに背を向け、クルーウェルは生徒達に指示を出す。「後日同じ内容の授業をやり直すので、次回も同じ持ち物で来るように」と、至極真っ当な事を言っていた。
 だがエースがおかしくなった訳ではないようで、クルーウェルはエースに向き直ると悪い笑みを浮かべた。
「勤勉は美徳だが、あの子犬に関しては未成年の分際で自身の本分を労働に求めているのが不健全だとも思っていた」
そして、更に声を潜めて、錬金術でも魔法薬学でもいつも澄ました顔で満点を攫っていったアズールが取り乱す様が純粋に痛快だとも告げた。
「さっすが、イシダイ先生ぇ!」
熱帯ゾーンからリーチ兄弟が戻ってくる。スコールの時間帯と被ったらしく、二人とも前身が濡れていた。人魚と水気は相性が良いようで、吹き飛ばされた身とは思えない程に元気だった。
 服の裾から水分を滴らせたまま、ジェイドが慇懃な所作で提案する。
「モストロ・ラウンジでアズールを実況上映する予定ですがご覧になりますか?」
変身薬の名残が完全に抜けたらしく、ジェイドはヘテロクロミアを爛々と煌かせていた。
「勿論見よう」
フェアリーがガラをしようが、ゴーストが結婚式を挙げようが、保護者には連絡ひとつせず隠蔽した学園である。授業妨害程度の狂態に眼を瞑る度量はあったのだ。
 言い訳を重ねた自身が阿呆らしくなって、エースも馬鹿みたいに笑った。

.

 モストロ・ラウンジの壁面に、一年生に詰め寄るアズールが映し出されていた。
 設営はジェイドとラウンジの従業員が行い、投影の魔法はクルーウェルが引き受けた。フロイドは長椅子を一人で占領して笑い転げている。
『そこの! 僕が好いた女と番うのに不都合があると思うか?』
『ヒッ、え? お、お似合いです?』
今のモストロ・ラウンジは、監督生を支配人としているが、従業員の殆どはやはりオクタヴィネル生であり、アズールに憧れを持つ者も少なくない。それどころか、現支配人の監督生の英才教育によって他寮生すらアズールを慕っている始末だ。その中での上映だからこそ、余計に盛り上がった。
『もうやめて、支配人っね、やめましょ、私、恥かしいですっ』
一通り飛行術を妨害したアズールは、本校舎に入って、出合う生徒全員に同じ旨の質問を繰り返していた。エースはその様子を見ながら、二本目のコーラを開封した。今やモストロ・ラウンジは、飲み放題かつ食べ放題の無法地帯だった。リーチ兄弟がアズールの奢りにすると宣言したからである。恐らく正気に戻ったアズールはそれくらい弁済するだろうし、最悪リーチ兄弟が払うだろうと、皆遠慮無く飲み食いした。
『いえ足りないでしょう。モーゼズ・トレイン! 人間に恋する人魚は滑稽ですか?』
『鏡を見ろ』
ついに魔法史の教室を侵略したようで、トレインの渋いテノールが益々渋くなっていた。流石に「マナーのなっていないことだ」では済まさないようである。ルチウスも尾を膨らませてアズールを威嚇していた。恐らく、魔法史史上最も居眠りした生徒の少ない回になっただろう。
『ディア・クロウリー! 僕と彼女が一緒に居たら変ですか?』
『え?』
『変ではないですよね、では失礼!』
ついに特別授業に来ていた学園長まで巻き込んだ。アズールの無分別ぶりに、とうとう給仕に回っていた従業員達も愉快さを抑えられなくなった。監督生を引き摺って歩くアズールに置き去りにされたクロウリーを指差し「あの間抜け面!」と椅子を叩いて笑う。
 クルーウェルも、声をあげて笑った。彼が叱責以外で大口を開けて発声するのは実に珍しい事だが、色男は何をしても様になる。
「アズールのヤツ、心臓に毛でも生えてんのか?」
恥かしさでワタワタする監督生とは対照的に胸を張って訊いて回るアズールに、厚顔無恥を地で行くグリムさえ呆れていた。
「ふふ、どうでしょう。毛は分かりませんが、確か蛸は心臓を三つもってますよ」
人魚ジョークです、とジェイドはグリムにツナ缶を開けてやった。

『ジャック・ハウル! 僕と彼女では釣り合いませんか?』
友人の登場に、エースは三本目のコーラでデュースと無意味に乾杯した。デュースは、エースがスマホで呼び出され、事情の全貌を知らないままに先輩と悪友の醜態を見せられていた。
『本人に聞け』
状況をいまいち咀嚼できていないジャックは、努めて誠実に応答する。
『彼女、不相応って言うんです。ねえ、僕に彼女は勿体無い?』
『支配人、逆です、逆!』
『ああ、その通りかもな』
『ジャック!! そんな訳ないでしょう! コラっ!』
監督生もよく分からないテンションになってきている。ラウンジでの監督生は、新たな支配人として毅然と振舞ってきた。その悪の女幹部じみたイメージを瓦解させ、少女のように喚いていた。
「ウニちゃんサイコーじゃない?」
「アイツ、大真面目に言ってるんだゾ」
監督生に怒られて腑に落ちない顔をしているジャックに、フロイドが賛辞を送る。

 アズールの中継をしている事が伝聞で広まり、モストロ・ラウンジに野次馬が増えていく。在校生のマジカメのアカウントでは「アーシェングロット婚約」「アーシェングロットご乱心」「お幸せに」などのタグで、隠し撮りを掲載する者も現れる始末。既卒生のケイト・ダイヤモンドも、目敏くこのニュースの拡散に貢献した。こんなに強引な外堀の埋め方があっただろうか。手段を選ばないにも程がある。
『ミスター・サム!! 海辺でカフェテリアを営む彼女と僕が家庭を築くのは不相応ですか!?』
ジェイドが身体をくの字に折って吹き出した。その計画に一番付き合わされてきたのは、彼だからだ。
『ンッフフ、君達の未来に幸運あれ!』

 アズールの腕の中で、監督生は心労と羞恥ですっかり脱力している。これが心底嫌そうな顔であったなら、クルーウェルやデュースは助けに向かっただろう。しかし、監督生ものぼせ上がった様子なので、二人とも見事にノンアルコールカクテル片手の見物を決め込んでいた。
『よし。最後にモストロ・ラウンジに行きましょう』
モストロ・ラウンジが沸いた。
『やめてっ、それだけはっ、バカっ、このバカ!』
監督生が跳ね起きる。従業員達にはこの醜態を見せてはいけないと、逃走を図る。既にラウンジの全員に見られている事を、彼女だけは知らない。藻掻く彼女を、アズールは片手で難無く掴まえる。蛸は握力が強いのだ。
 小エビちゃんがアズールにこういうクチ聞くの初めて、とフロイドは感嘆していた。まあそっちの方が健全な恋人らしかろう、とクルーウェル。


 監督生を担いだアズールが、モストロ・ラウンジのドアを蹴り開ける。
「この結婚に反対の者は居るか!」
「いませーん」
フロイドの小学生のような返答を合図に、皆がグラスを持ち上げて挨拶した。
 何処よりもお祭り騒ぎを愉しんでいた職場の様子に、監督生は悲鳴をあげた。監督生だけが驚いている。
 何たって彼女以外の連中は、貧民の男とて砂漠の姫と添い遂げられる事を知っているし、声を奪われた人魚が王子と子を生す事に疑問を覚えないのだから。
 悪徳商人とて、自分の愛だけには値段を付けない。ただそれだけの話だと、分からないのは彼女ばかり。

 監督生の手を引くアズールに、皆が道を開ける。
 クルーウェルが、壁面に施していた投影魔法を消去した。すると乱痴気騒ぎが嘘のように静まって、水槽のポンプとアズールの靴音だけが響く。数多の視線を受け、監督生は借りてきた猫のように身を縮こませた。

 監督生はラウンジ中央のソファに転がされ、その対面のソファにアズールも腰を降ろした。
「よく掃除されていますね。照明も若干明るくなりましたが、設定を変えましたか」
「えっ、は、はい。照度が高い方が回転率が良いそうなので、日中は明るめに」
「職業病かよ」
呆れ顔のエースが、ラウンジの旧支配人と現支配人の会話を打ち切った。今必要なのは、もっと個人的な会話だからだ。

 アズールは、大きく息を吐き出して、平静な自身を呼び戻す。
 二人はどちらともなく乱れた髪を手櫛で整え、座り直して見詰め合った。やはり、アズール・アーシェングロットは、一番ラウンジに似合う男だった。
「市場調査はこれでお終いでいいでしょう。まだ不安があるなら続行しますが」
監督生は目いっぱい首を振った。
「大丈夫です――いいえ、ちょっと別の意味で不安ですけども、貴方のお考えはよく分かりましたから」
そうですか、とアズール。監督生にとって、これは二度と演じたくない醜態だった。だが、大勢の人々に向かって自身を好きな人だと恥かし気もなく告げるアズールに、救われたのも事実だった。この人が付けた価値を疑わずに生きてみよう、そう希望が持てる程度には、監督生も前向きになれた。ふっきれたとも言う。
「僕も後悔しているんですよ。あなたと交わした契約の瑕疵に気付かなかった事に関してだけは」
仲直りしましょう、とアズールは右手を差し出した。
 この男は、それ以外に関して、具体的にはラウンジを賑わせた狂騒の原因となった事に関しては、別段後悔をしてはいなかった。何せ、この女がここまで前向きに検討しているのだから。目的の為の恥は幾らでも掻き捨てられるのがアズールだ。

 「契約を結び直しましょう。今度はしっかり抜け目ないものを。抜け穴があったりどちらかが不利になったりは、ビジネスだけで結構」

 今回アズールは、互いを敬う間柄において公正に合意の形成を図る事の重要性を学んだ。些か授業料は高く付いたが、彼女を失えば被害額すら勘定できないので大団円としておく。

 ビジネスでもやるなという善良な者達の指摘は、祝杯の音頭に掻き消された。
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