非合理的恋愛讃歌 前

 監督生もいよいよ最高学年。彼女がモストロ・ラウンジの運営権を引き継いで丁度一年になる頃だった。

 四年生といえば、出席するべき授業も極めて少なくなった代わりに、卒業論文の執筆や就職活動などの個人戦で忙殺される期間であった。
 昨年度に卒業したアズール・アーシェングロットも、その例外ではなかった。彼ほどの人物でも、四年次にはオクタヴィネル寮監の座を下級生に譲り、モストロ・ラウンジの経営権を監督生に託して、自身の進路に専念した程である。尤も、彼は一般的な就職活動ではなく、起業の道を選んだので、多数の生徒にはあまり参考にできる生き方ではなかったが。それでも、後進に与える影響とプレッシャーは計り知れない。寮長から社長へと肩書きを変えた彼は、社会人一年目にして敏腕経営者として注目される身である。経済誌に彼の顔写真が載った時などは、監督生もオクタヴィネル寮生達も我が事のように誇らしく思った。殊に「学生時代にカフェを経営した経験が生きた」と記事に書かれた時は、モストロ・ラウンジで乱痴気騒ぎをした。アズール不在でもラウンジが取り潰されずに営業できているのは、そういった正の影響が認めらた部分が大きい。

 そもそも、監督生がこの多忙な時期にも関わらずモストロ・ラウンジの運営ができているのは、偏に就職活動の心配が無いからだ。
 彼女はアズール・アーシェングロットに惚れ込み、その恋心に誓って一生彼に付き従う事を契約した。
 その対価は、アズールの卒業後もモストロ・ラウンジの存続させ、維持できる営業体制を確立させる事。アズールへ相談できるポイントカードこそがモストロ・ラウンジに通う動機になっていた生徒も少なくはない為、彼が不在になっても利益を上げていくようにするのは、骨が折れる条件だった。けれど、その契約に悪意が仕組まれているという訳ではない。単に、彼女の勤勉と人徳を見込んだのと、アズール・アーシェングロットの下で働く気があるのなばそれくらいの経験はしておけというものだった。アズールとて、憎からず彼女を想っていた。卒業論文で忙しい時も、社会人として荒波に揉まれている時も、彼女が経営について相談を寄越したならば必ず時間を作って助言をくれた。第一、アズールが彼女を契約を使って不利にしようなどと今更思う筈がない。アズールを信奉する彼女は、勝手に彼に何もかも捧げる所存でいるのだから。
 この状況に、就職活動中で面接ノイローゼ気味のデュース・スペードは「既に第一志望に内定が決定していて羨ましい」と恨みがましい目を向けていた。一方、同じく就職活動中だがコミュニケーション能力と要領の良さからまだ余裕のあるエース・トラッポラは「重たいし、趣味悪すぎじゃね?」と呆れ返った様子を見せていた。
 学園において監督生と二人で一人分の籍として扱われるグリムに言わせれば「もう好きにすりゃ良いんだゾ」とのことだったので、監督生はその言葉に甘えている。具体的には、卒業論文からできるだけ手を抜いて、経営学にのめり込んでいた。


 午後九時半。オンボロ寮でラウンジで提供する料理の試作を重ねていた監督生の下に、くたびれた様子のエースが訪ねてきた。彼は今日が本命の企業の就職試験だった。帰着時間が予定より随分遅くなり、ラウンジも食堂も閉まっている時刻だが、緊張からの開放で腹が減っているらしい。
「お疲れさま。研究がてら作った料理が大量よ。食べていって」
監督生はエースを一瞥してから、元は談話室だったであろうリビングに次々に皿を並べていった。どれも家庭料理の範疇を超えた出来だが、研究というだけあってそれぞれのコンセプトに一切の纏まりは無かった。スープに関しては大きな小鍋で三種も並んだ。
「もう二階でグリムが寝てるから、ババ抜き大会はナシね」
エースは特に文句もなく、配膳を手伝った。
 グリムと監督生の二人では、生産量より消費量が下回るのが常で、いつ訪ねても大抵は食事が出てくる。友人達は専ら、これを目当てにオンボロ寮へ来る事が多かった。ジャックやエペルすら利用した程である。
「今のところ一番好評なのはコレ。ツナのテールスパイシーロースト」
エースはビジネスバッグからマジカルペンを取り出し、手馴れた手付きで料理を温め直した。相変わらず魔法が使えない監督生は、その便利さに舌を巻く。
「さっすがモストロ・ラウンジ二号店。助かるわー」
エースにカトラリーを用意した監督生は、彼の対面に座った。二人分のグラスに炭酸水を注ぎ、形だけの乾杯をする。試作品なので金銭の要求はしないが、感想や助言が対価として機能した。

 彼女の悪友達は、研鑽と称して自寮では消費しきれない量の料理を作っている彼女を皮肉って、オンボロ寮をモストロ・ラウンジ二号店と呼ぶ時がある。
 実際、オンボロ寮をモストロ・ラウンジ二号店にする案は、二度企画された。一度目はアズールが三桁の生徒を人質に契約を迫ったが、監督生とサバナクロー寮の活躍で白紙撤回させられた。二度目は監督生が己の進路の為に打診したが、アズールが棄却した。結局、二号店が学内に作られる事は無かった。
 アズールがオンボロ寮の二号店化を諦めたのは、手前の女の暮らす場所に不特定多数の男子生徒を通わせるのが嫌だったからに違いない。エースはそう気付いているが、特に行動を改める気も無かった。突然に気を使うのは却って疚しい気がするし、如何せんエースの方がアズールより彼女との付き合いは長いのだ。
 もっとも、わざわざ二号店と呼んで飲食店扱いするのは、女の住居に押しかける疚しさを緩和する心理があるからだ言えば、否定はできない。そんな男達の無形の遠慮を、監督生が気付いているかは怪しい。アズールがオンボロ寮に出入りする悪友達について苦言を呈した事など、一度も無かったからだ。アズールは決して鷹揚な男とは言い難い。だが、監督生が彼を熱烈に慕っているのは誰の目から見ても明らかであったので、その程度の余裕が無い方がおかしいのだが。

 監督生が、また炭酸水を呷る。
「お前も食べりゃいいじゃん」
監督生の物欲し気な視線が、デザート皿に向いていた。その彼女の前で一人で夜食を食べるのは気まずく感じたエースが誘うが、彼女は首を縦に振らなかった。
「午後六時以降は食べないようにしているの」
エースは、南瓜のシナモン煮を頬張った。煮物なんだかスイーツなんだかはっきりし難いそれは、男子校では好かれる味ではなかった。だが、目の前の女がそれを好いている事は知っていた。トレイ・クローバーの在籍時、南瓜や栗で作った菓子に彼女が特に眼を輝かせていたのを覚えていたからだ。
「アズール先輩みたいな事言うじゃん」
監督生が、忌々しげに南瓜を見詰めた。仇敵を睥睨する眼差しだった。目の毒になっているらしいそれを、エースはさっさと口に詰め込んで処分してやった。エースに女の矜持は分からない。だが、ポムフィオーレなどを筆頭に美の追求に熾烈な情熱を燃やす者を四年間見てきた所為か、他人の美醜に口出しするのは野暮だと学習していた。
「そう、支配人ってスリムでしょう。もし隣に立たせていただく機会があった時、不恰好になっては困るの」
監督生の貌は、もう少女と言うよりは女性と称するのが相応しい。悪の女幹部のようだとエースは揶揄したかったが、この女は実際に悪徳商人の女幹部になろうとしているので、ずっと良い損ねていた。

 エースの脳裏に、悪徳商人らしい胡散臭い笑みを貼り付けたアズールの顔が浮かぶ。エレメンタリースクールでは常人の二倍の幅があったとは思えない程に、今はシャープで隙が無い。ファッションにおいても美しいシルエットに拘っていると聞いた事がある。経済誌に載ったアズールは、柔和な顔に残っていた僅かな幼さが掻き消えて、うんと色気を増していた。
「そういや、ずっと先輩のこと支配人って呼ぶよな」
馬鹿なカップル特有のふざけた渾名で呼び始めたら友達辞めたかもしんねーけど、とエースは話題転換のつもりで藪を突付いた。
「そうね。だって、私の支配者だから」
エースは噎せた。鼻から南瓜が出てきそうだったので、咄嗟に顔を抑えた。オエッと声に出さなかった事を褒められるべきだと思った。
「あの人そういう趣味? それとも独裁者か何か?」
「まさか。ハーツラビュルが赤の女王の価値観に基く法に則って生きるように、アズール・アーシェングロットの用意した生簀を泳いでいたいのよ。それだけ」
「いや独裁者じゃん」
つまるところ、アズールは彼女の王であり、法であり、支配者なのだ。
「めちゃ重いじゃん」

 ダチの変化が大き過ぎて付いていけねえ、とエースは遂に口に出した。監督生はお互い様だとあしらう。
 元より、共通点など学年と一年次に配属された学級くらいのものだったので、最初から文化も価値観も異なる二人だ。その上、進路を別つとなれば、求められるものの違いに応じて変りゆくのも必然だ。
「お前がここまでオクタヴィネルの拝金主義に染まると思わなかったわ」
「資本主義と言って頂戴。私も、あなたが四年間もピンクの服でハリネズミの世話をする事に従い続けるとは思いもしなかった」
それでも、個性豊かな先輩達に揉まれたりトラブルに巻き込まれたりした中で手を取り合ってきた経験は、二人の間に共感を育てるに足りた。
 エースはテールローストを咀嚼してから、自寮の方針に対する持論を述べる。
「オレも意味分かんねールールは好きじゃねーけど。ホラ、ウチの学校って協調性ねーし血の気多いヤツ多いし、踏み越えたら絶対アウトって線が必要なのも分かるでしょ」
血の気の多いヤツに関して互いに共通の知り合いが思い浮かんでいる事を察して、監督生も吹き出した。お分かりだね? とエースは、元ハーツラビュル寮長の口調を借りて念を押す。
 女王の法律を盲目的に厳守する事を止めてなお残った無意味なルールは、大きなルールを踏み外さない為の練習だったのではないか。そう考えるようになったのは、偏に彼の成長だった。
「エースも大人になったのねぇ」
何処からの目線だ、とエース。だが、子供じみた喧嘩から始まった関係を思えば、否定は出来なかった。

 出会ったばかりの頃の少年にすら見えた監督生の姿を思い出して、エースはふと遠い眼をした。異世界に帰る事を諦めていなかった日の彼女は、少女と呼ぶに相応しく奔放さを備えていて、友人としては大層楽しかった。けれど、此方の世界に残る事を決めた彼女の方が、生き生きとしているのは間違いなかった。
「……どうしてアズール先輩だったワケ?」
「あら、今更」
エースは料理を突付く手を止めた。
「いや、ずっと気になってたけど」
エースは、監督生が元居た世界に帰る方法が見付かっていた事を知っていた。三年次の夏だった。親も兄弟も幼馴染も居ない世界で、持たざる者として生きていく覚悟を決めた彼女は、恐ろしい程に清々しい顔をしていた。その動機が恋だという事に、エースは薄ら寒く感じる程の恐怖を覚えてもいた。要は、学生の恋として談話室で弄るには重過ぎて、聞く機会が無かったのだ。
 だが、聞いておきたいとは思っていた。万一、結婚だの披露宴だのとなれば、親友としてスピーチするのは自分だろうという自惚れもあったので。


 監督生は、ウウンと唸った。
 無論、アズールの好きなところは山程ある。笑うと口と一緒に動く黒子も、紫の煙が燻るような美しい銀髪も、冬の海の色をした瞳も、監督生にとっては直視する事すら烏滸がましいのではと感じさせる魅力を放っている。努力家で、苦労を苦労と思わない尋常ならざる執念深い精神はいっそ気高くあったし、目的の為なら道化にすらなる手段を選ばない冷徹さも痺れる程に素敵だった。舌が肥えているのに、から揚げなどという庶民的な食べ物が好きなのも愛しい。痘痕も笑窪とはよく言ったもので、運が悪いところも、箒に振り回されている様子も、高いプライドが空回った時も、可愛いとしか思えなくなっていた。
 だからこそ、第三者が納得できる語り口を探すのが難しかったのだ。

 スカラビアで助けてもらったから。魔法の使えない人間でも雇ってくれたから。勉強を教えてくれたから。切欠は、幾らでもある。だが、彼を己の支配者にまで押し上げた理屈は、もっと根本的なものだった。あまりにプリミティブで、他人に説明し難い感覚なのだ。
「支配人の周りは呼吸がし易かったの」
海の中にある寮舎に誘われた時、監督生は場違いにもそう思った。肺呼吸と鰓呼吸を使い分ける彼等が聞けば、失笑する台詞だろう。
「私が居た世界とこっちでは、感覚が随分違うの。でもそんな中で、あの人は他人にも分かる尺度と理屈で動いてくれる人だった」
そもアズールが得とする交渉だの契約だのは、他人が居なくてはできない事だ。己の美学を第一に行動する協調性の無い連中で溢れる学園において、希少な人材である事は頷ける。
「資本主義ってヤツ?」
エースは、引用を使って聞き返す。
「そう。契約と貨幣経済」
各寮には、組織の在り方に特徴がある。鏡が生徒の適性を見て寮を決めるのだから当然だ。資本主義といえば、正に監督生やエースの知るオクタヴィネルの在り方だ。
「でもそれはオクタヴィネルの伝統的な精神じゃなくて、支配人がモストロ・ラウンジを開店させるにあたって持ち込んだ方針なの」
 ハーツラビュルでは、リドル・ローズハートは、法律と寮監の判断を絶対的な権威に据えた制度を確立させた。監督生に言わせるなら、家長制度だ。赤の女王の法律の適応範囲外である彼女は、たまにパーティに誘われはしても壁の花になっていた。
 サバナクローは弱肉強食。持つ者は栄え、持たざる者が地に伏すそこは、魔法すら持たない非力な彼女は当然気後れした。また、この社会の背景を実感しきれない余所者の監督生には、社会と種族の束縛を憎みつつ不屈を掲げる彼等の矜持を理解し切れなかった。
 オクタヴィネルの慈悲については監督生も首を傾げるところだし、モットーとする自己責任は実質的には弱肉強食と同義だが、契約や取引の概念の台頭は学生達の意識と生活を大きく変えた。それはアズールが仕切りやすいよう自身に都合の良いルールを課す為のものであったが、監督生は彼の統治に感心した。
 貨幣経済は、ありとあらゆる物質上の物だけではなく、価値観や関係性すら含めて全てを貨幣という共通認識できる物へと変換し得る。取引や契約も、その文法の上に成り立つ。魔法士達の文化を下地とした価値観や関係性への理解が身に付いていない監督生にとって、その共通した概念が強固である事は確かに有り難かった。けれど、一等眩かったのは、アズールが自身の為に寮のカラーそのものを塗り替えてしまった事だ。
 アズールには、何処であろうと自らの為に世界を最適化させられる。その能力と野心がある。それが酷く眩かった。
「支配人にとっては、交渉してより優位に立つ為の手段なんでしょうけど、あの人がした事は革命だと思うの。太陽の届かない海底からやって来て、陸の学園の一角を治めてしまう人よ」
自身にとって慣れ親しんだ世界から切り離され、知らない世界に揉まれて漂う事しか出来なかった監督生に、自身を変え環境を整え只管に努力を重ねるアズールは、強かで美しかった。だから、支配者なのだ。
「あの人は、好き放題に荒れる荒野を人の住まう町に出来る。なんだか、希望があるでしょう。格好良いってそういう事よ」
 彼の統治する生簀では、皆と同じ物差しが使える。それは、足元を覚束無くさせる不確かなものが取り除かれた感覚だった。
「勿論、人の欲しがる物を見抜いたり対価として差し出せそうなラインを見極めたりできる眼だって凄いと思ってる。美しくて優秀な人だし、それが努力の賜物だと知ったら、なお尊敬するしかないでしょう」

 彼を好きだと自覚したのは、一年次のウィンターホリデーでスカラビアとの悶着を解決してくれた時かもしれない。味方であればどれだけ頼もしいかを知って、その懐に入りたくなった。
 けれど、尊敬の念はそれよりも前からで、そちらの感情はずっと大きかった。改めて何が好きかと聞かれれば、存在とか概念の話をしなくてはならない。アズール・アーシェングロットがアズール・アーシェングロットである事が好きだ。

 エースはカトラリーを完全に放置して「もうお腹いっぱいです」と降参のポーズを取った。
 具体例を挙げればきりがない上、抽象的な話に纏めるとどうも宗教味を帯びてくる。くどくなる予想こそしていたが、エースはやはり女学生の口から語られる恋愛はもっとふわふわとしたものであって欲しかった。男の夢がまた一つ崩された。
 その様子に監督生は歯を見せずに笑った。

エースにも好きな人ができたら教えて頂戴と囁いて、空いた皿をキッチンに下げる。
「そうだ、サングリア作ってあるから飲んでいって」
「アルコールじゃん」
「大丈夫。煮込み料理に使ったワインの残りなの」
「あーあ、カントクセイさんが不良になっちゃったよ」

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 壁掛けの時計の針が午後十時を指す頃、オンボロ寮のドアが静かに叩かれた。
 キッチンに立つ監督生に変って、エースが返事をした。デュースより行儀の良く、ジャックより力強くはないノックだったので、来客に見当がつかなかった。学園長ならノックなどせず勝手に部屋の中に出現するので、これも除外して良い。そんな消去法を思い浮かべながらエースは、ドアスコープを覗いた。
「お久しぶりです。しかしいけませんね。ハーツラビュルの寮則ではとうに外出禁止時刻では?」
ドアの向こうの男が慇懃かつ嫌味な口調でエースに挨拶した。浅瀬の海の髪に、一房交じる黒。黄金の左眼に、月の右眼。すらりと柱のように背の高い男。エースより一学年先に卒業を迎えた、元オクタヴィネル副寮長、ジェイド・リーチだった。
「卒業生っつっても、外部からの訪問者が来るような時間でもないんすけど?」
社会人になった彼は嘗ての寮服より遊び気の無いスーツで、堅気らしくなさに一層の磨きがかかっていた。エースはそれに気圧されたが、監督生はキッチンから声を張って彼を招き入れた。モストロ・ラウンジで接点が多かった所為か、頭の螺子が飛んでいると評判のリーチ兄弟相手にも然したる危機感がないのだ。
「こんばんは、ジェイド先輩。サングリアお飲みになりますか?」
「いただきましょう」
その挨拶を受けて、ジェイドの滑らかに黒光する革靴がぬっと敷居を跨いだ。長身な上に腰の位置が恐ろしい程に高いので、一歩がしなやかに大きかった。
「ちなみに果物は何を?」
ジェイドは、先程まで監督生が座っていた椅子に腰掛けた。手に提げていた紙袋をテーブルの隅置き、未だ温かいままの料理を一瞥した。
「ネクタリンとレモンです。炭酸で割りますか?」
「いいえ、そのままで結構です」
エースはジェイドと二人で座るのは間が持たないと感じて、監督生を手伝うふりしてキッチンに一時退避した。
 監督生は、慣れた手付きでグラスに氷を入れ、果実の漬け込まれた赤ワインを注いだ。華やかな良い香りだったが、血のような赤色があの物騒な人魚に似合い過ぎていたので、エースは自分の分は炭酸で割る事にした。監督生が、おまけと称してシナモンスティックを挿す。

 ジェイドは、エースが手を付けなかった蛸のアヒージョを啄ばんでいた。
「経営は順調ですか」
蛸を咀嚼したジェイドは、穏やかな口調で切り出した。ジェイドとフロイドは、卒業後もアズールの下で働いている。アズールは手広く事業を広げていきたいようで、ジェイドは秘書と言って差し支えない立ち場にいた。監督生にとって、先輩であり上司の一人というポジションも変わっていない。ちなみにフロイドは飲食部門を統括するポストであり、監督生は卒業し次第その中の低価格帯のカフェやファミリーレストランを預かる予定でいた。
「はい。一号店は私の卒業後はオクタヴィネルの寮監が運営を受け継ぐ形に納まりました。今、業務内容の引継ぎもしています。新しく始めと配達サービスも順調です」
監督生は飲み物を提供して、エースの横に着座した。業務について問われた彼女は、気安い友人の雰囲気から一変して仕事人の顔になっていた。その横顔を新鮮に思いながら、エースも彼女の隣に腰掛けた。
「卒業後に任せていただける支店の方も、土地は既に確保していて、三ヵ月後には竣工の予定です」
「ええ、アズールから聞いています。海の見える丘のカフェテリアだと」
モストロ・ラウンジのコンセプトは海中だが、陸人間に任せる店はあくまで海辺らしい。監督生は、連休中にアズールと下見にも言ったと報告した。
「本当に素敵なところです。交通の便に不便は無いのですが、穏やかな潮騒が心地良くて、とても居心地のいい港町なんです」
楽しみですね、とジェイド。本心に聞えない軽薄な微笑も相変わらずだった。
「今回はアズールの事で報告があって来たんです。アズールはどうせ断るから報告しなくて良いと言うんですが、僕としては面白くない。いえ、誠実さに欠けると思いまして」
ジェイドは吊り上った眼を細めた。

 ジェイドは土産の経済誌を開いて、カラーページを飾る女の顔写真を二人に見せる。学生時代は人気モデルとして知名度を上げ、卒業後はタレントとしても売り出され、飲食業に手を伸ばし始めたという若い著名人のインタビュー記事だった。
 ベネッサ・キャンベル。豊かな黒髪の美しい女性だった。歳はアズールと一緒らしい。ヴィル・シェーンハイトと同じ事務所の後輩で、そこそこに大きな貿易会社の令嬢で、権力と貪欲さを備えた女性だった。ついでに、出身校もナイトレイブンカレッジやロイヤルソードアカデミー程ではないが有名なエリート校である事が記事での扱いから察せられた。エースはあの麗しの錬金術教授のデイヴィス・クルーウェルに妹でも居ればこんな顔なのだろうかと思った。圧倒的なキャリアとスタイルの良さに裏打ちされた自信で漲っている、涼しげな美女だった。
「アズールは明日、彼女との見合いをします」
エースが咳き込んだ。あまりの唐突さに心底驚いた。だが、直ぐに冷静さを取り戻し、まあ優良株だしそういう事もあるだろうな、と妙な納得に落ち着いた。
 その横では、監督生も驚嘆と困惑と嫉妬を混ぜて煮詰めたような表情を浮かべていた。

 縁談は前々から来ていたらしいが、ジェイドはこの反応が見たいが為に前日まで黙っていたのだろう。ヘテロクロミアが好奇心と嗜虐心で爛々と輝いている。
「アズールは断るなどと言っていますが、どうでしょう、こんなにも美しい方です。童貞のタコちゃんに抵抗できるとお思いですか? より確実に破談させに行っては?」
エースは、アズールが童貞である事を知った。知りたくなかったし、薄々感付いてはいたが、断言されるのは初めてだった。
 下世話な話題である。しかしエースは、それよりも意地悪な愉快犯に心が強く呼応するのを感じていた。単純に美人と接点を持ったアズールが妬ましい気持ちもあるが、木星の重力のように重い監督生の恋路に弄れる要素ができて浮かれたのだ。エースは無責任にジェイドの言葉に流され、監督生の背中を押した。
 やってやれ、お前だけにはその権利がある。焚き付ける言葉がするすると出た。

 監督生は、励ましの皮を被った扇動の言葉を聞く内、気力を取り戻した。
 暫し無言で、インタビュー記事を熟読する。そしてスマホでも彼女の詳細なプロフィールを調べた。最後に、マジカメでも彼女のアカウントをチェックする。そのあまりに静かで冷静な動きが、いっそ不気味だった。
 ベネッサ・キャンベルのマジカメは、政治家並みのフォロワー数だが、投稿された文章は整っていて、掲載している画像も肖像権に配慮されていた。リテラシーは充分。ファンサービスに富んだセルフショットは、茶目っ気と華々しさに満ちている。最近は化粧品で画像欄を埋めており、先輩であるヴィルがプロデュースクするレンジングを肯定的に話題にしていた。賛否の分かれるスッピンの画像投稿は無し。商品の評価は誤認をさせない主観的なものに留めている。抜け目が無い。
 そこまで確認して、監督生は穏やかに面を上げた。
「申し分無い方だと思います。強いコネクションを作っておくには、格好の相手です」
こんな方と縁談があるなんて流石は支配人だ、と感心して頷いてすらいた。
 そして監督生は、ゆるりと首を傾げた。
「寧ろ、何故お断りしてしまうのか分かりかねます」

 エースとジェイドが顔を見合わせた。
 この女は、アズール・アーシェングロットを好いていたのではなかったか。
 信仰に等しい恋心に誓って、一生彼に付き従う事を契約したのではなかったか。


 ジェイドは大きく息を吐いて、ジャケットの内ポケットからスマホを取り出した。
「フロイド、一応ですが、賭けは貴方の勝ちです」
スマホの画面には、ジェイドとは鏡写しの虹彩異色症が映っていた。フロイドだ。彼は海中に居るらしく、青みがかった皮膚に鰓の生えた人魚そのものの姿で笑い転げていた。浮力のあるそこでは、本当に身体がぐるぐると回転してしまうので、大変鬱陶しい。
 彼等は、監督生の反応で賭けをしていた。ジェイドは彼女が落ち込む方に賭け、フロイドは彼女が素晴らしい女を引っ掛けたアズールを讃える方に賭けた。
「まさか貴方、この女の拗れ具合を知っていましたね?」
あはっ、とフロイドが吹き出した。大きな口から、鋸状の歯が並んでいるのがよく見えた。
『そりゃねー、飽きるくらい小エビちゃんの偉大なるアズール支配人トーク聞いてりゃねぇ』
場違いにも、監督生がフロイドの言葉に照れ笑いを見せる。まだモストロ・ラウンジに創始者の三人が顔を出していた頃、フロイドは監督生から如何にアズールという存在が素晴らしいかを聞かされ続けていた。それこそ、耳にタコができるレベルであった。ジェイドも同様の頻度で聞かされていた筈だが、彼は聞き流す事と聞いているふりがフロイドよりうんと上手かったのだ。
『あ、小エビちゃん久しぶり。カニちゃんはもっと久しぶり』
「はい、お久しぶりです」
監督生とフロイドが、画面越しに手を振り合う。その緊張感の無さに、エースとジェイドは絶句していた。

 ジェイドは、監督生がアズールに好意を打ち明ける瞬間を覚えていた。
 接客マニュアルにすら使ったことのない最敬礼で「お慕いしております」と震える声を絞り出していた。最終的には、アズールの役に立てるなら声も脚も要らないと縋っていた。元居た世界も陸の生活すら捨てて良いと宣って、全面降伏で人生を差し出した。その合理性を欠いた形振り構わぬ狂態は、恋慕に溺れる女そのものではなかったか。

 プロポーズはちゃんと指先を整えて髪を美しくした状態が良いと、彼女は夢見ていた。リーチ兄弟にフラッシュモブまで頼もうとする浮かれ具合は、どう考えても業務のそれではない。アズールに料理を一口齧らせる為に、ジェイドの口に何皿もツナステーキを突っ込んできた。フロイドに露骨にウンザリされても、アズールへの好意を垂れ流す口上は止まらなかった。
 その女の妄執が実を結んだ瞬間に、ジェイドは立ち会っている筈だった。


 引け腰のままのエースが、リーチ兄弟を交互に見遣った。
「……ああ、魚って別に一夫一妻だけじゃないって、フロイド先輩も言ってたっけ」
嘗て、バスケ部の猥談でウツボは複数の雌の元に同時に通うと聞かされたらしい。
「雄の蛸の繁殖は一度きりです……アズールはあくまで人魚なので交尾後に死ぬ事はありませんが。いえ、多分ですが」
ジェイドは一瞬、一夫多妻の熱砂の国やライオンのハーレムを思い出し、監督生の想定に食い違いがあるのかと疑った。だが、エースの動揺を見るに、その線も極めて薄いと察した。スマホ越しのフロイドが、思い出したように余計な訂正を入れてくる。
『ま、オレ達もウツボの生態を丸々なぞるタイプの人魚かっていうと、そーでもねーケド。浮気が発覚した時の常套句にはつかえっかな』
束縛が嫌いなこの男は、陸でも海でも奔放にやっているらしかった。だが、エースにそれに突っ込む気力は無い。もう一方のウツボが、完全に愛想笑いを忘れて真顔だったからだ。

 陸だの海だのという常識以前に、十割方は監督生がおかしいのだという結論をジェイドは得ていた。
 それに勘付いていて放置していたフロイドもフロイドだ。

 ジェイドは、面白がって突付き回していた小エビが得体の知れないエイリアンだったような、独りで宇宙に放り出された猫のような気分だった。
 エースも同様だ。就職試験に向けて猛勉強した記憶から、辞書にあるプロポーズを引いていた。プロポーズ、propose。動詞だ。申し込む、提案する、企てる、推薦する。もしかして、監督生に最初から結婚を申し込んだ意図はなかったのでは。しかしその仮説は、数秒で葬られた。今まで見てきた監督生の恋に浮かれる女の態度と矛盾するからだ。

 でもさぁ、とスマホのスピーカーがフロイドの声を伝達する。呆れ半分といった口調だった。
『小エビちゃん、悔しかねぇの。アズールが他の女とくっつくの、笑って見てられんの』
イレギュラーな場に強いのはフロイドだ。共感性が極めて薄いので、彼は平気で人に切り込んでいく。
 確かに、一生彼に付き従うという契約は、アズール・アーシェングロットが別の妻を娶ろうが違反にはならない。アズールが契約違反と見做されるのは、行方を眩ますか彼女を解雇するかした時くらいだ。最早理屈の話はあてにならない。必要なのは感情論だ。
 何もかも捧げる気だったくせに、目新しい女に登場されて劣等感や闘争心というものを抱かないのは、精神の不全でなかろうか。

 『そりゃ、互いに利益あっての縁談だから、アズールにキャンベルのコネが有用なのは当たり前。キャンベルだって、アズールが開拓した海と陸の販路が欲しくて仕方ない。飲食やりたいってんだから、アズールの舌だってほしい。つか、飲食で奥さんだよ。狙われてるポスト、モロに小エビちゃんと被ってんの。わかる?』
 そこまで聞かれて、監督生は漸く口を開けた。
「分かっていますとも。でも支配人との契約は有効ですから、私は別の業務で頑張れます。というか私、結構堪えているんですよ。わざわざ虚勢を引っ剥がすような真似なさらないで」
「虚勢が必要な時じゃねーっつー話っしょ!?」
エースが参戦する。黙っていてもアズールの縁談は解決するが、この女の拗れ方が発覚した為に、却って深刻な問題が浮上してしまった。
「今まで周りが男子ばっかだったから麻痺してんだろうけどさ、こういう時は引いちゃダメでしょ。健気さ以外でお前に勝てるとこ無いっつーの!」
監督生が、声を張った。
「そう! 無いよ、無いの!」
赤の女王のように真赤な顔で、柳眉を逆立てる。

 監督生が、テーブルで結露していたサングリアを引っ掴み、一息に飲み干した。
 沈黙の訪れた寮舎に、テーブルに叩き置かれたグラスの硬質な音だけが響いた。

 喧騒で起き出したグリムは、一階を覗きに来たが、監督生の様子を一瞥して二階に戻った。獣は賢い。リーチ兄弟と揉めたくない気持ちも勿論あるだろうが、何より、監督生の執念の深さを知っていた。一度決めたらその筋を通すのが彼女だった。グリムもエースも、この女の頑固を曲げられた試しが無かった。彼女を曲げられるのは、アズールくらいだ。グリムに出る幕は無い。
「誤解なさらないでほしいんですけど、私は支配人を愛しています。身を燃やし尽くす程の恋をしています。でも、その感情が許される事と、支配人が私に同じ感情を向ける必要が無い事も、しっかり弁えてるんです」
面白がって焚き付けようとしていたリーチ兄弟は、ここで完全に目的の不達成を悟って口を引き結んだ。
「アズール・アーシェングロットは、物の価値を量り違えないお人です」
監督生は、悲壮にうち震えながらも、意志の強い瞳で断言した。
 彼女は、アズールの気高さに惚れこんでいた。それは、強かさであり、信念であり、プライドの高さであり、賢さだ。アズールに間違った選択をさせるなど、許せる筈が無かった。
「仮に、私と結ばれて彼に何の得が有りましょう。煩わせるだけではありませんか」
 彼女は万一アズールと並んだ際に見苦しくならぬよう、日々スタイルの維持に気を使い、化粧の仕方も覚えたが、大手事務所の芸能人には敵わない。勤勉ではあるが、スタート地点のマイナスが何処までも脚を引っ張って勝負にならない。コネは愚か、学園関係者を除けば知り合いはゼロだ。マジカメのフォロワーは学園では多い方だが、著名人の足元にも及ばない。親は居ない。戸籍は学園長と相談中だ。最初から銀の匙を咥えて生まれた者に、何一つ及ばない。彼女では、アズールに何一つ与えられない。
「ねえ、ジェイド先輩。もしご子息が、戸籍の無い女を嫁にと仰ったらどうします? 問い糺すでしょう。やめておけと釘を刺すでしょう。ましてその他に選択肢が有ったなら、それを選ぶ事がどれだけ愚かか諭すでしょう」
エッとジェイドがたじろぐ。彼にしては珍しい反応だった。
「うちは放任主義ですので」
ジェイドは未だ独身である。社会人一年目の、自由を愛する彼には想定外の仮定と設問だった。何より、愉快さを求めてアズールに付いているリーチ兄弟には、アズールの利益を最大化する為に生きたいと願う渇仰は、未知のものだった。

 監督生は、アズール・アーシェングロットがアズール・アーシェングロットらしくある事を尊く思っている。
 計算高くて、手段を選ばず邁進していくのが彼だ。ならば、彼女がそれを損ねる道理は無い。
 アズールは彼女の支配者だ。統治者だ。その信奉は、彼と対等になろうなどという思い上がりを叩き潰していた。そんな傲慢で甘い考えは、夢の中でしか思った事がない。
 勤勉と忠義は彼女を良き従僕にする。彼女は、その身もその心も、アズールに捧ぐと決めたのだから。当然、相応しい花嫁が君臨すれば、渾身の笑みをもって祝福する覚悟すら決めさせる。その裏で彼女がどれだけ嫉妬に身を焦がそうと、血の涙を流そうと、アズールの栄光を翳らせるに値しない。
 それは彼女にとって、アズールを愛する者としての矜持でもあった。見苦しく追い縋る真似など、できる筈もない。
「彼はただのフォークだって銀の髪梳きとして売り捌けるでしょう。でも、髪を梳かす為にフォークを使う方ではないんです」
アズールは適所適材を知る人だ。ありとあらゆる全てのものに値を付けて認識できる人だ。その整然とした世界を、アズールの生簀を、濁して良い筈がない。

 この女は、アズールがなれと言えば泡にだってなる。
 エースは健気さ以外に勝ち目が無いと言った事を後悔した。過ぎたるは及ばざるが如しというように、常軌を逸した健気さは別に勝ち目でも何でもなかった。重過ぎる。寧ろ足枷だ。可愛気なんてものも無い。
『小エビちゃんのバーーカ』
埒が明かぬと判断したフロイドが、さっさと通話を切った。暗く暗転したスマホの画面に、歪んだ女の顔が映り込んだ。眦が赤い。
「もし、アズール支配人が縁談を断る動機に、私への引け目があるというのなら、お気になさらずとお伝え下さい」
監督生は、ジェイドに頭を下げた。ジェイドは引き攣る唇の端を辛うじて持ち上げて、務めて慇懃に返事をした。そして、手土産が入ったままの紙袋を監督生に押し付け、オンボロ寮を後にした。
 エースへの挨拶は特に無かったが、流石に居辛くなったエースはジェイドの背を追うように寮舎を出た。
 頬を撫でる温い夜風は、嫌に湿度が高かった。


 エースはハーツラビュル寮に着くや、デュースの布団に潜り込んだ。
 見知っている筈の悪友が見せた妄執が、知らない女を相手にしているようで空恐ろしかったからだ。デュースは寝惚けた眼でエースを一瞥したが、追い返すよりも睡眠欲を優先させた。
 エース達の世界にアンデルセンは居ない。好いた男が他の女と番うの祝福する愛をハッピーエンドとする文化が無いのだ。
 彼等の知るハッピーエンドは、貧民の男だって法を捻じ曲げて砂漠の姫と添い遂げたし、声を奪われた人魚だって王子と子を生した。愛にはその価値があると、教えられてきたからだ。
 いや、監督生にも、自身の世界を棄てる程の愛がある。ただ報われる事が算段にないのだ。彼女にとって、世界とはいつだって唐突で不規則で、理不尽なものだから。世界は彼女に契約を交わしてはくれない。彼女の世界に理屈を与え、彼女と契約を結ぶのは、いつだってアズール・アーシェングロットだ。
「監督生って、マジでアズール先輩がすべてなんだ」
「そうだな」
デュースは睡魔に蕩けた口調で適当な相槌を打った。エースはその理解度の乖離をもどかしく思いながら、布団を掻き抱いた。
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