アンダー・ザ・シー

 オクタヴィネル寮の自室で微睡んでいたフロイドは、入室してきたジェイドの鼻唄で目を覚ました。

 ジェイドは共有で使っている小型冷蔵庫を開け、よくタレに漬け込まれた肉の塊を出した。フロイドの枕元の時計は午後十時十分を指していた。モストロ・ラウンジの閉店作業が終わって間もない時間だ。ジェイドは勤務を終えて、腹が減っているらしい。
 寝直すには目が冴え過ぎたフロイドは、薄らと開けた瞼の隙間から片割れの横顔を無目的に眺めた。極めて日常的な光景だった。彼のシャープな鼻筋はルームライトの逆光で強調され、弧を描いた唇の下には強く影が差していた。フロイドと鏡合わせのヘテロクロミアは、今日も上機嫌に輝いている。

 ジェイドいわく、空腹は恋しさに似ている。ならば、冷蔵庫から食料を取り出すのは逢瀬の喜びがあるに違いない。冷たい肉の塊を抱いたジェイドは、陶然と目を細めていた。

 オクタヴィネル寮舎には、ラウンジの厨房も共用のキッチンもある。しかし、フロイドとジェイドは共有する二人部屋に、調理スペースと小型冷蔵庫に空間を割いていた。
 その贅沢な空間の使い方は、ジェイドが副寮長を引き受けた為に他の同級生達より広い部屋に住めているお陰もあるが、単に夜食を作る回数が多い所為だ。特にジェイドは燃費が悪く、見た目の上品さに反して食い気が凄まじかった。副寮長が消灯時刻過ぎに共用キッチンを彷徨いてたなどとなっては外聞が悪いと、アズールもこれを黙認している。
 もっとも、調理スペースと呼びはしても、男子高校生の小腹を満たす為だけのそれは、排水口と換気口の為に空間を弄った程度だ。日頃からラウンジに勤務しているからこそ、オフでは凝った物を作りたくないのだ。キャンプ用品と魔法を用いたコンパクトな調理があれば、それで事足りた。

 ジェイドはマジカルペンを振って、空中で肉をスライスした。油を敷いたフライパンの上に、脂身の少ない肉が放られる。
「オレは要らねーよ。ソレもう飽きたんだけど?」
肉が偶数枚焼かれようとしているのを認めたフロイドが、薄目のまま抗議する。フロイドは肉を嫌ってはいないが、ジェイドは人に勧めたい物があれば頻度を気にせず食べさせてくる性質だったので、そろそろうんざりしてきていた。
「まあ、そう言わず」
簡易コンロに魔力で点火し、ジェイドは上機嫌に答えた。
「これが最後なので」
ジェイドが冷蔵庫を開けてフロイドに見せた。仕込んでいた肉はもうこれで最後のようで、冷蔵庫の中は確かに簡素になっていた。フロイドとしては、キノコの冷蔵保存にも異を唱えたいところだったが。
 むくれるフロイドを余所に、鼻歌が再開する。珊瑚の海では有名な曲だった。
 
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 ジェイド・リーチとフロイド・リーチは血を分けた兄弟だが、嗜好が合わない事も少なくは無い。
 例えば、ジェイドは着崩さず慇懃に振舞う事が多いが、フロイドは窮屈と退屈は苦手で奔放である事を好んだ。ジェイドは錬金術や魔法薬学を得意としていたが、フロイドにはレシピ通りにしていれば出来上がる科目の何が面白いか分からなかった。
 食の好みもそうだ。ジェイドはキノコを自家栽培する程に愛しているが、フロイドは椎茸を筆頭にキノコの匂いも嗅ぎたくないレベルで嫌っている。寮では同じ部屋に住んでいる手前、小型冷蔵庫を共有しているが、ジェイドは空間拡張魔法を施して肉だのキノコだのを沢山詰めるのに対し、フロイドは炭酸飲料と酒くらいにしか使っていなかった。蛸なら共に好物だが、ジェイドはあっさりしたカルパッチョを好み、フロイドは腹持ちの良いタコヤキを好むというように、同じ楽しみ方を共有するには向いていなかった。
 このように、見た目がそっくりで仲が良かろうと、好みが分かれる項目は存外多かった。

 だからフロイドは、ジェイドが陸で初めて気に入ったという女を紹介された時、今更その趣味が理解できない事を驚きはしなかった。
 尤も、その辺りの嗜好が被らないのは、フロイドにとって有り難い事だ。互いの膂力と凶暴性を知り尽くした間柄だからこそ、本気で衝突すればどちらも無事では済まない確信があったからだ。


 ジェイドは、ロイヤルソードアカデミーとの合同練習の際に彼女と出会ったらしい。
 陸に上がって一年目の冬だ。その頃のリーチ兄弟は、レオナ・キングスカラーに攻撃性とコンビネーションを評価され、部員でもないのに何かとマジフトの練習試合に駆り出されていた。ロイヤルソードアカデミーは共学で、マネージャーとして女子が来る事もあったので、学校対抗の練習だけは悪くなかった事をフロイドも記憶している。如何せん、フロイド達が今までまともに見てきた陸の女といえば、水死体くらいだったので物珍しかったのだ。

 ジェイドは、黙ってさえいれば紳士そのものに見えたので、エリート校の箱入り娘達に人気があった。所見の反応はフロイドも似たようなものだが、大抵は酷い気紛れぶりを目にして距離を取りたがる。

 もっとも、結局はいつまでも飛行術が上達しなかったので、春頃にはレオナから声をかけられる事もほぼなくなっていた。
 それでも、思春期の男女の仲が深まるには充分な時間だった。ライバル校同士という事も幸いしたのだろう。恋は障害がある方が盛り上がる。長距離かつ短期決戦の恋愛は、互いの本質を理解し合う間ずら惜しんで進展した。
 ジェイドは、その様子をまるでお気に入りのテラリウムを自慢するようにフロイドに語って聞かせた。その鬱陶しさこそ覚えているフロイドだが、肝心の内容に関しては特に興味が無かったので半分も思い出せなかった。


 フロイドがジェイドの恋人とまともに会話したのは、ただの一度きりだ。
 ジェイドがフロイドとアズールに彼女を紹介したいと言い出したので、駅前の喫茶店でランチを共にしたのだ。春期休暇目前の頃だ。まだモストロ・ラウンジの計画が軌道に乗る前だったので、アズールはいち早く断った。フロイドは逃げ損ねたのだ。

 彼女は、輝石の国の出身の人間だった。白い肌をしていた。北の深海出身の人魚程ではないが寒さには慣れていて、冬の寒さが残る街でも薄着だった。フロイドは薄布越しに分かる彼女の尖った肩や細い脚に、なんと食いでの無い身体かと思った。
 その体型に見合って、彼女は少食だった。細い腕にはジェイドが選んだ華奢な腕時計がよく似合っていた。海を思わせる色のピアスが、丹念に手入れされた髪に映えていた。多くの人魚は美しい髪を好むと言われるが、ジェイドも例外ではなかったのだと知った。

 彼女はといえば、タイの冷製パスタを巻き上げるフロイドに驚いていた。
『人魚って魚も食べるんですか』
人間とは不思議なもので、彼女は人魚だから魚にシンパシーを感じてシーフードは遠慮するものだと思っていたらしい。アイゴやメジナウツボなどの草食魚の人魚ならまだしも、ウツボは肉食である。呆れたフロイドはジェイドを見遣ったが、彼は彼女の前では猫被るようで、ベジタリアンから花丸をもらえそうなキノコのキッシュを突付いていたので閉口した。フロイドより燃費が悪いくせに、前菜みたいな量で小洒落た盛り付けだった。
『人魚だからね、魚も食べる』
フロイドは、我ながらにつまらない返答をしたと思った。

 人魚は魚を同類として扱うかといえば、否だ。
 人間だって、人魚という種に勝手な思い込みを押し付けようとする程度には同類視を避けている。要は、人魚はどこまでいっても人魚という事だ。


 ジェイドは彼女にキノコばかり食べていた理由を尋ねられて「折角陸に上がったのですから、陸のものも食べないと損じゃありませんか」と説明していた。
 そこで自己完結してくれるのならフロイドも文句は無いが、ジェイドはその歓びをフロイドやアズールと分かち合いたがるのが厄介だった。丹精に育てたものを、身内にも与えたい。そういう健気で愛情深い感性の男なのだ。フロイドはこれに大いに迷惑しているが。

 きっと彼女もジェイドのキノコ責めで迷惑していたに違いない。そう推し量って、フロイドは勝手に彼女に同情した。
 けれど彼女が一等迷惑したのは、ジェイドが彼女との歓びをフロイドにも与えたがった事だろう。
 電気刺激を与え大きく育てたキノコと、丹精込めて作ったキノコを与えて育てた彼女は、ジェイドの愛の対象として大きな違いはない。可愛がるべきもので、その愛情を受けて育ったものである。他者にも素晴らしさを認めさせたいし、彼の言葉を借りるなら「食べてしまいたいほど可愛い」のだ。
 実際、陸の男はその行為を「食べる」と称するらしかった。
 体内に入るのは雄の方なのに、とフロイドは疑問に思わなくもなかったが、確かにシーツの海で溺れる女は捕食者に向いていなかった。彼女は酷く混乱していた。こういう時の陸の女の姿は、食い荒らされる小魚としか喩えられない哀れさがあった。

 フロイドが陸の女を抱いたのは、その時の一回きりだ。
 もともと、悪趣味な行為であるという自覚はあった。ただ、その時に限っては、陸の女への好奇心が勝ったのでジェイドの提案に乗ってしまったのだ。陸上生活一年目だったからだ。下半身が総排泄孔から放精するウツボの形だった頃には、存在しなかった器官を手に入れたのだ。靴を気に入ったように、それも面白みがあるに違いないと期待があった。
 実際、ジェイドはその機能を気に入っていたようだった。暗くて生臭いそこに自らを突っ込んで、獰猛に笑っていた。
 けれど彼女は、もし二度目を打診される事があれば、絶対に断っただろう。フロイドも二度と御免だった。

 フロイドは、同種の女と海で尾を絡め合っている方が俄然気楽だった。
 他種族の女とはこうも違うのか、と感嘆を上回る不快感が気になって仕方が無かったからだ。彼女の血潮は潮騒のようだったのに、人間の体内温度は人魚には熱過ぎた。
 もっとも、他種族と付き合うには、それくらいの事は覚悟の内でなくてはならないだろう。だがフロイドと彼女はあくまで他人という間柄だったので、違和感だけが残った。もし彼女を愛していたなら、フロイドも感動の一つや二つ覚えたかもしれない。ジェイドがそうであったように。

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 ジェイドが、フライパンの上に火柱を立てた。一気にアルコールが気化して、部屋が上等なウィスキーの匂いで満ちる。

 ジェイドが遂に歌詞を口ずさみ始める。海底の暮らしを讃え、陸への憧れを否定する蟹の歌だ。珊瑚の海では有名な歌なので、たまにアズールがモストロ・ラウンジのピアノを弾きながら歌わせてくれた。ラウンジの客に好評なのは、魚が陸に上がっては料理の具にされてしまうと脅す歌詞のくだりだ。包丁を握る側の魚がそれ歌うのは、確かに諧謔に富んでいた。別にフロイドは、珊瑚の海で暮らしていた時も、自分達が捕食される側になると思った事など微塵も無かったけれど。
 それでも、歌を褒められるのは悪い気はしなかった。人魚の求愛は時として歌で行われるからだ。雄としての性能を褒められたのと同義なのだ。互いに姿が見えない事も多い暗い海の底では、特にそうだ。ジェイドもフロイドも、海でみっちり仕込まれた。恐らく、アズールもそうだ。

 蟹の歌は求婚の歌ではないが、陸と海あわいで揺蕩う者には丁度いい歌だ。
 子供の頃のジェイドとフロイドは、専ら海に沈む船を見ながらこの歌を歌った。人魚達の住む海底まで沈んでくる人間は、とうに歌など聞えない状態だろうが、そんな彼等の事情など構わず歌った。
「陸に行くのは大きな間違い、周りを見てご覧、この海の底」
ジェイドの歌を聞きながら、フロイドは初めて目にした陸の女の姿を思い出していた。人間の死体は、海の深くに沈んでも、結局は身体を醜く膨らませて浮上していく。陸へ帰ろうとするように、海から逃げようとするように。
「何て素敵な世界だ。これ以上何を望む?」
海は暗くて寒くて、太陽の光は届かず、火を起こす事も叶わず、口に入るのは生の物ばかり。退屈ではあるが、フロイドはそれを決して不幸だとは思わない。人魚だからだ。だが恐らくは、人間は死んでも陸を求めるだろう。
 陸のものを愛でるジェイドは、そんな感傷をフロイド以上に抱いていてもおかしくはない。けれど、彼は懲りずに人間を愛した。
 ジェイドが二人目の彼女をフロイドに紹介したのは、一ヶ月ほど前の事だ。

 恋しさは空腹に似ている。ジェイドは燃費が悪いくせに、愛情深い男だった。


 ジェイドが肉を焼き上げ、それを二枚の皿に分けてよそった。
 ウィスキーでフランベしようと隠しきれない、とっくに飽きた肉の臭みがフロイドの鼻を擽る。文句の一つも言ってやろうと思ったフロイドだが、キノコが付属しないだけましだったので放免してやる事にした。
 フロイドは、眉を顰めて滅茶苦茶に胡椒を振った。
「ね、美味しいでしょう」
フロイドは、黙って肉を噛んだ。例え飽きていなかったとしても、好んで食べようとは思わない肉質だった。殊に、火を使った陸の食べ物となると、モストロ・ラウンジの為にアズールにしっかり仕込まれているので、評価基準は厳しい。
 フロイドには、三日ほど絶食した後なら、それなりに美味しく感じただろうという具合にしか感じられなかった。あるいは、ジェイドのようにこれに愛着を持っていたなら、感動の中で食せたのかもしれないとも。

 結局フロイドは、臭い肉を炭酸水で流し込みながら食べた。
「ジェイドお前さぁ、もうニンゲンを好きになんのやめときなって」
「そう思っていようとも欲しくなるのが恋ですよ」
ジェイドが冷蔵庫を開け、中の暗がりに微笑みかけた。
 空間拡張魔法で広げられた庫内には、大量のキノコと飲料と、女の顔が二つ並んでいた。
 どちらの女も、眠っているような血色に見える化粧を施され、細い首を土台にして自立していた。丹念に手入れされた髪の美しい、痩せた女だ。ジェイドはそのどちらも愛している。

 海に連れて行けない女達は、ジェイドの胃酸の海で溶かされ、彼の血と成り肉となる。それに愛を感じるらしいジェイドを、フロイドは特に責めなかった。他種族と付き合うには、それくらいの事は覚悟の内でなくてはならないと、ジェイドの肩を持ってやっても良かった。

 ただ、冷蔵庫が彼女達のショーケースにされる前に、一人部屋を確保したいとは思った。



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