以後不戦敗

 海中に聳えるオクタヴィネル寮舎の中庭で、手鏡が掲げられた。

 寮生は、寮長の座を賭けて現寮長に決闘を申し込む事ができる。ナイトレイブンカレッジの由緒ある校則である。その伝統的な手続きに則り、オクタヴィネル寮では決闘が始まろうとしていた。

 手鏡に気付いたオクタヴィネル生が、中庭に続々と集まった。授業後という事もあり、観衆は寮生の八割といったところだった。その人魚で出来た人垣の中心で、水中で呼吸を可能にする魔法薬を服用した学園長が「どちらが勝っても遺恨を残さぬように」と忠告して決闘の手続きを説明する。
 現寮長のアズール・アーシェングロットは、観衆と学園長に向けて愛想良く微笑みかけてから人垣の中に進み出た。紫がかった銀髪が柔らかに波打つ、背の高い痩身の優男だった。柔和な面立ちと妖しい愛嬌がある笑い黒子は、未成年とは思えない艶やかさを彼に与えていた。けれど、オクタヴィネルで彼を見てきた者ならば皆、その冬の海と同じ色をした瞳が凍てている事に気が付いていた。
 対峙するのは、二人のオクタヴィネル三年生だった。寮の中でも特に恰幅の良い二人で、彼等はリーチ兄弟と同じくらいの背丈を誇る、鮫の人魚と鯱の人魚だ。彼等は既に人魚の姿に戻っていたが、アズールは学園長と同様に水中で呼吸と発話を可能にしただけの人型のまま佇んでいた。

 寮服の上からコートを袖も通さず羽織り、悠々と構えるアズールは、とても今から戦闘を行おうという身形ではなかった。けれど、二人同時に相手をする事を選んだのはアズールだった。モストロ・ラウンジの開店時刻が迫っているからだ。それに、寮生がアズールを侮っているならば、より圧倒的な実力を示しておくべきだという政治的な打算があった。
「アズール・アーシェングロット。何もかもを失ったってのに、手前は随分と余裕だな」
蛸の脚を晒すのが嫌なんだろうが手を抜いた事を後悔させてやる、と鮫の人魚が挑発した。
「もうお前には何も無い。尊敬も信頼も、契約書も、イソギンチャクの奴隷達も、ユニーク魔法も、もう何も無い。インチキ野朗にすらなれないノロマな蛸野朗に寮長は相応しくない。墨を吐いて逃げるなら今の内だぞ」
鯱の人魚が啖呵を切った。野次馬の一部が、それに同調して囃し立てる。それでもアズールの澄ました顔に、一切の変化はなかった。腹の底を見せない微笑と、凍てた瞳が上級生をただ観測していた。
 一方、野次馬達は沸きに沸いた。いつもアズールの傍に控えているリーチ兄弟が不在だった事もあり、それはいとも簡単に増長した。挑戦者達にとっては相手から冷静さを奪う為の作戦に過ぎないのかもしれないが、共感を擽る意見ではあったのだ。この中にも、アズールと契約をし、辛酸を舐めた者が大勢居たからだ。

 学園長が、手鏡を割った。

 海中の中庭では自由落下によって鏡を割る事は叶わなかったが、学園長の魔法によって派手な音をさせながら鏡面の欠片が水に舞った。アズールがオクタヴィネルの敷地内でこの合図を見るのは、二度目だった。現寮長としてなら、初めての事だ。

 マジカルペンを構えた挑戦者二人が、同時に魔法を撃った。
 緑の閃光と赤い泡の塊が、アズール目掛けて最短距離を走る。しかしそれは、アズールの頭から帽子を落とす事すら叶わず掻き消えた。基礎的な防衛魔法ですよ、とアズールはわざわざ野次馬達に教授した。
 喋ったついでといわんばかりに、アズールは短い詠唱で挑戦者二人のマジカルペンを吹き飛ばした。最初からこれをせず、一度攻撃をさせたのはそちらの方が優雅に見えると計算したからだ。初手を取って一発で彼等を叩きのめすのは品に欠けるし、魔法の早撃ちだけで勝ったと思われるのは本位ではないからだ。
 放物線を描いて飛ぶマジカルペンに手を伸ばした鮫の人魚の指が、あらぬ方向に曲げられた。歌うような軽やかな詠唱と共に、アズールは彼の身体を飴細工のように曲げていった。ついでにマジカルペンの柄も圧し折った。魔法石の破壊は校則で禁止されているので控えたが、それ以外に折れるものは殆ど折った。絞られた雑巾のように捻れて歪んだ鮫の尾を一瞥したアズールは、下肢に骨のある生き物の醜態を哀れんでみせた。その尾に折れる骨が無かったら、泳いで逃げられたかもしれないのに、と。
 この時点でアズールへの罵倒に加担した野次馬達は言葉を失っていた。
 一方、鯱の人魚もマジカルペンが手元から離れた時点で身を固くしていた。恐怖を感じてはいるが、身体が動かないのはアズールが無詠唱で仕掛けた拘束魔法の所為だった。投降したくとも、口も手も動かず、眼前で形を変えられていく相方の惨状を見せつけられていた。
「僕はこの学園の蘇生技術の素晴らしさに信頼を置いていますが、海の魔女の慈悲の精神を受け継ぐ者として、寮生に無用な傷を付けたくはありません。さて、まだ挑戦なさいますか」
アズールが、芝居がかった身振りで聞いた。けれど、応答手段は無い。これは見せしめであり制裁なのだと悟った鯱の人魚は泣いた。海中なので、その涙に気付けた者は居なかった。
 仕方ありませんね、と勝手に結論を出したアズールが、オーケストラを率いる指揮者のようにマジカルペンを振り上げた。アズールの政治において、造反者には痛みと後悔が必要なのだ。
 水中に、真赤な血が広がった。呆気無い幕引きだった。

 アズールは、担架で運ばれていく挑戦者達の健闘を讃えた。副音声が付くなら、身の程知らずには当然の結果だと聞えていただろう。
 完全に沈黙した観衆たちを確認して、アズールは彼等に笑いかけた。
「僕の優秀さ、少しはご理解いただけました? オクタヴィネル寮を預かる長として、今後ともどなたの挑戦も受け付けますよ」
嘗てアズールが決闘で今の座を得た時も、全く同じ台詞を吐いていた。
 尤も、アズールが挑む側だった時は、既に内々では次期寮長へと指名が決まっていたのを承知だった為に今ほど陰惨な試合はしなかったが。ただ集団を統率するには己の実力を寮生達の前ではっきりと示す必要があろうと考え、決闘という手段を選んだだけだ。実際、その効果は覿面で、今までアズールに決闘を申し込んだ愚か者は居なかった。アズールがオーバーブロットを起こすまでは。


 アズールはあの日、多くのものを失った。
 取引に負けただけではなく、仕込んだ契約書の秘密も看破され、入学前から集めてきた契約書も全て失った。アズールは、寮生やその場に居合わせた生徒達を傷付け、自身もオーバーブロットによって深いダメージを負った。結果、アズールが手にしていた優れた能力の数々は持ち主の元に返り、契約を以って奴隷としていた生徒達を失い、学園長からユニーク魔法の行使を事実上禁止とする誓約をさせられた。無論、万能の能力に担保された信頼も尊敬も瓦解した。造反者が出るのも、ある意味では当然の流れだった。
 ナイトレイブンカレッジは弱肉強食。弱いものを組織の上に据えるなど、寮生の矜持が許しはしない。
 幸い、アズールには努力で得た優秀な魔法の技能と膨大な知識という奪われないものがあった為、並みの寮生に決闘で負けるような事になりはしなかった。恐らく、今回の決闘で優秀さはイカサマなどではないと証明され、寮生との関係性は修復されていくだろう。しかし、アズールの抱える苛立ちは尋常ではなかった。

 アズールの最大のストレスは、魔法も使えない下級生との勝負に負けた事だ。
 オンボロ寮を担保に、アトランティカ記念博物館から写真を盗むよう契約するまでは計画通りだった。アズールの忌まわしい過去の記録の抹消と、モストロ・ラウンジ二号店の確保が両立する筈だった。何せ、相手は無能で非力な下級生。つい最近この世界に身一つで放り出され、キンダーガーテン以下の常識も無い世間知らずな少女。警戒心は薄く、人魚の存在すら知らなかった上、水中で呼吸できる薬を自力で作る事もできない、監督生とは名ばかりのはぐれ者。友達と呼べる輩は既にアズールの支配下で、一番強力な魔法も奪われた状態だった。負ける筈の無い勝負だったというのに。
 そして何よりアズールを傷付けたのは、監督生の面の皮の厚さだ。
 彼女は、散々にやり合ったアズールを、稀代の努力家と称した。敗者にとって、勝者からの慰めほど屈辱的なものは無い。それも監督生は、アズールのような強力な魔法も膨大な知恵も必要とせずに勝ったのだから、いっそ嫌味に感じた。だというのに、監督生は別段嫌味として発した訳でもなかったので、アズールはより苛立った。彼女の嫌に前向きで能天気な気質が肌に合わなかった。モストロ・ラウンジの二号店を設立する事も諦めていないと教えても、彼女は無警戒に笑っていた。それが余計にアズールの劣等感を擽る。
 最早それは嫌いだから嫌いになり得る要素に敏感になる、という認知バイアスの所為だという自覚も若干ありはした。しかし、嫌いなので仕方が無い。つまるところ、彼女に対するアズールの劣等感は留まる事を知らなかった。


 アズールがモストロ・ラウンジの裏口を潜ると、既に開店の支度は整っていた。
「アズールぅ、何秒で終わらせた?」
接客前から既にボウタイを取っているフロイドが、アズールの背を叩いた。金とオリーブの虹彩異色症の垂れ眼が、悪戯っぽく覗き込んでいた。
「きっかり一分半」
「おっしゃ! ニアピン!!」
フロイドが拳を突き上げ、満面の笑みを見せた。一部の従業員達は、苦い顔でフロイドに金を支払った。もっと早く終わらせろ、とカサゴの人魚が悪態を吐いた。決闘は学園長に話を通す必要がある為、確実に寮生全員に告知がある仕組みだ。拝金主義の煮凝りのようなオクタヴィネルでは、決闘と乱闘は賭けの丁度良い対象だった。
「賭けてたならそう言いなさい。儲けさせてやったものを」
予定調和じゃつまりませんよ、と反論したのはジェイドだった。アズールが決闘だの造反者の鎮圧だのと忙しくしている最近は、副寮長であるジェイドがモストロ・ラウンジの運営を取り仕切ってくれていた。一見するとフロイドを左右反転させたような外見の彼だが、着崩しは一切無く、髪もフロイドに比べて念入りに梳いてあった。接客時に尖った歯を見せつけるような笑い方もしないので、此方の方が幾分か組織運営に向いていた。とはいえ、フロイドもジェイドも快楽主義者の愉快犯には変わりないので、あくまで外面だけの比較結果だが。
「ところで、イソギンチャク達を解放した所為で人手が足りていませんでしたので、新しくバイトを増やしましたよ。紹介は必要ですか?」
「勿論。後で契約書も拝見します」
ジェイドが厨房に声をかけ、新人スタッフを集合させる。面白い事に目が無くて暴力を面白い事にカウントしがちなリーチ兄弟がアズールの決闘を観戦しなかったのは、ラウンジの人手不足と新人教育への多忙が原因だった。ラギー・ブッチのようにアルバイトの経験が豊富なら兎も角、ナイトレイブンカレッジはエリート校である手前、労働は未経験という生徒も多いのだ。
 選り好みはできない状況だが、あまり大きな期待はしたくない。そう思いつつ頭の中で新人研修をスケジューリングし始めていたアズールは、言葉を失った。
 新人スタッフの一人に、今アズールが最も視界に入れたくない女が居たからだ。

 白シャツにエプロンを纏った監督生が、アズールに頭を下げた。
 アズールに意地が無かったら、墨を吹き付けて追い返すところだった。しかしアズールにとって、自身が誰かを嫌っているという情報は弱みにカテゴライズされる項目であり、完璧な寮長兼支配人としてのプライドが情けない対応を許さなかった。苦し紛れに眼鏡のブリッジを押し上げ、婉曲な言い回しで彼女の正気を問う。
「学園長から最低限の生活費をいただいてはいるんですが、どうしても家計が苦しいんです。部活には所属していないので、どの曜日でも入れます」
アズールは、自分を負かした女が経済面でも劣った存在であったと知った。この逼迫した女に負けたと思うと、より一層の苛立ちが込み上げる。
 場違いな自己嫌悪に暫し固まったアズールの脚を、ジェイドが踏んだ。飲食店で働いた経験もあるそうですよ、と追加情報を添えてくる。そもそも人手不足の現状では、彼女を追い返す理由も無い。正確に不服な点を挙げるならば、アズールが監督生を嫌っている事を承知でジェイドが彼女を歓迎しているところだ。ジェイドには、アズールの反応を面白がる節があったのだ。
「制服の丈を直し次第、ホールに入ってもらおうと思います」
折角の紅一点ですから、とジェイドがアズールの合理主義に訴えた。確かに、男子校では女性が八割増で輝かしく見えるものだ。校内唯一の女生徒の存在が確保できたなら、客寄せに使わない手はない。ここで商売の種を切り捨てるのは、アズールの理念と矜持に反する。精々励みなさいと返答をして、アズールは慈悲深い支配人の顔を貼り付けた。

 後日、何処で噂が漏れたのか、女生徒が働いていると聞いた生徒達によってモストロ・ラウンジの求人に応募が殺到した。マイナス値まで振り切れていたアズールやリーチ兄弟の人徳ではどうしようもならなかった人手不足が、監督生への下心によって呆気無く解決した。如何とも腹立たしいものがあった。


 監督生が女性であるという事実は、自身の敗因の一つだとアズールは分析している。
 学園長に言わせれば監督生には猛獣使いの才能があるらしいが、サバナクロー寮が彼女に協力してきたのは、彼等に女性を尊重する文化を持つ種族が多いだからだ。契約書を交わした事を無かったことにしたいレオナ・キングスカラーの目論見もあっただろうが、寮長の部屋に寝泊りした挙句に脅迫めいた交渉を行うなどといった無礼を無傷で看過されたのは、そういう事だ。

 彼女は、アズールが持っていないものを悉く持っていた。
 アズールが苦渋の決断で時給アップした求人より、女性である監督生が居る職場という付加価値の方が勝るのは良い例だ。
 男子校にただ一人の彼女は、その希少価値で丁重に扱われている。人魚の中でも珍しい蛸の人魚だったアズールは、その速く泳ぐ事に向かない身体構造を揶揄され続けたというのに。彼女は幼少期のアズールを「まんまるでかわいい」と述べたが、丸くて可愛いという形容で欠点を許される特権はアズールには無かった。彼女も運動神経が良い方ではなく、マジフト大会のエキシビジョンで醜態を晒していたが、女子なので運動音痴は可愛いものとして済まされていた。雄ならグズでノロマとまで形容される鈍臭さも、彼女なら愛嬌として扱われる。この非対称に吐き気がした。
 加えて、彼女はやたらに運が良かった。そして土壇場に強い。アズールは運の悪さを計画性と実力で補うが、入念な仕込みを運と度胸で引っくり返されるのは、理不尽極まる。例えば、彼女がアズールの契約書の秘密に気付いた事とて、フロイドの不注意がきっかけであり、全くの偶然だった。彼女の友人と呼べそうな同級生二人と魔獣一匹を支配下に置いて孤立させた時も、何故か他学級の真面目で運動神経も良い狼の獣人と結託する予想外を見せた上、芋蔓式にラギーとレオナまで縁を繋いでいた。
 そもそもラギーと監督生はマジフト大会前に悶着があった筈が、今では互いにその遺恨も無かったかのように振舞っている。それをコミュニケーション能力だとか猛獣使いの才だと言うのなら、いよいよアズールには分からない。アズールは恨みを忘れない性質だし、その怒りを燃料に奮起してきた矜持があるので。利害の絡まない状況でそれが出来る精神構造は理解し難かった。
 つまるところ、アズールが彼女を好かないのは、妬みの所為でもあった。そして、運やら縁やらの不定要素で入念なプランを覆す予測不可能性が恐ろしかったのだ。
 人は理解の範疇の外にあるものを恐れ、忌み嫌うのだ。


 アズールにとってもこの世界にとってもエイリアンに等しい監督生は、勤労の中でもアズールには理解の及ばない運やら縁やらを存分に発揮した。
 リドル・ローズハートのオーバーブロット以降、ハーツラビュルの何でもない日のパーティにたまに誘われるらしい監督生は、その縁からか社交性の固まりめいた三年生のケイト・ダイヤモンドをモストロ・ラウンジに誘致し、彼のマジカメにラウンジや料理に対して好意的なレビューを掲載させた。結果、モストロ・ラウンジの顧客は増えた。ついでに監督生がホールにデビューをした際は、下心を持て余した輩に絡まれる厄介事が起きたが、丁度リドルが紅茶を飲みに来ていたお陰で即刻御用となった。寮長としての在り方を改め、健全な友人を作るよう努めるようになったリドルにとって、彼女は新しい友人のフォルダに属しているらしい。この温い関係の構築の仕方は、まずもってアズールには真似できないものだった。
 だが、この庇護され易い温い関係性を構築する才は、従業員に対しても存分に発揮された。
 もとより新規スタッフには監督生目当てに働いている者も居たが、彼女は可愛い後輩に納まるのが上手かった。まず挨拶が丁寧で、愛想が良い。業務中は飾り気の無い薄化粧にひっつめ髪だが、飲食業としては正解だし、言葉遣いと所作には品があった。彼女は常に金欠で適度に同情を誘い、プライベートの社交を上手く躱す術を知っていた。貧しいからか、如何なる賄いも満面の笑みで食べる。ジェイドが二週間近くキノコ料理を作った時も、彼女だけは文句の一つも言わなかった。
 勝手な判断で動かない事とミスしても素直に認めて謝れる事は、従業員として単純に美点だった。元より、経験者だけあって手際が良かった。毎日自炊しているらしく、調理の手際も申し分無い。生ゴミの始末や水周りの清掃も厭わない。時間に厳しく、シフトに穴を空けた事もない。計算が速い訳ではないが、計算しやすいよう価格設定を調整しているアズールの意図を汲んで、メニュー表の主要部分は一週間で暗記してきた。メモを取らせた業務内容は二度聞いてくる事が無かった。

 アズール個人が彼女を可愛い後輩と思う事は不可能だが、雇用者として評価する際は優秀なスタッフとして数えねばならなかった。よって傍目には、彼女にそれなりに良好な印象を持っているように見えたのかもしれない。
「監督生にフェアリーパウダー渡したのって、まさかアズールくんじゃないッスよね」
監督生が始めてシフトに穴を空けた日、アズールは自身と監督生が客観的にどう思われているのか知った。

 急用ができて出勤できなくなった監督生が代打として寄越したラギーが、更衣室で寮服を畳みながらアズールに尋ねた。
 ラギーの言うフェアリーパウダーが、妖精に扮する為に用いた妖精の粉そのものではない事くらいはアズールにも察しがついた。ラギーの出身地である非魔法士の多いスラムで秘かに流通する粗悪なドラッグのスラングだった。
「僕が従業員をわざわざボンクラにしてどうするって言うんですか」
アズールは、片眉を吊り上げて問う。ラギーは給仕服に着替えて身形を整えると、出勤まで少々時間がある事を確認してロッカーにもたれた。
「ま、そうッスよね。アズールくんならそう言うと思ったッス」
従業員が犯罪に巻き込まれた手前、事情を把握しておくべきだろうと感じたアズールも、それに付き合う。本来なら監督生が欠勤の旨と共に説明すべき事だろうが、彼女はスマホを持っていないので、ラギーがその辺りの事情説明を預かってきたらしい。

 フェアリーパウダーは、魔法の使えない人間に一時的に魔法を使えるようにする違法ドラッグである。
 そんな物を所持するはめになった監督生は今頃、鞭を片手に握り締めたデイヴィス・クルーウェルから厳しく生徒指導を受けている事だろう。所持だけで服用は未遂だったらしいのが不幸中の幸いだった。あの薬は依存性がある上、数回使えば思考も儘ならない幼児退行した廃人が出来上がる代物だからだ。
 よって、これを使用した者はすぐに摘発されるし、出所を喋る。アズールは相談次第で相手の望む物を用意するが、迂闊に粗悪でリスクの高い物を提供するような頭の悪さはしていない。他者からそんな残念な小悪党と思われていたなら、アズールも心外である。
「つかアズールくん、育ちが良いように見えて意外と厄いモン知ってんスね」
猫背がちに悪い笑みを浮かべたラギーに、アズールは薬学を学ぶ上での基礎知識だと無難な回答を用意した。
 ラギーは初めから本気でアズールを疑ってはいなかったようだが、彼女が違法薬物を所持していた事が発覚したのを発端に、校内でそういった噂が立っていると教えた。魔法が使える事を入学条件の一つとするナイトレイブンカレッジで、フェアリーパウダーが売り捌かれる事はまず無いから、学校の敷地から出た事もない世間知らずの監督生が自ら購入する線は極めて薄く、提供者が居るに違いない。というのが妥当な推理であり、世論では第一容疑者がアズール・アーシェングロットだと。
「しかし何故真っ先に僕が疑われなくちゃならないんだ。彼女に魔法が使えたって、任せられる仕事は増えませんよ」
寧ろ、今まで教えた業務内容が忘れられる分、任せられる仕事が減る。新人研修は投資であって、利益が回収できなければ赤字なのだ。そう言って世論の推理の稚拙さに呆れてみせるアズールを、ラギーは平べったい眼で見ていた。
「やっぱアズールくんは育ちが良いッスよ。こっちの地元じゃ、魔法が使えない女の子を出稼ぎに出す時は、みんなフェアリーパウダー吸って帰らなくなる覚悟をするもんでしたから」
ラギーは、あのドラッグの本質は魔法の力を外付けする効能にあるのではなく、依存性と人を白痴化させる事にあるのだと囁いた。無能な女よりも女の形をした肉の袋の方が需要がある場合も少なくないのだと。ここで言う無能とは、専門性が無い事や魔法が使えない事、あるいは学がない事を指すのだろうが、監督生はいずれにも当てはまった。
 物言わぬ肉の袋であれば、頭からイソギンチャクを生やすより見栄が良く、決して逆らわない。他人に愛想を振りまかないし、裏切らない。手元に置いておくには丁度良い。恐ろしい話ではあるが、理屈だけなら使用者の意図が解かる。
「だってアズールくん、あの子が愛想振りまいてんのあんまり好きじゃないっしょ?」
傍目には、アズールが彼女に懸想していると思われていたらしい。アズールは噎せた。吸い込んだ息が、気管の妙なところに入っていった。
「まさか、冗談じゃない! というか、僕はそんなミソジニーを拗らせた人種だと思われてるんですか?」
屈辱だった。

 アズールが彼女を特別視しているのは、劣情の為ではない。仇敵だからだ。
 ついでに、惚れていたとしても、そんな陰湿な手段を使うほど愚かではない。そんなアズールの弁解に力の抜けた相槌を打ったラギーは、至極面倒臭そうに「世論ッス」と手を振った。
「まあ渡したのが誰でも、ヤバい奴に目を付けられたってのには変らねーッスから、気を付けるに越したことないッスよ」



 結局、ラギーの忠告する「ヤバい奴」は、一週間と経たずにアズールを煩わせた。
 深夜にオンボロ寮に不法侵入を試みた輩が捕獲されたところ、人相がフェアリーパウダーを渡した生徒と一致すると監督生が証言したのである。犯人がオクタヴィネルの寮服を着ていたので、寮長としてアズールも深夜から呼び出されたのだ。
 アズールが鏡を経由してオンボロ寮に着いた時には、ゴーストと学園長が既に不審な男を取り押さえていた。彼は学園長に首根を掴まれて連行される際、「魔法も使えない下等生物を愛玩してやって何が悪い」と髪を振り乱して喚きたてていた。酷い光景だった。

 そんな差別心剥き出しの下劣なバックミュージックの中で、初めてアズールはオンボロ寮が以前よりオンボロでなくなっている事に気付いた。
 モストロ・ラウンジ二号店に改装する為の下見をした際に比べて、庭が随分とすっきりして見晴らしが良くなっていた。鍵穴が一つだったドアは、新しい錠が三連で付けられていた。
 アズールは、学園長から最低限の生活費を貰っている彼女が、ラウンジで熱心に働いていてもなお困窮していた理由を漸く知った。男に囲まれた敷地で、非力な彼女がそれなりに安全を求めようと思えば、それなりのコストが要るのだ。
 窓という窓の錆びかけたクレセント錠に真新しいカバーが被さっているのを認めて、アズールは自身の認識の甘さを悟った。女の身だから贔屓される事が目に付こうと、女の身だから晒される危機も多かったのだと。そして恐らく、そのどちらも彼女が積極的に望んだ事ではないと。


 アズールは、オンボロ寮で眠れぬまま夜を明かす監督生とゴーストに付き合って、リビングで白湯を飲んだ。
 不審者の身元がスカラビアの二年生だった事が発覚した為に、アズールは不審者の聴取を途中で外されたのだ。その代わりに監督生の方を見てやれと、任されてしまった。今はカリムとジャミルと学園長が離れた所で不審者を聴取している。襲撃されたばかりの少女を放置するのは体面が悪い事はアズールも承知だが、この役は教員に任せるべきではないかと思っていた。せめて、カリムと代わりたかった。アズールは、呆然としたまま口を閉ざした被害者の少女よりも、罪を犯して怯える人間の扱いの方が遥かに得意だった。

 監督生は白湯には口を付けず、膝の上で猫のように丸まったグリムを見ていた。彼は寝ているのではなく、襲われた際に一撃を食らって気絶したらしい。普段は騒がしい程に元気な灰色の毛皮が、呼吸の為だけに規則正し過ぎる収縮を繰り返す。その様子は、余りにも静かだった。
 半透明なゴースト達は、きまずそうにアズールの白湯を追加する為だけに彷徨いていた。
 アズールは、沈黙のままに無益な時間が過ぎゆく事に耐えかねて、疑問を口にした。
「グリムさんが気絶した後、よく上級生相手に立ち回れましたね。ゴーストにも多少の戦闘の心得が?」
監督生が、窓の外を見遣った。雨が窓硝子を叩き、暗い空には細く光る雲放電が散見できた。けれどアズールには、透明防犯フィルムが貼られた窓に無数の傷がある事の方が余程おどろおどろしかった。
「いいえ。私達だけじゃまるで歯が立ちませんでした。今回はツノ太郎が通りかかってくれたお陰です」
奇怪な登場人物の名を復唱したアズールに、監督生は友人だと付け加えた。また彼女は、その不可解な運と縁で危機に勝っていた。
 けれど今のアズールは、その豪運を素直に妬む事が出来なかった。ただの綱渡りでしかないものに、誰だって縋りたくはないのだ。
 アズールは、冷える頭の中で、ラギーの言葉を思い出していた。きっと、その幸運が間に合わなかったら、彼女は物言わぬ肉の袋にされていた。


 寮の近くに、雷が落ちた。
 ゴーストが壁の向こうに退避していく。
 監督生はヒッと小さな悲鳴を漏らし、グリムを掻き抱いた。グリムは脱力したままだった。
 職場では常に髪を一つに纏めていた彼女だが、髪を降ろしていると嫌に幼かった。彼女は下唇が真白になるほど唇を噛んで、未だに尾を引く恐怖を押し殺していた。嘗てアズールを正面から睨んでいた眼は、潤んで今にも溶け出しそうだった。
「クルーウェル先生から、ニンフドラッグについてお聞きしました」
彼女の眦から、涙が零れていく事は無かった。その代わり、何かが決壊したように滔々と喋り始めた。
「フェアリーパウダーとか、シャナキャンディとか、色々な名前が付いているらしいですね。図書館で貰ったんです。女の子は、頭が悪い方が可愛いよって。失礼な事を言う人だって思いました。でも、私が勉強についていけていないのをご存知で、慰めてくれているんだとしたら、厚意なのかしらって考えて、受け取りました」
クルーウェルは、彼女をバッドガールと叱り付けた事だろう。例え厚意であろうと、自分を擦り減らす言葉には毅然と立ち向かわなくてはならない。アズールは勝手に、彼女はとうにそのような事くらいマスターしていると思い込んでいた。
「実際、実践魔法でグリムと上手く意思疎通できなくて困っていたのを見ていたそうなんです。この飴があれば、私の力だけで魔法が使えるようになる。そう言われました。でも正直、腹が立っていました。だから、食べる気にはならなかった訳ですけど……下等生物、なんて思われていたんですね、私」
僕にとってはエイリアンですよ、とはアズールも流石に言えなかった。けれど下等生物と思った事は一度たりとも無かった。アズールが彼女を憎み、恐れこそしたが、侮った事はなかった。
「人は理解の範疇の外にあるものを嫌うだけです」
そうかもしれません、と監督生。けれど、彼女は自身が多くの者から軽んじられている事を知っていた。魔法で仕掛けられたら、彼女一人では何も太刀打ちできない事を心底理解していた。だからこそ、憤りの中にあっても、痛烈に恐怖が心に爪を立てるのだ。下等生物だと否定しきれない自身の矮小さが、一等悔しいのだ。
「私にとっても、魔法は理解の範疇に無いものです。だからこんなに苦手なんでしょうか。全然知識が入ってこなくて。教科書も知らない言葉が多過ぎて、まるで虫食いみたいで、皆と同じテキストなのに、私だけ暗号文書の解読から始まるんです」
アズールは冷め切った白湯を啜った。メニュー表を暗記してくる彼女の頭を悪いと思った事は無かった。今まで補習を理由に欠勤した事もないので、それなりに学んでいるものだと思っていた。
「魔法は駄目です。ひとつ知ると、うんと知らない事が増えて、滅入ってきます。積極的に知りたいと思えませんでした。クルーウェル先生にキンダーガーテン以下の知識をどうにかしろって怒られましたけど。カレッジではキンダーガーテンで習う常識を教えてはくれませんもの」
そもそも彼女は自身が何を知らないかを知らないのだ。未知にぶつかって初めて、どの知識が無かったのかに気付く。そういう段階だった。小テストは、単元の要点を暗記すれば赤点は回避できる。けれど、それはアズールが取引手段に使う一夜漬けテスト対策たる虎の巻の劣化版に過ぎなかった。つまり、身になるものではない。その付け焼刃を繰り返す度、理解度が落ちていく。
 自身を出し抜いた女がこんなにも脆い存在だった事に、アズールは静かに動揺していた。
 雷の魔法を食らおうが、海中で四メートル超えの人魚に追い回されても、決して懲りなかった彼女が、ただ一人の暴漢の為に打ちひしがれている。アズールは彼女の事を、自身が無力である事実などとうに飲みこんだ上で厚かましく能天気に生きているものだと思っていた。だが恐らくは、アズールが知らないだけで、彼女の弱音を聞く者も居たのだろう。例えば、今は彼女の膝の上で伸びているグリムが、その役割だったのだろう。騒がしくてお調子者のモンスターが気を失っているだけで、彼女は酷く堪えていた。
 思えばアズールは、彼女の薄皮に施された化粧並に表面的な部分しか見ては居なかったのだ。
「でも、こんな騒動にまで発展したのは、やっぱり私が学ばなかった所為なんです。際限なく自身が無知である事を突き付けられるのが嫌になって、逃げていたんです。でも本当は、少しでもここで生きていく気があるなら、そんな些細な羞恥心くらい踏み潰しておくべきだったの。だって、ニンフドラッグのニンフがどんな妖精か知っていたなら、きっと私はその場で先生に報告できていた筈だもの」
ニンフとは、花嫁を由来とする妖精の名だが、野性的な神々に従って踊り狂う破廉恥な種ともされていた。女性の過剰性欲を意味するニンフォマニアの語源でもある。クルーウェルはあの薬をそういった用途で使うものだと彼女に説明していたのだと、アズールは察した。
「つまり、あの男はあなたにバカ正直にニンフドラッグはいかが? と勧めたのですか」
「いいえ、便利な飴だと」
「じゃあ知っていても気付くのは無理でしょう」
「でも原材料のクエレブレの鱗は花薄荷の匂いがするから、脳を犯す毒である可能性に思い至るべきだと」
クルーウェル先生が、と監督生。確かにクルーウェルにとってはそうなのだろう。アズールはクルーウェルの完璧主義を憾んだ。アズールの知る一般的な学生の感性を参照すれば、流石にそこまでの連想をするのは無理だと思ったからだ。毒薬に精通したヴィル・シェーンハイトなら気付くか気付かないかで賭けが成立するだろう、というレベルだ。

 監督生は、自罰感情で混乱していた。一度落ち込むと、全てが自分の落ち度に見えるのだ。自己肯定感が低く育ったアズールにも、その傾向には多少の心当たりがあった。
「私の不始末で、学園長を深夜に叩き起こしてしまいました。カリム先輩も、ジャミル先輩も、アズール先輩も、ご迷惑をおかけしてしまって……グリムだって、こんなに酷い目に遭う事はなかった筈なのに」
彼女は鼻を鳴らした。眼が潤みに潤んでいる。拳を握るふりをして、人差し指に親指の爪を思い切り立てていた。アズールは、この所作に心当たりがあった。アズールも、墨を吐きたくて吐いている訳ではないと思いながら、秘かに身体に爪を立ててやり過ごした事があったからだ。涙とて、泣きたくなくとも出るのであれば、密やかに痛みで信号を紛らわせてやるしかないのだ。
「ごめんなさい、アズール先輩。こんなに夜遅くまで付き合ってもらってしまって。ごめんなさい、私が何も学ばなかったから……知らない事からずっと眼を背けてきたから……」
無能だからこそ知識と警戒は必要だったのに、と監督生。どうして分かっていた弱点を克服しようとしなかったのだろうという自己嫌悪に、慰めの言葉は不要だった。
 第一、その手の劣等をあらゆる手で克己してきたアズールが気休めの言葉を吐いたとしたら、皮肉か嫌味にしかならない。アズールは、黙って脚を組み替えた。

 アズールは、喉の奥に苦いものを感じていた。
 今までどうにか平穏でいられた事を不相応であると感じていた筈なのに、いざ彼女が追い詰められている状況を目の当たりにすると、不納得と反感が胸に蟠った。
 資本主義に則って生きているアズールは、己の価値を他者との比較で計る。だから、自身を負かせた彼女が下等生物などと呼ばれるのは、アズールにとってもあってはならない事だった。
「あなたが自身を卑下しているのは癪に障ります」
しっかりしなさい、と口に出したアズールに、彼女は再び力無く謝った。かけるべき言葉を間違えたと悟ったアズールだが、覆水盆に返らず。吐いた唾を飲み込む事はできない。

 結局、アズールは一言も慰めらしい言葉を言わないままオンボロ寮を後にした。
 監督生も、最後までアズールの前では泣かなかった。


 翌日、アズールとジェイドは、授業前にスカラビアの寮長と副寮長を伴った学園長から呼び出され、昨晩の不審者騒動について形式的な報告を受けた。
 ついでに、あのスカラビア生が目撃者から身元を隠す為のフェイクとして着ていたオクタヴィネルの寮服が、畳まれた状態で返却された。オクタヴィネルの寮服はモストロ・ラウンジの制服を兼ねている為に、他寮より入手し易かったらしい。学園長からこれを機に他寮生の雇用には慎重になるようにと釘を刺され、ジェイドは露骨に納得のいかない顔をしてみせた。朝のジェイドは大抵機嫌が良くなかった。
「熟慮の精神が聞いて呆れますね」
ジェイドが原因のスカラビア生を穏当な口調のまま罵倒した。いつもよりうんと睡眠時間が削れているアズールも、似たり寄ったりな風情だった。ジェイドの悪態に頷いて、オクタヴィネルへの風評被害や名誉毀損といった方向性で賠償請求できないか現実逃避がちに思いを馳せる。生徒側からしてみれば、そもそも、あのオンボロな寮舎に女子をゴーストと半人前の魔獣だけ付けて置いておく学校側の危機管理能力の無さも原因の一端ではないかという疑問が先立っていた。
「俺達もスカラビアの精神に反すると判断して退寮を勧めたよ」
アズールと同じくらい外面の良いスカラビア副寮長のジャミルは「そもそもこの学校に熟慮があるのか」と辛辣に皮肉った。

 結果、例のスカラビア生は退学、校内の街灯が増やされ、オンボロ寮の玄関ドアに音声データによる認証システムが導入された。
 交渉したのは殆どアズールだった。そのついでに、モストロ・ラウンジが他寮生を雇用する事に関しては現状維持を勝ち取った。


 そして監督生といえば、朝にはグリムが問題なく回復したらしく、いつもと変わらぬ顔で登校していた。目に見える変化といえば、モストロ・ラウンジにグリムを連れてきた事くらいだった。
「子分のヤツ、心配しすぎなんだゾ」
働き手でもなければ客でもないグリムだが、監督生が頭を下げて回ったので休憩室への滞在を黙認された。監督生に近付きたい従業員達は、将を射んと欲すれば先ず馬を射よと言わんばかりにグリムを餌付けしていた。
 それも飽きてきたらしい今、グリムは小さな浮き輪で水槽に浮かされていた。託児所じゃないぞと一喝したかったアズールだが、期間限定ドリンクを注文したケイト三年生いわく「映える」らしいので、客から文句がつかない限りは好きにさせた。
 ケイトの隣席には、トレイとリドルも座っていた。ハーツラビュルを預かる立場の二人には、昨夜に何があったかを聞かされている筈だった。ケイトは兎も角、寮の庭で頻繁にパーティーを行う彼等がモストロ・ラウンジに来る頻度は、そう多くない。リドルに関しては、監督生のホール初日以来である。彼なりに、親しい後輩の安否を気にかけているのだ。アズールには、リドルの選択が少し大人びたものに感じた。少なくとも、彼女の性別による求心力をやっかんでいたアズールよりは、ずっと大人だった。
「小エビちゃーん、デシャップ代わって。オレ休憩だからぁ」
「はい、今行きます」
監督生は、普段と変らない態度で働いていた。いつも通りの清潔感のある化粧に、満点の愛想。眼の下の隈も眦の赤みも、コンシーラーの下に丁寧に隠匿され、闊達な笑みがそれを悟らせない。よく通る声で対応して、よく気が回る。アズールの目には、恐ろしい程に平常に映った。尤もそれは、アズールが今まで彼女が平常を装った面しか見てこなかった所為だ。その事実を、アズールは酷く情けないものに感じていた。
「僕が代わります。貴方はテーブル案内を」
フロイドと交代で休憩から帰ってきたジェイドが、監督生とデシャップを交代する。
「五番テーブル入りまーす」
今日はレオナまで来店した。サバナクロー寮長としてか、フェミニズムを骨の髄まで叩き込まれた百獣の王としての筋かは明らかでなかったが、彼なりに姿を見せておくべきと判断したらしい。
「ここ酒出るか?」
「出るけど声デケーわ」
三年のスタッフがレオナより大きい声で返事をした。

.

 ウィンターホリデー前の定期テストが近付くと、アズールへの相談件数はずっと増えた。
 ポイントカード制にしても、メインの利用者は然して変わらなかった。
「小エビちゃん、最近は談話室で勉強会してるよ」
アズールが監督生を気にかけたのは連想ゲームの延長線のようなもので、無知と学習不足を嘆いていた彼女の姿を思い出したからだ。二回目の定期考査ともなれば、履修範囲もそれなりに広く、もう小テストや一回目の考査の時のように単元の要点を丸暗記すれば点が取れるという訳でもない。スマホも持っていない彼女は、シフト変更に面倒が多いので、補習を前提とした出勤希望日を出すように伝えねばならないと思っていた。
 しかしフロイドいわく、その心配は不要らしい。
「赤点くらい回避できるでしょ。小エビちゃんバカじゃねーし」
フロイドは、エレメンタリースクールやミドルスクールの頃のテキストを数百マドルで彼女に売った事があるらしい。聞けば、フロイド以外にも彼女の勉強に付き合った者はそこそこ居た。

 その日も監督生は、オクタヴィネル寮の談話室に入り浸っているようだった。
 無許可で寮舎の施設を他寮生が使用する事を禁じる寮則はあったが、アズールは彼女が談話室を利用する事を咎める気は無かった。フロイドが知っているという事は、副寮長のジェイドも知っているだろうという理屈である。
 だが一応、統治者として利用状況を確認せねばならないと思い立ったのである。

 オクタヴィネルの談話室には、壁が無い。一面が本棚で、図書館の学術書のコーナーをそっくり移植したような造りになっていた。これはアズールが、寮の名を辱める成績不振の寮生を強制的に勉強させる為に設えたからだ。図書館と異なるのは、常識の範囲内の私語が可能な事と、寮内会議に使用できるプロジェクターと掛け軸型のスクリーンを備えている事くらいだ。よって、教室や図書館と同じくらいには勉強に向いたスペースと名高い。
 尤も、アズールは閉鎖的な空間で一人で自習した方が落ち着くので、そこで勉強した試しは無かった。寧ろ、わざわざ人の集まる集中し難い空間で勉強する人間の合理性が信じられなかった。アズールは、集中を求めてVIPルームか自室に一人で篭る性質だ。今まで談話室の利用状況に疎かったのは、そういった性分にも起因する。


 しかし監督生は、アズールの信じる合理性を裏切って、談話室でオクタヴィネル生に囲まれてテキストを開いていた。
「この法律上で禁止されている実践魔法の中に脳の改竄ってあるんですけど、同じカテゴリに洗脳が含まれていない理由って、どの分野のテキストで確認できますか?」
彼女の使う机の上には本が何冊も積まれていた。中には、フロイドのお下がりと思しき低レベルな教科書からも混じっていた。
「あ、それね基礎の方。エレメンタリースクールのヤツ」
監督生の机を囲むオクタヴィネル生が、先輩面してテキストを漁る。分野からして、今期の一年のテスト範囲だが、随分基礎的な要素を扱っていた。
「エレメンタリースクールじゃ実践魔法って呼ばないんだよね、これこれ、魔法基礎入門」
アズールは、こんな所で勉強をする輩は、十中八九努力をしていますというパフォーマンスがしたいだけなのだと思っていた。他人に監視されていないと課題に手を付けられないという人種が存在する事も知ってはいるが、そんな自主性マイナスの自堕落な存在が手に染める行為をアズールは学習と見做してはいなかった。
 けれど、彼女の場合は例外だと認めざるを得なかった。
 彼女の知識不足の為に参照すべき本の量があまりに膨大だからだ。加えて、彼女自身はどの本を参照していいかすら分かっていないレベルだ。教えてもらえるなら、多少の鬱陶しさに目を瞑っても、鼻の下を伸ばした取り巻きに聞いた方が速い。自身でいちいち本の背表紙から内容を想像して探すより、うんと早く情報を入手できる。そして、彼女は教師役を選ぶ必要も無かった。何せ、この世界の物事に関しては、大抵の稚魚より基礎知識が無いのだから。

 監督生は、モストロ・ラウンジで付き合いが多い所為か、オクタヴィネルの上級生にそこそこ可愛がられていた。その上、どう手懐けたのか分からない手合いも取り巻きに混じっていた。アズールに寮長の座を賭けて決闘を挑んできた鯱の人魚がいい例である。
「まず法解釈上の改竄と洗脳の違いについて理解していますか。調べるならそこからでしょう」
アズールは口を挟みつつ、監督生の対面に腰掛けた。教師役達の頭脳があまりよくないと察し、その非効率ぶりを哀れんだからだ。マジカルペンを一振りして魔法倫理学のテキストを本棚から引き出し、彼女の手に押し付けた。
「オレ達は対価も払っちゃいねーぞ、アーシェングロット」
鯱の人魚がアズールをシッシと追い払おうとする。アズールに出張られては、彼に教えられるものがなくなってしまうからだ。彼は決闘で拷問紛いの目にあったが、怪我が回復した今は適度にアズールと距離を取っていた。
「この程度のレベルで対価なんて取れる筈もないでしょう。僕は慈悲深いだけですよ」
「胡散臭ぇ」
私闘での魔法は使用禁止なのをいいことに、体格で勝る分だけ強気になっているらしい鯱の人魚が舌を突き出す。決闘を経てアズールは寮長として納得を得たが、やはり絶対的な権威の回復までは出来なかった。特にこの男は上級生という事もあり、アズールに寮長として魔法を行使する口実を作らせない範囲で侮った態度を取ってくるのだった。
 だが、弱者を上に置く事を許さないだけあって、目下の弱者には寛容な男だった。こういった男と縁を作っておくのも彼女の生存戦略だろうと頷いて、アズールはこの男の非礼を受け流した。

 監督生は、魔法倫理学のテキストから該当項目を見つけたらしく、要点を自分のノートに書き写していた。
「ああ、洗脳はあくまで錯覚、脳が送る信号を誤魔化して意識を捏造する事がベースなんですね。対して、改竄の方は脳の組織の廃棄や破損を伴うケース……えっと、つまり、洗脳の範疇だと、その人本来のスペックでできる事しかさせられない訳ですね?」
アズールが顎を軽く引いて肯う。理解力は悪くなかった。
 例えば、ラギーの他人の身体を操作する魔法も、脳から筋肉へ送る信号をジャックしているだけで、操られている人間の筋力で再現できる範囲でしか出力されないものだ。魔法の精度は理解力と想像力に起因する。ラギーは育ちこそ悪いが、人体への理解は大抵の生徒が及ばぬほど深く、二百を超える骨の名は勿論、二軸性関節も全て正確に挙げられる事だろう。アズールが鮫の人魚の骨を圧し折った時も、構造を把握していたからこそ折り残し無く粉々に出来たという訳だった。恐らく、この学校で人体の可動関節を二十も挙げられない生徒の方が珍しい。
 彼女と魔法士達では、学んできた事が根本的に違うのだ。
「……あー、つまり魔法が使えない人に魔法が使えるようにするって、脳の改竄に当たるんですか? 魔法が使える回路を無理に増築しちゃうって事ですよね?」
フェアリーパウダーの騒動は、まだ記憶に新しい。彼女は自身の身に何が起きようとしていたのか、今更になって正確な理解を得たようであった。
「ご明察。脳の組織や神経回路を破損させますから。クルーウェル教授も漸く特別講義の甲斐があったとお喜びになるせしょう」
脳の死が魔法士の死と心得ておきなさい、とアズール。魔法士として生きるクルーウェルやアズールからしてみれば、あの男は屍体性愛者にも等しい悍ましさだった。
 監督生は暫し渋い顔でその認識を咀嚼した後「生徒に与える恐怖に配慮したクルーウェル教授のご指導に感謝します」と述べた。テキストの隅には、非魔法士は脳の出来が魔法士とは格段に劣るとして生きながらに脳死状態にあると主張した魔法士の論文を発端とする差別問題が小さく載っていた。アズールはその論文の表題も序論も諳んじられるが、ナイトレイブンカレッジの考査ではまず出ないトピックなので読み飛ばさせた。
 繰り返すが、アズールは彼女が劣等であるとは決して思わない。

 監督生は、魔法史と防衛呪文で理解に苦しんでいたが、魔法薬学や占星術などの理系科目はそこそこの出来だった。学ぶ事から逃げていたという彼女の懺悔を聞いていたアズールは、些か拍子抜けした気分だった。同時に、フロイドにバカではないと言わしめた素養を理解した。
「前の世界では結構な文系だったんですけど、ここでは数学だけが元の世界と変らなくて、唯一人並についていける科目なんです」
音楽も前の世界と似ているが、魔獣を寝かしつける為の竪琴や船乗りを海に誘うセイレーンの歌などは元の世界には無かったらしい。美術については、彼女が動く肖像画に動揺していた事を知っていたので、アズールは敢えて何も聞かなかった。
「数学が好きになってきたら、地学も化学も関心が持てるようになってきたんです。天体も周期表も元々の世界とは違いますけど、分析とか計算は被る部分があったので」
知ると知らない事が増えて、滅入ってくる。そう言った口で、今や彼女は探求の喜びを語る。恐ろしい立ち直りの早さだった。
 不屈とはこういう者の事を指すのかと、アズールは唇を噛んだ。

 彼女が居た世界には、魔法も人魚も獣人もない。
 力も無く、金も無く、身寄りもない状態なのは、彼女と対峙した時から知っていた筈だった。けれどアズールは、今までそれを本当の意味で理解してはいなかったような気がした。
 
 アズールは彼女に負けた日、多くのものを失ったと思っていた。
 契約書も万能の魔法も、信頼も尊敬も、一切が砂に還った。けれど、フロイドもジェイドも残った。優秀な魔法の技能と膨大な知識は残った。自身の努力という実力で得たのものは失くしようがないものだと思っていた。
 しかし彼女は、過去と分断され、努力して得てきたであろうものすら奪われている。その彼女の前で過去を能動的に切り捨てたがったアズールはどんなに傲慢に映っただろうか。
 何の過失も因果もなく今まで培った知識も何もかもガラクタにされた彼女の目に、未だ努力で得たものが残っているアズールが奪った能力の喪失に取り乱す姿はどう映っただろう。

 アズールの再起には、ジェイドとフロイドが居た。彼女の慰めがあった。才能と膨大な知識と多少の暴力があった。けれど彼女は、出会ったばかりの連中に助けを乞いながら、弱い生き物と侮られながらも、精一杯の平静を装ってこの世界についていこうとしている。
 彼女の方がアズールよりも、うんと不条理を知っている。うんと歯を食い縛って、努力をしている。
 打ちのめされた気分だった。


 「アズール先輩のお陰ですよ」

 新たなテキストを開いた彼女が、アズールに微笑みかける。
「私に以前、努力している姿を見せるのは損じゃないっておっしゃったでしょう」
アズールは、気の利いた返答をし損ねた。優等生然とした笑みを作るのを忘れて、彼女を見遣った。アズールにとって、全く意味の無い言葉だったからだ。
 アズールの記憶が確かなら、それは飛行術の合同授業で四苦八苦している時に言ったものだった。恥かしい運動音痴ぶりを晒されて、苦し紛れに言った記憶がある。彼女を励ます意図など欠片も無かった。
「それまで私、自分だけ何も知らないのが恥かしくて、図書館の隅で誰にも見付かりませんようにって祈りながら勉強していたんです」
けれど彼女は、アズールの影響で尊大な羞恥心に克己したと言う。
「あなたが勝手に感銘を受けて、勝手に励んだだけでしょう」
とは言ったものの、アズールは妙に報われた思いがした。当分は飛行術も気落ちせずにこなせそうな程度には誇らしさを感じた。「努力は魔法より習得が難しい」と言ったのが彼女だったからだ。
 彼女に相当な奮起があった事は想像に難くない。自分がこの女にそれだけの影響を与えたと思えば、不思議と充足感があった。

 最初に彼女がオクタヴィネルの談話室を借りようと思い立った理由は、図書館で嫌な思いをした事と、モストロ・ラウンジの休憩時間に来やすい事だったらしい。知り合いの多い此処では、安価で幼い頃のテキストを譲ってくれる者や、見慣れぬ語句を噛み砕いて教えてくれる者も多く現れたという。
「実際、私を笑う人も居ますけど、親切に教えてくださる方のが多いんです。特にここは」
最初は不明な部分ばかりで虫食い文書の解読のようだったテキストも、教えたがり達が解読のハードルがうんと下げるので多少は読めるようになったらしい。理解の範疇を越えたものに、彼女は必死に向き合おうとしていた。
 彼女の取り巻く寮生達が、照れた笑顔を見せる。彼女にこうも感謝されては、また彼等も張り切って教えたがるに違いない。これも猛獣使いの才といえばそうなのだろう。

 アズールは、鼻の下を伸ばした屈強な男子生徒達を一瞥した。
「まあ、オクタヴィネルは慈悲の精神に基く寮ですからね」
思ってもいないだろうに、寮生達は調子良くアズールに賛同した。
「そーそー、オレ等、慈悲深ぇから。いつでも頼って」
「ミドルスクールの問題集あげるよ」
「テメエは先ず自分で問題集解け」
「アーシェングロットは対価が要るから気を付けなよ」
男子高校生とは軽薄なもので、普段はインチキ野朗呼ばわりのアズールにもその場の雰囲気で馴れ馴れしく肩を組んでくる。アズールは肩に回された手をそっと抓った。
 たまに混じる気安い暴言にも、彼女は慣れた様子で笑う。その様子にまた男達が気をよくするので、図書室だったら厳重注意が必要な騒がしさになった。談話室を選ぶのは正解だった。

 監督生は、アズールを眩しそうに見ていた。
 忌々しい程、憎みきれない女だった。寧ろ、心の凝り固まった部分に沁みていきそうな、恐ろしい人懐こさがあった。
「そうですね。でもここに人の努力を笑わない人がこんなにも揃っているのは、頑張っている人の努力と功績を近くで見てきているからだと思うんですよ」
ついにアズールが言葉を失った。
 突如として賛辞をアズールに簒奪された事に気付いた寮生達が彼に中指を立てるが、そんなものはろくに目に入らなかった。

 アズールはまた打ちのめされていた。
 アズールを稀代の努力家と称した時と変らぬ、賛辞の瞳がそこにあったからだ。最早、嫌味と感じる事すら出来なかった。
 どれだけ万能に魔法が使えたとしても、この女に一生敵わないと思った。
 そして、こんなにも甘い劣等感が此の世に存在する事を、アズールは初めて知った。



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