誰も知らない貴方の事6

 「その女を吊るせ! 絞首しろ! 」
「ああ魔女め、ユダの如き恐ろしい赤毛!」
「 お前の不信心が神の怒りに触れた!」
「その魔女を生かしてはおけん。さもなくば地上はイナゴに覆われ、我々も罰を受けるに違いない!」
「獣の刻印を持つ者め、その命をもって悔い改めろ! 今すぐに!」
「すでに審判は始まっている! 見よ、死の霧を!! 貴様ら淫婦共に御神はお怒りになったのだ!」
「絞首しろ! あの魔女を罰せよ!!」
広いセント・ポール大聖堂の空気が、避難者達の半狂乱の罵声を反響させて揺れる。数多の憎悪に晒されて、メイは慌てて大聖堂から脱出した。

 ヘンリー・ジキルやチャールズ・バベッジが居ないかどうかを牛若丸に確かめてもらうだけ筈の予定だったメイだが、牛若丸に誘われて大聖堂内部に脚を踏み入れたのがいけなかった。尋ね人は見付からず彼等に対する手がかりも仕入れられなかったが、罵詈雑言だけは死ぬほど貰ってしまった。
「何だあの失礼な連中。魔女狩りっつ−か、終末思想ってヤツですか、ありゃ」
大聖堂前の広場まで走って逃げれば、避難者達は追ってこなかった。外は魔霧に満ちているからだ。大聖堂の白い荘厳なドームを一瞥して、ロビンフッドが呆れを通り越して感心すらしているかのような口調で呟く。一世紀以上前には既にこの国の魔女狩りは終焉を迎えていた筈だが、魔霧という怪異に直面した事で科学的根拠の無い差別と迫害によって即物的に不安を解消しようとする思想が蘇っていた。
「文明が崩壊すれば倫理も退行するものよね……正直、三日でここまで過激化してるとは思ってなかったけど」
歓迎よりも排斥の方が慣れている彼女だが、あの熱量には驚いていた。メイを認めた途端に大聖堂を満たした避難者達の恐怖と憎悪は、魔霧などの外的な脅威に侵されるより先に集団ヒステリーに陥って内部的に自滅するのではないかとすら感じさせる勢いがあった。どうやら、メイの緑眼赤毛という絵に描いたように典型的な魔女の記号を揃えた外見が、理不尽な死に怯える人々の琴線に触れたらしい。儘ならない怪異を神罰と捉え異教徒や不信心な物に責任を置く事で精神的な安定を図っている集団にとって、メイは鬱憤を向ける的としてとしてこれ以上無い適役だったのだろう。
「申し訳ありません……迂闊でした。しかし何と恥知らずな連中でしょう!」
牛若丸が青い顔で謝ったかと思えば、自身の主を罵られたことに憤慨して赤くなる。避難者達の面倒を見ていた立場として彼女は頭を下げるが、メイには彼女を責める事は出来なかった。東洋の英霊の彼女に、赤毛への差別やヨハネ黙示録になぞらえた終末思想など予想できた筈も無い。
「まあ、私は遅かれ早かれこうなるかもってちょっと思ってたから、そんなにショックじゃないよ。それより、貴方は大聖堂の人達がこれ以上過激化しないように見ていてあげて」
信仰に熱が入るあまり生贄を出したり反社会的活動に踏み切ってしまうパターンをメイは懸念していた。散々な言葉で罵られたにも関わらず、そのコミュニティの崩壊を心配せよという意見に、牛若丸は納得がいかないという顔をした。報復するか、せめて誤解を晴らすべきではないかと牛若丸は訴える。けれどメイは首を振った。
「私だって気分が悪くない訳じゃないけど。まあ、私が悪魔の使いでもなきゃ魔霧の原因でもない事は貴方達が知ってるからひとまずは良いのよ」
メイは角の無い言葉でこれ以上避難者達と直接関わる意思は無いと伝えた。そこには慈悲というよりも、ある種の諦観が含まれていた。自身の善性を訴える時間や誤解を解く為の労力を支払ったところで、納得されるかは分からない。その上、魔霧という根本的な原因が解決しない限り避難者達は手頃な憎む対象を求め続けるのだと、彼女には想像がついていた。
「しかし!」
怒りを収められないのは牛若丸の方だ。これ以上口を開けば、腹を切らせましょうと物騒な提案が飛び出してきそうな剣呑さを孕んでいた。
 牛若丸の素直さと礼儀正しく慕ってくる様は、子犬のようだとメイに感させた。義に厚く懐く姿が可愛らしいというだけでなく、牙も爪も鋭く気が短い所までよく似ている。
「それに避難所の内部でエスケープゴートを作るより私を原因だと思うことにした方が健全でしょう。私は外部の人間だし、サーヴァントも優秀だから実害は多分出ないでしょうし」
メイは自分の背より高い位置にある牛若丸の頭を撫で、自身の為に怒りを表明してくれた事へ礼を言った。
「貴方は此処で療養して、これまで通り避難所をサポートして健全なコミュニティを維持させて頂戴。私達はウォルワースに行って人を探すから、クー・フーリンによろしく」
「ご命令、ですね?」
勿論だとメイは頷く。仮の契約だが、忠義を持て余す彼女に依頼するには、この手の方法が最も効く事をメイは承知し始めていた。


 避難者達を宥めに大聖堂の中へ戻っていった牛若丸を見送り、ロビンフッドは外套を口元を隠したまま吐き捨てた。
「お人好し」
「貴方、人の事言えないでしょう」
メイはロビンフッドの言葉に少々驚いた顔をした後、苦笑混じりに言葉を返した。
「まさか。オレは言われっ放しなんざ嫌いですよ」
「私だってそうよ。今回は面倒臭かっただけ。というか私、育ちが良いから咄嗟にウィットに富んだ悪態が思い付かなくって」
「へえへえ。こっちは森育ちですからねえ、都会育ちのお嬢さんより品が良くありませんで」
それが言えるなら何か言えただろうに、と思いながらもロビンフッドは彼女の嫌味に応じる。
 ロビンフッドは出会って二日目にしてメイの落ち込む姿や怯える姿を幾度か見たが、彼女が感情を高ぶらせる姿を見た事が無かった。異常事態の最中で散々な事が続いているというのに、彼女はいつも理性を優先させたがる。感情論で人の話を聞かずに突っ走ってしまうマスターより遥かに上等だと評価してはいるが、些かの不安も覚えていた。魔霧が発生して三日目だ。彼女とてあの避難者達と同様かそれ以上の焦燥を感じている筈である。一向に発散されない彼女のそれは、一体何処へいくのか。そう案じてしまうのは、やはり彼こそがお人好しだからだろう。
「……普段なら皆もっと優しいのよ」
軽口の応酬から一変、メイが懐古的な口調で零した。彼女は魔霧に侵される前の生活に思いを馳せていた。差別も迫害も無かった訳ではないが、家族三人で寄り固まれば暮らしていける程度には穏やかだった日々。憎み切れないロンドンの人々の顔が、彼女の頭の中で浮かんでは消えた。
 ロビンフッドが無味乾燥な相槌を打つ。優しいという定義付けには首を傾げたかったが、それ以上の追求をするのはどちらの為にもならないと分かっていた。
 長らく魔女の仕業とされてきたコレラやペストは、インフラを整えるとともに減っていく。彼女の生まれた頃にはもうコレラの原因の一つは汚水であると判明し下水が整備されていたのだから、魔女を探しては手酷く糾弾するような慣習は必要は失われて然るべきなのだ。
 尤も、ロビンフッドは決して親切とは呼べない人々を恨めないお人好しの性を否定できる立場ではなかった。そこにあるのは結局、同族嫌悪めいた蟠りだ。

 口を閉ざして南へ向かおうとした二人だが、背後から単独で駆けてくる足音を察知して大聖堂を振り返る。
 見知らぬ女性が口でハンカチを押え、メイの後を追ってきていた。害意があれば一般市民でも狙撃を厭うつもりは無かったロビンフッドだが、周りに人はおらず武器になる物も持っていない事を確認してメイと女性を交互に見遣った。鼻の潰れた痩躯の女性だった。歳はメイの母親より幾分か上だろうか。
「折角牛若丸様を送り届けてくれたというのに……私達の無礼を許しておくれ。お嬢さん」
恭しく彼女は頭を下げ、メイの手を取ると、その手に小さな金属を握らせた。鈍く銀色に光る鍵だった。女性はメイの返答を待たずに続ける。
「カーターレーン沿いに私の家がある。そこにはまだ食料も毛布も置いたままだから、貴方が好きにお使い。貴方にも神の御加護がありますように」
そう言って女性はメイの首にロザリオをかけ、速足で大聖堂へと戻っていった。牛若丸が差し向けた訳ではないらしく、女性が去った後の広場は閑散としていた。
 咄嗟の事で礼を言い損ねたメイは彼女の後を追おうとするが、完全に大聖堂に入られてしまったのを見てロビンフッドが彼女を制止する。
「ほら、とっとと行きますよ」
お人好しと詰った後にでこうなるとは、少々ロビンフッドも決まりが悪かった。
「アンタも大概ですけど、あの婆さんもよっぽどだ」
メイはロザリオを握りしめて少し呆けた調子で頷く。細かい傷の目立つロザリオに繋がるチェーンがチャリと軽やかな音を立てた。


 「お母様がね、私が近所の子に赤毛を揶揄われる度に言ってたのよ。ブーディカ女王だって髪は赤いって」
思わぬ施しを受けて、メイはすっかり人間賛歌に酔っている。ロンドンブリッジを渡る彼女の足取りは、スキップでもしそうな程に軽い。実際、カーターレーン沿いの家に余分な荷を下ろせたおかげで彼等の身は軽かった。
 一本道という橋の構造上、前後から怪機械に挟み討たれたら厄介だとロビンフッドは懸念していたが、ソーホーの路地より遥かに穏やかに進む事が出来ていた。橋の中間辺りまで歩いても、出会った怪機械はオートマタが二体だけだ。接近される前に遠距離攻撃で無力化し得る見晴らしの良さも彼等に味方していた。
 クー・フーリンが言った通り真下のテムズ川は清らかさとは正反対の様子だったが、橋の上は込み入った街中には無い清々しさがあった。
「緑の眼だってそう。こっちじゃ不幸を稀く色だとか言われてるけど、エジプトじゃ再生や永遠のシンボルカラーよ。オシリス神は肌まで緑色なの。ああ、貴方ともお揃いね」
メイはロビンフッドの外套の裾を摘んで微笑んだ。緑の瞳同士がかち合う。
 彼女は緑の瞳を通して、母親から慈しまれた記憶を辿っていた。
 たかが髪や眼の色を大げさに気にする必要も無くなる日が来ると、枕元で髪を梳きながら話してくれたメイの母。それは眼を閉じずとも片言隻語まで思い出せる程に遠くない記憶だ。
 決して再び聞く事はない声と、二度と髪を梳く事のない指。それらは彼女の今後の人生に二度と登場する事はない。思い出す度に喪失を実感して胸が苦しくなる彼女だが、こうして覚えている事が誇らしくもあった。
 喪失の痛みを直視しないよう今まで彼女が半ば意識的に押し込めていたものが、胸中で飽和していく。寧ろ、今の彼女にとってはその記憶を風化させる方が悍ましくすら思えていた。
「……あの人、少しお母様に似てた」
そう声に出してしまえばメイの顔から微笑が失せて、瞳に涙の膜が生まれた。その胸元で、ロザリオは光を鈍く反射させて揺れる。大聖堂で出会った女性から貰った鍵を握りしめる事で、彼女は今まで意識的に蓋をしていた喪失の感傷に漸く触れたのだった。

 ロビンフッドの頬を、緩やかな風が撫でていく。

 手でも繋ぐような感覚で外套の裾を外套の裾を摘んだまま、メイは歩く速度を少しばかり落とし、空を仰いだ。相変わらず鉛色の空には、不自然な光輪が浮かんでいる。潤んだ緑の眼が空の光を拾って、今にも溶けて出してしまいそうだった。けれど、熱を持った涙腺を圧迫して眼窩から零れ落ちんとする涙は、表面張力に押し留められたまま重力に押し戻され、終ぞ零れる事はなかった。
 それはほんの数拍の事で、メイは直ぐに迷いの無い歩調へと戻った。
「こっちじゃ不実の色だとか不幸を招くなんて言うけど、本当はみんな緑色も好きなのよ。シェーレ・グリーンやパリ・グリーンが良い例。あの発色の良い緑に惚れ込んで、有毒だって分かってても挙って使ったじゃない」
口を尖らせてメイは喋る。その声は、屁理屈好きの子供そのもの。灰色の街には些か鮮やか過ぎる彼女の緋色の髪が、歩調に合わせ揺れる。その仕草は何時もより幼い。
「そもそも! 緑が忌避されるのは、染色技術が乏しい所為で斑になり易かったり同じ色が作れなかったりで不誠実な印象が付いたからって話よ。そんなの、技術の革新と一緒にいつか風化していくイメージよ」
 メイの饒舌に耳を傾けながら、ロビンフッドは分かり切っていた筈の事を今更ながらに実感していた。彼女はサーヴァントの扱い方もマスターらしい振る舞い方も知らない、ただ身体に流れる魔力が濃いだけの少女だ。
「不吉な色だとか、そんな迷信はいずれはみんな気にしなくなるわ。下水が整備されてコレラの脅威が減ったら魔女を探さなくなったみたいに」
緋色の睫に囲まれた緑の瞳は、未来に対する希望を懸命に探していた。都市機能の向上と科学の発展が進めば、災厄の原因を誰かに押し付けて仮初の安寧を得る悪習は必要も無くなるのだと。

 そんな希望的観測にロビンフッドは相槌を打てなかった。懸命に未来を楽観しようとする心に共感を寄せられないのは、彼の現実主義な性分か。或いは、英霊という存在自体が未来に縁の無い亡者の影だからか。
 ロビンフッドの口の中に、苦い物が込み上げた。けれど、彼女の言い分を皮肉や毒舌で茶化してしまえないのは、それが自身に言い聞かせるような口調だったからだ。饒舌は家族に置いて行かれた子供の強がりだ。喪失の絶望に浚われないよう、理性の錨を降ろしている。怒りで合理的な判断を忘れる事も悲しみを涙で洗う事も碌に出来ない不器用な人間は、理屈を繕わなくてはやっていけないのだ。
 それからメイは暫く、別段返答も求めず滔々と喋った。
 それは認知のキャパシティを調整する為の行為でしかなかったので、ロビンフッドも途中でまともに耳を傾けるのを止めた。自己暗示的な強がりは、却って脆さと幼さを浮き上がらせているようで、柔らかい傷口を見ている時の気分になる。


 「サザークにも修道院があるけれど、そこも避難所になってたりするのかしら。そうそう、あそこには確かシェイクスピアの……あら、ちょっとお喋りが過ぎたかしら」
メイの自己暗示的な希望観測がひと段落着いたのは、濃い霧の向こうに橋の終わりとサザークの街並みが見え始める頃だった。一方的に喋り倒していたメイが、ロビンフッドの堅い表情を認め、ふと我に返ったのだ。饒舌は美徳とは言い難い。品格に拘るような質ではないメイだが、自身の退行した振る舞いを思い返して若干の羞恥が募った。
「ま、良いんじゃないですかね。こんなゴーストシティ、黙りっぱなしじゃ辛気臭えだけでしょ」
「そう? じゃあもうちょっとお喋りしようかしら」
「社交辞令って知ってるか、お嬢さん」
とはいえ、屡々渋滞を催す程の交通量があったロンドン橋も、今は二人だけ。暫くどちらも口を開かないだけで互いの靴音を覚えてしまいそうな静寂が訪れるので、沈黙が気不味いのは事実だった。


 しかし、橋を渡り切ってサザークに足を踏み入れれば、お喋りも直ぐに引っ込んだ。サザークの街中は橋上の穏やかさが嘘のように霧深く、自然と口が重くなったのだ。
 サザーク修道院を通り過ぎ、バラマーケットへと近づく頃には、二人はロビンフッドの宝具の一つでもある外套を被って姿を消しながら進むしかなかった。市場の跡を我が物顔で闊歩するホムンクルス達はスケルトンと共に群れを作っていた上に、ソーホーの平均的な個体よりも一回り大きく対処が厄介だったからだ。

 更に南下し、バラマーケットから遠ざかれば、ホムンクルスの密集地ではなくなっていったが、人の気配も無かった。
「本当に此処ら辺かぁ?」
外套を被ったまま、ロビンフッドが訝しげな声を出した。ウォルワース・ストリートとラーコム・ストリートの交差する路で彼等は彷徨っていた。メモによれば確かにこの辺りなのだが、それらしきものを見付けられずにいた。それどころか、廃墟とスケルトンばかりで生身の人間の気配すら見当たらない。
「キミたちがバベッジ卿を捜しているなら残念だが、彼はとうに亡くなっているよ」
姿を消して移動している状態にも関わらず、二人の背後から声がかかった。振り返れば、鴉の濡れ羽のような髪を後ろへ撫でつけた痩躯の男が立っていた。メイは外套の中で、台所に登っていたのが見つかった猫のように身を固くした。その男の知性を感じさせる涼やかな顔には敵意は無い。けれど、魔霧の中を単独で歩けるような者はサーヴァントと決まっている以上、無警戒ではいられなかった。
「なに、初歩的な事さ。姿を消していても、キミたちの存在が消える訳ではないのだから、気付くのは容易いさ。ただ見る者を誤魔化せても、観察する者の眼は誤魔化せない」
宝具が無駄だと分かったロビンフッドが、外套のフードを取って顔を出した。
「隠れるつもりなら、煙草は止めた方が良い」
尤も煙草の匂いだけで察知した訳ではないが、と男は自身の観察能力を仄めかした。その言葉に、ロビンフッドの片眉が上がる。けれど、男は聞き手の反応には凡そ興味が無いらしく、話題を戻して言葉を続けた。
「此処は彼の出生の地ではあるが、肝心のバベッジ卿はもう此処には居ない」
「そんな。チャールズ・バベッジ氏に何が?」
ロビンフッドをの小脇からメイも顔を覗かせる。たった今役立たずの紙切れになったメモが、彼女の手の中でクシャリと潰れた。
「……貴方が?」
「それは違う。彼は十年以上前に亡くなっている。私は彼から捜査依頼を受けた顧問探偵だ」
死亡報告に動揺したままの頭でこの英霊の真名を推測しようとするメイを制し、男は言葉を続けた。
「この時代に生きるきみに名乗るのは止めておこう。きみは私を知っているかもしれないが、まだこの私と一致する人物像ではない筈だ」

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