欺瞞の牙

 日の入りも早くなった秋の暮れ、村に妙な二人組が来た。探偵と助手を名乗るアンバランスな男達だった。
 人狼が出たと騒ぐ声が大きくなってきたから、亡くなった男爵に代わって領地を統括する男爵夫人のロッカが寄越したのだ。

 探偵は、細長いと形容するに相応しい長身で、蝋人形のように整った青白い顔に紫水晶の瞳が嵌まっていた。被造物めいて美しい男だが、総てを見透かしているような、現し世ではない何処に関心を寄せているような、焦点の分からない眼が一等薄気味悪かった。
 まずもって村には居ないタイプの人間だ。そして、探偵の雰囲気にも程遠い。探偵に協力するよう言いつけられている村の大人達も、彼等に気安く話しかけられた試しがない。村の男、ヘルゲも事案に関わりながらも彼等との距離を測りかねている大人の一人だった。

 事件に怯えて過敏になった村は、余所者への畏怖と違和感が鬱屈と渦巻き始めていた。学舎の給湯室に、草臥れた声が集う。
「あの銀髪、本当に探偵だろうか。人の身の上にてんで興味が無えな」
ヘルゲの先輩に当たる白髪混じりの男性職員が、探偵への不満を漏らす。
「野郎、生きた人より遺体に関心があんだ。遺体の腹を開けさせてくれって陳情してら。勿論、親御さんは許しゃしねえよ」
相槌を打ったのは、学舎で最年長の職員だった。露骨な舌打ちと共に、黄ばんだ歯が覗く。
「やっぱ気味悪りぃなアイツら」
お前もそう思うだろう、と先輩二人から同意を求められてヘルゲも頷いた。

 誰かが酒を持ち込んだら最後、普段なら胸にしまっておくべき悪意が無分別に吐き出される。
 皆、疲弊していた。飼育小屋の兎が噛み殺されてから、学舎は男衆が夜間も警備として在中するようになったからだ。最初は兎に付いた不可解な歯形に首を傾げるだけだったが、その後も犯行の実態を掴めぬまま、次々に家禽や畜犬が殺された。小さな生き物だけが死んでいたなら悪戯と思って気に留める事もなかっただろうが、遂に獣の歯形にまみれた少女の遺体も見付かって、不安は一気に膨らんだ。
 人に気付かれずに犯行を繰り返す知能の高さや、捕食とは一切繋がらない殺生を行う残忍性から、人狼の仕業であろうという声も上がる始末。
 人狼の存在を本気で信じる大人は少ないが、それでも皆、得体の知れないソレを恐れていた。

 「何たってあの女はあんな珍妙な探偵を寄越したんだか」
探偵がやって来てした事といえば、学舎の子供や職員に被害当時や前日の状況を聞いて回ったり、子供達が作った兎の墓を掘り返したり、職員の仕事を増やす事ばかりだった。殊に兎の墓を掘り返して傷んだ肉を検分しだした時は、泣き出す子供も居て最悪だった。
「あの女もいけ好かん。男爵夫人だか男爵未亡人だか知らんが、ポッと出の女が領地を仕切るなんざ出来んだろう」
所詮は調査をしたという記録が欲しいだけの領主に雇われた素人探偵だと、白髪の男が言った。焜炉で煙草に火を付けたついでに、肴を炙る。子供のように素直に疲れと不安を身を委ねる事も出来なくなった歳だからか、当たり障りの無い悪口に傾倒しがちになるのかもしれない。
「あん人、腹に男爵の子がいるんだろ」
それだけの学の無い女だと嘲う。だが領地を継いだ男爵夫人は、学問を奨励していた。繁忙期の村は子供も労働力として数えざるを得ない現実を知らぬ筈がないが、あの人は若人に知恵を付けたがった。お陰で学舎に勤める教員は、前年よりうんと忙しくなった。馬鹿め、子供が賢くなったらこんな村なぞ出ていかれてしまうぞ、それで困るのは領主じゃないのか。なんて話題は幾度もここに上がっていた。
「前の夫人が亡くなってからそんなに経ってないってのに。俺ぁ、やっぱりあの女は好けん」
「ああよ、恥知らずで生意気な女だ」
また酒を呷った。ヘルゲは、二人の話に愛想笑いで応える。
「案外、人狼なんて噂を流したのもあの女だったりしてな。女じゃ真っ当に統治できねえから、村民が結束する口実になる恐怖が必要だったのさ」
「馬鹿言え。ならお前から殺されてら」
二人の笑い声が重なる。
「ああよ、そんなら村の男は皆殺されてなきゃ辻褄が合わん」 
正直ヘルゲは、探偵達はいけ好かないし男爵夫人を品の無い女だと思っているが、それ以上に先輩二人の愚痴が苦痛だった。世の中には親睦を深める為に第三者を中傷する事を手段に選ぶ人間も居るが、ヘルゲは中傷を娯楽として見做せないタイプの人間だった。端的に言って、二人と趣味が合わなかった。二人は、実際に男爵夫人が具体的にどう無能かには興味が無い。ただ、女で自分達より上の立場に立っている事自体が強烈に気に食わないのだ。だから、根も葉もない悪辣な憶測で貶める事にも何ら抵抗が無い。現に、男爵が健在だった時は、男爵に妙な蒐集癖があるという噂を耳にしつつも彼等は何も言わなかった。女や余所者という自身とは異なる属性のものが許せない、そんな保守的な傲慢さが透けて見える気がして、ヘルゲは黙って酒を呷った。下品だとすら思う。だが、ここで適当に頷いておくもの彼の処世術だった。
「俺ァ探偵が人狼じゃねえかと思ったよ。見たろ、あの腐肉を前にした時の爛々とした眼」
「獣みてえっつうなら、助手の方がそれっぽかろうよ。あのガタイ、子供じゃなくても簡単に縊り殺せそうだろ」
「ああ、気付いとったか、助手の平たい拳。人を殴り慣れた手よ」

 滔々と不満と謗言が垂れ流され続ける。飲酒と無為な行為の取り合わせは、眼前の不安をぼかすには最適なのだろう。
 ヘルゲもそれに付き合ってもう一杯だけ飲もうかと身を乗り出すと、新たな酒瓶が差し入れられた。
「面白い推察だ」
水仕事に荒れた指先だが、生白く、農村の生活とはかけ離れた営みをする者の手だった。
「貴重な意見として領主に報告しておこうか」
領主が寄越した探偵だった。微酔いの男達が、彼の感情の読めない双眸に見詰められ、居心地悪く俯いた。血の気の引く感覚に、酔いが一気に冷めていく。
「……ただの冗談だろ。酒だって入ってた」
「飲み過ぎてたんだ。忘れてくれ」
子供じみた言い訳だった。分別が戻ってくると、無根拠な中傷が稚拙過ぎてただ恥ずかしい。
「そうか。現領主殿が差し入れにと酒を持たせてくれたのだけど、どうやらタイミングが悪かったようだ」

 良い歳をした大人達が、不体裁のあまり沈黙する。
 人形じみた相貌の探偵だけが唯一、沈鬱とした中で一切の表情を変えずにいた。探偵の紫の双眸は室内を一通り見渡し、ただ無感動な瞬きを数度しただけだった。その情報量が余りに乏しい無表情は、怒られているのとは異なる不快感を与えてくる。それは、生理的恐怖とでも言い換えれらそうな、此方と文化や常識を共有できそうにない個体に対する畏怖だ。
「ところで、領主から此方で寝泊まりさせてもらえると聞いているのだけど、案内を頼んで良いだろうか」
項をひりつかせる静寂も意に介さず、探偵は用件を明らかにした。職員達は顔を見合わせる。厄介事はやはり年少者の仕事だろうと目配せされて、ヘルゲは手を挙げざるを得なくなった。
「……私で良ければ」
助かるよ、と言う探偵の声はやはり平坦で、嫌味なのかすら分からなかった。


 手回しの電灯で廊下を照らしながら、ヘルゲは探偵を客人としてを仮眠室へと案内する。
 給湯室の入り口前の廊下には、助手も控えていた。艶の無い黒髪を雑に整えただけの質実な出立ちは、繊細な造形の探偵とは真逆の印象だった。頭脳労働より荒事の方が向いていそうな体躯で、感情の表し方もストレートだ。
「彼女の経歴が不満なのは尤もだろうが、領主としては懸命にやっているだろう。どうしてそんなに冷笑的になれる?」
やはり給湯室での会話を聞いていたらしい。彼の足取りは酷く荒かった。
「……余所の人達に言っても分からん事だとは思うんですがね」
女に領主は務まらぬと謗りながらも、村民の営みは貢納も賦役も以前と変わらぬままだった。寧ろ、今の女領主は、以前の蒐集癖と噂されていた領主に比べて金を食わない。裕福ではないが、大きな諍いも飢餓も起きてはいない、きっと大局的には及第点の統治者なのだろう。そんな事、きっと大人達は誰もが知っているに違いない。その上で、彼女をいけ好かないと言えてしまうのだ。そういう気質なのだ。
「ここも古い村ですから、女が上に立つ事にアレルギーがあるんですよ。特にあの世代の人達は」
電灯に寄って来た蛾を手で払いながら、ヘルゲは答えた。ここまで歯に衣着せずに言えたのは、やはり彼等が余所者だからだろう。
「無論、誰も本気で貴方達が人狼だと考えてる訳でもありませんよ。やはりこれも、貴方達が余所者だからです」
己が引いた線の内側に入らぬ者を無条件に疎む人は、案外多いのだ。そう弁解したヘルゲに、助手が反感を露にする。薄暗い廊下の中で、彼の黄金の瞳が電灯に負けぬ強さでで怒りを灯していた。そこにあるのは、悪意に阿る者への純粋な軽侮だった。彼が抱くのは正当な不服の筈なのに、助手が醸す怒気には獣と称されるのも頷ける粗野な威圧感があり、ヘルゲは自身の軽口を後悔した。
 けれど助手がこれ以上の文句が飛び出す前に、探偵が適当に相槌を打って切り上げた。
「そう。なら明日の調査には君も同行してくれないか。余所者の僕達だけでは、聞き取り調査が難航していてね」
警戒で口が固いのだ、と芝居じみたお手上げのポーズ。乏しい表情を補うような大きな所作が、余計に胡散臭い。昼中から子供が泣く原因を作っていた男だ。野放しにしておくのも拙い気がして、ヘルゲは断るタイミングを逃した。
「僕はね、人狼が人として村に紛れているという解釈には概ね同意しているんだ」
「獣の仕業じゃあないんですか」
被害に遭った少女も動物も鋭い歯形が付いていたのではなかったかと、ヘルゲが思わず聞き返す。そこで探偵は、初めて口元を緩ませた。
 だが、探偵はこれ以上受け答えはしなかった。続きはまた明日聞かせてやるという意図なのか、彼は一方的に言いたい事だけ言って仮眠室へ消えた。

 そんなマイペース極まる探偵を一瞥し、助手は「まあ俺達が嫌われるのは道理だな」と頭を掻く。彼もすっかりペースを飲まれて、怒気が萎びていた。連れたってやって来た余所者だから探偵と助手は同類と見做しがちになりそうだが、ヘルゲの所感では態度も感性も正反対のようだった。大変ですねと同情をみせれば、助手はヘルゲに「貴方ほどじゃない」と言い返した。給湯室の様子を知られている以上、その言葉は謙遜ではなく純然たる反論に違いない。
「アレはあんな奴だが、頭は悪くないし、肝心なところはちゃんと見てる奴なんだ。多分」
だから協力してやってくれと助手がフォローを試みる。その肝心以外は軒並み些事なのだろうと察しをつけるには余りある無感動さを見せ付けられた身としては、然して有り難くはない情報だったが。


 かくして、ヘルゲは探偵達に巻き込まれた。
 ヘルゲにとって、助手も探偵も苦手な部類の人間であり、決して面白いものではない。とはいえ、上司に当たる年配の同業者とも正直馬が合っておらず、給湯室で管を巻く生活サイクルよりは捜査の手伝いが幾分か上等に思えたのも事実だった。昨夜の思わせぶりな探偵との会話が気にかかったこともある。
 ヘルゲはまんまと、余所者と現地人の緩衝材として二日目の調査に加えられた。


 まずヘルゲは、探偵達と共に兎小屋に訪れた。
 先に亡くなった少女の方から調べるべきではないかとヘルゲは進言したが、近場かつ手口が分かり易い案件から整理していった方が良いという探偵の判断だ。特に兎小屋では、噛み殺された兎の皮膚からは獣の牙が見付かるなど、犯人が残した情報が多かった。それこそがヘルゲ達村人が犯人を狼の化物とする根拠になっているのだが、探偵の意見はどうも異なるようである。
 兎小屋は、学舎の北端にある。小屋の前片に張り出した庇は藤の蔓に覆われていて、小屋の周囲は柔らかな日陰が作られていた。その落ち着いた雰囲気は、人狼騒動にヒステリーじみた反応を見せる世間とはまるで別物だ。生き残った兎達は未だ小屋で飼育されているが、置物に徹しているのかと思う程に大人しい。小屋の床には、消しきれなかった血の染み込んだ跡が残っている。不可思議ではあるが幸いにも、フェンスや戸など小屋の設備には一切の破損が無かったので、死体の処理と掃除をしたこと以外は事件当時と変わってはいなかった。
「人狼が人として村に紛れている、でしたっけ?」
やはりヘルゲが一番気にしたのは、探偵が中途半端に開示した人狼への見解だ。
「獣だけじゃ兎小屋に入れないのなら、必然的にそうなるでしょう」
助手が兎小屋の出入り口を改めて検分する。四方を金網フェンスで囲われた簡素な作りをしていた。兎は穴を掘る動物であるから、小屋の周りはモルタルで埋められており、鍵の閉まった戸を開けるかフェンスを破るかしなくては侵入は不可能だった。フェンスには破られた跡が無く、戸を開けたとしか考えられないのだ。
「飼育小屋の錠は民家のそれ程頑なじゃない。というか、動物の脱走と侵入を防ぐのが主目的で、人間にとっては密室ですらない」
これならちょっと練習した大人なら鍵穴に針金を突っ込めば簡単に空くだろうという粗末な錠であることは否定できなかった。そんなまどろっこしい手を使わずとも、四方がフェンスなのでサムターンに紐をかければ小屋の外側から鍵を使わずに施錠する事ができるだろうと探偵が指摘する。推理小説じゃ良くある手口だった。
「けれど実際の犯行はもっとシンプルな筈だ。フェンスに棒でも突っ込めば、外から簡単に開錠できる。というのも昨日、子供達が鶏小屋の掃除をする際に箒の柄で鍵を回しているのが見えましたもので。きっと、兎を世話していた子供達の多くはその開け方を知っているのでは?」
探偵が雑なジェスチャーでサムターン回しの手口を解説する。実際、小屋の掃除に使っていた箒の柄は、フェンスの隙間に余裕をもって突っ込める直径だった。
「つまり、兎を殺したのはここの子供だと?」
「あるいは大人か。何れにせよ、人と考えるのが自然でしょう」
本当は貴方達もそう思っていたのではないですか、と探偵の硝子じみた双眸がヘルゲを見ていた。子供がやった開錠方法を、大人が思いつかない道理も無い。人間の仕業と言ってしまえば、疑うべきは身内になってしまう。同僚を犯人ではなかろうかと思いながら過ごすのも厄介だし、子供が犯人でもやはり教員は監督責任を問われるだろう。超常的な存在の仕業として曖昧にしておくのが都合が良かった事は否めない。共同体の内部の人間を疑うには、この閉塞的な環境は余りに不向きだった。
 生唾を飲んだまま、ヘルゲは無難な返答を見つけるために視線を彷徨わせ続けた。こういう時に上手く言葉が紡げないのは、ヘルゲの直実さであり、この村で暮らすには欠点足り得る愚鈍さだった。
「だから領主殿は僕等を呼んだのだろうね。僕達は余所者だから」
相変わらず感情を読ませない淡白な表情で、探偵はヘルゲの不実を許した。

 探偵は、ヘルゲにスケッチを見せた。兎の墓を掘り返した時に、その遺体を観察した記録として作ったらしい。
 黄ばんだ安っぽい紙束には、陰影を省かれた絵と細い線で構成された斜体じみた文字で、観察結果を詳細に記録していた。より克明に記録する為なのだろうが、スケッチというよりデッサン的なイラストまで混じるのが心臓に良くなかった。探偵は絵が上手すぎた。緻密に描かれている猟奇的な兎の死体を前に、ヘルゲは「画家の才能もおありですね」などと嫌味を言う気すら失った。歯形の形から、孔だらけにされた肉の質感まで、余りに精密な描写だった。子供がこの画を見たら泣き出すに違いない。
「実物じゃなくてスケッチで申し訳ない」
思わず眉を顰めたヘルゲの視線に気付いたらしい探偵は、見当違いに詫びた。
「とはいえ、小屋に侵入した手段の他に、獣の牙についても考えるべきだ。これはこれで大変興味深い」
問題の牙は、兎の腿の肉に埋もれるように刺さっていたらしい。文字の方はヘルゲの知識に無い用語も混じっていて難解だが、絵を見れば素人にも大まかなイメージが共有された。
「牙の形自体は大型の犬か狼の前臼歯と見ているんだが、歯形、つまり歯列はイヌ属のものとは遠いだろう」
緩いアーチ状になった歯形のスケッチに眼をやったヘルゲは、探偵の指摘に頷いた。スケッチの端には、肉に空いた穴の位置と数から歯の並び方や口腔の奥行きや幅を推測したのであろう図まで描かれていた。その手の獣にしては口の幅に対して奥行きが狭過ぎると、素人目にも分かる。
「……歯形が綺麗に残り過ぎているのも妙ですね」
もし、獣が狩りとして兎を捕らえようとしたならば、兎の死体には歯形だけではなく爪の痕も付く筈だ。そもそも、素人目にも分かり易い程に歯形が綺麗に残っているという事は、兎は噛まれている間に身動ぎすらしなかったことになる。これも獣の犯行を否定する証拠であろうかとヘルゲが見解を述べれば、探偵が間髪入れずに同意した。
「そうなんだ。犬の類なら、犬歯や切歯等の手前の歯で肉を咬み切ってから咀嚼を行う筈だからね。まずこんな歯形は付かない。というか、肉が潰れたり裂けたりしていても、質量的に欠けている様子は無かったよ。噛み痕まみれだが、食べらたといえそうな箇所がない。ついでに言えば、噛み殺されたと表現するのも不適格だ。頚部の鬱血と損傷の具合からして、頚を絞めて殺すか弱らせるかして抵抗されないようにした後に噛んでいると考えるべきだ」
パズルに没頭する子供のような興奮で、探偵は矢継ぎ早に喋った。兎の墓を掘り起こしたにも見せた、あの爛々とした眼がそこにあった。若月のように薄く開かれた口から、微笑が漏れている。けれどヘルゲは、彼が紡ぐ言葉もその表情も君が悪くて仕方が無かった。この血生臭い事件を検証しながら、知的好奇心への刺激が優越する彼の精神性は、きっと何処にいても異端だろう。
「抜けていた前臼歯はそれらの歯より奥の歯だし、獲物本体に食らい付いたままその歯が取れる程の圧力をかけるのも不自然だ。顎の使い方が、牙の用途と全く合っていない。そう、歯列と顎だけで言えば、」
「……人間のものだ」
探偵の言わんとすることは、ヘルゲにも分かった。この男に呑まれるのを恐れてか、ヘルゲは自分が馬鹿ではないことを証明しなくてはいけない気がして結論を引き継いだ。
 探偵は、当然のようにヘルゲの回答を肯った。
「実に興味深い犯人だと思わないか」
ヘルゲは同意しかねていると、代わりに助手が応じた。
「兎小屋に侵入した者が獣の犯行に見せる為に作った仕掛け、という線が一番現実的だろう。俺はこんな事をする犯人を興味深いとは思わない」
助手の正義感は、兎にも発揮されるらしい。領主を無根拠に中傷した連中に向けた侮蔑の眼が、スケッチ越しに犯人に注がれていた。精悍な男が静かに義憤の炎を燃やす様は皮膚が焦げてしまいそう恐ろしげがあったが、同時に、助手まで探偵と同じ感性ではない事にヘルゲは安堵できた。
「僕も犯人の精神性までは感心していないよ。多分、彼も」
探偵の弁明に、ヘルゲは大きく頷いた。加えて言えば、ヘルゲは犯人の意図や精神性は愚か、動機も正体も興味深いとは思えていなかった。二度と不可解な事件が起きなければそれで良いだけだ。
「僕としては歯の形成に異常のある人間が居る線を推しておきたいけど、この村にそんな人が居たら直ぐに耳に入るだろうし。人間が顎の形成に異常のある犬を連れてきたって線の方が妥当だろうか」
「悪趣味め。こういうのはどうだ。獣の歯を頭蓋骨にくっついたまま持ってきても、あの深さの歯形を付けるにはそれなりの力をかける必要があるからから、一旦頭蓋骨から取って操作しやすい小道具に植え替えて仕掛けを作った。つまり、犯人はただの人」
助手が、火鋏や総入れ歯などを改造した小道具で歯形を刻んだのではと提案する。探偵より妥当な線だ。
「だが結局、人間が犬を連れてきたにせよ、小道具で歯形を付けたにせよ、分からないことは多い。そもそも人間に拠る犯行と隠す気が薄いなら、何故遺体に獣の歯形を付ける必要がある?」
探偵はプロファイリングは苦手だと言いながら、犯人像の矛盾を指摘する。あの兎や小動物達や少女を殺さないといけなくて、狼の仕業に見せる必要があった。これでは弱い。ならば、兎小屋の鍵を開けずにフェンスを切るなりした方がそれらしい。そもそも年端のいかぬ少女を殺す理由が分からない。もし少女が犯人の重篤な秘密を目撃したとして、その口封じに殺したというのであれば、小動物達が死ぬ意味が分からない。
「世の中には手頃な命を蹂躙する事に悦びを見出す性質の人間が居る事を否定しないが、そういう人間は継続して殺す事を考えてもっと死体を上手く隠すだろう。死体を作って自己表現するタイプとも違う。遺体を飾らないからだ。最もインパクトを与えたであろう少女の遺体は、隠してあったとは言い難いが発見されるのも襲い場所だったし、簡単に殺せる題材であろう体長44センチの兎すらコンセプトの分からない雑な仕上がりだ。少女を除けば小物だけでトロフィーにもならない」
手頃な命を蹂躙する事に悦びを見出す性質の人間について嫌に詳しい探偵は、つらつらと喋った。そしてもう一度言う。プロファイリングは苦手だ。


 兎角、兎だけでは情報不足である。殊に、犯人像や動機を絞るには、彼等は村の実態を知らな過ぎる。
 他の被害に遭った所を回って当時の状況を確認したいと、探偵はヘルゲを学舎の外に連れ出した。

 まずは、学舎から最も近い現場からだ。学舎から北に徒歩二十分の所に、被害を受けた民家がある。三日前に、小屋で飼っている雌鶏を殺されたらしい。
 そこの家主は一人暮らしで、乾燥の目立つ目元が哀愁を放つ老爺だった。彼は急な訪問にも関わらず、あっさりと聞き取りに応じた。
「襲われた時だけ鳴くんなら気付けんだがなあ。それとも、もう耳が遠くなっちまったか」
殺されたのは老いた雌鶏一羽だけだったからか、取り乱した様子は無い。老爺が忌々しげに皮肉を吐くほど、小屋の鶏は常に騒がしい。鶏特有の甲高くて断続的な鳴き声は、頭に響く。探偵は、鶏達に向けて親指を立てて観察した後「体高50センチ」と呟いた。確かに、鶏達は家禽としては小型の部類である。それが品種によるものなのか環境によるものなのかは、ヘルゲには判断が付きかねたが。
「表の鶏小屋の近くに杭が打ってあるのを見ましたが、あれは番犬を繋いでおく為のものではなかったのですか」
探偵が当時の状況を追究する。焦点が定まっているか怪しい印象に反して、彼は確かによく見ていた。
「もう老犬だ、役には立たん」
呼ばれたと勘違いしたのか、隣の部屋から犬が顔を出した。老いて外飼いが厳しくなった為に、最近は室内に入れているらしい。灰色の雑種犬で、中型に分類できそうな体躯だった。しかし、艶の無い毛並みで、肉の衰えた脚は細くて頼りない。短い耳と口許は重力に負けており、目脂で濡れた眼をしている。素人目にも、犬に残された寿命が長くない事が分かる容姿だ。人懐こさが余計に哀愁を生んでいた。
「新しい犬を迎えても、今度が俺が世話してやれるか分からんからな」
新しい番犬を用意しなかった事について、老爺は己の無警戒を自嘲しながらも、自身の年齢を気にしてのことだと明かした。老人独りの暮らしだが、食器棚や椅子のクッションなど家の端々に、女性の存在が垣間見えた。奥方がとうに亡くなっているるのだと、ヘルゲは暗黙の内に察した。助手も返すべき言葉を見付けあぐねて、寄ってきた犬の頭を数度撫でただけだった。犬は初対面の相手でもお構いなく、助手の掌に骨の目立つ額を擦り付ける。
「それに、向かいの家の犬が馬鹿デカくてな。チャドっつたか。普段ならソイツがウチの敷地まで睨んでた」
「普段なら」
探偵が鸚鵡のように聞き返す。雌鶏が襲われた日、向かいの家の大型犬は不在だったという。
「その日、チャドも死んでたんだそうだ。多分、鶏小屋がやられるよりも先に」
鶏小屋の異変に気付いた老爺が向かいの家を確認した時、向かいの一家は老爺よりも遥かに打ちひしがれた様子だったらしい。
「おや、その犬も歳だったのですか。それとも、人狼の案件でしょうか」
老爺は、詳しくは知らないと前置きして、向かいの家の様子についても出来る限りは応えようとしてくれた。
「そこそこ若い犬だった筈だ。だから死んだって聞いた時は驚いたさ。あのデカい犬が簡単にくたばるとも思わんからな……今は新しく子犬を貰って飼ってるらしいが、まだ小さいし当分は番犬にゃなりゃしない」
つまりは、未だ碌な警備体制も無いままらしい。尤も、頼りにしていた大型の番犬さえやれていたのだとしたら、対抗手段を用意する事も難しいだろうが。
 助手は警護を申し出たが、老爺は静かに首を振った。
「まあ、こっちは老い先短い身だ。他の所の力になってやんな」


 向かいの家を訪ねると、庭の盛り土に手を合わせる父子の姿があった。犬小屋は空だ。
 聞けば、犬に墓を作ってやったばかりだと言う。あの貰ったはかりの子犬が、今朝方に殺されたらしい。噛み殺されたのだという。何という間の悪さか。漸く外の犬小屋で寝るよう躾け始めた日に、人狼の餌食になったのだ。
「ご愁傷様です」
探偵が挨拶した。彼は作ったばかりの墓をまた掘り返したがったが、探偵が許可を取ろうとする前にヘルゲと助手が割り込んで弔辞を述べた。
 連続して飼い犬を喪った一家の表情は暗い。関知せぬ間に犠牲が増えていた事を知った助手も、自責と悔しさで暗澹としていた。
「息子には何も聞かんでくれ。出来る限り私が答えよう」
一家は、父子家庭だった。年嵩の父親と、第一次反抗期を終えたかその最中くらいの幼い弟と、十を少し越えたくらいの兄の構成だ。向かいの鶏飼いとは、母親の居ない家庭と草臥れた独居老人とで互いに労働力を補い合いながら持ちつ持たれつで暮らしていたらしい。子供達はいずれもセンシティブな年齢だ。兄の方は、ヘルゲも学舎で教えた事のある子だった。モリスという名だと記憶している。彼は気難しくて、笑った顔など誰も見たことが無い。おまけに、今日は風邪気味らしく、マスクで顔の半分を覆ったまま焦点の合わない瞳で不安定に盛り土の前に立ち尽くしていた。ヘルゲの経験則では、精神が健全でない時の体調不良は復活が難しい。寧ろ、あの歳ならば精神の不均衡が体調不良に悪影響を与えるパターンも充分に考えられる。どう声をかけても追い詰められてしまいそうな、頼りない背中だった。到底、何か聞ける雰囲気ではない。
 
 一家の父親は、白髪混じりの茶髪がやつれた印象を与える中年だった。一時は太っていたのかも知れぬと思わせる弛んだ皮膚が、皺を増やして余計に彼を老いて見せていた。
「前に飼ってた犬が死んで、その兄弟犬の孫犬を貰ったんだ。鉢割れの模様までそっくりなヤツだった。だが今朝、モリスが餌をやりに行った時、既に血塗れで冷たくなってた。向かいの爺さんのところと一緒だ。食いもしねえくせに噛み殺して弄んだ、惨い死体だった」
子供を屋内に引っ込ませて、父親は庭先で探偵の相手をした。喋っていると、嫌でも空の犬小屋が目に付く。いずれ大型になる事を見越したサイズで作られている小屋は、中身が無いと酷く簡素だ。小屋のプレートには、可愛らしい子供の字でチロと書かれていた。これが子犬に付けられた名なのだ。彼等がその名を呼んでやれたのも僅かな間だけだった。父親は、その名を沈痛な面持ちで舌で転がした。その固有名詞は、生きていた頃の子犬に対して呼んだ回数より、今からの状況説明で登場する回数の方が多くなるだろう。それがヘルゲには痛ましかった。
「傷口の形について伺います。しっかりと歯形が付いていましたか? それ以外の目立った外傷は?」
「……噛み殺されてるから人狼の仕業って騒いでんだ」
傷心の彼等に共感を見せないのは、探偵だけだ。この男は、給湯室の職員達に接していた時と変わらぬ平坦な声で質疑を続けていった。冷酷だとは思わないが、冷淡だ。少なくとも、この人は自分の味方ではないと確信するに足る。ヘルゲは、誰かの味方ではない者を中立や公正と称する場合がある事も知っていたが、多くの人はそう考えない事も知っている分だけ胃が痛かった。
「そう。失礼した。では、向かいの爺さんのところと一緒と仰いましたが、つまり前の犬は違う死因だった訳ですね」
「ああ」
相手の機嫌を取る事を完全に省いた探偵の後ろで、ヘルゲは「何卒ご理解ください」の表情を作ろうとした。けれど、父親は無礼な詰問に対する怒りよりも、悲しみを思い出さねばならない痛みの方が遥かに強いらしい。探偵の態度もヘルゲの顔も見てはいなかった。空の犬小屋と盛り土の下に眠っているであろう犬達だけが、彼の心に住んでいるようだった。
「アレは獣の仕業じゃない。多分、子供の悪戯だ」
家の窓からは、マスクの子供が探偵達を覗いていた。長男のモリスは、その幼さを考えると不相応なまでに静かな雰囲気を纏っていた。動きの乏しい硝子玉のような瞳は、この世の不幸が全て映しているかのよう疲弊と悲壮があった。子供達への聞き取りを阻止した父親の判断は正解だった。
「向かいの方から、チャドはとても大きな犬と聞いていますが」
ヘルゲは傷心の彼等の為にも一刻も早く此処を立ち去るべきだと考えたが、探偵は前の犬の件も気になるようだった。
「そうだ。そして賢い。人間に噛み付いたことは一度も無い。チャドに吼える事を許していたのは、向かいの鶏小屋に他人が入った時と、家に人が押し入った時だけだった。忠実な犬だった。そして、それが悪戯を増長させた」
悪戯だと、父親は強調的に言った。それは免罪の言葉ではない。寧ろ逆だ。命を軽んじる者への憤りが纏わりついていた。探偵が詳細な経緯を頼むまでもなく、彼は言葉を続けた。
「モリスを学舎に行かせるようになってから、子供がうちの犬に悪さをするようになった。俺が仕事で出れば、家に居るのは小さい弟だけだからな。様子を見に来てくれる向かいの爺さんも、子供の逃げ足には敵わん。チャドを屋内に匿ってやりたかったが、それじゃあ番犬の意味も無い」
二度も飼い犬を他殺で失った男の失意と憤懣が、行き場の無い復讐心が口調に篭る。この村は山々に囲まれた盆地であるが故に、昔から犬を友とする家が多いのだ。彼も例外ではないようである。
「綱を切られたチャドは、山の麓で見付かった。一目で執拗に殴り殺されたと分かるボロボロの身体が、猪を取るような括り罠で木に繋がれていた。足元には血塗れて傷んだ鋤が二本あったが、犯人の身元は分からなかった。俺は……そいつらを鋤でブン殴ってやりたい。チャドが殴られた分だけ」
「全くもって同感だ」
助手は鼻息荒く同意した。きつく握り込まれた拳が、怒りに震えていた。心情的にはヘルゲもそちらの側に付いていたが、此処で同意するのは憚られた。彼等は決して冗談や誇張で口にしたのではなく、条件次第では実行に移しかねない危うさがあったからだ。

 探偵だけは、坦々と質問を続けていった。その平坦な声は相変わらずで、やはり感情は見付からない。チャドとチロの体高から始まり、手口や時間帯、息子達の交友関係まで、最低限の礼節で聞き重ねていく。その揺るがない機械的な中立さを、ヘルゲは少しだけ羨ましく思った。


 ヘルゲ達は更に幾つかの質問を重ねた後、チャドとチロの墓に手を合わせて立ち去った。まだ二件しか回っていないのに、黄昏時が近くなっていた。傾いた日は半熟の黄身のような色をしている。
 一家の息子達の交友関係の中に、犬に悪戯する子供や亡くなった少女との関わりがないかまでは探れなかった。男寡の多忙さでは息子の交友関係を具体的に把握しきれてはいないらしい。かかった時間の割りに収穫は少ない。
 探偵は最後に、人狼の被害についてではなく他にここ半年以内で大型犬を失った家庭がないかまで尋ねていたが、特に芳しい回答は得られなかった。森の周辺は猿避けに大きな犬が好まれるので、知りたければそちらで聞けとのことである。尤も、その頃には父親は「二度と来るな」と言わんばかりの表情をしていたので、早く話を切り上げさせたかっただけかもしれないが。

 一応、ヘルゲにも探偵が大型犬を気にした理由を、今回の事件と関連性を持たせて予想する事は出来た。助手の言った通り、ただの人間が獣の歯形をつける小道具を制作しているのだとしたら、一番入手しやすい牙は死んだ飼い犬の物だろう。野犬や狼を捕獲するよりずっと簡単で、損傷のない物が手に入る。
 しかしヘルゲには、大型の犬を殺した者と今回の事件の犯人が同一とは思えなかった。彼もプロファイリングの知識があるわけではないし、この小さな村に複数人の異常者が居るとは思いたくはないが、直感がそう囁いていた。抵抗を奪ってから小動物に歯形をつける今回の手口と、何度か悪戯を繰り返した挙句に大型犬を撲殺して凶器を残したまま去った犯人のイメージが一致しないのだ。何なら、小動物達とチャドと少女とで、それぞれ犯人が違うと言ってくれた方が、まだ納得が出来る。
「そもそも、小動物を中心に狙っていた犯人が急に人間にまで手を出したのは不自然ではないですか」
移動の最中、ヘルゲが探偵に聞いた。次に向かうのは、愛玩用の小型犬を人狼に噛み殺されたいう家だった。家は学舎から少し離れて、森の入り口に面していた。舗装の甘い道を、砂利を踏む音を響かせながら歩く。
「無い訳じゃない。殺人の予行演習として動物を殺すケースは多い。いや、演習のつもりはなくとも、生き物を傷付ける事に快感を覚えて道を踏み外す奴だっていた」
答えたのは助手の方だった。彼は、ヘルゲの直感とは異なる犯人像を描いているようだった。プロファイリングというには断定的で、憎悪が強い。そういう人間を多く見てきたといわんばかりの口振りだった。黄金に燃える双眸には、押し殺しきれない凄烈な怒りが滲んでいた。経験則ですか、などと軽々しく聞ける筈もなく、ヘルゲは曖昧に相槌を打った。


 三件目の聞き込み対象は、またも教え子の家だった。
 空がすっかり薄紫になり始めた夕暮れの頃、ドアを鳴らすと金髪の癖毛が印象的な男子が出迎えた。家の中に、他に人は居ないようであった。
「げえ、先生じゃん。こんばんは」
「げえは無しだ、アンデレ」
無礼な口振りに厳しい声を作って応じるが、それ以上の小言は必要ではなかった。彼はモリスと同じくらいの歳と背丈だったが、茶目っ気と物分かりの良さを備えた彼は大人からの信頼を得ていた。勉学は中央値に過ぎないが、同じ歳の子供に比べてうんとしっかりしている。
「はは、すみません先生。でも、ウチに用なら、今日はもう駄目。父さんも母さんも夜警の当番なんだ。兄貴もついてっちゃったし」
夜警、と助手が聞き返す。どうやら、領民達は輪番制で警備に当たっているらしい。その正義感と自立心に助手は甚く感動していた。けれど、家に子供を一人だけで残していくのは却って危険ではないだろうか。皆が思い思いに安全を確保したがり、自治の真似事をし、却ってコミュニティが脆弱になっている。その危うさを感じたヘルゲは、解決を急ぐ必要を改めて感じた。
「ところで、君のペットがどんな風だったか聞いてもいいかな」
「いや、これはセンシティブな内容だ。保護者も居ない時に聞くべきじゃない」
助手が探偵を制止した。ヘルゲも助手の意見に賛成し、探偵とアンデレの間に割り込んだ。
「僕は大丈夫ですよ。探偵さん、昨日も聞き込んでましたよね」
アンデレは努めて冷静に語り始めようとするが、教員の立場として不味い気がしたヘルゲが止めた。この探偵の好きにさせれば、墓を掘り返して死体を検分するであろう事は実証済みなのだ。後で保護者にトラウマを植え付けたと睨まれては、ヘルゲが彼等に同行する意味が無い。
「明日また来る。君のご両親によろしく伝えてくれ」
助手はそう挨拶して、同じ位の身長であろう探偵の首根っこをひょいと掴んで撤退させた。如何に探偵が痩身といえどその膂力は尋常ではなかろうとヘルゲは眼を剥いたが、アンデレは無邪気に笑っていた。探偵が無抵抗のまま運ばれていく様子に滑稽さを感じたらしい。探偵は首根っこを掴まれたまま、アンデレに手を振っていた。


 秋の暮れの太陽は駆け足だ。次の聞き込みに行きたくはあったが、そろそろ一般家庭には迷惑であろう時間帯に差し掛かってしまった。
 今日は最後に少女の遺体があった場所を検証してから学舎に戻るべきだと探偵が提案する。何故この一等危険な時間帯にわざわざ一等不穏な場所に行くのかと言えば、探偵曰く「犯人や重要参考人は現場に戻ってくる場合が多いから」らしい。彼はこの心理を「防衛的な露出行動」と呼んでいた。

 少女の遺体が発見されたのは、領地を囲う西方の山の麓だ。
 澄んだ川と豊かな草木の茂る森の中は、昼なら美しく感じただろうが、日が落ちると鬱蒼とした陰鬱さを見せていた。
 犠牲になった少女は、サラといった。アンデレやモリスより一つ歳上の少女だ。彼女は、人間では唯一の被害者だ。彼女の件は、今朝死んだチロの件を除けば一番最後に発覚していた。しかし襲われた順で数えるなら、彼女が一番早い。
 優しく正義感が強く、異性にも同性にも友達が多い子供というのがヘルゲを始めとする教員の印象だ。だからこそ、妙な場所で一人で死んでいる事への違和感が強かった。その上、子供達を相手にした探偵の聞き込みは失敗しており、事件当日のサラについての情報はあまりに乏しかった。
 彼女は川の傍で、仰向けの状態で死んでいるのが発見された。入り組んでいて人目に付き辛い場所だった。加えて、その川というのが男爵の遺体が見付かった直ぐ上流らしいので、最近では領民も意図的に近寄るのを避けていた場所だった。しかし、子供一人で歩けない場所でもない。遺体を隠すには中途半端でありつつも、殺人の成果を誇示するにも不適当な立地だった。

 助手を先頭に探偵達は森を分け入って、現場の川縁を検証した。
 遺体は安置所に移されたものの、兎と違って出来る限りの現場保存がされていた。川の傍の遺体があった場所に、人型のアウトラインがチョークで描かれている。血痕はそのままだ。
 
「遺体には防御創も無し、出血量は極めて少ない」
探偵が助手とヘルゲに情報を共有する。探偵は兎の時と同様に、昨日の内に安置所で遺体のスケッチやメモを大量に作っていた。しかし、やはり事ある毎に解剖すべきだと呻くのだった。
 ヘルゲたち教員は、初潮が来たばかりの幼気な身体にも例の歯形が容赦無く残されていたと報告を受けていたが、遠慮を知らない探偵の口から語られると、凄惨さが増して聞えた。というのも、彼女の両親は遺体を多くの人に見られるのを嫌がっていたのでヘルゲは遺体の様子を詳細には知らなかったのだ。実際の遺体を見たのは、発見した領民達を除けば、両親と領主と憲兵の一部と探偵だけだ。
「つまり、此処ではない所で殺されて、運ばれてきた。そして此処で歯形を付けたが、その際に多少の出血があった、ということですか」
探偵も、その可能性を高く見ているらしかった。ヘルゲは、探偵の制作したスケッチと、遺体のあった場所を交互に眺める。少女の遺体には例の牙による咬創と、細かい擦過傷だけだったので、ヘルゲは川で遺体の血抜きをしたという案を切り捨てた。助手は無言のまま、足元の岩に染み付いた血痕を見下ろしていた。確かに血痕の付いている範囲は少なく、纏まりに欠けている。もし少女に大量の歯形が残っていなかったら、事件と結び付けて考えられる事も無さそうな量だ。
「彼女が他の小動物達とは違って、直接の死因が中毒死だ」
「それは初耳ですね」
ヘルゲが相槌を打った。確かに、彼女には兎のように首を絞めた痕も無ければ、挫創や刺創も無かった。外傷を作らない殺し方は限られる。
「紅斑と鼻腔や口腔の潰瘍から、服毒が一番疑わしいと判断した。胃の内容物を調べさせてくれないから困ってるんだが、恐らく殺鼠剤だと踏んでいる」
殺鼠剤の主成分からの連想で急性砒素中毒が思い当たったヘルゲは、苦しみ悶える少女の最期が頭を過ぎった。人の死に首を突っ込む仕事は、共感能力が不利に働くらしい。探偵といえば、暢気にも靴を脱いで川に入っていくところだった。澄んだ水は川底を近く見せるが、川の中央部は案外深いのだ。気を付けろとと教えてやったが、それも特に気にしていないようである。
「犯人を絞るには至りませんね」
ヘルゲは探偵の奇行を無視して喋りかけた。子供も労働力として数えがちな農村であるから、誰が殺鼠剤を簡単に手に入るだろう。その上、どの家もだいたい同じ薬品を使うので足が付き辛い。犯人もその効果を狙ったに違いない。
「そしてもう一つ。彼女は川に入っていたらしい。彼女の髪に水草が絡んでいた。それも、水草の種類からして、もっと川の上流の方に居たことになる」
探偵は、川の深さを確かめるように緩慢な歩調で歩きながら答えた。彼が歩く度、水流を妨げられた川が音をたてた。ヘルゲは、探偵がこのまま上流まで歩くと言い出さない事を願った。
「ちなみに溺水の線は」
「溺死は検死も難しい。簡単に否定できないが、中毒症状の事を鑑みるに、その線は薄いと思ってる」
川の中央は、探偵の腿を濡らす深さになっていた。夕日を乱反射して橙色に輝いていた川の水面が、日没にあわせて暗くなっていく。幸い、川の流れは緩やかなので怪我の心配をする必要も無いが、辺りが暗いと足を滑らせる危険も大きくなる。助手は着替えが少ないからそれ以上は止めておけと喚いていた。

 「……ルドルフ、川向こうの子、誰か分かるかい?」
探偵は、はたと歩みを止めて助手を呼んだ。
 彼の川向こうに顔を向けたまま、眼を凝らしていた。夕闇に紛れて判別が難しかったが、確かにその視線の先には子供のシルエットが認められた。
「学舎に居た女の子だ。こんな時間に何してるんだ」
一体どんな視力をしているのか、助手が素早く応じた。
「防衛的な露出行動だ」
「そんな馬鹿な」
じきに日が暮れるぞと助手が声を張り上げると、子供は飛び上がるような仕草で焦りを露わにした。子供は回れ右をして、此方とは正反対の方向へ走り出した。その遠ざかる小さな背中は、木々の陰が作る暗がりも手伝って、瞬く間に見えなくなっていく。
「確保!」
探偵が猟犬に命じるような鋭さで声をあげた。その指示を言い終えるが早いか、助手が走った。走り幅跳びもかくやという勢いで対岸にむかって跳躍し、川に突っ込んだ。そして水の抵抗を感じさせない走りで川を渡りきり、向こう岸の森へと駆けて行った。恐ろしい早さだった。長身の分だけ歩幅が大きいとか、そういった些細なアドバンテージすら置き去りにする瞬発力と速度だった。唖然とする間も無く、直ぐに森から子供の叫び声が上がった。それが捕獲の合図だと、誰に説明されずとも判る。知らない大人にあの勢いで追われたら、誰だって怖かろう。
「この子が犯人あるいは重要参考人って……まだ子供ですよ」
助手は、アンデレやモリスと同じくらいの歳の少女を小脇に抱えて戻ってきた。水位が膝を超える川を、子供一人分の重心の傾きをものともしない安定感で渡ってくる助手は、重戦車めいた威圧感がある。少女は蒼白な顔を、今にも泣き出しそうな具合に歪めていた。
「あるいは告発者。まあ、人狼だのと大人が騒いでいる時に子供一人で森に入るような愚かな子であると考えるよりは現実的だ」


 彼女は、アンネと名乗った。
 サラと学舎に通っていたところを、ヘルゲも見た事がある子だった。普段は大人しく可憐な風情の少女だが、髪を木の枝にでも引っ掛けたのか今はみすぼらしく乱れた格好をしていた。眼の下には、濃い隈があった。
 何故こんな所に来たのかとヘルゲは聞いたが、サラの死について思うところがあるからだと既に風貌が語っていた。大人達は、如何なる事情を聞いても決して怒らないと再三約束することで、彼女に口を開かせた。

 アンネは白い花をポケットから出して、サラが斃れていた場所を示すアウトラインの外側に添えた。彼女が弔いの為に持ってきた花だった。
「……わたし、サラにひどいことしちゃった」
彼女の口から出たのは懺悔だった。アンネは川辺に腰掛け、俯いて表情を隠したまま話し出した。ヘルゲはその隣に座って相槌を打つに徹する。人間味の薄い探偵も、厳つい助手も、子供の相手に向いていないのは明白だったからだ。
「男の子たちに、サラってジャマだよねって言われて、でも言い返せなくて……サラのこと、みんなでムシするようになったの」
それは虐めの告発だった。サラはヘルゲ達大人が知る限り、優しく正義感が強い娘だった。大勢を敵に回す程の子には到底見えない。いや、妥当性が無い自覚があるからこそ、こうしてアンネは懺悔しているのだ。
 ヘルゲは振り返って、後ろで突っ立て聞いている助手と顔を見合わせる。怒らないと約束した手前、口を挟んではいけない。そう互いに視線で牽制し合う。顔色を変えないのは、川に浸かったままの探偵だけだった。
「道理で子供達からサラの情報が聞き出せなかった訳だ」
探偵は口元以外の表情筋を殆ど動かなさないままだった。然して驚く様子が無いのは、単に関心が薄いからなのか想定内だからなのか、ヘルゲには判別がつかない。ただ、感情的にならない人間がこの場に居る事は、少女に取って幸いだったようだ。
「サラがこんなところに行ったのも、きっと私たちのせい」
少女が、スカートをくしゃくしゃに握る。彼女は、自殺あるいは失踪を企てたサラが自らこの森に行ったのだ考えているようだった。
 大人から見れば平和で無邪気な子供達の世界も、過酷で相応の陰険さが渦巻いていたのだ。余所者には長閑で閑静な盆地に見えるこの土地にも、そこで生活する者にとってもはそうでないように。コミュニティには、小規模とて、内側に居るものにしか見えない人間関係や制約があるのだ。
「どうして私、こんなことになる前に、サラの味方になってあげられなかったんだろう。どうして、みんなに何も言い返せなかったんだろう……どうして……正しい事が、できなかったんだろう……」
段々と声が萎んでいく。己の無力を深く恥じ入った、今にも消え入りそうな声が自問を重ねては自責を繰り返す。乱れた髪の隙間から僅かに覗く白く幼い頬に、涙が伝っていた。彼女の他にも幼い少女を追い詰めた者たちが多数居るのであろうことも、やるせなさを加速させる。
「これじゃあ、私たちの方が人狼なんかより、よっぽどおそろしい怪物みたい」
ヘルゲは、彼女にかけるべき言葉を探した。既に罪悪感でいっぱいの少女を、誰が叱りつけることなど出来ようか。
 事が起こってから行うべきだった「正しい事」を論うのは簡単だ。けれど、この歳の女の子が「男の子たち」から同調を求められて毅然と断る事にどれだけ勇気が要るだろうか。狭いコミュニティの中で「みんな」に加担しない事が、どれだけのリスクを背負う事になるだろうか。道徳と処世術が相反して伝えるべきだった本音を隠してしまう事は、大人のヘルゲでもよくある事だった。けれど、共感を伝える事は、幼い彼女に「こういった柵は大人になっても続く」と教えて追い討ちをかけるようなものだ。


 沈痛な静寂が訪れる。すっかり太陽の隠れた森は、益々影を濃くしていた。木々のざわめきと川のせせらぎが、傷んだ心を冷ややかに舐める。
 暫くして、探偵はその温度を感じさせない声で切り出した。
「どうして正しい事ができなかったんだろうか、と言ったね。僕も往々にして、破滅を感じた後になって漸くそう思う。だから僕も気になって、学生の時分に人間の残虐性についての研究に参加した事がある。一定の条件下では誰でも残虐行為を犯すものなのかという実験だ」
助手が探偵を窘めたが、少女はその話の続きを要求した。
「結論から言えば、凡その人間は条件次第で残虐な行為を容認してしまう事が実証された」
助手の口が反抗的に開きかけたが、逡巡の末に声が発せられる前に閉ざされた。ヘルゲは、慰めの言葉をかけようとして、言い淀んだ。ヘルゲの培った教養が、実験に基づく結論に対して無根拠な反論が意味を成さない事を承知してしまっていたからだ。
「つまり、君達は怪物でも何でもない、普遍的な人間の性質が発露したに過ぎない訳だ」
やはり、この情報は欠片も慰めにならないものだった。その実験結果は、ヘルゲのような爛れてしまった大人が抱える自己嫌悪を癒すには多少の効果があった。けれど、未来を夢見るべき子供に聞かせるには、冷た過ぎる。
「そ、そんなの……」
一応、ヘルゲは教員だ。精神論的な綺麗ごとを言い連ねる程度の語彙はあった筈だ。けれど、いざ気の利いた事を言おうとすると何も出ては来ない。少女相手とて、子供騙しの無根拠な希望的観測をつらつらと並べ立てるのは気が引けた。狭い村社会しか知らない彼女が、その唯一のコミュニティを裏切って告発したというのに。その道徳心の発露を欺瞞で慰めるなど、あまりに不誠実だと思えたのだ。
「ウソつき! サラだけが人間だった。サラだけが、正しい事をしたのに……」
アンネが俯く。自分達は怪物だ、とアンネは繰り返し自責する。彼女は糾弾される事を望んでいたのだ。叱られて償えば正しい者に戻れるという筋道があると、信じたいからだ。人間の仕組みとして世界全体がこの歪みを抱えていると知るよりも、自分達だけが狂っていたと考える方がまだ幸せだからだ。
「サラだけが正しい行いを?」
聞き返した探偵に、アンネがおずおずと頷いた。善悪を確認した探偵だが、彼は彼女を叱りはしない。助手のように悲嘆に震える素振りもない。その紫の瞳は明瞭で、ヘルゲのように共感故に言及を躊躇している訳でもなさそうだ。それどころか、同情や義憤に絡め取られない彼の舌はだれより滑らかだ。
「そういう意味では、サラは集団の中での異分子だった訳だ?」
「そ、そんな言い方、おかしいよ」
アンネが頑なに首を振る。けれどその青褪めた顔は、ある種の心当たりがある事の表れだった。もう何を隠す必要も無いのにそれを口に出さないあたり、それは道徳に反しているが歪曲した集団の中では妥当な流れがあったのだとも取れた。
「おかしくはないさ。彼女のような人は少数というだけ。主義主張の正しさは、集団との良好な関係を維持する政治性とは全くの別物だ。稀有であることはその正しさや邪悪さとは関係なく、迫害の対象に成り得るものだからね」
稀有、とアンネが聞きなれない単語を繰り返す。ヘルゲが、とても少なくて貴重という意味だと意訳してやれば、アンネは数秒の咀嚼を必要とした後に頷いた。


 探偵が川から上がり、アンネの横に腰掛ける。
 探偵は長身だが、脚が異様に長いのと尻が薄い所為もあって、座ると存外子供と顔の位置が近い。アンネは僅かに肩を揺らして身構えたが、彼女に向けられたのは無関心と観察の間と称するしかない眼差しだけだった。
 凄惨な告白を聞いた身だというのに、探偵の態度は凪のように何処までも静かで、掴みづらい。ただ、この男は正義を語ったり罪人を糾弾したりという熱には無縁だという事だけならよく分かる。
「例の、僕の関わった実験の話をしようか」


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