姦賊の澱

 茂る木々に日向を奪われた森の深く、ルドルフは植物採集に勤しむシャロムの後ろ姿を漫然と眺めていた。

 本日のルドルフの仕事は、熊避け兼護衛だ。
 森の中のシャロムの小屋から遠くない距離に生薬の原料となる植物が自生しているのは前々から分ってはいたが、熊の縄張りとも非常に近い為に一人では危険だと判断したシャロムが彼を誘ったのだ。

 シャロムは膝を超えない丈の赤紫の茎を持つ草の群に分け入り、少女の小指の先程の蕾を摘んでは袋に入れている。湿った日陰に群生するそれが、生薬の原料になるのだ。厳密には、その雄花の蕾だけが。最初こそルドルフも採集を手伝っていたが、目当ての雄花と使い物にはならぬ雌花との区別が付かず、開始早々に戦力外になってしまったのだ。
 損なわれた植物が、苦味を帯びた青臭い匂いを強く発していた。蕾を取られた茎の傷口が、ねばついた組織液を過剰に分泌するのだ。植物の組織液に染まって爪の先まですっかり赤くなったシャロムの指も、その匂いが移っていることだろう。ルドルフは倒木の上に腰掛けたまま、小さく鼻を啜った。


 シャロムが草叢を移動する度、彼の腰に提げられた熊避けの鈴が鳴る。手が汚れるのも厭わず背を丸めてもそもそと草と戯れるシャロムは、子供が花を摘んで遊ぶ時と同じ幼気さがあった。
 けれど、俯いたことで露出した彼の項には、子供には到底付き得ない鬱血痕が咲いていた。
 シャロムとルドルフが互いの思慕を受け入れ合ってからというもの、身体の関係が発展するのに時間はかからなかった。若くて健康な男で、他人の入る余地が乏しい孤立した環境下に二人きりなのだから、無理も無い。
 最初こそはシャロムの後孔を使って一般的な男女の交接に似た事も繰り返していたが、ルドルフの尋常ならざる体力と膂力が災いする事も多く、最近は専ら素股に留める事が多かった。シャロムがその人形めいた外見や自我の薄そうな表情が齎す印象とは裏腹に、ルドルフの高い体温に接触する事に多幸感を得ているようであった。

 シャロムの膚は白くて肌理の細かい。硬く尖った関節や脂肪の柔らかさなど欠片もない胸部が同じ性の生き物である事を知らしめてなお、ルドルフは彼に触れる度、酷く脆くて無垢な生き物を相手にしているような感慨を覚える。戦地で幾度もボロ雑巾のようにされた自身の体表とはまるで正反対で、深雪を踏む悦びにも似た背徳を覚える。何より、その簡単に破いてしまえそうな柔く儚い無防備な肌を差し出されるのは、面映い程の信頼に裏打ちされた甘い恍惚があった。
 彼の晒された項を吸うのは、最早ルドルフのルーティーンと言って良かった。後ろから抱き込むように横臥すると、丁度頸が目に入る位置にそれが来るのだ。襟足の間から覗く項は、汗疹の一つも無い被造物めいた造形美に反して、汗が滲むと眩暈がする程生々しくなるのがいけない。それが普段は薬品の匂いに埋もれているからこそ余計に際立って、ルドルフに興奮を齎した。夢中になるあまり、後天的に植え込まれた獣の性に従ってつい歯を立ててしまうのも珍しい事ではなかった。そして、そうなれば翌朝のルドルフはシャロムの至る所に付いた歯形の深さに慄き、己の理性の薄弱さを只管猛省せざるを得なくなる。
 けれどシャロム本人は自身の痛みに頓着しないに性質も相俟ってか、ルドルフの噛み癖を批難するどころか「性欲と食欲を司っているのは同じ視床下部だから欲求が混同するんだろう」と考察したきり特に防御や対策を行う気配はなかった。今回の痕も無防備に晒されたままで、白い頸に赤が艶かしく映えている。
 護衛の役を任されていながら捕食者の邪念が頭を過ぎっている己に気付き、ルドルフはそっと唇を噛んだ。


 木々の合間を吹き抜けた風が草叢を揺らし、シャロムの銀髪を弄んでいく。葉が揺れて落ちる音の狭間に、ルドルフの耳は人の気配を拾った。
「シャロム、子供が森に入ってる。子供だけの二人組だ」
二対の小さい足が、藪を掻き分けて狭い歩幅で進んでいる。道を知らない者特有の、要領の悪い歩き方だ。
「こんな森に子供だけなんて、ヘンゼルとグレーテルかもしれないね」
人里とは距離を置いた、大型の肉食獣も棲む森だ。付近の村ならシャロムも住んでいる事を知っているだろうが、村民は彼を悪魔呼ばわりしているのだ。そんな森を子供だけが歩くなど、決して真っ当な事態ではない。シャロムは捨て子の可能性を考えていた。
「洒落にならんぞ」
「ああ。そうだとしたら全く面白くないよ」

 近付いてくる足音に、ルドルフとシャロムは緊張した面持ちで顔を見合わせる。茂みを掻き分けて姿を現したのは、あどけない男女の姿だった。
 良く似た目鼻の形が、二人が兄妹であると言外に説明している。二人はまだ碌な分別も付かぬ幼さだった。殊に、少女の方は読み書きすら覚えていない歳だろう。
「シャロムせんせい、ですか」
庇うように妹を背にし、意を決した面持ちで少年が口を開く。
「そうだよ。君達、お父さんとお母さんはどうしたのかな」
途端、少女の喉から怯えの滲んだ声が出た。その反応だけで、シャロムが如何に村民から悪し様に言われているか察するには充分であった。それでもシャロムを訪ねて子供二人だけで森へ入ったという彼等は紛う無く愚かであったが、子供なりの決断と覚悟も要したのだろう。彼等は怯えながらも、はっきりとした滑舌で受け答えた。
「二人だけで来ました。せんせい、チュンちゃんをなおしてください」
少年がポケットから、小さな薄茶色の生き物を取り出してシャロムに見せる。それはこの季節によく見る種の渡り鳥だった。小鳥は少年の掌の上で不自然な格好のまま、全く動かなかった。模様や大きさから察するにまだ若い筈だが、随分痩せ衰えた貧相な身体をしていた。力無く垂れた尾羽を含めても、大人の拳の方がずっと大きい。
「……残念だけど、この鳥はもう死んでいるよ」
それは生物の分野に明くるくないルドルフにも一目で分る事だった。小鳥を持ってきた彼等にも、幼いとはいえ死んでいる事は理解できた筈である。鳥は既に硬直し、血が通っていたのが嘘のように冷たかったのだから。けれど認めたくない気持ちはと折り合いを付けるには、彼等は幼すぎた。
「でも、せんせいなら……せんせいならなおせるでしょ。アクマだもの」
少女がなおも縋る。村の大人達が口にする蔑称を、彼等は幼さ故に人ならざる力を持つ者として解釈をしていたらしい。
「それでも、死んだものは治せないんだよ」
少年は俯いた。彼も心の何処かでは、そうではないかと思っていたのだろう。少女の口がへの字に歪んだかと思えば、大粒の涙がどんぐり眼から滂沱と零れた。
「うそ、うそ! せんせいはアクマだから、いじわるしてる! うそつき!」
一等幼い彼女は小鳥を諦められず、わんわんと泣きながら食い下がる。その声の大きさに、ルドルフは瞠目した。とても小さな身体から発せられているとは思えない声量だった。
「嘘じゃないんだ、ごめんね。そのかわり、お墓を作ってあげることはできるよ。ああ、剥製の方が良いよね。そうしたらずっと傍におけるよ」
シャロムがあやすが、全くの逆効果だった。普通の子供は剥製をありがたがらないぞとルドルフが言う前に、少女の拳がシャロムの胴を叩いた。非力な拳だが、力加減を碌に理解していない打撃が痛くない訳もなく、シャロムは低い声で呻いた。
「さいていっアクマ!」
元々シャロムは人当たりの良い男ではないが、理屈より感情を優先する子供相手では特に最悪だった。彼は尚も説得を試みるが、成功の兆は無い。
「お願いだから熊の縄張りの近くで大声を上げるのはやめてくれ。場所を変えよう。そうだ、小屋においで、珍しい鳥の標本を見せてあげよう」
シャロムは人差し指を立てて提案する。その手は、摘んでいた薬草の汁の所為で血濡れたように赤かった。シャロムをすっかり悪い悪魔の類と信じている子供の目には、おどろおどろしく映ったに違いない。
「や、やだ!」
「お菓子もあるからおいでよ。腹が膨らんだらきっと気分も落ち着くから」
子供達がヒッと喉の奥で息を詰まらせる音を、ルドルフの耳は拾ってしまった。誘い文句が童話に出てくるような悪魔か悪い魔女のソレであったからだ。子供にどんどん誤解されていくシャロムに、ルドルフ頭痛を覚えた。一抹の同情と、諦めにも似た呆れと「きっと村人相手にもこんな風に君の悪い印象を振りまいていったのだろうな」という納得が、手を繋いでやってくる。

 ルドルフは子供をあやす事を諦め、兄妹を纏めて抱き上げた。少女が悲鳴をあげ、少年が足をばたつかせるが、ルドルフの腕は微動だにしなかった。
「強制送還しよう。俺が麓の村まで連れてって親御さんに話してくる」
二人だけで森木行くような蛮行は、大人が知っていれば止めた筈である。彼等が行き先も告げずに家を出たのであれば、今頃保護者は子供を捜しているかも知れないのだ。収束の気配の無い遣り取りにこれ以上の時間を割くのは勘弁したかった。それ故の強行手段である。
「彼等の家に心当たりはあるのかい」
暴れる子供二人を抱えたまま歩き出したルドルフに、シャロムは確認する。
「匂いを辿っていける」
「君、警察犬みたいな事が出来るんだね」
暴れたところで拘束が緩まないと察した少年が「ひとさらい」と叫びだしたが、シャロムは聞こえなかったふりをした。
「この子達は君に任せるよ」
シャロムはそう告げて荷を纏めた。これ以上シャロムが子供と一緒に居ても面倒な遣り取りが増えるだけに違いないので、ルドルフからも異論はなかった。

 シャロムを小屋に送り、ルドルフは村へ降りた。
 久々に子供から罵られる経験をしたシャロムは、全く堪えた様子も無く「日が出ている内に収穫した植物の処理をしておきたいね」と奔放さを見せていた。けれど、ルドルフが小屋へ戻った時、シャロムは何処にも居なかった。
 採集した蕾は机の上に積まれたまま、青い匂いを放っていた。開いた窓から吹き込んだ風が、小さな蕾を静かに転がしていく。
 傾き始めた陽が、立ち呆けるルドルフの影を長く伸ばしていた。



 「男爵を殺した山賊というのは君達か?」
 一方その頃、小屋から山一つ隔たった村の廃倉庫で、シャロムは床に転がされていた。
 彼の真正面には、緋色の髪を伸びるままにさせた粗野な男が逆さにしたビールケースに腰掛けていた。シャロムを悪魔と呼ぶ子供達ならこの男を鬼に喩えるに違いないと思わせる体躯だった。背丈だけとっても、長身の部類に入るルドルフやシャロムよりも拳一つ分は大きい。その巨漢の後ろにも、粗野な男達が控えていた。その中には眼帯や義手など身体にハンディがある事が伺えるものも居るが、総じて屈強で風呂とは縁遠そうな身形をしていた。
 勿論、どれもシャロムの知り合いなどではない。
 シャロムは、彼等に拉致されていた。縛られてはいないが、状況的にも機動力的にもシャロムに一切の勝機が無い故だろう。賊にとっては轡を噛ませなかったのは失敗だった。シャロムは危機的状況に置かれたいからといって萎々と口を噤んでいようという発想が出来る人間ではなかったのである。
「その短刀の飾り紋に見覚えがあるんだ。男爵家のものだろう」
シャロムの問いに答える者は無い。誰も彼も、シャロムに不躾で侮蔑的な視線を寄越した。拉致されて屈強な男に囲まれている優男が発するには悠長すぎる台詞だと、誰もが思っていた。けれどシャロムにとっては、目の前の事象を把握する上ではそこそこに重要な問いだった。男達の正体と現状に至る動機を確認する事に繋がるからだ。
「なに、以前妙な強盗に入られた事があったから気になったんだ。彼等は君達のお仲間、いや……差し金だろう」
シャロムは推察をもう一つ重ねた。あの強盗達はシャロムが狼の死体を持っていた事を知って押しかけてきた訳だが、彼等がどのように情報を得たかが釈然としなかったのだ。狼狩りの仔細を知るのであれば、ルドルフと鉢合わせた時にもっと慌てる筈だが、彼らはルドルフの異常な身体性までは知っている様子は無かった。狼に手を焼いていた村人達から聞いたのであれば、真っ先に語られるのは獣を如何に仕留めたかであり、その死体を回収してどうするか等は真っ先に風化していく情報だ。
「大方、小屋を荒らさせる口実として君達が都合の良い部分だけを吹き込んだんだろう。彼等を差し向けた本当の目的は、狼ではなくルドルフだった」
男とシャロムの視線がかち合う。今まで感じていた強盗への違和感が、この男達を入れ込むとぴたりと収まってしまう。
「ルドルフが彼等をどうするか知りたかったんじゃないのか」
狼の剥製など運ぶにも売り払うにも厄介な物ではないかと強盗の素人ぶりを訝しんでいたシャロムだが、そもそも唆した側が物を盗って来る事を目的としていなかったのならば合点がいった。
 案の定、男は獰猛な笑みを浮かべて頷いた。立ち位置や仲間内での会話からして、この男が彼等を従えるポジションにあるのだろう。シャロムとは少し離れた位置に立つ男達も、赤毛の男に倣って卑しい笑みを見せた。
「ああ、全員生きて帰ってきた時は心底ガッカリしちまった。相変わらずお優しいこった。反吐が出る」

 この男は知っているのだ。ルドルフに人工的に植え付けられた、悪性の衝動を。彼が何者であるのかを。

 シャロムは、表情の現れにくい紫水晶の瞳をゆっくりと動かし、男達を順に観察した。皆如何にも宿無しの風体だが、売り捌けなかった盗品を流用するのは常なのか、男爵の短刀以外にも不似合いに小綺麗な所持品も幾つか見受けられた。シャロムの視線が、胼胝の出来た拳を見据えて止まる。暴力に特化した筋肉で張り詰めた身体付きはルドルフと似ているが、剥けた拳の皮が頻繁に暴力を行使している事を示していた。
「……君達も狼人間なのか」
「へえ、狼人間を知ってんのか。アイツが話したのか?」
目の前の男が興味深そうに聞き返す。使い潰すのも厭わず戦地に送られた被検体達は、死亡が確認されていない方が珍しいのだ。その僅かな生き残りも、禁忌の実験の証拠となり得る故に「なかったこと」にされているのだからこそ、その名称が出てくる事は予想していなかったのだろう。
「……いや、本性ってのは隠し通せるもんじゃねえな。狼人間なら尚更だ」
イイ子ぶっちゃいるが所詮はケダモノだからと勝手に納得した男達は、仲間内で笑い合う。社会から強制的に追い出され、職も宿も失った彼等が生計を立てる為に山賊に身を窶したとなれば同情も引けようが、卑下た物言いの中には自身が残忍な獣である事を誇るような愉悦が確かにあった。

 そして彼等は、ルドルフ自身がその身に植えつけられた残虐な獣の性を嫌悪している事も承知なのだった。彼等がルドルフに抱いているのは、同胞としての同情や仲間意識ではなく敵愾心だった。
 シャロムはルドルフが嘗ての同僚から敵意を持たれている事に関しても特に驚きはしなかった。なぜなら、狼人間と呼ばれるに至った彼等は、混乱と恐慌が齎す狂気に飲まれて狭い基地内で殺し合っていた過去があるのだから。やらねばやられるという状況に置かれていた中で、後に残る肉体的な損傷も無かったルドルフだ。彼自身が語らずとも、誰より精神的に堪えていようと、間違いなく彼はやった側なのである。
 彼等は、狼人間をも屠る強靭さを持っていながら誰より獣の悪性を否定したがるルドルフに、その身に宿る性を突きつけて絶望させてやりたくて仕方ないのだ。


 悪趣味な視線が、シャロムに降り注ぐ。
 シャロムはその下劣さに辟易して、思わず首の後ろを押さえた。人と合う予定も無かった上に他人からどう思われようと今更気にするまでもないと思っていたのが失敗だった。この情交の痕を見られていなかったら、わざわざ此処には連れて来る事もなかっただろう。
「勿論、お嬢さんはアレの本性を知ってて付き合ってる訳だよなァ」
彼等は、獣の性から顔を背けるルドルフが気に食わないのだ。強盗を送り込んだ時と同じく、ルドルフのテリトリーは荒らされようとしていた。薄く脆い理性の皮を引き剥がして、彼を狼人間足らしめようとしている。或いは、同じ機構を備えながら彼等の仲間になり得ないルドルフに、狼人間としての破滅を与えようというのだ。
「お嬢さんなんて、成長期を終えて初めて言われよ」
シャロムは努めて冷静に言葉を返す。この男のペースに流されぬよう、意識的に鈍感に振舞った。
「阿呆か。馬鹿にしてんだよ優男」
赤毛の男の後ろで、眼帯の男が野次を飛ばす。人差し指と親指で作った円の中に指を出し入れする下品なジェスチャーで、シャロムを娼婦呼ばわりするスラングを吐いた。黄ばんだ歯が卑下た笑みを浮かべる唇の間から覗いている。
 それは性欲に由来しない、人を傷付ける事に悦びを見出した者の情念だった。

 シャロムは嘗て目を通した被検体達のカルテや活動報告を思い出していた。
 被検体の顔写真は一通り見ているが、その頃とは随分人相も変わって髪も髭も伸び放題で判別が難しい。けれど、目の前に座る緋色の髪の男だけは直ぐに分かった。数多の死者が出た被検体の中で、五体が満足に残っているのはルドルフを除けば該当者は唯一人だったからだ。
 この男こそが、被検体達が狼人間と誹られる事件の原因となった、民間人の婦女を拉致し暴行した張本人だった。
 その行動をきっかけに、基地内はストレスの捌け口を他者に求める事に抵抗が無くなった者とそれを止めようとする者で分かれ、対立が生まれると共に暴力の応酬に発展したのだ。
 ルドルフを含む狼人間の多くは、混乱の中で己を見失った事を切欠に凶暴性を開花させた。けれど目の前の男は、狂気に当てられる前から暴力による支配と蹂躙を選び取れる人種だった。暴力に最適化された肉体の持ち主としては、最悪の部類である。この手合いは、相手が嫌がれば嫌がる程面白がる。怯えや嫌悪を見せる事は却って自体を悪化させるに違いないという事は、人の心に聡くはないシャロムにも見当が付いた。

 「狼人間について彼から聞いたのか、だったね。彼はその事について自ら喋った事は殆ど無いよ」
シャロムは、男達の瞳に燈る加虐心に気付かないふりをする。
「僕が彼の来歴を知っているのは、狼人間の施術に関わったからだ。君達も僕の名くらいは聞いた事があるかも知れないな。別に自意識過剰という訳でもなく、研究チームでは飛び抜けて若かったし汚れ役は全部僕に回ってきてたからね」
僕は君達の事も知っているよ、と付け足せば男達は顔を見合わせる。実際、さっさと人体実験が大事になる前にさっさと隠遁したシャロムは、体の良いエスケープゴートとして名が使われていた。語られている容姿の特徴や名前が一致すれば、疑念の生まれる余地も無い。
「ああ、あの悪魔の」
手下の一人が早々に合点する。
「お前か、人体実験に惹かれて医学校の卒業も待たずに国軍に就職した変態って」
好色な視線から一変、野次馬めいた好奇心で満ちる。
「……随分悪し様に言われてるなあ、僕。まあ、君達が良い子ぶってるとか言ってるルドルフも、こんな変態だの悪魔だのと懇ろでいられる程度には悪どい奴って話さ」
シャロムが苦々しい声を出せば、彼等は一層面白がった。

 シャロムは彼等に、露悪的に笑い返す。
「君達にとっても僕と懇意になっておくのは悪い事じゃないさ」
所詮は悪人同士という立場を提示したのは、僅かでも連帯意識が芽生えた方が都合が良いからだ。
「おう、漸く命乞いか」
シャロムは神妙に肯った。人の脚では彼等からは逃げられないのだ。ならばシャロムが助かる手段は交渉しか残されてはいない。

 シャロムは、仇として訪ねてきたルドルフに剣を向けられた時、命乞いの一つもしなかった。
 強盗に押し入られた事は二度あるが、どちらもされるがままに達観の姿勢を崩しはしなかった。なるようになればいいし、どうにもならずに死のうとそれはそれで構いはしなかったのだ。勿論、当たり前に痛みや苦しみを人並みに厭う心がない訳ではない。しかし、人でなし故に人でなしの生活を送る事への抵抗は薄かった。向けられる刃も後ろ指も、享受できるに足る心当たりもあるのだから。彼の人生は既に、軍で犯した過ちに気付いた時から、執着に値する程の価値が無い余生なのだ。
 けれどシャロムは、そんな生き方のままではいられなくなってきていた。
 ただ一人、シャロムに自分の事に頓着しろなどと言う男ができてしまったからだ。
「君達にとって略奪は天職だろうが、換金には手を焼いているだろう。盗品は入手より販路の開拓が難しいからね。その辺り、僕なら力になれる」
男爵家の飾り紋が入った短刀を顎で示して、足が付きそうな品は買い取ってもらえなかったのだろうと彼等の現状を当てれば、男達が顔を見合わせる。この推察は当たっているのだろう。以前押し入られた強盗達も販路に疎かったので、薄々そんな気がしていたのだ。男の持つ短刀も、末端貴族から奪った戦利品としては威光を示すには地味で小さく、持て余しているだけの品だと確信させた。
「君の腕も男爵の物だろう。宝石だけ外して売ったのかい」
傷んで値が下がっただろう、とシャロムに声をかけられた義手の男は僅かに動揺を見せた。勝手に次々と事情を暴いていかれるのは気味が悪いらしい。
「僕は職業柄、面白い標本だとか検体だとか、表に出せない上に唯一性の強い品を捌く事は多くてね。口が固くて有能なバイヤーともコネがあるんだ」
シャロムは印象良く振舞う事に関しては不器用な男だが、幸い己の有用性を訴える弁舌は長けていた。好奇の目は、驚嘆と感心に上書きされつつある。反応が芳しい内に、シャロムは話を進める。
「正直、略奪や盗品売買への荷担に抵抗は無いんだ。僕の稼業とて時には法の制限を越えもするし、人並より僅かばかりに技術と専門性があったからこそのものだ。暴力に秀でた者が暴力で食っていく事をどうして責められよう」
積極的に肯定したくない事だが、シャロムは自身が彼等を糾弾できる立場に無い事も重々自覚していた。

 己の悪性を自覚している分、僅かではあるがシャロムはこの男達が何故ルドルフに拘るのかを理解できる気がしていた。
 ルドルフは、眩しいのだ。
 悪魔と誹られながら真っ当な社会とは隔絶して生きる事を良しとしたシャロムに、人並みの心配をする男だ。悪人の為す事に、本人すらも拾い損ねた美徳を見付けて慈しむ男だ。死臭の染みついた小屋で寝起きしてなお、健全さを忘れず人間の生活を営む男だ。余りにも真っ当な人間なのだ。
 泥と血に塗れた戦地でも、彼がその精神的な強度と慈悲を発揮していた事だろう。
 性別も相手の生死も問わぬ暴行と蹂躙だけが支配する基地で、最後まで獣性に抗っていたのがルドルフだ。最後まで理性を手放さなかったが故に、彼は最も多くの地獄を目に焼き付けた筈だ。狼人間の悪性と人の愚かさをその身を以って知った筈だ。それでもなお、決して倦まず、人であることを諦めず、人を見捨てなかった。それがあの環境の中で、どれほど異様に映るかは、想像に難くない。
 殊に己の悪性を自覚する者には、ルドルフは眩過ぎるのだ。
 悪党の理解の範囲を超えた精神性をシャロムは尊んだが、この男達には畏怖でしかないのだろう。それは恐怖であり嫉妬であり、彼等の自尊心を傷つけるが故に憎悪し排斥するに足る理由になり得るのだ。


 「それに、君達だってその身体をよく知る主治医が居た方が良い。欠損があったところでただの人より強いのは承知だけどね、君達は負傷兵でもあるだろう」
シャロムが色々と理屈を並べて己を生かしておくことの利点を論い続ける。しかしそれは、不意に終わりを告げられた。 
「野郎ッ時間稼いでやがった!」
シャロムの五感では感知できぬ情報を拾ったらしい男が怒声をあげる。男達の意識が屋外に向けられた。義手の男が倉庫の扉を開けて外を伺う。

 扉から外界が見えるのと、それが飛び込んでくるのは同時だった。

 それは、扉のノブを握っていた男を蹴り飛ばし、弾みで外れた義手を踏み壊した。吐く息は荒く、血走った眼で男達を睥睨する。それがルドルフであるとシャロムの理解が及ぶ頃には、眼帯の男が頸を圧し折られていた。全ては一呼吸の間の出来事だった。
 ルドルフは山犬の生皮を頭から被っていた。まだ乾かない獣の血が、青筋の浮いた額を伝っている。尋常ならざる五感の狼人間を欺く為の物だろうが、その姿は怪異そのものだった。
「そうだ手前は所詮ケダモノだ」
男が笑って短刀を投擲する。白銀の鋭い一閃となったそれは回避の間も与えない。最小限の動きで顔を庇ったルドルフの腕に、刃が突き刺さる。痛みを認める声すら無く、ルドルフは最短距離で男に突っ込んだ。ルドルフもまた、笑っていた。否、歯を剥き出したそれは怒り狂う獣の貌だった。
 ただ殺し合う。暴力の応酬。獰猛に開かれた口からは威嚇以上の意味を為さぬ唸りが出るばかり。言語は真っ先に失われた。額がぶつかり合う近距離で拳が交差する。
 人質にされて足手纏いになる事を懸念したシャロムだが、最早どちらも彼の事を視界に入れてはいなかった。既に血に酔っているのだ。目的も見失い、感情の残滓とその場の破壊衝動のままに潰し合う。
 凡そ理性ある生き物動きではない、痛覚が作用しているかすら怪しい。自衛を二の次に、ただ対峙した相手を破壊する最短効率の運動を繰り出すそれは生き物としても欠落した存在だった。

 シャロムの足元に、肉片の混じった血が飛び散る。投げ飛ばされたルドルフが壁にぶつかって、窓を割る。四散した硝子片もお構いなしに、取っ組み合って床を転がる。それでも両者は、至近距離で睨み合ったまま一瞬たりとも眼を逸らさない。体勢を整え直す事すらせず、マウントを取り合って激しく転がりながら、目まぐるしく上下が入れ替わる。
 衣服を引っ掴んで取り押さえ、額の一等硬い部分をぶつけ合う。空振った拳が床を殴れば、骨の砕ける嫌な音が聞える。
 ついには、ルドルフが引きちぎった耳が、床に叩き付けられた。
 打ちっ放しのコンクリートの灰色に、血の赤で弧が描かれる。

 巻き添いにされかねないと危惧したシャロムは、気配を殺して部屋の隅へと匍匐で進む。
 扉の前まで辿り着いたシャロムは、伸びている義手の男の胸が動いている事に気付いた。まだ息がある。彼は手を出すべきか少し迷ったが、起き上がってくると厄介だと考え、硝子片で男の頚動脈を切る。死んだものは治せないと諭す程度に生の尊さを知っていても、罪悪の念は無かった。標本や剥製を作る時と同じように、静かで淀みない動作だった。無駄のない切り口から溢れた鮮血は、床に広がって酷く疲れたシャロムの顔を映していた。
 元よりシャロムは、己の中で道理さえあれば殺人も已む無しと思える人種だ。だからルドルフに人を殺めた過去があろうが、現在進行形で殺戮を敢行していようと咎めるつもりも更々無い。
 けれど今、ルドルフの交戦を目の当たりにしていると酷く消耗してしまう己に気付いていた。

 思えば、シャロムが狼人間たるルドルフの姿を見たのは今回が初めてだ。
 彼は正しくない生き物に貶められた事を赦してはいないし、そういった生き物として振舞う事を決しいて良しとはしなかった。酔漢に手を挙げた時も、強盗と対峙した時も、危うくなる事はあれど今までのルドルフは屍の一つも作らぬ内に理性を自力で手繰り寄せる事ができていた。それだけルドルフは、人を傷付ける為に力を振るう事を忌避していたのだ。
 シャロムの知るルドルフは、他人が怪我を負うとそれ以上に傷付いて顔を曇らせる、健気で真っ当な男だ。
 彼は僅かな趣味と寝食を繰り返す世捨て人の小屋から埃を掃き出し、風を通し、光を入れた。俗世と切り離されてなお、善く生きようと藻掻く男だから鮮烈で美しかったのだ。正しく在る事を夢見るシャロムの欠けた善性を外から補填し、人並みに恋をさせるにまで至らしめる程に、あれは目映かったのだ。あれは本来、そういう男だった筈である。
 薄暗い廃倉庫で殺し合う獣がルドルフの顔をしている事が、シャロムには酷く痛ましかった。ルドルフがそう在りたいと願っている姿とは遠く離れてしまった現状に、悲しみと悍ましさを感じずにはいられなかった。


 倉庫の中央では、ルドルフがとうとう男のマウントを取っていた。
 手が傷むのも厭わず顔面に拳骨を叩き下ろす。硬い頭蓋骨に守られた組織が、骨ごと拉げる音がする。汚く湿った音をたてて血が飛び散る。筋組織が断裂して崩れ落ちる。
 賊は既に死んでいる。そんな判断も付かなくなっているのか、ルドルフは相手が一切の反応を示さない状態になっても暫くは拳を振り下ろし続ける。
 ただ衝動に収まりが付くまで、精肉でも叩いて柔らかくするかのような躊躇いの無さで徹底された。

 やがて、ルドルフは己以外の生きた者を探すように立ち上がった。
 未だ蟠って消化しきれない殺意が、陽炎のように毒霧のように漂っていた。握られたままの拳から、どちらのものか判別付きかねる血が滴っている。焦点が定まっているか怪しい眼が、シャロムを映す。シャロムと対峙したルドルフの小鼻がヒクと動いた。

 瞳孔が開いたままの眼に敵と味方の分別が付くかなど、分の悪い賭けに等しい。シャロムは自身の安全を優先するならば、ルドルフからも逃げるべきだった。けれど、窮地に駆けつけてきてくれた男を放っておくような薄情な真似は心情的にできなかったのだ。シャロムは慎重に両腕を上げ、手向かいしない意志を示す。
「おいで、手当てをしよう」
努めて何時も通りの声音で呼びかける。返事は無いが、ルドルフは音に反応して動きを見せた。大きな歩幅で血溜まりを突っ切って直線的に距離を詰める。この段階でシャロムが無事な辺り、敵意は無いと見るべきだろう。意識がシャロムの指先に向いている。赤いままの指先は、植物の青臭さと薬品の匂いが入り混じっている。ルドルフが獣でしかいられなかった頃には縁が無かった匂いだ。それは、小屋から消えた存在を探してルドルフが辿ってきた匂いでもある。人の枠から逸脱した存在と知りながらルドルフを人間として扱わんとする、ただ一人の男の匂い。
 
 ルドルフは無言のままシャロムの腕を片手で掴んで、無造作に引き倒した。
 シャロムを掴んだのは深い刃傷がある方の腕だったが、握力は人並より遥かに強い。それどころか、既に傷口の出血は治まり、表皮が癒合し始めている。碌な治療も受けられずに戦地に送られ続けた過去を担保する治癒力だ。
 手当てを必要としているのは身体ではなく精神の方だろうと思いながらも、シャロムは口を開く。
「意識は明瞭かい?」
意味の無い問診だった。受け答えが出来ようが興奮状態なのは明白で、正気と言える状態とは遠い。血と埃で汚れた床に背を付ける事になったシャロムは、ルドルフが片脚の靴を失くしている事に気付いた。裸の脚の爪は幾つか剥がれていたが、やはり出血の跡はとうに消えている。

 ルドルフの欠けた足の爪を数える間も無く、シャロムは彼に噛み付かれた。
 前腕に八重歯が食い込む。流血はするが、肉を引き千切る意図は無い。荒い鼻息が、痛みに強張る皮膚を撫でる。
 賊を相手にしていた時とは、ルドルフの興奮の種類が明らかに変わった。
 抵抗の意思の無い者を相手にしている時はこうなのか、対峙しているのがシャロムだからか。願わくば後者であって欲しいと思うシャロムだが、その答えを用意できる者は居ない。白皙の腕に深い歯形を刻んだルドルフは、相変わらず爛々とした飢えた獣の眼をしている。
 けれど、その噛み癖が出てくる時のルドルフを、シャロムは知っていた。
 同衾では済まない夜の彼だ。悪い夢を見た後の、縋るような腕の力。狂おしい下腹の熱。

 確かに己が知るルドルフの面影があることを認めたシャロムは、自由な方の腕でルドルフの髪を梳いた。艶の無い黒髪は血と汗で濡れていた。シャロムは痛みの記憶に紐付けられた交接の熱を思い出していた。
 シャロムはルドルフの頭を掻き抱いて、頬を寄せる。ルドルフは顔が近くなったのを良いことに、喉や鎖骨にも歯を沈めた。痛みに呻きながら、シャロムは彼の下穿きを寛げてやる。ルドルフと違って正常な判断力の残るシャロムは衛生面を気にしないでもなかったが、凄惨な暴力を目の当たりにして感情が高ぶっているのは一緒なのかもしれない。
「……正気に戻った君は多分、後悔するんだろうな」
シャロムは、身体を重ねた日の朝によく目にする理性の薄弱さを猛省するルドルフの姿を思い返していた。今回はこの比ではないだろう。ルドルフはそういう男だ。シャロムにとって、この蛮行と痛みに眼を瞑るにはそれだけで充分だった。
「でも共犯だ」
至るところに歯を立てる男の口が開いたのを見計らって、シャロムはその唇を吸った。
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