天邪鬼な紫煙2

 長い口上でも繰り返し聞けば覚えてしまう。関心を寄せている敷島の声なら尚更だった。

 そもそも敷島と口を聞くようになったきっかけは、喫煙場所を求めて屋上に行った時に敷島の痴情を目撃した事だった。もっとも俺に見えていたのは、組み敷かれた敷島と無体を働く男の背中で、その時は強姦の類だと思った。男は最上級生で攻撃的な行動と横暴な性格で俺を含む下級生に酷く恐れられている上に、入学して間もない頃は敷島の悪評は全く知らなくて、儚い見た目の通り真面目な優等生で気の弱い奴だと思っていたから、敷島が一方的に虐げられているのだと思い込むのは自然だった。また、男は入学式初日にクラス毎に新入生を呼び出して従順な後輩の証として無理矢理ピアスを付けた主犯格で、その場所も屋上だったから、余計に痛みや屈辱を我が身の事のように生々しく感じられてしまった。身体を押さえ付けられて安全ピンで耳に穴を空けられ家畜のように証を付けられたのは若干今もトラウマになっている。多分その三年が卒業した今も屋上ではなく調理室を喫煙場所として選んでいるのもその所為だ。
 兎に角、その時の俺は目の前の性暴力に酷く衝撃を受けた。殴る蹴る等の単純な暴力を逸脱した相手を骨の髄まで辱しめる行為だと感じて、酷く恐ろしくなった。いっそ見なかった事にして逃げ帰ろうという考えが頭を過ったが、目の前の被害者を見捨てて逃げるのは良心が許さなかった。動揺でまともに機能しない頭と助けなければという思いが先走った身体で出した答えは暴力解決で、俺は目の前の男を機能停止させるべく踊り場に設置された消火器を引っ掴んだ。幸い消火器は可搬式で、静かに手早く持ち運ぶ事が出来た。抜き足で男の真後ろに回り込んで、鈍器を振りかぶった。後頭部に消火器の角を当てるつもりだった。頭上に掲げた消火器が五月の太陽を反射したのを他人事のように覚えている。初夏の爽やかな日差しに似つかわしくない消火器の人工的な赤が目に眩しかった。後になって自覚したが、その時の俺は鈍器で頭を思いきり殴ったら相手は死ぬだろうといった配慮なんて抜け落ちていて、寧ろ殺すつもりだったのではないかと思う。
 そんな状態で俺が少年院に入るはめにならなかったのは、敷島が俺に気付いたからだ。俺と眼が合ってしまった敷島は笑って見せた。助けが来た事に対する安堵の笑みではなく、挑発的な笑みだった。そして俺が男の後頭部に狙いを定める前に、敷島の唇が明確な意味を持って動いた。
『かえれ』
たった三字によって悄々と殺意が萎んでいくのが分かった。何で平気なんだとか合意なのかとか男同士だろうとか、色々口に出そうになったが、幸いにも口がカラカラに渇いていて声は出なかった。汗がドッと一気に吹き出て混乱が押し寄せた。緊張を保てなくなった腕では消火器を支えていられず、ゆっくりと地面に下ろした。一人事態を把握していない男は未だに腰を敷島に打ち付けて馬鹿みたいに前後運動を繰り返していたが、敷島は脱力した俺を確認すると出口を顎でしゃくって再度帰るように促した。俺はそれに従って屋上から去るしか出来なかった。

 その後は放心したまま教室へ返った。授業中でも麻雀やトランプ等の卓上遊戯で賑わう中、俺は机に顔を伏せて何とも言い難い後味の悪さをやり過ごす他なかった。その数時間後に、敷島が教室を訪ねてくるまでは。
「落とし物だよ」
敷島は屋上で紛失したらしい煙草を届けに来た。第一釦までしっかりと閉じた優等生然とした姿は屋上で組み敷かれあられもない格好を晒していたのが嘘のようだった。
「黒煙草なんて中々悪趣味じゃないか」
正直敷島とまともに口が聞ける心情ではなかったが、煙草代も馬鹿にならないので有り難く返してもらおうとした。しかし敷島は煙草ケースから手を離さず、こう続けた。
「吸って見せてはくれないか」
了承した訳でもないのに煙草を持って勝手に歩き出した敷島を追って、調理室に入った。教室や廊下でも喫煙する生徒は居るが、ジタン・カポラルの臭いは独特だから俺は換気が良いところで一人の時にしか吸えなかった。その事を弁えているらしい敷島は手際良く換気扇を作動させて空気の通り道を作っていった。この頃の調理室はまだ窓が割られていなくて外から砂埃が入ってくる事はなかったけれど、何処も彼処も埃を被っていて歩くと上履きに塵が纏わり付いてくる程だった。面と向かって聞いた事は無いが、俺が掃除をしていない以上ここを喫煙所代わりになる程度にまで整えたのは敷島なのだろう。思えばその日の調理室が俺の知る中で一番汚い状態だった。
「君が上級生と揉めるのを防いで、落とし物まで拾ってやったんだ。これくらい別に構わないだろう」
「何で」
敷島に混乱させられ続けた頭で漸く絞り出した言葉がこれだった。
「僕も悪趣味でね」
何だか話しているよりも煙草を吸った方が気が楽になる気がしてきて、曖昧な返事をして煙草を返してもらった。嫌味な顔や薄笑いなら多少はするものの表情が乏く明確な感情を表に出す事が稀な敷島は、人形めいた風貌も相俟って喧騒が絶えない環境を当たり前とする身には少々気味が悪く感じられた。
 頭にニコチンが充填されてくると冷静になってきて余裕ができた。その分だけ好奇心が沸いてきたので敷島に話しかけてみた。
「お前さ、ホモなの?」
ああいうの平気な訳?キモくねえの?と興味本位に聞いてみれば、敷島はさして気に障った様子もなく別にと答えた。
「男とも女とも寝られる。もっとも、今日の屋上でのアレはセックスというよりも猿が他の猿に陰茎を扱かせて上下関係を確認したがるのと同じでただのマウンティングと解釈した方が正確かもしれないけれど」
上品そうな顔でつらつらと下品な言葉を連ねた敷島に驚きつつも紫煙を吐いた。
「じゃあバイか」
敷島はあまり表情を変えないまま肩を竦めただけだった。見せてくれと言った割りに敷島は流れる煙を眼で追うか虚空を見つめるのみだった。それが寧ろ話し易くさせていて、つい質問を重ねた。
「両方いけるんだろ」
敷島は此方を一瞥して数拍の間考える素振りを見せた後質問で返した。
「君は異性愛者なのか」
肯定すると、抑揚の無い声で本当かと念押しが入った。
「こっちにはテメエみてえに野郎にチンコ突っ込まれる趣味ねえよ」
「例えば、アルフレッド・キンゼイは殆どの人はある程度両性愛的傾向を持つと述べている。異性愛を自覚する人は、ただ単に異性を同性より好むというだけであって、本来は同性に対する性的魅力を感じる感性も持っている可能性が有るという訳だ」
突然聞きなれない外国人の名を挙げられて瞠目した俺を余所に敷島は続ける。
「また、ジークムント・フロイトはあらゆる人間は誰でも、人生の内のある時期において両性愛者になり得る可能性を持っていると考えていた。社会的成長過程における同性への性的経験が、己の持つであろう必要と欲望、特に性的欲望を愛着の持てるものとするか否かを決定するという考えだ」
さて、と敷島が此方に向き直った。
「君は同性に対して性的魅力を一切感じず、同性に対する必要と欲望及び性的欲望は愛着の持てるものではないと同性への性的経験に基づいて判断した上で異性愛者を名乗っている、正真正銘の異性愛者だ……と?」
小難しい言葉を並べて細かい条件を付けられた上で改めて問われると自信がなくなっていきそうだったが、撤回するのは癪で首を縦に振った。
「性的経験に基づいて?」
揚げ足を取るなと睨め付けてやっても敷島は何処吹く風。更に性行為は女性相手しか経験が無いかとまで問われて、女性相手にも経験がなかったので余計に答えに窮した。しかしそんな俺を見透かして敷島は鼻で笑って見せた。
「意地の悪い質問をして悪かった。たが君もほぼ初対面の僕に不躾な質問をしたのだからお互い様という事にしようじゃないか」
唇を噛んで敷島を睨んだ俺に向かって両手を挙げ、降参のポーズをとった敷島が飄々と謝った。そこで俺がした質問が如何に無神経だったかを考えて少し後悔した。俺はこれ以降、敷島の性的嗜好に関わる事は本人が口にしない限りは黙っている事にしている。
「何にせよ君は他人に対して恋愛感情を抱く事が出来る人種だという自覚がある訳だ」
そう言った敷島の表情は羨望とも侮蔑ともつかない曖昧で苦味だけが強い顔だった。今思えば、基本的に感情を読ませず表情に乏しい敷島にしては珍しい顔だった。詰め寄ってきた敷島は俺から短くなった煙草を取り上げて、壁に押し付けて根性焼きの要領で火を消した。
「恋愛感情の明確な定義とは?」
敷島の瞳を直視したのはこの時が初めてだった。長い睫毛に縁取られている所為であまり気に留めなかったが眼は黒目が大きくて、環状の虹彩が花のようだった。
「僕は恋愛感情を定義しないまま恋愛という機能を実装している人間の方が余程不可思議だと思うね」
敷島の作り物のように綺麗なだけの眼に馬鹿にされたような気がして、意味分かんねえと吐き捨てた。敷島は瞠目したが気を害した様子は無く、それどころか少し上機嫌になって笑った。
「そうだ、可笑しいのはきっと僕の方だ」
もともと整った顔だからか笑った敷島の顔は華やかで、一瞬見惚れて硬直した。その隙を突いて、敷島が唇を重ねてきた。場にそぐわない軽快なリップ音をさせて敷島は悪戯な瞳を寄越した。洋画でよくあるようなスキンシップとも取れなくもない軽いキスだったけれど、屋上で見た光景が脳裏に蘇って慌てて突き飛ばした。呆気無く調理室の汚い床に尻を突いた敷島は、目を細めて此方を見上げていた。その表情はどこか満足気で、その態度に気味が悪くなって思わず罵倒した。
「俺はお前みたいな変態じゃない」
そうしたら敷島は遂に肩を震わせて笑い出した。あくまで手を出してきたのは敷島の方だから謝るつもりは毛頭無かったけれど突き飛ばされたのだから怒るなり落ち込むなりの反応が普通ではないのかと動揺した。そんな俺を余所に尻や背を叩いて付着した埃を払いながら敷島は悠々と立ち上がった。
「そうだね。気に入ったよ」
拒絶された癖に何を言うのかと思ったが、この対応は今も変わらない。敷島は拒絶の言葉を聴きたがる節がある。
「また今度も吸ってはくれないか」
敷島が徐ろにポケットから煙草を出して俺に握らせる。透明なフィルムに包まれたままの白銀比の煙草ケース。見慣れた青いパッケージ。ジタンだった。
「お前、煙草吸うの?」
二度と喋るかと中指を立てる気でいたが、現金にも物を貰ったらそんな考えは消し飛んで純粋な疑問が口をついて出た。既に優等生という第一印象が散々に壊された後だったが、敷島と喫煙はやはり不似合いだと思った。
「吸わない。けど時々黒煙草の臭いが恋しくなる」
吸う事も考えていたけど君が吸ってくれるなら僕は吸わない、とも付け足されたが追究するのが面倒で敷島の気が変わらない内に受け取った煙草はポケットに押し込んだ。もうこの辺りから俺は敷島の事を一般的な感覚では測れない気の狂った輩なのだと会話を諦め始めていて、敷島の一挙一動を気に留めるのは止めていた。

 タール、ニコチン、アンモニア、一酸化炭素、二酸化炭素、窒素酸化物、フェノール類、ナフチルアミン、カドミウム、ニトロアミン、ベンツピレン……。呪詛じみた単語の羅列を聞いたのはこの時だったと記憶している。回る換気扇の音と抑揚の無い声が妙に一体感を帯びていた。
「煙草に含まれる物質だよ」
正直後半は殆ど何者か分かっていなかったけれど、百害有って一利無しとまで言われる煙草に含まれるものなら到底健康的でない物だとは察しがついた。
「こんなに穏やかな自殺は無いよ」
案の定不穏な台詞を吐いて敷島は調理室を出て行った。

 なんだアイツ。というのが率直な感想だった。けれど敷島はその後も煙草一箱と引き換えに俺を調理室へ呼んだ。調理室が徐々に綺麗になって、アメニティが充実していっている事に気付いたのは何時だっただろうか。随分遠い記憶だ。コンセントにプラグを挿されなくなって久しい冷蔵庫が稼動して菓子や軽食が常備されるようになった頃には、埃被って中が見えなかった食器棚の硝子戸も透明さを取り戻していたような気もする。何時行ったのかは知らないが食器類は整理整頓されて入れ直されていた。埃や蜘蛛の巣が粗方片付いてしまえば、呼ばれずとも調理室に寛ぎに行くのが当たり前になるのに時間はさしてかからなかった。敷島も稀とは言い難い頻度で黒煙草の臭いを嗅ぎに来ては俺に構った。徐々に居心地が良くなっていく部屋と、当たり前になっていく敷島の隣。好意的な会話が成立する事は極めて珍しかったけれど、今朝見たニュースとか天気とか当たり障りの無い会話もした。その僅かな遣り取りの中で普通に喋ったら存外面白い奴なのだろうとも知った。
 懐かれたら、多少会話が成立せずとも情が湧く。けれどグダグダと友達でも何でもない関係性を引きずる内に俺の方が敷島に執着してしまったのは完全に誤算だった。敷島にとっても本意ではないだろう。敷島が俺を構う理由はあの対応が気に入ったのと吸っていた煙草の銘柄への拘りに過ぎないのだから。曖昧で脆い関わりだった。


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