異形の城

 ルドルフがシャロムに連れられて訪れたのは、閑静な地方領だった。
 小高い山々に囲まれた盆地は他所との交流に乏しいのか、閉鎖的な雰囲気の中に戦前のクラシカルな雰囲気を強く残した土地だ。都会を知っていれば決して豊かとは思えないが、食料自給率が悪くない所為か長閑な印象すらある。山々から注ぐ小川が美しい農耕地帯だった。

 男爵の地位を継いでいる領主は、要塞や軍事拠点を兼ねているべきものにしては聊か小さな城に住んでいた。いっそ城というより、大きめの屋敷と言った方が似合う。その威厳の無さは、備蓄や礼拝くらいの用途でしか開かれた事が無い所為もあるのだろう。侵略されづらい地形かつ近隣された領地とは長らく良好な関係らしいので、必然の衰退と考えるべきかも知れない。
「あの珍しい標本を譲ってくれたのも男爵さ」
城の主とシャロムはそこそこに懇ろだった。珍妙な生物に対する好奇心を持っている点で趣味が合い、標本や剥製の譲渡或いは売買をする仲でもあったのだ。
「あのキノコだかクラゲだか分らんやつか」
恐らく正規の手段で捕獲された訳ではない生き物の死骸を思い出して、ルドルフは口を歪めた。
「そう、それ。クラゲの方が近いかな。趣味が合わなかったコレクションをたまに横流ししてくれるんだ」
因みにアレは有櫛動物と刺胞動物の特徴を併せ持つ突然変異種だよ、ルドルフには親切ではない情報を足したシャロム。軍役時代は後ろ盾が無かった彼だが、皮肉にも法に背く行為に手を染めるようになってからの方が上流階級とのコネクションが出来ていた。

 男爵はその最たる例だ。
 男爵は法を犯して入手した珍しい生き物を秘密裏に飼育していた。その動物の主治医として、シャロムを定期的に城へ呼ぶのだった。到底表沙汰に出来ない関係だが、趣味と実益で繋がった縁は良好であった。特に助手が必要な仕事という訳でもないのにシャロムがルドルフを連れてきたのは、ルドルフに領主の使用人としての仕事を斡旋したがったからだ。
 シャロムはルドルフに転職を打診していた。
 元より、シャロムの仕事は非認可な上、安定した収入がある訳でもない。だからルドルフに満足な給金を払い続ける事も約束できはしない。第一、ルドルフのように良心が真っ当に機能している男に違法行為の片棒を担がせ続ける事はできない。そうシャロムは判断していたのだ。
『僕は司法や共同体に守られない立場だから、厄介な連中に目を付けられる事だってある。丁度この前の押し込み強盗みたいにね』
その場で感情を表出する事が乏しいシャロムだが、ルドルフを予期せぬ抗争や暴力に巻き込んだ点においては負い目を感じていたのだ。ならば尚のこと用心棒は必要だろうとルドルフは己の役割を見出していたが、シャロムの用意した解は違っていた。元々彼は助手を得るまでは、人よりやや秀でた頭と飛び抜けた専門性で何とか単独でも危機を潜り抜けてきている実績がある。自身の安全に頓着しない危機感の欠如した性分も相俟ってか、シャロムはルドルフという武力を有効利用する気は起きなかったようである。
『君は荒事を好まないだろう』
シャロムの用意した選択は、決して頓珍漢な話ではなかった。寧ろ、倫理観が欠如していると名高い男にしては酷く分りやすい善意だった。
『確かに君は最高の武力装置になり得るけど、わざわざ暴力の応酬が待ち構えている環境に身を置く必要は無いんだよ。男爵の下なら、君が個人的に戦わなくとも法や権力が守ってくれる』
対人用の暴力装置として活用される事を誰より忌避していたのはルドルフではないか。シャロムなりにルドルフが望まない生き方をさせまいと考えた結果が、転職の勧めだったのだ。

 ルドルフは、シャロムにそこまで気にかけられている事に少し感動した。
 そしてそれ以上に、余りに簡単に決別を切り出された事に動揺した。
 ルドルフは、シャロムに惚れていた。居候の助手という身分で同じ屋根の下で暮らす日々は、温い多幸間があった。彼の力になる事に喜びを覚え始めていたし、この男の為なら望まぬ事に手を染める覚悟だってそれなりにしていた。寧ろ、好いた相手なら守ってやりたいと思うのが人情ではないか。そんなルドルフの献身は、シャロムに届く前に棄却されてしまった。その発端が善意であることも一層性質が悪い。
 ルドルフは、此処でシャロムの助手を続けていたかった。しかし、その理由は偏に下心だ。本気で心配して提案している相手に開示すべきものではないと、ルドルフは駄々を飲み込むしかない。それに、理性と狂気の間で綱渡りをしているような男を助手にしているのは、シャロムにとってリスクが大き過ぎるのも事実だった。
 彼が大切だからこそ、離別が必要なのだ。そう自身を納得させたルドルフは、領主に会う事を了承したのだった。


 シャロムは城正面の門を通り過ぎ、裏手の人目に付かぬよう設置された小さな隠し戸から城へ入るようルドルフを促した。
 狭い通路だった。領地の外の者が城の隠し通路を知ってしまう事に若干の気拙さを覚えるルドルフだが、シャロムは慣れた様子でさっさと進んでいく。足音の反響で、ルドルフはこの城が外見よりかなり広い事を悟った。地上から見えている部分と同じくらい、地下にスペースがあるのだ。

 広い通路に出ると、幾人か使用人達と擦れ違う。
 誰が案内に付く訳でもなく、皆シャロムの顔を認めると特に挨拶も無くさっさと元の業務に戻っていく。客というより身内の扱いなのか、ただ厄介な身分の男と関わり合いになりたくないだけなのかはルドルフには判断が付かなかった。
「そうそう、君が仕留めてくれた狼は二匹とも彼が買い取ったんだ。男爵は喜んでいたけど、執事に搬入が大変だったとお叱りを受けたよ」
城の廊下や室内は、至る所に動物の剥製が飾られていた。歪な角をした鹿のハンティング・トロフィー、単眼の山羊の壁飾り、アルビノの虎の敷物。動物の種類も多岐に渡った。狼もそれらのインテリアの一つとなったのだろう。ルドルフは、規格外に大きな狼と多眼多肢の狼をそれぞれ思い返していた。動物の死骸が飾られたこの城は、標本が所狭しと並ぶ棚に壁を塞がれたシャロムの小屋に少し似ている。調度品の体を取って飾っている分、男爵の方が幾分か異常性が少ないと言えなくもない。けれど、この城に飾られた生き物はどれも、何処かしらか歪であったり欠損があったりと、分り易く「規格外」なのだ。シャロムの遍く生き物に対して注がれる好奇心より、遥かに世俗的で尖った偏執が垣間見えている気がした。
「……男爵も相当おかしい奴か?」
それなりに、とシャロムは返事をした。居館に繋がる通り飾られた梟の剥製は、嘴が捩れていた。
「お察しの通り、彼は歪な生き物が好きなのさ」
シャロムは城内のコレクションをある程度把握しているようで、ルドルフが眼に留めた剥製が何処で捕獲された何物であるかを簡単に説明する事ができた。多くは外見上の変異を抱えるものばかりだが、先天性の異常か後天性の障害かを頓着して蒐集された訳ではないようだった。ただ、歪さの中に造形的な美しさを見出さんとする執心だけが伝わってくる。
「ここのメイドの話じゃ、視察に訪れた戦地で片腕を失ってから変になったんだそうだ。昔はこんな蒐集癖も無かったって。僕との付き合いも、彼がおかしくなってからの事さ」
もしかしたら僕自身も彼のコレクションだったりしてね、とシャロムは心の所在を示すように胸を掌で叩いて見せた。笑いづらい冗談、という訳でもないらしい。関わる人間を選べる立場の男爵が、わざわざ辺境からシャロムを呼びつけているのは、少なからず気に入っているからだ。そしてきっと、ルドルフの正体を知れば、男爵は彼のことも気に入るだろう。
「まあ、お前の知り合いで真っ当さを期待するほうが変か」
ルドルフは肩を竦めた。此処に来て聖人君子が登場すると思える程、ルドルフも夢見がちではない。けれど正直な部分では「変な趣味をしているけど、根は良い人だよ」とフォローが入る事を期待していた。

 「ええ、真っ当なお人は奥方の喪も明けぬ内に使用人に手を出したりしないものですわ」
居館には、メイドが待機していた。主人に対するシャロムの評価を聞いていたらしい。癖のある黒髪が美しい女性だった。欠片の忠義も見せない明け透けな台詞に面を食らったルドルフを他所に、シャロムは挨拶を交わしていた。
「久しぶり。ロッカ。男爵夫人と呼ぶにはまだ早いかい? こっちは助手のルドルフ」
シャロムに促されて会釈をしたルドルフに、彼女も略式に礼で返した。ロッカは少し疲弊した様子だった。小麦色の肌は健康的なのに、伏目がちな表情や慎ましやかな唇は陰のある色気を纏っている。
「お久しぶりにございます、先生。碌におもてなしできずに申し訳ございませんけど、もう少し急いでおいでになってくれませんこと? あのネコ、朝から興奮状態でもう手に負えませんの」
ロッカもまた、男爵が違法飼育している動物の世話に携わっている者の一人であるらしい。彼女自身はあまり動物に関心は無いのか、いい迷惑だと言わんばかりの声音である。
「男爵の様子で先生が来ると分るんですわ、きっと」


 二人はロッカに急かされ、居館の地下に向かう。
 書斎の本棚をずらして、彼女の先導で隠し戸から地下道へと続く階段を下りる。ルドルフが不思議に思っていた異様に広い地下のスペースとは、違法飼育していた動物を囲うスペースだったらしい。

 地下室の扉を開けた瞬間、シャロムは白い巨体に押し倒された。
 驚く声を上げる間も無かった。ルドルフが咄嗟に手を出さなかったら、シャロムは床で後頭部を強打していただろう。シャロムを押し倒したのは、白熊を思わせる大きさの獣だった。
「何がネコだ!」
ルドルフが思わず声を荒げる。顔や四肢は虎に近かったので、確かにネコの仲間ではあるのだろうが人間がペット扱いできるような生き物ではなかった。獣は尻尾をピンと立てて、シャロムの顔を舐め回していた。傍目からは、捕食されているようにすら見える。
「失礼な。私のワタユキちゃんをネコだなんて。絶滅危惧種のアネクメネジャガーだぞ」
地下室の奥には、身なりの良い男が居た。恰幅の良い壮年だ。穂先が枕程の大きさのネコじゃらしをてにしていた。その彼の右腕が義手になっているのを認めて、ルドルフは彼が男爵である事を悟った。
「アネクメネジャガーは本来は氷雪気候の極めて限られた範囲に生息している珍種だよ。ワタユキは密猟されたメスが孕んでいた子でね。母体は出産時に死んだから、取り上げて乳を与えた僕を親だと錯覚している節がある。けど……この成長の速さは予測できてなかった」
獣の下敷きにされたまま、シャロムが呻くように説明した。人間も住めない程に寒い環境に適応した生き物だからか、ワタユキの襟元は獅子の鬣ように長い毛に覆われていた。この真白の毛並みをした獣が永久凍土の上を歩く様は、きっと荘厳で美しいのだろう。子犬のように人間の顔を舐める飼い慣らされた姿は余りにミスマッチだった。

 ワタユキの下からどうにか這い出したシャロムは、唾液塗れにされた顔をハンカチで拭った。
 ワタユキは、酷く甘えた鳴き方をする。体の大きさの所為で声は低く太いが、子猫とそれと同じだった。同種の存在を知らないから、成体としての振る舞いを覚える機会が無かったのだ。生き物の在り方は、城中を飾るコレクションに負けず劣らず歪だった。

 予定していた定期健診の他、ルドルフはシャロムの監修を受けつつワタユキの爪を小刀で整えてやったり、遊びに付き合ってネコじゃらしを投げてやったりと、メンテナンスを兼ねたガス抜きもさせられた。その度にシャロムが講義めいた講釈を垂れる。この生き物の面倒を見るためのノウハウを少しでも多く授けようとしているのだ。
 その行為が余計に離別を意識させて、ルドルフの感傷的な気持ちを増幅させた。疲れも憂いも知らないのは、無邪気な子猫のワタユキだけだ。

 日も傾いてきた頃、まだ遊びたがるワタユキをどうにか引き剥がし、二人は地下を出た。
「ねえ男爵、彼はワタユキの良い世話係になれるだろう。あの大きさじゃあ、もう並みの使用人に面倒を見させるのも限界だ。人間が力で劣る事を学習してきているからね」
だから力でも対抗し得る遊び相手が必要なのだ、とシャロムはルドルフを男爵に売り込む事を忘れなかった。
「ほら、丁度使用人が一人欠ける予定があるだろう。彼は人一倍働くよ」
「あらあら、私の後釜をお勤めになるのは随分武骨な殿方ですのね」
男爵の後ろに付いたロッカがわざとらしいくらいに艶っぽくクスクスと笑った。彼女が口元に手をやった時、ルドルフは彼女の指が六本ある事に気付かされた。男爵は彼女の手を取って、機嫌を取るように口付ける。彼女もまた彼の「コレクション」なのだと、ルドルフは今更ながらに悟った。
「良い返事を期待しているよ。できれば最大限に良い待遇で。僕だって優秀な助手を手放すのは惜しいんだ」
シャロムと男爵は握手を交わす。そんな彼等の好意とは裏腹に、ルドルフは早くもこの環境に馴染んでいけるか自信を失いつつあった。倫理観の破綻した城は、シャロムの小屋とは別種の生臭さがある。
「人員の整理が出来次第、正式に雇用の通知を出そう」
シャロムの手を握った男爵の義手は、人の手に似せようとした気配の無い骨灰磁器で、各所にちりばめられた宝石が室内灯を反射して瞬いた。 


 「あの領主、戦が無かろうと長くは持たんだろうよ」
 小屋に帰ったルドルフは、言い出すまいかしばし迷った後、ついにシャロムに打ち明けた。
 奇形趣味の男爵と、立場を踏み越えて主に懇ろな毒の強いメイド。調達先を明らかにしづらい調度品に、地下室で違法飼育される珍獣。夫人も跡継ぎは不在で、男爵の酔狂を抑止できるような者は無し。何処を切り取ってもアウトだ。確かに、身分だけで言えば、シャロムの助手よりは男爵の使用人の方が安全なのだろう。けれど、抱えている問題の種類と量で考えるならば、寧ろリスクは増えている。
 彼の下に就く事が、果たして本当に正しい身の振り方だろうか。シャロムへの執着も相俟って、そんな疑念がルドルフの中に色濃く蟠っていた。
「そうだね。彼、見ての通りおかしいから」
シャロムはキッチンでビクルスを漬けていた。ルドルフが離れるとなれば、彼に任せきりだった家事も、そろそろシャロムがやらねばならない。研究だの解剖だのに没頭すると食事の用意に時間を割かなくなる彼は、そんな日を見越して保存の利く物を大量に作り置きしておくのだ。
「でも君は僕とやっていけてるんだ。男爵とだってやっていけるさ。君にとっては僕も彼も見たような輩だろう」
ルドルフは首を振る。世間的には両方とも悪趣味と括られる二人ではある。けれどルドルフは別に、その悪趣味に対して理解があるという訳ではない。ただ、己の趣味や仕事が世間に許容されないものだと自覚していながら、人が不必要に傷付けられる事を厭う玄妙なバランスで成り立つ良心がシャロムにあると信じているから、多少の奇行にも眼を瞑れるだけだ。要はシャロムだからやっていけているのだ。シャロムは、自身がどれだけルドルフにとって例外的で特別な地位を占めているのかを知らないのだ。
「もし僕が男爵よりまともに見えるとしたら、ただ僕が彼より持っているものが少ないから比較的大人しく見えるというだけさ」
シャロムは自身の善性を信じてはいないようである。自分が大人しいのは派手な悪行を隠蔽し得る権力や金が無いからでしかないと、冷静に分析をしていた。
「尤も、その分だけ男爵が危うい存在だとも認めよう。権威は組織や取り巻きを作るし、感知せずとも末端の忖度で増長していくのが権力というものだ。行為が個人の枠から外れたら、ブレーキは鈍くなる。だからこそ、君が彼の抑止力になってやってはくれないか」
それは、かつて国軍による組織だった人体改造の失敗と隠蔽を経験した男の反省か。シャロムの眼は、会話相手のルドルフも作りかけのビクルスも映さず、うんと遠くを見ていた。
 シャロムは抜けているが、頭は優秀だし要領も悪くない。男爵を始めとする権威ともコネクションを作れる男だ。にも関わらず、人目を避けた辺境の森で悪魔と謗られながら隠遁生活を送っている。それは彼自身がそう選択した結果なのだと、ルドルフは今更ながら気付いた。シャロムの悪趣味かつ倫理の歪んだ趣味が個人の範囲を超えないように、ブレーキが錆び付かぬように、己の欠陥を自覚しているが故に彼は自身の不自由を良しとしていたのだろう。

 シャロムは、男爵に嘗ての己と同じ危うさを見ている。そう悟ったルドルフは、静かに唇を噛んだ。
 嘗て戦地のルドルフが狂気に怯えていたように、この男も苦しんでいたのだろう。誰かに止めて欲しかった。止められない己の無力が悔しかった。血濡れた己が恐ろしかった。
「男爵には、君が必要なんだ」
君が居てくれたら、狂気じみた嗜好に流されずに済むだろう。などと続く説得は、シャロムにしては珍しい具体性に欠く精神論だ。自分がそんな風に評価されていた事に対する驚きと面映さ。必要だと言うシャロムの声には、懇願めいた響きがあった。それが蜜のように心に沁みていく。

 要領を得ないシャロムの弁を聞く内、ルドルフの中で一つの可能性が組み上がった。
「俺が必要なのは、シャロム、お前の方じゃないのか」
確信というには浅く、観測者の願望が強い推測ではあった。けれど、切に救いを求めていた共通の経験が、その推測を補強していた。男爵と己を重ねているシャロムが、男爵にはルドルフが必要だと執拗に推す。その意味が何を指すか分らない程、彼等は朴念仁ではないのだ。
「新しい知見だ……でも、そうだな。うん……」
指摘されて始めて気付いたらしいシャロムは、ルドルフの言葉を少し時間をかけて咀嚼した後、力無く頷いた。
「そうだ。ああ、僕は君に救われたかったのかもしれない」
男爵に同じ徹を踏ませない事が、シャロムの願いだった。それが彼の慰めになる。男爵に、狂気との付き合い方を誤った嘗ての己を重ねているのだから。
 止めて欲しいのも、ブレーキを欲しているのも、ルドルフを必要だと思っているのも、本当は男爵ではなく全て全てシャロムの方なのだ。ただ、己の傍にルドルフを置く事で不利益を与える事を忌避するあまり、無意識が己の本当の欲求を隠し、男爵を介した間接的な手段を取らせていたのだ。
 その目隠しを剥ぎ取られた今、シャロムは自身のエゴを突きつけられて当惑していた。紫水晶の瞳が、所在無さ気に彷徨う。陶磁のように温度を感じさせない肌が、熱を帯びていく。

 シャロムはやや俯き、掠れた声で謝罪を口にする。ルドルフの為と思いながらも、結局は自らの慰めの為に動いていた。その浅ましさに、誰よりシャロム自身が参っていた。相変わらず表情の読み辛い相貌だが、耳の先の赤さが確かに彼の煩悶と羞恥を露呈させていた。
 シャロムにもルドルフにも、戦中の記憶は傷である。けれど、それは取り返しを付けようにも既にどうしようもなく済んでしまった事なのだ。殊にシャロムは、今までコネを作り仕事を見付け、割り切った隠遁生活を送っていた身だ。なのに今更、特定の個人に対して救いを求めるのは、ある種の愛着であり、浅ましい甘えだ。

 ルドルフは合点して頷くと、断罪を待つシャロムの固く結ばれた唇を食んだ。
「こういうこと、で合ってるか?」
紫の瞳が見開かれ、一層鮮やかに瞬いた。浅ましさを糾弾されると思っていたシャロムは、願望が頭蓋の内側で密かに育てていた甘く煮溶けた欲が実現されてしまった事に狼狽した。
 合っているよ、と返す筈が満足に発声が叶わず、シャロムは自身が嘗て無い程に緊張していた事を自覚した。そうだ。傷付いてほしくないと尽くすのも、傍に居てほしいと焦がれるのも、彼に救いを見出しているのも、つまりは全部そういうことなのだ。

 ルドルフはもう一度、シャロムの口を吸った。


 その三日後、ルドルフとシャロムは通知を受けて再び男爵の治める地方領を訪れた。
 けれど、その通知は男爵からの雇用通知からではなく、使用人達による男爵の訃報だった。男爵は懇意にしていた子爵の下を訪れた帰り、山を抜ける途中で賊に襲われたらしい。幾つかの所持品と義手が奪われた状態で、遺体が川に流されていたのが見付かったのは昨晩の事だった。誰も予期していなかった唐突な幕引きであった。

 結果、ルドルフの雇用の件は白紙に戻った。
 二人が赴いたのは、男爵の秘密を共有するものとして遺品整理に人手が必要だと判断したからだ。現に、シャロムはそういったコレクションを男爵に売り付けていた立場だからか、城のあちらこちらに引き回されて早々にルドルフとは別行動を余儀なくされていた。

 ルドルフは、主に執事達と共に各所を飾っていた剥製を撤去する作業を手伝った。
 男爵が居なくなって所有している意味の無くなった不気味な剥製の多くは、中庭の一角で燃やされた。もしかしたらその手のマニアが見たら勿体の無い行為だったのかも知れないが、城内の使用人達は弔問客を迎える準備で手一杯である。
 そんな中、ルドルフは運搬や解体といった力仕事で大いに役立つ事ができた。


 剥製の搬出に一段落付き、ルドルフがぼんやりと中庭で燃える調度品を眺めていると、ロッカが労いに来た。彼女は差し入れとして、安っぽい箱に入った紙煙草をルドルフに押し付けた。
 ルドルフは、初めて会った時からこの女が苦手だった。
 女言葉がわざとらしいからだろうか。伏した眼がちな瞳に色気と毒気が混在しているからだろうか。それとも、遜った口調に対して敬う気持ちが見えないからだろうか。加えて、女中にして非公式の後妻という非常識な立ち位置を恥じない面の厚さを知ってからは、苦手意識以上に得体の知れなさが勝つ。
「最後の一本だろう」
ロッカは始めて会った時よりも更に疲労の滲んだ顔をしていた。艶のある髪を乱したまま、雑にホワイトプリムを被っている。疲弊した女と安い紙煙草の取り合わせは、草臥れた色気があった。
「もう私には必要無い物ですので」
彼女が煙を断つ事にしたと言うので、ルドルフは大人しくそれを貰った。煙草は久しぶりだった。軍から逃げ出して久しく吸っていなかった。嗜好品としての優先順位が低い所為もあるが、あの薬品と死臭の臭いがする小屋にタールの臭いまで加えるのは自滅行為だと感じていたからだ。

 ルドルフは、燃える調度品から火を拝借して一服する。
 口腔を辛さと殺伐とした苦味が満たす。唇の触覚が刺激されると、辛味とも苦味とも程遠い記憶にも関わらずシャロムの薄い唇が思い出された。
「先生は男爵が遺した最大のコレクションの始末をなさってますわ」
別行動中の片割れの所在を聞いたルドルフに、ロッカは苦々しい声音で答えた。
「あのネコ、最期まで先生にベッタリでしたわ。人間から害されるなんて発想は、あの地下室じゃあ微塵も培われませんもの……無邪気すぎて嫌になる」
男爵の最大のコレクションにして一等明らかにはなっては拙いのは、ワタユキの存在だった。外から連れてきた、しかも大型その肉食獣など、辺の野に放てる生き物ではない。かと言って今更氷雪に覆われた本来の生息地に帰したところで、適応できる筈もない。そもそも同属を知らないどころか、自力で糧を得る方法すら分らないのだ。男爵の手から離さざるを得なくなった時の始末の付け方など、最初から分りきっている。
「殺処分か」
「ええ。あのネコなら殺鼠剤でも疑わずに食べるでしょうけども、流石に苦しませる趣味はございませんからね。私が先生にお願いしましたの」
人間の身勝手で育てられた獣は、人間の都合で死ぬ。最初から分っていた道理だが、実際にその日が来るとロッカも気が重かった。せめて微睡みの延長のような安楽死をと望むのは、ルドルフにも理解できるエゴだった。

 ルドルフは、ただ一度た会った真白の獣を思った。
 故郷を知らず、子供のままでいるしかない、無垢で無邪気な生き物。ルドルフは、ロッカがワタユキの名を呼ばない理由が少しだけ分った。いつかこんな日が来ると分っているなら、情を移さない方が良いに決まっている。ワタユキの厚い舌に頬を舐め回されていたシャロムは、ロッカ以上の感傷を抱くだろう。生まれる瞬間から立ち会っていた生き物から、その手で命を奪うのだから尚更だ。
 しかし恐らく、シャロムは表情一つ変えずに遂行するだろう。シャロムは、必要とあれば手の震えすら止めて、冷静さを手繰り寄せる事が出来る人間だからだ。男爵と付き合ってきた者としての責任を感じているであろう彼は、それが当然の仕事とすら考えているのだろう。
「先生もとんだお人よしですわ」
ルドルフと全く同じ事を考えたのだろう、ロッカは足元の小石を蹴る真似をした。この時、ルドルフは漸く、ロッカに対する苦手意識が少し薄れた。
「まったくだ」
ルドルフの雇用の話も流れた上、折角作ったコネクションも男爵が死んでは意味が無くなったのだから、わざわざ城を訪れる必要は無かった筈である。なのに苦い思いをすると分っていて、わざわざ遺品の整理を手伝いに来たのはシャロムの自責以外の何者でもないだろう。感情の読めない貌の下や、複雑な情報を処理する頭の中には、不条理に心を痛めるだけの感性がある。それなりの濃度の付き合いの中でルドルフはそう気付いていたが、ロッカも同様に感じる事があるようだった。

 奇妙な共感が、ロッカとルドルフの視線を結んだ。

 ルドルフは、初めて彼女の瞳がオリーブと同じ色をしている事に気付いた。ロッカが崩れた髪を六本指で器用に掻き揚げる。
「私、昔は男爵の事を好いていましたのよ」
まだこの城に奉公に来たばかりの頃です、とロッカが告白を始めた。
「あの頃は男爵は真っ当で、奇形だの珍種だのに興味もありませんでしたから。女中の指が多かろうと気にも留めませんでしたわ」
全く眼中に無いが故のフラットな扱いが心地良いという心理は、ルドルフにも理解できるものがあった。異端の者は、特に何をせずとも好奇の視線が集まって息苦しいのだ。
「戦地から戻ってきた男爵は、人が変わっていましたわ。私の手をお触りになるようになりました。妙なお知り合いを作るようになったのも、その頃ですわ」
ロッカは記憶を辿りながら、自身の手を守るように握り締めた。常人より一本多い指はバランス良く並んでいる所為でルドルフは気付くのが遅かったが、確かに異端の指が薬指とも小指とも付かぬ位置に存在していた。きっと目端の利くシャロムなら、一発で気付いただろう。
「シャロムの事も、不愉快な奴だと思ったか?」
「ええ。それは今でもたまに」
ロッカの正直過ぎる答えに、ルドルフは苦笑した。嫌いではないとその声音が告げているのを可笑しく感じた所為だ。
「あの人は男爵の共犯者ですけれど、多分誰より男爵の危うさを気にかけていましたわ」
二人の眼前で、炎に包まれた異形の山羊の剥製が灰に変わっていく。硬い角も、表面の脂がじわりと焦げて、煤に近付いていく。

 「男爵が脚萎えの執事を雇おうとした時、真っ先に反対したのは先生ですわ。周囲の反応は、弱い者に仕事と給金を与えようとする男爵を褒める声の方が多かったのですけれど。私達はそれが慈善なんかではないと知ってましたから」
それでも、面と向かって反対を口にしたのはシャロムだけだったらしい。権威は組織や取り巻きを作る。シャロムの言葉が、ルドルフの中で甦った。
「学の無い私にも何となく分りましたわ。市井が男爵の趣味に勘付いて奇形に需要があると知れば、健全な娘の腕を切り落として奉公させようとする親だって出てきましょう」
寧ろこういった市井の卑しさには学が無い方が敏いのかもしれませんね、とロッカは自虐を挟む。この女もルドルフも、きっとシャロムも、人よりほんの少し悪意をよく知っていたのだった。
「先生は、男爵に次々と動物のコレクションを勧めるようになりましたわ。人間から目を逸らさせるみたいに」
要領の悪い人でしょう。とロッカがルドルフに同意を求めた。
「そんな事をしたって、先生にはネコ一匹の処分に痛める心が備わってしまっているんですもの」
聡いのに、自身の感情には頓着しないから妙な失敗をするのだ。不器用なんだか雑なんだかよく分らない要領の悪さは、時折ロッカを不愉快にさせた。嫌いではないからこそ、不快なのだ。

 使用人達の雑談を何処か遠くに聞きながら、ルドルフは火の粉の爆ぜる音を肴に紫煙を吐いた。
「アンタは、これからどうするんだ」
男爵が変わってしまっても城を出なかった女だ。何となく、先程までの会話で他に行く宛が無いのだろうと感じていたルドルフは、尋ねずにはいられなかった。
「此処に残って弔問客の相手をせねばなりません。こう見えて私、実家の小さな村では化物の扱いでしたのよ」
多指症は本来飛び抜けて珍しいものではないのだと彼女が知ったのは、男爵が可笑しくなってからだった。都会や経済的に余裕のある家では、子供に物心が付く前に余りの指を切って治療してしまうので多指症の自覚すらない者も少なくないという。そう知ってから、余計に実家とは疎遠になって、仕送りもいつか前にやめていた。
「この土地を欲しがるところは今のところございませんから、直系の跡継ぎさえ居ればこの城も続いていく事でしょう」
ロッカは毒のある、強かな笑みでルドルフを見やった。指の多い手が、ロングスカートに覆われた下腹部をゆっくりと撫でた。
「男爵夫人にはなりそこないましたが、男爵未亡人という事になりますわね」

 ルドルフはぎょっとして、煙草を取り落とした。
「所詮はお飾りにしかなれぬ身ですけども、雇用を守るくらいの事はしましてよ」
ルドルフは反射的に煙草を拾った。けれど直ぐにロッカのまだ薄い腹が頭を過ぎって、煙草を揉み消した。今まで妊婦の横で喫煙していたという事実にルドルフは動揺していた。
「なら吸わせるな!」
そんな反応に、ロッカが可笑しくて堪らないと言いたげに口元を押さえる。
「先生がついに人間を連れてきた時は、どんな奇怪な人なんだろうと思ってましたのに。貴方、随分と真っ当ですわね」
男爵のコレクションになり得る方だと思ってましたのに、と告げる声は一割の落胆と九割の親愛が混じっていた。
「俺が真っ当な人間に見えるなら、そう振舞えるように手を添えてる奴の……」
そこまで答えたルドルフは、ついぞ自身こそが抑止力なのだと言われた事を思い出してしまった。ルドルフの楹月の瞳が、気恥ずかしさで揺れる。
 ロッカはその機微を見逃しはしなかった。この女は、シャロムとは全く逆のベクトルで聡いのだ。
「貴方やっぱり人でなしですわ。仮にも未亡人の前で、酷い人達」
ついに中庭にロッカの笑い声が響いた。
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