狐狸の性

 不揃いな日用品も買い揃えぬままビーカーで珈琲を飲む生活にも慣れてしまったこの頃、ルドルフに新たな日課が出来た。夜間の走り込みである。
 異形の身体能力を付与された今となっては、基礎体力を維持するという人間臭い目的は無いに等しい。けれど軍人であった頃の名残なのか、黙々と身体を動かす作業は心を落ち着けた。

 夕餉の後からシャロムが風呂から出るまでの間、ルドルフは夜の森を走り込む。
 人智を越えて夜目が利く彼は、地面に不規則に突き出した木の根に脚を引っ掛ける事もない。六等星より暗い星々の瞬きを視界に捉えながら、風を切って進む。身体の運動は常に、意識下で統合されたものでなくてはならない。冷涼な空気の中で、呼吸と脚の運びが調和する感覚に意識が集中する。その瞬間は、精神が洗われている気すらした。
 人里に近付くと良い顔はされないので、森の中を何往復もしている。ここ数日間の内に何千何百と往復された森の細道は、舗装でもされたかのように踏み固められてきていた。その様子にシャロムはやや呆れた顔で「森の動物達を脅かすなよ」と忠告した程である。
 しかし、ルドルフの走行距離は日を追う毎に延びていた。けれど幸いにも、森の方が徐々にルドルフに慣れるという形でシャロムが危惧したような不和は避けられていた。今では彼と動物達は、互いに存在を認知しつつも自然な不干渉を構築しつつある。
 ルドルフは、森の静寂と溶け合う生き物の息遣いを気に入っていた。夜風にざわめく枝々の揺らめきや、その間に紛れて目を光らせる梟が喉袋を鳴らす声も、叢の狭間を往く狐狸の足音も、雑多にして人間の感情が入る余地が無い。浮世に馴染めぬ事を悩みとするルドルフにとって、その雑音は優しいものだった。その中で走っている時は、無心になれた。ルドルフは、無心になりたかったのだ。


 その夜、心行くまで走り込み心頭滅却しきったルドルフが小屋に帰ると、シャロムは押し込み強盗に遭っていた。

 余りの展開に、ルドルフの情報処理が追い付かない。
 荒れ放題の部屋。割れた標本瓶。物色するゴロツキ三人。それぞれの腰には短刀が挿してある。そして、後手に縛られたまま診療に繋がれたシャロム。風呂上りで髪も乾かす間も無く捕まったのか、彼のシャツは肩が濡れていた。ルドルフはそれらを間抜けにも交互に見遣った。
 シャロムの鼻から滴る血を視認した瞬間、ルドルフは一気に頭に血が上ってゴロツキ共を締め上げたい衝動に駆られた。ルドルフに植え付けられた獣の性が、一切の手続きを無視して「殺せ」と喚いた。そんな中で理性が手綱を手放さずにいられたのは、シャロムが場違いなまでに冷静だったからだ。何時もの何を考えているんだか良く分らない表情には、焦燥も恐怖も読み取れなかった。挙句、シャロムは開口一番にあの平坦な声で「耳の良い君ならもっと早く来てくれると思ったんだけどな」と言ってルドルフと強盗を拍子抜けさせた。無心になる為に走っていたのだ、小屋の異変に気付ける訳も無い。
「勝手に喋ってんじゃねえっ」
「あ痛っ」
先に調子を取り戻した強盗の一人が、シャロムの頭を叩く。危機感は無くとも痛覚はあるようで、シャロムは呻き声を上げた後は暫く黙った。

 標本瓶が割れている所為か、部屋は死臭とエタノールの匂いが混じり合っている。
「まあいい、コイツは人質だ。憲兵を呼ぼうなんざ考えるなよ。出す物出してもらおうか」
「そうだ。俺達もこんな部屋に長いしたい訳じゃない」
強盗が部屋の壁を塞ぐ棚にずらりと並べられた多種多様な標本を一瞥して言った。割れた標本瓶から出てしまった中身の方は、無残にも形が崩れて、クラゲかキノコの類のような白いブヨブヨが床に張り付いているだけになってしまっていた。標本や剥製にはすっかり慣れてしまったルドルフは特に感慨も無く眺められるが、やはり客観的には異様な空間である。けれど、わざわざ悪魔と誹られる男の小屋に来て、金を物色しても立ち去らないというのは、やはり目当てはその類なのだろう。

 強盗の一人が、静かに切り出した。
「狼の剥製は何処にある。出せ」
狼とは、ルドルフが仕留めたあの巨大な個体の事に違いない。確かにそれは、見栄えも良く希少性もあり、学術的価値に疎い者でも高値を付ける代物だった。けれどそれは、とうに売り払っていて小屋には無かった。あんなに嵩張る物を、手狭な小屋に長く置くつもりなど最初から無かったのだ。
「……それを君達が手に入れたとして、売り捌くアテはあるのかい。まさか君達自身が熱心なコレクターという訳でもないだろうに。唯一性が強すぎる盗品は直ぐに足が付くよ」
答えたのはシャロムだ。強盗達が顔を見合わせる。
「そもそもなんで狼なんだ。そんなに嵩張る物を持って逃げる算段があるとも思えない。まだ標本瓶を幾つか持っていった方が賢いだろう」
狼の剥製がまだ小屋にあると思っている事といい、強盗達はリサーチ不足が目立つ。それを指摘するシャロムも容赦が無かった。縛られた上に殴られたばかりの人質とは思えぬ態度である。
「例えば、君達が割った標本に入っていたそれ。太古に分岐した筈の有櫛動物と刺胞動物の特徴を併せ持つ突然変異種だ。学術的価値は狼より高い」
ルドルフにはクラゲかキノコの類にしか見えないそれは、余程大事なものだったらしい。表情や声音に然したる変化が無い分だけ分りづらいが、確かに怒りが込められていた。


 強盗達の杜撰さを言いたいだけ言ったシャロムを再び殴ろうとした強盗達だが、二度目はなかった。
 シャロムの危機感の無さに拍子抜けしていたルドルフも、流石に賊に好き勝手させ続ける事を看過する訳が無かったからだ。ルドルフは一人目に脚蹴りを入れて倒すと、二人目の耳を掴んで転がし、三人目の顎に拳を叩き込んだ。一瞬の作業だった。


 制圧の手際の良さに感心するシャロムの賛辞を聞き流し、ルドルフは賊を拘束して無力化した。
 ルドルフは彼等を憲兵に突き出そうと言ったが、シャロムが渋ったので森に捨て置く事になった。運が悪ければ森の獣の糧にされるだろうが、ルドルフが走り込んで舗装した路ならさっさと森を抜けられるだろう。
「この標本、貰い物なんだが十中八九盗品か密漁の産物だと思うんだ。悔しいけど、役人の介入は避けたい」
拘束を解かれたシャロムが割れた標本瓶を片付けながら説明した。
「以前強盗に入られた時は医療器具を持っていかれてね。此方は無免許だから被害届も出せなくて、やはり泣き寝入りだったよ。今回は君が居てくれて助かった」
強盗被害に遭ったのは二度目だからか、シャロムは別段取り乱しても居なかった。寧ろ、ルドルフの方が動揺していた。ルドルフは元々、他人の傷を我が身の傷のように感じる性質なのだ。そして、それが他人より近い人間が被害に遭った今回は一層業腹だ。
 もしシャロムが酷く怯えて取り乱していたら、一緒になって取り乱していたかもしれない。憤りに我を忘れて衝動のままに暴れる結果になっても可笑しくは無かった。そんなルドルフの不安を他所に、シャロムは標本の破損を惜しんでいた。

 血の匂いに、ルドルフが唇を噛む。シャロムの生白い肌には、赤い血が良く目立って痛ましい。
「お前はもう少し自分の事に頓着してくれ」
拘束されていた腕は、擦過傷が出来ている。拘束が解けて塞き止められてた血が巡れば、傷口から組織液がじわりと滲んだ。
「素人の強盗くらい君が何とかしてくれると思っていたよ」
「そうだ。そう分かっているならわざわざ余計な口を利いて強盗を刺激する必要性は無いだろう」
相手の気質によっては、殴られるだけでは済むまい。相手の気を逸らすための作戦的な挑発がどうしても必要という認識も無かった筈だ。ルドルフはシャロムのリスキーな言動に心底肝を冷やしていた。
 シャロムは鼻血を拭って、曖昧に首を傾げた。滅多に表情を見せないシャロムの眉根が寄っていた。
「まるで君が殴られたみたいな顔をするね」
そんな顔をされると流石に罪悪感が沸くよ、と困惑してみせるので始末が悪い。元々察していた事ではあったが、このシャロムの感覚は少しずれている。他人から如何に後ろ指を指されようが平気な上、暴走と隣り合わせだと知っていながら人型兵器のルドルフを居候させ続けている男だ。ルドルフはその頓着の無さに救われている身ではあるが、だからといってシャロムがどうなっても良いとは決して思えなかった。
「……自分が殴られるより堪える」
「そう。じゃあ悪い事をしたね」
理解したとは言い難い反応で謝罪するシャロムに、ルドルフは溜息を吐く他に無い。

 「それにしても、誰が彼等に狼の話を吹き込んだんだろ……ッシュンッ」
素人の強盗を焚き付けた迷惑な存在について言及したところで、シャロムはくしゃみを一つした。生乾きの身体をそのままにしていた所為に違いない。ルドルフが風呂に入りなおせと言いかけたところで、治まっていた鼻血が再び出てきた。くしゃみの勢いで粘膜にできていた傷が開いたのだろう。粘性の少ないそれは重力に従順に口へと垂れていく。
 赤い。白い皮膚に良く映える赤だ。
 芳醇な、脂と鉄の匂いをさせている。人間の匂いだ。
 無意識にルドルフの喉が鳴った。三半規管が覚束無い。ルドルフの手は勝手にシャロムの顔に伸びていた。形の良い上唇を濡らす血を指で掬った。その指を舐めれば、酸味と旨味の混じった味が舌に絡み付く。酷く懐かしかった。それルドルフの生理欲求に近い部分を満足させる味だ。
「ルドルフ?」
シャロムの菫色の双眸が、ルドルフを正視していた。
 あの一瞬、ルドルフは正気ではなかった。喉が酷く渇いている。一掬いでは到底足りないと、更に血を求めようとしていた。悍しいことに、未だ名残り惜しい。
「……走りに行ってくる」
「君、既に走ってきた後だろう」
だがルドルフには逃避が必要だった。無心にならなくてはならない。心頭滅却しなくてはならない。雑念を許せば、獣の性分が顔を出してしまう。ルドルフはそれを酷く恐れていた。
 如何にルドルフが善を愛し蛮行を忌避しようと、一度理性の轡が外れれば一貫の終わりなのだ。戦地から離れて漸く得た安寧を、シャロムの信頼を失うなど、絶対にあってはならないというのに。

 顔色が悪いと制止するシャロムを振り切って、ルドルフは小屋を出る。
 血の赤が脳裏にこびり付いて離れない。必死に標本瓶の中身や死臭を思い出して気を逸らそうとしても、やはりあの赤は魅力的だった。艶かしい色だった。芳醇な香りだった。ルドルフの理性とは程遠い部分が、あの赤が欲しいと叫ぶ。彼が欲しいと喚く。
 そんな思考から逃げるように、ルドルフは夜の森を走った。


 ルドルフは、シャロムを好いていた。

 何時からそんな執着を覚えていたのか定かではない。
 世間の価値観や道徳から乖離した男にも慈悲が潜む事と知った時か、彼にその慈悲を以って救われた時か。ただ、不気味なまでに人形じみた顔をただただ純粋に美しいと感じるようになった時、自身が取り返しが付かない程にあの男を好いていることを知った。消毒液の匂いにただ安寧を覚えた時、悲しみとは別種の感慨に情緒を乱されて泣き出したい気持ちになる。

 それは理性の届かぬ衝動だ。
 確かに親愛と畏敬が根底にあったが、その執着は余りに混沌としていて、逸そ暴力的だった。浅ましい情欲だ。その接触願望は恋慕と呼べるだろう。
 あの髪を梳いてみたい。その指に触れてみたい。雑に切られた爪を整えてやりたい。微睡みの中で他愛無い話をする声を聞かせて欲しい。肩口に顔を埋めて浅く上下する呼吸を感じていたい。淡白な表情が崩れるところを見てみたい。いっそ慈悲を乞いたいような気持ちすらあった。けれどルドルフは、己の理性に統轄され得ぬ部分が如何に激しく、残酷で劣悪かを心得ている。
 性衝動は、破壊衝動と紙一重だ。性急に髪を掻き上げて項に噛み付きたくなる事だってある。左右対称に吊り上る唇に指を割り込ませてみたくもあれば、手首を掴んで何処にでも引き摺り回していきたい時もある。あの澄ました顔が自分の前でだけ浅ましく感情的に歪んだら、きっとルドルフは満たされる。蟀谷に汗が伝うところが見たいし、涙の溜まった瞳はきっと美しかろうと夢に出る。
 基地で欲のままに婦女を暴行する狼人間を見てきた。酔って娼婦に乱暴を働く人間と対峙した。ルドルフには、理性の手綱を失った己が彼等と同類でないという保証も無かった。いや、きっと同類なのだ。己の善を尊ぶ理性の薄皮の下に、他者の身体を支配し蹂躙する事に快楽を覚える劣悪な獣の性がある事をルドルフは嫌になる程知っていた。

 だから、無心であらねばならない。あらゆる欲を遠ざけ、強固な理性を維持しなくてはならない。心頭を滅却し、ルドルフは走る。狼より早く駆けようが靴を履き潰すまで走り続けようが然して息の上がらぬルドルフだが、今ばかりは肺が潰れそうだった。

 暴れ出したい衝動を抱えた身体を、走り込みで代替して納得したがっている。気分が高揚する現象を、運動をしたからだという理由に挿げ替えたがっている。ルドルフの走り込みは、一種の防衛機制だ。そんな事は百も承知である。
 だが走らずに居られなかった。身体に負荷をかけ、各所の筋肉に血を送り、頭に蟠る熱を取ってやらなくてはならない。鼓動が高鳴るのは、有酸素運動の所為でなくてはならない。

 ルドルフは、己の抱えたやましさから逃げたかった。
 あの生白い肌の下に赤い血が流れていると実感しただけで堪らなかった。そんな内心を知られたくなかった。ふと願望を実行に移してしまうのではないかと己が恐ろしかった。この欲がシャロムの身体あるいは精神を傷付ける可能性から遠ざかりたかった。


 勿論シャロムは、ルドルフがそんな葛藤を抱えている事など知らない。
 また血に逸ってしまったのだろう、と半分程の理解のままである。
「この騒々しさといったら、まるで春先の獣だ」
森で一番主張の激しい生き物になったルドルフを発情期の獣に喩えたシャロムは、欠伸をひとつ零す。
 夜も深い。民家は遠いので、多少煩くとも直接的な苦情は来ないだろう。ルドルフの奇行の原因が自分であるなどとは露ほども思わないシャロムは、さっさと寝る支度を始めた。
 ルドルフの春は、苦難に満ちている。
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