悪魔の咎

 川沿いの街は、赤みがかった街灯が美しくも官能的な雰囲気を創り上げていた。
 宿屋の赤を基調にした格子の装飾に異国情緒を醸す飾り窓からは、華やかなドレスを着た女性が手を振っている。この時間、カーテンが閉まっている「接客中」の部屋以外は、何処も念入りに化粧をした豊満な女達が愛想を振りまいてくれる。花街とはそういう場所だ。


 夕暮れ時、ルドルフはシャロムの小屋のある村から二つ川を隔てた花街に来ていた。
 シャロムに仕事を依頼した娼婦が街まで車を手配してくれたので、ルドルフもそれに便乗して来たのだ。娼婦がシャロムのような闇医者紛いを呼ぶとなれば、堕胎か心中の失敗か、指でも詰めるつもりか。いずれにせよルドルフは積極的に知りたいとは思わなかった。
 最初は健全に近くのストリートマーケットを冷やかし、次のシーズンの為の衣類を購入する筈だった。狼狩りの報酬と剥製にした狼は結構な利益になり、助手のルドルフの懐もそれなりに潤っていたのだ。けれど花街の艶やかな匂いに釣られたが最後、女とは随分ご無沙汰だった事を思い出してしまったのである。


 一際古典趣味の装飾が目立つ宿の角部屋に位置する娼婦は、その時刻にカーテンを閉めていないにしては若い女だった。顔も悪くない。南部に良く見られる明るい茶髪に愛嬌があり、胸は平均的だが、ドレスから覗くデコルテが美しかった。
 ルドルフが彼女の部屋の前で歩みを止めると、彼女はウィンクしたり手招いたりとアピールして見せた。その爪は貝殻を思わせる玄妙な曲線美で整えられ、官能と愛嬌の間のようなコーラルピンクに彩られている。
「お兄さん観光でしょ。ついでに此処の地酒も飲んでいくといいよ」
宿のカウンターでサービス内容を確認したルドルフに、従業員の男は愛想良く話しかけた。色を売る街は観光産業も盛んらしく、その所為か街は男達まで人懐っこい。
「ウチでも酒と軽食くらいなら出せるけど、ま、オススメはもう一本向こうの通りのバーだね」
羽振りの良い客だと見られたらしい。カウンターで悪戯っぽく声を潜める男に、ルドルフは苦笑するしかない。
「店の人間がそんな事を言って良いのか」
「いいのいいの。沢山良い思いして、また街に来てくれる方が有り難いからね」
観光地の良いところは、小さなコミュニティと比べて余所者に慣れているところだ。金を落とす客であれば、何者をも寛容な態度で迎え入れてくれる。非日常性を適度に提供してくれるそこは、己が何者であるかも優しく蕩かして忘れさせてくれる。そんな期待があった。

 サービスの内容と料金を交渉し、宿の階を上がる。
 古い床板は、ルドルフが一歩踏み出す度に音を立てた。踊り場に掛けられた油絵の裸婦画は、軍役前に通っていた下宿のマドンナに横顔が似ていた。思えば、真っ当に女の肌に触れたのも彼女が最後だった。ルドルフの皮膚は、女性の心地をもう薄ぼんやりとしか覚えていなかった。軍は男所帯であったし、シャロムの小屋は女どころか人里からも遠い。募った人恋しい気持ちが、性的な欲求を後押ししている。人工的な香すら、ルドルフに心地よい期待を与えていた。

 廊下と扉一枚で隔たっただけの女達の仕事部屋からは、演技がかった嬌声が漏れ聞える。それはルドルフの耳が特別良いからではなく、壁や戸が極端に薄いからだ。客の期待を高める為に、わざと聞かせる造りになっているのもしれないとすら思わせる。
 荒い息。ベッドのスプリングが軋む音。派手にぶつかる肉の音。ただ苦しげな女の吐息と、興奮に上擦った罵倒。平手打ちの破裂音。嗚咽。嘔吐く声。鞭が空を切る音。怒鳴り声。何か陶製の物が割れる音。
 最初こそルドルフは派手なプレイをしている、で済ませようと思った。けれど、それが決して合意に基づくものではなかったと気付かされた。
 一際激しくも争う音をさせた後、血相を変えた女が部屋から飛び出してきたからだ。

 女は裸にシーツを引っ掛けたままだった。頬には新しい痣があり、口の端から血を流している。ルドルフと眼が合った。
「助けて!」
豊かなブロンドを汗に濡れた額に貼り付け、女は転がるように廊下を走った。その背後で、開け放たれた部屋から客と思しき男が出てくる。ルドルフは思わず女の手を取って、客との間に身体を割り込ませた。男はルドルフと同じくらいの背丈で、酷くアルコール臭かった。
「何処行くこの糞アマがァ!」
女の客が恫喝した。滅茶苦茶な声量だった。怯えて身を竦ませた女は、縋るように細腕でルドルフの腕にしがみ付く。震える肩には深い歯型が見えた。華奢な背は血で真赤に濡れていた。所謂プレイで済ませられる範囲を超過した裂傷だった。身体の各所に痣と擦過傷があったが、今しがた付けられたであろう首の手形は殊にルドルフの肝胆を寒からしめる。
「限度ってものがあるだろ」
酔漢を止めようと口を開くルドルフだが、怒りを隠しきれず感情的な荒い声音になった。ルドルフの怒声に恐怖が刺激されたのか、女は酔漢に負けぬ声量で「殺される」と叫びだす。
 これにはルドルフも狼狽える。まるで自分も暴行に加わったようではないか。寧ろ、彼女がこの場から逃げられるように男の注意を引いたつもりだったのだが。
 恐怖に錯乱している人間に合理的な状況判断を期待する方が無理があった。叫びながらも、依然として女はルドルフに縋って離れなかった。火事場の馬鹿力はこんな時にも発揮されるのか、女の握力は強かった。赤く彩られた女の爪が、ルドルフの皮膚に強く食い込んだ。

 男の方も道理が通じる気配が無い。アルコールに蝕まれた頭を女に逃げられた怒りでいっぱいにした男は、廊下の真ん中で怒鳴る。
「馬鹿言ってんじゃねえっ叩っ殺すぞ! こっちは金払ってんだ! 死ね!」
吊り上った三白眼を充血させ、口角から唾を飛ばして威嚇する。女はルドルフの細くない腕を掴んで盾にしたまま、要領を得ない喚き声で応じる。収拾が付かない。地響きのような恫喝と女の甲高い声に挟まれて、ルドルフの内耳も悲鳴を上げていた。
「黙って。いいから早く逃げろ。上着を貸すから、手を離して」
ルドルフも怒鳴りたいのを押さえて、女にできるだけ優しい声で指示した。そろそろ騒ぎを聞きつけた男性従業員達が下階から駆けつけて来ても良い頃合である。ルドルフは女に上着を貸そうとしたが、女が腕を掴んだまま離さないので脱衣も儘ならなかった。腕を掴む女の掌はじっとりと熱い。女は過呼吸の兆候のような歪な呼吸を繰り返すばかりだった。嫌だ嫌だと譫言は言えど、会話にはならない。男の怒声は止まない。鼓膜を揺らされる度、頭が痛んだ。血とアルコールの匂いの中で行う儘ならぬ遣り取りが、ルドルフの苛立ちを増幅していく。
「手を離して。早く治療してもらえ」
女と向き合うと、脂と酸味の混ざった血の匂いを一層濃く感じた。狼の血とは比べ物にならない人間の匂いに、ルドルフは思わず眉間を押さえた。頭に靄がかかったように鈍り、女にかけるべき言葉を一瞬忘れた。

 漸く下階から従業員達が駆けて来る音が聞えた。客を取っていない女達が、従業員の対応の遅さに非難の声をあげている。喧騒が一層大きくなる。
 「死ねっ」
騒音と血の匂いで鈍った頭に、強い衝撃が走った。男の笑い声と女の悲鳴が重なる。頭に当たって砕け落ちた硝子片から、ルドルフは自身が酒瓶の類で殴られたのだと悟った。

 三半規管が覚束無い。ただ耳は漫然と喧騒を拾っていた。走って来る従業員達の靴音。軋む床板の響き。叫ぶ女の声。怒鳴る男の口汚い台詞。荒く歪な呼吸。煩い鼓動。全部の音が耳元で一斉に鳴っているような錯覚があった。喚き散らす男を振り返るが、ルドルフは声を上手く言葉として把握できなかった。

 ルドルフは遂に女の手を強引に振り解く。
 血と酒の匂いに、平衡感覚が危うくなる。酩酊に近い感覚だった。靄がかかったルドルフの頭は、血走った酔漢の眼差しに懐かしさを感じていた。

 懐かしいのだ。血も暴力も、怒声も叫声も、痛みも苛立ちも。ルドルフはよく知っていた。嘗てそれを糧に生かされていた。分別の無い暴力こそ、己の本分だったではないか。

 如何に善を愛し蛮行を忌避しようと、己の本性は獣だ。だからこそ、狼人間などと呼ばれたのではなかったか。



 花街で騒動があったと聞きつけたシャロムが宿に駆けつけた頃、ルドルフは廊下の隅で蹲っていた。饐えた臭いを感じて、シャロムは彼が嘔吐した事を悟った。もう胃は空だろうに、ルドルフの背は引き攣けを起こしたように上下し、嘔吐き続けている。

 未だ騒動の混迷でざわつく野次馬達を掻き分け、シャロムは従業員に尋ねる。
「大柄な酔漢を片手で持ち上げて壁に叩きつけている男が居ると聞いたんだが」
そんな事が出来るのはルドルフであろうと踏んで、シャロムは仕事後の挨拶も早々に駆けて来たのだ。けれど、暴れていたであろうルドルフは今にも死にそうな顔をしていた。従業員の一人が証言するところに拠れば、ルドルフは確かに酔漢の胸倉を片手で掴んで持ち上げ、後頭部を壁に打ち付けさせていた。確かに壁には穴が開き、廊下に血痕も見られた。けれど、酔漢に数回悲鳴を上げさせた後、ルドルフは突如沈黙したそうだ。男から手を離したかと思えば、今のように酷い顔色で嘔吐き始めたらしい。
「相手は生きてるんだろう?」
男の後頭部が打付けられた跡は、壁の穴と凹みこそ酷いものの、そこに付着した血液は僅かだった。廊下に点々と連なる血は、ルドルフや酔漢のものではなく、逃げてきた娼婦のものであるらしい。その娼婦は既に保護されてバックヤードに居るとの事だが、シャロムが聞く限りでは一等重症なのは彼女だろう。
「まあ、人より壁のが脆かったみたいで」
「それは幸いだけど……建築基準法とか大丈夫かい?」
壁の穴からは、隣の娼婦の部屋が見えていた。壁の構造物は石膏ボード以外には何も無かったようである。ただ自身が軽々と持ち上げられ壁に減り込む体験をした酔漢には、大層な恐怖体験として刻まれただろう。

 目の前の惨事に対して、シャロムは周囲に気味悪がられる程に冷静だった。
 シャロムは店主に後日被害請求をするよう連絡先を教え、娼婦と従業員に迷惑料として幾らか握らせた。
「そろそろ帰ろうか。賠償請求が来たら君に払ってもらうけど、こんなに薄い壁ならきっと安いものさ」
努めて何でもないような口調でシャロムが撤退を促せば、野次馬の波は徐々に引いていく。残るのは、従業員達の気拙い視線だった。未知との遭遇に戸惑う観察の眼差しは露骨で、腫れ物を触るような態度も誰一人隠せてはいない。針の筵のような観衆はシャロムにとっては最早慣れたものであったが、既に青い顔をしているルドルフにとっては殊更堪えた。己の蛮行に対する罪悪感と悔恨が、心の軟い部分にどっと押し寄せてくる。
「君、自力で歩いてくれないか。下に車を待たせてるんだ。反省会は後にしてくれ」
眼の焦点が合っているのか怪しいルドルフは、脇にシャロムの肩を挿し入れられて立たされた。けれど流石に同じような背丈の男を支えながら階段を降りる事は難しいらしく、シャロムは渋い声で苦情を言った。


 宿の外で待機していた車にルドルフを押し込み、シャロムは運転席と後部座席を仕切る衝立を降ろした。
「先に手を出したのは向こうなんだろう?」
そんなに落ち込まなくてもいいじゃないか、とシャロムは車窓に額を預け、窓硝子に映り込んだルドルフを伺った。歪な呼吸に過呼吸の兆候を感じ取って、取り合えず息を吐かせる為に喋らせておきたかったからだ。
「……殺してしまうかと思った」
ルドルフの月の出のような琥珀の瞳が、動揺に揺れていた。話の通じない男から女性を守れればそれで良かったのに、手を挙げるつもりなどなかったのに、ルドルフは己の理性の脆さに嫌悪していた。容易く自制の手綱を振り切って発露した獣性に、ルドルフ自身が一等怯えていた。後天的に損ねられた理性は、生来培ってきた善性を裏切って彼を獣たらしめる。狼人間とは、そのような失敗作だ。
「俺は自分が恐ろしい」
いつか罪の無い人間も殺してしまうのではないか。常々ルドルフが感じていた不安だった。男が発していたアルコールより、流された血の匂いに酔っていた。胸倉を掴んで自由を奪った時、足掻く男の質量に何の感慨も沸かなかった。寧ろ、壁に叩きつけてやった時の衝撃で苛立ちが僅かに晴れ、満たされる感覚すらあった。隣で悲鳴を上げる女を気遣う事も忘れていた。暴力の爽快感に溺れている間は、自分が何故あの酔漢を憎んだのかすら失念して酔っていた。
「だが事実、君は自力で踏み留まった」
シャロムは何時もの感情を量らせない抑揚に欠けた声音で会話を続けた。シャロムはルドルフの暴走に対し何ら恐怖心を持ってはいなかった。非合法な稼業に身を窶す内に肝が太くなっていた所為もあるだろうが、狼人間の存在を把握していた事が大きかった。
「寧ろ僕は、一度人間に手を上げた狼人間が誰も殺さずに自力で沈静化できた事に驚いているよ」

 シャロムは、彼と関わる事がそういったリスクと隣り合わせであると最初から承知していた。そして助手として雑務に関わらせる中、ルドルフが己の破壊衝動を如何に嫌悪し、抑制しているかも知っていた。
「気休めを言わないでくれ」
花街や他の住民はルドルフの事情など知る由も無い。知っていたとして、リスクを承知せよというのも無茶な話だ。これはただ、シャロムが自身に対して雑で、危機意識や倫理観が薄いから平気でいられるだけのことだ。結局、ルドルフは人の社会では暮らせない。そう結論付ける他無いのだ。
「そうだね。カウンセリングは僕の専門外だった」
ルドルフの歪な呼吸が単調な嗚咽に変わった事を確認し、シャロムはルドルフの反省に言及をするのを止めた。
 車窓の景色は、赤みがかった街灯で統一された歓楽施設がどんどん通り過ぎていく。街に沿って流れる川が、街灯の光を反射して光源が幾つも重なって見えた。二度と此処には来れないだろうと、ルドルフは悔恨と共に車窓を一瞥した。


 己が人間社会で暮らしていけるようなものでないと、ルドルフ自身が一等強く自覚していた筈ではないか。何をこんなに浮かれて花街などに足を伸ばしたのか。そう自問する楹月の瞳は、窓外に顔を向けたままのシャロムを映していた。
 彼がルドルフの実態を知りながら人間相手と変わらずに接してくるから、己を人間と大差ないものだと錯覚するようになっていた。だが実際は、何も知らない人々の好奇心の眼や言葉にルドルフが竦んだ時は必ずシャロムが間に入って煙に巻いていたではないか。狼狩りの際もそうだった。緩衝材と言えるような処世術は無いにせよ、最終的に畏怖と軽侮の眼差しは全てシャロムが引っ被った。ルドルフがあの小屋で嗅いでいた血の匂いは、いつだって薬品の匂いに誤魔化されていた。だから暫く自分が血に酔う獣だと忘れられていたに違いない。結局、ルドルフは他人のフォローや特殊な環境を前提としなければ、人間ごっこも出来やしないのだ。
 今日とて、シャロムは野次馬を掻き分けてルドルフの回収に来た。従業員達に払った金とて、安くはない。そもそもシャロムに現金を大量に持ち歩いている程の豊かさはない。仕事の直後だったのが幸いしただけだ。ルドルフを街に同伴させたばかりに、シャロムの収益はマイナスだ。

 窓硝子越しにシャロムとルドルフの眼が合った。
 自責の念に駆られて俯きがちになるルドルフを、菫色の瞳は瞬きの一つせず見ていた。
「たまには僕の懺悔も聞いてもらおうか」
逡巡を経て、シャロムは薄い唇を開いた。道徳とは遠いところにいる男だ。それでも後悔はあるらしく、平時より僅かばかり硬い声だった。

 「僕がまだ軍部に居た頃、人の戦闘能力を大幅に引き上げる施術に関わった」

 知っている。ルドルフこそ、その被検体の一人、狼人間なのだから。
「有り体に言えば人体改造だ。国外に漏れれば戦争に勝とうが負けようが避難轟々だろう。だが、それは僕を含めた研究者を秘密裏に集めて決行された。被検体は、殆ど何も知らせず褒賞で釣ってきた若い兵士達だった」
ルドルフの脳裏に、被検体として呼び出された兵士達の面々が思い描かれた。いずれも家族が生活に困窮しているか、既に親族を失っているか、スラム出身の厄介者だった。シャロムはそこでルドルフの顔と名前を確認したらしい。マスクや防護服の為にルドルフには判別すら付かなかった研究者達の中に、きっとシャロムも居たのだろう。

 シャロムがリスクを承知で狼人間を小屋に置くのは、危機意識の欠如以上に創造物に対する責任感が先に立っているのかもしれない。そんな考えがルドルフに過ぎった。
 シャロムは瞬きを幾度かすると話を続けた。寝物語に聞いた話でもするような、現実味を感じさせないフラットな声だ。けれど、それが慎重に言葉を選んでいる所為だと分る程度には、ルドルフも彼を分かるようになっていた。
「あれは被検体を現地に送って五日目だったか。被検体の一部が民間人の婦女を性的に暴行したと報告が入った」
それも知っている。ルドルフも、現地に居た一人だった。敵地に作った基地に輸送され、まだ被検体としか呼ばれていなかった狼人間達は来るべき遊撃線に備えていた日だった。勝手に基地を抜け出した同僚が、民間人の女を拉致して暴行に及んでいた。
 許される行為ではないと、同僚を止めに入ったルドルフだったが、制止に失敗した。加虐的な性衝動は一人また一人と感染して、幾人もの屈強な男達が彼女の身体を暴いた。新たに女を調達しようと言う者も居た。凄惨な現場だった。恐ろしかった。
 思えば、初めに女を拉致してきた男は、今日対峙した酔漢に似ていた。宿の記憶と基地のトラウマが交互に思い出されて混線する。血塗れの女の身体も、滑らかな肌を躊躇無く痣だらけにする拳も、引っ掴まれて抜け落ちた髪も、ルドルフは知っている。悲鳴も嗚咽も、あそこで一生分聞いたと思っていた。
「そこで一旦抑止力が介入すべきだった。そして被検体達を帰投させ、診察を行うべきだった」
そうであったら良かったのに、現実は非情だった。
 もし、その段階で誰かが狂った基地を解体してくれていたなら。己だけは正常でいられたのかも知れないと、ルドルフは無意味な夢を見そうになる。
「そう進言した者は僕の他にも居たよ。けれど、上層部はそれを握り潰した」

 その間、現地は地獄だった。
 遂には仲間同士で手を出し合う始末。皆、己以外の生き物は肉の袋に見えていた。そうでなくては辻褄が合わない余りに無差別な暴力。性別も相手の生死も問わぬ暴行。理由すら忘れ去られた蹂躙。
 ルドルフも、同僚に前髪を掴まれ、頬に硬い拳を入れられてからの記憶が曖昧だ。
 カッとなって蹴り返した、気がする。身体が強化された者同士の殴り合いは強烈だった。相手の歯が拳に減り込む感触。折れた鼻から滴る血が絶えず口に入ってくる、その鉄の味。骨を避けて柔らかい急所にめり込ませた靴先のカタルシス。
 獣の唸り声は、自分の喉から出ていた。
 四方八方から聞こえる、威嚇、怒号、咆哮。それらを殴り、蹴散らし、黙らせ、蹂躙する。その仄暗い爽快感。
 嵐のような暴力の記憶は、遠い夢のように茫洋と、しかし今起きている事のように鮮明にルドルフの海馬に焼き付いていた。あの時ルドルフは確かに、暴力の悦びを感じていた。ルドルフは、獣の欲のままに暴れ回る事に快感を見出だしたこの身体が恐ろしかった。

 ルドルフが正気に戻った時、自身の正義と善性が己によって裏切られた絶望で窒息しそうだった。
 思わず嘔吐すれば、追い討ちをかけるように大量の人毛が喉の奥から出てきた。胃袋から出てきた生臭い蛋白質が、何者であったのか知りたくはない。ただ、自身が常軌を逸した怪物に成り下がった事だけが、心に深く刻まれた。
 狼人間という蔑称も、きっとあの惨状を知る人間が名付けたに違いない。狼人間の中には、平時の自分の他に、本能に忠実かつ残虐な狼の人格が生まれているのではないか。少なくとも、理性を剥奪された人間が漏れなく残虐で暴力的だと考えるよりは、そうであってほしかった。
「被検体の帰投が決定したのは、現地に送り込んだ者の数が四分の一を切ってからだった」
それは指揮を失って作戦の実行も何も無いと分かりきった状態になってから随分時間があった。大勢の被検体を沈静化させるより、共倒れである程度数が減った方がコストが良いからだろう。被検体になるような連中は、そもそも軽視されきった底辺の扱いだった。
 その最底辺が幾ら減ろうが問題にしないスタンスが、生き残った被検体達を何の処罰もフォローもなく戦線に続投させるという結果を作っていた。
 その後もルドルフは、他の狼人間とかち合わないよう部隊を隔てられる程度の処置で、人型兵器として活動を余儀無くされていた。戦争は着々と勝利に向かっていったが、その最中も狼人間の誰が戦死したと次々に聞かされた。基地で殺し合ったかもしれない相手と顔を合わせたいとは思わないが、同じ業を負った者が次々と減っていくのは気楽なものではなった。

 「それから僕は、軍を抜けて隠遁という訳さ。混乱の戦時中は兎も角、終結すれば人体改造なんて直ぐに発覚して研究者の誰が責任をとって首を括るか、関係者総ての口を永遠に塞ぐか迫られる」
特に僕は誰より後ろ盾が無かったからね、とシャロムが明かした。実際、姿を消した若く天才的な研究者という不気味な存在は、体の良いエスケープゴートだった。軍が葬った恐ろしい事実は、悪魔と呼ばれる恐ろしい研究者と共に語られ、怪談じみたものへと輪郭をぼかされていった。

 車が交通量の多い街を過ぎ、トンネルに入っていく。
「お前は、軍の凶行を告発すべきだったと悔やんでいるのか」
暗闇だろうと問題無く見えるルドルフの眼は、シャロムの横顔を捉えていた。
「どうだろうね。倫理ある研究者なら、計画段階で糾弾すべきだったと言うだろう。僕は聞いての通り悪魔だから、親に疎まれて軍役に就いたクチでね。大人しく親の言う事を聞いて葬儀屋を継ぐ為の勉強をしていれば良かったんだ」
遺族が語る故人の思い出より、故人本人の身体が語る履歴の方が鮮明で興味深かった。同年代の男子が蛙の脚を持って振り回したて遊ぶ中、シャロムだけが蛙の腹を切り開いて脂肪体の長さを確認し、シャロムだけが怒られる。ついでに「みんな蛙の生死に頓着しないのに、どうして自分だけ叱られるの」と聞いてまた大人を嘆かせる。そんな子供だったから、流されるように行き着くところまで行ってしまったとシャロムは言った。ルドルフが後天的な怪物なら、自身は先天性の怪物だと。


 作り物めいたシャロムの横顔を見ながら、ルドルフは小屋を訪ねた日の事を思い出していた。
 あの日、ルドルフは治療を求めるのと同じくらい切実に復讐を求めていた。
 戦争終結を前に隠遁した悪魔と誹られる男なら、人体実験の首謀者に違いない。悪魔を己と同じ地獄に送ってやらねばならない。その憎悪があったからこそ、寝食に困ろうと痛烈な自己嫌悪に魘されようと生きて辺境まで辿りついたのだ。
 けれど、ルドルフの前に居た悪魔は、歳も身長も然して変わらない青年だった。その上、人体実験には首謀どころか進言すらまともに取り合ってもらえなかった末端の末端だった。
 シャロムは憎しみに血走ったルドルフに剣を向けられても、命乞いの一つもしなかった。それが当然の反応であるかのように、ルドルフを真っ直ぐ見据えて治療の方法が無い事を告げた。治療できるのが自分しか居ないとでも言えば幾らでも延命させてもらえただろうに、彼の診断に対する誠意は確かだった。
 結局、ルドルフは悪魔への復讐も治療も果たせぬまま、剣を納めた。シャロムの不遇に対する同情で人体実験の関係者に対する恨みが霧散する程の余裕があった訳ではない。けれど、世の中に一人くらい、ルドルフの実情を知っている者が居てほしいという願いが勝っていた。
 確実にルドルフが人間であった事を知っている人に居て欲しかったのだ。
 自身の怪物性を否定し得る証人が居ないと、いつか純正の怪物になってしまうのではないか。そんな不安定さをルドルフが自覚している故だった。

 シャロムの月光を紡いだような銀髪が、形の良い顎から耳に繋がっていく輪郭を隠していた。
 近いのは歳と身長だけで、きっとルドルフとは何一つ互いに共感できないであろう男だ。
 何せ、趣味が解剖と研究だ。ライフワークは標本作り。悪魔と誹られていても平気な顔で居られる面の皮の厚さ。加えて、珈琲をビーカーに注いで飲む程度に生活が雑だ。掃除も必要に迫られない限りしたがらないし、放っておけば寝食を忘れて作業に没頭している時もある。完全に変人である。
 けれど、シャロムはルドルフの憎悪する怪物とは遠かった。

 怪物は、子を亡くして墓を荒らすしかなかった母親に手を貸してやるなんてしないだろう。
 シャロムは、珍しい狼を手に入れるついでに狼狩りを引き受けて入念に事前調査をこなす男だ。ルドルフが好奇の眼に晒された時は、自らの悪名を利用して畏怖と軽侮の眼差しを全て引き受けて煙に巻いてしまう。今日だって、情緒不安定なルドルフから逃げるどころか、回収に来て肩を貸した。
 ルドルフの身体能力については誰より把握し、買ってはいるが、掃除だとか洗濯だとかをせっせとこなす人間らしい性格にも目を向けている。
 怪物を自認するルドルフが人間として息をするスペースを作っているのは、間違いなくシャロムだ。
 そういう妙なバランスが、シャロムを悪人と断定しづらくさせている。それどころか、彼には遵法とは別種の良心が確かにあるのだと、ルドルフに確信させるに至っていた。


 車は森に続く道で止まった。森の中に道はあるものの、車が通れる幅は無い。まして霧立った辺境の森なら尚更立ち入りたくはないだろう。

 シャロムはトランクから荷を降ろし、運転手にチップを弾んでいた。その額は恐らく、車内での会話内容に対する口止め料も含まれているのだろう。話したところで誰も信じそうにない内容である上に、シャロムの悪評が広まろうと今更ではあるのだが、告解に付き合わせた者のせめてもの誠意であった。
「もう肩は貸さずとも歩けるかい」
疑問系の文法に反して、シャロムは断定的な口調で伺った。不必要と判断しながらも悪戯に伸ばされた手は、僅かだが消毒液の匂いがした。形の良い長い指の先を、雑に切られた短い裸の爪が覆っている。それが妙にルドルフを安心させた。

 この何倍も薬品臭さが染み付いている小屋は、もう少し先である。あそこは、染み付いた消毒液や防腐剤の匂いが生々しい血潮や呼吸する皮膚の匂いに勝ってしまう場所だった。
 花街に脚を踏み入れた時は、人の柔い肌に包まれて己を人間の仲間であると再認識したかったのに。人里離れた小さな小屋で営む慎ましやかな生活の方が、余程人間らしさを保っていられる気がした。
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