異端の狼

 ある辺境の霧深い森の奧、猟師小屋を改造して拵えられた家が樹々に隠れるように建っている。
 窓や壁には人の目を拒むように蔦が絡んでおり、呼び鈴もなければ表札も無く、人付き合いの希薄さが伺える。実際にもそこは、森の付近の村人から魔女の家と呼ばれて疎まれている場所だった。

 太陽を隠す鉛色の雲の下。鬱蒼と繁る雑草に囲まれた陰鬱を絵に描いたような庭には、洗えども薬品臭さの抜けないシーツが棚引いている。多様な薬草が所狭しと吊り干しされた軒下で、ルドルフは壁に絡んだ蔦を手慰みにむしっていた。

 ルドルフは、陰気な家に似つかわしくない溌剌とした印象の男だった。
 小麦色に焼けた肌と隆々とした筋肉は運動の習慣を伺わせており、太く形の良い眉は凛々しくも人懐こい相貌を形成している。雑に括った癖のある黒髪が垂れる太い首筋は、薄らと汗ばんで野性味を醸している。
 何より、シーツや小屋に染みついた薬品と死んだ生き物たちの匂いは、この男からはしていなかった。例えるなら、骸の並ぶ辻に健康体そのものの生者が迷い込んでいるかのような、そんな場違いさすらあった。
 彼は、魔女の家の居候だった。
 まだ四日しかここで過ごしておらず、それも小屋の中を避けて厩で寝起きしているので、彼からは干し草と煙草と汗の匂いがする。

 家主の魔女は、シャロムと名乗っていた。魔女と呼ばれはしているが、男である。
 老いた蜥蜴のような疣だらけの老人という訳でもなく、歳は二十五を過ぎて間もないルドルフと然して変わらない。その外見は、計算されているかのように美しく、流麗という言葉がよく似合った。例えば、月光を紡いだような銀髪に、痩せぎすなれどしなやかで伸びやかな四肢。シャープな顎に、薄くも形の良い唇の、中性的な顔立ち。眼窩に硝子玉を嵌め込んだかのような菫色の瞳。兎角、世間一般が思い描く魔女のイメージとは大きく外れていた。
 それでも、この一帯では魔女と言えば彼を指す。何なら、悪魔や死体漁りと呼んでも通じる。この地域に住む者ならば誰もが知っている異端であった。

 彼の生業をどのように表現するかは人に拠ったが、総じて他人から良い印象を持たれていないのが彼だ。
 嬉々として死体を弄り回す解剖医。美しい獣や珍しい生物を殺しては売り捌く剥製師。時に生身の人間を相手にメスを握る闇医者。果ては、人体実験にまで手を出している残虐なマッドサイエンティストだと誹る者もいれば、元は国軍お抱えの研究者であったが非人道的行為を糺されて辺境に隠遁しているのだと想像する者も居る始末。
 人間性を毀損する噂の数々で彩られた男だが、共通するのは悪趣味さと血腥さ、そしてその仕事ぶりに対する天才であるという評価だった。
 実際、ルドルフが彼の笑顔を始めて目にしたのは、少女の遺体を丸裸にして洗浄し傷口を縫合している時だった。表情の乏しい人形のような相貌が、死体や人の傷口を弄り回す時だけ崩れるのだ。非造物のような紫の瞳が爛々と輝いていた。興が乗ってくれば上機嫌に鼻歌まで奏でるが、音感まで狂っているのか調子の外れたそれはどこまでも不気味さに拍車をかけていた。そんな狂った有様でありながら、縫合の腕は恐ろしく正確で緻密で、遺体に化粧を施せば生きている人間を造り出したのだと錯覚する程だった。
 故に、人は彼を魔女と呼ぶのだ。

 しかし恐ろしいことに、シャロムに恩がある者の大抵は、彼をドクターと仰ぐ。
 ルドルフが過ごしたたった四日の間にも、正規の医者にはかかれない人々が訪ねてくることはあった。それは、後ろ暗い稼業の者であったり、困窮している者だったり、人に明かせぬ経緯で怪我を負った者であったり、様々だった。
 ルドルフは彼をドクターと認めるなど言語道断と思ってはいるが、蔑称で呼ぶ程の下劣な品性は持ち合わせておらず、仕方無くシャロムと呼び捨てている。


 さて、そのシャロムは、珍しくも小屋に客人を招いていた。
「先生、どうかこの子の事は、誰にもお言いにならないで。どうか、どうか……」
小屋の中からは、啜り泣きに変わる一歩手前のか細い女の声が聞こえた。蚊の鳴くような震えた声は、如何にも哀れだった。そんな小さな声が聞こえるのは、壁が薄いからではない。ルドルフの耳が良過ぎるからだ。彼には、厚い壁に阻まれた先の小さな物音であっても、隣で喋っているのと変わらない感覚で聞こえた。
 シーツを干し終えて午前中の家事を粗方終えたルドルフが屋内に入れずにいるのは、この客人のプライバシーを気遣ってのことだった。
 シャロムを先生などと呼ぶ気は更々無いルドルフだが、彼に頼ってしまう者の哀れには同情的だった。というのも、やくざ者でもないのにこんな悪評だらけの男にしか頼れない辺り、辛い目に遭ってきていることは察するに余りあるからだ。客の女は、身形からして明らかに貧しく、おどおどとした態度は如何にも日頃から虐げられているといった風情だった。

 聞こえてしまう二人の会話からも、女が精神的に窮していることが伝わってきた。
 何でも、女はシャロムに実子の遺体を預け、エンバーミングを施すよう依頼していたらしい。ただし、葬送の為の化粧や修繕ではなく、長期的保存を目的としたものであるようだった。この国やその近隣では、公衆衛生の確保の為に遺体は共同墓地への埋葬するものだと定められている。そんな規則に思い当たり、ルドルフは女が口止めをした意味を悟った。今回の客人は、困窮と違法性の二重苦であるらしい。
 女は懺悔に似た口調で「この子は私の唯一の家族だから」と繰り返していた。既に何処かしらが壊れてしまっているような、悲哀と狂気の滲んだ声音だった。
「私はこの子に傍に居てもらわないと生きてはいけません。土になんて還せるものですか。もう動く事も喋る事も叶わなくったって、大事な子には変わりないでしょう……私の唯一の希望なんです……この子を取り上げられたら、私、私……」
女の啜り泣く声が暫く続く。切れ切れの言葉で、彼女の境遇が吐露される。夫の暴力から逃げたものの他に縁者は無く、周囲の支援も無い孤独と貧困の中で母子二人だけで寄り添って生きてきたのだと。

 不安定な心情を吐露する女に対して、シャロムはカウンセリングは専門外と言わんばかりに大雑把な相槌を返していた。依頼人に共感し過ぎないという点も、その稼業を継続していく上での適性だろう。
 一方ルドルフは、鼻の奥に塩辛く痛むものを感じていた。
 シャロムの仕事や後ろ暗い客を快く思わない程度の真っ当な正義感を有するルドルフだったが、それ以上に人情家であった。人が人らしく生きるには心の拠り所が必要であると、彼はよく知っていた。唯一の生きる希望だった実子の遺体を正しく処理できない彼女に関しては、同情と憐憫が芽生えていた。同時に、そこまで愛しく思えた存在が居たことを少し羨ましく、そして美しく思っていた。屈強な体躯に似合わず、情に脆い男だった。泣き落としに負けるタイプなのである。

 結局ルドルフは、女が退散するまでは小屋の中に入れず、庭や壁の雑草をむしったり意味も無く厩に行っては馬を撫でたりして時間を潰した。
 嫌に神妙な顔で厩に訪れるルドルフに、馬は静かに頭を寄せるのだった。ルドルフとは付き合いが短いが、人の機微に聡い馬だった。少なくとも、シャロムよりは人間の感情というものを理解しているように見えた。


 女が子供の遺体を持って立ち去った後、シャロムは厩までルドルフを呼びに来た。
「随分待たせてしまったね、昼餉にしよう」
昼はとうに過ぎている時間であったが、シャロムはそういったことに全く頓着しない男であった。この四日でそれを嫌という程知ってしまったルドルフも、食事を忘れていないだけ真っ当な日だと感じる始末である。

 招かれた室内は、死臭とホルムアルデヒドの残り香で満ち、ルドルフの過敏な嗅覚を刺激してくる。元々は狩猟小屋であった筈の小屋には、壁を隠すように薬品棚と本棚が並び、シャロムの趣味と仕事を兼ねた作業スペースや機材が居住空間を圧迫していた。悪趣味以前に機能性に問題がある部屋だが、これでもルドルフが来て健全になった方なのである。

 シャロムは診察台を兼ねた長机の上に布巾を敷くと、その上に昼餉と呼ぶ獣肉の煮込みを小鍋ごと置いた。取り皿は無い。
 元々食事に皆目関心の無いシャロムの一人暮らしであったので、食器は一人分よりも乏しい。料理も熱量の補給以外を意味せず、味に拘るなどという発想すらない。幸いルドルフは粗食に慣れている質であったので、出されたそれを黙々と口に運んだ。
「気を遣わせてしまったね」
シャロムは、洗ったビーカーで白湯を飲みながら言った。

 世間から悪魔と誹られるシャロムだが、その気質は非常に大人しく、話す言葉は柔らかい。その上、悪評が創り上げる印象とは真反対の涼し気な美貌を湛えていた。
 けれども、それが親しみ易さに繋がるかは全くの別問題であった。剥製だの標本だのが並ぶ室内に佇む彼は、死体や蝋人形の類に見える程に実在感を失って、不気味さに拍車をかけていた。表情が乏しく、色白で頬に血の気が無いのもその原因の一つであろう。生白い皮を剥いだら異星人か昆虫がでてきそうな異質さが常に纏わりついている。寧ろ、外見で稼いだ好感度を無にして警戒心ばかり抱かせる辺りに、この男の特異性が現れているようにすら思えた。
「あの人は一昨日遇った人でね、墓を掘り返していたから僕から遺体を衛生的に保全できるようにしようかと声をかけたんだ」
何を考えているのか分らない顔のまま、シャロムはルドルフが敢えて尋ねずにいた事情を説明し始めた。しかもそれは、遺体を不当に保存するだけでなく墓荒らしまでしていたという告発だ。
 聞き流すには重過ぎて聞き手が反応に困ってしまう話だが、今朝の天気でも報告しているかのようなフラットさで喋るものだから、素直に顔を顰めているルドルフが阿呆のようになってしまっていた。
「……遺体は疫病を運ぶぞ」
「勿論、遺体というのは菌の温床だ。だから成熟したコミュニティでは、感染症の蔓延防止の為に葬送において方法と場所を定めている。その道理は知っているとも。けれど、墓地から一つ遺体が消えたところで、遺族は彼女だけなのだから騒ぐ者も無し。掘り返した遺体を適切に処理してやればいいだけの話だと思わないかな」
きっと彼女は誰に止められようと、子供を諦められない。ならば素人に遺体を好き勝手させて感染症を広めさせる原因を作るよりは、専門的な知識を持つ者が手を貸して適切な処置を施してやった方が衛生的だろう。そうシャロムは遺体の処理に協力した合理性について説明し始める。誰の不利益になる行為ではないと、彼は譲らない。

 彼にとって法だの倫理だのは遵守する意味の薄いものであったが、社会に害を為す事は避けているようであった。道徳云々と言うよりも、一線を越えれば己も不利益を被ると予測できる知性があるからだろう。
 彼と人の心の機微について話すのは困難を極めたが、社会性が無いわけではないらしい。あらゆるものが欠けている上にグロテスクで悪趣味極まる嗜好を備えていることに目を瞑れば、シャロムは対話可能の怪人だった。

 シャロムは感情を探りづらい紫の瞳で、ルドルフを真っ直ぐ見詰めたまま反論に備えていた。そこで漸く、ルドルフも自分が言うべき言葉に思い当たる。
「まあ、俺は別に彼女を憲兵に突き出してやろうなんて考えちゃいない。そりゃあ、行為自体は決して褒められた事じゃないが」
唯一の身内を喪った彼女をそっとしておいてやりたいというのが、ルドルフの本音であった。此処で知り得た秘密を遵守すると表明すれば、シャロムは口元だけで笑う。左右対称に吊り上げた口角は、愛想以上のものを感じさせない記号的な微笑だった。
「助かるよ」
然して感情の篭らない彼の眼は、紫水晶のように無機質だった。異様に瞬きが少なくて、瞳が美しく見える反面、それが余計に人間性の乏しさに拍車をかけている。

 ずっと白湯しか口にしていないシャロムに、ルドルフが問う。
「お前は食べないのか」
「うん。死ぬなら腹は空の方が良いからね」
やはりシャロムの声は平坦で、世間話も犯罪の告白も変わらないトーンであれば、己が死ぬことを覚悟していても特別な揺らぎはなかった。
 寧ろ、動揺したのはルドルフの方である。シャロムはそれを不思議そうに眺めていた。


 シャロムが死ぬことになったのは、四日前のことだった。
 ルドルフは、悪魔と呼ばれるシャロムを探して辺境の森へ訪れた。
 悪魔の悪行の被害者として、彼を殺すために。彼に人生を奪われた者として、復讐を為すつもりだった。

 そんな闖入者に、シャロムは特に怯えることもなかった。まるでこうなる運命を知っていたかのように、魔女の家に乗り込んできたルドルフにその首を差し出したのである。
 抵抗を予想していた分だけ拍子抜けしたルドルフに、シャロムは一つだけ願い出た。「預かっている子供の遺体をエンバーミングして、客が引き取りに来るまでに四日間かかる。その仕事だけ終えさせてくれないか」と。それが、今日引き渡した子供の遺体であった。
 ただの命乞いの為の方便や、逃げる算段を付けるための時間稼ぎであればルドルフも容赦無くその場で切って捨てられたが、シャロムには生きんとする意志がまるでなかった。模範囚の振る舞いというべきか、悔い改めきった死刑囚が己が罪の清算は死以外に無しと悟ったような、そんな態度だった。だからルドルフは、その願いを聞き、逃亡防止に悪魔の家に滞在していたのである。熟く、情け深い男である。
 逃亡が心配ならば脚を切るが良いとシャロムは提案したが、膂力でも走力でもルドルフの方が圧倒的に勝っていたこともあり、ルドルフはそこまでする必要はないと断っていた。その上、宿泊する身分でただで飯にありつくのは良くないと、この味気無い飯の駄賃に選択や掃除といった家事労働まで担い始めていた。余りに人が良すぎるというべきか、人を殺すには向いていない性分だった。難儀な男である。

  ルドルフは難儀な男であるから、今から自分が殺さんとする男に詰め寄った。
「お前を殺して、俺に何があるっていうんだ」
ルドルフが握っていたカトラリーが彼の手を離れ、小鍋の中に落ちていった。金属同士がぶつかって、不調和な音を奏でる。
「復讐が為され、スッキリするんじゃないのかな。そして心機一転した君は、漸く次の人生の第一歩を踏み出せる。そういう儀式的な意図だと認識しているよ」
こちらも世間一般とは感性のずれた男であったので、命乞いの挟まる余地も無く、シャロムは極めて冷静に殺害の価値について思いを馳せていた。
「いいや、スッキリしそうにないから聞いている」
「そうかな、この世から僕みたいな人間が消えることには治安維持の面でも有用かもしれないし、不安解消の意義もあると思ったけど」
シャロムは滅多に閉じない瞳を緩慢に閉じることで瞬きをした。そういうのをスッキリというのでは、と考えているのだ。表情が乏しい所為で分かりづらいが、瞬きの回数が若干増えるのは彼が逡巡する際の癖だった。
「僕を殺して得るこの荒屋と財産こそが、君を新しい人生の再スタートを切らせる。そう言うべきだったかかな」
とはいえ、考えて喋った内容がこれなので、ほとほと人の心に添えない男だった。人を殺すのに向かない男が今必死に人を殺さずに住む理屈を探しているというのに、当の本人はデリカシーの欠片も無い上に殺されたがっている節すらあった。
「俺に盗賊の真似をしろと!」
ルドルフが、机を拳で叩いた。机の天板がひしゃげる。その勢いで、小鍋があらぬ所に飛んだ。一際大きな音が鳴って、窓辺の鳥が一斉に羽ばたいた。
「ア……」
ルドルフは蒼白な顔をして、両手で頭を覆った。彼の体感では、然して強く叩いたつもりもなかったが、床に転がる小鍋がそれを否定していた。ルドルフは、コントロールし損ねた怒りが不本意な方向に暴発したことを自覚して、消えたい心地になっていた。
「安心して良い。君は盗まないし奪わない。これ等は正当に譲渡される物だ。君は盗賊にはならない」
シャロムの見当違いのフォローに、ルドルフは益々肩を落とした。

 ルドルフは、幽鬼のような足取りで席を立った。
 これ以上回りくどく問答を重ねてもどうにもならぬと思ったのだ。
「お前を殺すのはやめる」
ルドルフが言いたかったのは、このたった一言の結論だけであった。

 静かな宣誓だった。口に出すと、ルドルフは騒々しかった心が一気に凪いでいくのを感じた。

 これは、今日と言う日がやってきてからずっとルドルフの喉奧で出番を待っていた言葉だった。今朝方にエンバーミングの仕上がりを確認するシャロムを見ながら、ずっとこの男をどうすべきか悩んでいた。
 シャロムはルドルフの仇であった。巷に流れる悪評は、突飛過ぎるものを除けば大抵が真実だ。

 けれども、ルドルフは人を憎むのに向かない男だった。殺しはもっと向かない。
 魔女の家に押し入ってシャロムと問答してから、ルドルフは彼を殺し損ねて以降、ずっと踏ん切りがつかずにいた。殊に、彼を悪しき存在と知りながらドクターだの先生だのと呼ぶ者達と遭ってから、本格的に血迷った。
 例えば昨晩には、尋常でない頭垢を纏った浮浪者と思しき老爺が訪ねてきた。金は無いからと何処で取ってきたのか怪しい老いた鼬の肉を差し出して、膿んだ歯茎に沈んだ歯を抜いてもらっていった。因みに、ルドルフが引っ繰り返した小鍋の肉の正体はこれである。
 その前は、どんな経緯で怪我をしたか頑なに明かそうとしない年端もいかぬ少女が密かに訪ねてきて、殆ど喋ることもなく軟膏と堕胎薬を持っていった。脛に傷のある男が、顔を変えてくれと戸を叩いたこともある。
 シャロムは浮浪者も少女もやくざ者も同じ態度で対応していた。怪我や傷口を見る時だけ露骨に面白そうにしてさえいなければ、美醜も善悪も関係なくメスを取る姿を博愛と錯覚出来そうだった。

 ルドルフはシャロムを許せた訳ではないが、彼にしか頼れない者が居ることを理解してしまった。シャロムを討った時、頼る者の居なくなった彼等の行く末を考えると、胃の腑が重たくなる。
「いや、今殺すのはやめたってだけだ。お前に我慢ならなくなったら、その時は必ず殺してやる」
ルドルフは、自身の復讐心とシャロムへの牽制の為に、辛うじてそう言い添えた。
「そうか。なら、昼餉を食べておけば良かったな。ここ最近の仕事も断るべきじゃなかったかもしれない」
戸の閉まるに混じって、シャロムの反省が聞こえた。相互理解には遠い、共感性に欠くそれは、 ルドルフを厩に追い立てた。


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 「当面僕を殺す気が無いのなら、仕事を手伝ってほしいのだけど。いかがかな」

 ルドルフが魔女の家に来て丁度一週間。シャロムは突然切り出した。
「なに大丈夫。疚しい仕事じゃない。狼狩りさ。成功すれば、謝礼金と狼の死体を持って帰れる」
胡乱な目でシャロムを見遣るルドルフに、彼は平坦な声で説明した。
 僻地、特に山を切り開いて開拓したばかりの土地には、狼の害は珍しいことではなかった。獣害との戦いは村の猟師や男衆の仕事であるが、仕掛けた罠を悉く突破されるなど手を焼いているらしい。シャロムに話が回ってくるあたり、真っ当な者に依頼できるような経済状況ですらないらしい。その点、シャロムは僅かな金と狩った狼の死体を持ち帰らせる約束で動くのだから都合が良いのだろう。シャロムが弄くる遺体は人間のみならず、動物全般に及ぶ。時に剥製師の仕事をする時もあれば、種類の異なる死体を継ぎ接ぎして作ったキメラを見世物小屋や好事家に売り出すこともあった。
 それに今、魔女の家は丁度、保存していた肉が尽きていた。ルドルフはシャロムよりよく食べる分、家計を圧迫する。その上、鍋を引っ繰り返して煮込みをゴミにした前科がある。断るには、内情が切実すぎた。
「狼を狩るだけなんだな?」
そこに後ろ暗い部分がないことを確認するルドルフに、シャロムは頷いて見せた。
「勿論。それに、僕等が狼を狩ることで助かる人は多いだろう。僕に相談が来た時点で、既に鶏が七匹と羊四頭、牛一頭に牧羊犬一匹が狼の被害に遭っていたらしいからね」
シャロムの関心は脅かされている村ではなく狼の方にあるのは明白であったが、彼はルドルフの様子を見て被害状況を仔細に明かした。
その目論見通り、ルドルフは人が助かるという台詞に反応した。人の役に立つことは、ルドルフの歓びのひとつであったからだ。彼の性分は、生活を脅かされている人が居るのを見過ごせない情と正義感でできていた。

 二人は早速、その日の夕に馬に荷を積んで小屋を出た。
 シャロムに依頼を寄越したのは北部にできたばかりの村で、路もろくに整備されてはいない土地にあったが、男二人の足と馬の力でその日の宵には到着した。
 霧深い森にあるシャロムの小屋よりもずっと標高が低いところだが、冷たい風が吹き荒ぶ小さな村だった。工業化に後押しされて近年急激に開発され、牧畜が盛んな第一次産業の新拠点である。ルドルフにとっては、久々の人里だ。
 獣と人間の生存競争は開拓されたばかりの地には付き物とはいえ、この土地の狼の手強さは異常だった。非常に図体が大きい上に、知恵も回るらしく罠も容易く看破するので、地元の猟師や警邏では手に負えなかったのだ。狼に荒らされ奪われ続けた村人達は疲弊し、女子供は怯えて外に出る事を忌避するようになっていた。活気を失った村の様子に、藁にも縋りたい思いが悪魔と呼ばれる奇人を呼ぶに至ったのだとルドルフは納得させられた。

 シャロムとルドルフに狼狩りの拠点を提供してくれたのも養鶏を営む男で、彼もまた大事な家禽を狼に食われた被害者の一人だった。
 狼に怯える暮らしは、彼の頬から肉を削ぎ、隈を色濃くさせていた。彼の落ち窪んだ眼窩に蟠る哀愁は、ルドルフの害獣討伐の決意を強くさせる。
「ドクター、そちらさんは?」
男はルドルフを一瞥すると、シャロムに紹介を求めた。彼等村人は悪名高いシャロムと同じくらい、その連れの見知らぬ男であるルドルフを警戒してた。
「此方はルドルフ。実践では確実に僕より役に立つから連れてきたんだ」
ルドルフが右手を差し出すと、男は口の端を歪めたまま握手に応じた。シャロムの露悪的な自虐を混じえながら、ルドルフの近況を端的に付け加える。
「住むところが無いから僕が雇ってはいるが、僕と違って気の良い奴さ。恐らく、彼の方が僕より真摯にこの村を案じている」
そこに嘘はないが、含みはあった。シャロムは、ルドルフの腕をこの村人達に売り込みたいらしい。そして、あわよくばこの村がルドルフの新たな生活をスタートする拠点になればと思っているのだ。それは、自身を殺して住居と金品を手に入れることを推奨した時と全く同じ口調で語られた。そうするのが合理的だと、当然のように結論付けている時の顔だ。ルドルフはこの作り物のように表情の乏しい男について、一週間で何となくパターンを覚えつつあった。
 シャロムには悪意がない。ただ人の機微に疎く、故に人の心を鑑みず、平然と神経に障る。嘘は吐かないが、口を閉ざすべきところで閉ざせない。不愉快な趣味と興味で生きている。悪人という人種なのだ。
 そしてルドルフに関しては、そんなシャロムなりに本当に人生を再建させるべきだと考えているらしい。だからか、シャロムは村人に会うたび、露悪的な自己紹介と対比させるようにルドルフを気の良い男として売り込んだ。悪人のずれた善意の発露だった。
 だからルドルフはこれを迷惑に感じつつも、シャロムに復讐を為す機会を失って、腹に蟠る文句や恨み節も吐き出せないままでいた。


 さて、完全に闇の帳が落ちた深夜。
 ルドルフは風下の物陰に身を潜めて、黒さを増していく夜闇に五感を研ぎ澄ましながら狼を待つ。彼が待機する場所は、村人の証言を統合したシャロムが遭遇率と地形的な優位性を考慮して割り出したポイントであった。
 シャロムは予め村を荒らす狼について事前に情報を集めており、調査や仕込みは全て彼が行っていた。そして実働に関しては、ルドルフ一人に委ねられた。

 普通なら、狼を群ごと退治するとなれば相応の人数を必要とする。
 一発の銃声が響けば他の狼は逃げる上、逃走経路を絞り込む事はできても狼の脚に人間が追い付ける訳も無いからだ。加えて、ルドルフに渡された猟銃は質の良いものではなかった。連射は得意とは言い難い旧式の安物だ。
 その上、シャロムはルドルフに更なる条件を課していた。可能な限り少ない損傷で仕留めるよう、死体の出来にも注文をつけたのだ。というのも、事前調査の段階で奇形の狼を見たと証言する村人が居たのだ。その個体について調査がしたいという彼の好奇心である。そして次に、巨大な狼は剥製に
そこそこの需要があるのだ。いずれも村の益とは関係無く、シャロムの好奇心と副収入の為に課された要望である。
 獣害に苦しむ村人がシャロムの態度を知れば憤慨するであろう。流石に我儘ではないかと思うルドルフであったが、出来ないとは決して言わなかった。シャロムも、己のオーダーで狼狩りの成功率が揺らぐ可能性など微塵も考えていないようであった。良質とは言えない装備だろうが後方支援が無かろうが、ルドルフには然したる問題では無い。彼はそう知っていた。


 今頃のシャロムは、村人経ちに遠巻きにされながらも屋内で外の様子に耳を澄ませているに違いない。村人達と屋内で息を潜めつつ普段と変わらぬ夜を演じている事が、今晩の彼の仕事だった。

 半月を雲が覆い、一等闇夜が深くなる。その闇の向こうに、ルドルフは獣の気配を察知した。
 未だ姿が見えるような位置関係には無いが、ルドルフの耳は大型の四足動物の足音を確かに捉えていた。寧ろ、イヌ科の動物は猫のように爪が引っ込まないので、良過ぎる耳を持つルドルフにとっては分りやすい部類に入る。
 狼は群で暮らす生き物で、問題の狼の群も五頭で構成されているとルドルフは聞かされていた。シャロムに拠れば、一番大きい図体で歳も相応に重ねているオスが群のリーダーであり、その番と子供で構成された群と見て間違いないらしい。
 足音を聞いて、ルドルフは合点した。確かに、その群の生き物はどれもただの狼というには体重が重い上、歩幅が大きい。その中に一頭、足音がおかしい個体が混じっている。歩みからして、脚の数が四足とは考え難い。恐らく二本程後肢が多い奇形だ。その個体こそが、シャロムが個人的に関心を寄せる狼だろう。

 狼達の足音は、近くに設置した餌を使った罠に一切構う事無く、牧場のある方へと進行していく。
 シャロムは以前に罠をしかけた為に警戒されているであろう場所なども調査済みであり、今回は各所にそれと同種の罠を設置し、群の動きを多少コントロールしていた。
 現状、事前に予測した動きと狼の歩みとの差異は無い。
 ルドルフは少しばかり物陰から身を乗り出し、彼等の様子を確認した。月の隠れた晩でも僅かな光を拾って瞬くルドルフの眼が、狼の一群を捉える。獣達は、夜によく似た黒い毛皮を纏っていた。そしてやはり、狼達は音で予測した通りの巨体であった。

 ルドルフは集中する為に、深く静かに息を吐いた。
 そして、狼に怯える暮らしに困憊した村人のこけた頬や色濃い隈を思い出す。請け負った際に村人の一人と握手を交わした。勤勉さと日々の過酷さが伝わる荒れた手だった。彼等の暮らしを守りたい。そう念じて、ルドルフは気配を消したまま静かに姿勢を正す。
 飛び道具を扱うのは久々だが、担いだ猟銃はルドルフの手によく馴染んでいた。

 暗闇に発砲音が一発。そして吼える間すらなく、リーダーであろう一等大きな狼が地に伏した。

 周囲にいた狼達は、弾かれたように驚愕と警戒の様子の態勢を取った。それはほんの一瞬の出来事で、次の瞬間には一斉に駆け出していた。
 確かに狼達は賢く、司令塔を失った直後でも一網打尽にならぬよう離散し、銃を警戒して直線的な走りを避けていた。撃たれた狼は取り残されたが、巨体故に銃弾一発では死に至っていないようで、弱々しくも呼吸に合わせて腹が動いていた。
 撃たれた腹が上下する度、呼吸音が濁った音になってく。
 ルドルフは弱らせた狼の始末より、二頭目の狼の機動力を奪う事を優先した。すぐさまその場から、走って逃げんとする狼の尻に発砲する。動体を正確に捉えて発射された銃弾は、見事に狼の両脚の間を捕らえた。尻から腹へと弾丸が肉を穿ち、致命傷を与える。これで二番目に大きな個体が、犬と変わらぬ悲鳴を上げて転がる。

 火薬と獣の血の匂いに、家畜達がざわめき出す。ルドルフは血の匂いにつられて己の心音が大きくなっていくのを自覚し、渇いた唇を舐めた。
 残る三頭は、二頭目が撃たれていた間に銃弾が届かぬ位置にまで走り遂せていた。それを追って、ルドルフも物陰から飛び出す。
 視界は夜闇と激しい動きで鮮明さに欠けるが、獣の匂いと足音はルドルフが狼の動向を把握するには充分だった。
 ルドルフが爪先で力強く地面を蹴れば、碌に舗装されていない狭い通りに砂塵が巻き上がる。重力に縛られない動きで障害物を飛び越えるルドルフの動きは、凡そ人間のものではなかった。

 三発目の銃声を響かせようとして、ルドルフは顔を顰めた。玉詰まりが起きていた。
 ルドルフは早々に発砲を諦め、大きく振りかぶって銃を投げた。銃身は槍のようにルドルフから三匹目の狼への最短距を走って、衝突音と断末魔を響かせた。投擲によって、厚い毛皮に覆われた獣の肉を潰し、硬い骨を砕いて狼を絶命足らしめたのだ。また一頭、狼が減った。
 ルドルフの脳裏に一瞬だけ美しい状態の死体を要求するシャロムが浮かぶが、彼の第一優先は害獣駆除。ルドルフは、四頭目を仕留めるべく走り始めた。
 残すは、一等小さい個体と、奇形の二匹を残すのみ。脚に異常がある個体なら然したる機動力は無かろうと考え、ルドルフは小さい方を優先して追った。

「ドクター・シャロムは化物を雇ったか」

 屋内から窓外を窺っていた村人達は、ルドルフの尋常でない動きに目を見張っていた。
 四つ足の獣より機動性が高い人間など居て堪るものか、と誰かが言った。畏怖と驚嘆の混じった声音だった。
「狼とどっちが恐ろしいか分らんな」
村人達の間に恐れが広がり、怯えは嫌悪に変わっていく。
「そもドクターはアレをどこで雇った?」
「どうせ後ろ暗い連中よ」
吐き捨てられた侮蔑の声。中には、村に着いた時に握手を交わした男の声もあった。それは本来なら室内に待機していた村人達だけの会話のつもりだったのだろう。けれど風を切って走るルドルフは、彼等の声すらも拾っていた。
「とうとう悪魔がバケモンと組みよったか」
「実は狼男だったりして」
低い哄笑が夜の空気を震わせる。良過ぎる耳を怨みながら、ルドルフは四頭目を追った。銃を投げたことで遠距離から屠れる獲物は失ったものの、彼の懐には小刀があった。ルドルフは疾走する狼に背後から追い付いて、その背に刃を突き立てた。小刀の柄が肉に埋もれる程に深々と刺して振り抜けば、凄惨な死体が出来上がった。
「なら同胞の狼を殺すのはおかしい話だ」
「それもそうか」
「化けもんの考えることぁ分からん」
村の家々に点々と灯りが燈り始める。次々と殺されていく狼の姿に、村人は興奮気味の様子だった。野次馬の好き勝手な憶測は、最早声を潜める事を知らない。
「いやあ、ありゃドクターが拵えた人造人間じゃろ」
「あったなァ、そんな噂」

 ルドルフが最後の一匹を追って、森に踏み込む直前。被弾したものの死にきれていない狼達に止めを刺して回っていたシャロムが、ルドルフに新たな銃を投げ寄越した。
 シャロムの後ろでは、好き勝手に言い合っていた男衆の一人が姦しく抗議していた。どうやらその銃は、彼から剥ぎ取ったものであるらしい。シャロムは、投擲や斬撃では死体の損壊が激しいと不服なのだ。
「ルドルフ、頼むから六本脚だけは一発で仕留めてほしい」
「俺の銃だぞ!!」
村人の男がシャロムに怒鳴っていたが、ルドルフはそのまま銃を肩に担ぎ直して森に入った。
 ルドルフが狼を追い散らしたとはいえ、血腥い夜を丸腰で過ごすのは耐え難い。そう村人の心情を理解していたルドルフだが、彼に向き直って銃を返してやる余裕はなかった。狼男と謗られた心が膿んでいて、彼等と咄嗟に目を合わせることができなかった。
 寧ろ、邪悪の権化のようなシャロムだけが、この村の中で純粋にルドルフを信用していた。その事実がルドルフの精神を蝕んで、気をおかしくさせていた。


 鬱蒼とした森の中、異形の狼は逃げるのを止めて振り返った。
 距離を詰められ、逃げることはできないと判断してルドルフと対峙する事を選択したのだ。

 村よりも一層暗い森は、ルドルフの黒髪と夜の輪郭を曖昧にする。それは狼にとっても同じことで、闇と溶け合った毛皮は狼の存在を一層不気味で強大なものに見せていた。
 生い茂る樹々の隙間から僅かに注ぐ星の明かりで、ルドルフは初めて狼の姿を真正面から確認した。
 腹から一対余分に後肢が生えている、六本脚の獣。驚くべき事に、その個体には、眼が四つ付いている。奇形というより、化物というに相応しい様相であった。

 暗闇に光る獣の眼は、辰砂のように赤い。狼は牙を剥き出し、狭い鼻梁に皺を寄せて唸った。その音は、ルドルフの耳には威嚇ではなく怨嗟の呪詛として届いた。
 実際にも呪詛なのだろう。最早逃げ延びる事はこの狼の頭には無いようである。前肢の指が土を踏み締め、ルドルフに飛び掛るタイミングを計っていた。
 そもそも、余計な物が付き過ぎた奇形の狼は、生存競争に適さない。群を失ったそれには、生き残る希望が無いのだ。明日のことよりも今対峙した仇敵に一矢報いることしか考えられない、絶望の衝動に身を委ねた殺意。その悲壮さに、ルドルフは構えた猟銃を酷く重く感じた。
 感傷が生んだルドルフの隙を見逃さず、狼は地面を蹴って跳ぶ。
 鋭い牙の生え揃った口が、仇敵の喉笛を食いちぎる為に大きく開かれていた。

 眼前の光景が、ルドルフの意識を感傷から現実に引き戻す。
 最後の銃弾を放った。
 銃身一つ分も無い距離で、狼の血飛沫が飛ぶ。健常な狼と同じ、鉄の匂いがする赤だった。
 四つの眼は、最期までルドルフを睨んでいた。

 狼の亡骸を担いで村に戻ったルドルフは、人家の明かりに辟易とした。
 空が白み始めるにはまだ幾分か猶予はある時間帯であったが、森の闇に慣れた眼に人里は眩過ぎた。久々の人里は、最早ルドルフにとって居心地の良いものではなかった。
 人家の明かりを見ていると、村人達の口から紡がれた嫌悪の言葉がルドルフの頭蓋骨の中で反響する。常人と自身の乖離が浮き彫りになって、胸が苦しくなっていく。

 ルドルフの飛び抜けた身体能力は、後天性のものであった。

 ルドルフは軍の実戦部隊に所属していた頃、一部の同僚と共に戦闘能力を大幅に引き上げる施術を受けさせられた。
 まだ戦争が終結していなかった頃の話だ。それは人体改造にあたる行為であり、何処の国においても許されぬことであったが、軍事競争の混迷は科学の暴走を止められなかった。彼等は、諜報や遊撃戦をより優位に進める為の生物兵器の扱いだった。
 人は彼等を狼人間と呼んだ。
 狼の因子が組み込まれた訳ではないが、人に紛れながらも人ならざる五感と武力を有する生物が、純粋な人間と呼称される道理も無かったのである。
 ルドルフは、そんな己を怪物の類であると認識している。倫理を越えた武力装置だからという理由だけではない。
 改造には、獣性が異常に優先されるという重大な欠陥があったのだ。改造の副作用とストレスで理性を蝕まれた狼人間達は、喧嘩と殺戮の境界も曖昧だった。一度気が高ぶれば敵も見方も見境無く殴り殺す、安全装置の無い暴力装置だった。戦争そのものではなく仲間討ちで何人も死んだ。そういった問題を経て、狼人間は重篤な失敗だったと認められたが、同時に軍は失敗作を隠蔽する方向に舵を切った。因って改造された彼等が元に戻る為の研究はされず、「なかったこと」にされた。それが今日に至るまでのルドルフである。

 ルドルフの道徳は、暴力と支配欲と生理欲求に支配された生き物は人ではなく獣だと分別していた。
 だからルドルフは、自身がそんな生き物である事が許せない。良い人間でありたい。元の身体に戻りたい。人として生きたい。
 そう切に願っているのに、人の群に入るとルドルフは息苦しさを感じるのだ。


 肩に担いだ異形の狼が、心の柔らかい部分に重く圧し掛かかる。狼の身体は未だ温かかったが、乾きかけた血はルドルフの体温を冷やしていく。
 異形でありながら群の一員として生きていたこの狼と、手を貸した村民に誹られていた己。どちらが逸脱しているのだろうか。どちらが化物かなど、考えるまでも無い気がした。


 ルドルフが拠点に戻ってきた時、既にシャロムは大きな狼を回収して荷も纏めていた。
 シャロムは屠殺場の一角を借りて血や内臓などの不要物を取る作業もさせてもらったらしく、布で巻いて荷と共に馬に積んでいた。馬は血の臭いを嫌うのか、ただ大型の肉食動物の気配が恐ろしいのか、妙に落ち着かない様子だった。

 彼の周りには、数人の村の男達が集まっていた。村を害していた狼の末路が気になるらしい。
 ルドルフが担ぐ狼に気付くと、駆け寄って獣の死に顔を確認したがった。苦難から開放されたばかりの村人は、興奮気味で酔っ払いじみていた。
「ルドルフさんだったか。俺達が散々振り回された化物達をあんな簡単に殺しちまうとはな。恐れ入ったよ」
死後硬直が始まりかけた狼を雑に叩きながら、村人の一人がへらへらと笑いながら切り出した。
 感心の皮に包まれた畏怖と好奇心の入り混じった下世話な視線が、ルドルフの膚を刺す。
 面と向かって化物と誹る者こそ居ないが、誰もがルドルフの超越性に説明を付けたがっていた。ルドルフか辛うじて下手糞な愛想笑いを浮かべたが、眠っていない頭は適当な受け答えを考えることを怠けて、鈍く痛んでいた。


 人の役に立つ事をするのはルドルフにとって心地よい事だった。人に感謝されるのも喜ばしい事だ。そういった道徳的な触れ合いのみが、己に巣食う肥大した獣性を否定してくれる。
 まだルドルフを人間社会で暮らし得る生物であると再確認させてくれる。
 けれど、現実はどうだ。
 一時は感謝されるかもしれないが、結局は人間との溝を再確認するだけの行為ではなかろうか。他人の出来ない事をするというのは、ルドルフが人の役に立つということは逸脱と隣接する行為であると思い知らされる。

 ルドルフとシャロムに拠点を提供した養鶏の男などは、ルドルフの抱える狼の大きさを確認して、芝居がかった感嘆を漏らした。
「お前さん、こんなとこに居て良い人じゃないだろう。軍に行きな。あんなに鉄砲の腕も良けりゃあ、夜目も利くんだ。必ず重宝して貰える」
ルドルフを褒めているようで、それはこの村に留まってほしくないという排斥の意図が滲んでいた。シャロムがルドルフを
この村に売り込んだ件への解答が、これなのだ。ルドルフが有用な男であることは認めるが、仲間として迎え入れるには悍ましく、余所に行ってほしいというのが偽らざる本音だろう。

 ルドルフは愛想笑いに努めるが、村人達は代わる代わる喋り続ける。
「いや、ドクターの知り合いなら、軍役の経験はあるだろう。規律を守れんで辞めたクチか?」
それが一方的な詮索に変わるのは早かった。
 ルドルフを受け入れる気は無い彼等だが、異質の正体を知りたがる気持ちからか、本人を前にしても憶測が飛び交い始めた。ルドルフは口角が引き攣るのを隠せなかった。村人達は、彼が最も話題にされたくないトピックに容易に触れてくる。
「お前、ドクターに従軍経験あるなんて
信じとるんか。見ろ、この細こい腕」
「そういう手前はドクターに銃取られ取ったろう」
遂にシャロムまで話題にあがり、ルドルフは頭を抱えたくなった。彼等はあくまで与太話の認識でしかなかったが、着実にルドルフの正体に近付きつつあった。何せ、シャロムこそ歪な狼人間を生み出した科学者の一人であるからだ。狂った狼達の同胞殺しを隠蔽するにあたって、当事者兼証人である狼人間や一部の科学者の達は始末され、シャロムは隠遁し、ルドルフも死んだ人間の扱いとなっている。無論、どちらも軍には戻れない。軍と接点があったなどと知られない方がいい。まして、己が暴力に特化した獣だと知られるのは、ルドルフには耐えられなかった。
 狼より早く地平を駆ける事が出来ても、地獄のように耳が良くても、いつだってルドルフ自身は人間らしい豊かさを望んでいたのに。

 興奮に受かれたまま好き勝手に喋る猥雑な男達の中、シャロムの声はよく通った。特別声が大きい訳ではないのに、テンションや間の取り方が明らかに集団とは違うから目立つのだ。
「僕が軍にいたのは本当だよ。育ての親がそうだったからね」
硝子で出来ているかのように透明で何も映さない声だった。

 村人達の視線が、ルドルフからシャロムに切り替わる。悪魔や魔女と呼ばれている男の口から育ての親などという言葉が出てきたのが意外だったらしい。
 天界を追放されて人界に堕ちたと言われた方が納得できる美貌と邪悪さを備えた男にも、親の背中に倣うような凡俗な面があったのだ。村人とルドルフは、そんな失礼な驚きを共有した。


 すっかり無言になった村人達に、シャロムは抑揚の少ない声で言った。
「みんな詮索がお好きと見える。僕と気が合うね」

 何時もの考えの読めない表情だった。好意なのか嫌味なのかすら測りかねる人形の顔で、シャロムは口角を左右対称に上げた。
 その筋肉の運動は、笑みと呼ぶにはあまりに平坦で、感情らしい心の動きを感じさせなかった。
「僕も経歴や生態を解明するのが好きでね。殊に肉体は嘘を吐かない、等身大の履歴書だ。この為に解剖学に手を出していると言って良い。君達も腑分けされたいと思ったら、最優先で僕に連絡をおくれ。詮索趣味の誼ということで」
 突然の主張と要望に呆ける村人のポケットに、シャロムは名刺を捻じ込んだ。正気に返って反論する隙も与えぬ早業だった。
 悪質な冗談に聞えるが、シャロムの感性を知る者はそれが決して嘘とは考えられなかった。形態や構造を明らかにする解剖学に特化した己の知的好奇心を詮索趣味と言い換えた男は、口元に微笑の記号を貼り付けて村人に詰め寄り始める。
 すると、開放感に酩酊して好き勝手に喋っていた村の男達が、シャロムを反面教師に己の悪趣味に恥じ入っていく。

 シャロムは、村人達を数歩退かせたところで、ルドルフを振り返る。
「尤も、僕が今一番切り開いて調べてたいのは、この奇形なんだけどね」
シャロムの瞬きを忘れた瞳は、ルドルフの担ぐ多眼多脚の狼を真っ直ぐ見ていた。平時の人形めいた無表情は何処へやら、珍しい状態の生物を前にした興奮で彼の瞳孔は爛々と拡散している。
「脚も素晴らしいが、眼が一等興味深い。頭部の異常は脳の形成に影響するからね。こんな状態で成体になるまで生き延びているなんて奇跡的なんだ」
高笑いまでしそうな風情であった。村人よりは幾分かシャロムの偏屈ぶりに慣れている筈のルドルフも、思わず半歩分退いた。
 けれど恐らく、話を始めたタイミングから察するに、村人達の心無い好奇心からルドルフを庇う意味もあったのだろう。村人達の視線は、全て彼が持っていってしまった。
「なるべく死体の保存状態が良い内に帰りたいんだ。僕等はそろそろ失礼するよ」

 シャロムは一方的に語るだけ語って、馬の轡を軽く引いた。勿論引き止める者など居ない。
 さっさと狼狩りの成功報酬を受け取った二人は、夜明けを待たずに村を出る。
 丸一晩を狩りに費やしたルドルフの身体は休息を欲しがってはいたが、この場から立ち去りたい思いのが強かった。


 帰路のシャロムは、馬以上に落ち着きが無かった。
 平時は無感情に思えるほど情緒の安定した彼だが、今ばかりはルドルフが担ぐ異形の狼に対する好奇心で溢れていた。
 村人達を前にして語った解剖への興味は、偽らざる本音なのだろう。狼が生きていた時の様子を根掘り葉掘り聞くシャロムは、新しい絵本を買ってもらったばかりの子供のように元気だった。
 村人から変態を見る眼で見られようが、誰に誹られようが、シャロムは然して気にしないようであった。極めてマイペースに、自身のやりたい事に直実だ。
「つまり、どの脚も引き摺らずに六本足でスムースな歩行をしていたんだね? ……それは僕も見ておきたかったな。 神経も筋肉も正常に作用している完璧な多肢症なんて珍しいんだ。そもそも周囲に学習モデルが無い中で自然な歩行を獲得している事自体が素晴らしい。歩行のパターンは三脚歩行かい? 全ての足が地面から離れる瞬間はあった?」
馬を引きながら、シャロムは異形の狼を追いかけた際の様子を矢継ぎ早に問う。ルドルフはこの饒舌さについていけていなかった。自身に関心を向けてくる村人達を相手にするより幾分か気楽ではあるが、如何せん鬱陶しい。
 無回答を質問の不親切と解釈したシャロムが三脚歩行の定義について説明し始めるので、ルドルフは短時間で偏った知識を得るはめになった。
「悪いが狼の脚の運びなんて気にも留めてなかった」
「もしや君、犬と猫の歩行パターンが異なる事に疑問を覚えないタイプかい」
「そうだ。というか今が初耳だ」
猫と駱駝は特殊で左右が同じ方の前肢と後肢がセットで動くらしい。ルドルフにとって、心底どうでも良い情報だった。価値観が違い過ぎて脱力感すら覚える。
「俺に聞くよりも狼自身に聞いた方が早いんじゃないか。肉体は等身大の履歴書なんだろう」
「それもそうか」
ルドルフは、彼が村人相手にしていた主張を引用して質問を打ち切った。それもそうかと素直にするシャロムだったが、それはそれとして喋りたいらしい。興奮を言語化しなくては帰宅まで欲求を我慢できない、といった風情だった。普段は紫水晶のように無機質な双眸がこういう時にばかり輝くのだから、他人がこの男を悪魔と呼ぶのも頷ける。

 いっそ死体に話しかけているのではないかと思うほど熱心に異形を愛でるシャロムに、ルドルフは遠い眼をしながら曖昧な相槌を打った。
「やはり君に頼んで良かった。損傷が少ないから、これは良い標本になる」
「……褒められているのに此処まで感動が薄いのは初めてだ」
果たして悪魔と呼ばれる男に感謝される行為というのは、己の獣性の否定になり得るだろうか。首を傾げたルドルフだが、褒められた事自体が久々で頭が上手く回らなかった。
「まあ、君の性格には不似合いな作業だったね。君は殺生より洗濯の方が性に合っている人間だから」
でも君は素晴らしい仕事をしたよ。そう言って、シャロムは上機嫌に馬を引いていく。

 ルドルフは、戦場で圧倒的優位に立てるよう作り直された存在だ。以前は奪う事と殺す事こそが仕事だった。人智を越えた暴力をその身に宿す、狼人間だ。そんな男を捕まえて、シャロムは殺生を不似合いと言い切った。
「本気で言っているのか」
本気だとも、と鸚鵡返しに肯うシャロム。勿論、彼はルドルフの正体を知らないなんて訳は無い。
「君は我が家の衛生確保に大いに役立っているよ」
家事労働は結構体力勝負だろう、なんて冗談なんだか分らない台詞を吐いていた。

 他人に何を思われようと気に留めないくせに、この男は他人の事は存外よく見ている。
 形態や構造の把握に収まらず、この男は無形のものだろうと分解して解析してしまう。
 ルドルフが脅迫的に感じる「人の役に立つことがしたい」という願いは案外簡単に叶えられているのだと、当事者でも見落としていた部分すらシャロムは見ているのだった。


 夜を徹したフドルフの眼が、白み始めた空の眩さに耐えかねて瞬きを繰り返す。
 それはシャロムも同じような状態である筈だが、彼は小屋へ帰ったら先ず狼と戯れる事を優先させるのだろう。眠気で逆にハイになってきているシャロムは、決して歩くペースを落とさなかった。
 ルドルフの良過ぎる耳が、シャロムのやや調子のずれた鼻歌を拾っていた。
「へたくそ」
ルドルフは、まだ当分シャロムを殺せない。他に行く宛も無いので、当分は居候をしながら彼を見張る生活の予定である。


 ルドルフはこの日から、厩で寝るのをやめた。
 死体のコレクションと染みついた薬液の匂いで満ちた魔女の家で、仇敵と二人暮らし。
 この珍妙で不条理な暮らしがルドルフの日常になる日は近かった。




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