愚者の献身、そして獣の渇仰

 生白い膚の至る所に、鬱血痕の朱が咲く。その様子は、官能を通り過ぎて寧ろ痛ましい。皮膚病患者と誤認しそうな悲壮すらあった。それは、彼の顔色が血が通っているか怪しい程に劣悪だからか。それとも、精気が足りていない隻眼が、此処ではない何処かを見つめているからか。
 けれど、私は彼に寄せた唇を離せはしなかった。狭い骨盤を割り開くように彼の下腹に押し入ったまま、いつまでもその貧相な身体をベッドに縫い止めていたかった。
 成長期を過ぎて以来女性に不自由した経験は無い筈なのに、私はこの人を相手にすると際限無く飢えてしまう。ずっと昔からこの人だけが欲しかったのに、彼だけは私に特別な関心をくれはしなかった。他人が美しいと褒めた青い瞳も、この国の男性と比較すれば幾分か長い脚も、デスクワーク中心の職務になっても維持している割れた腹筋も、この人相手には何も意味が無かった。だからだろう、少しでも彼を手に入れたくて気が可笑しくなりそうだった。

 彼の薄く尖った肩に歯を立て、新たな鬱血痕と歯形を刻む。口腔に仄かな血の味が広がった気がした。そこに僅かな充足感を自覚し、もう一度肩に歯を立てる。犬歯を薄い肉に埋め、硬い骨の抵抗を感じながら、滲み出す血を啜り上げる。この人は、痛みを訴えない。生気の無い瞳が、安アパートの天井を見ている。破瓜の血に塗れたベッドシーツを僅かに蹴る脚の反射的な動きだけが、この人に痛覚が存在する事を示していた。
 もしも、この人が人並みに苦痛を厭う姿を見せたなら、私に優しさを請うたなら、私は世間一般の恋人がするような慈しみ方で彼を抱けたのだろうか。
 彼は揺さぶられながらも此方に関心を払おうとせず、遠くの事柄に思いを馳せていた。その表情は、祈りに似ていた。私は彼の頭の中心に巣食う者の存在を知っている。私が組み敷く彼は、私でない者を慕い続けていた。それも、誰より苛烈に、献身的に。


 最初はただ、この人を自室に招いて懐古的な映画でも見ながら菓子でも突付ければ満たされる筈だったのだ。本当は、最期に穏やで慈しみに満ちた時間が欲しかったのだ。
 けれど、私が淹れた紅茶を啜りながら他人に思いを馳せている彼を見ていたら、我慢がならなかった。私の恋が酷く空虚なものであると突き付けられ続けるのが耐え難かった。
 その瞳に映りたい一心で口を吸った。それをきっかけに、芳しくない反応につい唇に歯を立てた。きっとそれがいけなかった。舌を嬲り、歯列をなぞり、服の下を弄っても、彼は抵抗らしい抵抗をしなかった。潰えた眼を覆う引き攣れた皮膚に口づけようとも、彼は瞼の裏に描かれた偶像を見続けていた。
 慌てる事も嫌がる事も無く、ただ諦観に近い薄い反応で私に身を委ねる彼の、なんと実在感の薄いことか。
「先輩」
こんな時まで、名前で呼べはしなかった。社会人になろうと、ついぞ学生時代の距離から発展しないままの関係性が、心臓を締め付ける。
 私が彼に与えたいのは、きっと此方の痛みなのではないか。そんな考えが、ふと過ぎる。皮膚の痛覚ではなく、思慕故の胸の痛みを与える役目が欲しかったのだ。一方通行の執着が歯痒かった。

 血に塗れている彼の唇を舐め、力無く口腔に鎮座する舌を捉えてしゃぶる。重力のままに流れた唾液が、彼の口に収まりきらずに頬を伝ってシーツに落ちていく。
 酷く喉が渇いていた。にも関わらず、唾液が過剰に分泌されていた。飢えた犬のように、彼を貪る。
 ずっと昔から、こうしたかったのだ。漸くそれが許された今、満ち足りた気分になれる筈だった。
 けれど、触れれば触れる程に、それでは足りなくなっていく。この痩躯に私の徴を残さなくては。余す所無く舐らなくては、誰の目に触れた事の無い所すら暴かなくては、血の一滴とて残さず啜り上げなくては。そうでなくては、飢餓感でどうにかなってしまう気がした。


 この貧相な身体を喰らい尽くしてしまいと思うのは、性欲か顕示欲か。独占欲が一等正確な気がした。今、私がこの人を腹に収めてしまえば、誰にも渡さずに済む。そんな考えすら、頭を過ぎっていた。
「泣くなよ」
為すが儘に齧り付かれていた彼が、とうとう私の醜態に苦言を呈す。痛いだとか苦しいだとか他に訴える事があるだろうに。
「好きにさせてくれるって言ったじゃないですか」
「言ったけど、泣かれるのは堪える」
骨張った手が私の髪を梳く。不健康なまでに痩せた彼の身体に、生への執着が見受けられない故の神聖さを見出して、一層泣きたくなる。
「先輩」
子供のように縋って、濡れた頬を彼の平たい胸に押し付けた。彼の鼓動を聞くのは初めてだった。きっと平時よりは早くなっているのだろう。肋の浮く胸が浅く小刻みに上下していた。その生命活動の様子が、生温い体温が、一層私を苦しくさせた。
「先輩、心中しましょう。私も貴方と死にます」
どうか置いていかないでくれと縋れば、先輩は静かに首を横に振って拒否を示した。
「保険金が降りない可能性のある死に方は出来ないって言ったろ」
そういう取引だと、血と性の匂いに満ちた部屋にそぐわない事務的な声で一蹴される。どこまでも冷静な口調だった。私が今、この人の肉体を好きに出来ているのは、その契約のお陰でしかないと、硬質な態度に突き付けられる。
 この人は、置いていかれる私の孤独など微塵も考えていない。愛する人を手にかける事を迫られた私の苦悩など、彼には一考の価値も無いのだ。
「貴方は残酷です」


 昨夜、久方ぶりに私を呼び出した先輩は、自身を殺すよう依頼した。

 詳しい経緯は知らないが、先輩の慕っている女が多額の借金を抱えて二進も三進もいかなくなったらしい。それを何とかしてやりたいが、先輩の手元にも金が無いと来て、自身の死亡保険を使う事を思い至ったらしい。
 しかし厄介なことに自殺では保険金が降りない契約だったらしく、先輩は私の手を借りる事を選んだのだ。よりによって先輩を好いている私に。
 いや、私の好意を知っているからこそ、先輩は私を共犯として利用する事を決めたのだろう。先輩は、自身を手にかけるまでの間はその身を私の好きにして良いと取引を持ちかけてきた。
 尤も、幾ら惚れていようと真っ当な倫理観を持ち合わせた人間なら、決して頷くまい。此の世で尤も尊く思える存在を自らの手で屠らなくてはならない役回りを引き受けるなど、間抜けにも程がある。
 けれど私には、先輩の意向に反する事などできはしなかった。惚れた弱みというよりも、最早その観念は信仰に近かった。私が一神教を文化の下地にする国の生まれだからだろうか。この人に感じる好意と神聖さの混線が、私を盲従の信徒にさせていた。


 私の心情について先輩がどれだけの理解をしているかは分からない。ただ、先輩は自身が唯一にして最も尊ぶ女性の為に尽力したいだけなのだろう。そして先輩はその為なら、残酷な選択を厭わないというだけだ。自身の命すら捧げてしまう人だ。私の心情への配慮など望める訳も無い。
「そんな事をしたって、喜ばれるより先に気味悪がられますよ。あの人は貴方を愛してはくれません」
私は先輩の異常な献身すらも美しく思う。けれど同時に、彼が身を捧げる相手が自分ではない事だけが、酷く腹を立たしい。だからつい、詰る言葉が饒舌になる。彼を傷付けたかった。歯形だらけの皮膚と同様に、彼の心にも私の痕を刻む事を許されたかった。
「だろうな。けど、そうしたいんだ。僅かでも力になれれば、それが俺の幸せだから」
慈愛に満ちた表情を浮かべる先輩は、相変わらず聖人のようだった。この人は、献身に見返りを求めない。この人が抱える恋の歪さは、きっと私と同種のものだ。好いた人間を神聖視せずにはいられない。だから捧げた犠牲に対して、見返りを求めるよりも法悦が勝ってしまうのだ。そんな風に彼に共感できてしまうのは、私の不幸だった。中途半端に理解できるからこそ、この人の恋慕の深さも測れてしまう。似た不具合を抱えているからこそ、彼と違う己の浅ましさが鼻に付く。叶う筈もない思慕を持て余して手酷く組み敷いた私と違って、この人は彼は肉の欲は愚かに振り回される事は愚か、特別に思われることすら願わずにいられるのだ。
「……随分と成熟した信仰ですね」
完璧に自己完結した信心は、私には到達できないものだった。僅かな相似は一層彼と私の間に横たわる決定的な隔絶を浮き彫りにする。突き付けられる己の未熟に悔しさを感じながらも、この人の清廉さを思い知って好意は募る。

 自身の損得を勘定に入れず、奉仕を喜びとする彼は、人間の感性を超えた美しいものに見えるのだ。人間性が薄い故に美しく、我欲の薄さは神々しくすらある。しかし浮世から離れた感性は、人の心を解さない。何より好ましい筈なのに、酷くもどかしかった。
 先輩は、愛し返してはくれない女の為に命を捧げるというのに、先輩を愛している私には共に死ぬ権利すらくれはしないのだ。命すら他人のものにして、心の一欠すらくれない彼が憎かった。その一途さが美しかった。その直向さが好ましかった。けれどやはり、選ばれない己が呪わしかった。
 行き場の無い執着は際限無い餓えに変わるしかなくて、私は再び彼に歯を立てる。

 いっそ、全てかっ喰らってしまいたかった。舐って噛んで啜って貪って、跡形も無く私の中に収めてしまいたい。比喩ではなく、骨まで噛み砕いて胃の中に隠しておけたらと思った。もうそれくらいしか彼を手に入れる手段など無いのだ。いや、本当はそんな事をしたところで、この人は私のものにはなりはしない。そう知っている。
「愛しています」
限り無く絶望的な気分で、懇願するように彼を掻き抱いた。背中に爪を立て、芳しい返答など期待する余地もない訴えを吐き続けた。
「愛しています」
返事を待つ事も無く繰り返す。壊れたレコードにでもなってしまいたかった。それならば甘く優しい時だけを繰り返せたのに。
 狂ってしまいたかった。厳密には、既に私は狂っているのだろう。愛してると言いながら爪を立てる時点で明白だ。傷め付ける事に充足を覚えている時点でおかしいのだ。空しいだけと分かっているまやかしの時間と引き換えに愛する者の死を了承してしまった私を、誰が狂っていないと言えるだろう。
 けれど、私にはまだ足りなかった。矛盾に気付かないくらいの濃厚な陶酔が欲しかった。自責も悔恨も感じられない程の分別の無さが欲しかった。
 愛する者が永遠に失われる事すら悦べる程の狂気が必要だった。


 私達の恋慕は信仰と一体であると気付かされたのは、もう随分と前の事だ。

 私と彼とは中学で出会った。
 入学当初の私は、地中海人種特有の容姿と日本語が覚束無い為に閉鎖的な学舎の中で孤立していた。そんな中で唯一、私を特別に扱わなかったのが彼だった。同じ図書委員会の先輩として、意思疎通のおぼつかない私に嫌な顔一つせず仕事を教えた。私はこの国の言葉と作法を彼から教わった。
 まだ彼の両目も健在で今程痩せこけはいなかったが、辛気臭い顔立ちと妙な思い切りの良さは既に備えていて、この頃から無私と奉仕の人格は完成されていた。自己犠牲的というよりも、元より彼には欲だとか自己愛だとかが乏しいのだろう。それは傍目から見れば、神聖で慈愛に満ちたものであるかのようだった。彼に思春期の孤独を救われた私は、彼を聖者の類だと信じていた。
 その妄想が強化されたのは、私が第二次性長期を迎えた二年次だ。体格に恵まれ、日本語も上達してくると、平均より少々顔が整っている事も相俟って遠巻きにしていた人々は皆掌を返して擦り寄ってくるようになった。その心変わりを憎む気持ちは無い。元より、相似点の少ない遺伝子を持つ者を好ましく感じるのは人間の本能だと知っていた。けれどそんな中で、一切態度を変えなかった先輩が好ましかった。
 先輩はただ、外側の情報に惑わされずに私を見てくれていた。それは先輩にとって当たり前の事で何ら特別な態度ではないに違いない。そもそも、自分にも他人にも関心が薄いからこそ、容姿にもステータスにも頓着しないのだろう。それでも、私にとって先輩の在り方は特別だった。
 良くも悪くも遍く平等で、凪いだ世界を持っている。周囲に影響されず常に毅然と本質を嗅ぎ分け、博愛の慈悲を注ぐ。そんな人を特別だと思わない筈がなかった。この人は異国の地で私が迷わぬように現世に人の形を取って顕現した神なのだ。敬愛が信仰に代わるのは、時間を要さなかった。

 彼の神性を絶対的に信じるままであったなら、きっと私の彼に対する情は純粋な畏敬で済んでいただろう。
 けれどその年の秋、彼は恋をした。所詮は彼もただの人間であると思い知らせるように。
 誰に対しても公平で、凪いだ感情しか見せなかった清らかな男が、ただ一人の女の挙動に一喜一憂する。ただの女の為に笑みを浮かべ、焦り、照れ、悔しがる。時に妬みを露わにし、寂しさすら滲ませる。存在しないと思われた先輩の特別が作られてしまった。何者にも揺るがされる事が無かった筈の先輩に、人間らしい側面が次々と表出していった。

 私には到底耐えられる事ではなかった。
 その時の私に宿っていたのは、信仰を蔑ろにされた狂信者の憤りだった。
 突如信仰を奪われた私は、過ちを犯した。その女さえ居なくなれば先輩がまた完璧な聖人に戻るに違いない。そんな妄想に取り付かれ、私は愚かにも彼の最愛の人を排除する事を試みたのだ。尤も、私が愚かな事をしたと悔いるのは、社会一般の倫理に反するからではない。先輩の意向に反する行いをするなど、自ら信仰に背く行為に他ならないからだ。信徒たる私が、彼の意思を妨げて良い筈などなかったのだ。私は今でも自らが犯した背信とそれが齎した結果を、強く悔いている。

 あの日、私は女の自転車に細工をした。
 私達の学校は小高い山の上にあった。だから、自転車のブレーキを壊してしまえば、急な下り坂の環境も手伝って大怪我をすると分かっていた。許されない犯罪行為であると自覚していたが、私はうんと残虐な心持で、いっそ彼女が死んでしまっても構わないとすら考えていた。
 今思えば、先輩の損なわれた神性を取り戻すというのは、女を排除する口実でしかなかったように思う。私は先輩の恋する瞳を向けられる彼女が妬ましくて仕方がなかったのだ。その証拠に、悲鳴を上げて異常な速度で坂を疾走する彼女を確認した時点で胸が透いていた。
 排除したいという無機質な感情より、彼女を酷い目に合わせる過程こそを愉しむ陰湿な悪意。それは、信仰の障害への敵意というよりも、恋敵への嫉妬だった。手段として用いた加害こそが、正直な目的だったのだ。そう自覚したのは幾分か冷静さを取り戻してからだった。
 私は、先輩を神格化して渇仰するだけでは納まらず、一人の人間に対して抱く恋慕も同時に抱いていたのだ。
 もしかしたら、自覚が後になっただけで、恋慕の対象としていたからこそ私は先輩を崇めていたのかもしれない。先輩から言葉や作法を習ってきたのだ。恋の形すら、私は彼から習ってしまっていたようであった。

 私の失敗は、己の動機と目的を誤った事に留まらなかった。
 私は、先輩の思慕の強さを見縊っていたのだ。
 下り坂の途中でブレーキが効かないと気付いた彼女が悲鳴を上げながら異常な速度で走行する先に、偶然にも先輩が居合わせていた。それは私の背信に対して天が与えた罰か、彼女に対する先輩の加護か。私はどちらも組したと思っている。兎角最悪のタイミングで、先輩は巻き込まれた。
 私が彼等に走って追い付いた時には、異常を察した近所の住民が集まってきていた。
 彼女は膝や脛に擦過傷を負っただけで済んだが、先輩は流血する顔を押さえてアスファルトに転がっていた。見物人の誰かが呼んだのだろう、救急車は直ぐに到着した。事故の瞬間を見ていたらしい青年が、興奮気味に救急隊員に説明していた。その声を、私は呆然と立ったまま聞いていた。

 先輩の運動神経は悪くなかったので、彼女を避ける事も出来たに違いない。
 けれど、走行する彼女が走行していた直線上は、駐車場の古びたネットフェンスで塞がれていた。フェンスの表面を覆っていた樹脂はささくれ、錆びついた金属は一部折れている部分すらあり、激突すれば怪我は免れぬと判断するには十分であったのだ。先輩の恋は自己犠牲を厭わない。彼女に大怪我はさせまいと、先輩はフェンスと自転車との身体を割り込ませる事を選択するのに躊躇は無かっただろう。
 私は救急車が去っても、暫く茫洋と血塗れたフェンスを見ながら突っ立っていた。自分が先輩の負傷の原因になってしまったという悔恨が足を地面に縫い付けていた。
 なのに、未だに庇われた女に対する嫉妬を感じていた。そんな己の醜さに、呆然とする他になかった。

 左目が完全に潰れてしまっていると知ったのは、搬送先の病院に見舞いに行った時だ。
 取り返しのつかない事をしたと思った。先輩に一生残る傷を追わせてしまった。先輩という絶対的な存在の意に反した罰だとすら感じていた。私の知る彼を取り戻す筈が、彼の一部を永遠に失う原因になってしまった。

 私は自身の浅はかさを悔いた。けれど、それを上回る悦びを見いだしていた。女は完璧な聖人だった先輩をただの人に貶めた。けれど私は、完璧に揃っていた先輩を永遠に欠けさせた。それが心を満たしていた。
 場違いにも、私は見舞いの席で薄く笑っていた。自覚したばかりの加虐への狂喜が、絶望的なまでに自重を知らずに漏れ出ていた。先輩に合わせる顔が無い。僅かばかりに残った理性が病室から私を追い出したが、先輩の左右非対称になった顔を見る度に満足せずにはいられなかった。どうしようもなく歪んだ自分が悍ましくて、私は先輩に真相を話せぬまま進級した。
 一方、受験期だったというのに思わぬトラブルに見舞われた先輩は、第二志望の高校に行く事になった。
 それきり彼とは疎遠になったが、私は彼の同行をずっと把握していた。社会人になっても、先輩が変わらずに一人の女を思い続けている事も。それでいて未だ一方的な恋慕のの枠を出ていない事も。そして、そんな先輩に固執している私自身も、何も変わらないまま。あの日の犯行と感情は墓まで持っていくと決めて、密やかに恋心を反芻するだけの日々を続けていた。


 けれど、昨日私を呼び出した先輩は全てを知っていた。
 私の恋を、歪な性癖を、強すぎる執着を。その上で先輩は、私の願望を叶えてやると宣った。例の先輩をこの手で殺す契約を提示して。
『俺が左目を失明した時、お前は笑ってたな』
彼は、私が向ける熱に気付いていた。彼女の自転車に細工をした犯人が私だという事も。彼を損なった悔恨と愉悦の間で戸惑った私の心情にすら。知っていながら何も言及が無かったのは、ただただ自身の被害状況にも私の煩悶にも関心が薄かったからだろう。恐らく、これも彼女の為だ。怨まれて自転車に細工をされたと知って傷付くよりも、不幸な事故で済ませた方が彼女は心穏やかに過ごせるだろうから。ただそれだけの理由で私は見逃されていたのだ。
『いいよ。右目だろうが何でもくれてやる。お前の好きにして良い』
こんな甘美な台詞、もっと違う時に聞きたかった。そんな我儘すら、私には言う権利も無かった。
『俺に贖罪がしたいと思うなら、共犯になってくれるよな』
眼帯に覆われていない右眼に熱っぽく見詰められて、私に断る事などできようか。


 確実に保険金を降りるよう、私は事を済ませ次第自首をしなくてはならない。元より地獄行きの業を負った人間だから、監獄行きも妥当だと折り合いも付けられる。私はその点においては納得していた。
 けれど、やはり成就しない愛は呪いに変質して私の情緒を滅裂にさせた。
「貴方の所為で私はメチャクチャです」
貴方を慕わなければ、私は健全で居られたのに。貴方が私を愛してくれたなら、こんなにも残虐な性に気付くことはなかったのに。こんな時にすら、方便でも私に愛を囁かない先輩が恨めしい。その愚直さが愛しい。手に入らないから、傷付けたい。

  加害欲求が無いと言えば、嘘になるのだ。
 彼が望むなら何でも捧げて叶えたいとも思う。彼が最後に見るのは間違いなく私だということを思えば、この行いに歓びを見出すことも出来なくはない。彼の末期の声を聞くのも私だ。一生消えない傷を残して、その一生とやらに幕を下ろさせる。けれどやはり、それでも足りないという確信があった。
 生を摘みとったところで、既に他人に捧げてしまっている命だ。彼自身から奪う歓びなどありはしない。私は何も手に出来ない。この人の心にまで支配が及んだ試しなど、一度たりとも無かった。如何に身体を傷付けようと、自身が損なわれる事を厭わないこの人が相手では虚しいだけなのだ。
「正直、貴方の首を絞めてみたいと思った事は幾度もあります」
貴方が他人の為に死ぬなどと望まなければ、歓びの中で貴方な首を絞める事が出来たに違いない。ただ、先輩の望みを叶えてやりたいのも私の本当なのだ。嘘を吐かない先輩だから愛しく思うのも本当なのだ。そして厄介な事に、私に恋する瞳を向ける先輩に優しくしたいのが、一等の本当なのだ。身勝手ばかりの願望と矛盾だらけの防衛規制に編纂された欲求は、裸にしてみればそんなものだ。


 不幸にも、先輩が想定するよりも私は少しばかり正気に近い人間だった。
 眼だとか首だとか、そんなものより、ただ愛していると心から言ってくれたなら、際限無い餓えから解放される気がしたのに。それが一番叶わない願いだと知っているから、益々餓えるしかない。

 先輩の手が、涙が伝う私の頬に触れる。どうして私が悲しんでいるのかまるで分かっていない顔。けれど一生分からないでいてほしい。それこそが私の愛した先輩だから。
 先輩は与える事で満たされる人だから、欲しがる人間の渇きを知らなくて然るべきなのだ。それが目映くて、どうしようもなく美しくて、また涙が溢れた。
 この人のそんなところが好きだったのだ。ささくれた手に頬を包まれながら、私は己の渇望を再確認させられていた。
「泣くなってば」
「いいえ泣きます。存分に堪えてください」
情けなくも、私にはそれくらいしか彼を困らせる方法はなかった。先輩は少し弱った顔をして、私の髪に触れた。

 私は今後、この日の事を事ある毎に反芻しながら生きるのだろう。

 骨の目立つ先輩の頚を両手で絞める感覚など、私には忘れられそうにない。頸動脈から掌から伝わる先輩の脈動を、忘れたいとは思えなかった。
 結局、私は先輩の望むままに遂行した。一生負う痕を作るのは、何時だって先輩ではなく私の方だ。

 先輩の身体は確かに苦しみに悶えていたのに、その死に顔は穏やかだった。



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