崩落事故の霊

 大都市の歓楽街に位置しながら、人目を避けるかのような細い通り――具体的な場所は伏すが――全く系統性のない多種の用途によって占有されている古びたビルディングテナント。そのビルの最上階かつ日照権を放棄した角部屋に、アガリア探偵事務所はあった。
 エレベータのないビルに唯一作られた階段の電灯は薄暗く、急な段差と狭い通路も相俟って上階への進入を拒むかのような造りであった。
 そんな経路を経て事務所まで足を運ぶ依頼者は、余程の暇人でない限りは相当追い詰められた人間の筈である。怪異を専門に調査するという不確かな伝聞と胡乱な広告を頼りにして、辺鄙な事務所の扉を叩いてしまうのだから。


 応接用のソファに腰掛けた東阿は、接客用の愛想の良い顔を作る事もなく、面倒臭いと言わんばかりの仏頂面で来客に対応していた。今回は接客用の改まった態度は何処にも無い。素なのであろう素っ気無い口調は、無礼ですらあった。
「スズヤに憑いてるソレは私達には祓えないって、前にも言った筈だよ」
東阿は幼い顔立ちの女だが、顔を覆う眼帯と長い黒髪に黒いスーツが近り難い印寄象を与えていた。対面の席に座るのは、二十歳を超えたばかりの若い男で、錫屋 鈴太郎と名乗る大学生だった。安物で有名なメーカーのロゴが入ったパーカーに、ワックスで髪を無造作風にアレンジした彼は、如何にも今時の活発な若者といった風情である。腕白そうな三白眼も、健康的で瑞々しい小麦色の肌も、日当たりの悪い辺鄙な事務所は不似合いだった。
「ウチは相談料だって安くはないの、知ってるでしょ」
東阿は以前、錫屋の依頼を受けた事があった。しかし結局、錫屋の抱える問題はボティスの手に負えるものではないとして根本的解決に至らなかったのだ。探偵としては歯痒いが、これ以上構ってやれないと分かっている依頼人から金は取れない。そう判断した東阿は、彼を追い返そうとした。

 いつもならば助手として来客へと茶を出すボティスも、無気力な蛇の姿のままデスクに蜷局を巻いている。しかし錫屋は素っ気無い対応に屈せず、要件を切り出した。
「いや、今日は別件で来ました」
ソファからやや身を乗り出し、友人達と連絡が取れないのだと神妙に告げた。そして東阿の返答を待たず、錫屋は懐から数枚の写真資料を取り出してローテーブルの上に並べ始めた。
「彼等を捜索してください。週末に肝試しに行くと言ったきり、休みが明けても帰って来ていないんです」
L版プリントの写真には、彼と同じ年頃の青年が複数人写っていた。その内の一人が錫屋の幼馴染でもあるらしく、保護者が甚く心配している様子にも彼は心を痛めていた。
「電話が繋がったのも、昨晩が最後です。それも、呻き声ばかりで、真っ当な会話はできませんでした」
彼の切羽詰った目付きに、ボティスも鎌首を擡げて資料を覗き込んだ。時間を超越してあらゆる情報を把握する悪魔の瞳が、思案の為に暫し見開かれる。
「成程、これはウチの領分だ」


 農村と住宅都市の中間地。某高架駅からから三キロ南に位置する事故の跡地。そこが錫屋の友人等が向かった場所だという。
 そこは嘗てトンネルの崩落事故があり、今では心霊スポットとして愚かな若者達の肝試しの場と知られていた。
 そして錫屋の友人等も、愚かな若者の一員であったらしい。興味本位で覗きに行った上に、怨霊と化した故人達に憑かれてしまった為に帰還できなくなった。というのがボティスの調査結果である。

 一同は電車で最寄駅まで行き、そこのロータリーでタクシーを拾った。東阿は運転免許証を持っていなかったのである。
「お前等、探偵の癖に車も無くて尾行とかどうするんだ……ああ、ボティスが居りゃ尾行はしなくて良いのか」
ロータリーには、錫屋と東阿と人の形になったボティスに加え、黒髪の偉丈夫が合流していた。モデルのように高い身長と整った相貌に、国籍不明の褐色の肌と深淵を映す瞳は、田舎の駅では場違いだった。知己の如く喋りかけてくるその男こそ、錫屋に憑いている怪異だ。錫屋の守護霊を自称する彼だが、そんな善性や功徳とは間反対の存在である事は誰が見ても明らかだった。
「おいベル、失礼だろ。せっかく引き受けてくれたのに」
彼を嗜める錫屋は、同年代か後輩でも相手にしているような口調だ。東阿が眉を吊り上げる。錫屋が初めて探偵事務所を訪れた時は、これをどうにか祓ってほしいと依頼してきた筈ではなかったか。随分と馴染んでいるようだが、相手はボティスでは手に負えぬと判断された怪異である。それも、契約を交わして行動を縛っている訳でもない状態だ。東阿ならそんな迂闊な真似は出来ないが、錫屋は怪異に関してはてんで素人なのである。
「……スズヤ。その、ベルって?」
「まあ、呼び名が無いと不便なんで」
錫屋に憑いたまま放置されている怪異は、得意気に歯を見せた。鰐のように鋭い牙ばかり並ぶ口内は人間とは似ても似つかない。雑に人の形を真似ている彼は、人とは根本的に別種なのだ。寧ろ、ボティスと同種と言うべき存在である。
「……確かベルって、貴方の家の犬の名前でしょ?」
緊張感の無い遣り取りに、東阿が眉間を揉んだ。悪魔使いとして代償を払った上でボティスと契約をする東阿としては、錫屋とベルの定義不詳の距離感は異様だった。


 山の腹を貫通する廃トンネルが、錫屋の友人達がいるであろう現場である。
 行き先を確認したタクシーの運転手は怪訝な顔をしたものの、田舎は信号の数も車の通りも少ない所為か、移動は殊にスムースだった。

 崩落事故は立地上の観点や予算の問題から、瓦礫の撤去や補修工事が困難であった為、新たに山を迂回する道路を作ってトンネルを閉鎖する事で始末が付けられていた。よって、崩落したトンネルの残骸は、未だ山に残っているのだ。
「アイツら、絶対バカだ。普通こんなとこ入らねえよ」
タクシーを見送った錫屋が友人の愚行を嘆く。トンネルの入り口には木板とテープで塞がれていた跡があるが、既に人が出入りできるスペースがこじ開けられていた。そこから吹き込んでくる風は、笛の要領で高い音を響かせている。それは人間の悲鳴と同じ音域であり、一層の不気味さを与えていた。


 人の目が無い事を確認すると、ボティスは人の姿から蛇に戻った。自力で歩くのが億劫だとでも言うように、マフラーの如く東阿の首に巻きついてしまう。
「ひとつ忠告しておくが、人間を捜索するのは安易でも、奴等を心身共に無事な状態で親元に帰してやるとは保障しかねるぞ」
人ならざる視界には、成仏できない数多の霊魂が怨霊となって彷徨する様が映っていた。悪魔たるボティスにとって、人間の霊魂程度なら如何様にも始末できるが、既に悪霊に憑かれて衰弱した生身の人間を治癒できる訳ではない。如何せん、彼等は滞在時間が長過ぎた。錫屋は電話度越しに聞いた正気とは思えない友人の呻きを思い出して、苦々しい思いで頷いた。
「……それでも行方不明のままにしておくより良いよ」
錫屋の声には、悲痛な響きがあった。その言葉を了承と取って、東阿達はトンネルの内部に足を踏み入れた。


 三人分の足音が、トンネル中で反響する。
 ボティスを巻いた東阿を先頭に、懐中電灯で進行方向を照らしながら構内を捜索する。時折耳元で囁くような呪詛は、決して空耳ではない。東阿はそれらに引き込まれぬよう、意識的に呼吸を深くしながら暗闇を歩き続けた。
 その後ろに続く錫屋は、東阿のような霊に対する感受性が無い分だけ無防備だった。無念の死を遂げた人々の嘆きこそ聞こえないが、懐中電灯しか頼れない暗闇の中というだけで充分に恐しかった。
 加えて、暗闇だというのに、四方八方からの視線を感じる。冷ややかな指に手筋を辿られるような悪寒。東阿という女性が同伴している手前、錫屋は情けない事を言わないが、一人なら絶対に泣き言を漏らしている。深淵という形容が相応しい廃トンネルに背筋が寒くなる一方であった。
「スズ、顔が真っ青」
「さ、さわんな」
一方、人外は緊張感をまるで持っていなかった。錫屋の横を歩くベルは、散歩と変わらぬテンションで歩んでいた。
「震えてるから暖めてやろうと思ってさ」
東阿の持つ懐中電灯には羽虫が集まり始め、光を遮って不安定に影を瞬かせていた。揺れる影を眼で追いながら、錫屋は東阿から離れないよう足を進めた。
「そういう震えじゃねえし」
人外と人間の価値観は噛み合わない。錫屋の声が狭いトンネルの中で反響し、空気を過分に揺らす。余裕の無さが虚勢を張らせ、心細さが饒舌を生んでいた。
「そもそも何でついて来たんだお前。俺の友達の事は邪険にしてたじゃん」
錫屋がベルを祓いたがったのも、彼が友人に悪質な嫌がらせをしていたからだった。錫屋を遊びに誘ったのが気に食わないという理由で、女学生をキャンパスの真ん中で宙吊りにした全科もあった。
「まあ、スズと親しい奴は大抵嫌いだけどな」
懐中電灯の光が屈折して、壁や天井などあらぬ所ばかりを照らしだす。次第にフィラメントが焼けつく音をたて、光が弱くなっていく。嫌な予感を感じ取って息を詰める錫屋を他所に、ベルは至ってマイペースに喋り続ける。
「放っといたらお前一人でも勝手に探すだろうし、小娘と凡骨悪魔に任せるのも危なっかしくて到底見てられねえ。ほら、俺はお前の守護霊だから」
胡散臭いと錫屋が悪態を吐いた。同時に、硝子の割れる音がした。
 東阿の手にしていた懐中電灯の照明部が爆ぜたのだ。

 完全な暗闇に包まれると、錫屋は体内に押し込めていた恐怖が喉から逆流しそうになった。
 この空間に堆積した無念が、重力となって肩へ背中へと伸し掛かり、押し潰されそうになる。逃げ出したい気持ちに反して、泥に浸かっているかのように足が動かない。辛うじて動く横隔膜で呼吸を継続するも、吐く息は荒い。肺の浅い部分までしか供給されない酸素に、絶望を覚えた。眩暈が錫屋を襲う。
「な?」
ベルは蹌踉めいた錫屋を受け止め、彼の背を擦った。ベルの声音は、この為に来たのだと言いたげものだった。事実、錫屋は彼の手が触れた部分から楽になっていく。触れられた箇所から伝わる熱で、滞っていた錫屋の血が再び巡りだす感覚だ。背中を往復する掌に誘導され、錫屋は漸く正常な呼吸を取り戻す事に成功した。

 一方、東阿は自力で踏み留まったらしく、荒い呼気を吐き出しながら調子を整えていた。
 ベルとボティスの異形の瞳だけが、闇と真っ向から対峙する。人間の怨みだの辛みだのを顧みない、人の世の営みから外れた者達だけが、毅然とトンネルの怪を見定めていた。


 東阿が予備の電灯を点けると、不安定な空気はひとまず掻き消えた。安定して足元を照らすライトは、細身ながらも抜群の照度を有していた。
「そろそろ中間地点まで来てても良い頃なんだけど」
トンネルの全長は確かに長いが一本道だ。そろそろ崩落したポイントに行き着く筈である。東阿が足元の瓦礫を軽く蹴る。カツンと音を立てたコンクリートの塊は、トンネル全体に音を反響させながら転がっていく。それに倣って、錫屋も足場の砂利を蹴った。

 「おぉい、探しに来てくれたのか!?」

 自分達の進行する方向から人が走ってくる様子を見て、錫屋は息を呑んだ。幼馴染の知った声だったからだ。手回し式のラジオ付き懐中電灯を片手に、デニムジャケットの男が錫屋に手を振っている。
「迷惑かけて悪いな」
眼の下に酷い隈を作り、すっかり汚れてこけた頬をしているが、目立った外傷も無い。錫屋の幼馴染は、東阿にも申し訳なさそうに会釈した。幼馴染に会えて心底安堵した顔をする錫屋を、ベルは面白くないと言わんばかりの眼で見ていた。
「もう反対側の出口の方が近いんだぜ。皆そっちで待ってんだ。さ、行こう」
再会を喜んで伸ばした二人の手を、ベルが舌打ち交じりに阻んだ。
「スズヤ、反対側の出口なんてものは無いぞ」
東阿の肩の上から、ボティスが鎌首を擡げて忠告する。
「崩落したトンネルは瓦礫で分断された。人間が通り抜けできるようにはなっていない」
一体何処に誘い込む気でいたのかと詰問する蛇の瞳は剣呑だ。ボティスは緩慢な動作で東阿の肩から滑り降り、男との間を詰める。

 ボティスが男に飛び掛るより早く、ベルが男の鳩尾を蹴り飛ばした。
「あーあ、容赦無いんですから。憑かれてるだけで身体は生身のニンゲンですからね」
鳩尾に人外の爪先を捻じ込まれて地面に転がった男を一瞥して、ボティスがベルを嗜める。ボティスはベル相手には、客を相手にする時よりも慇懃だ。
「知ってる」
崩落事故の霊に憑かれて身体を乗っ取られていたらしい男は、泡を噴いて痛みに悶えていた。下手をすれば死んでいたに違いない。けれどベルは何処吹く風である。
「コイツは一度ブン殴っておきたかったんだよ」
錫屋と親しい奴は大抵嫌いだと言うベルの主張は冗談でも何でもなかった。加えて言えば、その嫌いの最高峰こそが、その幼馴染であった。殴るどころか急所を蹴り込んでいたベルの行動力に、錫屋が眼を白黒させる。

 陸に打ちあがった魚のような動きで痙攣する錫屋の幼馴染は、次第に黒い泡を吐くようになって、仕舞いには多重音声じみた音質で「さみしい」「いたい」「くらい」と喚き始めた。それは此の世への未練であり、生者への嫉妬であった。次第に、人の不幸を不謹慎にも娯楽化して現場を訪れた愚か者達への怒りの言葉も混じる。彼に憑いていた数多の霊が、一つの口から怨み辛みを洪水のように吐き出した。
「如何せん、霊が多いな。全部食おうと思うと時間がかかるぞ」
ボティスは彼からはみ出た霊魂を鷲掴んで引き剥がしては、遠くへ放った。けれど、トンネル自体が多量の霊の温床なのだ。ボティスが怨霊共を腹に収めるには、骨が折れる量だった。かといって、引き剥がすだけでは、また直ぐに取り憑かれてしまう密度でもある。
「除霊はトンネルから出た後。他の連中も見つけてさっさと帰ろう」
男を引き摺ってトンネルの端に寄せ、東阿はボティスに指示をする。帰還を急ぐ東阿の判断は正しい。錫屋のように何の訓練もしていない人間が長居するには、トンネル内は瘴気が強過ぎた。
「こんなところにずっと居たら、木乃伊取りが木乃伊になる。でしょ、スズヤ」
既に悪寒が止まらない錫屋を横目に、東阿はボティスに残りの生者達の捜索を急がせた。


 四人は無事に正気を失った生者達を見付け、彼らを引き摺って元来た道を戻る。
 その間も、トンネルの異常な湿度と冷気は一行の身体に纏わり付いていた。
 東阿と錫屋の二人がかりで暴れる青年を取り押さえて連行し、ボティスとベルは両手に一人ずつ男を取り押さえ、合計五人の死に損ないを回収していた。最初は暴れる彼等を失神させて運搬する予定でいたが、如何せん既に霊に身体を乗っ取られている為に気絶状態でもゾンビのように身体が動くので上手くはいかなかったのだ。
 力仕事をさせられているボティスは、自分は頭脳労働担当なのにと嘆いている。錫屋と一人の男を分担している東阿も、蹴られたり引っ掻かれたりと被害を受け、相当苛立った様子である。

 トンネルを抜けると、外界の空気が如何に清浄なものであるかが身に沁みた。トンネルの中では寒さすら感じていたというのに、錫屋の額は汗で酷く濡れていた。平然としているかに思われた東阿も、濃いアイラインが滲みつつあった。
 トンネルを抜けたと同時に、一同は早急にトンネルの入り口を塞いだ。すると怨みがましい風の音も止んで、暴れる青年達は若干大人しくなった。けれど、正体を失ったまま、小刻みに痙攣を続けていた。ボティスによれば肝試しにトンネルに入ったメンバーは五人で全員らしいが、いずれも自我がはっきりしていない要介護人である。このままではタクシーを拾って帰るのは到底不可能だった。
「まず救急車を呼びますね」
錫屋が携帯を出すが、そこは圏外だった。
「というより、現代の医者は霊障なんて診てくれやしないって」
良くて精神科に回されるだけ、と東阿とボティスは声を揃える。
「コイツ等の中に入り込んだ怨霊を片付けたら大人しくはなるだろう。現代の医療だの科学だのが出張るのはそこからだ」
性別や年代すら異なる数多の呪詛を吐き出す青年を一瞥して、ボティスが面倒臭そうに顔を顰めた。後遺症や生死の保障まではしかねると念を押す彼だが、最大限手は尽くすつもりらしい。ボティスは彼等から霊を素手で引き剥がしては、それを口に突っ込んでさして美味しくもなさそうな表情で嚥下した。

 東阿は懐から剃刀を出してライターで刃を熱消毒すると、青年の腕を抑えた。
「スズヤ、瀉血するから手伝って」
中世ヨーロッパの悪名高い医療法の名が出てきた事に錫屋は目を剥くが、東阿の眼が真剣だったのでつい頷いてしまった。錫屋は陸に上がった魚のように痙攣する青年を押さえつけ、瀉血する東阿のサポートに回る。
 切られた腕の皮膚から滲み出たばかりの筈の血液は、黒く泡立って醜悪な音と供に大気へと離散していった。血と共に彼等に憑くものが出ていく。元はといえば、瀉血は血と共に身体に巣食う悪しき物質を流し出すという発想の元で生まれた民間療法だ。古典的ではあるが、この場合は適切な処置と言えた。
「これ、憑きものを出し切るより先に本体が出血死しません?」
しかし如何せん効率が悪かった。その上、錯乱状態の人間を押さえつけて刃物で傷付ける絵面は、目撃されれば即刻通報案件だろう。
「でも私はこの方法しかできないから」
やるかやらないかの二択だと言われては、錫屋も中止を躊躇する。
「ベル、お前は何か出来ないの?」
作業的にと霊魂を口に詰め込んでいくボティスと、特にも手伝わず傍観するベルを見比べ、錫屋が声をあげた。
「手伝ってほしい?」
地面に吐瀉物をぶち巻ける青年を横目に見ながら、ベルは面倒臭そうに聞き返す。トンネルの中では錫屋の守護霊として振舞っていた彼だが、錫屋に直接的な危険が無い今は暇をしていた。
「頼むよ、バカだけど友達なんだ」
ボティスの足元では、錫屋の幼馴染みが奇声をあげて悶え、また別の男は白目を向いて呻きながら鼻血を出していた。本当に救えないバカだと東阿は重ねて罵ったが、錫屋もそれに頷く他に無い。
「今の萎らしい頼み方、格段に可愛かった。オッケー、やろう」
阿鼻叫喚の男達が転がる中で、ベルは緊張感の欠片も無く宣う。飄々とした態度に一抹の不安を覚えた東阿と錫屋が顔を見合わせる。
 けれど、疑いは直ぐに驚きに変わった。
 みるみる内に、青年達が凄まじい勢いで口から黒く泡立つ瘴気を吐き始めた。そして口だけでなく、目や鼻からも勢いよくソレが噴き出していく。醜悪な音と共に、異常な速度で悪霊が大気へと消えていく。

 徐々に青年達の痙攣は治まり、心拍数も安定へと導かれていく。ベル曰く、後は安静にしておけば平気であるらしい。瘴気が消えれば、電話も繋がるようになった。僻地故に電波は弱いものの、これで麓まで降りずに救急車やタクシーを呼べる。
「まあ、俺はスズの守護霊だから」
錫屋から感心の眼差しを受け、ベルが気障な仕草で髪を掻き上げる。

 けれど、東阿は釈然としない顔をしていた。ベルの権能に心当たりがあったのだ。
「……悪霊を追い出せるのは悪霊の頭って訳?」
ボティスが気まずそうにベルを伺うが、ベルは嗤うのみであった。
「やっぱりベルって悪霊の類なのか?」
分からないのは錫屋だけである。
「人聞きの悪い事言うなよ。もしサタンがサタンを追い出すなら、それは内輪で分れ争うことになる。それじゃあ、その国はどうして立ち行けるんだ?」
ベルが引用したのは、新約聖書だ。それも、神の子が悪霊に憑かれた人を奇跡によって癒したにも関わらず、悪霊の力を持って事を為したのだと疑われた際の反論だった。東阿は別段信心深い訳ではないが、悪魔を使役する手前、偏りはあるものの知識はある。
「内輪で争うのも、混乱も無秩序も、貴方達の得意とするところでしょう、ベルゼブブ」
元より不道徳な存在なのだから。そう反論した東阿を、ベルは剣呑な瞳で睥睨していた。一介の大学生に憑くには過ぎた悪魔である。けれど、同時にボティスが手も足も出せず遜る理由も解けた。ベルゼブブは、ソロモン王の遺言や新約聖書に悪霊の支配者や地獄の王として登場し、ミルトンの失楽園では、サタンの次席の悪魔として描かれる悪魔だ。
「言ったよな。人聞きの悪いこと言うなって」
高位存在からの威圧に、ボティスの顔色は凄まじく悪くなった。蛇の姿に戻って、錫屋の背後に回って気配を殺している始末だ。ボティスの醜態を確認した東阿は、圧倒的不利を認めて両手を挙げる。降参のポーズだった。
「いいえ。納得してただけ。そもそも貴方の機嫌を損ねても何のメリットも無いっていうか」
ベルゼブブは古代宗教において霊魂の象徴として扱われ、悪霊を運ぶ存在だった蝿を統べる王である。病を駆逐する権能と、嘗て豊穣神であった側面を併せ持つ彼ならば、霊障の治癒など易い筈である。


 さっさとベルから興味を引っ込めた東阿は、救急車を呼んでいた。適当に非科学要素を省いて事情を説明する弁舌は手馴れたものだった。ボティスも早く解散したいようで、電話越しにタクシーを急かしていた。
「お前、何だか大層な名前が付いてたんだな。何かゲームで聞いた事ある感じだ」
「ベルで良いぜ、別に」
ただ、錫屋だけは置いてきぼりにされたまま、能天気に会話を蒸し返していた。

 そんな彼に、アガリア探偵事務所からの高額な請求書が来るのは翌日の事である。



back
top
[bookmark]



×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -