天邪鬼な紫煙1

 調理室は冷暖房の設備は無いが換気はしっかりしているから、ニコチン中毒者には最高の場所だ。換気扇をフル稼働させ元々一部割れている窓を全開にして、一番風通りが良い場所の食事用の長机に腰掛けて煙草に火を点ける。涼しさと速やかに流れていく煙を確認して、今年の夏もそれなりに快適に使えそうだとぼんやりと考えた。どうせ男子校の、それも県内有数の馬鹿ガキが集まる男子高の調理室なんて、まともに使いはしない。現に冷蔵庫を私物化してヨーグルトを幾つか置いている奴が居るが、そいつも咎められた事はない。
 窓からの風に混じって室内に入ってきた桜の花びらが長机の上に乗った。よくよく見れば、窓からの日光と蛍光灯の光を反射するリノリウムの床にも幾つか花びらが落ちていた。窓が割れているから外からの異物が入り易いのだろう。窓越しに随分貧相になった桜を見れば、春ももう終わるのだと実感するが、この高校で過ごす二年目の夏がやってくるという感覚は遠い。何時も終わりにだけ目を向けてしまう。流れる煙を目で追う、意味も無くセンチメンタル。何も考えずに煙を吐くのが好きだ。けれど何もしないと具体性の無い感傷が頭をもたげてくる。
「敷島」
口に出して呼んでみれば、音が空気にとけて換気口に吸い込まれていくようだった。敷島。名を何度か反芻して、顔を思い浮かべる。この高校では珍しい染色していない真っ黒な髪、外で遊んだ経験があるのか疑わしいくらいに白い肌。涼しげな眼を彩る長くて濃い睫毛。大人びた顔に、幼さを残す短い前髪。痩せた身体。奴と出会って、もう一年が経とうとしている。その日は五月晴れで、硬いコンクリートの床を背にして此方を挑発的に見て笑っていた。その顔が頭から離れない。厄介な奴を好きになったと思う。敷島はこの問題児だらけの学校でも異色の存在だ。偏差値マイナスと揶揄されるこの学校の生徒にして模試で上位の成績を叩き出した優等生だからじゃない。俺達のように良識を反骨精神と好奇心で抑え込んで年相応の非行を繰り返す不良少年など可愛いもので、きっと敷島には良識とか倫理とかいうものが最初から欠落しているのだ。王子だとか天使だとか囃される顔に反する自堕落な性生活をおくっている悪魔で、悪意も無く人を破滅させる。敷島がこの不良の掃き溜めみたいな高校に来たのだって、中学で教師との肉体関係が発覚したからだと真しやかに噂されているのだから救えない。
 何でそんな奴に惹かれたのだろう。今日何度目かの自問自答に、答えの代わりの紫煙を吐いて長机に肩を付けて寝転んだ。同性だとか倫理感の欠如とかの膨大な問題点を差し引いてもなおお釣りが来るような綺麗な顔に惹かれたのだろう。と簡単に片付けてしまえたら良かった。それならこんなに悩んだりしないのに。

 窓からの突然の侵入者に思わず煙草を落とす。
 外から走り高跳びでいう正面跳びの要領で窓枠を跨いだソレは猫のような靭やかさをもって床に転がり着地の衝撃を殺してから立ち上がった。窓から勢いよく登場するのは非常識な奴だと思ったが、ここは一階だし扉を丁寧にノックして入る輩の方が少ない環境だからそこまで驚く事じゃない。問題は転がり込んできた人物がついさっきまで思考の殆どを占めていた敷島だった事だ。動揺する俺を余所に敷島は出入り口の扉とその奥の廊下を指差して坦々と述べる。
「僕はそこの扉から出て、あの角を左へ曲がっていった」
そう言い終わらない内に、鋭い怒声が響いて外の喧騒が此方のすぐ近くに迫っている事を察知し合点がいった。複数人の足音が近付いてくる。敷島は扉とは反対方向に歩いて食器棚の陰に隠れるようにしゃがみ込んだ。怒鳴り声の主が調理室に顔を出すのと俺が煙草を拾うのはほぼ同時だった。
「おい、敷島がそっちに逃げたろ!?」
複数人の舎弟を連れた男が眼を血走らせて怒鳴るように尋ねた。バットを握り締めた右手は関節が白くなる程に力が入っていた。
「あいつ、また何かしたのか」
さっさと敷島の言葉通りに嘘の道を案内してこの男を撒いた方が良いのだろうと思ったが、それだけでは何だか癪で一旦シラを切った。
「煩せえ! 来たのか来てねえのか!?」
怒りで赤かった男の顔が更に赤くなって地団駄を踏んだ。言うのが憚られるのだろう。大方検討は付いていたからそれ以上は追及せずに出入り口を指差した。
「あの角を左に走ってった」
言うや否や窓から男達が土足のまま入ってくる。その人数が予想以上に多くて、よく逃げ遂せたものだと食器棚の方に眼をやる。敷島はもう隠れるのを止めていて欠伸交じりに男達の背中を見ていた。
「君は何時も僕に罪を着せたがるね」
敷島は部屋の隅に備え付けられた掃除道具箱から箒を取り出しながら言った。俺の言葉に不満を持ったらしい。
「どうせオンナ寝盗ったとか、そんなんだろ」
土足で大勢の人間が上がり込んだ所為で砂が大量に落ちた床を箒で掃く敷島。ついでに床に落ちていた桜の花びらや部屋の隅に作られてしまった埃等も片していく。人間関係がだらしがなく爛れきっているというのに、こういうところは寧ろ几帳面だ。
「別に寝盗った訳じゃない。彼氏のいる女と寝ただけで、その彼とやらが偶然にも此処の生徒だっただけだ。そもそも彼女が彼を捨てたりしなければ僕が盗った事にもならなかっただろう」
「普通は彼氏がいる女と寝ねえよ」
そう。と適当な相槌を打った敷島は履いたままだった外履きを脱いで泥を落とした。
「じゃあ今度彼氏がいる女性に声をかけられたら、普通は彼氏がいる女は他所の男と寝ないのだと説くようにしよう」
嫌味にしか聞こえない言い方だが、敷島の視点だとこれが正しいのだろう。敷島の整い過ぎた外見は誘蛾灯のように人を引き寄せる。引き寄せられるのは女達だけではなく、俺を含む男達もで。更に凶悪な事に敷島はバイセクシャルらしく、どちらも拒む事無く相手にしてしまう。
 今回のように学生の間で寝盗った寝盗られたと騒ぐ分にはまだ良い方で、去年の秋には教員が一人敷島の為に離婚騒動を起こした挙句退職した。浮気相手である敷島への愛情の大きさを示す為に妻に離婚届を叩き付けたものの全面的に非の無い妻への離縁状に身内からのバッシングが酷く、妻の父が職場に乗り込んで来たり裁判沙汰になったりと泥沼化して学校には居られなくなったのだ。恐ろしい事に敷島が人の恋人の心を奪ったり人を破滅へと追いやったりする事に悪気は無い。もっと言えば弄んでいるつもりも無いらしい。敷島もその時から決定的に学校中から白眼視されるようになったが、飄々と登校を続けている。サイコパスだと思った方が良いのかもしれない。

 仕上げに塵取りで掬い取った床の塵を窓から外に還している敷島を横目に悪態を吐いた。
「……同情するわ」
「どうも」
清掃を終えて冷蔵庫を漁り始めた敷島はカップ入りのプレーンヨーグルトを選んで出すとぞんざいな返事をした。
「テメエじゃねえよ。お前に振り回されて今校内を駆けずり回ってる奴らと、お前に引っ掛かった女に対してだ」
確かに敷島が人を引き寄せるのに悪意は無いが、美しきは罪だとか悲劇で片付けるには度を越えている。美しさよりも断らない事が罪だ。こんな事を幾度か繰り返しているのだから、いい加減学べば良いのだ。
「なら匿わずに突き出してやれば良かったんじゃないのか?そうした方が君も彼等も気持ちが良いだろう」
円の面積の公式すら碌に覚えていない劣等生に学習能力を疑われているとも知らず、敷島は未開封のヨーグルトを投げて寄越した。匿った報酬のつもりらしい。
「本当にそうすりゃ良かったな」
「でも君はしないだろう」
敷島がヨーグルトを片手に持って寄って来た。
「確かにあの場で君に突き出されていたら、僕はあのバットで彼の気が晴れるまで滅多打ちにされてしまうだろう。良くて鼻梁が曲がる程度、悪くて腕の一本か二本が折れる程度の制裁は避けられないだろうし、君もそれを間近で見る事になるんじゃないか?もっとも、暴力沙汰は君の得意とするところではないし、お気に入りの調理室を血で汚すのも御免だろう?」
何一つとして間違いではなかったので否定の言葉を飲み込んだら敷島が長机に乗ってきた。男二人分の体重を受けた長机の天板が微かに軋んだ。

 暫く二人とも無言でヨーグルトを食べた。ひんやりとしたヨーグルトが喉に落ちていく感覚は心地よかったが、すぐ隣にいる敷島に意識の大半を奪われていて味についてはあまり頭に入ってこなかった。
 敷島は匿ってやった理由を俺の性格から判断していたが、最大の理由については触れられないままだった。敷島が述べた理由は間違いではないが、正しくもない。実際のところ暴力沙汰は傍観者で居られる限りは全く平気だし、ここが気に入った部屋でなくとも匿うだろうから。確かに敷島に振り回される奴等に同情するのは本音だし、一度痛い目を見て懲りてくれれば良いとも思っている。だが敷島が手酷く痛めつけられる事を心から望んでいる訳ではないし、そもそも敷島に振り回される連中に同情的なのは俺も敷島に振り回されている人間の一人だからだ。敷島への好意を自覚するも、生々しい痴情の縺れや爛れた性を見せつけられ奴が自分に好意を抱く人間をただの物好きとしか思っていない事も知ってしまって、想いを口に出すべきでないと十二分に理解したのに未だにこの奇人を好いている。結局のところ、俺が敷島を好いているから助けただけで、報われないと知っているから敷島が気に食わないのだ。敷島も十分阿呆だけど、その阿呆さを知っていてなお見限れない俺はもっと馬鹿だ。

 そんな不毛な事を隣でヨーグルトを掬っている敷島の顔を盗み見つつ考えていた。
「ところで、今日はもう吸わないのか」
ヨーグルトを食べ終えた敷島が問う。視線の先には机の上に放置されていた煙草の箱。スライド式二重箱の青いパッケージが机の隅に押しやられていた。まだヨーグルト食ってんだろ。そう言いかけて口を噤んだ。カップはとうに空で、自分がぼんやりとスプーンを咥えているだけの間抜けな状態だと気付いたからだ。敷島はそんな俺を喉の奥で笑って風下に移動する。敷島は煙草そのものは一切吸わない癖に何故かその煙に酷く執着していた。此方は煙草の臭気と煙に気を使って換気を良くして一人で吸っているというのに、わざわざ煙を吸いに来る。
「制服、ヤニ臭くなるぞ」
このタイミングで煙草に火を付けるのは癪だったが、ここで催促に応えてやらなければ敷島は俺の隣から去ってしまうだろう。そう思うと惜しくて、渋々煙草を出した。
 敷島と俺の唯一の接点、ジタン・カポラル。高校生が持つにしては珍しい煙草だと思う。もっとも、高校生が喫煙する事自体が違法行為だから珍しいと言うのは間違っているかもしれないが、喫煙者なんて掃いて捨てる程沢山居るこの学校でジダンを吸っているのは俺が知る限り自分だけだ。敷島と俺がまともに喋る機会が望めるのは偏にこの煙草のお陰だと言っても過言じゃない。
「……懐かしい」
立ち上る紫煙を眼で追いながら敷島が呟いた。
「お前んち牧場か何かなワケ?」
ジタンは黒煙草で、独特の発酵した臭いがする。その臭いは贔屓目には檸檬を絞った濃い目の紅茶と評されるが、牧場や肥料と例えられる事の方が圧倒的に多く、大抵の人が嫌う臭いだ。だからそれを懐かしがるのは家が牧場でもない限り、昔は身近にジタンの愛煙家がいたのだろうという考えに至ってしまうのは自然だった。
「いいや。ただ、嗅覚というのは記憶と密に関わっていて、思い出として最後まで留まり易いのが匂いの記憶らしい」
その思い出とやらが聞きたかったのに、と思いながら適当な相槌を打った。結局何一つ分からないどころか若干会話が成り立ってないような気もしたが、敷島は大抵こうだ。好き勝手喋る癖に意思の疎通は図らない。その所為か俺は敷島の肝心な事を何一つとして知らない。知っているのは爛れた性と悪い噂と奇妙な嗜好だけ。どんな曲を聞くのかも、どんな奴が好きなのかも知らない。何処に住んでいるのかも家族構成も明かさない。強いていうなら、実家が牧場を営んでいない事がさっき分かっただけ。ジタンは誰かのお気に入りだったのか、と聞く為に口を開きかけたが、それよりも早く敷島が切り出した。
「そもそも匂いというのは、物質だよ。ヒトの場合、気相中で蒸散し微粒子状或いはガス状となった物質を呼気と共に鼻孔から導入するか、食事時等に飲食物の臭いを呼気と共に口腔経由で導入するか、いずれかのルートを辿って物質を体内に導入し、鼻腔の天井部分にある嗅粘膜の粘液に溶け込ませ、嗅粘膜にある嗅細胞が持つ嗅覚受容体が粘液に溶け込んだ臭いとなる物質を捕捉する事で嗅覚が機能する訳だ」
此方と敷島の偏差値の差を一切考慮されない説明が続いた。多分、俺が詮索しようとした事を察知したのだろう。小難しい話にして話題を終わらせにきている。
「匂いとなる物質を感知した事より発生したシグナルは大脳辺縁系に存在する嗅球を経て、側頭葉の嗅覚野、海馬、扁桃体、視床下部に投射される。過去に嗅いだ匂いと出合った時にその匂いを切欠に当時の記憶や感情等を思い出すのは、嗅覚が記憶を司る海馬や情動に関与する扁桃体を経由する所為だと言われているんだ。また、発生学的に新しい脳であり人間らしい情動を司る大脳新皮質と比べ、海馬や扁桃体は本能行動に関わる原始的な脳である大脳辺縁系に属していて、それ故に食欲、生殖欲、睡眠欲などの本能行動や、記憶、喜怒哀楽といった情動は嗅覚の影響を強く受けるとされている」
「ああ、そう。全然意味分かんなかったんだけど」
素直に降参すれば敷島は笑って話を切り上げた。敷島は詮索される事を嫌う。あまり深く追及するのを避けて興味が無いという素振りを見せた方がよく喋る。その事を分かっていた筈だったのに、今日は失敗だった。これでは一体何の為に喋っているのか分からないが、俺はとりあえず敷島が隣に居る時間が長引いて、俺に向かって話す声が聞けて、あわよくば敷島に関する新たな情報が更新されれば僥倖だと思う事にしているのに。
 ゆっくりと紫煙を吐き出す。風に沿って流れる薄い煙が敷島を包んだ後、換気扇がある方向へと消える。長い睫毛を伏せて副流煙を堪能していた敷島は静かな声で唱えた。
「タール、ニコチン 、アンモニア、一酸化炭素、二酸化炭素、窒素酸化物、フェノール類」
抑揚に欠けた声で唱えたのは煙草に含まれる有害物質で、それは何度か敷島の口から繰り返し聞いた事があった。
「後はナフチルアミン、カドミウム?」
何度か聞かされる中で覚えてしまった有害物質の名前を引き継ぐ。
「案外君は物覚えが良いようで驚いた」
敷島がほんの数秒此方を見たが、すぐに前を向き直って、言葉を続けた。ニトロアミン、ベンツピレン、ホルムアルデヒド、ポロニウム、ベンゼン、その他発癌性物質諸々。


prev← →next




back
top
[bookmark]



×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -