楽島英永の後継

 気温が着実に上がっていく梅雨明けの朝、大学を自主休講にして実家で過ごしていた昌樹は、今日付の新聞に楽島英永の顔写真が載っているのを見付けた。
 嫌に目付きの悪さが強調されたものが使われていたが、品の良いロマンスグレーの髪を後ろに流した壮年の男は、画質が悪くとも絵になる素材だったった。無感情なゴシック体で記された肩書きは、指定暴力団の二次団体の若頭。今時ヤクザ者の死など記事になりはしないが、立体駐車場からバラバラの焼死体で発見される猟奇性はエンターテイメント足り得るようだった。記事の文末には、怨恨による他殺の可能性が濃厚とある。要はヤクザの抗争だ。

 記事にされると一気に実感が襲ってきて、昌樹の掌がじっとりと湿った。
 昌樹は、楽島の後継が既に敵対組織へと報復に乗り込んだ事を知っている。
 立体駐車場の焼死体が本当は楽島英永のものではない事も、楽島英永が今なお何処かで生きている事も、何処の新聞記事にも書かれない彼等の真相を、昌樹は不本意ながら知っていた。


 昌樹は、根からの堅気である。
 正確には、ついぞ今まで堅気だった。

 昌樹と反社会勢力との関係は、至って偶発的な事から始まった。
 両親が二人揃って海外へ転勤するのをきっかけに祖母と二人で暮らせるよう引っ越した戸建て賃貸の隣が、楽島が甥と共に住み込むヤクザ屋敷だったのだ。大きなヤクザ屋敷のすぐ隣のこぢんまりとした家を我が家だと紹介された時は、幼いながらに悪い冗談ではないかと疑った。聞けば、家を選んだ祖母は内見をVRで済ませており、間取りや日当たりを確かめてはいても、隣家が何者かまで知らされていなかったようである。膝が悪い祖母を相手に何故実際に現地を見て回らなかったのかと責めるのも酷で、家を気に入ったふりをして暮らすまま、昌樹はヤクザ者と懇ろになってしまったのである。
 というのも、屋敷に住み込む楽島英永の甥である楽島義英が、昌樹を酷く気に入ったのだ。
 血腥い職業の大人達に囲まれていた反動か、義英は堅気で二学年年下の昌樹を可愛がった。祖母が子供の友達付き合いに寛容で放任主義を貫いていたものあって、幼かった昌樹は特に何も考えずに彼に懐いた。

 義英は楽島英永の兄の子であったが、外見の相似点はバランスの良い四肢と恵まれた身長くらいのもので、顔付きに関しては昔から血の繋がりを全く感じさせなかった。楽島が胡散臭くとも紳士然とした雰囲気ならば、義英は顔付きからして野性味があるのだ。義英は、眼光の鋭い無愛想な少年だった。
 義英の身長は、中学の半ばで鴨居の高さを越え、同年代の誰より大きく逞しかった上、肉体に相応以上の暴力を備えていた。。昌樹に直接的な場面を見せた事はないものの、時折血の匂いをさせて物騒な表情を見せる事もしばしばだった。昌樹は、ヤクザ屋敷の大人達以外が義英に畏まらずに喋りかけている所を見た事が無かった。それどころか、義英と同学年の男子学生が近所でうろついている事すらなかった。幼い昌樹でも、義英は家柄の影響がなくとも畏れられたり疎まれたりされる存在である事を薄らと察する程である。そして義英自身も、遠巻きにしている同年代を虫けらにしか思っていないようであった。
 しかし昌樹だけには、義英も歳相応に冗談を言ったり悪戯っぽく笑いかけたりしてくれた。人を殴り慣れた大きな手で、昌樹の頭を撫でる時は柔らかく開かれるのである。誰から奪ったか知れない財布を片手に、駄菓子を真剣に吟味する昌樹に付き合ってくれるのだ。そんな特別扱いへの擽ったさは、両親と離れて暮らさざるを得なくなった幼い昌樹を絆すには充分だった。だから昌樹は、義英の堅気とは無縁の性分を知りつつも彼に懐いてしまったのだ。

 昌樹が初めて楽島英永に会ったのは、小学校五年生の夏休み。過剰な猛暑と相次ぐ台風の為か、蝉の声が滅多に聞こえない夏だった。
 昌樹が浅はかにもヤクザ屋敷のインターフォンを押したのは、祖母に切って貰った西瓜が余りにも大きくて義英にも分けてやりたいと思ったからだ。当時の義英は、広大な屋敷の二階部分に便所程度の小さな部屋を貰って暮らしていた。
 ヤクザ連中は無害な近所の子供の闖入に驚く程寛容であったが、義英の住環境と淡白過ぎるの大人達の態度から、昌樹は義英の置かれている複雑な身の上を悟った。
 独居房のような義英の部屋で西瓜を分け合った日の帰り、玄関に続く廊下で楽島英永と遭ったのだ。

 昌樹は初対面の時から楽島が苦手だった。
 直感的な恐怖に幼い肌が粟立つ感覚は今でも鮮明だ。若頭だと知っていたからではない。同時の楽島はまだ老獪という言葉が似合う歳ではなかった筈が、彼が纏う本心を晒さずに人を絡め取る事に長けた者特有の妖しさあり、それがどうにも苦手だった。昌樹は子供ながらに彼の身体に染み付いた暴力の匂いを無意識的に感じ取っていたのかもしれない。あるいはその眼に宿る冷酷さを覗いてしまったのか。
 子供の直感は得てして鋭い。殊に、自身を庇護しない大人に対する危機意識は敏感だ。昌樹は楽島に、そういう大人の気配を感じていた。甥の友人たる昌樹は勿論、扶養している甥も、ヤクザ屋敷の面々も、自分自身ですら興味を持っていないであろう熱の無い眼差し。腹の底が冷えていく居心地の悪さ。友人の叔父だというのに、得体の知れない物と対峙しているプレッシャーが昌樹の交感神経を蝕むのだ。
『お前さん、火事場で逃げ遅れて死ぬタイプだな』
楽島はすれ違い様、昌樹を一瞥して口を開いた。戸惑った昌樹だったが、これ以上の会話は無かった。
 けれど昌樹は成長するにつれ、ヤクザ者の倅と分っている義英との縁を深める度に、その台詞が頭を過ぎるようになっていた。楽島は昌樹に一切の関心を寄せなかったが、人の本質を見る眼は薄気味悪い程に確かだった。


 昌樹の引き際を見極められずにずるずると逃げ遅れる鈍臭い性分は、二人を単なる友人から幼馴染にした。それだけでは飽き足らず、義英の募らせた執着を拒みきれず肉体関係を持つに至らせた。

 昌樹が義英に手を出されたのは、中学卒業の間際だった。
 高校受験の合格通知が届いた日の晩、義英を昌樹の家に招いてケーキで合格祝いをした。受験期には自粛していたテレビゲームで対戦をして、一緒に風呂に入って、そのまま義英は昌樹の部屋に泊まる予定だった。
 昌樹の部屋は二階にあり、膝の悪い祖母は滅多に踏み入れる事がない為に散らかり放題だった。秘密基地めいた風情すらあった。
『何で俺の高校を受けなかった』
部屋の戸を閉めるなり義英の口から出たのは、祝福とは程遠いものだった。彼の文句に詰め込まれていたのは、進路を違えようとする幼馴染への焦燥と憤りだった。

 その時初めて、昌樹は義英を恐ろしいと感じた。
 見詰められた箇所から火傷してしまいそうな、どろりと熱を帯びた執着の眼差し。劣情の色が灯る瞳。楽島の温度の無い睥睨とは真逆の、不安定な激しさを宿した獣の貌に昌樹は怯んだ。
『……別に。こっちのが制服似合うでしょ、俺』
幼馴染として培ってきた勘が、今この男を突っ撥ねてはならないと告げていた。だから昌樹は平静を装って、敢えて呑気な台詞を吐いた。
『というかさ、一緒の高校通えたとしてもたかが一年じゃん。中学でもそうだったじゃん』

 いずれは俺もお前も自立しなきゃならないのに。なんてその場で言う度胸は無かった。
 義英の大きな手が、昌樹の手首を掴んで離さなかった。義英の躯体が同年代の男子よりも大きいのは当たり前の事実で、日頃は意識するまでも無い事であったが、その時ばかりは自身が縮んだような無力感を覚えた。身体を引き寄せられれば、昌樹の背が緊張の汗で湿る。
『家近いんだし。別に、高校くらい』
昌樹は愚かにも、この時になって漸く自身が義英から向けられていた好意が常軌を逸したものだと気付いた。
『高校だけか』
『……高校だけだよ』
それはその場凌ぎに軽々しく断言すべきものではなかった。義英は安堵の顔で「高校だけだ」と反芻し、昌樹の口を吸った。
 その言葉は義英の中で、一種の契約として機能した。謂わば、高校以外の分野において昌樹を手元に置く宣誓だった。そう気付いた時には、口腔を塞ぐ義英の舌が反論も訂正も封じていた。

 義英の骨張った手は昌樹の服の内に入り込み、肌の上を執拗に滑って、柔い箇所を弄った。
 昌樹は女を知る前に、祖母が暮らす部屋の上階で、自身より大柄な男に組み敷かれた。
『そうだ。お前はずっと俺の傍にいるんだ』
傅かれて、昌樹は蛇に睨まれる蛙の気持ちを知った。
『は、昌樹。可愛いなァ。誰が他所にやるかよ』
全身余さず舐め回されては、昌樹は性行為を捕食行為に喩えた人間の心象を身を以て理解した。

 幸か不幸か、義英は昌樹に最後まで求めなかった。
 握り込まされた逸物の大きさに慄いた昌樹の様子を見て、義英が無言のままに折れたのだった。昌樹への執着が満たされれば無理を強いる気は無いようで、極力快楽だけを与えようと尽力した。いっそ二度と顔も見たくなくなる程に手酷くされたなら、昌樹は義英を避ける事が出来ただろうに。義英は昌樹の愚かさをよく心得ていた。
 その後も、彼を拒みきれずに度々触れ合った。身体の関係を拒まなくては、などと真面目に考えなくなるのはあっと言う間だった。昌樹を乞う義英の手が、ひどく熱かったからだ。睦言があまりに甘かったからだ。その行為の甘さは、思春期の承認に飢えた未熟な心と開発されたばかりの性欲を持て余す身体には、過ぎた毒だったのだ。

 高校だけという宣誓は、既に逃げ遅れていた昌樹にとって最終の避難勧告にも等しい。そう解釈できていたのに、結果として昌樹は判断を誤った。そうこうしている内に、義英を捨てて逃げるタイミングを逃し続け、昌樹は今もなお逃げ損ねている。


 卒業と同時にヤクザになるかと思われた義英は、大学に進学した。
 この御時世、アウトローにもインテリジェンスが必要だと叔父の楽島が判断したらしい。そして、何時の間に組長に気に入られたのか、この頃には独居房の暮らしを卒業して屋敷の一階に六畳程の一人部屋を貰うようになっていた。
 地頭と要領の良さと買われたのだという事は、誰もが察するところであった。
 昌樹への偏執を除けば欠点などほぼ無いと言って良い男が義英だ。仏頂面も無愛想も、有能で恰幅の良い男であるから貫禄を生むだけである。ヤクザの適正を十分に備えていると、誰もが感じるまでになっていた。

 更に、義英は金を作るのが上手かった。進学の折りに整えたネット環境を使って株で儲けるようになって、それが顕著になった。
 自由になる金が増えるに従って、昌樹に物を贈る事が増えた。義英の本性を知らない祖母だけが、親愛を示す鳥や猫と似ていると微笑ましがった。ヤクザ連中といえば、昌樹に同情的な視線を寄越す方が多かった。
 ついでに大型自動二輪車を購入した義英は、ほぼ毎日昌樹を高校まで迎えに来るようになった。お陰で昌樹が授業後に遊ぶような友達は日を追う毎に少なくなっていったが、それも義英の狙い通りなのだろう。その分だけ、義英は昌樹の放課後を独占した。
『六畳程度なんて二人で住むにゃ狭いだろ』
義英は頻繁に昌樹に口付けた。女にするような露骨に甘い態度は、昌樹の僅かばかりの矜持を溶かそうとする。
『流石に婆ちゃんに説明できないから家とか買うなよ』
不動産の広告を集める義英を諌めたのは、昌樹が高校三年の秋だ。高校卒業という契約期間満了日が差し迫っている事に焦りを覚えていた昌樹は、義英には記念受験だと偽って遠くの公立大学の入試を受ける算段を立てていた。寮のある大学にでも入って、幼馴染に対する義英の歪な依存を正す機会を作らなくてはならない。昌樹はそれが義英の為になるのだと思っていた。
 そして何より、ヤクザ者といつまでも懇ろ過ぎる関係を持ち続けるのは自身の社会的自立において得策でないと分かっていたからだ。


 じわじわと足場が削られていく感覚に焦燥を覚えていた昌樹だが、意外な事に大学進学は呆気無く成功した。

 入寮に為に纏めた荷物を義英に見られた時は本気で悶着を覚悟したものだが、高校入学の際のような癇癪は起きなかった。他所の大学に進学すると告げても、義英は特に驚く様子も無く聞いていた。
 拍子抜けした昌樹だが、義英も大人らしい人付き合いを覚えたのだろうと勝手に納得して入寮した。以来、昌樹と義英を含むヤクザ者達は、長期休暇を利用して帰省した際に少し顔を合わせる程度になった。義英と遭う度に互いの身体を懐かしむように夜を共にしてしまうのは反省すべきであったが、真っ当な恋人同士のような穏やかさで触れられると、つい絆されてしまうのだった。

 様子が変ったのは、昌樹と義英だけではなかった。
 楽島も、私用で頻繁に出かけるようになり、屋敷を留守にする回数が増えていた。胡散臭い上に無感動な表情を貼り付けていた楽島の顔に、柔らかさが垣間見えるようになったと昌樹が気付いたのは、大学で二度目の文化祭に楽島が現れた時だった。
『嗚呼、ロミオ、どうして貴方はロミオなの? お父上様と縁を切り、家名をお捨てになってくれたなら』
演劇サークルに所属する友人への義理で学生達による催しを観劇していた昌樹の横に、楽島は足音無く近付いて腰掛けた。威圧的にして品の良いオーダーメイドのシャツ、職人芸が生きる国内産の腕時計。それらを身に付けた壮年の男は、文教地区には不似合いだ。
 昌樹は相変わらず楽島が苦手だった。どうしてこんな所に来たのかと問うべきか否か迷っている間に、楽島の方が口を開く。
『義英の奴、碌に面倒見てやった記憶もねえが、嫌に俺に似てきやがった』
義英と楽島の仲は極めてドライである。義英の物心が付く前から、喪った兄の代わりとして甥を扶養してきた楽島だが、教育や育児は殆ど外注であった。いずれ後を継がせる予定なのは、義英の出来が良かった故の結果論であって、本当に血縁としての関心は無いのだ。
『執着の深さはお前さんも知るところだろうが、唯一作った「特別」以外はどうなろうと構わねえとこまで似やがった』
彼等を知るヤクザ連中は昔から、仕事の早さもの回転が早いが故の飛び石の会話もよく似ていると言っていた。他人に決して感情を読ませないところも、他人に恐ろしい程冷徹になれるところも一緒だと言ったのは、組長だった。けれど、それを態々昌樹に話す意図は計れなかった。
『……どういう意味ですか』
『アイツとは話が早くて助かるってこった。良い仕事相手だよ』
そういえば義英は今年度で大学を卒業するのか、と思い当たる。彼等の物騒極まる業種を思い出して、昌樹は声をうんと潜める。
『完全に縁を切っておけと言いに来たんですね』
『いや。手前の好きにしろよ』
今更子供の面倒など見る気は無いのだと、楽島はあっさり言った。
『それよりよォ、お前さん。お姫さんの言ってる事に納得できるかい』
楽島は顎で舞台上の役者を示した。自作衣装のジュリエットが、家系の因縁故に結ばれぬ恋を嘆いていた。楽島の会話の意図や動機を把握させようという気遣いがさらさら無い態度も、昌樹は苦手だった。
『私達が薔薇と呼んでいる花にどんな名前を付けようとも、その美しい香りに変わりはない筈。ロミオの名前を捨てていただけたなら、貴方の血肉でも何でもない名前の代わりに私の全てを差し上げられるのに』
昌樹は逡巡の後に首を横に振った。昌樹は、まだ何かを手に入れる為に何かを失うような決断に踏み切った事が無かったからだ。浪漫のねえ奴、と楽島は口角を僅かに上げる。

 昌樹が楽島の言葉をまともに聞いたのは、これが最後だった。少なくとも、楽島英永という男として彼が昌樹の前に現れる事はなかった。


 そして一昨日、昌樹は久々に義英と対面した。
『昌樹、俺とお前の人生が変わる瞬間に立ち合わせてやる』
大学生活三度目の梅雨の終わり、義英は昌樹を深夜の立体駐車場に呼び出して、高らかに宣言した。車のオイル臭さを覆い隠す血の匂いで、立体駐車場は異様な空気を醸していた。完全空車の筈の駐車場に、黒塗りの車とキャブオーバー型の自動車が一台ずつ。二対のヘッドライトが義英を背中から照らしていた。

 義英からの招待は、教授と同じ学部の一部の学生しかアドレスを知る筈がない授業連絡用のメールアカウントに届いていた。用件は時刻を指定した呼び出しのみであったが、昌樹はそれに応じた。
 添付画像に、昌樹がバイトをしていた店舗の駐車場が収められていたからだ。そこは、深夜帯は誰も使わない代わりに、社員が必ず施錠をする場所だった。授業用のメールアドレスといい、バイト先のセキュリティといい、昌樹の身辺を把握し掌握しているという脅迫的なメッセージを仕込まれれば、応じない訳には行くまい。
『勝手に俺の人生変えようとすんなよ』
昌樹は、出来る限りぶっきらぼうに返事をした。危機感はあれど、今更畏まるのを良しとするのが悔しかったからだ。それに義英は、昌樹に関しては阿った態度を取るよりも正直に生意気な事も言ってやった方が機嫌が良くなるのだ。義英がそうやって気安い関係を維持させたに過ぎない気もするが、昌樹はまんまと義英を話せば分かる奴だと思う事を止められていなかった。
『ああ悪ぃ。変るってのは大袈裟だったな。あるべき所に戻るだけだ。お前はずっと俺の傍にいるんだっつったもんな』
高校入学前の話を蒸し返され、昌樹はこの男の執着を再確認した。

 窓が開けられたキャブオーバー型自動車の後部座席に、楽島が座っているのが見えた。
 火事場で逃げ遅れて死ぬタイプ、という言葉が脳裏で閃いていた。逃げ遅れるどころか、既にまんまと絡め取られているだけのような気がしていた。

 逆光の中、昌樹は義英を見遣る。恋をしている男とは、こんなに凶暴な眼をするのだろうか。しかしこの執着は、ただ一人に向けられた支配欲と渇望を表す感情は、それしか当てはまらなかった。
『お前の我儘も沢山聞いてやったろ。そろそろ俺の好きにする番って訳だ』
義英は楽島の乗っている車のトランクを開け、積んでいたポリバケツをコンクリートの床に転がした。

 蓋の隙間から赤黒い液体を漏らすバケツを義英が蹴ると、蓋が外れて中身が露わになる。
 中に入っていたのは、身体の各部で切断されたバラバラの人体だった。乱雑に詰まっていた腕、脚、腹部、頭部が、コンクリートにぶち撒けられる。指が悉く折られ、爪は剥がされ、指の先は徹底的に焼かれていた。顔に至っては、眼窩の位置が分からない程に破損されている。苛烈極まる拷問の痕跡に、否応無く昌樹の胃液が競り上がる。遺体など幼い頃に病死した祖父のものしか見た事がない昌樹にとって、余りに刺激が強かった。
『ヒッ、嫌、なに、これ……人、人じゃん、ら、らくしまさ、うそ』
昌樹は嘔吐いて、上手く発声できていなかった。人間だった物がこうも尊厳を失って醜悪な肉の塊に成り下がる恐ろしさに、胃が痙攣してしくしく痛んだ。
 更に恐ろしいのは、四肢を失った胴に絡みつくシャツや、肘から先しかない腕が付けている時計に見覚えがあった事だ。ヤクザ屋敷で擦れ違った記憶や、隣で観劇した日の記憶を昌樹の脳が勝手に引っ張り出し、遺体に楽島英永の特徴を見つけて混乱を呼ぶ。

 記憶が確かならば、遺体は楽島のものであるならば。一体、車内から昌樹を睥睨する男は誰なのか。
 気付けば昌樹は吐いていた。血溜りに吐瀉物が落ちていくのを、義英は無感動に見ていた。
『手前も祝えよ。今日が楽島英永の命日だ』
頭と胴が繋がった状態の楽島が、車内から微笑んだ。幽霊のように血の気が無い顔色だったが、その眼は爛々として気力に満ちている。
『苦労したんだぜ。背格好の似てる輩を見繕うのは』
聞けば、敵対組織から楽島と年齢や体型が似ている男を彼に仕立てているらしい。
 けれど、顔や手などの個人が特定されそうな組織が徹底して潰されていた理由はそれだけではない。若頭たる楽島が唐突に残虐な殺され方をされたと周知される事は、報復の理由になる。敵対組織に楽島の死体役という「唐突に行方を眩ました男」が居るとなれば、それを容疑者に仕立て上げて抗争を仕掛ける火種になる。全てがヤクザの理屈で積み上げられた計画だった。
『なぁに、楽島英永なんて名でいるのが嫌になったんでな。名前が変わろうと香りに変わりはないってんなら、気に入った名でいてえってもんだ』
昌樹にはたったそれだけの理由で人を犠牲に出来る神経など理解できない。けれど、楽島の動機を察する事は出来てしまった。以前の観劇で相席した際の問答は、彼にしては親切すぎる提示だったのだ。
 この男も恋をしている。それもロミオとジュリエットが如く立場が障害となる相手、恐らくは昌樹と同様に堅気なのだろう。
『尤も、古典浪漫をなぞって大人しく上品な悲劇にしてやる気はねえさ』
手段を選ばない獰猛な瞳は、甥と同じだった。

 楽島は車窓から肘から先で切断された左腕を投げ捨てる。
 その指紋が焼き潰されきっていない指が二本残る腕は、唯一本当に楽島のものだった。その皮膚が裂けた跡が白く稲妻形に残る引き攣れた傷痕は、昌樹にも見覚えがあった。楽島の顔色の悪さに合点がいった昌樹は、反射的に彼から眼を逸らす。

 血腥い本性を隠しもしない二人に見詰められ、昌樹は言葉を失う。
 もう彼に出来る事など何も無かった。ただ絡め取られていくのを待つだけだと、幼馴染を見てきた経験則が告げる。藻掻けば藻掻く程に首が絞まっていくのではなかろうかと本能が警鐘を発しているのか、酷く息が詰まった。 
『これで楽島英永は死んだ。俺がその後を継いで若頭だ。すぐにお前が堅気だろうが男だろうが誰も文句の言わねえ地位に行ってやる』
身分を捨てたい楽島と昌樹を囲う地位と権力が欲しい義英が、最悪の形で需要と供給を一致させていたらしい。昌樹だけでなく、所属する組も敵対する組も巻き込んで、彼等は何処までも貪欲に追いかけて来る。楽島の行った通り、彼等は本当に唯一作った特別以外はどうなろうと構わないのだ。
 義英は、凶暴なまでに蕩けた笑みを浮かべていた。血と吐瀉物の臭いで満ちる場には似つかわしくない恍惚が、義英の口許を緩ませていた。
『俺はお前の我儘を聞いてやるのが好きなんだ。だから県外の大学に行った事も、文句は無えさ。国外にだって行かせてやるよ。何処に逃げようが直ぐに連れ戻す力を俺が持ってりゃ良いだけの話だ』
良く響く低い声で言い切った義英は、肉塊の上から灯油を撒いて火を放つ。彼にとって、昌樹の僅かなキャンパスライフなど、この人でなしの愛を受け入れさせる為の猶予期間でしかなかったのだ。
『よく見とけ。これがお前に心底惚れてる男の本性だ。俺はお前の為ならどんな汚れ仕事だってやる』
義英の瞳に、揺らめいては爆ぜる炎が写りこんでいた。


 昌樹が駐車場を去る事が許されたのは、日付を跨いで朝日も昇りかけていた頃だった。
 義英の黒塗りの車で寮まで送り届けられた昌樹だが、直ぐに祖母の居る実家に戻った。独りで居ると、人だった肉の焼ける匂いが頭から離れてくれなかったからだ。何より、幼馴染を恐ろしいと感じなかった頃の思い出に触れたかった。
 何処で道を誤ったのか自問したところで、人でなしの執念深い愛が潰えるところは想像できなかった。寧ろ、もしも初めて義英の恋に気付いた時に丁寧に向き合ってやっていたならここまで拗れずに済んだのではないかという悔恨すら生まれていた。


 惨事から一日経てば、実家にも様々なメディアを通して彼等の凶行を思い出させる情報が流れ込んでくる。
 それでも昌樹は、実家のリビングで新聞を読み込んでいた。こうして表面的なニュースを他人事として消費できる日常は、今日で最後だという予感があったからだ。

 「来てくれ昌樹さん、兄貴が撃たれた」
そしてその予想通り、ヤクザ屋敷に出入りする若いチンピラ衆が昌樹の家の戸を忙しなく叩きに来た。
 いまいち状況を飲み込めていない祖母を家に置いたまま、昌樹はヤクザの運転する車に引っ張り込まれる。向かう先は、彼等と懇意にしている病院だ。


 楽島英永の後を継いで若頭となった義英は、筋書き通り敵対組織に濡れ衣を着せて報復という名の強襲を行い、相手に多大な犠牲と損害を与え壊滅間際に追い込んだ。そして、正式に若頭として挨拶を交わす為に総会に出向いた矢先、敵対組織の残党に乗り込まれて組長諸共に銃撃を受けたらしい。
 血で血を洗うとは正にこの事だろう。無茶苦茶な報復合戦は、短期間で多数の死傷者を出した。
 銃などという非合法かつ非日常的な凶器を話題に出されても、昌樹は新鮮に驚く事ができなかった。法定速度超過で町並みが遠ざかっていく車窓に頭を預けて、昌樹は義英の凶暴な熱を帯びた眼が何度も思い返していた。あの夜、昌樹を貫いた、恋をする獣の視線。人でなしの愛。
「組長は死んだ。義英さんが相打ち覚悟で仇を取ったが、二発撃たれた。緊急搬送されたってのに、アンタ会うと言って聞かなかった」
そう告げた男の口調には、組長を悼む硬質な声の中にも義英に対する尊敬と陶酔があった。義英の圧倒的な暴力と狂気に満ちた思い切りの良さは、法の庇護を捨てた男達の眼には美しく映るらしい。

 義英の命に別状は無いと聞いて、昌樹は安堵よりも納得を覚えていた。
 死とは対極の苛烈な執着は、義英の強かさを担保してなお釣りが来るようにすら思えた。
「……義英は何か言ってました?」
昌樹にしてみれば、組織を潰され後ろ盾を失ってなお銃を取った残党に不自然さを感じる程である。それを彼の前で口にできる神経は持ち合わせていなかったが、展開があまりに義英の都合に良過ぎると感じていた。
 昌樹の頭の中で、血腥い駒でできたドミノが倒れていく。若頭だった楽島英永が消え、組長が死ぬ。肩書きからして、次の組長の候補は義英だ。組織を背負うには余りに若いが、楽島と組長の仇を取った実績を携えている以上、無闇に彼を否定できる人間は少ないだろう。都合よく義英だけ殺し損ねた狙撃犯も、義英が息の根を止めている。もし狙撃犯が義英に雇われ利用された賊だったとしても、真相を語る者はもう居ない。義英は自らが負傷しながら仇を討つ事で、全てを掌握したのだ。
「愛している、と」
予想通りの伝言に、昌樹は小さく頷いた。

 義英は宣誓通り立場を手に入れた。何処までも彼等の筋書き通りなのだろう。両組織から出た大勢の犠牲も、義英自身の負傷も、全ては昌樹一人を手に入れる為に。此処までくると、いっそ一途と形容したくなる。
 車が病院の前に停車する。昌樹はとうとう、逃げようと考える事すら止めた。



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