初恋の葬列

 先輩の兄が行方不明になって九年。漸く失踪宣告から二年を迎え、漸く喪主である香代さんが亭主の死を受け入れる覚悟を決めたようで、遺体の無い葬儀が執り行われた。

 随分イレギュラーな葬送であるから、参列者は酷く少ない。故人の妻である香代さんと、その娘の香奈ちゃん。故人の妹である先輩と、その両親と弟。そして僕。香代さんの両親は既に他界しているので、この七人のみである。
 僕だけ故人とは血縁の関係が無く、浮いた存在である自覚はあったが、これだけの少人数で周りの目を憚るのも妙な気がして居座ってしまった。親兄弟が居ない為に働きながらの育児に疲弊しがちな香代さんに代わって先輩と僕で子守を代行する事が頻繁にあった所為か、香奈ちゃんは僕に気を許していた。読経が始まったあたりから、香奈ちゃんは僕のスーツの裾を握って離さなかった。疎外感に尻の座りが悪いのは、彼女も同じなのだろう。まだ小学校を卒業していない香奈ちゃんにとって、九年前に失踪した父親など、顔を覚えているかすら怪しい。

 喪失の痛みが薄い者同士、僕と香奈ちゃんは極めて人口密度の少ない部屋で身を寄せ合うようにして隣に座った。傍目から見ても母親の香代さんは膨大な悲しみと僅かばかりの喪主の仕事で手一杯で、それが余計に父親の死を悼めない子供の罪悪感を刺激するのだろう。空の棺桶に花を詰める香代さんを横目に、声を潜めて香奈ちゃんは僕に問う。
「おじさんはお父さんと仲良かったの」
「いや、顔を見たのは一度だけ」
高校の部活で仲間と天体観測をする為に、先輩の実家に望遠鏡を借りに行った時だ。その頃には、大学生だった彼は既に香代さんと交際をしていた筈だ。
「一度だけなのに?」
香奈ちゃんの目が、僕の手首を一瞥した。香代さんそっくりの色素の薄い瞳は、この日のために買った真新しい数珠を映していた。
「先輩と君のお母さんには親しくさせてもらってるから」
「ああ、そう」
聡い子だと思う。あるいは女の子とはえてして皆そうなのか、彼女は大人のような言葉の繋ぎ方をする。そして、周りの事もよく見ていた。
「おじさんはいつから叔母さんのことが好きなの?」
眼前では坊守が説法を唱えている最中だった。現代の葬儀は遺された人の為に行う意味が強いのだと、そんな旨の話から始まっていた気がする。その遺族たる香代さんの慟哭があまりに凄烈なので、誰も話を聞いてはいなかった。同様に僕達の話も聞こえてはいないのだろう。
「高校の時から」
香代さんの震える背を擦る先輩が、此方に意識を向けていない事を確認して、手短に答える。
「その前に好きだった人は?」
「居ないよ」
香奈ちゃんが閉口する。自分の人生よりも長い時間片恋を拗らせ続けている大人など、彼女は想像もしなかっただろう。しかし僕には、先輩以上に好きになる人が今後現れると想像する方が難しかった。
 先輩に絆されて地学など興味も無いのに天文部に入部した高校一年の春から、先輩に好いた人が居ると知った高校二年の夏も、社会人になった今も。僕の思いは何一つ変わりはしないどころか、年々増す一方である。
「おじさん、かわいそう」
香奈ちゃんは小さな手で数珠を弄びながら言った。さして同情を窺わせない平坦な声だった。学校の友だちが言っていたのだけど、と前置きして彼女は言葉を続ける。
「初恋を叶えられない人は、次の恋も上手くいかないんだって」
小学校高学年の女子ともなれば、最近はこんな感じなのだろうか。顔を合わせた事がある彼女の友達の姿を脳裏に描くも、恋愛談義に華を咲かせる様子などどの子もピンと来ない。
「残酷な話だね。僕等の世代は、初恋は実らないなんて迷信があったっけ」
どちらにせよ前向きな言葉ではない事に、言ってから気付いた。この歳になっても実らないと分かっている少年の頃からの恋にしがみ付いているのだから、確かに彼女の言う通り、今後の惚れた腫れたも上手くはいくまい。
「私もね、かわいそうなの」

 香奈ちゃんの口から自己憐憫めいた言葉を聞くのは初めてだった。
 クラスメイトに片親と詰られる事があっても、平日は朝と深夜以外は殆ど一人きりの生活を送っていても、不平を漏らした事のない子だった。
「生まれて初めて好きになった人なのに、絶対に私なんて相手にしないって目に見えてるの」
俯きがちに打ち明けるその態度に、既視感を覚えて眩暈がした。頭蓋骨の内側に、高校二年の夏の日の記憶が引き摺り出される。実家に天体観測用の望遠鏡を借りに行った日、大学寮から帰省していた兄と香代さんに鉢合わせた直後の先輩の声。
『私ね、香代さんが好きなの。あの人は兄さんの恋人なのに』
俯いた頭から重力に従って垂れる黒髪。叶わないと分かりきった恋をしている孤独と自己憐憫で、今にも溺死しそうな顔。
「わたし、おじさんが好き。あなたは叔母さんしか見てないのに」
驚いた。けれど、身体を丸めて苦しげに吐露する姿勢まで、あの日のようであった所為で、僕はかける言葉を失っていた。
「ほら、今だって、私のことなんて見ちゃいない」
香奈ちゃんは席を立つと、母親の元へと駆けていった。頭が良い子である。香代さんの隣に座って空の棺桶に伏していれば、泣いても周りは不自然には思うまい。だからこのタイミングで打ち明けたのだろう。不安定さの中に垣間見える強かさも、先輩によく似ていた。
 今しがた自分が傷付けた子供にどう接していいか分からずに、僕は座ったまま彼女の中に先輩を探し続けた。

 彼女は僕の隣に帰ってくる事のないまま、香代さんと共に霊柩車に乗って火葬場に向かった。
 先輩の家族と僕は自家用車でその後について行く。先輩は弟に自身の車の運転を任せて、僕の車の助席に乗り込んだ。
「アンタ、香奈ちゃん泣かせたね」
「すみません」
「いや、小学生相手に応じる方が問題だし。仕方ない」
先輩は腕時計を見ながら軽い口調で言った。頭の中では今日の日程を確認しているに違いない。この葬儀は、悲しみで腑抜けてしまう香代さんに代わって先輩が手続きの殆どを行っていた。思えば、先輩の兄の失踪届けに関しても手続きはほぼ彼女がやっていた。
「というか、本当に火葬するんですか。棺は空なのに」
「するよ。普通の葬儀でやる事は全部やる」
現代の葬儀は遺された人の為に行う意味が強いのだと、流し聞いていた説法の一節を思い出す。彼女がこの葬儀を企画したのは、香代さんの為なのだろう。伴侶の死を受け入れたとしても、香代さんが先輩を義妹以上の存在として見る事は無いと分かりきっている筈だろうに。
「焼香の時にさ、久々に私は義妹なんだなって思った」
香代さんの結婚式に新郎側の家族として参列した時も、先輩は似たような事を言っていた気がする。僕は披露宴のスライドショーで香代さんにとって先輩の兄は初めてにして唯一の恋人だったのだと知ったが、きっと先輩はずっと前から知っていたのだろう。その上で、三次会まで参加して、帰路で吐く程呑んでいた。多分、今回も酒に呑まれる予定で弟に車を任せたのだろう。
 あの日、自力で帰れない先輩を家に上げてなお、僕は泣き言に相槌を打つだけしか出来なかった。そんな次第で、僕は学生の身分を過ぎても先輩と後輩以外の名前を持った関係を手に入れ損ねている。そして今も、情けなくも僕は先輩を慰める言葉を探すだけだった。


 死が二人を分とうと、香代さんはきっと学生の頃から愛していた人を忘れはしないだろう。それは学生の頃の恋を引き摺る僕達だから、尚更理解している事であった。
「香奈ちゃんが保育園児の頃は送り迎えの役を買って出たり、今も休日の行楽なんかは担当しちゃったりして、パートナーになった気分で。兄には申し訳ないけど、悪くない九年だった。所詮ままごとなのに」
先輩は溜息を吐いた。現行の異性愛に限定された家族制度に則った生き方を選ぶ気の無い先輩が、薄給にも関わらずフリーランスの在宅仕事に拘っていたのは、香代さんの忙しい時期に身体を空ける為だと僕は知っていた。遺体すらない夫を忘れない人の為に、キャリアも将来もおざなりにして尽くす先輩の生き方を否定する気にはなれない。そして救えない事に、報われぬと分っていても好いた人の為に身を削ってしまうこの人の健気さに、僕は益々惚れ込むのだった。何故なら、僕が先輩と出会う前から彼女は香代さんに惚れていて、僕はどうしようもない恋をしていない先輩を知らないのだ。だから僕には、香代さんに尽くさない先輩の未来を描く事も出来なくて、彼女の不毛さを咎める事も無く愛でている。
「僕も悪くない九年でした」
流石に口には出せないが、僕は僕で育児参画する先輩に協力をする事で擬似家族ごっこに浸っていた。僕にとっても楽しい幻想を見せてくれた年月ではあった事は事実だった。けれど、兄に対する香奈さんの執着を見せられる度、先輩は苦しくなるのだろう。その苦しむ先輩を見る度に、僕は益々惚れこんで、同時に誰も報われやしない現状に絶望的な気分になるのだった。

 香奈ちゃんが自身を可哀想と言った気持ちは、よく分かる。
 僕がまだ幼い彼女をおざなりにしてしまったように、恋をする狭窄した視界には、ただ一人以外は碌に入りやしないのだ。僕が香奈ちゃんの幼い執着に気付かなかったように、きっと先輩も僕の煩悶など知る由も無い。そして、香代さんも先輩の献身の理由を考える事は無い。誰にも省みられない恋心を、揃いも揃って持て余している。
「香奈ちゃん、先輩に似てきましたね」
「姪だからね」
前方を走行していた霊柩車が火葬場の駐車場に入っていった。それに倣ってハンドルを切る。
「これ以上似ないと良いんですけど」
「失礼な奴」

 まだ幼いあの子は、初めての恋慕に見切りをつけて新たな恋を見つけられるだろうか。少なくとも、面と向かって叶わないと分っている恋心を吐露できる度胸と衝動性は、彼女や僕には無いものだった。
「でも、あの眼の形、香代さんにそっくり」
彼女に先輩の面影を探す僕と、彼女に受け継がれた香代さんの血を慈しむ先輩。もしかしたら、香代さんも彼女に受け継がれた遺伝子に故人の影を探すのかもしれない。

 火葬場の煙突からは、煙が上がっていた。花と紙製の六文銭しか入っていない棺は、あっという間に燃えるだろう。
「先輩、」
もう不毛な事はやめて、僕を見てください。なんて、今更言えるだろうか。香奈ちゃんを全く省みなかった僕に言う権利があるだろうか。
「今度星を見に行きましょう。うんと遠くの星を」
星は手に入らないから美しいのだと最初に言った人間は、手に入らないものを追う人間の愚かさを愛していたに違いない。



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