ふだらくとかい

 北風が強く吹く、冬の始めの事だ。
 熊野の御碕より南の果ての海上に漂流していた木造船が、名も無い浮島の浜辺に打ち上がった。木造船の上には屋形が作られており、その四方には鳥居が備えられていたが、櫂も艪も無く、掲げていた筈の白帆は何処で引っ掻けたのか襷程度の布切れが風に靡くだけの有り様だった。
 屋形の人が乗れるであろう空間は、棺桶のように外から釘を打たれて閉ざされていた。乗船者を閉じ込めているのだ。何処を如何漂流したかは想像する他にないが、何れにせよ乗船者が無事でない事は確かだ。けれど、島の者達はその船を不審には思わなかった。北の陸から来る船は、得てしてこうだからだ。
「渡海船なんぞ、何時以来やろ」
潮風に湿った髪を耳に掛けただけの女が船を覗き込む。魚の腹のように色の白い膚をした、小柄な女だった。この船の発見者である。厳密に言えば、この浜辺にあるのは白い砂と貝の死骸を除けば女と船のみだった。

 無意味に船に付いた烏貝を突付いていた女は、ある音に気付いて驚いた顔を見せた。
「嫌や、歌うてはる」
漂流し座礁した船に閉じ込められていた人間に、まともな意識があると誰が思うだろう。しかも、よく耳を澄ませば、狂人のそれではなく、男の声で紡がれる念仏であった。苦し気に低く掠れる声は、衰弱ぶりと共に、彼の厚い信仰心を窺わせていた。

 女は暫く顔を顰めた後、恐る恐る棺桶仕様の屋形を解体する事にした。
 幸いにも、海水と雨風の侵食で脆くなった木材は、女の力でも何とか押し破る事が出来た。
 屋形の中には、やはり男が居た。骸骨のように痩せこけた身体は、袈裟の上から縄で縛られ、重石を括られていた。
「此処は」
男の罅割れた唇が念仏を止めた。落ち窪んだ眼で女を見つめて、短い言葉で問うた。戸惑いに混じって僅かに見える希望の色を眼光から感じ取った女は、眉根を寄せた。
「補陀落や、言うてほしいん?」
北の陸には時折、南海の果てにある補陀落と呼ばれる観音菩薩の住まう浄土を目指して渡海船に乗る僧侶が現れる。この男もそうなのだろう。

 補陀落を目指す渡海は南海に自らの心身を観音に捧げる捨身行だ。生きながら水葬され、波に揺れる暗い密室で餓死あるいは溺死を待つのは、並みの信仰心では出来まい。慣習として強引に船に乗せられる僧侶も少なくはないが、この男に怯えの色は無く、望んだ上の渡海であると窺わせた。
「そうなのか」
男の問いはやはり短い。渇いた喉での発声に苦しみを伴うからである。
「どないやろな」
女が男の縄を解きながら、静かに答える。
「所詮うちも余所者やさかい。分からせんのや」
女の腕は白い。野良仕事をする女にも海の民にも到底見えぬその外見を、男は二度の瞬きを以て見つめた。
「私は、てっきり……天女かと」
男は、少しばかり言い淀む仕草をした後に、俯きがちに吐露した。
「ふふ、お上手。でも上人様が女人を口説いたらあかんのやないの」
口説いた訳ではないと弁明を試みる男の口は、酸欠の魚のように開閉するばかりだった。その様子に、女は初めて笑みを見せた。
「此処が何処かは知らんけど、向こうの浜に渡守が居るんは知っとるよ」
縄を解き終えた女が、男に肩を貸して立たせた。女の身体は、水で出来ているかのように冷たかった。硬い船板にしか触れられなかった男の両足が、柔い砂浜を踏む。
「常世郷やら儀来河内やら好き勝手言われとる行き先ん中に、補陀落なんて名もあった気もせん事もないって話やけど」
女に支えられて歩きながら、男は漸く己が死んだのだと悟った。

 けれど、一度はその身が此岸を離れる事を良しとした身が故か、取り乱す気にもなれず、頷くだけだった。
「何故、貴女はその船に乗らなかったのか」
歩けども二人しか見えぬ殺風景な海岸は、男の掠れ声もよく通した。女は眼を細めて、笑みとも悲哀とも取れぬ顔を見せた。
「私は行けんのや。まだ死ねてへんから」
砂が足の指に纏わり付く。歩く速度は変わらぬままだが、女の声が湿り気を帯びた事に男は気付いた。
「うちが海に入ったんは、上人様に語れるような上等な理由やあらへんよ。せやから、あないな鳥居も無い、粗末な棺桶舟やった」


 女は自身が貧しい漁村に嫁いだ身で、村の漁業神名の下に定められた禁漁日に漁に出て大時化を引き起こした夫の咎を負って、生贄として海に捧げられたのだと明かした。
 棺桶そのもののような小舟に詰められて海に揉まれるも、粗末な造りの舟は早々に壊れた。箱詰めのまま溺死する事を免れた彼女だが、棺桶舟だった木片にしがみ付くままに漂着したのは人の住まう地から遥か離れた海蝕洞で、飢えと渇きに苦しむ事になった。そこで彼女は食べてしまったのだ。人魚を。
 海蝕洞の窪みに潮の満ち引きの所為で海に戻れなくなった魚を見付けた彼女は、それを食べて飢えを癒した。その中に、人の目鼻をした魚が確かにあった。魚の鰓のある筈の位置には赤子の手のような器官が生え、爪らしきものすら認めたが、彼女の飢えと渇きは気味の悪さに頓着する余裕すらも奪っていた。
「舟に入れられる前に逃げてまえば良かったんやろうけど、うちが逃げたら子供も村八分にされてまうから」
女の言葉の端には、悔恨が滲む。

 女が自らの異変を自覚したのは、海蝕洞に雪崩れ込んだ波に攫われて、再び海に引き戻された時だった。永遠にも感じられる時間、波に弄ばれて幾度も海水を飲み、息が吸えぬ苦しみと肺が水で満ちる痛みを幾度も味わった。同時に、自身が死と切り離されてしまった事も悟った。
 棺桶舟に入ったままならば一度で済んだ溺水を、気が遠くなる程に繰り返し、女はこの浮島に流れ付いた。この死にながらも生き続ける事しか許されぬ身に堕ちるのも、漁業神のもたらした罰なのか。悠久の暇の中で己の因果について考えを巡らせた回数は、最早計り知れない。
「人寂しゅうて此処に来た人を捕まえてままごとみたいに番ってみた事もある。やけど、皆いずれは自分が死んどると思い出して彼岸を恋しがる。そうなったら渡守に渡してやるしかあらへんやないの」
けれど、決まって渡守はこの人の道から外れた女だけは乗船を拒むのだった。幾度離別を繰り返しただろう。いつしか、此処を彷徨う人を渡守に案内するのが女の役目となっていた。
「上人様みたいな鳥居のお船で来たお人も、何遍かおったよ」

 女は死にもしなければ歳を取らない。何もかもから置いていかれて、何処に行っても余所者だ。止まった時間の中を独り生きる事しかできない。
 けれど、姿形が変わらない訳ではないのだろう。恐らく、人として生きていた頃はもっと日に焼けた膚をしていた。体温も、幾許か高かった筈だ。
 いずれ自身はあの人魚と同じ姿になるのかも知れないと、女は直感的な予感を口にした。思わず、男は波打ち際に眼を走らせた。波と戯れる魚達は、人の営みになど何ら興味が無いように思われた。早くあの仲間になってしまいたいと、女が考えるのも無理からぬ事ではなかろうか。

 男に肩を貸す女の首筋は、潮の香りがする。髪の狭間に見える彼女の耳の後ろに、男は無意識に鱗を探していた。

浜の先に、小船が見えてくる。船には既に、幾人か人が乗っていた。
「ほら、あの船や。もうお行き」
歳も性別も、身分も疎らであったが、皆揃って茫洋と海の彼方を見つめていた。誰も女に目もくれない。視線の先に各々の浄土を思い描いて、静かに渡航の時を待っているのだ。船に乗れない女だけが、白砂を踏む脚先を見ていた。

 男も己が信じた補陀落の存在を海の彼方に見ようと努めたが、俯く女がどうも気になって、視線が揺らぐ。捨身業の末に未だ雑念を持つ己は、きっと望んだような仏道の極致になど至れやしないのだろうと、男は波打ち際に視線を落とした。
「もし、私が再び此の世に生まれたら、また貴方の世話になるのであろうか」
単純な疑問の筈だった。けれど何処か願望めいた響きを持っていた事を、男は否定できない。
「……せやから、上人様が女人を口説いたらあかんのやないの」
ほんにお上手、と零す女も満更では無かった。
「ええですよ。八百も万も待っとってあげます」
これ程不確かな約束も無い。
 けれど、その言葉に、漸く男は彼岸に向かう渡し船へと乗れたのだった。




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