線路投身の霊

 農村と住宅都市の中間地――具体的な場所は伏すが――周辺の無人駅の遠隔案内及び管理を一手に担う三階建ての某高架駅。電車が構内に侵入する直前の線路に、人が飛び降りた。

 白髪混じりの角刈りが歳を窺わせる縒れたスーツの男だった。猫背がちな歩行で白線の外へ進み出るや、線路に吸い込まれるように落ちていった。時刻は多忙を極める朝7時半。ベッドタウンから通勤あるいは通学をする老若男女で混み合う曇天の金曜日だった。
 電車はブレーキ音をあげて緊急停車するが、完全停止できたのは男が飛び降りた位置を過ぎた後だった。車掌がドアから顔を出し、線路の様子を確認するが、遺体は愚か血の一滴も見当たらない。無傷が確認された電車は再発進され、本来の停車位置で止め直された。
 そうして、乗客達は何事も無かったかのように降車していく。彼等は立ち止まることもせず、決して振り返りもせず、無感情な早足で無関心にホームを歩き去っていった。異様な光景である。それでも、後5分もすればまた次の列車がホームに入ってくるだろう。


 人々が時間に追い立てられるようにせかせかと動くホームの中、待合ベンチに腰掛けたスーツの男女は時間を気にするそぶりも無く電車を見送り続けていた。この若干場違いな男女に、駅員が歩み寄って耳打ちする。
「今ご覧になった通りです。朝か夕のラッシュ時にアレが出るんです」
駅員は三十路に届かぬくらいの歳であったが、随分と滅入っているのか草臥れた印象を与えていた。
「通勤や帰宅で混み合う時に、線路に人が飛び降りる。けれど確認すると遺体も何も無い。一昨年からそんな事態が確認されていたんですが、段々頻度は増えてきていて、最近じゃあもう毎日続いてます」
嫌気に満ちた口調で、駅員は男女に説明した。実被害が無くとも、精神衛生には酷く劣悪だ。加えて、ラッシュ時の緊急停止は乗客を苛立たせ、より職場環境を悪化させる。駅員の中には辞職者も出る上、怪奇現象は人伝に広まっている為に補充人員は乏しく、常に不足状態で慢性的な人手不足に陥っているのが現状だと言う。
「貴方達なら何とかしていただると聞ききました」
向かいのホームに、次の電車が到着するという旨のアナウンスがかかった。
「どうでしょうね。確かに別途料金で我々が解決のお手伝いをさせていただくケースもございますが、我々が探偵として正式にお受けできる仕事は調査のみですから」
スーツの女が答える。長い黒髪と黒いスーツが無愛想な印象を与えるが、まだ随分と若く、濃いアイラインと右目を覆う眼帯が無ければ幼い顔立ちの女だった。女に諭された駅員は文句の一つでも垂れようと口を開くが、スーツの男がそれを制した。
「解決の為には、まずは原因の究明。その為の調査、その為の我々ですよ」
愛想は酷く良い。薄茶色のジャケットと急角度で上がった口角で作られる笑みが胡散臭い男だった。

 彼等は、怪異事案を専門とする「アガリア探偵事務所」の者だった。職員はこの若者2人のみである。
 線路に身を投げる実体無き現象に手を焼いた駅の職員らが、藁にも縋る気持ちで不確かな伝聞と胡乱な広告を頼りに調査を依頼したのだ。怪異が発生する現場を実際に見ても、一切狼狽えた様子を見せないあたり、超常現象を見慣れている事は駅員の素人目にも伺えた。

 スーツの男が、何も無い線路から視線を外さずに駅員から聴取する。
「一昨年から、というと随分長い期間ですね。道理でさっきの確認も杜撰だった訳だ。ブレーキだって、もう少し早くからかけられたでしょうに。ね、アガリア所長」
男の相貌は、細めると笑っているように見える吊り眼と上がったままの口角の所為で愛想良く見えた。そう見る造形なだけで、疲弊した駅員を相手に欠片の遠慮も無かった。わざとらしく上下関係を強調した呼び方をされた女が、男を視線で窘める。眼帯に覆われていない彼女の左眼はよく動き、雄弁であった。
「まあ、乗客も実害が無いパターンに慣れきっているなら、ラッシュ時に毎回電車を止めて丁寧に確認するのは難しいのは分かります」
女が職員等の事情を汲んで同情してみせれば、駅員の表情があからさまにホッとした。
「まあ駅員側としては、生身の人間を轢いた時とは大分様子も違うんで、確認するまでもないとすら思ってます」
「へえ、そんなに勤続年数長そうには見えませんけど、本物の飛び込みも経験があるんですね。この駅」
男が言葉尻を捉えて聞き返す。相変わらず微笑の形をした顔は感情らしいものを窺わせない。たじろぐ駅員に、すかさず女がフォローを入れる。
「我々は守秘義務に則って職務上知った秘密は必ず守りますよ」

 この二人の聴取は、共同質問におけるメジャーな手法を取っていた。つまり意図的に悪い質問者と同情的で善良な質問者に分かれる事で、良い質問者の聞く事に対してより従順かつスムーズに情報を開示させようとするものである。男が無礼な言葉を吐く役で、女が受容的に振る舞う役なのは、二人にとって慣れた役割分担であった。
「いいです。どうせ調べれば直ぐに分かる事ですから」
二人の狙い通り、駅員が口を開く。
「轢死事故はありました。二年前の事ですから、ここに勤めている者は皆知ってます。線路に飛び降りたのは、客ではなく、駅員です。私の同期です。自殺でした」
「ちょうど怪異現象が始まった年ですね」
女が相槌を打つ横で、男は坦々とメモを取った。
「あの現象が始まった最初の内は、我々も自殺した同期の霊の仕業だと思いました。しかし、飛び降りる人の姿はいつも違うんです。今日は見てもらった通り、飛び降りたのは白髪の男でした」
自殺した同期はもっと若く、まるきり別人だと駅員は主張する。
「昨日はランドセルを負った少年でした。毎回姿が変わるんです。男の時もあれば、女の時も、子供の時もありました。ベビーカーに乗った赤子だった時もあります」
駅員が頭を振る。帽子の下の顔は血の気が悪く、酷く疲れていた。毎度止まる電車に対するクレームも毎日来ているらしいが、駅員達に対処方法が分かる訳もない。
 駅員か怪奇現象に対する愚痴を続けようとしたタイミングで、駅員の無線が鳴った。現場に復帰せよとの催促だった。
「済みません、どうしても人手が足りなくて。また後ほど」
「いえ、もう結構。また終電後にお伺いします」
男が話を打ち切って駅員を送り出す。探偵達も連れ立って、ホームを後にする。

 通勤の為に忙しく行進するスーツ姿の雑踏に混じって、二人は階段を降りて改札に向かう。二人も皆と似たようなスーツ姿だが、どうにも勤め人には見えない浮世離れした雰囲気が目立っていた。


 駅を出た二人は、現場近くにホテルを予約していた。線路に踏み入っての調査作業が終電後になる都合、どうしても宿泊は必要だったのだ。
「他にも聞かなくて良かった? あの駅から三キロ南のトンネル、崩落事故が起きて以来大量死の現場として心霊スポット化してるって言ってたのに」
案内された部屋のベッドに早速身を投げた女が男に問う。駅員の相手をしていた時よりも幾分かがさつな口調こそが、本来の彼女のものであった。白いベッドシーツに、黒く長い髪を広げたまま、女は眼を閉じた。瞼の裏には事前に頭に入れてきた周辺地図が開かれていた。面白半分で心霊スポットを探索しに行った輩が駅まで良からぬモノを連れてきた、と考えても不自然ではない距離と立地であった。崩落の被害者達なら、飛び降りる人の姿が違う理由の説明にもなる。
「崩落事故は無関係だろうな。複数人の霊の気配は無かった。畜生や同胞の匂いも無し。大方、駅で自殺したとかいう男だろう」
男が女の隣に寝そべった。
「しかし動機は分からん。人間の思考を当てるのは得意じゃない」
そう言い切った男の姿が、スーツごと平たくなって伸びていく。引き伸びた両脚は癒着して胴体との境を失い、人の形から外れていく。そうして両腕も胴と同化させた男は、琥珀色の鱗に覆われて蛇になった。
「事態が収拾すれば納得してくれるんじゃない? 多分、あの人達に動機とか気にする余裕も無いでしょ」
女はベッドを共有する異形に目も向けずに答えた。男だった蛇は、枕に頭を乗せても尻尾がベッドからずり落ちる程に長くなっていた。胴の太さは成人女性の脚程もあり、鱗の内には人間など簡単に絞め殺せそうな膂力を有していた。
 彼はこの女の使い魔として契約を結んだ悪魔、ボティスだ。
 ミュンヘン降霊術手引書ではオティウスという名前で紹介され、60の軍団を率いる序列17番の地獄の大総裁にして伯爵の地位を有する由緒正しい悪魔である。接客中は若い女所長のみでは軽んじられる為に助手という名目でスーツの男の姿をとるが、召喚時は毒蛇の姿で現れ、望まれれば鋭い剣を持ち大きな牙と二本角を生やした人間に似た姿にもなり得る。何より、敵対する者同士を一時的に和解させる事ができ、未来と過去の知識に通じている彼の権能が探偵業に向いていた。
 彼らが口にしていた崩落事故の件も、文献や聞き取り調査による知識ではなく、ボティスの権能によって過去の出来事を把握していたに過ぎなかった。
 超常的な力を以て怪異を制す。それがこの特殊な探偵達のやり口である。


 終電後の時刻になるまでホテルで仮眠を取った二人は、再び駅のホームに足を運んだ。
 朝に彼等に事情を説明した若い駅員の他にも、駅長や半信半疑の野次馬根性で顔を出した職員が複数出迎えていた。誰もが目の下に隈を携え、疲弊した顔をしている。
「アガリア……って本名なんですか?」
シャッターを閉めた改札の前で改めて名刺を出した女所長に、駅長が確認を取る。頼れるものが彼等以外に居ないとはいえ、やはり胡散臭さを飲み込むのは難しいようである。
「ええ、東に阿修羅の阿でそう読むんですけど、読み辛いから事務所の表記はカタカナにしてます」
接客用の人の良い柔和な笑みを作った女は、慣れた口調で雑談に応じる。
「怪異専門っていうと、陰陽師みたいな感じですか」
「そう思っていただいても構いませんよ」
「はは……」
駅長の顔には想像しがたいと言いたげな表情が貼り付いていたが、女は無視して線路に降りた。助手の格好をしたボティスもそれに続く。

 女は懐からライターを出し、呪文を唱えては火を付けたり消したりを繰り返した。駅員達がその様子にざわめく。女が立っている場所が丁度、丁度自殺した駅員が身を投げた場所であったからだ。だが、それはボティスが過去の出来事として把握していただけで、彼女の行為は特に意味があるものではなかった。霊感の無い依頼者が心情的に納得しやすいよう、現地で儀式めいた行動をしただけの茶番である。
 女はライターをしまい、神妙な顔で結論を告げた。
「調査結果から言えば、怪奇現象の正体は人間の霊です。オオタニさんとおっしゃるそうです」
さも自身が交霊によって探り当てたかのように自殺した駅員の名前と簡単なプロフィールを告げれば、また野次馬がざわめいた。そんな中で、今朝話した駅員がおずおずと手を上げる。
「でも、姿が違いましたよ」
「ええ。今日は白髪の男、ある時は女、またある時は年端のいかぬ子供だと。ホームの何者が飛び降りてくるか、その時がくるまで誰にも分からない。けれど決まって遺体は無く、惰性で確認も杜撰になる。現に最近はブレーキをかけるタイミングも遅れがちになっている」
女が温度を感じさせない口調で現状を確認する。ボティスを使って分かるのは事実のみだ。主観でしかない動機など、把握できはしない。だから、そこを埋め合わせるのは人間である東阿の領分だった。
「事故を誘発させようとしているって言うんですか」
駅員達の顔色が見る見る曇っていく。
「この職場に、我々に恨みがあるとでも?」
「そうでしょうかね」
女が曖昧に相槌を打つ。探偵を名乗る彼女だが、推理に強い訳ではない。彼女自身、動機について関心がある訳でもなかった。だから事情を知る駅員の反応を引き出し、彼等が勝手に腑に落ちる理屈を付けるよう誘導した。
「そんな身勝手で事故を起こそうなどと」
憤りに震える駅長の声を、故人の同期だという駅員が遮った。
「大谷はそんな奴じゃない。大谷は……大谷は……きっと、異常を起こし続ければ、しっかり監査が入ってくれると思ってたんだ……」
女がボティスに目配せをする。この男が付けた理屈を採用するという合図だった。
「オオタニさんの労働時間ですが、現行法の基準を遥かに超えていますね。人手不足は随分昔からのようではないですか」
ボティスは過去の出来事から、労働体制へ抗議する動機になり得るエピソードや運営状態の瑕疵を指摘する。
「そういえばこの駅、ずっと昔から周辺の無人駅の遠隔案内及び管理を一手に担っていましたね。遺失物もクレームも、顧客対応は全てここの駅員が?」
過去に運転士が過労による不注意でオーバーランをしていた事に言及すれば、怪奇現象への畏怖の目は憐憫と同情に変わった。実際の動機はどうあれ、現に人手不足で泣きを見ている状態の人々には、それが最も共感できる苦悶だった。


 東阿は、ハイヒール越しに枕木が振動するのを感じていた。
 死してなお好き勝手に語られ、同情され、哀れまれた故人の抗議であろう。
「さて、調査はこれにて終了ですが、本事案は我々が解決できるケースと判断しました。別料金となりますが、解決方法についてご提案します」
枕木の振動は次第に大きくなる。ホームの電灯が音をたてて消えた。実際にどんな動機があろうと、長きに渡って現世に留まった挙句、姿すら変質させて生者の前に現れる故人はとうに悪霊である。放置しても碌なものにはなるまいと、東阿の経験則が告げていた。
「我々なら、この駅に根付いてしまった故人オオタニ様の霊魂をお連れする事ができます」
東阿が指を立てて値段を提示する。それは決して安い価格ではなかったが、断る者は居なかった。叫び声のような突風が、駅を吹き抜けていく。枕木の振動は音を伴うものになっていった。それは電車の走行音そのものだった。
 悪霊と化していたソレは、ついに多種多様な人間の姿をとる段階を超え、列車の形を模し彼等を轢殺しにかかる構えを見せていたのだ。東阿とボティスの目線の先に、ヘッドライトの眩い光が見えた。まずは、勝手な動機付けで彼の畏怖を強引に剥ぎ取った二人から狙われるのは順当だろう。東阿は半歩下がってボティスの身体を盾にすると共に、駅員達に線路から距離をとるよう叫んだ。
「ああ……そんな事が……」
駅員達の目にも悪意によって姿を変えた霊魂の猛進が見えたようで、情けない驚嘆の声があがる。猛スピードで線路を走ってくる怪奇列車に、駅員達は目を奪われる。ホーム内に突入しようと一切原則の気配を見せない赤い車体。それが大谷を轢いた車体と同一の外観だと気付いた幾人かの駅員達は、一層青い顔になっていた。
 線路の上で電車と対峙する2人だけが、恐れを知らぬ顔をしていた。

 ボティスが先の割れた舌で薄い唇を舐める。彼の口の端から、人ならざる牙が覗いていた。
 悪魔である彼にとって、契約者たる東阿以外の人間など恐るるに足らない。寧ろ、人の魂などただの嗜好品、謂わばおやつであった。
 列車が走行する轟音が一同の鼓膜を苛む。
 ホームに一際大きな風が吹き、皆が思わず目を瞑る。その一瞬で、静寂が戻っていた。

 ボティスの後ろに控えていた東阿が、場違いに溌剌とした声で沈黙を破った。
「成功です。オオタニ様はもう、此岸に留まる事はありませんのでご安心ください」
故人の魂を丸呑みしたボティスは、もう完全に人間の様相に戻っていた。縦長の瞳孔も、先の割れた舌も、全て幻だったかのように人のパーツに代わり、胡散臭い笑みを貼り付け直していた。
「あ、ありがとうございます」
駅長が目を瞬かせながら、辛うじて返答をする。
「いえいえ、またのご利用をお待ちしてます」
彼女は自力でホームによじ登って、依頼者に挨拶をした。では報告書は後日郵送で、と契約と料金を確認する彼女の口調は商人のものだった。

 ボティスは欠伸を噛み殺し、腹を擦った。
 悪魔に食われた魂は、天国にも地獄にも行けはしない。最期の審判すら受られずに、その意義を失うのだ。それは悪魔を召喚し契約した人間も同じであった。悠久の虚無を彷徨うだの地獄より悍しい処遇だのと教義によって解釈が若干異なる事はあれど、碌な目には遇わない事を東阿も承知していた。
 それでも東阿は平気な顔でボティスを連れ回し、探偵業にこき使う。


 商談を終わらせた東阿が、ボティスと連れ立って駅を出る。
 一仕事終えた東阿は、夜更かしも相俟って妙に活動的になっていた。深夜の町を並んで歩く若い男女の姿は、スーツでなければ傍目には親密な親関係に見えただろう。
「始発まであと5時間だって。ここらで一番美味しい飲食店って何処?」
「人間の味覚は知らん」
間食をするなら崩落事故が起きたトンネルが良い、とボティスは提案するが東阿に却下された。ボティスの気だるい欠伸が東阿に伝染する。悪魔に睡眠は必須ではないが、人間の彼女はそうではなかった。
「じゃあ安いカラオケ店探して」
「明日電車で寝ても起こしてやらんぞ」
悪魔を気安く使う女だと悪態を吐くが、東阿は何処吹く風であった。



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