遠出

 貸切の露天風呂は、柵の向こうから旅館の庭と春先の凪いだ海を一望することができた。
 海の上の空には薄らと月が出始めている。星も幾つか数える事ができた。それでもまだ景色が明瞭に見える程度に明るいのは、庭のライティングだけでなく、反対側の空にはまだ沈み切っていない太陽が頭を覗かせているからだろう。冬に比べて随分と日が長くなったものだと青紫の空を仰ぐ誠嗣サンに、穏やかな気持ちで相槌を打った。温泉に心まで蕩け出したように、とろりと優しい気分で満ちる。

 俺達は過疎化の激しい半島の温泉町に来ていた。
 義父の都合で連れ回された記憶はあるけれど、旅行と呼べるのは初めての経験だった。事実上の新婚旅行だ。そんな風に言えば、きっと誠嗣サンはもっと良い所に連れて行ってやると言うかもしれない。
「どうせなら夏に来れば泳げたのにな。退屈な所だろ」
案の定、誠嗣サンは此処を観光向きではない土地だと称した。学生達の春休みはもう終わっているシーズンだからか、確かに眺めの旅館の広々とした部屋を多く備えるこの旅館は、意外な程に閑散としていた。人で溢れかえっているような場所は苦手だから、俺は寧ろこれくらい静かな方が有難いとも思ったけれど。
「ううん。暖かくて良い所だよ。温泉は気持ち良いし。海は奇麗だし」
カップルや家族連れに最適と銘打たれた露天風呂が備わっているこの部屋を簡単に抑える事ができたのも、きっとその最適なシーズンとやらを逃しているお陰だろう。スケジュール帳を睨みながら日程を調整する誠嗣サンの姿を思い出すと、自然と唇が綻んだ。
「誠嗣サンと一緒にお風呂入るのだって、初めてだし」
来て良かったと口にする筈が、滑らせた口からは下心が漏れ出てしまい、慌てて口を噤む。誠嗣サンは助平めと言わんばかりに目を細めた。
「そうだな。一緒に入ったら、それだけじゃ済まないって互いに分かりきってたからな」
好色な声音に、皮膚が期待でジンと痺れる。とろとろのお湯は、肌だけではなく口まで滑らかにしてしまうのかもしれない。
「きょ、今日は、そのつもりで一緒に入ってるんじゃないの……」
俺の頭の中は、既に厭らしい期待でいっぱいになっていた。湯当たりする程長湯なんてしていないのに、顔が酷く火照ってクラリとした。

 誠嗣サンは、洗ったばかりの俺の髪に唇を寄せて低く笑う。耳に吐息がかかる擽ったさは、漣のような官能を生んだ。
 けれど、結局それ以上甘い展開になる事はなかった。
「明日が法事じゃなきゃな。俺も残念だよ」
湯船から立ち上がった誠嗣サンはそう囁くと、先にお風呂から出ていった。


 誠嗣サンと俺の旅行が決まったのは、つい昨日の事だった。
 昨日の昼、誠嗣サンの親戚から訃報が届いたのだ。亡くなったのは誠嗣サンにとって父方の祖母の姪にあたる人だった。血の繋がりも薄ければ距離的にも遠く、忌引き休暇も適用外なので会社を休んでまで参列するか迷っていたようだったけれど、俺が遠出をしてみたいと言って背中を押した。旅行に行ってみたかったのは本当だったし、誠嗣サンは薄情な選択をした自分を後々悔やむタイプの人なのだと知っていたから。
 何も無い片田舎だぞと念を押す誠嗣サンだけど、荷造りの手際は驚く程に良かった。何か持って行きたい物はあるかと聞かれれば、俺はあれもこれもと咄嗟に選びきる事ができなかったのに、誠嗣サンは手慣れた様子で過不足無くどんどん旅行鞄を埋めていった。普段、誠嗣サンが出張の時は留守番をするしかなかった分、二人分の衣服が詰められていく旅行鞄は新鮮で、擽ったい。
 その日の夕方にはどうにか荷を纏めて、日付が変わる直前の夜行バスに乗り込んだ。それから四時間程揺られ、タクシーを呼んでどんどん建物が少ない方へと走っていった。ミラー越しに朗らかな笑みを見せたタクシードライバーのお爺さんも、何も無い退屈な所ですよと零していた。
 けれど俺にとっては、どれもこれも初めての経験だった。


 お湯から上がると、誠嗣サンに浴衣の着付けを手伝ってもらい、夕餉にありつく。
 仲居さんが次々に運んでくる小皿料理は出汁が利いていて、丁寧な味がした。誠嗣サンは好き嫌いが無いと言って何でも食べるけれど、気に入った物は箸の付け方に差が出る。多分本人に自覚は無いのだろうけど、先程からご飯茶碗を突付く時だけ手の進みが少し早かった。
「漬け鯛のお茶漬け美味しいね」
タレに漬けたタイの刺身と白髪ネギや白ゴマが乗ったご飯を半分程食べ進めた後、出汁を注いでお茶漬けにして掻き込んだ。タレと薬味が魚特有の臭みを消していて、ご飯が進む。脂の乗った鯛の強い旨味を生かしつつ、出汁が後味をサッパリさせてくれるから、いくらでも食べれるのではないかと思った。
「ああ、魚も新鮮だし。海が近い所は食い物が美味くて良いな」
漬けにしてしまうなんて贅沢な食べ方だと、誠嗣サンは笑みを見せた。家では魚の鱗や独特の臭みが面倒に感じて肉に偏りがちになっていたので、一層魚の旨味が舌に沁みた。
「今度魚料理の本でも借りてこようかな」
「じゃあ柳刃包丁でも買うか」
何となく呟くと、誠嗣サンは大真面目に答える。
「何かソレ、凄く形から入る人っぽい」
「いや、道具は大事だろ」
他愛無い事を言い合う間にも、どんどんお皿が空になっていく。抹茶塩を付けたエビのテンプラは三口で無くなって、マグロとイカの刺身はタンポポの飾りを残して消えた。
 デザートのアイスはオレンジの香りが爽やかで、既に満腹になっていたらしい誠嗣サンもペロリと食べた。



 その翌朝、俺が目覚める頃には、既に誠嗣サンは喪服に着替えていた。
 法事の間は旅館で留守番する事になっている俺は、寝癖が付いたままの髪を掻きながら支度をする彼を見遣った。
「……映画に出てきた秘密結社の人みたい」
烏みたいに真っ黒なスーツに遊びの無い黒ネクタイを締めた誠嗣サンを見るのは初めてだった。黒が人をミステリアスに見せるのか、カッチリ固めた髪がストイックさを演出するのか、一段と格好良かった。
 留守番は慣れているけれど、喪服の誠嗣サンは何時もより色っぽくて、その背中を見送るのは堪えた。
「早く帰ってきてね」
俺の事は気にせずゆっくりしてきてね、と言うと決めていたのに。非日常に浮かれた俺の口は、迂闊なくらい正直だった。


 旅館の玄関まで誠嗣サンを見送って、部屋に戻っても何をするでもなく畳に転がり、藺草の香りをぼんやりと嗅いだ。窓の外からやってくる潮の匂いと混じってエキゾチックな雰囲気を醸すそれで肺を満たしながら、寝返りを打つ。遠くで汽笛が鳴る音が聞こえた気がする。

 辺りを散策しようと考えない事も無かったけれど、一度何処か見て回るなら誠嗣サンと一緒が良いなと思ってしまうと、独りで出歩くのは億劫になって止めた。
 暇潰しには、旅行鞄に詰めた雑誌や数独の本が役に立った。部屋にはテレビが備わっていたけれど、映る局が少ない上に、平日午前中の番組は、どれも退屈だったからだ。


結局、誠嗣サンが帰ってきたのは、東向きの窓から見える海が煌めきを失ってきた夕刻の事だった。気付けば、小雨も降っていたようで、誠嗣サンの肩や腕は少し濡れていた。

 何処か散策したかと聞かれて、首を振る。旅行雑誌は一通り見たけれど、部屋から出る気にはなれなかった。知らない土地に居る事も相俟って、誠嗣サンが飛び切り恋しかったのだ。
「今から観光する?」
観光雑誌の内容を思い出し、誠嗣サンなら蜜柑ワイナリーとか好きそうだなと行き先を先読みする。
「いや、昨日の続きをしよう」
誠嗣サンは、をそう言って俺の髪に唇を寄せた。昨日の露天風呂では未遂に終わった行為に期待が高まり、頬が紅潮する。
「……えっち」

 正直、海よりも観光よりも、それを一番期待していた。


 旅の恥は掻き捨てなんて言うらしいけれど、借り物の布団に情事の跡の付いた布団を残す事に耐え得るほど俺達の面の皮は厚くなかったので、貸切の露天風呂と家族風呂が備えてあって心底良かったと思う。
「ていうか、このつもりで部屋取ってたでしょ……」
家族風呂の方の浴槽の縁に手をついて、ウォシュレットとシャワーで洗浄を済ませた尻を突き出す。その姿勢が恥ずかしくて、つい口数が増える。黙っていると、掛け流しの湯が浴槽に注がれ続ける音が嫌に耳についてしまうのだ。
「ああ。ビジネスホテルのユニットバスより、こっちの方が風情があるだろう」
浴槽から掬った湯でローションを伸ばしながら応じた誠嗣サンの声は、悪戯っ子みたいな含み笑いが混じっていた。その楽しげな声音につられて笑ってしまえば、俺の緊張も解れていく。

 浴室の硝子窓の向こうに見える海は暗く、薄らと顔を覗かせ始めた月は小雨に霞んで酷く朧気だ。このロケーションに風情なんて有って無いようなものだ。けれど、悪天候など些細な事だ。景観なんて、誠嗣サンの吐息を項に感じた瞬間のはもう頭から追い出されてしまうのだから。
「ああっ」
尻朶を割り開かれ、思わず口の端時から出た嬌声が広くない室内に反響する。慌てて口を押えるが、誠嗣サンはそれが随分と気に入ってしまったようだった。
「んうぅ〜〜っ」
よく親しんだ熱の塊が泥濘んだ内壁を掻き割けて押し入ってくれば、指の間からまた嬌声が漏れる。そして息を継ぐ暇を奪うように快楽に忠実なしこりを擦り上げられ、また口を噤む事に失敗する。それどころか、気を抜くと快楽を追って腰が揺れてしまう始末。唇の端から零れては指を濡らす唾液と同調するように、先走りがパタパタと浴場の床に落ちていった。我慢の利かない自分が酷く恥ずかしい。
 誠嗣サンは奥まで突き入れず、前立腺に亀頭を擦り寄せては、わざとらしい程にゆっくりと腰を引いてしまう。入り口の浅いところに雁首が引っかかる感覚と共に、また硬くて逞しい熱が肛内に潜り込んでいく。そんなもどかしい抜き差しを続けられ、下腹が切なく収縮を繰り返す。火照った粘膜は一層過敏になって、肉を掻き分ける丸い亀頭の形まで感じてしまい、膝が恐ろしく震えた。決定的な刺激を欲しがって、飢えた犬のように涎がダラダラと出た。口からは涎だけじゃなく、喘ぎ声も止まらなかった。腹筋が押し潰されるように痙攣する所為か、出るのは低音で唸り声みたいな汚い声だった。
「せ、誠嗣サ、はっ、ぅああっだめ……あああ゛っあ゛ーーっ声っ、とまらな、いああ゛ぁっ」
泣き言の途中で、一際大きな声が出てしまってそれどころではなくなってしまった。変声期を越えた男の声なんて聞いても楽しくないだろうに。それも愛嬌の欠片も繕えないひどい声だ。それも狭い空間に反響して、酷く耳に障る。とうとう呆れられてしまうのではと思った。けれど、もう自分の意思では口を閉じる事も難しかった。
「んあ゛っ、ん、い゛いいいぃっ」
誠嗣サンに腹部を優しく撫でられ、もどかしい刺激を与え続けられた身体がどうしようもなく歓喜した。その拍子に絶頂を迎え、射精と共に一層腹に力が入る。狭くなった肛内の圧力に、誠嗣サンも一際大きな声をあげ息を詰めていた。直腸に収めている物が大きく脈打つ感覚に、彼も射精を迎えたのだと悟る。

 全力疾走した後のように荒い息を吐きながら、呼吸を整え興奮を収める努力をする。けれど、体温を感じる部分から痺れるような多幸感が伝わってきて、興奮が治まりきらない。誠嗣サンの掌が置かれたままの腹部が柔らかい熱を帯びているみたいに擽ったかった。
「まだ痙攣してるな」
手が下腹を擦り、萎えたばかりの陰茎に触れる。その心地にまた性感に灯が点り、またも嬌声が漏れてしまう。
「声も凄い」
「あっ、あああっごめっ」
いい加減呆れられてしまうのではと咄嗟に口を塞ぐ。けれど、肩口に感じた誠嗣サンの吐息で漸く気付いた。誠嗣サンの台詞には呆れや嫌悪の色は無く、噛み殺した笑いが含まれている事に。揶揄われている。これは漸くそういう「戯れ」だったのだと、俺は遅まきながらにして気付いた。
「い、いじわる……」
絶え絶えに息を吐きながら抗議するも、結局出たのは鼻にかかった甘えた安堵の声だった。
「いやあ、可愛かったなあ」
誠嗣サンに言わせれば、これも風情というやつなのだろう。
「そういのもオツなもんだろう。折角よく響くんだ、沢山聞かせてくれ」
ご機嫌を取るように頬や耳に沢山キスをされて、恥ずかしくて嫌だなんて言えなくなってしまった。


 高い湿度の中で玉のように浮かんでは落ちる汗が、興奮を盛り立てる。二つの荒い呼吸が、高温多湿の狭い空間で溶け合う。
 後ろから貫かれたまま、ローションに浸したガーゼタオルで前を可愛がられて、浴室に動物的な嬌声を反響させて幾度目かの射精を迎える。亀頭を重点的に擦られ続ければ、誠嗣サンを一層強く締め付けて潮を噴いてしまう。言葉になり損なった喘ぎ声が痙攣する腹筋に押し出されて止まらなかった。
 自分が発声しようとしたのが「悦い」なのか「いや」なのかすら曖昧になってくるのは早かった。刺激に戦慄いてただ意味を持たない獣じみた声をあげる俺の項に、誠嗣サンは何度も口を寄せた。
 そこに沢山の歯型が残されたと気付くのは、翌朝になってからだった。


 三日目の朝、気だるい身体に反して幸福な気分で荷造りをして旅館を発った。
「婆さんの顔見たら、小さい頃によく世話になってた事を思い出した。……恩知らずだよな。青葉の言った通り、ちゃんと行って良かった」
バス亭に向かうタクシーの車窓から誠嗣サンは寂しさの混じった瞳で温泉町を見ていた。俺が知らない誠嗣サンの思い出の土地や身内の話は、思った程辛くはなかった。それは多分、今の彼を一番良く知っているのは俺以外に居ないからだろう。

 タクシーから降りた後、昼食を取ってもまだバスが来るまで少し時間があったので、暇潰しに近くの店を散策した。
 古びた売店で、欠伸混じりに他愛無い話をぽつぽつと始めた。特に忙しく駆け回ったわけでもないのに、互いに旅の疲れを背負っていた。呂律に気だるさを滲ませたまま、相槌を打つ。
「今度ちゃんと観光目的の旅行をしようか」
温泉の湯を再現できるとかいう湯の華に視線を注いでいる時、誠嗣サンが静かな口調で提案した。
「また一緒にお風呂入る?」
「そうだな。それで、お前をもっと色々な所に連れて行って、色々な物を見せたい」
「それって」
プロポーズみたいだと茶化してしまいたいような、擽ったい幸福感に言葉が詰まる。こういう台詞に照れを感じない人だから、言われた方ばかりが慌ててしまうのが悔しい。
「海とか?」
「別に山でも良いさ」

 坂の向こうからバスが来るのが見えたので、誠嗣サンの手を取って店を出る。
 春の日差しを反射する白い車体が、バス停前で行儀良く停車した。
「まあ、俺は誠嗣サンが居れば何処でも良いよ」



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