【投稿原文 紅】

口紅の付いたシャツを臆面も無く脱衣場に置かれるようになった辺りで、悔しさより諦めが勝ち始めていた。今日は玄関に見知らぬ靴が鎮座していた。妖艶な紅色、華奢なヒール。僕には決して似合う事のないそれ。覆しようのない敗北感を抱いて、入ったばかりの玄関をそっと出る。さようなら、青かった春。



【改定 紅】

 口紅の付いたシャツを臆面も無く脱衣場に置かれるようになった辺りで、悔しさより諦めが勝ち始めていた。

 高校在学中から付き合っていた彼は、男だけを性の対象にしている訳ではないと予め知っていた。弁が立つ上に顔も悪くないから、僕と付き合う前は彼女も居た。それでも、互いは数多の男女の中から見付け出した特別なのだと信じていた。高校卒業を機に同棲を始めて、彼の女癖の悪さが露呈するまでの僅かな間は、確かに幸せだったのに。

 同棲を始めて数ヶ月しか経っていない頃ならば、浮気の跡を見つける度に僕が怒って、彼が謝る事で幕を閉じていた。けれどいつの間にか喧嘩の収束が遅くなって、終いには彼が開き直るようになっていた。
『仕方ねえだろ。お前と違って可愛いし。柔らけえし。煩く言わねえし』
僕だってあれこれ煩く言いたい訳じゃない。そう反論した声が、口紅の主よりも遥かに野太くて、可愛さとも程遠くて、大量にあった文句が喉元で萎れていった。
 僕等の関係は、とうに限界を迎えている。


 遂に今日、彼は家に女性そのものを連れ込んだ。バイト先から帰ると、既に見知らぬ靴が鎮座していたのだ。
 僕はといえば、玄関から動けずにいた。ただ呆然と、三和土に突っ立ったまま、彼の靴の真横を陣取る華奢な紅色のハイヒールに目を奪われていた。
 サイズは23センチ。彼より一回り小さい僕の靴より、更に小さくて、幅も狭い。僕とはまるきり形の違う生き物の脚を包むよう設計された靴。
 憤りだとか悔しさだとかが素直に出てこれば、僕は今すぐにでも部屋に踏み入って、以前のように彼に怒る事ができたのだろう。けれど、それが出来なかった。諦めが先に立った感情の下では、怒りすら億劫だった。僕自身もまた、僕らの関係性と同様に冷え切ってしまっていたのかもしれない。
 そしてきっと、ヒールの紅が鮮烈だった所為だ。その色は、僕に掛けられた呪いだった。

 いつかの声が頭蓋骨の中で反響して、玄関に蹲る。嫌な声が頭の中に巣食って、視界がぐらりと揺れた。
『男なのに赤色なんて可笑しいわよ』
赤色のランドセルを欲しがる僕を嘲った姉の声だった。そして、赤いクレヨンばかり減らす僕に呆れた母の声でもあった。きっと、赤い折り紙をとった僕を窘める保育士の声でもあるのだろう。

 僕の好きな赤が戦隊モノのレッドなら、きっと問題は無かったのだろう。でも僕が好きだったのは、可愛くてお洒落な方の赤だった。妖しく艶めく紅だった。
 美しくて鮮烈な、僕には似合わない色。女の子の色。別に、女の子になりたい訳ではなかった。でも女の子達と同じものを好きになった。そして女の子のためのものを好きになると、必ず女の子に負けた。
 艶やかな色は、女の子の色。可愛いものは、女の子の物。格好いい人の隣は、女の人の場所。彼女達は、不相応と理由を付けて躊躇無く奪っていく。
 紅は僕が一番最初に覚えた略奪者の色だった。

 その一方で、彼は絶対に譲らない人だった。
 いつしか自分より相応しい人へと譲るべきという強迫的な観念が根付き始めた僕にとって、彼の存在は酷く眩しかった。だから惹かれた。
 彼の家に初めて遊びに行った時、彼の部屋には青いランドセルがあった事を、僕は今でも鮮明に覚えている。皐月の空そっくりの、明るくて暖かい青色だった。
 七つ年上の兄のランドセルを払い下げられる筈だったのに、ありきたりな黒いランドセルが嫌で、再三ごねた末に買って貰ったのだと教えてくれた。高校生にもなる男が、そんな事を自慢気に語るものだから、当時の僕は随分呆気にとられたが、彼がどうしようもなく愛しくなったのもその時だった。
 欲しいものを何の臆面も無く欲しいと強請れる彼が羨ましかった。彼のように生きてみたかった。彼といれば、青いランドセルのように素敵なものが増えていくと思っていた。
 彼だけは譲りたくない。そんな気持ちで、彼を繋ぎ留めようと必死だったこともある。

 けれど、ワイシャツに口紅を付けて帰ってきた彼が僕に気付かせた。僕は彼にとっての青いランドセルではなく、黒いランドセルの方なのだと。全てはまやかしの青春だったのだと。


 僕の私空間を侵略する華奢で可愛い紅色のハイヒールが告げる。僕が何を言ったところで、彼は新しい彼女を諦めないと。彼が決してほしいものを妥協しない男である事は、僕が一番よく知っていた。
 この靴の主を招かれざる客と呼べたなら良かったのに。紅色の主は彼に招かれた客で、招かれていないのは、寧ろ僕の方だった。妖艶な紅色、華奢なヒール。僕には決して似合う事のないそれ。何もかも手に入らない。覆しようのない敗北感が、涙腺を熱していた。

 自分の家の筈なのに、自身の居場所はもう此処にはないと確信し、僕は入ったばかりの玄関をそっと出る。
 
 艶めく紅のエナメルに、今朝掃除したばかりの三和土が映り込んでいた。
 さようなら、青かった春。
 嫌いな色が、また一つ増えていく。



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