落涙

【投稿原文 落涙】

人魚姫のように美しい彼女だから、彼女が恋に破れる時は泡になるのだと思っていた。けれど彼女は、婚約者に裏切られて半狂乱に泣き喚く程度に人間だった。残ったのは限度額まで使い込まれたクレジットカードと、家財の殆どが持ち出されたアパート、借用書、顔の痣。腫れた眼から、海が零れ落ちていく。




【改定 落涙】

 人魚姫のように美しい彼女だから、幼かった頃の私は彼女が恋に破れる時は泡になるものだと思っていた。

 けれど彼女は、婚約者に裏切られて半狂乱に泣き喚く程度には、我々と同じ人間だった。人間になっていた。
 死んでしまいたいと深夜に彼女からの電話を受けた時は、そのしゃがれた声に酷く驚いたが、彼女の住むアパートに駆け付けて見ればもっと酷い有り様だった。
 同時に、もっと近隣に住む友達も駆けつけられただろうに幼馴染の私だけが呼ばれた理由を察する。弱りきった彼女は、陸に打ち上げられた深海の生き物のように惨めだった。
 こういう時は荷の重さより、姉妹同然に育った身分で良かったと思う。けれど、独占欲に近い誇らしさを感じるより強く頭を擡げるのは、彼女をこんな風にした男に対する憤りだった。あんな奴。思わず悪態を吐いた私に、彼女がか細い声で首を振る。まだ好きなの、と。
 

 音楽大学の声楽科でソプラノを褒められた声は泣き疲れて掠れて、老婆のようだった。豊かだった髪は櫛なんて物が最初から存在しなかったみたいに絡み合い、不気味に顔を隠していた。前髪を掻き上げれば、眼の周りを青く縁取る内出血が見えた。男の拳の痕だった。
 あの男を殺してやりたい。言葉には出来ない程に汚い罵倒が、胸の中に幾つも浮かんでは、私の肺の中を熱くした。
 在学中から交際を続けて、結婚の約束までしたくせに。彼女を裏切って、酷い仕打ちをするなんて。それでもなお、彼女から愛されているなんて。
 今なお彼女の献身と愛情を勝ち取っている男が憎い。
 今なお酷い男を愛する彼女の愚かさが悲しい。

 残されたのは、限度額まで使い込まれたクレジットカードと、家財の殆どが持ち出されたアパート。彼女名義にされた借用書。そして美しい身体を台無しにする数々の痣だけだった。男には、彼女より稼ぎの良い女性が居たらしい。
 私は彼女の金銭面や明日以降の暮らしを心配したが、彼女は彼を失った悲しみに溺れていた。

 いつからこんな風に拗れてしまったのか、どうしてもっと早く相談してくれなかったのかと、私の眦も熱を持った。彼女があの男と付き合うと決めた時に、私があまりいい顔をしなかったのが原因かもしれない。実際、それこそが姉妹のような存在から、ただの友達の一人へと私が転げ落ちたきっかけだった。
 それに、仮にそんな相談を受けたところで私にはどうしようもなかった事は分かり切っていた。彼女は今でも彼を好いているのだ。そんな理不尽な熱に、人は抗えない。きっと何を言っても、彼女は耳を貸さずに彼に依存し続けただろうし、早かれ遅かれこうなっていたに違いない。私という友を失ったとしても、彼女は彼を諦めなかっただろう。
 こういった問題は、惚れた方が負けなのだ。私が彼女を止められなかったように。彼女が彼への未練を捨てられないように。私が愚かな彼女を見限れないように。


 職場への近さと水回りの利便性で選んだアパートは家財が無いと酷く殺風景で、彼女の嗚咽ばかりが空間を満たしていた。
 彼と別れさえすれば、彼女は昔と同じ御伽話の住人のように麗らかな佳人に戻るものだと思っていた。けれど、それは甚だしい間違いだと思い知らされた。カエルはオタマジャクシに戻れない。人間になった人魚もまた、人魚には戻れないのだ。
 私の人魚姫はもうどこにも居ない。

 彼女の腫れた眼から、海が零れ落ちていく。
 彼女の中に残っていた人魚の日々を押し流すように。

 私も彼女も、泡になって幻想の中で物語を閉じる事も叶わない、呪詛のような愛を吐くただの人間だった。



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