ベッド

【投稿原文 ベッド】

「人は人生の2/3を睡眠と仕事に奪われる」
僕と枕を並べて雑談する彼女の深紅の瞳に涙が溜まる。
「貴方には後一世紀も無いというのに」
鋭い牙で唇を噛み締めたらしく彼女の口許には黒い血が滲んでいた。
「私は後何世紀生きると思う?」
僕は枕に顔を埋めた彼女を一思いに屠る力が欲しい。



【改定 ベッド】

 薄い布団に丸まって眠気が来るのを待っていると、部屋の硝子窓が叩かれる音がした。マンションの9階に位置するこの部屋の窓を叩いたのは、雨粒や小鳥でもなく、見知った女性の腕だった。彼女は足場など全く無い窓の外に立って、月明かりに烏の濡れ羽色の髪を靡かせて此方の応答を静かに待っていた。
「どうぞ」
返事をしてやると、彼女は夜闇よりも暗い黒色の靄のとなって窓の隙から部屋の中へと上がり込んだ。マンション9階まで浮上出来る上に靄となって僅かな隙間を通ってしまえるくせに、招かれなければ人の家には入れないらしい。そんな妙な制約を抱えている彼女は勿論人間ではなく、吸血鬼と呼ばれる者の一種だった。
 彼女いわく、長い人類史の中でポピュラーな怪物の名を得た神話の時代から生きる怪異。その吸血鬼の中でも、最も頑健で人間に近い容姿をしている種なのだとか。

 部屋の中で人型に戻った彼女は、おはようと夜に似つかわしくない挨拶をした。日が沈んでから活動を始める彼女達にとってはその挨拶が適切なのだろう。昼行性動物の僕だが来客にお休みなさいと挨拶する訳にもいかず、こんばんはと答えた。
 だが、僕にも明日の仕事というものがあるので今夜は寝ないという訳にもいかない。欠伸を噛み殺した僕に気付いた彼女は不服そうに言った。
「人間は人生の3分の2を睡眠と仕事に奪われてる」
その言葉は寝具メーカーの宣伝文句を想起させ、浮き世から離れた彼女らしくないような気がした。
「労働は8時間なのでしょう」
訝しげな顔をした此方に彼女は言葉を付け足した。そういえば、嘗て彼女にそんな事を教えた気もした。
 成程、24時間のうちの8時間ずつを労働と睡眠が占めるという単純な仮定で人生の3分の2と数えたのだろう。そこには休日や残業、休日出勤といったものは考慮されていないが、それが人間の社会に参画出来ない彼女らしいとも言えた。だが、そんな大雑把で不正確な計算と分かりきっていても人生の殆どが自由の効かない時間であると断言されるのは癪で反論を試みる。
「僕の勤め先は週休2日制。だから1週間168時間の内不自由な時間は96時間。人生の7分の4と言った方が正確じゃないか」
口に出してみると、何とも虚しい机上の空論であった。あり得ない程小さく見積もっても、不自由な時間の方が多くなる。現実は彼女の叩き出した数字よりも、もっと労働の割合は長い。そもそも8時間も睡眠を取れる社会人など少ないのだ。余計に虚しくて、長い溜息が出た。

ろか、世間から半歩隔たった、人の生き血を啜って悠久の時を過ごす生き物だからだ。
「まるで時間の奴隷」
特別多忙な日々を送っている訳ではない僕も、彼女の目にはそう映るらしい。労働に勤しむ人間を観察する彼女の眼は、回し車を必死に回すハツカネズミを見る人間のそれと似たようなものだった。恐ろしく長寿な種である彼女が人間と同じ時間感覚を持っている訳もないのだ。
「君達が時間に置いていかれているだけだ」
彼女は片眉を上げて皮肉屋らしい笑みを見せた。だが僕は、シニカルな微笑では隠しきれなかった彼女の傷付いた表情を見逃す事は出来なかった。
「いや、君と時間について語るのはよそう」
そろそろ彼女が此処へ訪れた目的を達成させてやろうと、手招きする。彼女も静かに頷いて、ベッドに腰かけた僕の隣に座った。

 腕を差し出してやると、彼女は慣れた手付きで血管を探して歯を立てた。彼女の細くて白い喉が上下に動いて、僕の血液を嚥下する。
 初めてそうされたのは思春期の盛りの頃で、その時は嫌に心臓が高鳴って、官能と恍惚で眩暈がした。けれど、もう僕はこの行為が彼女にとっては無感動な食事に過ぎないと知っている。それも気取ったフレンチや美味しい懐石料理などではなく、エネルギー補給でしかないゼリーや病院で打つ点滴のような、生命維持の為の味気ない補給に過ぎないのだ。
 彼女はこうして、年単位という人間の概念では低すぎる食事の頻度で血を求めに来る。血の提供者が僕だけとは限らないが、燃費が良過ぎるのは間違いないだろう。華奢な身体と青白い肌の儚さからは考えられない想像も生命力だが、その証拠とでも言うように、彼女の外見は初対面の時から変わっていない。
 昔は僕の方が背が低くて、彼女は途轍も無く大人びていたように感じたが、四半世紀に満たない月日がそれを逆転させてしまった。今ではもう、僕の方が老けた。時間が彼女を置いていくのと同様に、僕もまた彼女を置いていかざるを得ないのだろう。


 彼女が腕から口を離して、顔を上げた。血と同じ赤色の瞳と、視線がかち合う。
「草臥れた、不味い血」
そう吐き捨てて、僕が寝る予定だったベッドに彼女は潜り込んだ。人間の睡眠時間を8時間と仮定していたくせに、僕の貴重な睡眠時間を阻害する事に何ら抵抗は無いらしい。
「実際に草臥れてるんだ」
ベッドに腰かけたまま返事をすると、布団から脚を出した彼女が僕の背を蹴った。
「何を拗ねているんだ」
彼女が本気で蹴ったら僕の脊椎などとうに折れているだろうから、十二分な手加減はあった。しかし、痛いものは痛かった。痛む背を擦りながら抗議するが、彼女は不機嫌な態度で布団の中で丸まったままだった。沈黙を維持する彼女を包む団子状の布団は、ただ彼女の呼吸に合わせて静かに上下するだけだった。

 暫しの沈黙の後、布団の塊の中から声がした。
「古い友人が死んだ」
数少ない同族で、ビザンツ帝国成立前からの友人だったと言う。人間の文明や国家が生まれては滅ぶのを傍観してきた彼女等にも、死が訪れるというのは想像し辛かった。
「自殺だった」
布団の中からゆっくり這い出た彼女だが、壁側を向いたままで顔を此方に伺わせなかった。
「私と同様に人間の協力者を作って血を啜る者だった。懇意な人間を看取るのに疲れたと言い始めた時からそんな予感はあった」
ハツカネズミでも、飼えば情が湧く。同じ言葉を話せるとなれば、思い入れはより一層強くなるに違いない。それを永遠に近い年月に渡って繰り返し繰り返し看取り続けるのは、確かに気が狂いそうな喪失感に襲われるだろう。
 そしてまた、数少ない己と同じ時を生きられる筈だった友人を失った彼女の喪失感も、この世ならざる苦痛に違いない。

 手慰みにベッドシーツの上を流れる彼女の髪を梳く。しかし、有象無象と同様にいつか彼女を置いていく僕には彼女にかける慰めの言葉など持ってはいなかった。
「しかし……死ねるんだな、君達も」
面識もない吸血鬼の死よりも、僕は彼女がいずれその友人と同じ末路に至る可能性が恐ろしかった。
「私達は未だ日光を克服していないから。けれど、それも簡単なものじゃない」
吸血鬼の自殺は惨いと、彼女は低く絞り出すような声で答えた。
「日輪の下では全身が焼け爛れて灰と化すけれど、死に切る前に日が沈めば、夜の間に身体は粗方回復してしまう。焼身と回復を幾度と無く繰り返す生き地獄を経て、私達は漸く生から解放される」
けれどそんな凄惨な痛みを受け入れてまで自死を選ぶ同族は多いのだと、彼女は明かした。北欧で白夜が始まるまで待てなかったのか、などと野暮な事を聞くつもりは無い。拷問に等しい自傷の果てにしかない死を選ぶような絶望の前では、何もかもが無駄なのだろう。そして、その苦悩に縁の無い僕が口を出せるような話でもなかった。ただ、吸血鬼の中でも特に頑丈な種だという彼女が、その長い人生の中で、何度白蝋のような身体を灰に変える選択を検討したのかと考えると胸が痛んだ。

 彼女は強い、けれど脆い生き物だ。
 人と関わる度に喪失と孤独に心を病んでいく。けれど、人の血を啜って生きる種故に関わらざるを得ず、人間を無視できはしない。人と関わる程に、彼女達は救われない存在になっていく。
「自殺者の魂は神の国には生けないらしい。焼け死んでなお、行く先は炎の池」
人間の営みに疎いと思いきや、彼女は人間を良く知らない訳ではない。やや古典的ではあるが、人の影響を多分に受けている。時代の古さから言えば宗教が彼女達の存在の影響を受けて作られたと考えるべきかもしれないが、人間社会の都合に沿って解釈された経典は彼女には何ら役立たない。けれど彼女は、自身や同族が人間の価値観や宗教では怪物と称される事も知っているどころか、同調すらしてしまう始末。
「……神の国へ行く吸血鬼もいるのか」
ダンテの叙事詩では自殺者の森で醜悪な樹木に変えられて鳥に突かれるのではなかったか。自殺者の死後については思うところもあったが、彼女と地獄について語る気にはなれなかった。どうせ人間の為の宗教では、彼女は悪役だ。
 彼女は壁に額を付けたまま、暫し押し黙った。
 彼女の存在のおかげで宗教やオカルト分野に常人より詳しくなってしまっていた僕も、そのような話は知らない。そもそも人の経典では、吸血鬼自体が自殺者や犯罪者の魂であるとされており、彼女のような存在として生きる事自体が何らかの罰であると解釈する者の方が多そうなものである。
「ああ、そういえば、吸血鬼に祝福がある話なんて聞いたことが無かった。最近は熱心に信仰を説く輩に遭わないから、すっかり忘れていた」
彼女が寝返って天井を見た。深紅の双眸が、蛍光灯の光を受けて細まった。

 彼女を相手に熱心に信仰を説くものが居るとすれば、それは友人や獲物ではない筈だ。
「ヴァンパイアハンターか」
彼女は首肯した。吸血鬼退治は20世紀まで行われていたとされるが、それを生業とする専門職が生きていけたのは何時の時代だろうかと頭を悩ませる。人間の寿命を遥かに超える過去を最近と称してしまう時間の感覚は、僕には分からない。
「そう。最後に対峙したのは何世紀前だったか。その時に殺されておけばよかった」
自嘲気味に彼女は笑った。仮にその専門職に彼女を殺し得る神秘と技能があったとして、近代突入以降にそんな業種は現れない事は確かだ。彼女という神秘を知っている僕でさえ、労働者として資本主義社会の一員として営む事を選ばざるを得なかったように。とうに文明社会は、神代の遺物として彼女達を忘却の彼方へ押しやっていた。
 だから、もうこの時代となっては、彼女の他殺願望の吐露など与太話でしかないのだ。叶わない事が分かり切っている以上、如何に切実な悲願であろうと戯言と変わらない言葉に転がり落ちていく。

 夜も随分更けてきたので、消灯して僕もベッドに寝転がった。
 彼女には、入眠の準備に入った家主に気を遣って退散しようなどという遠慮は無かった。これだけ生き物としての力が違えば、人間の男と褥を共にする事に対して恐れを抱く筈も無い。ただただ安物の枕に二人分の頭が沈んだ。
「明日も仕事?」
「そりゃあね。君も寝るといい」
「まだ夜なのに」
「夜だからだよ」
置いていかないでくれと言いたげな声音に釣られて、つい彼女の話に答えてしまう。
「睡眠は死のパロディって本当だろうか」
「さあ。僕も死んだことなんてないからね」
暗がりの中で、訥々と言葉を交わす。素っ気無く言葉を返すだけのつもりが、徐々に冗長な会話になっていく。
 次にいつ来るかも分からない彼女を待つ身としても、彼女と離れた後の寂寥は苦手だった。次に彼女が訪ねてくるのは、僕の背骨がすっかり曲がった頃かもしれないし、彼女が僕を恋しく思う頃にはとうに僕の墓は風化しているかもしれない。決して噛み合わない時間感覚は呆気無い別れしか生まない事を、僕たちは本能的に理解していた。

 彼女の眼は人のそれより光を拾うらしく、猫のように光っていた。夜の生き物なのだから当然と言えばそれまでだが、彼女がまた一つ遠く感じた。


 彼女はこれからも、世界に置いて行かれるのだろう。
 彼女の喪失を埋めて孤独を癒すには、同族が少な過ぎた。その数少ない同族すらも、次々とこの世を儚んで彼女を置いていく。そして、いつか彼女も自らこの世と離別する事を選ぶ日が来るのかもしれない。
 太陽に焼かれて爛れながらゆっくり死んでいく時にも、炎の池や自殺者の森へ行ってしまうかもしれないと憂うのだろうか。彼女にとっては一瞬の出来事に等しい僕との会話も、走馬燈の一部に組み込んでくれるのだろうか。

 彼女を置いていくなんてしたくはない。炎の池にも、自殺者の森にだって送りたくはない。寧ろ、彼女が出会った最後の人間として、その記憶に焼き付きたい。死にゆく彼女を看取りたい。
 僕は彼女を殺したかった。
 中学を卒業したらヴァンパイアハンターになろうと本気で思っていた程だ。勿論、高度経済成長も過ぎた日本でそんなものになれる筈も無かったけれど。
 それでも彼女を殺す術を探るのは止められなかった。吸血鬼が死ぬ作品はB級スプラッタ映画だろうと蒐集した。元々神社にも寺にも行くような信仰心とは無縁の典型的日本人のくせに長期休暇の度に教会を巡った。受験期の学生のお守りのように、ロザリオや聖油を無為に集めていた事もある。お陰で職場ではすっかり変人の扱いだった。
 そして今もなお、ベッドの下には思春期の子供がアダルトグッズを隠すように、聖書や金属の杭が眠っている。
 けれど、それでは足りない。僕は彼女に傷一つ遺せはしない。
『心臓を銀の杭で刺されたところで、私達が死ぬには足りない』
そう彼女が打ち明けたのはいつの日だったか。
『私達を真に殺し得るのは、厚い信仰によって為された時のみ』
この殺意に気付いていたからこそ話してくれたと思うのは、僕の自惚れだろうか。或いはそれとも、彼女の死を希う程の絶望が僕の殺意を育てていたのだろうか。
 いずれにせよ、僕には真の信仰など望めやしなかった。彼女の望みを叶えようという動機がある以上、僕は背信の徒でしかないからだ。彼女を悪しき異形として排斥する信仰の教えなど、身に付く筈も無い。


 結局、僕等は眠らず、枕を並べて他愛無い雑談に時間で夜を明かした。
 カーテンの隙間から差し込む太陽光を認めた彼女の深紅の瞳に涙が溜まる。
「貴方には後1世紀も無いというのに」
もう一度、仕事に行くのかと問われたが、頷く他に無い。いずれ彼女を置いてこの世を去る僕に、これ以上の情を持たせてはいけないのだ。

 人間の営みに沿って人生の3分の1以上を労働に捧げようとする僕を、彼女は未練がましい眼で見遣った。鋭い牙で唇を噛み締めたらしく、彼女の口許には黒い血が滲んでいた。
「私は後何世紀生きればいいのだろう」
信仰心の宿らないロザリオや聖書を匿うベッドの上、彼女は長過ぎる生を愁いで枕に顔を埋めた。死にたい、という彼女の切実な願望の発露は安物の枕では吸収されきれず、僕の耳にも届いた。
 僕だって、君を一思いに屠る力が欲しかった。
 そう返答したいのを堪えて、聞こえなかったふりをする。時計を見れば、後数分で普段の起床時刻を示すアラームが鳴り始める時刻だった。時間に見放された彼女は、時間に追われる僕と無機質な音を刻む目覚まし時計の秒針を交互に見遣っていた。
 嫉妬心にすら似た寂寥の眼差しに、体中を穴だらけにされそうな気がした。けれど、彼女に何もしてやれない僕は、忙しない朝の到来と共にまた時間の奴隷へと戻るだけだった。

 寝不足で目を擦りながらベッドを出ると、彼女も同様に眼を瞬かせていた。ただ、夜行性の彼女にとっては、今からが本来の就寝時刻の筈だ。太陽の下での活動を避ける彼女のことだから、今日は此処に泊まる気でいるのだろう。そんな事をすれば一層情が移って苦しくなるだけだというのに、彼女は布団に残る僕の体温を探していた。

 朝の支度を整えた僕は、枕に顔を埋めたままの彼女に声をかけてから玄関を出る。
「おやすみ、良い夢を」
眠りが死のパロディや兄弟だとしても、所詮は本物には成り得ない束の間の逃避に過ぎない。けれど、彼女を置いて過ぎ去る世界から隔絶された夢の中だけが、彼女が手にできる唯一の安寧だ。
 僕に出来る事といえば、棺桶にはなり得ないベッドの上に暫しの微睡みが訪れる事を祈る事だけだった。



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