Treat me or I'll trick you.

 嫌な夢を見ている気分だった。
 私の身体が無くなっていた。水溜りにもショーウィンドウにも映らない私は、身体を捜して知らない街を彷徨った。

 声は出るけれど、街はがらんどうで声をかけるべき相手が見つからない。泣きたい心地で俯くと、お気に入りの靴も十と数年親しんだ偏平足気味の脚もやはり見当たらず、見慣れない石畳の地面が与り知らぬ土地である事を知らしめてくる。
 空に並ぶ南瓜角燈にを模した街灯に、ショーウィンドウには蜘蛛の巣模様。立ち並ぶ店は何処もドアに蝙蝠や蜥蜴の形のプレートを下げ、本日営業休止を報せている。どこか近世ヨーロッパの美意識を残した、見覚えも無い異様な町並み。夢ではなかったら、何かに化かされているのかもしれないとすら思った。
 分からないのは街だけではない。私は自分が誰かも分からなかった。自分がどうやって此処に来たのか、自分がどんな容姿をしていたかも分からなくなってきた。遂には名前も思い出せないと気付き、忘れてはいけない筈の事を沢山忘れている自分が恐ろしくなった。自分の事を忘れていると気付く度、世界に自分が忘れられているような錯覚に陥った。
 酷い頭痛と、脂汗で額に前髪が貼り付く感覚。危険信号に似た耳鳴りがして、立っているのも億劫になってしゃがみ込めば、顎を伝った涙が石畳に落ちた。

 落ちた涙が石畳を局所的な雨のように濡らした頃、不意に声がかかった。
「ねえ、アンタそこで何してんの?」
顔を上げると目の前に小麦色の肌をした女性が立っていた。買い物の帰りのようで、手には紙袋とアイスクリームを持っていた。啜り泣く声と石畳に落ちた涙の粒に気付いたらしく、立ち位置が若干近過ぎて眼が合わない。肩に付かない程度のライトブラウンの髪に緩いパーマかけた彼女は、不思議そうに此方を覗き込んだ。
「眼、眼が……いっぱい……」
一見普通の人間のように見えた彼女だが、額と蟀谷の左側に四つも目玉が付いていた。仮装の類ではないかと思ったが、計六つのライトグリーンの眼は、私の声の位置を探るようにギョロギョロと動いていた。
「何よ。自分だって身体が透明じゃない」
失礼しちゃう、と彼女は何でも無いように言った。とうとう自分はおかしくなって幻覚でも見ているのかと思ったが、それ以上に彼女の発言は珍妙だった。
「透明なの? 私……」
「誰が見たって透明じゃない。それとも光学迷彩だって言うの?」
彼女がアイスクリームを一掬い私に落とした。それは私の膝小僧に落ちて、丸い輪郭を辿りながら重力に従って脛へと落ちようとしていく。私の身体は見えないたけで最初からあったらしい。
「ていうか、見ない顔ね。まあ見えないんだけど。私、此処に来て長いけど、アンタと遭ったのは初めてよね。最近此処に来たの?」
多眼の彼女は私が透明な事を当たり前のように受け入れ、握手の為に右手を差し出した。戸惑ったものの、悪い人ではなさそうだと感じてその手を取った。よく見れば、彼女の眼は顔だけではなく、右肩や首筋にもあり服の隙間から此方を覗いていた。
「それが、どうしてこうなったか覚えてないの。自分の名前も思い出せなくて」
挨拶も程々に、ここが何処なのかも曖昧で困っていると伝えると、多眼は暫し思案した。
「本当に新入りちゃんかあ。色々案内してあげたいけど、今日はお祭りだから皆出払ってるんだよね」
「それって街の皆が一斉にどっかいってしまうようなものなの?」
無人の街を見渡して、首を竦める。この人は何処も休業中なのにどう買い物を済ませてきたのだろうかと、上手く回らない頭が薄らと違和感を告げていた。
「そりゃあ年に一度のハロウィンの日だから。皆浮かれるのよ」
彼女は当然と言わんばかりに答えた。古代ケルトの収穫祭から子供の仮装パーティに変化した民間行事の名が、胸に引っかかる。
「ねえ、名前が分からないなら透明人間って呼ぶけど良い?」
「……悪口みたいな響きだわ、それ」


 透明人間という言葉に異様な嫌悪を覚えたかと思えば、強烈な眩暈がした。
 フラッシュバックのように、断片的な映像記憶が頭に雪崩込む。丘の上のジュニアハイスクール。萎びた寮館。厳しい寮母。三角帽の女、魔女。
 魔女に扮した女の声が、鼓膜を通さず脳を揺らす。
『アンタは透明人間』
血を模した真紅を纏う唇から飛び出た罵声。長い爪で額を弾かれる痛み。揺れるブロンドの髪。人工的なコロンの香り。
 私が透明ではなかった時の、最後の記憶。

 記憶の断片が繋がって、忘れていた事が次々と蘇る。それはハロウィンの昼の事だった。
 確かその日は、女子寮に残っている皆で寮を抜け出し仮装をして街に繰り出そうと計画を立てていたのだ。
 甘いお菓子は特別好きという訳ではないけれど、悪戯は好きだったから私も少々張り切って魔女の三角帽と箒を用意していた。けれど当日、寮の裏手に集合した私の格好を見るなり、リーダーのタイラーが仮装を改めるよう命じたのだった。
 彼女も魔女仮装をしていたからだろう。彼女は鍔の広い三角帽を斜めに被って長い脚を強調する深いスリットの入った黒いドレスにフォックスファーのマントを羽織っていた。酷く大人びた格好だった。
 タイラーは目鼻立ちも整っていて運動もできる女子のリーダーだが、目立ちたがり屋で我儘を通さなければ気が済まない質だった。それに私は彼女よりも一学年後輩で、ちょっとやそっとの事で彼女に逆らうのは憚られた。
 それで私は透明人間に扮するよう指示されたのだ。
 いや、扮するというのは適切ではなかった。それは私を仮装行列に参加させない口実であり、嫌がらせの類だった。
 まず、彼女は透明人間は声だけの存在なのだと主張した。そうして彼氏とお揃いのストラップを付けた携帯を取り出し、私にマイクを向け口上を言わせた。
『……ト、トリック・オア・トリート! お菓子をくれなきゃ、悪戯するよっ』
独りだけで言う口上は滑稽に感じたが、その惨めさにタイラーは満足したようで、優越感に満ちた嗜虐の笑みを浮かべていた。タイラーは長い付け爪の目立つ指で私の額を弾いて、上出来だと高飛車に褒めた。彼女が笑う度、その豊かなブロンドは生き物のように揺れていた。

 更に、彼女は運搬式のトラッシュボックスの蓋を開けて私にその中に入るように言った。
『じゃ、アンタは此処に隠れてな。お菓子は帰ったら分けてあげるから』
今朝が可燃ゴミの回収日だった為か、幸いにもトラッシュボックスは空だった。人が入れるスペースも十分にあるが、ボックスに染みついたゴミの匂いは屈辱を誘う。
『そんなとこに隠れなくても、普通に談話室に帰るわ』
寮の中で待つと言ったが、タイラーはそれを良しとしなかった。
『ダメ。例えば、誰かが見回りに来た時、アンタだけが寮に居たらどう? 皆居ないのと一人だけ居るのじゃ話が違うでしょ?』
タイラーが私に詰め寄った。近くで見るタイラーの顔は化粧が濃い事を差し引いても、本当に整っていた。美人は凄むと殊に威圧的だ。
『アンタの声は透明人間として私達と街に行けるのよ? 私達と仮装行列に参加しておきながら『自分はずっと寮に居ました』なんて良い子ちゃんな事を言うつもりなの?』
タイラーが独自の理論で詰る。唾が飛ぶ距離まで近付けた顔が余りに威圧的で、言葉に詰まった。
 じゃあお菓子なんていらない。そう断わるつもりが、もたもたしている内にタイラーに突き飛ばされて、背中からトラッシュボックスに突っ込んだ。そのまま蓋が締まり、ゴミの匂いがムッと私を包んだ。
『ほうら、アンタみたいに居るんだか居ないんだか分かんない奴はそれがお似合いだよ』

 私が鼻を摘んでいる内に、仮装行列の笑い声と足音はやや駆け足で遠ざかって行った。
 出なくては、と思ったが出ても所詮独りだと考えると、動くのが面倒になった。匂いに慣れると暗い閉鎖空間の中も案外心地が良い事に気付いた。根がソリストで秘密主義者だからだろう。それに、孤独は広い空間よりも閉鎖した空間の方が誤魔化された。
 ぼんやりと温い絶望に寄り添いながら、私はトラッシュボックスで微睡んだ。

 最後の記憶は、突然に差し込んだ光だった。
 蓋が開けられたのだと脳が状況処理したと同時に、襲い掛かってきた質量。そして打撲と圧迫、激痛。


 果たしてハロウィンの昼の記憶が確かならば、今此処に居る私は何者か。湧き出した疑問は、背筋に汗を滲ませた。
「……私、実は死んでるんじゃないかしら」
突然物騒な事を口にする私に、多眼が呆けた顔をした。
「本当の私は誰かが棄てたゴミの塊に押し潰されて死んでるんじゃないかしら。だって、普通は私がトラッシュボックスに入ってるなんて思いもしなかっただろうから」
どうして彼女は透明な人間という異常事態をあっさりと受け入れるのか、何故当たり前のように彼女は異形なのか、そう考えるとどうしてもその答えが当たっているように思えた。
 理科の先生が「透明人間は眼が見えない」と言っていたのを思い出す。水晶体の屈折率が空気と同様だと網膜に像を結べず光を感知することすらできないのだと。生き物としての在り方を捻じ曲げて存在する私は、きっと化け物だ。
「私もだよ」
多眼は私の話を否定しなかった。それどころか、世間話の延長線のように同調してきた。
「私は火災。深夜に発生したトラッキング現象で、気付いた時には家の大部分が焼け落ちてた」
他人事のように告げ、彼女は溶けかけたアイスクリームを掬った。

 深刻さに欠ける彼女の口調に反して、私の蟀谷には嫌な汗が伝っていた。
「アンタ、本当に何も知らなんだ。自分が死んだ事も分からなかったなんて、可哀想に」
呆れたような、驚いたような多眼の声。それは私の混乱した頭には何処か遠い所からの音に感じた。トラッシュボックスの光景を何度も頭に思い描く。僅か一瞬の微かな光と、強かな痛み。硬い感触と衝撃。殆ど把握する間も無かった出来事を、幾度も幾度も反芻する。
「そりゃあ曖昧にもなるんじゃない? 今日はハロウィンだもんね」
此岸と彼岸が繋がる日だから、と多眼が気楽に言う。死者が生者に混じる日は、生者が死者の国へ迷い込む事だってあれば、死者が己を生者と錯覚する事も珍しくないと。私もハロウィンの発祥は此岸の知人を訪ねて来る死者と共にやって来る悪い精霊や魔女から身を守る為に行った催しだと聞いた事くらいはあった。
 隔たったはずの生者と死者が入り混じるなんて酷く奇妙に思えたが、彼女にとっては毎年の祭りと変わらない普通の事ないのだろう。彼女は此岸で買い物を済ませてきたと、無邪気に紙袋を見せてくれた。彼女が平常な程、現状を受け入れられていない私がおかしい気がして空恐ろしい。

 盛大な冗談か白昼夢の類であってほしいと願った。けれど見慣れない街並は鮮明で、夢や幻で片付けるにはあまりにも出来過ぎていた。私は夢を見ているのでも、化かされているのでもないらしい。
「じゃあ此処は死後の世界だっていうの」
「他に何て言ったかなあ。ハロウィン・タウンとか?」
多眼をキョロキョロさせた彼女が暫し考えてから、冗長に答えた。
「シン・シティとか、地獄の三丁目とか、後は何て呼ばれてたっけ」
幼い頃に視聴した教育アニメに描かれていた煉獄のイメージとは似ても似つかない、まるでパラレルワールドといった方が適切な世界観。
「黄泉とか、インフェルノとか。ああ、そう。奈落って言い方はいまいち好きになれないの」
彼女の口からは兎角酷い言葉がつらつらと出てきた。彼岸と言っても、天国や極楽浄土とは対極の場所らしい。よもや自分に縁があるとは想定すらしていなかった、けれど異形の集う場所にはふさわしい名前の数々に血の気が引いていく。
「まあ住めば都とも言うから大丈夫だって」
多眼の彼女が顔面の計六つの眼を細めて微笑んだ。私は全然大丈夫などではなかった。
「私より余程地獄がお似合いな輩がのうのうと生きてるっていうのに」
どうして私ばかりが酷い目に遭うのだろう。そう泣き言を零してしまえば最後、恨み節が次々と出てきた。頭の中が、魔女に扮したあの女の顔でいっぱいだった。
「あらら。自身の業を背負う覚悟がまだ出来ていないんだ。我が身を助けないのは立派な罪だってのに」
私の身の上を聞いた多眼が優しい口調で突き放す。此処は生前の業に見合った姿で営み続ける応報の土地なのだと。
 彼女の顔に付いた六つの瞳が、見えない筈の私を何もかも見透かしたように見据えていた。
「納得がいかないなら、納得を付けに行ったらどう?」

 多眼の提案は甘美だった。
 受け入れ難い境遇を飲み込むには、相応の整理を付ける必要があると彼女は囁いた。つまり、怨恨の清算だ。
 自身の犯した罪は語らなかった彼女だが、その根底は罪悪を肯った上で生きている者であると思い知らされた。そして、そんな提案に心躍らせてしまった私も、本質は彼女と同類だったのだろう。
「もてなしを受けなかった怪物は、悪戯をするものだよ?」
トリック・オア・トリートよ。と多眼の口元が綻んだ。
 復讐への欲求は、私の胸を陶然と焦がした。理不尽さへの悲嘆が憤りに代わり、私の心を漲らせた。人の倫理や生ける者の法に縛られる必要の無くなった化け物になった所為なのか、人の身故の無力さに抑圧されていただけで元々持っていたものなのか、そんな事は最早定かではない陰湿な愉悦。

 そうだ。私はまだお菓子も貰えていないままなのだ。


 此岸と彼岸が繋がるハロウィンの内は、彼岸の者も生者の国へと踏み入る事が赦される。例え世間が祭りでも、私が死んだばかりの日でも、そんな絶好の復讐の機会を逃すなどできはしない。

 此岸では日が傾きかけ、仮装して街を彷徨く人々の年齢層も子供から大人へと切り替わっていた。
 ハロウィンに染まった街は仮装した人で溢れ、きっと私が透明ではなくて狼人間になっていたとしても、人々には化け物ではなく仮装を楽しむただの人に見えたことだろう。人の群れの中には私と同じように本当に人ならざるものも混じっている事だろうと思いながら、私は丘の上の女子寮を目指した。
 恐ろしく意地悪で厄介だったあの女の顔を早く拝みたいと思ったのは、今日が初めてだった。タイラーの事を考えると、まるで恋でもしているように胸が弾んだ。


 私が寮に忍び込み、彼女に割り当てられた部屋に訪れた頃、丁度タイラーは魔女の仮装を脱いで呑気にシャワーを浴びていた。
 私が寮の裏手のトラッシュボックスの中で死んでいるとも知らず、シャワー室に鼻歌を響かせていた。菓子を分けてやると言っていたが、私を捜す事すらしなかったのだろう。
「なんて可愛らしいブラかしら。殆どパッドじゃない」
湯気が立ち込める場所では折角の透明の身体も輪郭が露わになってしまいかねないので、手前の脱衣所で待機する。その間、洗濯籠に投げ入れられている彼女の衣服を漁った。シャワーに大抵の音が掻き消されるのを良い事に、声を殺す事も忘れて私は笑った。
 挑発的な衣装の下に着るに相応しい黒いレースに縁取られたサテン地のブラジャーを手にする。セクシーで大人びたデザインのそれが厚手のパッドで膨らまされている滑稽さがアンバランスだ。
 踏ん反るように胸を張っている分余計に目立っていた彼女の胸を思い出す。早熟だろうと所詮はミドルティーンなのだと、艶やかなサテン地が彼女の幼稚さとコンプレックスを強調した。彼女が張っていた見得を暴いた優越感に、私は鼻を膨らませた。
 明日の早朝からクラブのミーティングが無ければ寮を抜け出したついでに彼氏の家にでも泊まるのではないかと思っていたが、案外、この胸の為に彼氏とは進展していないのかもしれない。
 だとしたら、タイラーはまだおぼこく、私の存在にもっと狼狽してくれるかもしれない。ただ純粋な暴力のつもりだった復讐が、あっという間に邪な熱を孕む。彼女の更なる痴態を暴きたいと、私の下腹が甘く疼いた。
「ダーラ? 来てるの?」
シャワーから出たタイラーが、人の気配を感じたのか彼女の友人の名を呼ぶ。勿論返事は返さない。タイラーは無音の室内に首を傾げながら、バスタオルを取って身体を拭いた。化粧のない彼女の顔を見るのは、初等部以来だった。ファンデーションが無いと頬や鼻に散った雀斑が目立つ。けれど、並の女の子達よりは遥かに整っていて、華のある顔立ちだった。ファッション雑誌に載っている大人をそのまま背丈を小さくしたようなスリムな身体。寧ろ、大人達より臀部が小さい分、儚くて愛らしい。陰惨で身勝手な魔女の性を持っているなんて、信じられない程だ。
 濡れた金糸の髪は形の良い額に張り付いて、丸い頭蓋を強調していた。広いデコルテや皮の薄い鎖骨は、齧り付きたくなる。

 可愛い可愛い、憎らしいタイラー。私をトラッシュボックスに突き落とした魔女。
 私の最期を決定付けた女。

 その白くて薄い皮膚に私の歯型を付けて、赤い痕で埋め尽くしたい。
 彼女が忘れ透明にした私を、彼女に刻み付けて忘れられなくしたい。
「ハロウィンはまだこれからよ、タイラー」
身体を拭き終わって着替えを取ろうと脱衣所に踏み入ったタイラーの耳元で囁いた。私の息を耳に感じた彼女は反射的に振り返って辺りを見回した。
「良い度胸じゃない、何時まで透明人間やってるつもりよケイト」
左右を必死に確認しながら、タイラーは見当違いな方向を向いて啖呵を切った。呼んだのは私の名前だろう。呼ばれて漸く思い出したが、自分でも驚く程どうでもよかった。恐らく、寮の裏手のトラッシュボックスを覗けばそこで死んでいる私の顔も拝めるのだろうが、それにも全く興味が湧かなかった。最早自分がどんな名前でどんな貌だったのかなど、無意味な事に思えた。姿形があろうと、軽んじられ忘れられた身だ。どうせ大抵の少女の容姿など、この女に比べれられてしまえば途端に嘲笑の的になる。そんな上面の模様など、もう不要に思えた。それよりも、彼女からイニシアチブを奪えるこの超常的な身体の方が良い。
「ずっとよ。私はこれからずっと透明人間よ」
本当は、ずっと前から透明だった気がする。誰もが私を素通りしていくのだから、数に入れられずに省かれる身だったのだから。いっそ本当に見えない方が相応しい。
「でもね。私を透明人間にしたのは貴女よ、タイラー」
責任を取ってね。などとガールフレンドが初めての彼氏に言うように囁いた。

 背後から掌でタイラーの肩甲骨から骨盤にかけてをゆるりと撫でる。一瞬にしてまだ湿った肌に鳥肌が立ち上がった。
「お菓子か悪戯か。貴女は既に選んだ筈だわ」
貴女は私に何もくれなかった。奪うばかりだと詰れば、タイラーは首を振る。
「出てきなケイト、その気味悪い悪戯! 全っ然意味分かんないから!」
脱衣所にタイラーの怒声が響く。強気な口調で出て来いと啖呵を切りながらも、タイラーの態度は不安を隠し切れていない。威勢の良い言葉に反して、彼女は自分を抱くように腕を組んで防御姿勢を取っていた。姿が見えない事に不安を覚えているのは明白だった。撫でられた感触と声の近さから、すぐ傍に居るに違いない筈の私の姿が見えないのは、いくら何でもおかしいと感じているらしい。

 彼女の足首を掴んで、脱衣所に引き倒す。引き攣れた悲鳴と共に、タイラーは脱衣所の固い床に頭と背中を打つように転がった。痛みに歪んだ彼女の顔には、混乱と恐慌がしっかりと顕れていた。
 この世ならざる異常性に気付いたタイラーが叫び出そうとするので、馬乗りになって口を塞ぐ。タイラーのくぐもった声が、私の掌に吸われていった。
「何を驚いているの? 貴女にとっては元々私なんて透明人間だったじゃない。それがちょっと相応しい形になっただけ」
彼女が私を居るんだか居ないんだか分からないヤツだと称したように。彼女の言葉を思い出すと、心の柔らかい部分がキリリと痛み出し、彼女の口を塞ぐ手にも力が入る。
 タイラーは蛍光灯の光を反射させた眼を涙で潤ませ、虐待される小動物のように震えた。こんな女でも我が身は可愛いのだと思えば滑稽で、食い縛った歯の隙間から歪な笑いが漏れた。
「貴女もきっと私と同じように化け物になるんでしょうね。魔女になるのかしら」
因果応報なのだ。罪には罰を。生前の悪業には死後も続く悔悟を。菓子もくれない待遇に報復の悪戯を。
 私が光学に反した化け物になったのが、我が身を助ける事を怠った所為だというのなら、きっと彼女が私から報いを受ける為でもあるのだろう。そう考えれば、あれ程理不尽だと嘆いた定めも歓んで受け入れられた。彼女と私の悪業が、今この時を以って清算されようとしている。
「真っ赤な口紅、似合ってたわ。貴女は生き人の血を啜るのがお似合いかも」
タイラーの震える唇を吸う。復讐は蜜の味と言われるけれど、この蜜は清々しくも苦い。そして禍々しく、恐ろしい程に甘かった。

 タイラーの口からは、人工的な甘味料の匂いがした。仮装行列で手に入れたお菓子を食べたのだろう。彼女はもう悲鳴を上げず、小さく断続的に不明瞭な嗚咽を漏らした。
 私の下敷きになった彼女は標本にされた羽虫のよう。固い脱衣所の床に縫い付けられたタイラーは、面白い程に憐れだった。我儘で高圧的な恐ろしい女王のようだった彼女も、こうして見ればただの少女なのだと実感し、思わず感嘆が漏れる。

 もう一度、戦慄くタイラーの唇を吸った。彼女の口はリコリス飴の味だ。
 皮の薄い首筋を舌で辿り、鎖骨を食めば、彼女の肩が跳ねる。エスカレートしていく性的なニュアンスに気付いて、彼女は床に背が擦れるのも構わず藻掻いた。
「やだっ……やだ、そんなのっやめなさいよ!」
彼女の脚が私の尻の後ろでじたばたと床を掻き、踵が壁を蹴る。それに伴って、重力の為に厚みを殆ど失った貧相な胸が申し訳程度に揺れていた。慎ましやか過ぎる双丘の頂点には、恐怖の所為か肌寒さの所為か小豆色の乳首が立ち上がっている。新陳代謝が活発なのだろう、それは存外に色濃く、可愛らしさに欠けていた。
「あら貴女、本当におぼこなのね?」
新雪を踏むような高揚を覚え、恐らく彼氏にも触らせた事のないであろうそこを摘む。
「ひぃっ、やめなさいよぉっ」
彼女の抵抗が一層強くなる。その拍子に体重をかけて乗っていた筈の私の上体がぐらりと揺れ、タイラーの腕に頬を弾かれる。小さいながらも小気味良い音がした。
 その肉を叩く乾いた音を皮切りに、一瞬の沈黙が訪れる。

 この音も屈辱的な頬の痛みも、生前の記憶として覚えがあった。そして彼女にとっては、私とは反対の意味を持つ記憶として手応えがあったに違いない。私の頬を張った感触を認めたタイラーは、騒ぐのを止めて冷静さを取り戻そうとしていた。
「いい加減にしな、ケイトっこの変態っ」
もう一発、頬に痛みが走る。先程と違って、その動きには我武者羅な抵抗ではなく気丈な攻撃の意図が芽生えていた。見えずとも物理的な接触は多いに有効だと察したタイラーは調子を取り戻し、腕を振り回し悪態を吐く。
「意味分かんねえんだよっこのグズっ!」
彼女の腕を避ける事に気を取られた所為で身体の重心が後ろへとずれてしまった隙を突いて、タイラーの上半身が起き上がる。
「死ね! ブッ殺してやる!!」
タイラーが整った顔を歪に歪めて吠えた。彼女が振りかぶった手を避けるには距離が取り切れず、尖った爪の先が私の頬から鼻を掠め、指先が髪を絡め取っていった。毛髪が頭皮から引き剥がされる嫌な音が聞こえ、カッと頭に血が上った。
「もう死んでるのよっアンタの所為でっ」
髪を掴み返して、タイラーの小さな顔を力の限り叩いた。間髪入れずに額を抑えて、床に後頭部を叩きつける。硬い者同士がぶつかる音がして、タイラーがヒキガエルのように呻いた。
「ぐあぁっ、ヴェッ」
再び寝床に背を付ける格好になった彼女の顔面に肘を入れる。そうして立ち上がる機会を削いでから素早く立ち上がり、脱衣所に置かれた洗面器具の中から鋏を取った。パールピンクの柄が可愛らしい眉切鋏だった。刃は短くとも鋭利で、先端は鋭く尖り、蛍光灯の光を受けて白銀に輝いていた。
「今度は私が奪う。今度は私がアンタを辱める」

 再び馬乗りになって、既に血を垂らしているタイラーの鼻腔に刃を入れる。思い切り肘を入れた所為か、心無しか彼女の鼻が歪んでいるように見えた。鼻骨が損傷したのか頬が腫れている所為でそう見えるのかは定かではないが、歪んで腫れ上がり血と涙でどろどろに汚れた彼女は、普段の可憐な貌が嘘のようで酷く哀れで可愛かった。

 右の穴と左の穴を開通させるように鼻を切る。口と鼻も繋がるよう、上唇も縦に切る。小さな刃を動かしていると、初等部の工作の授業を思い出し、無邪気で幼い気分になってくる。
「兎さんみたいよ、貴女。可愛いわ」
兎は万年発情期だそうだと嗤えば、鼻腔を血で満たされて上手く発音できないタイラーが濁音だらけの声で呻いた。恐らく、止めてくれと懇願したに違いない。
 それを無視して薄い乳房に鋏を突き入れる。肺や肋には到底到達し得ない短い刃が、ズプリズプリと肉に埋まっては溢れる血と共に引き抜かれる。刃が肉に沈む度、タイラーは痛みに喘ぎ、獣のような声を出した。肉に出し入れされる刃に合わせて藻掻く彼女の動きは、性交を連想させた。


 私は彼女に怨恨の一言で済ませるには強い執着を感じていた。彼女を壊している実感が私を陶酔させ、憎悪と混線した執着がもっと彼女に触れたいと囁く。暴いて辱めて、髪の毛の一本から血の一滴まで支配したいと心臓が騒めく。そこには報復と暴力のカタルシスの他に、愛憎と呼べそうな愛着が確かに生まれていた。
「ねえタイラー、知ってる? ママから聞いたんだけど、乳首って千切れても生えてくるんですって」
彼女の小豆色の乳首に刃先を当てる。少しずつ鋏を持つ指に力を入れると、直径が小指の爪程しかない小さな乳首にすっかり切れ味を失った刃が緩慢に食い込んでいく。鋏の刃が短すぎたのと切れ味を損ねているのが災いして、一発では切り落とせず、何度も鋏を入れるはめになった。
「ひゃだ……も、じないで……いだい、いだいよぉ……」
どこか幼い口調で彼女は懇願した。普段は命令調で話す彼女がそんな風に弱弱しく健気な言葉を使うものだから、酷く興奮した。顔の下半分が赤く染まっている上に、涙でも醜く濡れて眼も腫れているというのに、今の彼女は一等愛しかった。

 彼女の弱弱しい懇願が私の心を潤し、彼女の血が私の身体を彩る。
 鋏から伝わった彼女の血が、私の腕を濡らし透明だった輪郭が赤く露わにしていく。今の彼女の存在こそが、私を確かなものにする。そんな陶酔すら覚えた。


 穴だらけになったタイラーの乳房に口を寄せ、乳飲み子のように彼女の血を啜った。
 それはリコリス飴より芳醇で、地上のどんな菓子よりも甘美なものに感じられた。苦い怨讐を清算する、禍々しくも甘い復讐の味だからだ。

 抵抗も弱弱しくなった彼女が啜り泣くのを聞いていると、ずっとこうしていたいという願いが湧いてきた。光学に反した異形の身体は気に入っているというのに、ハロウィンの日が終わる前に彼岸の国へ帰らなくてはならない死人の身が憎いとすら思った。
「可愛い可愛い、憎らしいタイラー。今度は私が貴女の最期を彩る番よ」
彼女を彼岸に連れていったら毎日今日と同じ事が出来るだろうかと考えながら、彼女の震える首筋に刃を滑らせた。



back
top
[bookmark]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -