加虐の劣等、相互不理解

 今野 篤則は、ヒッと小さく悲鳴を上げた。
 この春から今野の住むマンションに新しく越してきたという青年の自己紹介を聞いた瞬間、彼の記憶中枢が警告を発したのだ。その恐怖心に従って急いで玄関の扉を閉めようとしたが、それは叶わなかった。扉にカジュアルなスニーカーを履いた青年の脚が捩じ込まれたからだ。
「いや、そこは歓迎してよ。久々の再会だよ? アッちゃん」
冷たいなあ、と今野を非難する青年の声は野太いが、人懐こさに溢れていた。
 それが今野にとっては余計に不気味だった。彼は鼻梁を滑り落ちるデザイン性に欠けた黒縁眼鏡を直す事もせず、声を荒げる。
「何しに来たんだ」
靴を挟んだままの青年は、10センチ程度の扉の隙間に顔を最大限近づけて今野を覗いていた。眼の位置が今野の背より高い分、酷く威圧的だ。礼節に欠く若い三白眼が、真っ直ぐに今野の血色の悪い顔を見つめていた。
「引っ越しの挨拶だよ。入れてよ。茶くらい出そうぜ」
図々しい文句に、扉を閉めようとする今野の手に力が入る。
「ちょ、痛いって。痛い」
当然、安全靴でもなければ革靴ですらないラフなスニーカーでは圧迫に耐え切れず、扉の向こうの相手が脚の痛みに呻く。しかし、今野は必死だった。
 扉を抉じ開けようとしてくるこの青年、緒方 正太郎は今野の重篤な秘密を知っている。
「いいから入れてって」
「絶対嫌だ。頼むから帰ってくれ。僕は誰にも関わる気は無いんだ」
今野は怯えた声で応じるが、相手取る緒方は肉体の全盛期真っ只中のラストティーン。在宅ワーカーでインドアを極めた三十路後半の鈍った身体では、出せる腕力に限界がある。それでも精一杯身体中の筋肉を震わせて抵抗する今野だが、緒方が嫌にドスの効いた声で切り札を提示した。
「入れないと、此処でアッちゃんがショタコンだってバラす」


 10年前、まだランドセルを背負っていた頃の緒方は今野の実家の近所に住んでいた。その頃は彼の生意気な三白眼にも愛嬌があって、冬でも半袖で公園を駆け回る元気な子供だった。そんな可愛らしい児童期の緒方の遊び相手が今野だった。当時の今野と言えば、今の職が漸く安定してきたばかりの頃だった。
 緒方の両親は共働きな上に兄弟も多い所為か放任主義で、託児所のような感覚で彼を頼んでくることも屡々だった。今野の実家は治安の良い文教地区に位置しており、公園も近かった事が余計にそうさせたのかもしれない。
 年端の行かない子供の、しかも同性を性愛の対象とする今野の性癖は、先天性のものだ。人生で一度たりとも同年代の女性や同性に何ら性的魅力を感じ取ることが出来ないでいたのである。けれど、緒方に手を出した事は無い。仕事の合間に公園へ出かけたり、自宅の対戦用テレビゲームで相手をしたりする程度の関わりに留めていた。親兄弟にとて、今野は自身の性癖を明かした事は無かった。
 それでも緒方が彼の今野を知ってしまったのは、彼のピーピングによるものだ。今野が彼に茶と菓子を用意するために席を立った数分の間に、緒方は幼い悪戯心で今野のノートパソコンを起動させてしまったのだ。誕生日と名前の組み合わせという安直な暗証番号を設定した今野に落ち度が無かった訳ではない。根本的には子供の行動力への軽視と危機管理能力の甘さが招いた事だった。
『アッちゃんってさ……ロリコン?っていうやつなの?』
無邪気な気持ちで画像ファイルを展開した幼い日の緒方には、衝撃的だったことだろう。パソコンに記録された異様な少年達の画像を前に、緒方は素っ頓狂な声で今野に聞いた。
『ショタコンかな……ごめん、気持ち悪いよね』
少年の無垢な双眸を、今も今野は忘れられずにいる。この無垢を、踏み躙る忌まわしい存在こそが自分なのだと、自己嫌悪に思考が淀む。
『ごめん。誰にも言わないで。正太郎くんは、もうここには来ない方が良い』
『ねえ、ショタコンって、なに』
このやり取りは今も今野の夢に出てくる。悪夢だ。自身の悍ましさを突きつける決定的な瞬間として、海馬に永久保存されているに違いない。

 それから緒方は姿を見せなくなった。家族で引っ越したと聞いたのは、その数週間後の事だった。
 緒方から今野の正体を聞いたなら、真っ当な親はそんな変態の居る街に子供達を置いてはおけないと判断するのだろう。人との繋がりの儚さと脆さを突きつけられた傷心とは裏腹に、今野にはそんな納得が頭を締めていた。
 ただ幸いだったのは、今野の正体は隣近所には伝わっておらず、やや孤独ながらも変わらぬ生活が続けられた事だ。
 それなのに、緒方は10年以上経った今、今野の下を訪れた。父の逝去をきっかけに公園近くの実家を売り払い、より地域コミュニティとの関わりの薄いマンションに引っ越したというのに。彼は今野の所在を知っていた。その事実に今野は動揺を隠せずにいる。


 緒方の脅しに屈した今野は目の前に居座る緒方を見遣り、唇を噛んだ。
 今の緒方は少年の骨格を完全に捨て、今野より拳二つ分ほど背が高かった。完成された骨格に付いた筋肉は、一般的な成人男性よりも遥かに立派である。腕白な三白眼は、悪戯や生意気という形容を通り越して凶暴にすら見える。
「……復讐のつもりか」
歓迎とは正反対の手付きでインスタント珈琲を出した今野は、出来る限り低い声で緒方に応じた。独り暮らしで来客者も居ない今野の冷蔵庫には作り置きの茶など無く、わざわざ茶を入れるような時間も割きたくは無かったのだ。
「言っておくけど、君に手を出すつもりは無かったし、これからだって子供に手を出すなんて事はしない。僕は独り、静かに暮らしていきたいんだ」
今野はやや早口で捲し立てた。緒方一家が引っ越しをせざるを得なくなった原因となった事に罪悪感を抱かない訳ではない。学校という閉じた世界が日常の大部分を占める小学生にとって、転校は人生の転機そのものだ。
「独りで」
緒方はローテーブルに向かい合って座る二人の間に置かれた珈琲マグに視線を落とした。二つのそれはデザインが全く異なり、客人の一人さえここには招く気が無い生活をしていた事は聞かずとも分かる事ではあった。けれど無遠慮さだけは子供のままなのか、鸚鵡のように今野の言葉を拾っていた。
「そうだ。ショタコンは認めよう。けどね、僕にだって成就させてはいけない欲求を抑制する分別ぐらいあるさ」
恋人は作れない。家族はまたの夢。あの一件以来、今野は人間不信にすら見える程、他人との接触を厭うようになっていた。元より、在宅の仕事を選んだ辺り、その気質は昔からあったものだろう。しかし、何気ない接触にすら、もしや己の悍ましい本性が見透かされているのではと疑心暗鬼になって止まなくなったのは、緒方と関わってからだ。己の歪で社会倫理に反する性癖への負い目が、人と接するとなると鎌首を擡げ彼を一層卑屈にさせた。
「別に復讐とか考えてないけど……アッちゃんはいつの間に俺の事も嫌いになったの」
「軽蔑されていると分かっていて好意を持ち続けられる程強い人間の方が稀だと思うけど」
今野は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。神経質な双眸が厚手のレンズの奥で細まる。緒方という侵略者をどう処理すべきか測りかねていた。
「そのクセは変わらないね」
困ってる時のクセだと緒方は懐かし気に指摘するが、クセというのは大抵は無意識の所作であって、本人に自覚がある事の方が少ない。今野はすっかり困り果てて、手をローテーブルの下で隠すように組んだ。

 自身のコミュニケーション能力の低さに辟易としながら、今野は聞きたい事を端から聞く事にした。
「復讐じゃなきゃ何だ。というかまず、どうしてウチを知ったんだ」
今野が戦々恐々としている事も相俟って、悠々と珈琲を啜る緒方の方が部屋の主ではないかと錯覚する様な絵面だった。
「それね。去年高校の職業実習でデイサービスに行ったら則子さんがいてさぁ。則子さん、まだ俺の事覚えてくれてんのな」
則子とは、今野の母親の名だ。弟夫婦と近居しているが、殆どデイサービスに世話になっていると今野は聞いていた。彼女は高血圧を懸念する身体になったものの、記憶力は未だ健在である。そして、今野と緒方に何があったのかを彼女は知らない。今野の性癖自体を知らないのだから当然と言えば当然ではあるのだが、今野は母親を恨んだ。
「……高校に抗議の電話を入れてやる」
実習中に利用者から個人情報を仕入れた挙句利用するとは劣悪極まると今野が呻く。緒方は能天気に反省の欠片も見せない軽快な口調で謝罪した。
「そんで就職先が此処から近いから、同棲しようかなって思って」
「ああ、もう卒業してるのか」
「そう。今月で19」
「それはおめでとう。いや、ちょっと待て同棲って、一体どうした?」
百歩譲って同居という言葉に替えるとして、引っ越しの挨拶と言ったではないかと今野が詰る。
「だから、此処に引っ越そうかと思って」
緒方が物分かりの悪い子供に言うようにテンポを落として言った。
「大家さんに交渉したらアッちゃんの了承次第って言われたから。もう問題無いじゃん? よろしく」
緒方の脚がローテーブルの下で接触し、今野は思わず後退った。
「僕は嫌だよ」
「どうして」
緒方に秘密を握られている以上、交渉は今野の不利でしかないが彼は反射的に拒否した。
「どうしてって」
あまりに当然の事を聞かれ、言葉に窮する。寧ろ、友達というには年の離れた社会不適合者と共に暮らそうと考える神経回路の方が突飛だと言うのに。非常識な選択を忌避する方に釈明を求められるなど、誰が予測しただろう。幼い彼に世の中の汚さを見せつけた負い目が今野を吃らせる。
「勘弁してくれ。生活費を浮かせたいなら、僕の秘密を口外しない事を条件に家賃も光熱費も僕が持ってやる。だから別の物件を当たれ」
「アッちゃん、それは答えになってない」
逡巡の末にタカリの一種ではないかと結論付けた今野は、交渉を試みるも失敗。緒方は純粋に拒絶の理由が欲しかったのである。何でも聞けば答えが手に入ると思っている暴慢な幼稚さが、コンプレックス塗れの今野の心の内を無遠慮に突く。
「ほら、嫌ってるのはアッちゃんの方じゃん。俺は金を強請りに来た訳でもないし、復讐したいとも言ってないんだけど」
被害妄想で話を進めるなと、緒方がローテーブルを退かして今野に詰め寄る。その分詰まった距離を保とうと後退った今野の背に、マンションの堅い壁が当たる。

 「俺は好きだよ、アッちゃんのこと」
「そんな訳が無い」
予想とは正反対の感情を提示され、今野は反射的に否定した。
「ていうか、アッちゃんは別に俺に何も悪い事してなくない?」
今野が後生秘密にしていたものを暴いたのは緒方だ。当時の緒方の幼さや今野の監督責任を鑑みれば今野に非が無いとは言い難いが、そこに悪意どころか性欲の欠片も無かった事も確かだ。けれど、そんな言い訳を許せないのは、非倫理的な性癖とは裏腹に繊細で傷付き易い今野の良心だ。
「君は僕の所為で幼くして知らなくても良い事を知ってしまった」
子供が安心して安全に暮らすのは当然の権利だ。自身が醜い性欲の対象にされているなんて、大人への信頼を揺るがすような事は知るべきではない。緒方が非常識ぶりを発揮する程、彼の人生及び人格形成を歪ませてしまったのではという罪悪感が今野の胸を刺した。
「まあ、確かにちょっと歪んだよ」
緒方が苦笑する。三白眼が無邪気でいられた泡沫の日々を懐古するようにスゥと細められる。
「……済まない」
壁を背に座った今野は力無く謝罪した。彼の力仕事を知らない細いばかりの指がカーペットを掻き毟った。面と向かって言われると、想定していたよりもずっと重い苦しさが込み上げていた。
「アッちゃんは年端のいかない子供が好きで、本当は俺の事もそんな目で見てたんだって思ったら、頭ん中、グルグルしちゃってさあ」
あの日パソコン画面に映し出されていた、未完成な少年の身体。黒いランドセルを背負った腕白そうな少年のイラストレーション。小麦色の肌の子供達。男と女の中間の華奢な手足に対するフェチズム。褐色に焼けた肌と日焼けを逃れた白くまろい臀部のコントラスト。子供を食い物にしようと涎を垂らす醜悪な大人の暴力性がそこにはあった。
 今野は再び謝罪を口にした。けれど、緒方は喜々として彼に詰め寄った。
「ねえ、俺の事もそういう眼で見てた? 俺でヌいた?」
今野の顔の直ぐ横の壁に緒方が手を付いた。
「君にそういう事をしようと思った事は一度もない。これからだって、子供に手を出すなんてしない……やめてくれ……」
問い詰められた今野は顔を伏せる。恥ずべき性癖を暴かれ、誰にも相談する事の出来なかった心の柔らかい部分に緒方は触れたがる。過積載な罪悪感を抱える今野には、この問答は酷く苦痛だった。
「そうだろうね、アッちゃんは結局俺に手を出さなかった。多分、俺が何も知らないままずっとあそこで過ごしてたとしても、アッちゃんは俺に手を出さない」
「そうだ。実際に子どもにそんな酷い事、していい筈が無い」
「それでも、あの日からずっと考えてた。アッちゃんが俺に手を出す妄想」
聞きたい?と今野の耳元で緒方は囁くように問う。しかし、この男は今野の返答など端から待っていやしない。

 耳を塞ごうとした今野の腕を掴んだ緒方が、やや興奮した口調で語り始めた。
「アッちゃんの白い指が、寝てる俺のシャツを捲る。ガキのゴマ溜まった臍をなぞって、舐める」
「ごめんなさい。許して」
緒方に引き倒された今野は幾度目か分からない謝罪を口にする。しかしそれは無視され、緒方は彼の服を捲った。
「確か腹出して寝てる子供のイラスト有ったよな。ちょっと腹が出っ張ってる、烏賊腹っていうの? アレが好きなの?」
緒方は今野の腹を舌でなぞった。壁と緒方に挟まれて、今野は声にならない悲鳴を上げる他に無い。林檎の萼窪に似た臍の窪みに舌を這わされ、今野の薄い腹筋が引き攣る。
「やめてくれ」
今野が緒方の肩口を叩いて押し返そうとするが、力の差は残酷だった。緒方は今野の下腹部を舐めまわしながら、両の手で器用に彼のベルトを外しジッパーを下げにかかっていた。
「あ、意外、ちゃんと剥けてんじゃん。自分で剥いたの?」
とうとう今野の下着まで摺り下げた緒方が至ってマイペースに聞いた。今野にはそれに答えてやる義理も無ければ精神的余裕も無い。「やめて」と「どうして」を繰り返す今野の口は酸欠の金魚のようだった。
「アッちゃんはいつ頃オナニー覚えた? 俺は小4かな。引っ越してすぐ」
緒方が自分のジッパーも下げ、自身の物も取り出して今野のそれと摺り合わせた。その対比も身体の各パーツ同様に緒方の方が大きく育っていて、今野の屈辱と恐怖は本格的なものになった。今野の眦から落ちた涙が眼鏡のレンズを内側から汚した。
「それからずっと、ずぅっと、アッちゃんが俺にこうしてくれる妄想でヌいてた」
今野のそれは萎えたままだが、緒方は確実に興奮を得ていた。下腹部から粘膜質な音が聞こえ始める。滑りを伴った歓迎し難い熱が脈を打つ生々しさに、今野は生娘のように震えた。緒方は今野の耳をしゃぶり、熱っぽい吐息と一緒に告白する。
「アッちゃんにそういう事されなかったのが惜しくて堪んなかった」

 因果関係のおかしい緒方の告白に、今野は鼻を啜りながら反論する。
「君はショックを愛着と履き違えただけだ」
「だとしても、もう遅い」
緒方は温度の無い声で断言した。先程の熱っぽい声音が嘘のように、今野の意見を切り捨てた。好意は示せど、この男にとって今野の自我や尊厳は一考に値しないのである。
「もう俺はアッちゃんが欲情できるような歳じゃなくなっちゃったからさあ、俺の方から手を出すしかないけど。まあ、似たようなモンだよね」
そう自己完結した緒方は今野に愛撫を続けた。

 そうして執着に変わってしまっていた拗れた愛着は、一方的に成就された。

 広くないマンションに、今野の嗚咽が響く。その合間に、断片的な謝罪が挟まれる。今野自身、この状況下において謝罪が有効であるとは微塵も考えてはいなかったが、彼は理不尽な苦痛を与えられると無意識的に謝って許しを乞う質であった。そんな被虐的な反応に、緒方は興奮を覚え、益々元気に無体を働いた。
 抵抗は試みるが、緒方の厚い身体は今野の力ではびくともしない。藻掻くとザラついた壁紙に肘を打って、関節に痣を作るばかりだった。昼間から非常識な音を立てる彼等に苛立ったのか隣室の住人が壁を叩いたが、不幸か幸いか蹂躙されるばかりで周囲を気に留める余裕の無い今野の耳には届かなかった。
 また今野の唇が許してくれと無意味な言葉を紡ぐ。座る事にばかり慣れた彼の貧相な尻は暴かれ、熱の塊が出入りする度に湿った音を立てた。女性のように生理として潤う訳ではないそこの湿りは、緒方の唾液と今野の流す血によるものだった。今野はの指がカーペットを縋るように引っ掻いた。その手に緒方の手が重ねられる。今野の汗でベトつく指の股に、彼とは縦にも横にも一回り大きい武骨な指が割って入ろうとしていた。この暴行としか取れない状況下で、緒方は恋人にでもするような仕草を行いたがった。
「やめ、も、やだ、いやだ」
完全に鼻梁から摺り落ちた眼鏡を拾う余裕も無く、今野は嘔吐きながら歳不相応に駄々を捏ねた。
「久しぶりに正太郎くんって呼んでよ」
「ゆるしてくれ、たのむ、からっ、ひ、うぇっ」
埋まらない温度差に緒方は片眉を吊り上げ、腰の抽挿を早めた。
 謝っているくせに、苛められているのは今野の方だ。咎人の自意識のくせに、その姿は虐げられた小動物だ。その倒錯に、緒方の加虐心が疼く。
 睾丸をせり上がらせた緒方が呻き声を上げて精を放つのは、その数分後の事だった。


 「気が済んだなら帰れ」
床に転がったまま、今野は老人のように掠れた声で言い放った。太腿に様々な体液をこびり付かせたまま横たわり、緒方を睨め付けていた。酷い格好をしている自覚こそあった彼だが、散々暴かれた後では羞恥心も死んでしまった。
「ここに住むって言ってんじゃん」
「正気か」
こんな事をしておいて。と罵倒が幾つか今野の喉元まで出かかるが、今更そんな事を言っても無駄に思えて彼は口を閉ざした。今野の技量では緒方とコミュニケーションは取れまい。先刻、彼はそれを身をもって嫌という程実感したばかりだった。
「君はいずれ僕の事が悍ましくて仕方が無くなる」
代わりに出たのは、呪いめいた牽制だった。接触した記憶自体がいずれ忌まわしい思い出になると、今野は乾いた唇で言葉を紡ぐ。
「君はまだ若いから僕を悍ましく思わないんだろうけど、きっと子供でも作ったら分かるさ。僕の性を軽蔑するだろう。そして、こういう子供に害をなしかねない人間が平気な顔で社会に彷徨いていると考えたら、不安と憤りで眠れなくなるんだ」
今野の口調に自虐めいたものは無かった。予告であり断定された宣言だった。これが彼の倫理に基づいた常識であり、この良心故に今野は存在するだけで罪悪感を抱え込む自傷的な生き方しかできずにいた。緒方は場違いにも、その歪で繊細な自意識を拗らせた情けない年上の男を可愛く思った。
「ずっとアンタでヌいてたヤツに子供が出来ると思ってんの」
「それは、世も末だな」
緒方は床に放られたままの今野のズボンを回収して持ち主に返した。しかし、汚れた身体のままそれに脚を通す気になれない今野は起き上がりはしなかった。芋虫のように転がったまま、更に持論を展開する。
「しかし卑劣だとは思わないのか。自分より遥かに華奢で力も弱くて無力な子供にしか欲情できない男なんて。それだけで軽蔑に値する」
「いや、その理屈だと俺の事もディスってるよね」
自身より遥かに非力な今野を暴いた緒方が抗議の声を上げる。
「そうだな。その卑劣さを改めて思い知った」
今野には撤回も訂正も無い。

 会話のドッヂボールの間に、緒方はとうに冷めきった珈琲を啜っていた。
 その図々しさたるや、一抹の罪悪感すら覚えていないどころか、本当に久方ぶりに知人と戯れに来ただけのように見えるから悍ましい。
「もしかして俺達、破れ鍋に綴じ蓋ってヤツじゃないの」
どちらも主張を譲らないので話は平行線を辿るばかりだった。主に緒方の方が迷惑な主張をしているのだが、追い返す体力は今野に残っていなかった。元より、健全な状態であろうと腕力的にも厳しいだろう。
「それだけは無い。頼むから帰ってくれ……合鍵ならくれてやるから、今日は帰れ」
そもそも泊まる用意など無いのだから帰らない訳にはいかぬだろうと諭す方向に切り口を変えた今野。合鍵という単語は有効だった。
「明日来ても良い?」
「……明後日なら」


 緒方が去った後、今野は軋む身体に鞭を打って、急いで着替えて鍵屋を呼んだ。
 新しく鍵を取り付けるのには1時間とかからなかったが、念の為にドアチェーンを増やし、補助鍵も取り付けた。
 その時の今野はまだ、緒方がマンションのベランダの硝子戸を三角割りで破って侵入できるとは思ってもいなかったのである。



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