架空刑務生活

 「放せ変態野郎っ何が刑務作業だ! 放せっ、殺してやる!」
刑務作業直前に暴れ始めたのは、服役してまだ日の浅い男だった。抵抗を試みる男だが、刑務官は慣れた手付きで彼を押さえ込んで、彼の服を脱がしていく。
「おうおう威勢が良いなぁ、初日から作業拒否に抗弁か? 懲罰食らってみたいのか?」
刑務官の言葉に男が噛み付く。
「こんなん許されると思ってんのか変態野郎!」
男が必死で抵抗するのも無理はない。この刑務所で行われる刑務作業は性的な玩具の試用及びモニタリングだった。作業初日の彼に課せられたのは、オナホールの試用だった。それを決められた時間使用し、コンセプト通りに性的快感を引き出せる製品であるか否かを他の受刑者と一緒に刑務官に監督されながらモニタリングするのだ。つまりは、人前で自慰に耽ることを強制されているのである。
 そんな辱しめを受けるなら死んだ方がマシだ、人権侵害で訴えてやる、と喚く男の抵抗をまるで無視して刑務官が二人係で全裸に剥いて椅子に縛り付けた。
「最初は皆そう言うさ」
その通りなのだろう、抵抗する受刑者を取り押さえる手付きには淀みが無く、実に手馴れた身のこなしで刑務官は男を椅子に押し戻した。情けない格好で椅子に手足を縛り付けられた男は、萎縮したペニスを晒した股間にローションを垂らされて、その冷たさに呻き声を上げた。
「始末書書くの面倒だし、初めてだから見逃してやる。ほら、ちんぽ勃たせて作業にかかれ」
刑務官の手袋を嵌めた無骨な手が、男の股間を無遠慮に揉む。彼は健気にもよく知りもしない屈強な男に急所を掴まれる嫌悪と生理的な恐怖に歯を食い縛るが、彼の意に反してローションが恥知らずな音を響かせる。
 殺してやる。男はなおも口で抵抗していたが、やはり刑務官は威勢が良いと笑うだけだった。作業場の小さな柵の付いた窓からは、嘲笑うような蝉の鳴き声が聞こえていた。


 男は山岡清一郎、受刑者番号は115246。
 発展や流行から一歩取り残された片田舎で育った、朴訥とした二十代半ばの青年だ。背は平均よりも少し高く、綺麗や端正とは言い難い顔立ちだが大型犬に似た愛嬌がある。そして甲子園出場経験もある彼の肉体は無駄が無く、小麦色の肌には健康的な艶があった。地元には将来を誓った彼女すらも居る生粋のヘテロセクシャルであり、悪戯な性行為には嫌悪感しか抱けない純朴な男だった。
 しかし皮肉にも、そんな性質を刑務官から気に入られてしまっていた。
 嫌がる山岡の反応がサディスティックな男の欲望を誘うのだと気付かないのは、本人ばかりである。山岡は結局、刑務官に散々恥部を弄ばれ、不本意に精を放った。
 山岡にとって、刑務作業は屈辱以外の何物でもなかった。


 屈辱の日々の中で、山岡の唯一の楽しみは塀の外に手紙を出す事だった。
 故郷に手紙を出せるとなると、刑務作業で駄々ばかり捏ねていた山岡も少しは大人しくなった。制裁措置として手紙を取り上げられては叶わないからだ。
 彼の手紙の宛先は、幼馴染の女性だ。学生の時分から結婚の約束をしていた婚約者であり、山岡の逮捕によって延期されたものの近々籍を入れる予定だった。両親を大学生の時分に亡くしている山岡にとって、婚約者と彼女の家族は既に自身の家族も同然であり、大切で仕方がない人々だった。そんな彼等の顔を思い出しながら手紙に書く文章を考える時間は、苦しい刑務生活を送る山岡を支えていた。
 また、受刑者の間で広まっている噂に過ぎないが、早期に出所する為にも手段は有効であるらしい。日頃の素行が良いと認められる事や、刑務官からの覚えが良い事に加えて、外部との健全な人間関係を構築していると有利になるのだ。早くこの異常な施設から脱出したい身としても、彼は熱心に手紙を書いた。

 独りで都会の大学に受験しに行った時も、大学で研究に追われる日も、山岡を支えてきたのは、常に地元の人々への恩義や郷土愛だった。今回とて、例外ではなかった。
 娑婆で己を待つ人々に謝罪と更生の意思を伝える事。そして一刻も早く出所する事。これが山岡の目標として、屈辱に塗れた生活を耐え忍ぶ糧となった。

 幸いな事に、大人しくなった山岡は刑務官にしてみれば面白味に欠けるようで、過度なハラスメントを受ける回数も減った。
 そうして二月が過ぎて行った。


 鈴虫の鳴き声が聞こえるようになってきた夕刻の事だった。
 夕食後の余暇時間、手紙を書く為に図書室から辞書を借りて帰って来た山岡は、同じ雑居房で寝起きする男に話しかけられた。
「お前さ、一丁前に娑婆に女が居るってマジかよ」
既に法を犯した者だから当然と言えばそれまでなのだが、受刑者達は規範意識が希薄で粗暴な者が多い為、山岡は獄中であまり親しい人間関係を築けていなかった。ただ、あまりに手紙に執着する山岡の様子から察するものがあったのだろう。
「俺も居るんだ。アヤミってんだけど、眼がクリッとしてて胸がデカいんだ」
アッチの方もスゲエんだよ、と下品なジェスチャーで自慢する男に山岡は少々辟易したが、最愛の彼女の話となるとつい心が弾んで、愛想良く受け答えていた。
「そうか。初恵さんは淑やかで健気で、気の利く人だ」
許嫁の豊かな黒髪と柔らかな笑みを思い出して、山岡の頬が緩んだ。
 山岡は彼女とその家族に対して大変一途だった。高校時代は野球に打ち込む側らに勉学にも励み、独り地元を出た後は地元の彼等に毎月仕送りを欠かさなかった。そんな地元に居た頃を思い出しながら、山岡は辞書を開いて手紙を推敲し直す作業にかかった。

 その晩、話し足りなかったらしい男が就寝時間中に声も潜めず山岡に尋ねた。
「で、お前の女はどうなんだ。アッチも淑やかなのか」
男が夕刻と同じ、下品な身振りで聞いた。消灯された雑居房では視界が悪かったが、いやらしい口調から性交渉の話を悟った山岡は溜息を吐いた。
「婚前交渉はしない主義だ。これ以上彼女で下品な妄想をしないでくれ」
釘を刺したつもりだった山岡だが、男の興味を刺激する項目を増やす結果となった。
「え、お前もしかして、童貞なの」
嘘でしょ、と仰天する男の口調は楽しげだった。雑居房全体がその話題に乗って山岡を囃し立てる。刑務作業や風呂で晒されていた山岡の長身に見合った逞しい性器を覚えていた男達は余計に面白がった。やめてくれ、と山岡は布団に潜った。
 しかし部屋長を務める古株の受刑者男が愉快そうに呟いた事で更に状況は悪化した。
「じゃあお前、童貞より先に処女を捨てる訳だ」
可哀想に、と憐れむその口調には愉悦しか感じられなかった。山岡は今までの刑務作業で男根を模った製品を受け入れるような経験は無かったが、それは考えるだけでも悍ましい事だった。勘弁してくれと抗議をしようと布団から出た山岡を、古株の男は残虐性の宿った眼で捉えた。
「彼氏のケツがマンコよりもグチャグチャにされてたらさぁ、彼女ちゃんはどうすんのかね」
悪意を持った台詞に雑居房に下品な哄笑が響いた。それを合図に、山岡の布団が多数人の手によって剥ぎ取られた。性欲にギラつく眼が、薄暗い房の中で爛々と輝いていた。その全てが、山岡に劣情を向けている。
「ふざけんじゃねえ」
自身の危機を把握した山岡は、労務作業初日と同様に啖呵を切って抵抗した。既にささくれ立っていた不安定な精神が、理不尽な仕打ちへの憤りから暴力的な衝動となって彼を動かした。
 近くに居た男の腹に蹴りを入れ、体勢を立て直す。振り上げられた拳を避けて、鼻柱を叩き、崩れ落ちた男の背に踵を入れる。山岡には喧嘩した経験こそ乏しかったが、運動神経は良かった。多勢に無勢ではあったが、まずは一人を昏倒させた。
「いやあ、溜まってんだよ俺達。童貞とは違って」
山岡を組み伏せるには骨が折れると認めたらしい古株の男が、立ち上がって直々に山岡に距離を詰める。あの日、高橋を組み敷いていた男だ。山岡の全身に言い知れぬ嫌悪感が走った。男は立つと長身の山岡よりも背が高く、頸が太い事がよく分かった。
「マンコじゃ満足出来ねえ身体にしてやんよ」
男は挑発に乗って蹴りを繰り出した山岡の脚を易々と掴んで、布団の上に引き倒した。
「死ね、変態野郎!」
仰向けに引き倒された状態で山岡が男に向かって唾を吐いた。当然ながら唾は山岡自身にかかるだけで終わった。周囲の受刑者が山岡の両腕を抑えにかかる。
「ブッ殺す! 全員地獄に墜ちろ!!」
古株の男は愉快そうに笑うが、聞くに堪えなかったらしい他の受刑者が山岡の顔に枕を押し当てる。鼻も口も一辺に塞がれて呼吸が出来ない山岡は藻掻くが、レイピスト達にはどうでもよい事のようだった。そのまま寝巻のズボンを引き下ろされ、山岡は不明瞭な喚き声を上げた。その藻掻きようでは窒息死も間近である。そう誰もが思ったが、集団心理に飲まれた受刑者達は山岡に枕を押し付け続けた。

 「もう止めろ。死んじまうぞ、ソイツ」
山岡を助けたのは、刑務官だった。受刑者のみで処理するには、乱闘騒ぎの騒音が大き過ぎたのだ。刑務官が様子を見に来ない筈がなかった。その上、死亡事故の懸念がある行為ならば止められて当然である。古株の受刑者が舌打ちすると同時に、山岡から手という手が離れていった。枕には、山岡の涙と洟がぐっしょりと付いていた。
「……ころしてやる」
山岡は洟を啜りながら、濡れた眼でレイピスト達を睨めつけた。死にそうな目に合っていながらもまだ悪態を吐ける胆力に感心しながらも、刑務官はもう寝ろと宥めた。
 受刑者達は処罰を受けなかった。首謀者たる古株の受刑者は所内ではヒエラルキーの上層の住人であり、簡単に処罰して独居房に入れてしまうとその分他の受刑者が荒れて管理が面倒になるからだ。要は、加害者側が特権階級であり、新参者の山岡の立場が余りに弱かったのだ。だが、そんな対応を山岡が許せる訳がなかった。収まらない憤りに任せて、山岡は啖呵を切った。
「てめえら全員ブッ殺す!」
刑務官の見ている前で、暴れ、拳を奮った。図書室で借りた本の角で、受刑者を滅多打ちにした。その姿は手負いの獣そのものだった。
 山岡の蛮行は刑務官によって直ぐに止められたが、取り押さえられてもなお思いつく限りの暴言を喚いた。


 山岡は懲罰を受ける事になり、懲罰房に収容された。
 
 懲罰房は反省房とも呼ばれる一人用の房で、山岡は反省の為に一週間そこで過ごす事になった。これで最短での出所は叶わなくなった。更には当分の図書室の利用も禁じられてしまった。本を凶器にした為である。手紙を出すのも難しくなった。散々暴れた事を考えれば当然の結果ではあるが、レイピスト達に処罰が無いという点において山岡は釈然としていなかった。
「懲罰にする為の手続きだって面倒なんだからな」
山岡の不満に答えたのは、刑務官の河本だった。山岡が襲われていた現場を治め、彼を懲罰房に送った本人であった。懲罰が必要になる事態が起きる事は管理の甘さの証とされ、受刑者に懲罰を与えるよう申請すると評価が悪くなるという刑務官側の風潮が適切な処罰を億劫にさせるらしい。だから本当は山岡一人とて処罰したくはなかったのだと、河本は打ち明けた。
「俺がもう少し優しくない刑務官だったら、誰も懲罰になんてしなかったさ」
だってそうだろう、と河本の口元が意地悪く歪んだ。口頭での注意だけで済ませてしまえば、山岡は揉めたばかりのレイピストと同じ房で夜を明かす事となる。懲罰房に送られるのと雑居房生活を継続させられるのではどちらが山岡にとって堪えるかは考えるまでもなかった。懲罰という形で隔離される事によって保護されたのだと気付いた山岡は、安堵と情けなさでその夜は寝付けなかった。

 だが、朝は来る。山岡はいつもと同じ時刻に叩き起こされ、刑務作業の準備をさせられた。秋の朝の寒さに身を震わせながら、山岡は服を脱いだ。懲罰房からは出ずに、房の中で一人で作業を行うのだ。つまり必然的に、監督の刑務官と山岡は一対一の状態になる。
「俺、作業場も変わっちまうんですかね」
刑務作業の屈辱に眼を瞑れるようになってきたとはいえ、自慰を付きっきりで観察されるのは酷く精神が磨耗する。何か喋って気を紛らわせようと、山岡は河本に質問した。刑務官としては受刑者の私語は慎ませるべきだが、河本は特に注意する事も無く肯った。
「ああ、じきにお前もケツメド穿って喜ぶ変態共の仲間入りだ」
山岡は素直に最悪だと吐き捨てたが、河本は別段咎める事はしなかった。寧ろ彼は山岡はの口の悪さと血の気の多さを楽しんでいる節すら見せていた。
 河本の言葉通り、山岡は初めて刑務作業でアナル用の玩具を試用する事になった。難色を示した山岡だが、刑務官たる河本は嫌がる受刑者の尻を叩いて仕事をさせる事に慣れていた。初心者向けに開発されたその玩具は細身で滑らかで、却って気持ちが悪い程に山岡の未開の穴へと潜り込んでいった。
「どんな気分だ」
製品の試用である手前、眉間に皺を寄せて異物感に耐える山岡に河本が使用感を聞いた。挿入された異物を排出しようと蠢く腸壁は、不本意にも肛門への違和感を強調する結果をもたらしていた。山岡は頭を振った。
「最低だ……最悪の気分です」
嘘偽りの無い本音だった。しかし、気持ちが悪いかと言えば、全くの逆であった。人体構造を考慮されて形作られた性玩具は、細身ながらも山岡の前立腺を的確に捉え、強制的に生理的な快楽を引き出す事に成功していた。意思に反して中途半端に勃ち上がりかけたペニスが、情けなく泣き濡れていた。そんな快楽こそが、最も山岡の気分を侵害した。
「そうか。俺には気持ち良さそうに見えるんだがなあ」
河本が胸ポケットに挿していたペンで山岡の半勃ちペニスを小突いた。その刺激に反応してカウパーが一層零れ出た。屈辱に山岡は唇を噛んで耐えた。彼は肛門への刺激のみで射精に至る快感を拾える程に開発されている訳ではなかった。ただ逢着点の見えない生温い快楽が続く。その心許なさと息苦しさが、山岡の神経を蝕んだ。
 結局山岡は一度も射精に至らないまま、作業時間を終えた。約4時間続く作業の間、煮え切らない熱を抱え込んでいるのは拷問にも等しかった。見かねた河本が「気持ちが良いと素直に言えたら特別にチンポ扱いてイかせてやる」と助け船を出したが、山岡は頑なに断っていた。自慰を強要されているだけでも屈辱的な状態だというのに、自慰をさせてもらうなどという行為は彼の自尊心が許さなかったからだ。そんな山岡の精神力に河本は関心していたが、午後からの刑務作業も容赦は無かった。
 それから山岡の刑務作業は、熱を籠らせるだけの快楽に苦悶せざるを得ない拷問のようなものが続いた。使用する性玩具は毎回違う製品で、太さや長さこそ変わるが、アナルを攻め立てる物というコンセプトは一貫していた。それが慰み物になる事を拒んで騒ぎを起こした己への制裁ではないかと、山岡は薄らと考えていた。懲罰房では刑務作業中の商品評価以外に喋る事が許されていない所為か、山岡は滅入りきって自傷的な思想に偏っていった。
 懲罰房を監督する刑務官は、姿勢が悪いだの動作が遅いだのと注意をする以外に口を聞くものではなかったが、河本だけは気紛れに喋りかけてくる事があった。
「お前、N高校の出身なんだってな」
俺の地元もそこだ、と河本が言ったのは懲罰の最終日だった。寡黙を男の美徳として育てられてきた自身と多弁で私語の多い河本が同じ地域で育っているというのが山岡には俄に信じ難かった。
「弟がお前の後輩らしいんだが、お前、文武両道で期待の星って呼ばれてたんだって?」
山岡は自身の経歴について触れるのが擽ったく、無言のまま頷いた。山岡と河本が同じ学校で過ごすには年齢の差が開き過ぎている為に互いの面識は無かったが、山岡は地元ではそれなりに周知されていた。河本が何かと山岡を構うのもその所為だった。昔は将来を期待されていた輝かしい存在だったというのに、今では刑務所で暮らしている。その惨めな落差は他人に興味を唆らせるには充分だったのだろう。
「折角あの田舎を出たのに、残念だったな。山岡」
河本は山岡に、地元を離れた人間として親近感を抱いていたらしかった。彼等の出た土地は、若者の流出による過疎化と高齢化が課題として浮上している田舎だった。流行りの服は周回遅れで入荷するし、街灯が少なく、最低賃金も安い。それは山岡も認めるところだった。
「俺は好きでしたけどね」
山岡は母校の風景をぼんやり思い出していた。畑に囲まれた長くて細い通学路、塗装の禿げかけた古い校舎、志望大学へ推薦状を書いてくれた恩師の顔、共に甲子園の砂を持ち帰った部活仲間達。貧しい家庭ながら勉学に励ませてくれた両親の痩けた頬。将来を語り合った彼女の朗らかな声。山岡の上京理由は能力に見合った事をせよとの教師の勧めと、都市部の労働賃金の高さだけだった。ただ、今まで世話になった人々に少しでも楽をさせてやりたかった。そんな話に、河本は共感の欠片も無く相槌を打った。
「だから後悔してないです。田舎を悪く言われんのは、やっぱ許せないから」
潔癖気味で悪徳を許せない山岡が服役した理由は、その強い郷土愛にあった。山岡は就職先の上司に訛りを揶揄われ、田舎者だと出身地で差別を受けていた。それだけなら彼は耐えられたであろうが、地元で世話になった人々や婚約者を侮辱されて遂に堪忍袋の尾は切れたのだ。「お前なんぞを好いている田舎の女は目も当てられないブスに違いない」と言い始めた上司の胸ぐらを掴んで、顔面に拳を叩き込んだのだった。一度挑発に乗せられてしまえば、暴力に歯止めが効かなかった。結果、山岡は傷害として現行犯で逮捕された。謝罪と賠償による示談の道も用意されていたが、一切の謝罪を拒んで服役を選んだのだ。刑務所で想定外の屈辱を味わってなお、自身の行動に対する悔恨は抱いていなかった。
「まあ、お前の一途なとこは嫌いじゃねえな」
馬鹿だとは思うけど、と河本が山岡を評価した。

 その夜、山岡は河本に犯された。
 懲罰を受けていない本来の日程なら余暇に該当する就寝前の時間、懲罰房を訪れた河本は山岡を組敷いたのだ。当然山岡は抵抗したが、一週間前のようにはいかなかった。刑務官を務める河本は取り押さえる事に関しては恐ろしく手慣れていた上に、新たな刑務作業で泥濘んだ山岡の肛門は痛む事無く河本を受け入れた。
「餞別だと思え。どうせ雑居房に帰ったらヤられちまうんだ。破瓜は優しい方が良いだろう」
俯せにした山岡に尻だけ高く上げさせて、河本は後ろから腰を叩き付けた。
「どこがっ、優しいってんだ……この、へんたい……」
初めて男の欲望を突き入れられた山岡は、苦しいまでの膨満感と肉壁を擦る肉の熱に怯えつつも気丈に返事をした。だが、不快を示す理性に反して、刑務作業で肛門での快楽を覚えた身体は緩く反応を示していた。河本はそんな山岡の痴態を揶揄して勃ち上がりかけた陰茎に手を伸ばした。
「優しいさ。ちゃんとお前も気持ちよくしてやるんだからな」
山岡の許嫁にはまだ触らせた事の無い陰茎が、男の節くれた厚みのある手に包まれ、腰の抽挿に合わせて扱かれる。久々の性器への刺激に、山岡は呆気無く吐精した。腰をぶるりと震わせ濃い精液を床に零した山岡に、河本は満足そうに鼻で笑った。懲罰房の床はひやりと冷たく、山岡の火照りを否応無く際立たせた。
「……ッ、しねっ」
射精の為に臀部の筋肉が緊張し、尻に埋る男の陰茎の存在をより強く感じてしまった山岡は悪態を吐いた。達したばかりの過敏な粘膜を、河本は容赦無く穿った。
「お前、そればっかりだな」
悪態を吐くものの語彙が貧困な山岡を河本は笑う。気丈に振る舞って散々喚いても、卑罵語を使い慣れていない元々の育ちの良さが滲んでしまうのを面白がっていた。
「でも良いさ。お前は反抗的な方が可愛いよ」
吠えたててこそ負け犬らしくて可愛いのだと、河本はサディスティックに笑って、一層力強く腰を打ち付ける。そこには支配の愉悦があった。快楽を学んだばかりの前立腺を押し潰され、山岡は声にならない悲鳴をあげる。再び山岡の陰茎は猛り始めた。自身の性欲すらこの男に屈服している現実に、山岡は鼻を啜った。


 その翌日、山岡は懲罰の期間を終えて元の雑居房へと帰された。
 乱闘騒ぎの熱りは冷めていたものの、雑居房の住人は山岡の不服従を快く思っていない事を態度で全面に打ち出していた。相手は集団で強姦を目論み山岡を窒息死寸前に追い込んだ連中である。身体に刻み込まれた悍ましさが、山岡の心を打ちのめした。捕食者と同じ檻に入れられた気分で、到底気が休まる筈もなく、山岡は房の片隅に膝を抱えて極力存在感を消す事に尽力した。受刑者達は山岡の死にかねない抵抗ぶりを覚えている所為か直接的に手を出しては来なかったが、房内は一触即発の空気が張り詰めていた。
「何だお前ら、自力で仲直りも出来ないのか」
そんな状態を見咎めたのは、巡回に来た河本だった。子供の喧嘩に呆れを示す父親のような口調だった。
「いやあ。115246番の方がお堅いんですって」
受刑者の一人がへらりとした薄笑いで山岡を指差して河本に対応した。山岡が屈従の意思さえ見せれば此方は譲歩する気でいるのだと、何様なのかよく分からない立場の言い訳が飛び交う。
「本当に仕方の無い奴らだな」
河本は房につかつかと入って行くと、山岡を捕まえてズボンを引き摺り下ろした。これには黙って男達の馬鹿な主張を聞き続けていた山岡も焦った。
「おいっ、や、やめろって」
山岡は河本の手によって下肢を剥き出しにされ、膝をの下から手を入れられて、脚を割り開かれた。何をされるのか見当が付かない程、愚かだった訳ではない。寧ろ、何をされるのか鮮明に想像が付いたからこそ、身体が強ばって抵抗が緩んだのだった。
「まだおぼこいからな、無茶はしてやるなよ」
そう言いつつ、河本は房内のリーダー格の男に山岡の肛門を検分させた。山岡を易々と引き倒した、あの古参の受刑者である。太い指が、山岡の中の具合を乱雑に確かめる。連日弄り回されたそこは柔らかくはあったが、まだ初々しく人を受け入れる事になど慣れてはいない。山岡は緊張に掠れた声で小さく嫌だと呻いたが、河本に宥められて口を噤んだ。河本に犯され、無意識下に支配関係を植え付けられた山岡は、この男に逆らう事が難しくなっていたのだった。
 山岡は四つ這いにされ、種を付けられる雌犬のように犯された。体格の良い男の陰茎は太く、抜き差しだけで山岡を苦しめた。陰茎を擦り上げ精を吐き捨てる為だけの単調で乱雑な抽挿は、獣のマウンティングそのものだった。分かり易い上下関係の確認作業に、山岡の噛み締めた歯が軋んだ。
 脂汗を滲ませ苦しみと痛みに萎える山岡の陰茎を、河本が緩く擦った。横から手を伸ばして、牛の乳でも搾ってるような体勢で性器をあやされる山岡は正に家畜のようだったが、その屈辱に反して山岡の性器は元気になり始めていた。直接的に与えられた快楽に山岡から苦悶の表情が薄れてきた頃合いに、河本は傍観していた受刑者の一人を呼んだ。山岡が殴って昏倒させた男だった。
「良い機会だから謝らせてもらえ」
指示だけして拒否の間を与えず、河本が山岡の亀頭を激しく攻めた。現在進行形で嬲り者にされているというのに、正当防衛の筈だった行為を謝るのは誰が見ても滑稽だった。当然山岡も応じようとしなかったが、言う事を聞かない罰と言わんばかりに陰茎をきつく握り締められ、痛みに負けて頭を垂れた。
「よしよし、反省の印にしゃぶってやれ」
河本は陰茎を苛む手を緩めて、山岡に男の陰茎をしゃぶるよう命じた。悍ましい提案に思わず振り返って河本を窺った山岡だが、冗談で済ます気がない事を悟って却って追い詰められた。山岡にとって男の陰茎を舐めしゃぶるなどゾッとする事でしかない。だが、急所を握られている恐怖から抵抗を躊躇っていれば、鼻を摘ままれて口を開かされ、陰茎が突き入れられた。男の茂った陰毛が鼻を擽り、山岡は叫びだしたい衝動に駆られたが、喉の奥まで蹂躙されてそれすら叶わなかった。
「ははは、良い子だ」
河本が山岡を躾を始められたばかりの子犬でも扱うかのように褒め称え、陰茎への愛撫を再開した。その飴と鞭に山岡の抵抗心は萎え、歯を立てて陰茎を食い千切ろうという反逆は実行の機会を失った。
 その後も、山岡の中に精液を吐き捨てた男達は次々と交代し、彼を犯した。山岡が解放されたのは、日が昇る少し前のことだった。河本は受刑者達がもう揉めないであろうと認めると乱交に加わる事無く房を出ていったが、それがいつの事だったのか、山岡には見当が付かなかった。
 男達に好きなだけ精液をかけられてベタベタになったま、山岡は起床時刻までの短い時間を泥のように眠った。


 それからも山岡は雑居房の連中に犯された。余暇時間だけでなく、時には就寝しているところを叩き起こされて男の相手をさせられた。
 それは季節が変わって山岡が図書館の利用禁止令が解かれても続き、年が変わっても続いた。そうして不本意にも日常になっていった。運動能力の優れた山岡は、皮肉にも身体の使い方を覚えるのが早く、壊れるどころか精神を置き去りにしたまま身体が馴染んでしまっていた。
 雄としての器官に触れずに射精に至れるようになってしまった時には、死にたい心地にすらなった山岡だが、彼にも希望は残っていた。

 収監されて二度目の冬、出し続けていた手紙に対する返信があったのだ。予定していたよりも随分手紙を出すのが遅れた山岡だが、迷惑をかけて申し訳無く思う気持ちと故郷への恋しさを綴った手紙は、確かに彼の愛すべき人へと届いていたのだった。
「伊予柑の香りがする」
手紙を受け取った時、山岡の口から思わずそう零れた。しかし山岡に手紙を渡した刑務官はそんな筈が無いと否定する。手紙による紙状麻薬などの持ち込みを防ぐ為、特殊な便箋は入念なチェックが入る。匂い付きの便箋もその例外ではない。まして、柑橘類の匂いとあれば、炙り出しによるメッセージの隠匿も考えられるので、素直に受刑者に渡される筈が無いのである。
「そういやあ、年の瀬が収穫の時期だったな」
唯一同郷の河本が、山岡が手紙を通して嗅ぎ取ったのものの正体を理解した。懐かしい、故郷の記憶だった。
 山岡の地元は、日照時間の長い土地柄の所為か、至る所で伊予柑が栽培されていた。山岡が両親と共に住んでいた家の近所にも、伊予柑農家があった。幼い頃に駄賃欲しさに幼馴染の彼女と共に収穫を手伝いに行った事もあった。軍手越しに指先に染みついてしまった伊予柑の匂いは、懐かしい冬の田舎の象徴だった。
「……帰りたい」
山岡は涙を堪えて鼻を啜った。湿り気を帯びたその音は、家を探して鳴く迷子の子犬のようだった。

 婚約者からの手紙は、山岡が手紙を出した時期からすると些か返信が遅かった。随分と質素な文面で内容もこれと言って当たり障りが無く、癖の無いボールペンで清書された文章からは何を書いていいのか迷いに迷った形跡があった。それは優等生だった彼女の知る山岡と、暴力沙汰を起こして収監された今の山岡の変容に対する戸惑いの所為でもあるのだろう。
 収監されてから自身の事で手一杯だった山岡だが、身内の不祥事に動揺する地元の人々の胸の痛みを思い知った。
しかし、こうして手紙を出してくれた事は有り難かった。嘗ての人に胸を張れる生活をしていた頃の自分が、彼女の心にはまだ存在しているという証左に思えた。山岡の早く社会に復帰して地元に帰りたいという思いは、より強固なものとして胸に刻まれた。帰りたい。山岡は読み終えた手紙を封筒に仕舞いながら、そう呟いた。

 それからも山岡は手紙を出し続けた。悪戯に辱められる日々は続いたが、この楽しみの為に模範囚でいるよう理不尽に耐えた。
 元より手紙を出す事が刑務生活最大の楽しみだった山岡だが、一度返信が来ると手紙を貰う瞬間が一番になった。山岡が出せる手紙の数と頻度には限度があり、返信も必ずもらえる訳ではなかったが、故郷や彼女との繋がりを感じられる事が彼にとっての希望だった。


 そうして山岡は出所の日を迎えた。夏の盛りの頃だった。

 異常な刑務所でも、出所となれば刑務官たちは大真面目に「もうするなよ」と厳しい顔つきで山岡を送り出した。
 山岡は、久々の娑婆に非日常的な浮遊感を覚えながら、電車と新幹線を乗り継いで地元へ帰った。再就職先は、両親とも馴染み深い農家で住み込んで働く事が決まっていた。
 彼がずっと帰りたかがっていた故郷だ。そこには彼の愛した人々が、昔馴染みの友人が、婚約者が居る。けれど、山岡は言い様の無い不安に駆られていた。彼にはもう、そこしか居場所が無いように思えていたからだ。都会に揉まれて、獄中で散々な目に遭って、故郷の優しい思い出が神聖なものになっていた。大切になり過ぎて、胸が苦しかった。
 山岡は電車に揺られながら、服役中に貰った手紙を読み返す。
 期待を裏切って申し訳ない。けれど決して自分が変わった訳ではないのだ。相変わらず故郷が恋しい。また皆の役に立ちたい。山岡の手紙には、大抵そんな言葉が並ぶ。そうして返信は、決まって応援はするものの、何処か他人行儀だった。それも不安だった。出所したら籍を入れてくれ、などと調子の良い事は生真面目な山岡には書けなかったからだ。損なわれた信頼の分だけ心が離れているのが、恐ろしかった。


 「分かっとると思うが、お前にはもう娘はやれん」
帰省一番に言われた言葉は、厳しかった。帰省の挨拶に婚約者の実家へと顔を出せば、その父親が門前でぴしゃりと断ったのだ。とはいえ、山岡も阿呆ではない。そんな想定をしていなかった訳ではなかったから、驚いたり取り乱したりする事はなかった。ただ山岡は、形の無い刃で切り付けられたかのような痛みとを耐え、不規則になる呼吸を整える努力をすれば良かった。予測はしていても、居場所を失った事を完全に失う悲しみと傷心が小さく済む訳ではなかった。彼等の視界の隅では、番に焦がれる蝉が鼓膜を嬲るように鳴いていた。
「ここじゃあ前科者は肩身が狭い」
そんな所になど娘を嫁がせられないと、第二の父のように親しんだ男は拒絶の言葉を吐いた。大義があったとはいえ、カッとなれば手を上げると証明された男相手に大事な娘をやると言える父親の方が奇特なのだ。山岡はそう自身に言い聞かせながら、悲しみに震える拳を握りしめた。
「……そうですね。せめて最後に服役中に戴いた手紙の例をお伝えください。大変元気付けられましたと」
山岡にとって手紙だけが獄中での心を支えだった事には変わりがなかった。
「無駄じゃ。もう縁談が纏まりかけとる。もう関わらんといてくれ。あの子ん事は全部忘れてくれ」
山岡は言葉を失った。乾いた喉からなんとか別れの挨拶を捻り出して、その場を去るのが精一杯だった。


 もし、服役中に彼女から手紙で別れを切り出されていたら、山岡は自棄を起こしていただろう。出所ももっと遅くなっていたに違いない。前科が付いた時点で結婚の約束を諦めていながら、中途半端に気を持たせる手紙は、彼女の一種の優しさだったのだろう。山岡は彼女の残酷な選択を間違いだとは思わなかった。
 きっと彼女は正しい、と山岡は唇を噛んだ。正しいと思うからこそ、どうしようもなくて辛かった。
 彼女が己は幼馴染のもとに嫁ぐものだと信じて進学や就職ではなく花嫁修業に力を入れていた事を、山岡は良く知っている。今更就職して一人前の収入を確保するのは困難だ。夫を探した方が理に適っている。本音を言えば山岡は自身に操を立ててほしいと思ったが、それが過ぎた我儘である事も自覚していた。彼女の父が言う通り、彼女を娶る資格は山岡には無かった。暴力を奮った経歴のある男の妻になるべきではない。長らく心を支えとしていた彼女を失う事は、山岡にとって身を切るように辛かったが、彼にはどうにもならない事だった。

 愛する人を失った悲しみを紛らわせるように仕事に精を出した山岡だが、それも上手くはいかなかった。大したトラブルは起きていないが、何処へ行っても好奇の目と陰口が付き纏うのだ。狭い田舎で前科者の肩身が狭いのは本当だった。後ろ指が、白い眼差しが、山岡を確実に消耗させた。

 山岡が愛した人々は、愛した郷土は、彼を拒絶した。
 彼の憤りの発端は郷土への愛だったが、郷土は山岡を守ってはくれなかった。それどころか、人間失格の落伍者のレッテルを貼り付けたまま、何処かへ隔離しようとする。いつか砂場で遊んだ棒倒しのように、足場が確実に崩れていく実感が山岡を苛んだ。

 服役中の理不尽な屈辱とはまた違う、ただただ自己嫌悪を肥大化させる寂しさと悔恨を孕んだ絶望が、山岡に強く圧し掛かかっていた。


 盆を迎えて、山岡は倦怠感の付き纏う身体を引きずるように両親の墓へと参った。
 小さな寺に管理された丘の上の共同墓地の一角にある彼の両親の墓は、山岡が暫く来れなかった事もあって酷く汚れていた。嘗て彼の両親と懇意だった人々からも、随分放置されているようだった。暖かいと思っていた人々も、自身と関わりの切れた人間に対しては感心は薄いようである。人情とは案外そんなものかも知れないと思いながら、山岡は墓を磨いて花を供えた。
 墓前で手を合わせながら、山岡は泣いた。情けなさでいっぱいで、両親に何を言って良いのか分からなかった。遣る瀬無さと申し訳なさが綯交ぜになって、悲しみで懸濁した理性では止められない涙が頬を伝った。人前で泣くのは憚られた山岡だが、墓前なら泣いても不自然に思われる事がないと分かっている所為か、素直にしゃくり上げた。
 山岡は、いっそ死んでしまいたいと考えていた。辛気臭い線香の香りが、余計に彼の陰鬱な思想を助長した。山岡は服役中は後悔の一つもしなかったというのに、此処に来て初めて自分のした事は何もかも間違いだったと感じた。優等生として地元を出て、それなりの大学を出て、それなりの企業へ就職できたのだから、そのままでいれば良かったのだと、自身の行動選択を悔やむようになった。プライドの持ち方を間違えていたのかもしれない。愛する者達が侮辱されたとしても、黙っていれば良かったのかもしれない。そんな風に山岡は納得のいく人生について考えを巡らせるが、自身はそんな風には生きられないとも感じていた。
 山岡は柔軟には生きられない性分だった。頭でっかちな不器用で人として生きる事に向いていないのだ。それを自覚してしまった山岡は、改めて生きる事に嫌気がさした。

 墓に手を合わせ終えた山岡が帰ろうとした時、彼はもう見る事は無いであろうと思っていた顔を見付けた。河本だった。彼も山岡に気付いて、歩み寄って来る。河本もまた空のバケツと柄杓を手にしていて、墓参の帰りである事が伺えた。
「懐かしの故郷はどうだ。上手くやってるか」
開口一番に河本が聞いた。当然、上手くなどいっていない山岡は答えあぐねた。意地でも幸福だと言ってやりたい気持ちはあったが、そのように装うには嘘を吐いた経験が足りていなかった。結果として、強張った表情のまま黙り込む山岡の態度が何よりも雄弁な返答となってしまった。
「まあ、お前は期待の星だったからな。期待出来なくなったとなれば、周りの態度も変わるさ」
今まで山岡が無償の愛だと思っていた温かみは投資だったのだと、河本は言った。視野の狭窄した小さなコミュニティほど落ち零れた人間には厳しいものだと告げる河本は、地元といえど片田舎に対する愛着は持っていないようであった。
「そんなものなのか」
刑務官と受刑者の関係ではなくなった今は敬語も不要だろうと、山岡は口を開いた。服役中ならば、そんな筈はないと反論しただろうし、此処の人々を馬鹿にするなと憤っていただろう。けれど今の山岡には、それも一つの真実のように思えていた。
 それから会話が途絶えたが、二人は手にバケツと柄杓を下げたまま並んで歩いた。これ等の道具は墓を管理する寺から貸し出されたもので、洗って返却するのが規則だった。その手前、行く方向が一緒なのは当然でもあったのだが、山岡は確かに意識的に河本に歩調を合わせていた。河本は山岡にとって決して良い思い出がある相手ではなかったが、蔑んだ白けた眼で見たり腫れ物を扱うように接したりしない唯一の人間である事も確かだったからだ。

 墓を参りに来た人間は二人だけではなく、時折視界の隅に見知った顔を見付けた山岡だが、挨拶する気にはなれなかった。また、向こうも山岡の姿を認めると、余所余所しく目を逸らすのだった。
 寺に二人分のバケツと柄杓を返して両手が開いた河本は、帰省の理由を告げた。
「実のところ、俺の里帰りはお前の様子を見に来たついでだ」
毎年帰省していた訳ではなく、先祖の墓も久しく放置していたのだと明かした。
「前科が付いて娑婆に居場所が無くなると、刑務所に居場所を求めて罪を犯す輩が一定数出てくんだ」
河本の態度は、心配していると言うには深刻さが足りず、嘲っていると言うには悪意が無かった。だから山岡も、毛を逆立てる真似はせずに、世間話と同じ口調で応じた。
「心配しなくとも、もう刑務所は御免だ。特にあそこは」
わざわざ自分の様子を見に来たのだと告げる河本に、山岡は小石を蹴って返事をした。あの異常な刑務所に二度と入りたくないのは本音だった。しかし、居場所の無い娑婆から逃げ出したいのも本音だった。河本が、そんな山岡の心情を見透かしたように言葉を続けた。
「まあそうだろうな。だが俺からしてみれば、娑婆からは逃げたいが刑務所には入りたくないって奴が一番危ないね」
河本が指を首に当て、頸動脈を切る身振りをした。芽生え始めていた自殺願望まで言い当てられて、山岡の肩は跳ね上がった。故郷からの信頼を失い、恋人を失い、両親すらとうに亡くしている山岡は謂わば天涯孤独なのだ。思い付きのような自殺願望でも、その魅力を否定して生にしがみ付く為の重石を失っていた。この危うさは、誰に言われるまでもなく、山岡自身も気付いていた事であった。つくづく隠し事の不得手な男である。世間話でもするような口調で人の繊細な部分を正確に突いてくる男に、山岡は動揺と畏怖を覚えた。
「じゃあ、どうしろってんだ!」
河本は彼が破滅に向かってハンドルを切る事を牽制していた。だが、それは山岡を救うものではなかった。寧ろ、八方塞がりの現実を突きつけ追い詰めるようなものだった。山岡は癇癪を起した子供のように、河本に掴みかかって喚いた。興奮に釣られて、人前だというのに山岡の眼からは涙が落ちていた。
 山岡に掴みかかかれた河本はびくりともしなかった。山岡に殴る気力が無い事を見透かしていたからだ。高ぶった感情に振り回され、河本の胸倉に数滴の涙を零した山岡は、脱力して膝を折った。縋るような姿勢になった山岡はまた、どうしろってんだ、と呟いていた。

 河本は無言のまま、山岡に肩を貸して立たせると、駐車場まで引っ張って行った。車で来ていたらしい河本は、後部座席に山岡を載せると、エンジンをかけた。
 夏場の車内は熱く、エアコンの効きが悪かったが、情緒不安定な山岡の愚痴とも告解ともつかない支離滅裂な感情を吐露するのに最適な密室だった。
 沢山の煩悶を吐き出した山岡に、河本が提案した。
「お前、ウチで飼ってやろうか」
もう何処にも居場所が無いって事は、野良犬も同然だろうから拾ってやると河本は言った。
「犬みたいに? ふざけてんのか」
丁度可愛いのが一匹欲しかったのだと告げる河本に、山岡は反射的に吐き捨てた。しかし破滅願望がそうさせるのか、甘美な誘いに感じてもいた。

 山岡は、ずっと「良い子」で生きてきた。勉学やスポーツに励み、結果を出して、周囲の期待に沿って最良の結果を出してきた。勤労に励み、支えてくれた恩義ある人々に還元するのが生きがいだった。それが全て崩壊した今、山岡は何に沿って生きたら良いのかすら分からなかった。だから、人の尊厳を捨てて囲われて生きるという選択は、山岡の弱った心を誘惑した。
「俺の犬になったら、俺の言う事だけ聞いてりゃ良い。俺はペットが多少ヤンチャしても見捨てないさ。なあ、楽だろう」
山岡を苦しめた刑務所と同じくらい、倫理から逸脱した異常で淫らな誘いだった。
「俺は優しかったろ」


 共同墓地の駐車場で、一台の自動車が不自然に揺れていた。
「最っ低だ……こんな、とこでっ」
ズボンを片脚に引っ掛け、剥き出しにされた尻に河本の陰茎を受け入れた山岡が嬌声交じりの不満を漏らした。盆の墓地は、人々が家族連れで訪れる。その駐車場で、山岡と河本は性行為に及んでいた。
「も、オサラバする、連中だ……見られてもっ、恥は掻き捨て、ってヤツだ」
受け答えながら河本は、山岡を責め立てるのを緩めなかった。車内に肉と肉のぶつかり合う音が小気味良く響いていた。山岡はシートに後頭部を擦り付けるように首を横に振って抗議するが、本気で抵抗する事は無かった。
 破瓜の際から繰り返される軽口の通り、河本は優しかった。
 山岡を人として見てはいないが、刑務所で出会った人間の中でも河本はまともな支配者だった。無駄に叩いたりせず、無茶な要求もしなかった。命令に従えば、褒美のように快楽をくれた。従順に振る舞えば「良い子」だと褒めた。
 この時分から、河本は山岡に犬としての素養を植え付けていたのだろう。あるいは、自身が主人であると刷り込んでいたのかもしれない。
「ちが、子供がっ見たら……ト、ラウマに、なるって……へん、たいやろぉ……」
山岡から倫理観や道徳心が掻き消えた訳ではなかった。けれど人間社会に疲弊した山岡は、確かに彼の犬として従順に振る舞う事に喜びを感じていたのだった。消極的な口振りとは真逆に、すっかり快楽を覚えた肛門は河本を歓迎し、離すまいと頬張っていた。
「はは、やっぱりお前の憎まれ口は可愛いよ」

 飼い犬になった負け犬は、早速シートに粗相をするのだった。
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