楽島英永の訃報

 今朝、ニュースで屋久さんの素性を知った。

 テレビ画面に映る運転免許証みたいな仏頂面の顔写真に見覚えを感じて注視してみれば、昨日の夜に駐車場で見つかったという焼死体の身元だと放送されていた。顔写真の下に無感情なゴシック体で記された名前は、楽島英永。某指定暴力団の二次団体の若頭。怨恨による他殺の可能性が濃厚。見知った顔が、全然知らない名前で放送されていた。肩書きも年齢も、そういえば今になって初めて知る事だった。
 屋久さんというのは、俺が勝手に付けた便宜上の名前だった。ヤクザさんと人前で呼ぶ訳にもいかないので、一音抜いた上で苗字らしく字を充てて屋久さんと称していた。ただそれだけの安直な呼称だった。そもそも戸籍上の名前なんて、一生聞くつもりはなかったのだ。俺にとって屋久さんは屋久さんでしかなかったからだ。それ以上である必要も、それ以下である必要も無かった。まして、それ以外だなんて、嫌だ。
 唐突に一生見る事が無いであろうと割り切っていた彼の本当の姿を突き付けられて、口の中が一気に酸っぱくなった。掌がじっとりと湿って、胃液が食道を上っていく。屋久さんという人間が、瞬く間に虚ろになっていく気がした。俺が出会った屋久さんは全て白昼の夢だったんじゃないかとすら思わせる程に、遠くの存在に感じる。

 ニュースは数秒で次の話題に切り替わってしまったが、俺は切り替える事など出来ず、ネットでニュースを漁った。その結果分かったのは、立体駐車場からバラバラの焼死体が発見され、唯一生焼けだった腕から身元が判明したらしいという事だ。屋久さんの腕にある大きな傷跡を思い出して、目頭が熱を帯びた。


 屋久さんとの出会いは高校二年の梅雨明けの頃だった。 

 女が明らかに堅気じゃない連中の車に連れ込まれるのを見かねて助けようとしたら、返り討ちにあって女と一緒に車に乗せられた挙げ句、暴行を受けた。割と直ぐに気を失っていたので、その時の記憶は殆ど無い。けれど、身体には暴行の証拠がしっかりと付いていた。特に酷いのは脚で、複数箇所の骨が折れていた。
 俺が目を覚ましたのは病院のベッドの上で、病室には両親や兄の代わりに見知らぬ壮年の男が居た。
『災難だったなァ。お前さんが助けようとしたネーチャンな、ヤク持ち逃げした売人のオンナだったんだわ』
それが屋久さんだった。後ろに流したロマンスグレーの髪を掻き上げ苦々しい笑みを作った屋久さんは、正義感が裏目に出てしまった此方の不運に同情的な態度を見せた。
『こっちから堅気に手を出しといてなんだが、此処はひとつ、階段から落ちたって事にでもしてくれねえか』
屋久さんはそう言って懐からやたら厚みのある封筒を取り出すと布団の上に置いて見せた。ドラマでしか見た事が無いような万札の束だった。
『なんだ。やっぱ足んねえか』
高校生には重すぎる金額を前に閉口した俺に、何を勘違いしたのか屋久さんは更にもう一つ封筒を出した。どうして良いか分からず、取り敢えず助けを呼ぼうとナースコールをしようとした俺の腕を素早く掴み上げて、屋久さんはこの病院とは懇ろだから無駄だと牽制した。その言葉で俺は漸く身内より先にこの見知らぬ男が面会に来ている理由を悟ったのだった。
『まだ高校生なんだって? その脚じゃ暫くは登下校とか困るだろう。こっちで送迎の車を用意しよう。いつもの電車は乗り継ぎがあって大変だろう。なあ、悪い話じゃねえんじゃないのかい、隼人君よォ』
提案という体で既に個人情報を掌握されている事をチラつかされてしまえば頷くしかなかった。目を覚ましたと保護者に連絡をしてもらえたのは、しっかり口止めが成立してからだった。怪我の程度から見て階段から落ちたと言うだけでは無理かと思ったが、怪我の程度自体を詐称されたらしく、両親はころりと信じて俺の不注意を嘆いただけだった。その後も見舞いと称して屋久さんは来た。大抵は売店でラムネを買ってくれたり、他愛ない話をしてくれたりした。たが、やはり俺が妙な心変わりをしないよう抑止する意味もあったのだろう。時々ヤクザの顔を見せて、笑い話と同じ口調で非行自慢とはレベルの違う恐ろしい経験を語ってくる事もあった。見舞いに来た両親と鉢合わせた事もあったが、焦ったのは俺だけで、屋久さんはいとも簡単に適当な作り話で両親とも丸め込んでしまった。物騒な話さえしなければ、親しみ易い紳士にすら見えるのだから不思議なものだった。

 そして退院する頃にはもう夏休み直前で、何の為に登校するのか分からない状態だったが、屋久さんは約束通り送迎の車を寄越した。運転手は屋久さんではなく、あの日俺を暴行した内の一人と思われる男だった。
『高校球児の夏を奪っちまったんだ。精々安全運転しろよ』
屋久さんはそう言って後部座席から運転席を蹴って悪戯っぽく笑っていた。
『スモークガラスで黒塗りの車が来ると思ってたか?』
入院中の主な話し相手だったこともあり、この頃には既に軽口を叩いて談笑出来る程度には屋久さんと打ち解けていた。運転手の男にミラー越しに睨まれて気まずかったのを覚えている。母親が通勤に使う車と同じ車種を使用していたが、パステルピンクは嫌だったのだろう。塗装だけは母親のものとは異なる深緑色の軽自動車だった。それでもおっかない男が可愛い車で高校生の糞ガキを送り迎えするのは滑稽で、悪趣味な優越感があった。送迎は夏が終わっても、脚が治っても続き、結局高校卒業まで世話になった。屋久さんは毎日同乗しては来なかったが、二週間に一度は必ず後部座席に座って俺を待っていたし、暇な時は三日連続で顔を出した。

 屋久さんはどうも俺を気に入ったらしかった。
 そもそも俺のような平々凡々とした堅気の子供を構う事自体が新鮮だったのだろう。気紛れにちょっかいをかけに来て、食べ物を奢ってくれる事もあれば、勉強を見てくれもした。堅気で庶民的な子供の様子を見て楽しんでいるようだった。

 確か、最初は携帯ゲームだった。入院中の暇で仕方がなかった時にやり込んでいたのを見ていたのだろう。同じゲームを買ってきて通信したいと言い出した。通信しないと手に入らないキャラクターが居るのだとごねる姿はヤクザどころか歳上の威厳も無くて、不覚にも親しみを覚えた気になって、同年代の友人と遊ぶようなノリで遊んだ。
 ゲームセンターにも行った。懐から札束を出せる男が、粗雑な作りのゲームの景品の為に何万円も両替機に突っ込んでいるのは些か異様ではあったが、パチンコと一緒で一時の興奮を買っているのだと言われればそれまでだった。屋久さんは射的とクレーンゲームの上達が早かった。ぬいぐるみや玩具の類いを毎度取っていた。気紛れに戦利品を俺にくれる事もあったけれど、その殆どが何処へ処分されたのかは知らないままだ。
 脚が治る頃には、音に合わせて身体を動かすゲームもした。屋久さんの腕に残る大きな傷跡を見たのもその時だ。腕捲りした屋久さんの左腕からは皮膚が裂けたような跡が白く稲妻形に残っていた。引き攣れた膚は不自然に隆起して、何とも痛々しかった。屋久さんは若い時の傷だと言ったきり特に説明もしなかったし、俺も突っ込んだ事は聞かなかった。
 屋久さんは道化のように情けなさすら含ませて親しみ易く振る舞っても、時折猛禽の眼になる。親には秘密の、反社会的世界の住人との交遊。危険だと分かってはいたし、緊張感が無かった訳ではない。だが困った事に、その不調和と恐ろしさが、後ろ暗さに憧れ易い思春期の盛りだった俺を惹き付けた。

 学校帰りには大衆食堂に寄って、夕飯前に軽食を奢ってもらう事も多かった。屋久さんは大衆食堂は随分久しぶりらしく、色々頼んでは食べきれなくなった分を此方に寄越した。
 遠出もした。特に意味も無く、ドライブと称して海辺の町を巡るのが多かった。運転手はやはり軽口を叩き合う俺達を良く思ってはいないようで、バックミラー越しに睨まれる事はあったが、慣れればそれもよくある事の一つになっていた。尤も、運転手の態度こそが正常なのだと心の隅で分かってはいた。
 だがその頃にはもう、屋久さんは金払いの良いちょっと物騒な友達というべき距離感で、それが心地好くてわざわざ彼が反社会的な人間である事を再確認する真似は避けていた。

 少し大人びた場所に連れて行ってもらった事もある。
 オペラや歌舞伎なんて、多分屋久さんに会わなければ絶対に行かなかっただろう。彼は此方が興味を示さなくても、社会勉強と称して車に引き摺り込んで連れて行ってしまうのだ。案の定、上映途中に居眠りしてしまう事もあった。こういった物は古典趣味に理解のある人を誘うべきだと言えば、お前は薀蓄を垂れないから丁度良いのだと、犬猫にでもするように頭をわしゃわしゃと撫で回された。

 小煩く薀蓄を垂れる奴は好かないと言うが、屋久さんは好きな物に対して語ると長い。
『未来派は良いぜ。新しい玩具に夢中のガキそのものだ。伝統に中指立てて、急激な進歩に酔って全能感のまま突っ走ってる』
屋久さんはイタリア未来派の美術を愛していた。他県の美術館で開催されている未来派の企画展に向かう時は、車中から御機嫌だった。美術だとか絵画とかには全く興味がなかったけれど、屋久さんがあんまり楽しそうに勧めるので少し詳しくなってしまった。実際、展示作品を前にすると、その毒々しい程に激しい表現から栄えに栄えた工業機械文明と、急速な都市化に酔いしれて機械美やその力強さを讚美する20世紀初頭の人々の狂騒が伝わってくるのだ。あまりに騒々しくて狂気すら感じる程で、思わず悪趣味と呟けば屋久さんは気を害するどころか寧ろ満足気に笑ったのだった。
『まあな、急激な工業発展で割を食った世代にしてみりゃ狂気の沙汰だ』
嬉々として煙の紐で雲から宙吊りにされた工場を描く画家達の作品を愛でながら、屋久さんは狂気を認めた。この芸術性運動における多大なエネルギーを賛美する思想は兵器を愛し、やがては戦争を擁護する発想へと拡大していく。野蛮で物騒で毒々しい刹那主義的な快楽を貪りたがるこの芸術は、何処か屋久さんに似ていた。そして、この反社会的な身分の男は、先人の過ちを、時代の若さを愛でていた。
 もしかしたら、俺が毒々しい時代の芸術に屋久さんを重ねる一方で、彼は後先考えない当時の青くて危なっかしい思想性に俺の若さを重ねていたのかも知れない。見ず知らずの女と正義感の為に自身の力量も鑑みずに明らかに堅気じゃない連中相手に歯向かった俺の熱量と若さを、ヤクザと分かっている相手に懐く軽率さと愚かさを、こんな風に愛でていたのかも知れない。
 尤も、そんな風に思うようになったのは、ずっと後の事だ。その時はただ、屋久さんの悪趣味を笑っていられたのだ。


 俺の部屋には、屋久さんが購入して俺に預けたままの画集が転がっている。理解し難いと思いつつ怖いもの見たさに近い心情で悪趣味な絵画を眺めるのが最近の日課だったのに、これが形見になってしまった。
 屋久さんの形見となってしまった今、俺よりもこの画集を持つべき人間が居るのではないか。そう思って、唯一の屋久さんとの共通の知り合いである運転手と連絡を取ろうとして、止めた。これは屋久さんが買ったのだ。彼等ヤクザ連中の知る楽島英永のものではない。そんな屁理屈を付けて、画集を本棚に仕舞い込む。
 それに、屋久さんに遺族は居ないのだ。だから俺が貰っても、罰は当たるまい。

 僅かばかりの倫理観から、個人情報に関わる事や仕事に関する話は聞かなかったが、屋久さんが自ら家族構成について話した事はあった。
 あれは確か、俺が兄との喧嘩を拗らせて家庭内で険悪な状態を長引かせてしまった時だ。兄への不満をぶち撒ける俺を、彼は微笑ましいと言わんばかりの眼で見ていた。そして屋久さんにも兄が居たと教えてくれたのだ。まだずっと若い頃、抗争に巻き込まれて亡くなったのだとも聞いた。だからさっさと仲直りしろ、などとは言わないのも屋久さんらしいと思う。ただただ、平凡な家庭に生まれて平穏な理由で仲を違える事が許された俺達を、羨ましそうに見ていた。
 家庭についても聞いた事がある。上役の顔を立ててその娘と結婚したが、相手には昔から好い仲の男が居て、結婚後もその関係が続いていたのだと。元より恋愛感情の絡まない結婚だった為に、間男との密通を黙認どころか手伝ってすらいたと言うのだから、正に形式だけの政略結婚だ。子供を期待されてはいたが、妻や自身のように封建的な家制度が色濃く残る極道社会に生まれた宿命を背負わせるのは忍びなく、子供は作る予定も無かったと言う。抗争で兄を亡くしているのも、その厭世観に拍車をかけたのかもしれない。
 奥さんは俺達が遭うよりもずっと前に肺を患って亡くなっていると言うので、俺の知る屋久さんはずっと独身である。屋久さんは自身の事を独身貴族と名乗った。死語じゃないかと思ったが、金にも女にも不自由する様子は無い彼を表すにはこれ以上無かった。

 そんな女に不自由する様子の無い男だが、屋久さんは俺にも手を出した。
 高校卒業したばかりの、冬の終わりの事だ。
 大学受験に成功しアパートで独り暮らしを始めた俺へ引っ越し祝いとして屋久さんは色々寄越した。大学で初めて専攻する第三言語の為の電子辞書だとか、余所行きのスーツだとか、そういった高価な物と一緒に俗っぽいアダルトグッズまで送りつけてきたのだ。高校卒業したらアダルトコンテンツも解禁だろうと飄々と笑って、真新しい小型テレビにそういう映像を再生した。屋久さんが俺を性的に揶揄うのは初めてだったので、酷く動揺した。
 男友達とそういう遊びをするのは初めてではなかった。中学や高校の時分に友人の兄からの横流しのアダルトビデオを鑑賞した事も一度や二度ではなかった。けれど、屋久さんが一緒だと恐ろしく緊張して、いじめられた気の弱い女の子のように俯くしか出来なかった。
 ウブだとか可愛いとか、褒めてるんだか馬鹿にしてるんだか分からない口調で屋久さんは俺の性器を弄った。彼女とは中学の時分にプラトニックな恋愛をしたきりで、そんな所を他人に触られるのは初めてだったが、身体は正直で直ぐに熱を持った。
 あの美術館でも感じた毒々しい悪趣味がそこにあった。一時的で激しい享楽には、悪い予感が確かに伴っていた。しかしその時は、彼となら即物的な快楽に身を委ねてみるのも、悪い気はしなかったのだ。
 そうして俺は屋久さんに抱かれた。

 『お前さん、俺のオンナになる気はあるか』
俺の尻から萎えた性器を引き抜いた余韻が終わったらしい屋久さんは、いつもと同じような緊張感の無い声で何とも恐ろしい事を言った。男同士というのはこういうものなのか、射精した後は妙に思考が冷たかった。開いたままの尻から白濁した液体が溢れて、俺は既にセーフセックスを行わなかった事を後悔していた。
『ヤクザの情婦なら御免だよ』
身体を重ねておいて言うべき事ではないが、深入りをすべきではないという一抹の分別の為に本名すら聞かずに、ただの個人的な付き合いを維持していたのだ。オンナという語感に言い知れぬ嫌悪を覚えて、出来るだけ侮蔑的な声音で遇った。そんな見え透いた悪意に屋久さんは怒りもせず、部屋に残る性交の跡を始末していた。
『まァ、そらそうだな』
屋久さんの背を見たのは、その時が最初で最後だった。てっきり虎や仁王などが描かれているとばかり思っていた背中は古傷があるばかりで、刺青の一つも入ってはいなかった。極道社会に生まれた宿命とやらを嫌っていた彼の台詞を思い出して、少し納得すると共に、情婦として引き込もうとした屋久さんに尚更の嫌悪が募った。
 暫く寝たふりをしている内に、屋久さんはベランダで煙草を吸ってから部屋を出ていった。屋久さんが喫煙する姿を見るのは初めてだったが、初対面の時に僅かに煙の匂いがした事が頭を過ぎった。

 屋久さんとは、それだけの関係だ。

 あの日以来、屋久さんは俺を訪ねてこなくなった。大学は車を出す程の距離ではないので、当然送迎は付かない。元より深入りはすべきでない相手なのだから、いつかは連絡を断たれる事は分かっていたし、そうなった時は探すべきでないとも心得ている。
 ただ、余りに別れが歪な所為か、時折物凄い憂鬱が胸を占める。ふいに屋久さんの記憶が頭を過ぎっては消える。何に対するものなのか分からない後悔に、頭から飲まれていく。
 数ヶ月続いたそんな無気力な日々は、今日で終わる。彼の死亡を知った以上、未練など無意味なのだから。


 無意味だ。そう思いつつ、俺は画集を引っ張り出して、いつか車窓から眺めた海辺の町に繰り出していた。
 海が見えるところまでバスを乗り継いで、後は潮風を感じながらひたすら歩いた。車で走るのとは違って、温くて磯臭い空気が纏わり付く感じが不快だった。潮風で錆びた町並みに美しさは無くて、ただただ色褪せていた。
 愚かな事に、その温い風でやっと俺は季節が夏を迎えている事に気付いた。俺の中ではずっと、屋久さんと別れた冬のままだったのに。いつの間にか彼と最初に出会った季節になっていた。

 自分が何をしたいのか分からないまま、海辺の町を彷徨っていると、気が付けば靴のまま、まだ冷たい海に膝まで浸かっていた。じゃあ死にたいのか、なんて安直に答を出してみると、それが一番自然な欲求に思えた。ただ画集を濡らすのも、何処かへ置いておくのも嫌だったで、画集を仕舞いに一旦アパートへ帰る事にした。
 夏とはいえ濡れた脚でバスに乗るのは申し訳なくて、帰路は完全に徒歩にした。濡れてふやけた脚の皮膚が濡れて縮んだ靴と擦れている感覚はあったけれど、何となく全てがどうでも良かった。のろのろと歩いている内に日が落ちて、影が長く伸びた。大学周辺の土地に辿り着く頃には完全に夜になっていて、星一つ無い曇った夜空の下を疎らに設置された街灯を頼りにアパートまで歩いた。


 アパートの自室の前に、男が立っていた。壮年の、片腕の無い男だった。冬と同じ煙草の匂いがした。屋久さんの亡霊だ。
「おいおい、そんなナリで何処行ってた」
都合の良い妄想に取り憑かれている。そんな気がしたが、それで良いと思った。左腕が無いのは、俺がネットニュースでモザイクだらけの生焼けの腕の画像を見た所為だろうか。纏まらない思考が膨張して、涙腺を圧迫した。熱が目頭を焼いたかと思えば、止め処無く涙が溢れた。
 屋久さんがこの部屋を出ていった日も、屋久さんの死を告げるニュースを見ても、ついぞ出なかった涙がやっと出てきた。俺は暫く、屋久さんの幻影に見守られながら玄関前でみっともなく泣いた。

 屋久さんは以前と変わらない緊張感の無い声だった。
「お前さん相当混乱してんなァ。鍵も開けっ放しで無用心ったらありゃしねえ」
突っ立ったまま号泣する俺の代わりに、屋久さんが片手で玄関を開けて俺を部屋に入れた。どうやら実体があるらしく、神経衰弱が見せた幻という可能性は薄れてきた。
「死んだって聞いたんだけど」
「楽島英永は死んださ」
キッチンのシンクに流し忘れた吐瀉物の跡が残っていて、微かに饐えた臭いがした。彼の死亡を確認して耐えきれず嘔吐した記憶が今朝の記憶が蘇ってくる。酷い思いをしたと詰れば、屋久さんは鼻の頭を掻いた。
「ヤクザの情婦は御免だって言ったのはお前さんだぜ」
だからヤクザ者の楽島英永は死んだのだと、屋久さんは告げた。此処に居るのはただの屋久という柵の無い男なのだとまで言ってのける。俺の為に、自身を社会的に葬ったのだ。どんなトリックを使ったのかと問えば、楽島英永という身元を特定させる為にあの特徴的な腕を切り落とし、後の部分は背格好の近い他人の焼死体で間に合わせたのだと説明された。遺体がバラバラなのは腕と他の部分が繋がっていない事へのカモフラージュらしい。背格好の近い他人の焼死体とやらをどう入手したかまでは聞く気にはなれなかった。
「やっぱ屋久さんってヤバい人だ」
今更言うべき事でもないだろうに、そう思わずにはいられなかった。
 けれど、もっと常軌を逸しているのは、そんな手段を使っていようとも生きた屋久さんが此処に居てくれる事に安堵している俺自身なのかもしれない。俺達はいつから狂っていたのだろう。恐ろしい人だと分かっていながら、懐いてしまったのがそもそもおかしかったのだろうか。いや、本当は此処まで深入りする気はどちらにも無かったのだ。互いに此処まで執着するなんて、予定外だったに違いない。ただ一つ確かなのは、後には退けないという事だった。
「俺、屋久さんにもう二度と会えないって思ったら、もう生きてても仕方ないなって考えてた」
彼の後を追おうとした事を打ち明ける。大学進学したばかりで何を考えているんだ、なんて野暮は出てこなかった。屋久さんだって、たかが学生の分際の為に、社会的な身分を捨てた身だ。
「そうなったら、今度は俺が後を追うだろうよ。そんで現代版ロミオとジュリエットの完成さ」
俺も屋久さんも、どうしようもないロマンチストだった。ヤクザとカタギにモンタギュー家のロミオとキャピュレット家のジュリエットを重ねるその馬鹿馬鹿しい発想は、笑いを誘った。
「それじゃあ屋久さんがジュリエット? 似合わないね」
屋久さんが死んだものと思い込んだ俺は自殺して、その後を追って屋久さんも死ぬ。という想定は、古典恋愛劇に例えるのも頷ける。でも俺は死ななかったし、俺達にクラシカルな恋愛悲劇は似合わない。
 俺達の情熱は、貴族的なソレよりも、遥かに猟奇的なのだ。野蛮で物騒で、刹那主義的な快楽を貪りたがる俺達は、いずれ身を滅ぼす熱情に身を委ねるしかないのだから。
 どちらともなく唇を吸った。繊細さの対極みたいな、相手の何もかもを奪いたがる貪欲なキスだった。

 機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、サモトラケのニケよりも美しい。イタリア未来派の発端となった宣言の一節が脳裏に閃く。
俺達の狂気で箔押しされた熱情は、古典的な戯曲の恋愛よりもずっと輝かしいに違いない。



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