悋気

 最近、隔週の水曜は夕食後にレンタルショップへ行くのが俺と青葉の習慣になりつつある。

 誕生日に映画館に連れて行って以来、青葉は映画鑑賞が気に入ったらしい。元々、自由に外出できなかった頃の青葉の娯楽はテレビのみだったのだから、あまり大きな変化とは思わなかった。スクリーンの迫力とか臨場感は求めていないらしく、わざわざ人の多い映画館に赴くよりも家でソファで寛ぎながらDVDを見ていたいと言うのだから安上がりな趣味である。
 すっかり主夫が板についてきた事もあり、家事の上達で作業が効率化され日中の暇な時間が長く多くなった所為もあるのだろう。


 家からレンタルショップまでの道程は歩けない距離ではなかったが、車で向かう事が多く、今日とて例外ではなかった。
 アスファルトがまだ暑いからだとか、歩く気分じゃないからだとか色々理由を付けていたが、わざと遠回りをして夜の街並みを車窓から覗くのが青葉のお気に入りだと気付いてからは特に何も考えずに車にエンジンをかけるようになった。車内ラジオから流れるJポップを数曲聞き終わる程度の遠回りをして、ショップに向かう。全開にした車窓から流れてくる風はもう冷たい。ひんやりとした夜風が青葉の柔らかな髪を捲り上げ、形の良い額を露わにさせていた。特に何の変哲も無い近所の街並みに愛着があると言うよりも、彼は車に揺られているのが好きなのかもしれない。
 彼と居ると季節が巡るのが早い。寒くて窓を開けるのが憚られる季節になっても、俺達はこうしてドライブがてらの外出を楽しむのだろう。そんな穏やかな日常が存続していく事を疑わない幸福があった。

 「あ、コレ。前に地上波で放送してたやつ」
古い洋画コーナーに赴いた青葉がDVDのパッケージを端からチェックする。青葉は派手なアクション映画が好きだ。彼には歴史的背景だとか有名な作品や事件が鑑賞者の頭に入っている事が大前提の作品はややハードルが高いらしい。昼時に放送されているテレビドラマを見ないのも、確執や愛憎を含む雑多な人間関係に気疲れする上に1時間区切りで続いていく話を追いかけなくてはならないのが面倒だからだ。その点、2時間程度で正義の主人公側が銃弾の雨霰を潜り抜けて勝利する事がお約束となっているタイプのストーリーは爽快で分かり易い。
「それの次のシリーズなら準新作の棚にあったぞ」
俺もそういう古き良きアクション映画の安定したカタルシスは好きだった。
 青葉と一緒に映画コーナーを物色しながら、レンタルDVDを買い物籠に入れていく。アメリカのスパイが活躍するシリーズの映画を2本、俺の趣味で原作が小説のサスペンス映画を1本確保した。以前、予期せずラブシーンが展開された際の青葉が気拙さと期待感でそわそわとしていた様子が可愛かったので、今回もラブロマンスも借りておきたいところだ。

 二人であれやこれやと話しながらDVDを選んでいると、聞き覚えの無い声がかかった。
「あれ、アオ! 久しぶりじゃん!?」
俺の知り合いではなく、青葉の知り合いのようだ。剃り混みが入った黒い短髪のスカジャンを着込んだ青年が、柄が良いとは言い難い笑みを浮かべて手を振っていた。青葉はこれといって挨拶を返さず熱の入らない胡乱気な眼で彼を見遣っただけだったが、擦り切れたスニーカーでさっさと距離を詰めてくる。パーソナルスペースの狭い人間らしい。一応、彼をアオと呼ぶ人々には心当たりがあった。
「相変わらずツレねえなあ。お前、保護者居ねえっつってたけど嘘じゃん」
青葉の肩に腕を回して、内緒話と言うには大きな声で俺の存在を揶揄する。二人の関係を察するに、少年院で知り合った仲なのだろう。年齢も近そうだ。
「鬱陶しい。アンタには関係無い」
面倒臭いと言わんばかりの態度を隠しもせずに、青葉は彼の腕を払い退けた。人懐っこそうな朽葉色の眼に、はっきりとした拒絶が現れていた。押しに弱くて愛想の良い青葉には珍しい表情だった。人見知り特有の距離の取り方ではない露骨な拒否から、鈍感な俺でも彼等の不仲は察するに余りあった。
「あっそ。それじゃサヨナラ」
露骨に突き放した対応をする青葉に負けて青年が踵を返す。八つ当たりのように、彼の肩が俺にぶつかる。
「ちょっと」
青葉が低い声で威嚇し、彼の肩を掴んで引き留めた。別にその程度の事は気にしないと言おうと口を開くが、それよりも早く青葉が彼の腕を捻り上げた。
 閑静な夜のレンタルショップに青年の呻き声が響く。
 間髪を入れずに青葉が初めて見せる厳しい顔付きで恫喝する。
「誰の財布に手ぇ出してんだ!」
半ば反射的に財布の入っていたポケットを押さえると、ポケットが平坦になっている事に気付いた。この段になって漸く俺は先程の接触で掏摸を働かれたのだと悟って青葉の行動を理解した。

 青年は不自由な体勢のまま藻掻いたり此方を罵倒したりと抵抗を見せたが、財布には運転免許証など俺の持ち物である事を証明する物も入っていたので第三者を呼ぶと呆気無く解決した。
「お前もあんな声出すんだな」
不届き者は店員に任せてショップを後にする。助手席に座る青葉は、往路と同じように窓を開けて無邪気に夜風を楽しんでいた。店の中での立ち回りが嘘のような穏和な顔だ。しかし、青葉の初めて見せた表情や声がまだ新鮮さを持って脳裏に焼き付いていた。普段の庇護欲を掻き立てる甘えた素振りや日向の猫を思わせる無防備さからは、想像も出来ない豹変ぶりだった。
「院ではああいう手癖の悪いのとも付き合っていかなきゃならなかったから」
一度下手に出ると付け込まれるのだと青葉は苦々しい顔を見せた。そう言われれば納得は出来るものの、妙な気分だった。他人に対して怒りを表明する事が出来なかったあの青葉が、いつの間にか俺の知らないところで怒りを会得していた。喜ばしい事の筈だ。だが、成長に対する感傷として片付けるには後ろ暗い感情を抱いていた。
「き、嫌いになった……?」
自身の感情への不可解さに眉が寄ったところを、青葉は目敏く見付けて焦りだす。見せるつもりも無かった面が露呈してしまった事から、幻滅されたのではないかと不安気に此方を伺ってくる。
「まさか。寧ろ惚れ直したさ」
事実だった。青葉が咄嗟に対処しなかったら、財布を盗られていた。あれには現金どころか運転免許証もクレジットカードも入って居るのだ。カードを凍結させる手続きをしなくて済んだのも、無事に車で帰れるのも、青葉のおかげだ。格好良かったと告げると、青葉の表情が和らいだ。
「ただ、驚きはしたな。そんな知り合いも居たのかって」
靄のように纏わり付く違和感の正体を説明出来ず、驚いたからだとこじつけてみる。
「まあ、他人の悪口とか手紙に書く訳にもいかないしね」
青葉が少年院から出してくれていた手紙は検閲される手前、彼のような問題児については触れられていなかった。しかし実際にはそこで色々あったのだろう。そしてその俺には知り得ない間に、彼は自衛手段を覚え環境に適応する術を身に付けていたのだ。青葉は元々出来ない事の方が多い人間だ。これからも多くの事を習得していくだろうし、それは自然な事だ。彼が自立し逞しくなっているのは勿論喜ばしい。ただ、今までその変化を気付かなかった事が悔しくはあった。
「そうだな。お前から手紙で色々聞いてたのに、今の今まで青葉にも俺の知らない知り合いが居るってのが、不思議と頭から抜け落ちてた」
口に出して見ると存外しっくりと当てはまった。今日遭った青年は、俺の青葉に対する傲りを浮き彫りにしたのだ。青葉の世界には俺だけが居るのだと錯覚していたが、俺が把握していない青葉の人付き合いがあったのだと気付かされた。
「あ、もしかして。嫉妬してくれたの?」
青葉の声の調子が軽くなる。嬉しそうに笑い声をたてた。現金なところは相変わらずだ。
「まさか」
青葉に素気無くやり込められていたあの青年相手に何を妬く必要があると言うのだろう。寧ろ、青葉が無防備に柔らかく笑うのは相手が俺だけだと立証されたようなものだ。優越感を感じる事はあっても、嫉妬などという劣等感から由来する感情は無縁な筈だ。
 そう考えるのが道理に合っている。だが、嫉妬という感情こそが自身が抱いている後ろ暗さと符合する事を感じていた。

 自身の精神状態について筋の通った説明が出来ない事に居心地の悪さを感じながら、車を走ら続けた。ついぞ家に着くまで、車内ラジオをつける事はなかった。


 この嫉妬の正体が判明したのは、それから2日後の事だ。
 ヒントを出したのは、レンタルしたラブロマンスのDVDのワンシーンだった。ストーリーも終盤に差し掛かったタイミングで、浮気性の男が猫撫で声で本当に好きなのはお前だけなのだと枕元で囁くが、恋人の女性は浮気相手になりたいと泣く。そんな場面だった。恐らく青葉が居なかったら一生借りる事は無いんじゃないかと思うような、湿っぽい恋愛描写と退屈な濡れ場が連続するストーリーだというのに、その女の泣き言に驚くほど共感している自分が居たのだ。私は貴方の浮気相手になりたい。貴方が私以外の人間にどう触れるのか知りたい。用が済んだ途端に部屋から蹴り出されて、自宅へ向かうタクシーの中で声を押し殺して泣きたい。或いはベッドの中で独り取り残されて、消える背中を見つめながら泣いて眠りたい。ある日突然着信拒否を設定されたければ、無遠慮に別れを切り出されたいし、冷たい瞳で見下ろされたい。そうして貴方の取って付けた偽物の愛情も貪りたい。誰よりも大切にされている特別な身分で塵同然の扱いを受けるその他大勢の人々をヒステリックに羨む、そんな女優の台詞が俺の度し難い嫉妬心の正体を暴いた。恋は思案の他と言うが、全くその通りだ。損得で勘定できない理に適わない不必要な分野であっても嫉妬心は頭を擡げるのだと、この歳になって漸く知ってしまった。

 短旋法の音楽と共にエンドロールが流れ始めた頃、隣に座ってスタッフロールまで見つめている青葉に打ち明けた。
「この前のアレだが、やっぱり嫉妬だった」
随分と時間が経っているが、何時の話をしたのか分かったらしい青葉は頷いた。そういえば、青葉は既に俺があの青年に嫉妬したのではないかと見抜いていたのだった。結局、彼は俺自身より俺の機微に敏いのだ。
「お前が誰かに好意を示したりしなくても、ただ俺の知らない部分があるってだけでこうだ」
特別好意的な待遇をされている事は疑う余地も無い。なのにそれでは満足出来ないなんて、どうかしている。けれど一度自覚してしまえば、それは余りにも確かな独占欲だった。一等大切に想われるだけでは気が済まない。優先順位を低く見積もられたその他大勢の人々と同じように蔑ろにされたい。不機嫌を隠しもしない態度で鬱陶しがられたい。被虐嗜好ではないけれど、青葉の全部が欲しかった。他人が知っていて俺が知らない一面がある事の方が余程残酷に思えた。
「他人が俺よりお前を知ってるなんて、到底愉快じゃない」
どうして理性的に割り切ってしまう事が出来ないのだろう。我ながら狭量で情けない幼稚な告白だと感じた。だが当の青葉はバターを舐める猫のように幸福な顔をしていた。人差指を唇に当てて、二人きりだと言うのに内緒話をするようなトーンで告げた。
「俺も。正直に言うとね、誠嗣サンならどんな面でも全部俺のじゃないとイヤ」
本当はこんな面倒な我儘は心の奥深くに仕舞い込んで聞き分けの良い人間でいるつもりだったのに、と続けた。青葉の顔は優し気な表情を作っていたが火照っていて、緊張が此方にまで伝わってきた。これだけの事を言うのに彼は随分と決心が必要だったのではないかと思う。青葉は鬱陶しく感じられたり面倒に思われたりするのを恐れて、不満を押し殺して道化を演じる事に慣れている人間だったからだ。遠慮が要らない筈の今だって、手を繋ぎたい時も俺の世間体を優先させようとするし、寂しい時も早く帰って来いとも言えないのだ。毎日繰り返さなくてはいけない家事とて、手を抜く事を憚っている。
「勿論、そんな全部なんて無理だし、どうにもならない事だって分かってるんだけどね。やっぱり無性に妬けちゃう時ってあるよ。だから、誠嗣サンも同じような気持ちになるんだって分かって……嬉しい」
「そうか。なら嫉妬も満更じゃないな」
俯きがちになった青葉の髪を梳くと、そのまま更に頭を倒して肩口に押し付けられた。
「本当は古い映画の方が好きなんだ。誠嗣サンはこんなのを見て育ったのかな、とか思えるから」
青葉が長いスタッフロールが流れ続ける映画をリモコンの停止ボタンで打ち切った。作品を共有する事で共有出来なかった時間を少しだけ埋めたように錯覚するらしい。それが彼の「どうにでもならない事」への緩和策なのだろう。
「俺は青葉の我儘を聞くのが好きだ」
自分の場合は何でこの悋気が緩和されるのだろうかと考えたところ、これだった。青葉が共有されなかった俺の昔の時間を気にするように、俺は自身に向けられなかった青葉の態度が気になっていたのだ。
「本当に?」
「本当。まあ、無理な時は無理って言うけど」
親しさ故の気安さで寄りかかられたいのだ。青葉は何に対しても諦めが良いところがあると知っていたから余計に彼の欲求を聞くのは嬉しい。彼が気を許しているのは自分だけだという事も知っている。謂わば、彼の駄々を聞けるのは俺の特権なのだ。

 青葉が暫く言うのを戸惑った末に口を開いた。
「明日は誠嗣サンが作る料理が食べたい」
青葉が作らない時や出会ったばかりの時は惣菜を買って済ませることが多かったからか、ちゃんと家で作ったヤツだよと予防線まで引かれた。料理はあまり興味が無かったのでレパートリーも少なければクオリティも低い自覚はあるが、それでも作れない事はないので了承する。一応、味に期待はするなとも釘を刺す。独り暮らしで金銭的に余裕が無かった大学生の時分が最も自炊していた頻度が高かったのだが、今となっては随分遠い記憶に感じた。そういえば、最初に結婚した時も妻や子供にレトルト食品を除いた教理を振る舞ったりはしなかったと思い出した。
「そういや人に作った物を食わせるのは初めてだな」
そう零すと青葉は殊に喜んだ。自身の為に俺がこの歳で初めての体験をするというのが嬉しいらしい。

 こんなに道理に合わない嫉妬を覚えたのも幼稚なまでに欲深くなったのも、青葉に対するこれが初めてだと告げたら彼はどんな顔をするだろうか。



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