よもつひらさか

 男は気が付くと坂の中腹に居た。

 周りは竹藪に囲まれていて一本道になっているものの、狭い上に左右にうねる道は見通しが悪く何処へ続いているかは検討も付かない。此処が何処なのか、どうやって此処に来たのかすら曖昧で、男は元服を間近に控えた年齢の割には細過ぎる首を傾げた。
 視線の先は濃い霧に包まれ、この坂が何処まで続いているのかは定かではない。だが、獣道と言うには道が太く地面が踏み固められているので、人里に繋がっているに違いないという推理で彼は脚を進めた。向かう先に賊や狐狸が潜んでいるかも知れないという事は、全く考えては居なかった。男は世間知らずであった。

 男は夷助という。守護大名の家に生まれた一人息子である。
 とはいえ、彼を知る者は極少ない。生まれつき難があり、世間から隔離されて育てられていたからだ。
 日の下に出れば肌に炎症を起こし、目が痛むと訴える程の病弱。到底跡取りとして期待されていない。最近では病弱に拍車を欠けており、屋敷の奉公人にまで穀潰しと呼ばれる始末だった。夷助という芳しくない字の入った名も、生まれついて疎まれた証拠だ。
 そんな彼が今まで間引かれずに生きてこられたのは、家が裕福であったという幸運に依存する。そんな外出も儘ならない虚弱ぶりだからこそ、外界の危険など全く知らないのも道理である。夷助は今までの人生の殆んどを、大きな屋敷の中で布団に包まっているだけの事に費やしていた。
 当然、そんな彼が一人で見知らぬ土地に行ける筈は無かった。夷助は自身に徘徊癖でもあったのかと自問するが、心当たりは無い。ならば尚更、此処が何処で如何にして来たのかが不可解になるのだが、夷助は別の事に気を取られていた。
 自身の体調が頗る良いのだ。竹藪が作る影があるものの、此処は夷助にとっては充分過ぎる程に明るかった。それなのに、眼が痛んだり肌が刺すような痛みに襲われたりはしなかったのだ。生きているのか死んでいるのか分からないような心地で布団に包まるしかなかった最近の体調不良が嘘のよう。夷助にしてみれば、そちらの方が余程不可思議に感じていた。
 よもや夢ではないかしらと自身の所在を疑いながら、夷助は木漏れ日に目を細める。病弱の自分には厳しいばかりだった日差しが、今は心地良い。当たり前のように自身の思う通りに体が動く感覚の何と素晴らしい事か。
 だから夷助は多少の不自然には目を瞑って、脚の進むままに知らない土地を徘徊する事を良しとし、閉塞からの解放を堪能する事にした。


 霧立つ坂を登っていくと、夷助は見知らぬ男に声をかけられた。
「此処で何をしている」
虚弱で貧相な彼とは対照的な、偉丈夫と言って差し支えない男だった。夷助の身の回りにはまず居ないであろう風貌で、視線を合わせていると首が痛くなってしまう程の長身だった。更に笠を被っているものだから、余計に身長が高く見える。しかし、夷助はこの厳めしい男を恐ろしいとは思わず、寧ろ親近感すら覚えていた。その男の切れ長の眼に佇む虹彩が、珍しくも夷助にそっくりな色をしていた所為かもしれない。
「私もよく分からないのです。何せ気付けば此処に居たので」
奇怪ではあるが少し散策しようと思っている、と素直に話せば偉丈夫はそれ以上追及しなかった。
 よく分からないと言えば、夷助は此処へ来る前に自分が何をしていたのかも今一つ思い出せなかった。偉丈夫は能天気に首を傾げている夷助に呆れを見せたものの、注意する事も邪険にする事もなかった。
「貴方はこの辺りのお人ですか」
今度は夷助が聞いた。偉丈夫はそうだと相槌を打った。
 続けて此処が何処なのかと問おうとした夷助だが、ふと口を噤んだ。此処が己の夢の中ではないかと思ったからだ。その方が知り得ない場所で有り得ない事をしている説明がついた。この偉丈夫から此処はお前の夢の中だと断言されてしまえば、この束の間の自由を失って、黴臭い布団の中に戻されてしまうような気がした。

 だから夷助はこの場所の事も男の名も尋ねなかった。偉丈夫もまた、夷助の名を知ろうとはしなかった。
 初対面の筈の偉丈夫は、夷助の横に並んで歩き始めた。道が一本しかない事も手伝って、偉丈夫は極自然に世間話しながら距離を詰めた。
 病弱で碌に家から出られない夷助にとって見知らぬ人と接する事自体が新鮮だった。草履越しに土を踏む事も、生い茂る緑の湿った匂いを吸い込む事も、彼には貴重な経験だった。輪郭の曖昧な世界を壊さぬよう、夷助は男と他愛も無い話をしながら歩く。

 偉丈夫はその外見からは想像し難い気安さで、特に面白い話が出来る訳でもない夷助を構った。彼は夷助の知らない事を沢山知っていて、散策を共にする相手としてはこれ以上無く良い人物だった。世間知らずの夷助にはそれが何処まで一般教養の範疇で何処からがこの男特有の物なのかは判別が付かなかったが、男は人を退屈させない事に長けていた。


 夷助が少し歩き疲れてきた頃、偉丈夫は腹が減ったと言い出した。懐を漁りながら、偉丈夫はお前もそうだろうと夷助を見遣った。
「餅があるんだが、お前も食うか」
偉丈夫は懐から懐紙に包まれた菓子を出して見せた。餅には胡桃が入っていて、香ばしい匂いが夷助の鼻腔を擽る。しかし、彼は首を横に振った。
「折角ですが、お腹は空いていなくて」
腹が空いていないのは事実だったが、夷助は空腹だったとしても食事には抵抗があった。虚弱な彼にとって最近は食事も負担になってきており、固形物を喉に通した後は気分が優れなくなる事が多かったからだ。特に今は、何を切っ掛けに何時もの状態に戻ってしまうのか分からない以上、あれもこれもと欲を張らずに今は日の下を自由に歩く事を楽しもうと男は考えた。
「そうか、残念」
偉丈夫はそう言って餅を口に放り込んだ。咀嚼の度、彼の角張った顎は上下に動く。つられて夷助の口の中で唾液が湧いてくる。偉丈夫があまりに美味しそうに食べるので、羨ましくなってしまった。
 やはり私にもいただけませんか、と言いかけた夷助だが、口が動く前に足場が崩れるのを感じた。隣を歩く偉丈夫とは深い霧で隔てられ、彼の視界は暗転した。


 気が付くと夷助は、見慣れた障子を見つめていた。
 そこは彼が嫌と言う程に慣れ親しんだ黴臭い布団の中だった。やはり夢だったか、と彼は落胆と同時に納得する。
 寝返りを打とうと枕元に手を付いた彼は、布団が濡れている事に気付いた。独特の滑り気と饐えた臭いで、彼は己が寝ながら嘔吐したのだと悟った。だから菓子を食い損ねる夢を見たのかもしれない、などと冷静に分析したのも束の間で、自分の吐瀉物の臭いで気分が悪くなった彼はまた布団の上に嘔吐した。

 その音を聞き付けたのだろう、屋敷に住み込んでいる奉公人達が駆けてくる足音が夷助の耳に届いた。
 一人息子が生まれてこの方この調子なので、此処の奉公人達は汚れ物の始末や病人の介護に恐ろしく手慣れている。
「栄吉、いつも済まないね」
もう数え切れない程に、夷助が幼い頃から繰り返されてきた謝罪だった。現実の夷助は全く家から出られた試しがなく、知り合いも親と奉公人しかいない世界で生きている。彼等に見捨てられたら野垂れ死ぬ他に無いという自覚が、彼をより萎縮させた。奉公人に頭を下げた夷助だが、小言を聞く前にまた嘔吐した。
 結局、夷助は殆ど空だった胃を引繰り返さん勢いで吐いたが、その内に疲れきって眠りに就いた。


 それから幾日も経たず、夷助はまた坂の中腹に迷い込んだ。
 今度は彼が此処に来る前の記憶が薄ぼんやりと残っていた。昼に栄吉が出した粥を食べたものの、やはり気分が悪くなって寝込んでいたのである。
 以前の夢と地続きであるらしく、坂に迷い込んだ夷助の隣に例の偉丈夫が当然のように並ぶ。何処に続いているかも知らないまま、霧立つ細道をまっすぐ歩いていく。
「また来たのか」
今度の偉丈夫は赤い果実を幾つか抱えていた。夷助にとっては初めて見る物だった。果実は熟れて表皮が爆ぜており、そこから爽やかな匂いを漏らしている。偉丈夫はその内の一つを手に取って齧り付いた。彼は果汁に赤く染まった八重歯を見せて夷助に笑いかけながら聞いた。
「柘榴だ。食うか」
ざくろ、と彼は辿々しく復唱して、その果実の赤さに魅入った。粥で腹が膨れた後だと言うのに、彼はその柘榴の味が知りたくなった。夷助が欲しいと答えると、偉丈夫は気を良くして柘榴を差し出した。
 夷助に欲しがられたのが嬉しかったのか、偉丈夫は柘榴について自慢気に説いた。
「縁起物だぞ。大陸の医薬書にはあらゆる疾病に効くと記されている程だからな。昔はこの実ひとつと牛一頭が交換出来た」
偉丈夫は得意気だが、それを聞いた夷助からは食欲が引っ込んだ。彼は慌てて柘榴を突き返す。
「そんな、勿体無い。私には分不相応だ」
彼は自身が食べては寝込む事を繰り返す生活をしている事を誰よりも気に病んでいた。役に立たないどころか人の仕事を増やしてばかりの穀潰しの身で、そんな贅沢を享受するのは許されざる悪徳のように感じられたのだ。夷助の恥と道徳心が柘榴の魅力を断ってしまった。
「昔の話だと言っただろう」
柘榴を突き返された偉丈夫は、先程の蘊蓄は失敗だったと鼻頭を掻いた。
「済みません。もう、胃が萎縮してしまって」
「難儀な奴」
夷助が謝ると、偉丈夫は受け取られ損ねた柘榴をに齧り付いた。柘榴の鮮やかな赤色が、偉丈夫の厚い唇や鋭く大きな八重歯を濡らしていった。
「一体お前は何なら食えるんだ。粥か、薬か」
偉丈夫の呆れたような言い種に、夷助は唇を噛んだ。彼とて決して好きで味気無い物や苦くて不味い物ばかり食べているのではない。
「馬鹿にして」
しかし言い返した彼の声には力も棘も無かった。失礼な事を言われているというのに、夷助はこの偉丈夫の気安さが好ましいとすら感じていた。男の交流関係は寝所と厠の距離くらいしかない狭い世界で構築され、親も奉公人も彼とは違って忙しい身で碌に喋り相手にはなってくれないものだから、この偉丈夫の態度そのものが新鮮だったのだ。
 屋敷では腫れ物のように扱われる夷助には、嫌に気を使われない事が心地良かった。友人とはこんな感じではなかろうか、と彼は一人納得してしまった。

 そうこうしている内に、霧が濃くなって視界が曖昧になってくる。またこの世界から放り出されてしまうと確信した男は口早に言った。
「この前の餅。あの胡桃の入った餅が食べたいです」


 気が付くとやはり、夷助は布団の中に居た。外はもう暗くなっていて、彼は自分が今日の昼もしくは昨日の昼からずっと寝ていたのだと悟った。
 そして、またもや枕が濡れている。吐瀉物特有の臭いの他に鉄臭さが混じっている事が気になって、行灯に明かりを点ける。枕と布団の一部に血がぬるりと付いていた。吐血していた。まだ鮮やかな血の中に、消化しきれなかった粥の白い米粒が浮いている。この前よりも症状が悪化している事が素人目にも分かって夷助は頭を抱えたい心地だったが、思考は現実と乖離していたのか場にそぐわない言葉を吐いていた。
「柘榴みたいだ」
夷助は自身の血の赤に、あの偉丈夫が貪った柘榴の色を思い出していた。自分以外は知らない架空の男の存在を思うと、彼は何故か笑えてくるのだ。
 この歳になって、漸く親しい相手が出来たと思ったら夢でしかないのだから、笑うしかないのかもしれない。或いは、悪化する様態から目を逸らしていたいが為に笑うのか。夷助自身にもよく分からなかった。
「ついに気が狂ったんですか」
夷助が振り返ると、使用人の栄吉が襖を開けて生臭い部屋の中を窺っていた。自分の血と吐瀉物に囲まれて笑っている人間が居たら、狂人だと思うのも道理ではあった。
「私は大丈夫だよ」
「そうですか。私ならとうにおかしくなっていますがね。何の為に生きているのか分かりやしない」
栄吉の厳しい視線に居た堪れなくなりながら、夷助は謝った。栄吉は能面のような表情のまま、布団を片し始めた。
「その案外しぶといのは、鬼子だからですか」
鬼子。夷助は、父親以外の者からそう呼ばれて育ってきた。

 母親を死に至らしめる程の難産の末に生まれた、白髪赤眼の異形。それが彼だった。
 目鼻立ちに母の面影を残すものの、奇異な容姿は人間らしい印象を彼から奪っていた。色素の欠乏した皮膚や瞳は日の光に弱く、彼をやましい生き物であると印象付けた。だから夷助は鬼の子と疑われ、世間からは隠されてきたのだ。
 父親が赤子だった彼に亡くした妻の面影を見出していなければ、とっくに斬り捨てられていただろう。何の為に生きているのか分かりやしない。使用人の言葉は的確であった。


 胃液や粥とは違って、血の汚れは簡単には落ちない。夷助の血反吐は染みになって布団に残った。
 唯一夷助を生かしたがっている彼の父が、血の染みに気付くのは翌日の事であった。
「こん子は呪われておる」
父は彼の為に医者を呼んだ。その筈だったが、夷助の元を訪ねてきたのは、胡乱な事ばかり口にする祈祷師や呪術師といった方が良さそうな胡散臭い老翁だった。鬼子の存在を口外させない為の相応の金を積まれている筈だが、信用とは対極に在りそうな軽薄な目つきで夷助を一瞥し、翁はそう診断した。
「今の奥方も、木偶でしかない前妻の子が居座っているのは辛かろう。穀潰しの世話を任される使用人も悔しかろう。これが背負うとるんは恨みの集積じゃ」
尤も、秘密裏に鬼子を相手にするというきな臭い仕事だ。元より胡散臭い人間に頼む他無かったのであろうと夷助は無知なりに解釈し、言いたい放題にさせていた。
「寄り集まった恨み辛みは何れ周囲にも災いを引き寄せよう」
胡乱な翁は、不安を煽って夷助の父に高額な品を購入するよう唆し始める。清めの塩に始まり、護符、経文、破邪の鏃、鬼滅の刀。神仏習合のいかにも眉唾な品物が、畳の上に並んでいく。
「殊にこの短刀。一条戻橋で鬼を切った太刀を磨上げた物故、鬼子の齎す災いには一等効くやも知れぬ」
翁に医術の心得があるようには見えないが、神だの物の怪だのに説明を付けて語るのは上手かった。寝物語に聞かされる有名な話を引っ張り出したかと思いきや、秘学めいた単語や創作と思しき持論を絶妙な配合で織り交ぜて騙る。夷助の夢に出る偉丈夫も聞かせるのが上手い男だが、此方はもっと人をその気にさせるのが上手い。商人の口調だった。
 夷助は世間に疎いながらも、馬鹿ではない。そんな物で己が救われない事など察していた。けれど父親の方はそうではなかった。良くも悪くも純粋で、鈍感だった。元より、後妻を娶った後も前妻の形見として夷助を置いておく男だ。当主だから誰も彼に文句を言えないのがそれを加速させていると見える。それだけではなく、世には出せない出来損ないの息子を匿う鬱屈が、彼を愚かなものに縋らせるのかもしれない。そう思ってしまえば、夷助は父を諫める気が引けてしまった。
 結局、夷助は茫洋としたまま、父の気が済むまで翁の話に耳を傾ける羽目になった。

 翁の話を真に受けるのは馬鹿馬鹿しいが、夷助は一つだげ彼が話したことに興味を持った。
 黄泉の国の物を食べてしまえば、二度とこの世へは戻って来れなくなる。そんな風習を黄泉戸契と言うらしい。何でもない神道の一節だが、その時ふと食べ物を勧めてくる男の顔が脳裏を過ったのだった。



 「そりゃ紛い物だな。一条戻橋で鬼を切った刀なら、そんな短く磨上げられちゃいない」
夷助は翁と会った晩、早速この細道に迷い込んで男と会っていた。来ようと思って此処に来れる訳ではないのだか、胡散臭い翁の長話に付き合った疲れが自分を此処へ遣ったのかもしれないと夷助は密かに考えていた。
 変な物を掴まされたな、と偉丈夫は夷助を笑った。彼は鬼を切った刀の正体も知っているらしい口調で、翁をいんちき商売と一蹴する。からからと尖った大きな歯を見せて笑う男の豪快さは、夷助とは対照的だ。
「その時は父の気が済むならと良しと思ったのですが、やはり止めるべきだったのでしょう」
夷助は天を仰ぐ。彼の頭上では、天高く伸びた竹が風に揺れていた。

 今日は歩かずに、小道を塞ぐ形で座り込んで駄弁っていた。
 夷助は偉丈夫から竹藪を過ぎると山葡萄が植わっている所に出ると聞いていたが、今回は散策をして回る気分ではなかった。
「して、お前はどうする。引っかかっている眉唾話はそれだけではあるまい?」
偉丈夫は律儀にも、以前夷助が食べたいと言った胡桃餅を持って来ていた。
「黄泉の国の物を食んだ伊耶那美命は此岸には帰れない身となったと聞かされたのだろう」
黄泉の国の住人となった姿を暴かれる辱めに激昂した伊耶那美命は、最愛の夫であった伊耶那岐命を黄泉醜女使って追いかけた。髪飾りを山葡萄に変え、櫛の歯を筍に変えて黄泉醜女を足止めした伊耶那岐命は、黄泉平坂を経て此岸に逃げ切るも、最愛の妻を連れ帰る事は叶わず敵対する仲になってしまう。
「恐ろしい話よな」
偉丈夫は無感動な口調で坦々と神話の一節を紡いだ。目深に被った笠が彼の表情を隠していた。

 此処が夢ではなく黄泉であるならば、この男の差し出す物を口に入れたらもう此岸には戻って来られない。
 躊躇が生まれない訳が無かった。夷助は、この偉丈夫が何も出来ない自分に良くしてくれる理由が彼岸に誘う罠であると考えた方が自然ではないかとすら思っていた。しかし、この一から十まで胡散臭い話をわざわざ補強してくる偉丈夫の心理も分からない。

 偉丈夫は夷助が思案している間に、既に餅を頬張っていた。胡桃の香ばしい匂いをさせながら、夷助の言葉を待っていた。
「私の行く彼岸は、やはり良い所ではないでしょう。親より先に死ぬのは罪深い事と聞きます」
虫も殺せぬ軟弱物の夷助だが、罪悪感は人一倍強かった。
「尤も、私の罪は他にもありますから、長く生きたところで浄土へは行けないでしょうけど」
夷助はそう言いながら、細道に転がる小石を罪の分だけ拾って数えていく。使用人や義母に恨み言ばかり吐かれて育った所為か、生きても死んでも大罪人の気分でいるのだ。
「母親を死に至らしめた罪。この歳になっても働けない穀潰しの罪。奉公人の仕事を増やす罪。家督を継げない罪……黒髪黒目の普通の子に生まれなかった罪……」
手慰みに小石を積み上げていく夷助は、俯いたままだった。
 何に為に生きているか分かりやしない。奉公人の言葉が、彼の胸の中で鉛のようになっていた。

 「私はね、貴方に会えて嬉しかったです。私を変な眼で見たり嫌に気を遣ったりしない貴方に救われました」
夷助はしゃがみ込んだまま顔を上げず、両の手で癖のある白い髪をくしゃりと掴んで告白した。老人のそれとも違う、誰にも馴染めない真っ白な髪は夷助を酷く孤独にさせていた。
「同じ髪や瞳を持つ人と出会ったのも初めてで、心強かった」
貴方は私と違って逞しくて博識だから、とても眩しかった。

 そう言った夷助は、真っ直ぐに顔を上げた。
 偉丈夫は眼を見開いたまま彼を見ていた。こんな風に言われるなどとは思いもよらなかったと言わんばかりの驚嘆が、厳めしい顔を台無しにしていた。
 赤い眼と赤い眼の視線をかち合わせたまま、夷助は続ける。
「だから、貴方を信じます」
信じたい方を信じるのだと、彼はいずれの可能性に転んでも悔いをしない覚悟を決めた。あまりに偉丈夫が怪訝な顔をするので、夷助は言葉を更に付け足した。
「万が一、胡桃餅が冥途の土産になっても悪くはないような気もするので。貴方がくれた物ですから」

 胡桃餅一つの為に気恥ずかしくなる程の覚悟と親愛の情を口にした夷助に、偉丈夫は言葉に暫し詰まっているようであった。
 偉丈夫は大きな掌で自身の顔を覆ったまま、夷助を宥める言葉を発した。笠と掌で顔を隠しても、彼の声から焦燥の表情が感じ取れた。
 お前は初めて自分と似た姿の物を見て親近感を覚えているだけだ。卵から孵ったばかりの雛鳥が初めて見る生き物を親だと思い込むようなものだ。初めて親しげにされて絆されただけだろうが、勘違いをしている。それは錯覚だ、と偉丈夫は相変わらず達者な口で夷助の親愛を拒んだ。
「帰れ。もう此処には来るな。お前は鬼子と呼ばれても、ただの人の子だ」

 偉丈夫は夷助を霧の中へと突き飛ばした。夷助の足元から、世界が消えてく。


 夷助は苦しさで目が覚めた。布団に仰向けで寝る夷助の上に、人が跨って彼の首を絞めていた。
 真夜中だったが、僅かな灯りが点いていた為に夷助は自身を絞め殺さんとする者の顔を見る事が出来た。栄吉だった。

 行燈の僅かな明かりを頼りに夷助のただでさえ細い首を両手で絞める栄吉は、正に悪鬼というべき様相だった。夷助は苦しさと恐怖で藻掻いたが、病人と奉公人では力の差は歴然だった。翁から買わされた短刀の存在を思い出した夷助は薄れゆく意識を叱咤して手の感覚を頼りに刀を探すが、鞘に中指の爪が触れるだけで取れる距離になかった。これでは自力では何ら効果的な抵抗が出来ないと悟った彼は、兎角救援を呼ぼうと踵で何度も床を蹴って大きな音を立てた。それが栄吉の癪に障った。
「大人しく、死ねっ」
栄吉は夷助の頬を殴りつけた。片腕が首から外れた事で、夷助は辛うじて息を吸った。彼の喉は下手な笛のように掠れた音を立てて機能を取り戻した。奉公人は誰も来ない。誰も態々穀潰しの鬼子を助ける理由など無いのだ。
「父上、父上!」
「一足先に死んでるよ。お前も、彼岸で仲良くしてなっ」
掠れる声で唯一味方をしてくれそうな父を呼んだ夷助だが、それも無駄に終わった。

 栄吉が夷助の頬をもう一発しばき、首を絞める手に力を込める。
 だが、苦しみに藻掻く夷助の脚が当たって、行燈が倒れた。油が障子にかかって、落ちた火は布団に移る。
 堪らず栄吉は燃え上がる布団の上から飛び退いた。そのおかげで夷助も布団から這い出て短刀を拾う事が出来た。火事を背に、夷助は短刀の鞘を抜いた。赤く燃える火を映した刃が闇夜に鈍く光る。
「人でなし……!」
恐怖と悲しみが混じり合った絶望が、涙となって夷助の赤い眼から落ちていく。夷助は人に刃を向ける事は愚か、人を罵った事も初めてだった。刀を抜いた拍子に自身の指を傷付けていた。
「人じゃないのはお前の方さ」
刃物に怯んだ栄吉だったが、夷助のひ弱さを一番よく知っている彼は落ち着きを取り戻すのも早かった。
「さっさと死んでおけば良かったんだ。飯に毒を盛ってやる度に吐き出しやがって、しぶとさだけは一丁前だ」
死に損ないは仕事ばかり増やす、と栄吉が床の上に唾を吐く。煙たい寝室で、彼こそが夷助の悪化する体調不良の原因だったと明かされた。
「鬼子め」
栄吉の挑発に乗ってしまった夷助が、怒声をあげて短刀を握り締めて懐に突っ込んだ。勝算など無い、衝動によるものだった。
 冷静さを欠いた夷助の突撃を躱して、栄吉は彼に蹴りを入れた。力の差は歴然である。呆気無く床に転がった夷助の手から、短刀が奪われる。

 紛い物の逸話を持った短刀が、夷助に向けられた。燃え盛る部屋を栄吉の嘲笑が満たしていった。
 「娑婆じゃあ鬼は退治されるのが道理ってもんだ」


 その翌日、半焼した守護大名家からは当主の遺体が発見された。
 当主と寝所を共にしていた奥方は、何処からともなくやって来た白い鬼に殺されたのだと証言した。
 元々跡取りが居なかった上に当主を失った大名家だが、奉公人の一人が次期当主となって後を引き継いだ。奥方とは仲睦まじく、十月十日を待つことなく世継ぎもうけた。このような奉公人の大出世は異例の事であったが、誰もが彼を当主と認めた。彼こそが、当主を襲い屋敷に火を放った白鬼を討った栄吉であるからだ。
 白い鬼も紛い物の刀も、偽りの騒動と共に人々の記憶からすぐに風化していく。
 夷助を弔う者は居ない。彼は最期まで、鬼として扱われた。



 竹藪に囲まれた細い坂道に迷い込んだ男が居た。
 自分がどのようにして此処へ来たかとんと見当が付かず思案している彼に、痩躯の若者が声をかけた。
「此処で何をしているの」
男は瞠目した。話しかけてきた若者は白髪赤眼という奇抜な姿だったからだ。だがその物腰は柔らかく、身体も肉というものが殆ど無く到底悪さを出来るような姿ではなかったので、逃げ出しはしなかった。
 何より、若者の浮かべる笑みは柔和で敵意などまるで無いようであった。
 返事をしようにも自身の状態がよく分からず言葉に詰まる男に、白髪の若者が歩み寄る。
「さては迷子だ。お気の毒に。私が案内してあげよう」
男は説明の手間無く自身の状態を理解してもらえた事に安堵して頷いた。

 霧が出ているとはいえ、一本の細い坂道で迷子だとよく分かったものだと感心しながら、若者と共に充ても無く坂を上る。
「有平糖があるのだけど、一緒に食べよう。甘い物を食べると落ち着くでしょう」
すこし若者の親切に男は甘えて、男は糖の塊を食んだ。
 甘さに舌が痺れる。その刺激にふと曖昧だった記憶が蘇って、大変な事を思い出す。
「あの。私は此処へ来る前、崖から突き落とされたような気がするのですが」
「なんだ。覚えているんだ。じゃあ案内ももう必要無くなってしまったね」
白髪の若者は赤い眼を細めて笑った。

 坂道はいつの間にか終わっていた。道を囲んでいた竹藪も山葡萄の蔓に変わっている。
 腐敗した肉の臭いと、血の生臭さが鼻を衝く。雨雲は無いのに、ごろごろと雷の音がした。この音は何かと問えば、若者は蛆の湧く音だと答えた。
「私は……死んだから、此処へ来たと言うのですか」
若者は愛想良く肯って、手を振って、男を見届けた。

 「随分上手くやるもんだ」
 若者の背後からぬっと逞しい手が伸びて、有平糖を掴んでいく。若者の背後に偉丈夫が立っていた。
 彼と同様の白髪赤眼だが、此方は厳めしい顔付きをしている上に恐ろしく体格が良い。偉丈夫は作法を知らない子供のように口の中の有平糖を噛み砕く。その歯は虎を彷彿とさせる程に大きく鋭い。そんな偉丈夫にを相手に、若者は「私は貴方より親しみ易いなりをしていますから」と溌剌と軽口を叩いた。
「それに、此処に迷い込むような人間は娑婆に戻っても碌な事が無いでしょう」
若者が自身の白い髪を梳き、物憂げに言った。
「そりゃお前が言うと説得力がある。なあ、夷助」
人だった時の名で呼ばれた若者は、偉丈夫の真似をして有平糖を噛み砕く。此処は黄泉平坂。彼岸と此岸の狭間にて、彼は偉丈夫と同じ事をして過ごすようになっていた。
 今ではもう、彼の歯も充分に鋭かった。



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