頓珍漢な紫煙2

 昼休みを終えても教室に戻る気になれず、調理室に来てしまっていた。葛原から貰ったこの煙草がどうしても気になっていた。受け入れられなかった作り手の情を供養するような気分で、口に銜えた煙草に火を付ける。

 午後の授業を欠席して調理室で一服するのは珍しくない事だが、ジタン以外の煙草をこの場所で吸うのは初めてだった。割れたままの窓からは雨音が遠慮無く入ってくる。ただ幸いにも風が強くない所為か雨粒は庇に遮られ室内を濡らすには至っていなかった。換気扇を回して、すっかり定位置になりつつある窓際の食事用の長机に腰掛けて紫煙を吐けば、いつもと同じように空気の通り道が出来て煙が流れていった。
 煙草は不味くなかった。
 それどころか、燃焼剤の燃える独特の味や臭いが無くて好ましかった。巻紙は簡単に燃えてしまいそうな薄さに反して燃焼が遅く、ここにも作り手の拘りが感じられた。仄かな香辛料の香りとピリリとした刺激が、カプチーノとバニラのブレンドによく合う。しかし、よく出来ていれば出来ている程、苦々しい気分が広がった。
 葛原の働く喫茶店はコーヒーが美味しくてバリエーションも多いのだと聞いた事があった。きっとこのブレンドは作り手が抱く葛原のイメージそのものなのだろう。作り手の葛原に対する愛着が込められた物を赤の他人である俺が消費しているという後ろめたさが、煙草の味を純粋に楽しめなくしていた。
 

 暫く煙を燻らしていると、調理室に敷島が入ってきた。授業を抜けて来たのだろうか、片手にプリントを挟んだバインダーと筆記具を持ったままだった。どうやって嗅ぎ付けるのかは知らないが、一服しているとたまにやってくるのだ。
「残念だが、お前の好きな銘柄じゃねえぞ」
目当ての黒煙草じゃない事に落胆した敷島が蜻蛉返りしていってしまうのだろうと思って、先手を打った。だが敷島は、珍しいなとだけ答えて居座った。どうやらここに来た目的は煙草ではなかったらしい。
「生徒会長が君を探していたぞ」
敷島はこの学校の大多数の生徒を従える番長の事を生徒会長と呼ぶ。破壊的にガタイの良いその男は昨年まで幅を利かせていた旧3年生とは違って人情を持ち合わせていたので、俺を含む多数の生徒と浅くはない交流があった。全校生徒の総代表という立場だから敷島は生徒会長などと揶揄するのだろうが、お堅い役名が校風に不似合なだけで、教員達では手の付けようのない案件の仲裁役も買って出る彼は生徒自治という意味でも会長で間違ってはいないのかもしれない。尤も、最終的には八割方が暴力解決に終わるのだが。
「最近は激しい抗争も少ないし、今年は文化祭に力を入れたいらしい」
本当に生徒会のような事をやろうとしている事に驚きつつも、番長のお祭り大好きな気質を思い出して嘘や冗談ではない事を悟った。
「後輩に唆されたか」
敷島は顎を引いて頷いた。思わず旧3年生に無理やり穴を空けられた耳朶を触る。とうに穴は塞がっているというのに、たまにそこから身体に隙間風が入ってくるような感覚に陥るのだ。後輩達はここが最も荒れていた状態を知らない。それを羨ましく思う反面、能天気だと呆れたくもなる。
「とは言っても、学校開放は無理だし飲食系は危険だし、過去の運営記録も碌に残っていない状態だ」
淡々とした口調で絶望的な状況を説明しながら敷島はバインダーに挟んだプリントを見せた。そこには全校生徒の名簿と学校の見取り図くらいしか資料と言えそうなものが無かった。そういえば去年は入学式と卒業式以外で学校行事らしい事は殆どしていなかった気がする。ただ、そういう日になると申し訳程度に行われていた授業が完全に無くなっていたような記憶もある。そもそも、大人数が参加するイベントを学校側で健全に運営出来る訳も無いのだ。文化祭の開催は秋だが、ゼロから運営を考えるとなると時間がどれだけあっても足りないのではないだろうか。結局彼等は準備段階からお手上げで、敷島の優秀な頭に期待して巻き込んだのだろう。

 敷島はさも当たり前のように隣に座ってくる。敷島はさして重要な情報があるとは思えないプリントに視線を注いだまま緩慢な動作で脚を組んだ。その距離が普段より若干遠い気がするのは、慣れない煙草の所為だろうか。机の上だというのに背筋を伸ばして姿勢良く座っている敷島は、普段の饒舌ぶりを何処へ置いてきてしまったのか無言のままプリントを睨んでいた。
 着崩されない制服と同様に手本通りの持ち方でペンを握る敷島の手の先には、桜貝みたいな色をした爪が付いていた。清潔そうな短さで切られた爪は、先端が少しギザギザとしているのが意外だった。彼も爪を噛む事があるのだろうか。

 群れたり馴れ合ったりとは縁が薄い敷島だが、案外こういう事は断らない。特に今回のように冷たく断ろうとも折れずに食い下がって来るタイプの人間が相手だと、拒否し続ける方が面倒なのかもしれない。
 俺ももうじき巻き込まれるのだろうと悟った。名簿欄に記載された俺の名前が蛍光ペンでチェックが入れてあるプリントが見えた。まずはクラスや学年といった単位で統率出来るように各クラスから責任者を選出しようとしているのだ。途方も無く面倒だと感じたが、断る気は無かった。断ったところで良い事がある訳ではないし、番長には幾度か旧3年生から庇ってもらった恩があった。1年半以上残る今後の学生生活の為にも、彼とは持ちつ持たれつの関係でいたい。きっと俺の他にも殆どの生徒がこんな雰囲気で協力させられていくのだろう。プリントの上で増えていく蛍光色のラインがそう物語っていた。

 午後の生温い湿度過多な空気に溶ける紫煙が、換気扇に吸い込まれていく。恐らく、この香辛料はシナモンだろう。副流煙から出る香りはシナモンクッキーに似ていた。
 今頃の教室ではやる気の無い生徒に気力を削がれた教員が独り言と変わらない音量で英語のテキストを読んでいる頃だろう。もはや無断欠席など何の背徳感も見出せない程度に常習化してしまっているが、不思議とこの部屋だけが周囲とは流れていく時間が異なっているような気分だった。それは雨音を篭らせる事なく部屋に招く割れた窓の所為だろう。黙したまま隣に座る敷島の、現実味すら薄れる程に楚々とした横顔には気付かなかった事にして、半透明の幕に覆われたような窓の外を見遣った。
 一向に鳴り止む気配の無い雨音が、沈黙を柔らかなものにしていた。


 連絡系統の統制や企画案の締め切り日を設定する作業に移行し始めた敷島が、ふと懸念を漏らした。
「他校生は受け入れないにしても、卒業生を拒むのは些か難しいだろうな」
「中止しようぜ」
多少の不服は我慢するつもりだったが、その可能性があるなら話は別だった。二度と顔を合わせないつもりでいた卒業生達の顔を思い出して、面倒だという思いが厄介に変わった。低偏差値を誇るここからは基本的に大学進学者は輩出されない。学校が斡旋する地元の中小企業へ就職するか実家を継ぐのが殆どだ。つまり旧3年生の生活圏はそこまで高校から離れていないのだ。母校が目立った催しものをやるとなれば、顔を出しにくるに違いない。
「今度こそ消火器で奴の頭蓋骨を陥没させるチャンスだぞ」
敷島が昨年の事を持ち出して茶化す。最初に有った時と変わらない、挑発的な笑みを浮かべて此方を伺ってきた。屋上で敷島に性行を強いていた先輩の背と、振り上げた消火器の重さが脳裏に甦る。もし今度同じ場面に遭遇したらと考えると嫌な想像しか浮かばなかった。何しろ当時とは比較にならない程に敷島に対する執着が膨れ上がっているのだ。次は消火器より遥かに重い物であろうと後頭部めがけて全力で振り下ろしてしまう自信があった。
「全然洒落になってねえよ。というか、お前こそ平気なのか」
敷島の耳朶にも、俺と同じようにピアス穴の跡が残っている。良い思い出が無いのは同学年なら皆同じだろうが、俺の経験は周りと比べて優しい方ではあったのだ。だが、敷島はどうだろう。目に見えて生意気な連中は隔週で殴られていたし、安全ピンとインクで巻糞の入れ墨を入れられて不登校になった知り合いもいる。敷島は要領こそ良いが、外見からして明らかな異分子であり、何を考えているかのか分からないという点において彼等の癪に障らない訳がなかった。
「平気だ。勿論好ましいとは到底言えないが、別に僕は君達のように執拗に暴行を受けた記憶も無いからな」
だが当の敷島は至ってケロリとしていた。敷島がされていた事はそんな風に割り切れてしまうものなのかと、聞いた此方が閉口してしまう。殴ったり蹴られたりはされていないにしても、陰湿な方法で辱めを受けていた事は初対面の時から知っているのだから余計に不可解だった。
「それに、彼等が就職した今なら以前ほど好き勝手は出来ないだろう。そこまで構える必要も無いと思うが」
あらゆる暴力が学生同士の揉め事として表沙汰になることなく葬られてきたが、社会人対学生という構図になった今ではそうもいくまいと敷島は言った。学校の斡旋で辛うじて就職した人間にとって不祥事での再就職は困難だろうから、易々と揉め事は起こさないだろうと踏んでいるのだ。俺は連中をそこまで理性のある人間だとは思っていないので、その気楽さには同意しかねた。
「それよりも、僕はこれから各所から提案されるであろう飲食系の企画を悉く却下していかなくてはならない事が憂鬱だよ。そういうのは殊に面倒だし、僕は検便も集団食中毒も御免だからな」
敷島が目先の不安要素を吐き出して、肩を竦めて見せる。表情が乏しいのも相俟って、御免だと言う割に何処か楽天的な雰囲気があった。此方の気分が優れなくなったのを認めて話を逸らしたのかもしれない。嫌味や皮肉ばかりで相手の不興を招きたがる節すらある敷島には珍しい事だった。
「そもそも準備段階で問題が山積みなんだ。そう簡単に開催に漕ぎ付くものか」
そう言われたら、きっと俺達が中止を申し出なくても土壇場で中止になるような気がした。希望的な観測に過ぎないとは分かっているが、そう考えたら幾分か気が楽になった。


 暫く俺達はこんな学校で何が文化祭の出し物として出来そうかを交互に言い合った。
 黒煙草が絡まないからか、それとも俺が敷島自身について尋ねないからか、今日の敷島とは比較的真っ当な会話が続いた。
「クラス展示ってのがまず無理だろ。絶対皆やらない」
まだまだそんな具体的な事を考える段には至ってはいないが、現実逃避の延長線として機能していた。文化祭を検討する方向で話題が進んだのは、やりたくないと嘆くよりも出来ないだろうと無茶を笑う方が精神的に優しかったからだろう。
「そもそも準備が大掛かりなのは無理だろう。途中で飽きて投げ出すのが関の山だ。よって演劇もお化け屋敷も巨大迷路も却下だ」
消去法でどんどん選択肢が無くなっていくのが可笑しかった。あんまり破滅的だから返って愉快になってくるのかもしれない。指折り不可能を数える敷島に親しみを感じていた。
「映画でも流すか?適当なDVD借りてさ、職員室のテレビを拝借すりゃできる」
「君、真面目に考えてないだろう。と言いたいが、僕も精々それくらいが限界な気がしてきている」
敷島が形の良い唇を綻ばせた。翳りの無い年相応の表情だった。


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