頓珍漢な紫煙1

「アロマンチックってやつじゃないですか」

 空き教室で相談料代わりの焼きそばパンを受け取った後輩は、暫く考えた末にそう切り出した。
 アロマンチック。聞いたばかりの言葉を反芻すると、後輩は静かに頷いた。梅雨時の湿った空気の中で、聞き慣れない横文字は妙な存在感を存在感を放っていた。
「恋愛感情を持たない人の性質をそう言うんです。少数派ですが、社会には一定数居るんだそうですよ」
雨の日は律儀に登校してくる輩がうんと少なくなる所為か、昼休みだというのにいつもの喧騒がなりを潜めていた。後輩は肩にかかった白銀に染められた髪を耳に掛け直しつつ、焼きそばパンを覆うフィルムを剥がし始める。さして興味が無さそうな冷めた態度だが、寧ろその無関心さが好ましい。意見は聞きたいが、此方の事情を覗き込まれるのは嫌だったかったからだ。だから、俺は彼に敷島の名は出さずに「ある奇妙な知人について」相談していたのだった。


 後輩、葛原は俺よりずっと物事を知っている。俺自身が先輩というものに対して良い思い出が無いので、出来るだけ他学年とは関わらないようにするつもりだったが、最近では専ら葛原を相談相手としている。無駄に敵対していなければ、先輩後輩という関係も悪くはないのだろうと思う。
「淋しくねえのかな」
葛原は整ったパーツがバランスよく配置された顔面の表情筋をさして働かせずに、返答の為に口元だけを必要最低限の動かした。剥き出しになった焼きそばパンは口に運ばれる機会を失ったまま、ソースと鰹節の匂いを漂わせている。
「さあ。そういうのは持って生まれた性ですから」
そのような考え方は恋愛至上主義者の傲慢ではないかと葛原が言った。確かに、当人にとってはそれが当たり前の生理ならば、特別視すべきではないのだろう。更に葛原は、恋愛感情を抱かないにしても性欲の有無は別問題であり、他人の性的な指向を外部から判別するのは不可能だとも告げた。その後も色々と細かく分類された名称を並べ立てて、此方の低い偏差値に合わせて噛み砕いて説明してくれたが、理解出来たかと聞かれれば微妙だった。
 そもそも、生まれ持った性質が違うという事に対する実感が湧かない。同性の敷島に惹かれているとはいえ、俺は元々異性の方が好きだったし、恋愛感情を抱くし、セックスに対する願望もある。深く考える事も無く多数派に属していられたから、性に対して真面目に検討する事自体が今の今まで無かったのだ。

 恋愛感情を定義しないまま恋愛という機能を実装している人間の方が余程不可思議だと宣った敷島の顔を思い出す。あの感情の読み取れない表情の下で、敷島は何を思って此方を見ていたのだろうか。余分な感情を持っている者に対する蔑みや憐れみでない事を祈った。そう考えてしまうと、何だか余計に敷島と俺は別々の種の生き物ではないかというような気がしてくるのだ。
「案外、特定の誰かを恋しがったり他人の反応に一喜一憂したりするような、恋愛に犯されている人間の方が淋しさを味わう機会が多いのかも知れませんよ」
葛原は多数派である方の性質を皮肉った。
「……かもな」
正に今がその寂しさを味わっている真っ最中だったので、リアクションが遅れた。
「厄介な人に惚れましたね」
葛原が余りにも素っ気無く言うものだから、つい頷いてしまった。もっと照れたり否定したりするものだと思いました、と驚きを隠さない眼で見られて自分の迂闊さが嫌になった。穴があったら入りたい。こういう時、無性にニコチンに逃げたくなる。
「今の、無かった事にして」
何とも情けない要求をする。此方を向いたままの葛原の色素の薄い眼が、特にこれと言った関心を示さなかったのがせめてもの救いだった。
「はあ」
案の定、特に興味は無いといった口振りで呆気なく了承する葛原。そうして漸く剥き出しのままだったパンを食べ始める。これが同学級の騒々しい連中ならそうはいかなかっただろう。少なくとも飽きるまでネタにされるし、物理的にも精神的にも突き回される。
 会話が無くなると、空き教室に沈黙が訪れる。降り止む気配の無い雨の音が嫌に耳に付いた。

 俺も昼休みの内に何か腹に入れておくつもりだったが、食欲が遠のいてしまった。あの喫煙者にすら嫌厭される黒煙草を非喫煙者の葛原の前で吸うわけにもいかず、爪を噛む。


 恋愛相談を持ちかけた立場にあるまじき事だが、俺は葛原が少し苦手だ。
 葛原は何処となく敷島に似通っているのだ。敷島程の派手さは無いが、葛原も中性的で儚い美少年だ。敷島のように自傷的めいた奇行に走る訳ではない葛原は、人当たりも良くて偏屈とは程遠いと感じるが、纏う雰囲気や語彙と知識の多さがそうさせる。周囲の人間の情動に対する関心の薄さも似ていた。きっと、敷島が意図的に周囲に合わせて振る舞ったら葛原のようになるのではないかと思う。だから、葛原を相手にしていると調子が狂って苦手なのだ。

 「白妙先輩は食べないんですか」
視界の端でぼんやりと捉えていた葛原の、咀嚼の度に上下を繰り返していた顎が再び喋る為に開かれた。俺の食欲がどうとかではなく、目の前でただ黙って居座ら続けるのが気になったのだろう。葛原は焼きそばパンを持ったまま、食べづらそうに此方を見ていた。
「口止め料の代わりにやるよ」
すっかり食欲の失せた俺は、昼食として購入していた総菜パンを葛原に押し付けて席を立とうとした。
「別にそんなに気にする事でもないでしょうに」
そう言いつつも葛原はパンを受け取った。葛原は他人の色恋を囃し立てたりするような性格ではないし、そんな心配をする必要はないのだとは分かっていた。ただ、敷島本人にすら言うつもりのなかった事をこんなにもあっさりと吐露してしまったのだ。滅入って仕方がない。
「じゃあ、コレをお返しに貰ってください。俺は吸わないんで」
葛原は通学鞄からスリムな銀色の煙草ケースを出した。非喫煙者の彼が持つには不自然なそれは、バイト先の客から貰った物だと聞いて合点がいった。未成年に煙草を渡すような客やそれが受容される勤め先は問題が無いとは言えないが、葛原がここの生徒であると認知されているならそういう扱いにもなるのかもしれない。
「常連客で煙草に凝ってる人が居て、何となく相槌打ってたら変に懐かれてしまいました」
葛原のバイト先は個人経営の喫茶店だった筈だと記憶を辿る。実際に行ってみた事は無いが、知り合いの何人かは冷やかしに行ったという話を人伝に聞いていた。顔が良くて話題の守備範囲が広い葛原は接客業に向いていそうだとも思っていたので、何となく覚えていた。
「俺の為にブレンドしたって渡されたんですけど、そもそも俺は吸えませんし」
かと言って、他の客や店員も居る中で突き返すのも角が立つので渋々受け取ってしまったのだと明かした。思えば葛原が自ら自身の事情について語るのは初めてだった。
「手巻き煙草か。凝ってんな」
こういう物には詳しくなかったが、知り合いが経済的だからと始めてみたものの材料の管理や自分で巻く手間が面倒臭くなって市販の煙草に戻っていったのを思い出した。煙草を1本取ってみる。鼻に近付けるとバニラのような甘いを感じた。俺がいつも吸っているジタンとは全く違う、華やかさがある香りだ。二重にしたフィルターの間にシャグを挟んでいたり、香辛料が加えられていたり、随分とアレンジを加えられているのだという。敷島がジタンに拘るので暫く一つの銘柄にしか触れていなかったが、元々銘柄への固執は薄く、貰い煙草にだって何も抵抗が無かった。そもそもジタンだって、傾倒していたアーティストに感化されて手を出しただけだった。
「凝ってるからこそ、職場内では勿論、香りを移される可能性のある人には譲れなかったんです」
だから人前で喫煙しないようにしている俺は適任だと思ったらしい。葛原と交流のある喫煙者達を思い浮かべてみても、当たり前のように教室で一服する連中ばかりだった。
「香りを移されんのも嫌なのか」
そんなに嫌なら捨ててしまえば良かったのにと思わない事もなかったが、そこまで煙たがられる相手が可哀想なので言わなかった。葛原は少し言葉を選んで、別にその人自体は嫌いという訳ではないのだと言葉を濁した。
「他人の手作りってだけでも厄介なのに、その人のオリジナルブレンドだなんて共有する訳にはいきませんよ。その香りを知っているのは世界で2人だけって事になるからです。そんなの、ぞっとしないでしょう」
そんな世界観の構築に加担したら客と店員の関係性から滑り落ちたも同然であると宣った。葛原なりの倫理観なのだろう。葛原の恵まれた容姿と手巻き煙草の甘くて苦い香りが、自意識過剰とは言い難いものにしていた。手巻き煙草は手料理と似たようなものだとも聞く。わざわざ葛原の為に拵えられたそれに詰まっているのは、従業員でしかない彼には受け取れない類の情だ。
「知ってますか。匂いは他の感覚に比べて記憶に根付き易いんです」
葛原が敷島と似たようなことを言った。勿論この後輩は彼のように大脳辺縁系だとか偏桃体だとか聞き慣れない語句を必要以上に並べ立てた蘊蓄を垂れたりはしなかったが、それでも敷島との会話を断片的に思い出すには十分だった。

 匂いの記憶は、情動や生理欲求と密接に絡み合って記憶に巣食う。

 悪趣味な戯言の一つの筈だった。共有した黒煙草の煙が互いを想起させるトリガーになると言っていた敷島には、何の熱量も無かったからだろう。
 だが、俺と敷島の頓珍漢な言葉遊びの延長ではないところで同様のことが指摘されていると、妙に生々しい。例え記憶の片隅だとしても、自分の存在の爪痕が残るならそれは幸福な事に違いない。そんな夢見がちで恥も外聞もない下心と言うには陰湿な感覚が引き摺り出されてしまいそうだった。濡れた手で背を触られたような悍ましさが込み上げてきた。
「呪いみたいだ」
口に出してみると、嫌にしっくりときた。葛原は「俺が受容出来ないだけで、そんなに悪質なものではないですよ」とフォローを入れていたが、その声が上手く鼓膜より先に伝わってくれない。質が悪いのは、悪意の有無ではなくて、言葉の外に隠した気持ちの重さだ。

 そして、そんな湿度を嫌う癖に手巻き煙草の送り主に共感と同情を覚えてしまう自分が忌々しかった。顔も知らない煙草の作り手にシンパシーを覚えているなんて、全くどうかしている。
 敷島と葛原が似ているから、敷島に惚れている俺と葛原を好いていた客も似ているんじゃないのかという勝手な連想が無かった訳ではない。だが一等大きかったのは、境遇に対する共感だ。潰える事が決まりきっている思慕を抱く立場として、自分を重ねていた。
 きっと葛原は敷島と違って角の立ちにくい関係の絶ち方をするに違いない。バイト先が接点である出前、はっきりと好意を拒絶する事はしないだろう。例えば、シフトを変えるなどして煙草の存在ごと無かったことにして距離を取るとか。大人の対応で穏便にあしらう姿は何となく想像がついた。それでも、一つの恋慕が拒絶される瞬間を思い描いてしまうと、胃の腑が痛くなった。


prev← →next




back
top
[bookmark]



×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -