誕生日

 照明を落としたリビングの中で、三号サイズのホールケーキに挿された蝋燭の光だけが揺らめく。
 その淡い橙色の光は、ケーキの上に鎮座した八つの苺とミルクチョコレートのプレートを優しく照らしていた。プレートにはホワイトチョコレートの流暢な筆記体でメッセージが綴られている。それは英語に疎い俺でも読める。
『Happy Birthday Aoba』
 今日は誠嗣サンと迎える初めての誕生日だった。
 誕生日を祝われるのは変な感じだ。終始鼻の頭がむず痒い。


 そもそも、生家でも義父の下でも自分に誕生日というものがある事すら忘れていたのだ。自分の名前や旧姓と一緒に生年月日を知らされた時も、これといった感慨も無く「夏生まれだから青葉という名前なのか」と納得しただけだった。少年院では誕生会と称した誕生日を祝う行事が月毎に纏めて行われていたけれど、自分自身の誕生を祝うという感覚はどうも分からなかった。だから誠嗣サンが俺の誕生日を祝おうと言い出した時も、どう答えて良いか分からなかった。

 それでも月日は過ぎるし誕生日はやって来る。有給休暇を取ったらしい誠嗣サンは俺を映画館に連れ出した。そして少し豪華な昼餉に舌鼓を打った後、プレゼントと称して真新しいサングラスをくれた。初めて彼と外に出た時に太陽に馴染まない俺が眼の痛みを訴えた為に買ってくれた物とは価格も随分違うであろうそれは、軽い材質で扱い易い上に洗練された形をしていた。何より、また一緒に出かけようという約束のようで嬉しかった。帰りは地平線に沈んでいく夕陽を横目に海岸に沿ってドライブするように、うんと遠回りをした。今日は写真を沢山撮った。きっと今日の写真は、大切な思い出として誠嗣サンの大事なものと一緒に冷蔵庫に貼られるのだろう。
 それだけで生まれてきて良かったと思った。これ以上無く幸せだった。


 それなのに夕餉の後にはケーキまで用意してもらっているのだから、幸せが飽和して眩暈がした。膨れ上がった幸福感が、風船のように破裂したらどうしよう。
 蝋燭の火を一息に吹き消すと、部屋が真っ暗になって一瞬の静寂が通り過ぎていく。
「願い事したか?」
「あ、忘れてた」
1回で蝋燭の火を吹き消す事が出来ると願いが叶うという習慣があるのだとは聞いていたけれど、ケーキを前にした時にはすっかり頭から抜け落ちていた。散々満たされた後に更に願い事をするのは贅沢過ぎやしないかとも思う。
「青葉がうっかりするのは珍しいな」
「特に願い事なんて思いつかないし、まあいっか」
誠嗣サンが電気を点けて、蝋燭を除いてケーキを切り分けてくれる。鼻を掠めた溶けた蝋の匂いはあっと言う間に薄くなって、甘い生クリームと苺の匂いが部屋を満たした。

 テーブルを挟んで正面に座った誠嗣サンが乾杯の為にシャンパングラスに飲み物を注いでくれる。淡い黄金色の液体に弾ける泡沫の真珠めいた美しさに、思わず感嘆が漏れた。
「シャンパンって凄くおめでたい感じする」
「実際に凄くめでたいんだよ。お前が生まれてきてくれた日だ」
さらりと言われた言葉が、妙に気恥ずかしくて俯く。多分、耳が赤くなっている。存在しているだけの事を喜ばれるというのは、どうも慣れない。自分がとんでもなく高価な物になってしまった気分だ。
「誕生日おめでとう」
乾杯と共に掲げられたグラスの動きに合わせてカナリーイエローの液体が揺れめいた。


 シャンパンがボトルの半分以下になる頃には、ホールケーキをぺろりと平らげて、他愛無い話に花を咲かせた。
「あの脱走シーン、ヒロインが出演した別の映画のオマージュじゃないかと思うんだよ。ほら、この前、地上波で放送してたヤツ」
今日見た映画は格好の肴だった。映画のストーリーを掘り下げていくのも楽しいけれど、作品を思い出す程に映画館での楽しい記憶が鮮明に蘇るのが何より快かった。照明の落ちた映画館でこっそり絡ませ合った手から伝う誠嗣サンの体温を思い出して頬が緩む。そんな高揚を誤魔化すように、またグラスを煽った。俺はアルコールに強くはない筈なのに、シャンパンはどんどん喉を通っていった。爽やかなスパークリングが心地良い所為だろうか。
「学生の時分に憧れてた歌手の孫なんだ、あの女優」
やっぱり彼女にはその面影がある。と語った誠嗣サン。俺の知らない若い日の彼が顔を覗かせた。それに新鮮味を感じたのは確かだけれど、やっぱり妬けてしまう。此方が歳を重ねたところで、決して歳の差は縮まらないし、誠嗣サンの青春時代に俺は生まれてすらいなかった事実は変わらないのだ。


 グラスに残っていたシャンパンを飲み干して、誠嗣サンのグラスも奪う。
「酔っちゃったみたい」
免罪符みたいに宣誓して、驚いた顔をしている誠嗣サンの唇にしゃぶり付いた。

 実際に俺はそんなに酒が飲める体質ではないけれど、今日に限っては不思議と意識をしっかりもったまま酔ったふりをした。
 色々な事をしてもらって、美味しい物をいただいて、プレゼントまで貰ったというのに、どうしてこれ以上欲しいなどと言えるだろうか。だけど欲は際限無くて、これだけ与えられてなお欲しがっている。誠嗣サンが欲しい。髪の先から爪先まで指を這わせて、彼の全てを知り尽くしてしまいたい。この人の何もかもが欲しい。そんな浅ましい考えは、酩酊を免罪符にでもしなくては到底言えるものじゃなかった。


 素面でこんなに浅ましくて欲深いなんて知られたら、きっと呆れられてしまうのではないかと思いながら、テーブルに身を乗り出して舌を絡める。シャンパンと生クリームの味がした。
 離れた唇同士を唾液が銀糸となって繋ぐのを官能的な気分で眺めていると、今度は誠嗣サンの方から口を合わせてきた。きっと俺の舌も彼と一緒で甘い味がするのだろう。厚みのある舌が歯列をなぞって口蓋を擦り、頬の内側を擽る。咥内を蹂躙するその舌を捉えて吸い付くも、口の端から唾液が溢れて顎を伝う。
 濡れた顎を拭う間も惜しんでシャツの釦を外しにかかれば、誠嗣サンも負けじとシャツの中に手を差し入れて乳首を弄び始めるのだから堪らない。とうに勃っていた乳首は容易に摘まれて更に硬さを増す。乳首は駄目だ。以前はそんなに快楽を拾えるような部位ではなかったのに、誠嗣サンが頻繁に触るから好きになってしまった。快楽で背がゾワリと震えて、腰が揺れる。
 つい脱力したら肘が当たってしまったらしく、カンと音を立ててテーブルにシャンパングラスが倒れて転がる。残っていた理性が割れ物の危機に反応してグラスに手を伸ばして事無きを得たが、その程度の他所事で冷める熱ではなかった。
「誠嗣サン、ここでシよう。ね、俺もう欲しくて仕方ないから……」
酔っているから仕方がない。なんて免罪符だった嘘を言い訳に変えてみっともなく強請る。触ってもらい易いよう机に背中を預けて自分でズボンを下ろす。本当に酔いが回っているみたいに身体が火照っていた。明るい蛍光灯の下で染みの付いた下着を晒すのはあまりに滑稽で恥ずかしい思いがしたが、それ以上に興奮を催した。

 誠嗣サンも欲に濡れた眼差しで頷いて、節張った左手を下着に入れてくる。すっかり硬くなって下着を押し上げていた使い道の無い性器を扱かれながら、尻の穴を弄ってもらう為の指をしゃぶらされれば、期待で頭が溶けてしまいそうになる。
 誠嗣サンに触ってもらうのは大好きだけど、セックスに溺れる自分が堪らなく嫌いだ。自分が貞淑だとか清廉だとかそんな理想的な恋人の人格から遠く離れた手垢の付いた淫売だと証明するようだからだ。でも今回は理性の弱さをアルコールの所為にしてその蟠りから目を背けられる。獣性にのみ従ってはしたなく誠嗣サンの体温を欲しがれる。
「んん、ぁあっ……」
唾液を纏った指が優しく菊門を開き、快楽の源を引っ掻いていく。誠嗣サンが早く欲しくて欲しくて、はしたないという自覚はあっても脚は無様に広がるし腰はみっともなく揺れてしまう。どうしようもなく欲しがりな癖に女性のように手っ取り早く受け入れられない自身の構造がいっそ呪わしかった。
 余りに恥知らずな振る舞いをする俺に誠嗣サンが苦笑した。
「本当に酔ってるのか」
彼と明るい部屋で、それもリビングでこんな事をするのは初めてだった。思えば、事前に腸内洗浄もせずにこんな行為に至るのも珍しい事だった。便は一度夕方に出ているので差し支えはしないと踏んでいるけれど、碌な準備もしていない身体に誠嗣サンを招くのだと考えると妙に緊張した。
「うん、酔ってるよ……酔ってるからね、あっ、欲しいの、我慢できないっ」
自分が吐いた嘘だというのに、暗示にかかろうとしていた。きっとこんな風にがっつくように求めるなんて、非常識だ。卑しく思う気持ちはあるのに、沸き上がる背徳感が性的な興奮を煽ってブレーキを壊してしまった。恥も外聞もアルコールに殺されてしまったのだという事にして、自分の淫乱ぶりに眼を瞑る言い訳を作りたかったのだ。


 ぬるると侵入してきた陰茎に、思わず声を上げて悦がった。意味を成さない母音の羅列が自分の口から出ていくのを何処か遠くの音のように聞いた。興奮と快楽で毛穴が開いた皮膚を滑る汗が滴っていく。誠嗣サンがそれを舐め取るように肌に吸い付いた。時折悪戯に歯を立てながら、首筋から鎖骨そして胸へと唇が下りていく。大人の男が男の乳首に赤子のようにむしゃぶりつく様は酷く倒錯的で愛しかった。誠嗣サンの黒くて硬い髪を梳きながら、彼の腰を脚で引き付けてもっと吸ってほしいと強請った。
「ひんああーーっ!」
じゅるるるるっと音がする程に乳首を強く吸われて嬌声が抑えられなかった。乳首から刺激が背骨を伝って腰まで降りてくるような、強く鋭い快楽。その刺激の所為で意図せず尻まで強く締め付けてしまい、腹に埋まっている陰茎に不用意に悦い部分を嬲られる。陸に打ち上げられた魚よりも無様に身体を跳ねさせて達してしまった。
「可愛い」
荒い口呼吸を繰り返す俺に眼をやって微笑んだ誠嗣サンは、また胸に顔を埋めて吸い始めた。今度は軽く歯を立てるようにして苛められる。達したばかりで過敏になった神経にはそれだけでも過ぎた刺激だというのに、可愛いだなんて言われて舞い上がった俺は更に胸を突き出して愛撫を強請った。もっともっと、可愛がってほしい。
 誠嗣サンにも感じてもらえるよう、意図的に下腹部に力を入れて陰茎を絞るように締め付ける。それに合わせて誠嗣サンは腰の動きを強めてくる。結合部では肉と肉のぶつかる音が早まり、腸液と先走りの混ざった液体がぶちゅぶちゅと鳴って泡を立てる。前立腺を突かれる悦びに舌を出して悶えながら、服従の意を示す犬のように腹を突き出して腸壁で陰茎を扱きたてる。鼻から漏れてしまう喘ぎ声の混じった吐息も犬のそれと変わりはしない。この分では二度目の射精も近い。そう分かってはいたが、肉の歓びに身を任せて喘ぎ散らすのが我慢できなかった。


 腹を掻き回していた誠嗣サンのそれが脈打ったのを感じて、脚で彼を一層強く抱え込んだ。誠嗣サンは俺の中で達した。
 額にキスされて、硬さを失った陰茎がずるりと抜かれる。名残惜しさにヒクつく肛門から精液が出ていくのを感じてつい甘えた声が出た。基本的には気を遣ってゴムを付けて行ってくれる人だから、中に出される事自体が稀だった。そう考えると勿体無いような気がして、思わず股を閉める。
「誠嗣サン、もう一回シよ」
「若いな」
胸板に頭を擦り付けて強請ってみたけれど、失敗だった。下品に感じたに違いない。誠嗣サンに呆れられてしまうのが怖くて、弁解の言葉を探す。
「それとも、酔ってる所為か?」
そういう事にしてしまおうと頷くと、誠嗣サンはさも愉快そうに笑っていた。この表情は何となく知っている。ちょっと意地の悪い悪戯をする時の顔だった。

 「本来シャンパンはアルコール度数11%以上のスパークリングワインを指すんだが」
誠嗣サンがテーブルに置いたままのシャンパンボトルを寄越した。他にもシャンパーニュ地方で特定の品種の葡萄を原料に造られている事等様々な条件があるようだが、誠嗣サンはアルコール度数を強調して話してくれた。彼は俺が酒に強くない体質だという事も、そういった理由から好んで飲まない事もとうに知っている。深緑色のボディを蛍光灯の光に透かすように掲げてシャンパンボトルを確認すると、ラベルにはシャンパンではなくシャンメリーと表記されている事に気付いた。

 そしてノンアルコールの文字。

 わざわざ誕生日に酔わせるような真似はすまいという誠嗣サンなりの気遣いだったらしいが、俺は見事に酔っていた。酔っていると言い訳が出来る状態に酔っていたのだ。
 知性の欠片も無く喘いでいた自身の姿を思い出して、血の気が引いた。飼われていた頃と変わらない、淫蕩な雌犬の姿。成立していると思い込んでいた言い訳が一気に崩れ去って、足元が覚束なくなる。自己嫌悪で死にそう。
「青葉がシャンパンだって喜んでんのにわざわざ水を差すのもどうかと思ったんだよ」
居た堪れなくなってバスルームまで逃げ込もうとした俺の肩を掴んで引き留めた誠嗣サンが宥める。誠嗣サンとしては軽い気持ちで嘘を暴いたのだろう。動揺してすっかり青ざめている俺の反応を見て罪悪感をが滲んでいる。ノンアルコール飲料を選んだ経緯について弁解されたところで今の消えてしまいたい気持ちは消えないけれど、誠嗣サンの手は暖かくて、背を擦ってもらうと否応無く安心感が湧いてくる。
「……はしたないって、嫌にならない?」
気にしていた事が、呆気無く喉から出てしまった。
「いいや」
手酷く突き放すような真似をする人ではないのだ。それを知っていて聞くのは卑怯かもしれない。けれど誠嗣サンの事となると、到底理性的ではいられない。何処までも縋ってしまう。
「はしたないのも俺だけに見せてくれる態度なら寧ろ可愛いもんだ」
照れくさそうに頬を掻いた誠嗣サンは、柔らかい表情で目を細めた。好いた人に求められて悪い気はしない、と。
「誠嗣サンだけだよ」
きっと今後ずっと誠嗣サンだけ。

 憑き物が落ちたように身体が軽くなったような気がした。
 好きなのは肉の悦びじゃなくて、不特定多数の男達でもなくて、たった一人。触られて嬉しいのも、はしたなくなってしまうのも、際限無く求めてしまうのも。誠嗣サンだけ。
 少なくとも、俺が誠嗣サンを求めて仕方がないのは軽蔑されるべき事ではないのだ。そう確信を持てる材料を手に入れて、どうしようもなく安堵した。


 バスルームまでエスコートされる最中、ふと思い立った。
「ずっと誠嗣サンと居られますようにって願い事すれば良かった」
バースデーケーキに挿した蝋燭を吹き消す時、何故そう願わなかったのだろう。自問自答が声として漏れていたらしく誠嗣サンは事も無げに答えてくれた。
「願うまでも無く叶う事だからだろう」
 誠嗣サンがそう確信する内はそうなのだろう。今はそれだけで、充分幸福だった。



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