狐筋、人に迫る

 冬の半ばとはなんと憂鬱な季節だろうか。降り積もる雪は故郷の田舎の長くて過酷な冬を思い起こさせる。私はどうも雪を好く事が出来ない。雪は歩く脚を重くさせて、冷たく湿った空気は惨めな気分にさせられる。

 兄の話では私が生まれた日も雪が深く積もっていたという。だから深雪と名付けられたのだと。名前は呪いのようで、思えば私の人生の転機は何時も雪が降っていた。
 私がまだ幼く故郷で兄と暮らしていた頃、山に棲むという村を守る神に捧げる「贄」として選ばれた日は、まだ冬の初めだというのに夕方には見事な雪が横殴りに降っていた。その雪と共に、私は御利益どころか実在するかも怪しい狗神とやらに捧げられて、そこで人生を終える筈だった。だが兄が私を生かしたいと、私に成り変わって山へ赴き、私は都から来たという商人の養女として村を出た。

 狗神というものが本当に居るのならば贄になるべきは私だったのではないかと、今では度々思うようになった。というのも村を出てから幾許かした後、私は尋常ではないものが見えるようになっていた。最初は家屋の梁を伝って歩く鼠程度の大きさの小鬼達。次いでは自殺した女の影。決して他人には見えない特異なもの達は、時として私に囁きかけてくる事もあった。
 全てはあの時村に留まるべきであったという私の悔恨が見せた幻かもしれない。素直に贄として山へ行くか、或いは兄と心中してしまえば良かったのだ。その方がずっと幸せだったに違いない。
 私を都へ連れていく筈だった商人は、出先で知り合った子供を養っていけるような余裕など到底無い貧しい小悪党だった。彼は都から少し離れた町に着くや否や私を二束三文で売り飛ばしたのだ。
 私のような教養も無い非力で幼い娘は有用な人材とは言い難く、随分ぞんざいに扱われたものだが、初経が来ていないのが幸いだった。同年の娘達は既に初経が訪れている者も少なくはなかったが、貧しい育ちの私は成長が皆より遅れていたのだった。私は寂れた湯屋で湯女をしつつ春を鬻ぐ女達の見習いとなった。股を開けない私に商品としての価値は無に等しいので宿屋の主人や男達からの扱いは酷いものであったが、どうせ私から血が流れるようになれば今とは別の趣向で酷い扱いを受けるのは他の女達を見ていればよく分かる。女達は競争相手と成り得ない私が気安くて良いと可愛がってくれるので、一生大人の身体になどなるものかと思っていた。
 だが誰が自分の意思で成長を止められよう。ついにこの日はやってきてしまった。今日は雪が一段と降っている。深く積もった雪は枷のように足を捉えて歩く事すら億劫にさせる。逃げ出そうという気も起きない。尤も逃げる先など無いのだけれど。

 「あんた血の匂いがするよ」
厠へ行ってごらんと私をせっついたのは湯女切っての古株にして稼ぎ頭、朱だった。こういった商売に長らく従事している所為かそれとも単に鼻が良いのか彼女は血の気配に大変敏感だった。私が折檻を受けたりいびられたりして怪我を負った時も、一番先に彼女が気付いて手当をしてくれるのだった。
「ええ。今日は雪が酷いので、そろそろかと思っていました」
朱はその年齢不詳の美しい顔に困ったような苦い笑みを浮かべた。彼女は私に特別良くしてくれるので、つい気安くなってこの下らない雪の呪いも話してしまっていた。朱は不思議な程私に甘く、その態度は離別した兄を彷彿とさせる。特異な私を気味悪がり疎む奉公人達の中、彼女だけは私を真っ当に扱ってくれるのだった。それは彼女が年増にも関わらず衰えない美貌を妬まれ畏れられ絡新婦だと陰口を叩かれている事から同情心が芽生えているのかもしれない。
「今日は皆には伏せておいてあげるよ」
朱は私にもう少しの猶予をくれるらしい。朱の涼しげな双眸は湯屋の戸場口を一瞥すると、疎ましげに細められた。そして彼女は含みのある声で言った。
「雪が面倒なもんを連れてきたからね」
そう聞いたのと来客を告げる声が聞こえてきたのは同時だった。


 店に恰幅の良い男達がぞろぞろと入ってくるのを朱と二人で廊下から窺った。
 用心棒のような筋骨隆々とした男達四人を侍らせて、厳めしい顔の男が店主を呼んでいた。彼は寂れた湯屋には似合わない上等な着物を着ていた。用心棒のような男達は皆一様に笠を被っていて、顔が隠れていた。滅多に無い上客の気配に店主が手を揉みながら厳めしい顔の男に対応する。
「此処に絡新婦が居ると聞いているぞ」
断片的に聞き取れた店主と男の会話は、妙なものだった。梁にぶら下がっていた小鬼達が木材の軋む音に似た鳴き声をあげて彼等から距離を取る。しか見えないであろう小鬼達を男が眼で追うような動作を見せたのは私の思い過ごしだろうか。
「絡新婦、ですか。そう呼ばれる女はおりますよ」
絡新婦とは女に化けた蜘蛛の化け物の事でもあるが、朱を指すその呼び名は妬み嫉みが生んだ悪口に過ぎない。客にまでそんな話が伝わっているとは思わなかったが、やはり朱がそのように言われるのは気分が悪い。しかしそんな言われようでも店主は喜んで朱を呼ぶ。
 だが朱が彼等の元へ行く前に、男達と店主の間で話がおかしくなったようで揉め始めた。どうやら男達は朱に持て成されたい訳ではなく、彼女をものにしたいらしい。そうなると話は別で、店主は対応しかねる。朱は稼ぎ頭で、彼女無しにこの寂れた湯屋は立ち行かないからだ。朱も面倒事の気配を感じて眉間を揉んでいる。逃げた方が良いのかもしれないねえ、なんて言い始めるのだから益々不穏だ。

 争う音が激しくなったかと思えば、店主の悲鳴を皮切りに不自然な静寂が訪れた。厳めしい顔の男が懐刀を抜いて店主の首を掻き切ったのだ。突然の凶行に湯屋の皆が言葉を失っていたが、我に返った者から悲鳴をあげて逃げていく。蜘蛛の子を散らすように、足音が幾重にも重なって床を軋ませる。去っていった奉公人達を追うように店主の血潮が広がっていく。小鬼達も尽く物陰に引っ込んだ。私も逃げるべきなのだろうが、逃げる先が分からず朱から離れられずにいた。朱はその場から動く事は無く、表情の抜け落ちた顔で騒動の中心を見つめていた。
 得体の知れない男達の前に私達二人だけが取り残されるのに然して時間はかからなかった。私達も逃げなくては。彼等から一刻も早く遠ざかるべきだと脳裏で警鐘が鳴る。
 広がり続ける血を踏んで、男達が朱に迫ってくる。とても正気とは思えない連中だった。正面から血を浴びた男達は、人を殺めたばかりとは思えない程に悠然と歩いてくるのだから。彼等と相対していては無事では済むまい。彼等とまだ四間は距離が保たれていると言うのに、その血濡れた刃を喉元に当てられているような感覚に陥っていた。

 私は無意識に朱の手を握っていたのだと、強い力で握り返してきた朱の掌を感じで気付いた。
「逃げよう」
朱が私の手を揺すって促すが、脚に全く力が入らないのである。
「ど、どこに」
渇いた口から萎びた声が辛うじて漏れ出た。朱に支えられて、辛うじて立っている。私には行く宛も無い、朱以外に頼れる相手も居ない。何処に逃げろと言うのだろう。外は深い雪が積もっていて、到底走れやしない。何処にも行けやしない。村から逃げて此処に行き着いたというのに、此処から逃げたら何処へ行くのだろう。そう思ってついぞ今朝逃亡を諦めたばかりだったのに。悪い考えが頭の中を占領して、脚に力を入れるよう意識を向ける事すら難しかった。それを見兼ねた朱が私の手を引く形で強引に移動させる手段に出た。私を引き摺っているというのに、男達がぐんぐんと遠ざかっていく程に朱の脚は早かった。そしてあの細くたおやかな腕の何処からそんな力が出るのだろうかと思う程に、朱の力は強かった。
「じゃあ、あんたは隠れてな」
男達からある程度離れ、彼等の死角まで来た時、朱は立ち止まってそう言った。朱は私を納戸に押し込んで、彼等から隠した。待って。そう発した筈の声は枯れていて、喉より外に出ていく事はなかった。私の口許からは白い息が絶え間無く出ているだけだった。朱の着物の裾を掴もうと腕を伸ばしたが、薄い布は縺れる指の間を呆気無く擦り抜けてしまう。納戸は閉められ、僅かな光が戸の隙間から差すのみとなった。

 納戸の中には数匹の小鬼が居た。突然の乱入者である私に驚いたのか、ぎっぎっと声をあげた。だがそれらよりも人間の男達の方がずっと恐ろしい。小鬼達を押し退けて、指先で立て付けの悪い戸を少し開け、走りゆく朱の背中を窺う。裏口から逃げるつもりなのだろう、朱の長い黒髪が激しく揺れているのが見えた。そのすぐ後ろを男達が追う。複数人の足音が、床板を軋ませた。
 私はまた大事な人を失うのだろうか。彼等から逃げる朱の背が、兄と重なった。兄が私を村から送り出したあの時も、今日と同じように雪が降っていたからだろうか。


 ふと、朱を追う用心棒の一人が此方を見た。笠で顔が隠れているが、此方に感心を示したのは明らかだった。逃げる朱から背を向けて、わざわざ納戸に近付いて来るのだから。
 此方は暗がりから戸の細い隙間を通して見ているので、向こうから此方を見る事は出来ない筈だが、目が合ったような錯覚に陥る。縦んば此方の存在に気付いたとしても彼等の目当てが朱である以上私に構う必要は無い筈だが、男は此方に近付いて来る。
「おやおや、お嬢ちゃん。可哀想に」
男が此方に喋りかけてきた。此方を小馬鹿にしたような口調に、恐怖と憤りが綯い交ぜになった感情が湧く。納戸の隙間から、男の眼が覗いていた。その眼は黄金色で、瞳孔は細長い。獣の瞳そのものだった。化け物、と思わず唇が動いた。声こそはでなかったものの唇の動きを正確に読み取ったその眼が嘲笑うように細まった。小鬼達が狭い納戸の中を逃げ場を求めて右往左往していた。今動き出したところで状況を打開出来る気はしないが、逃げ場を求めて動ける活力があり希望を持っている彼等が羨ましかった。
「化け物など、君にとっては珍しくもあるまい」
その言葉が小鬼達を指しているのは明白だった。やはりこれ等は私の幻覚ではなかったのだ。
 男によって納戸が開けられる。勿論抵抗したが、男の力には敵わない。呆気無く戸が全開になって、男と対面する。男は口許を布で覆っていたが、その口の端を吊り上げて笑ったのが布の影で分かった。

 恐怖と生理的な嫌悪を堪えたまま男と暫く睨み合っていると、店主を殺めた男も戻ってきた。
「絡新婦は捕らえた。もう此処に用は無かろう……何だ、その娘も欲しいのか」
最悪な事に朱も捕らえられていたらしく、用心棒達は朱を罪人のように紐状の布で捕縛していた。朱を縛る布に書かれた経文のような模様が異様な雰囲気を醸していた。読み書きは碌に出来ないが、それが良いものでないのは察するに余りあった。
「ああ、絡新婦より余程面白いものを見付けた」
私の前に立つ男が返事をした。用心棒が主人に向ける態度ではなかったが、それを咎める者は居なかった。寧ろ、彼こそがこの一行の主導権を握っている様子だった。
「可哀想に、人の世で生きるには生き苦しかろう」
男が納戸に腕を突っ込んで、小鬼の首根っこを掴んで捕らえた。
「家鳴」
やなり、と呼ばれた小鬼が男に片手で宙吊りにされた状態で藻掻いていた。小鬼の木材の軋みに似た鳴き声が湯屋全体に悲痛に響く。
「狐」
男が小鬼を手放して、自身を指す。黄金色に光る人ならざる眼に射竦められる。この男は狐なのだと、自分でも驚く程素直に腑に落ちた。私の反応を確認してから、今度は屋外を指す狐男。その指の先に何があるかは見ずとも分かった。湯屋に勤めていた女が首を吊った樹の生えている場所だった。
「亡霊」
その樹の根元には、いつも女の影が見えるのだ。狐がまた可哀想にと呟いた。次に彼が指差したのは朱だった。
「そして、絡新婦」
朱の敵意の塊のような視線を受け流して、狐は獣性を隠そうともせず野蛮に嗤う。
「可哀想に。お前は姉やにずっと騙されていたよ」
朱が本当に化け物としての絡新婦であると言いたいのだろう。だが、騙されていたとしても、その件においては決して私は可哀想などではなかった。私に良くしてくれたのは朱だけなのだ。朱が何者であるかなど、とうに気にするところではなかった。
「さては信じていないね」
いまいち反応の薄い私を見て、狐男は朱が化け物である証拠を見せてやると宣った。男の指示で、用心棒達が朱の拘束を強める。
「この女、生半可な事では本性を現すまい」
そう言ったのは店主を斬り殺した男だ。狐はそれに応えて思案する素振りを見せてから提案した。
「なあに、腕の一本でも切り離して見れば姿も変わろう」
「じきに逃げ出した連中が人を呼んで戻って来る。長々と遊んではいられんぞ」
そうは言ったものの、店主を殺めたのと同じ懐刀で男は朱の肘から先を躊躇いも無く切断した。朱は苦悶の声を漏らして頭を振りたくった。骨が露出した腕の断面からは、赤い血が絶え間無く迸った。地獄の光景を前に、喉が壊れた笛のようにひゅっひゅっと鳴った。
「おお。八本もある脚の一つとて、身を失う痛みは耐え難いらしい」
床に転がった朱の腕の先が、見る見る変化していった。毛深く黒々とした物に変化していくそれは、本体から切り離されてなお藻掻くようにのたうって、血で床板に歪な円弧を描いていた。それは普段眼にする物よりも遥かに大きい所為で獣の脚のようにすら見えたが、正に蜘蛛の脚であった。朱が途切れ途切れの枯れた声で悪態を吐いた。聞き取れはしなかったが、男達の顰めた顔で余程品の無い言葉を発したのだという事は分かった。痛みへの呻きを押し退けて罵倒が出る程に、朱は彼等に対して憤っていた。
「あ、ああ朱、朱……」
吃りながらではあったが、やっと声らしい声が出た。私を見遣った朱の涙の滲む双眸に、絶望の色を感じたのだ。声が出ても何と声をかけて良いのか分からず、只管に朱の名を呼んだ。人間と思われる男達も狐と一緒になって朱を嘲笑う。
「大方、この娘が大きくなったところを取って食うつもりだったのだろうが、残念だったな絡新婦よ」
「違う、みゆきっ……ちがう、私は」
痛みと恨みに支配された朱の顔には、寂寥の色も滲んでいるように思えた。何か弁解を試みた朱だが、男達に顔を殴られて言葉を紡げなかった。鼻から出た血が口に入ったのか、血を顔から撒き散らしながらごぼごぼと音を立てた。痛みと憤りで不自由な身体をくねらせて朱は暴れた。彼女が頭を振る度に、至る所に血が跳んだ。それでも朱は私の名を呼んで、聞き取れない言葉を発しようとする。それを抑えている男達が、往生際が悪いと罵って怒声の合唱が始まる。

 朱の本性を証明した狐が勝ち誇ったように、また私を可哀想だと言った。
「いいえ、例え私を取って食おうとしていたのだとしても、今の今まで充分に釣りが出る程に良くしてもらったもの。私は可哀想なんかじゃない」
本心だった。今まで引き攣っていた声帯が驚くほど滑らかに動いた。朱が暴れるのを止めて、此方を見た。その顔は散々叩かれた所為で脹れていた。そして彼女の額には、ぎょろりと赤い三対の眼が浮き出ていた。元々の眼と合わせた八つの眼に、私は確と映っていた。
「朱は何者であったとしても私の姉やで、私にしてくれた親切の数も変わらないの」
だからそんな事をしても無駄なのだと、私を憐れんだ狐に告げる。朱は自分だけで逃げた方が早いのに、動けない私まで連れて逃げようとしてくれた。他の人達は見捨てても、彼女だけが私の手を引いてくれた。寧ろ朱こそが、私を憐ではない者にしてくれていた唯一人の恩人なのだ。


 人の形をした狐の米噛に血管が浮いた。
「絡新婦の腕をもう一本落とせ」
「どうして」
無駄な事だと告げたばかりだというのに、狐は朱のもう片方の腕を掴んだ。糸のようだった狐の瞳孔が開いていた。
「次は脚、そうしたら眼を抉る。お嬢ちゃんは大好きな姉やの姿をその眼に焼き付けていれば良い」
「流石に傷めつけ過ぎると使い物にならなくなるぞ」
「もう人が来てしまいます故、お戯れは程々になさいませ」
これには共犯の男達も戸惑った。口々に異を唱え始める。朱を捕らえてどう使う気でいたのかは分かりかねたが、この非情な一行に亀裂が生まれたのも確かだった。
 男同士が口論している隙に、男の一人に飛びかかる。この機会を逃したら私は今度こそ生きていく自信を完璧に失ってしまうと思ったら、何とか脚に力が入った。腕に噛み付いて、男の顔を滅茶苦茶に引っ掻いた。男が倒れ込んだ拍子に、私も彼の肘で鼻を打った。だが口の中いっぱいに血の味がして、自分の鼻から血が出たかなんて分かりはしなかった。男の滑る唾液交じりの血が爪と指の間に入り込む。幸いにも噛み付いた男は、店主を殺めた男だった。男は悲鳴を上げて身体を捩ったり私の背を叩いたりと抵抗をするので、胴に脚を絡めてしがみ付き、より一層強く噛み付いた。憤りのままに強く深く噛み付いていると、自身も獣なのではないかと錯覚するほどに低く野蛮な唸り声が出た。他の男達が支離滅裂に私を罵りながら引き剥がそうとするが、歯が抜けても絶対に離す気は無かった。これは交渉だった。朱が失う部分をこの男からも奪ってやる。この男は狐に対して我儘息子に辟易する父のような口振りになる、少なくとも同等かそれ以上の立場ではないかとみていた。朱を離さなくてはこの男も無事では済まさぬ、と男達を睨め付けた。

 だが、狐だけはうっそりと笑っていた。どっちが獣か分からんなあ、と上機嫌ですらあった。
「よろしい。お嬢ちゃん次第で、絡新婦を甚振るのはもうやめよう」
狐は男に食らい付いたままの私の傍にしゃがみ込んで、交渉を持ちかけた。態度は気にくわないが、概ね望み通りだった。肉を噛んだまま、唸り声で返事をした。
「お嬢ちゃんが私の所においで」
もう絡新婦など捨て置けるくらい、私が気に入ったのだと言う狐。気が触れているとしか思えない感性だとは思ったが、条件に問題は無かった。
「人の世に紛れて暮してゆける化け物より、人の身でありながら人の世では生き難い娘子の方が私の蒐集品には相応しい」
化け物を恐れつつも化け物である朱に心底懐いていたのも面白いと言う。朱が頭上で狐に向かってふざけんじゃないよと唾を吐いた。だが私は男の腕から口を離し、交渉に乗った。肉に深々と刺さった歯を抜くと、男が啜り泣いた。
「ただ、朱が無事だという保証も欲しい。彼女も一緒に連れて行って」
朱に伺いも立てずにそう言い切った。狐も男達の反応を待たずに返事をした。男達は私と狐を交互に見て狂っていると泣き言を漏らしていたが、反対はしなかった。
「馬鹿」
朱はそう呟いたきり、意識を失って崩れ落ちてしまった。だが息はしていたので、止血をして身体を自由にした。私が噛み付いていた男にも止血が必要だったが、所詮は小娘の小さな歯によるもので、腕を永遠に失うような傷ではなかった。
 朱に寄り添って乱れた黒髪を梳く。外では相変わらず酷い雪だった。
「ごめんなさい、朱。誰かを犠牲にして無為に生きるのはもう懲り懲りなの。自分の勝手だったとしても、誰かと一緒に生きてみたくて」
私を他人に託して一人村に残った兄の背中と、私を納戸に隠して一人で男達から追われる事を引き受けた朱の背中が嫌に重なったのは、この思いの所為だったのだろう。我儘な願望を口に出すと、生きる気力が戻って来た。
 

 かくして、私達は大量の血痕と店主の遺体を放置したまま、人が来る前に湯屋を後にした。
 行き先を聞いたのは、揺れる牛車の中だった。私は今度こそ本当に都に行くらしい。この男達は都で商いをする狐憑きの豪商で、この狐の趣味で異形を集めては愛でているのだとも教えられた。異形と共に蒐集品とされるのは、勿論良い気がしなかった。だが、今回は、朱も居る。私の意思で、生きる場所を決めた。
 例え選択肢が少なかろうとどれも最悪であろうとも、私が自ら生き方を決めたのは初めての事だった。



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