雌雄同体ウロボロスくじら

 「こんな夢を見た」
かの夏目漱石の言葉を借りて僕は彼女に報告する。彼女は何時もこの場所この時間に、僕の真正面に座って静かに話を聞いてくれる。例えどんなに他愛ない話でも。

 「僕は気が付くと高層ビルが地平を隠すように乱立する都市の上空に居た。ただ何をするでもなく、一際高い硝子張りのビルの壁面に立ち尽くしていた。重力に逆らって九十度傾いた視界には、雲一つ無い青空と鏡のように磨き抜かれた硝子で覆われたビルの連なりだけが映っていた。また、どんなに耳を澄ましても僕以外に音をたてるものは無かった。太陽が無いにも関わらず真昼の色味を見せる蒼穹は果てしなく広がり、ビルはそれを映して眼に痛いくらいに青く輝く。見渡す限り青一色の世界だった。抜けるような空の青、遠方のビルの淡い青、日陰のビルの暗い青、足下の硝子の濃い青。青色以外が存在する事を拒むかのような排他的な景色。青、青、青……。僕は瞼の裏までもが青く染められる錯覚に陥って目眩を覚えた。
 そんな中、不意に向かいのビルの壁が歪んだ。勿論目眩の所為ではなかった。僕がそう確信したのは、二回目にそれが起こった時だった。今度はビルの硝子である筈の壁が大きく波打って飛沫あげた。飛沫はやはり硝子製で、光を受けて輝きながら空を舞った。細かい硝子は僕の足下のまで届いたけれど、僕は呆然と波打つビルを見ていた。まるでそこだけが水に変質した様に揺らめいて、より一層深い青で大きな紡錘状の影が出来ていたからだ。影はゆるりと旋回したかと思えば、硝子の向こうに潜って見えなくなった。
 次はもっと僕に近い場所で飛沫があがった。その時に影の正体が分かった。双葉の形のシルエットが硝子の壁を叩いて激しい波を作っていたのが見えたからだ。鯨だ。ビルの壁面から露になった尾を見て、僕は思わずそう呟いた。鯨は柔らかな桃色で青が飽和するこの景色によく映えていた。鯨の方も僕に気が付いたのかもしれなかった。近寄って来たかと思ったが、不自然に減速して潜水の体勢になった。鯨は豪快な音をたてて硝子の海に潜ったかと思えば、僕の真下を滑らかに通り抜けた。自分が踏む冷たく硬い壁の直ぐ下に、大型の海洋生物が悠然と泳いでいる。それの時間は僅か一分にも満たなかったにも関わらず、その光景は僕の心拍数を上昇させた。鯨の影は僕の立つビルから隣のビルに移り、また別のビルへと向かって行く。鯨の影は現れては消える事を繰り返し、戯れるように歪な螺旋を描きながら僕を横切って、空とは反対の地面の方に向かっていった。僕は半ば衝動的にそれを追い駆けたけれど、地面が見えてくるよりも早く、鯨の影は見えなくなった。置いていかれた僕は立ち竦むしか出来なかった。
 鯨の存在が無くなると、空気が凪いで硝子の海もただの無機質なビルに戻った。そこは元々静かだったけれど、再び動きを失ったことで絶望的なまでに寂寞とした世界に変わった。僕は取り残されたのだ。僕の心まで青く塗り潰されたように、鬱屈とした気分になった。青以外の色味を見せてくれた鯨は、その世界で唯一僕以外の生き物だった。消失感から強い孤独を感じて、それから逃げる為に僕はあの鯨の元へ行こうとした。そして何より、もう一度あの鯨が見たいと願っていた。あの美しい桃色の鯨こそ僕が求めていた物なのではないだろうか。あの果実めいた桃色が僕の虚空を埋めてくれるのではないか。そんな強迫観念にも似た得体の知れない直観に憑かれて走り出した。既に鯨を見失った僕には何処を目指せば良いのかなど勿論分かる筈も無い。只々元の位置から出来るだけ遠くへ行けるよう、今何処に居るのかさえ考えずひた走った。走る事に疲れたら硝子の海の中に入って泳ぐ事を考えた。きっとまだ硝子の海の中を遊泳している。そう思って、足下の硝子製の壁を蹴った。けれど、壁は壁のまま海に変わる事はなく、硬く平らな状態のまま僕の体重を支え続けていた。更に跳んだり走ったりと色々試したけれど、結局何も変わらなかった」
 彼女は夢の中の僕とに感情移入しているのか、寂しそうな顔をして話を聞いていた。
「妙な夢だろう」
臍を曲げた引力、青い世界、太陽不在の白昼、硝子の海、桃色の鯨、都市に巨大生物。こんな荒唐無稽な上に冗長な話をされても彼女は何も言わず、緩やかな癖のついた亜麻色の髪を掻き上げるだけ。時折真正面から目を合わせて穏やかに頷いて、僕を好きなように喋らせてくれる。
 僕と足の裏を合わせて硝子に映っていた淡い自身の像は、僕よりも僕らしくて逸そ滑稽で、それが酷く悲しかった。だがそんな感傷を伝える気はなかった。きっとその自嘲めいた嘆きを理解することはないに違いない。彼女は僕の理想であり、完璧な存在だからだ。
「無機質な世界に鯨が戻ってきたのはそれから幾分か経った後だった。太陽がない空は色味を変えることがなかったから時間は分からない。けれど体感では鯨を待っていた時間が永遠に等しいものに思えた。僕はそれほどあの生き物に焦がれていた。
 鯨が硝子の海を揺らしてやって来る音は、僕を長い無音の世界から解放した。鯨は海からよく目立つ桃色の上半分だけ体を出して、ビルが犇めく地面の方向から滑るような動きでやって来た。徐々に大きくなる巨体が群青の波を掻き分ける音で、僕との距離が着々と縮まっていることを実感した。硝子の波が勢いを増してビルの壁面を駆けていく。僕の足下も例外ではなかったようで、水面が隆起したかと思えばザアァと音をたてて波が起こる。硝子の海が激しく上下して、思わずよろめいた。だがやはり僕が海に入るような事はなかった。鯨はそんな僕を他所に尻尾を上げてまた海に潜った。波が暴力的なまでに激しく高く上がる。遂に尻餅を着いたまま身動きがとれなくなった僕は揺らめく鯨の影を見つめることしか出来なかった。また鯨が何処かへ行ってしまう。僕はそう焦った。波に揺られながら硝子の向こうに向かって、待って待ってと叫んだ。鯨は唯一の僕以外の生き物で、硝子の海を統べる唯一の青の世界の主だった。君は笑うかもしれないけれど、僕は海原を自由に進む鯨の姿に君を重ねて見ていた。憧憬や羨望に似た強い好意が僕に鯨を狂おしく求めさせた。
 波が収まり声が枯れ始めた頃、轟音が響いた。初めて聞いたにも関わらず、それが鯨の声と悟った。硝子が痺れたように細かく震えていた。僕の叫びに応じたように感じられて、思わず涙が出た。
 鯨は僕の目の前にゆっくりと浮上した。珊瑚の色をした体、ルビーの瞳。間近で見たそれは余りに美しかった。巨大が全て宝石で出来ているかのような輝きと華やかさがあった。鯨が再び哭いた。同時に足下の硝子が藍と青の渦を作って唸りをあげた。そして、世界が暗転した」
彼女は僕の唇の動きを真似ながら健気に話を聞いていた。口紅を引いていない濃い桃色の唇は妙な色気があった。しかし彼女の小さく薄い唇にあの瞳と同じ紅が乗ったところを想像して、口紅を買ってやりたいとも思った。
「一瞬で何も見えなくなってしまったんだ。目蓋の裏を見つめ続けている時と同じ、自分の存在以外は認知できなかった。何もかも、美しい鯨も寂しい蒼穹も硬質な硝子のビルの群も、皆。あれだけ煩く主張した青は消えて、視界は一瞬にして黒一色になった。真っ暗で冷たい深海のような闇だった。でも今度は孤独感も喪失感も抱かなかった」
僕と共鳴したように彼女が柔らかく微笑んだ。
「僕は悟っていた。鯨に飲まれた事を。僕は世界から阻害されたのてはなく、内包されたのだと。だから僕を覆うのは柔らかな鯨の体で、更にその外には硝子の海があること思えば、寧ろ無機質なビルの壁面に立っている時よりも気分が良かった。鯨は泳いでいるようで、僕は闇の中で揺さぶられた。あの激しい波と違って穏やかで心地良かった。
 暫く揺られていると、鯨が浮上したようで景色が明るくなった。薄紅のフィルターを通して見ているような視界だったが、ビルや空が見えた。暫く景色を見ていると、だんだん脳が補正を始めてフィルターの存在が気にならなくなってきた。遂には明るい空の色や光沢を纏った硝子の海の色が、フィルターなど無かったかのように元の色が分かるようになった。見えるものは以前と同じ世界だったが、僕はそれでも満足だった。僕が息を吐く度、硝子の海に気泡が出来た。気泡は涼を感じさせる輝きを放ちながら上へ上へと登っていった。僕が身を捩ると鯨も動いた。皮膚を這う冷気と仄かな圧力を感じながら、僕は鯨の舵を取る事を覚えた。僕の意思であの巨体が右へ左へと蛇行した。それは元々強くない僕の支配欲を満たすには十分な機能だった。つい嬉しくなって、特に意味も無く遊泳した。不思議な海を掻き分けて、潜水と浮上を繰り返した。ビルからビルへ泳いで移った。まるで君になった気分だった。
 そうして泳ぎ回っていると、硝子の海の上に人間を見付けた。茶色の髪をした痩身の少年だった。青一色の世界で少年の薄桃の肌は目立っていた。それは映えると言うよりも違和感を生んでいると言った方が適切な存在だった。何故彼が此処に居るのだろうと疑問を抱かざるを得ない程に。少年の顔は此方を向いていたから、彼は僕の存在に気付いたに違いないと思った。表情まで確認出来る距離ではなかったが、しゃんとしない姿勢から鬱屈とした雰囲気を覚えた。以前の僕と似たものを感じて、僕は彼に近付いた。
 近付いてどうするつもりだったのかは僕自身も分からない。ただ妙な仲間意識や同情じみたものに急かされて、海の中を進んだ。
 そして少年の近くに浮上した僕だが、慌てて海に潜ることとなった。いや、慌ててというよりも動揺のあまり咄嗟にという表現の方が適切だろう。僕は少年の顔を見てしまったからだ。彼は生気の無い顔に呆然とした表情を貼り付けたまま、硝子の海を見ていた。動揺しながらも潜水を続ける僕に彼の呟きが聞こえた。「鯨だ」変声期を終えた、あの生理的に聞くに耐えない声で。聞き覚えのある言葉だった。ただの四文字だが僕の心臓を鼓のように打った。僕は彼を潜る形で逃げた。だが、彼の存在は頭から排除される事はなかった。排除出来る筈も無い。僕の声、僕の言葉、そして僕の顔。衝撃と動揺が確信に変換されるのは早かった。
 彼は僕だった」
僕は自嘲的な声音で吐き出した。

 
 「青の世界の主で、君と重ねていた筈の鯨も、結局は僕なんだ。鯨も青の世界も君も、皆々僕。寂しいだけだ」
皆僕が作った幻だった。
青の世界に阻害された僕は逃避と落胆を繰り返して不安定な足場に留まるのだ。僕は頭を振って嘆いた。
「夢なら夢を見せてくれてもいいじゃない」
そう言ったのは、僕か彼女か。恐らく両方だろう。そうだ、僕が真に対峙すべき現はもっと残酷だ。
 そう思ったら、たかが夢の事で嘆いてばかりいるのが嫌になった。
「明日は優しい夢を見よう。寒々しい蒼穹に太陽を浮かべて、薄紅から橙色のグラデーションで夕焼け空を作る夢を」
明るく茶化してみたら、彼女が悪戯っぽく提案した。
「無機質な硝子張りのビルを可愛い砂糖菓子の城にしてしまう夢も」
僕と彼女は思わず吹き出して笑った。笑ったら気が楽になった。僕等は何度も頷き合って、微笑み合った。他にも他愛無い話を幾つかした。

 不意に僕の携帯電話が鳴った。それは着信ではなく、事前に設定していた時刻になった事を告げるアラームだった。
 本当の現が迫っている。僕は名残惜しくなって、彼女の手を取ろうとした。だが手を出したタイミングが同じで、指先がぶつかり合った。彼女は照れて節くれた指で髪を弄る。二・三回瞬きをして、何方ともなく、じゃあ、と挨拶をした。
 今日も別れの時が来た。同じ大きさの掌を合わせて、唇を合わせた。抱擁も出来たら良かったのにと思いつつ、もう一度別れを告げて席を立つ。

 僕は静かに亜麻色のウィッグを取って、濃紺のブレザーを羽織った。


 誰も居なくなった部屋には、よく手入れされた鏡台が佇んでいた。磨き抜かれたその鏡面に、唇の跡が一つ。少年のように取り残されたまま。




back
top
[bookmark]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -