子狐、件と離れる

 私と御館様だけだった屋敷に、人間の男と人間臭い子狐が住むようになって、私達の生活は大層賑やかになりました。
 特に子狐、あの鳴き声の煩い事といったらありません。起床するや否や子狐は半ば夢の中にある意識のまま「くだんがいない」と喚き散らすので、堪ったものではありません。まだ布団の中に包まっていたい時刻でも、あの狐には容赦というものが無いのです。煩いのを苦手とする御館様は耳を押さえてそそくさと退散してしまわれるので、必然的にそれをあやすのは私と人間の男の役目になります。座敷童といえど、子供の扱いに長けている訳ではありませんし、幼子の悲し気な声を聴くのは苦痛です。まだ幼い子狐の心細さを思えば、致し方無い部分もあるのでしょう。いえ、心細さを理解し得るからこそ此方も滅入ってしまうのです。
 幸いな事に子狐の聞き分けは良く、頭から眠気が抜けて己が件様によって此処に預けられたのだと思い出せば大人しくなります。それに人間の男、時雨は妹が居た所為か子守に慣れていて、愚図る子狐を宥め透かす事に関しては彼に任せておけば安心出来ます。人間に助けられるのは癪ではありますが、時雨は存外使える男です。

 今朝も時雨の腕に収まった子狐は漸く落ち着きを取り戻して、寂しさに折り合いをつけます。最近の子狐のお気に入りは専ら彼の膝の上です。子狐はお転婆で、寝ている時を除けばこうして人の膝の上でお喋りをさせている時が一番大人しいので此方も助かります。庭で燥ぎ回った泥だらけの脚で廊下を徘徊し屋敷を泥だらけにしたり、屋内で飛び回って甕を割ったり、子狐から目を離すと碌なことがありません。
 しかしこうして寄り添っていると、時雨と子狐は既に親しい間柄のように見えます。子狐の中に流れる血の半分は人間のものですから、無意識に仲間意識のようなものを感じているのかもしれません。時雨の方も、孤独を訴える幼い狐に離別した妹を重ねているのでしょう。時雨は冷淡に見えますが、妹の事となると偏愛ぶりを発揮します。独り新しい環境に身を置かざるを得なくなった妹はこの子狐のように憂いているに違いないと時雨が溢しているのを聞いた事があります。最近の子狐は化ける事を覚えた為に人の子供の姿を取るようになり、より親しみが湧くのでしょう。
「にんげんは おそろしい けど、しぐれは すき」
どろんと人間の姿に化けた子狐は、時雨の首に腕を回して頬を擦り合わせます。髪の色は正しく狐色で瞳も黄金色のままなので人の世に混ざって生きるには不十分ですが、私と同じように襟元で髪を揃えた童女の姿は愛嬌があります。
「人間は恐ろしいのか」
子狐は気を抜き過ぎて獣の耳が頭から出てきてしまいましたが、私も時雨も別段言及する気にはなりません。時雨は子狐の耳を触りながら返事をしました。人間で溢れ帰り彼等の我儘が目立つ世の中で、人間を恐ろしく思わない者の方が珍しいのだと時雨は知らないのでしょう。半分は人間である子狐とて、恐ろしいに決まっています。子狐の母親は人間の欲望に取り込まれ、子狐自身もその毒牙にかかろうとしていたのですから、能天気に人を愛でる方がどうかしています。
「きつねすじの にんげんは、いっとう きらい」
口角を吊り上げ鋭い犬歯を見せて嫌悪の表情を露わにする子狐は、人間の形を模していようとやはり獣です。母である妖狐が嘗て愛した男の面影を残す人間に強く出られないのを良い事に、狐筋は勝手放題なのだと子狐は訴えます。妖狐のお陰で富を得た者達が裏では狐を蔑み嘲っている、その二面性が人間の恐ろしいところです。きっと今に狐は人間達に持ち得る力の全てを搾り取られて果ててしまうでしょう。ただ人に憑いているだけなら兎も角、人間に弱味を握られて使役される一方の妖などそのような末路しか想像出来ません。人間の欲に際限は無いのですから。
「父上も嫌いか」
人と妖との確執には一切の興味を示さない時雨ですが、子狐が自身に流れる血を、延いては子狐自身を嫌悪するようになるのではないかと懸念しています。それは私や件様も心配するところでありました。子狐は暫し考え込んで、首を傾げます。子狐の知る人間は狐筋と時雨のみですから、判断が付かないのも当然でしょう。寧ろこの段階で判断をしないのが最も賢明です。
「件様から貴方のお父様はお母様を助けてくださったのだとお伺いしました。きっと、善い人間だったのでしょう」
とうに死んだ人間の真実などどうせ分かりはしないのだから、都合の良いように解釈してしまうのが子狐の為です。適当に希望を抱かせると、子狐の顔が綻んで耳が上機嫌に揺れます。子供という生き物は単純で可愛いのです。
「しぐれ みたいに?」
身分を偽り御館様に無礼を働いた時雨の過去を子狐は知らないのです。無防備にも中途半端に人間を模している子狐から三本の尾が出てきます。髭が出てくるもの時間の問題でしょう。
「さあ。そもそも俺が善人とは、買い被り過ぎてはいないか」
妹の為とあらば故郷とその民すら平然と犠牲に出来ると言う時雨が善人である筈がありません。もしも妹の為に狐の脾臓が必要となったなら、時雨は迷い無く子狐を縊り殺して臓物を掻き出すに違いありません。しかしそれでも欲求と目的が限定的であるだけ、ただ無限の欲求と無形の幸福を茫洋と貪ろうとする人間よりは余程優しい気もします。恐らく私達が人間である時雨の存在に必要以上に不快にならないのはその為でしょう。


 子狐の腹の虫が鳴いたのを合図に、時雨は彼女を膝の上から降ろしました。昼餉の支度をせねばなりません。落ち着いている時の子狐なら御館様にも面倒を見ていただけます。人間を快く思わない御館様は子狐が人の童女の姿を取る事に良い顔をしません。しかし犬の眷属たる狐である事には変わりない為か、はたまた人に利用される身分であった事への共感か、御館様は子狐を決して邪険にはなさいません。子狐が御館様の肩によじ登るのを見届けて部屋を後にしました。
 今は専ら人の姿に化けたがる子狐ですが、それはよく世話を焼く時雨が人間である事や私や件様の姿も人間に似ている事に影響されているのでしょう。もう少しすれば人の形に飽きて御館様を真似るようになるかもしれません。御館様のような姿で屋敷中を跳ね回られては私や時雨の手には負えないでしょうから、出来る事ならその時までにはもう少し落ち着きを持ってほしいものです。

 「お前も人間嫌いか」
御館様に子狐を預けた後、時雨は私に向かって溜息を吐きました。私からすれば何を今更言うのだと感じなくもありませんが、彼はそうではないと思いたかったのでしょう。悪意は向けられずとも嫌悪の感情を持つ者に取り囲まれるのは苦痛でしょうから。
「私にも人間と共に生きようとした時期はあるのです」
元々座敷童は人間の家に憑くのですから、私が人間に疎い筈が無いのです。後は言わずとも察したらしい彼はそれ以上追及しようという素振りを見せませんでした。時雨の妹以外の凡てに対して発揮される無関心は、こういった時には有り難いのかもしれません。
 時雨は子狐の好物である川魚を坦々と捌きました。執着の対象と切り離された彼は無欲そのもので、清廉にすら見えます。彼は謂わば抜け殻なのです。きっと子狐はこれからも彼を善い人間の代表格と認識し続ける事でしょう。それはそれで少々問題は有るような気もしますが、弊害が出る前に子狐が成長するか時雨が天寿を全うしてくれる事を祈ります。
 寧ろ懸念すべきは時雨が新たに執着するものを作ってしまう事ではなかろうかと考えを巡らせ始めた頃、不意に時雨が口を開きました。
「神として祀り上げられる前の狗神は何と呼ばれていんだ」
それは実に時雨らしくない質問でした。狗神の前身などただの飢えた白犬ですから、崇高な名など付いている筈がありません。精々「白」や「犬ころ」が良いところでしょう。そんな事を知ってどうするのかと疑念の眼差しを向けると、時雨は到底関心を持っているとは思えない口調で答えました。
「件に狗神と子狐を頼まれた」
件様の差し金であれば、一応は納得は出来ます。件様は世話焼きと言うべきか、御館様に言わせれば少々お節介なのです。胸中に件様の優し気な面長の顔が浮かびました。きっと私達よりも遥か遠くの事が分かってしまう分、優しくせねばいられないのでしょう。厄介な事です。
「頼まれたからとて、貴方に何が出来ると言うのですか」
しかし時雨一人にどうにか出来るとは思えません。時雨もそこは言葉に詰まりました。仮に時雨が御館様の慰みになったとしても、御館様にとって時雨が居なくなるのはあっと言う間です。それでは余計に悲しいではありませんか。
「それに貴方らしくもない」
時雨が首を左右に振ります。
「件に貸しを作れるのなら当然だ。件は恐らく妹を知っている」
それはそうでしょう。件は予言をもたらす妖ですから、別れた妹の動向を探るには適任です。それに、以前件様がお越しになった際に仰られた事が気がかりなのかもしれません。何れにせよ、時雨は妹を中心に動いている事には変わりないのだと確認が取れました。こんな動機で安心するもの随分彼に毒されてきた証のようで愉快ではありませんが、多少の下心が有る方が健全には違いありません。誰も彼に聖人君子であれと望んでいる訳ではないのですから。
「子狐は兎も角、御館様に関しては貴方に出来る事などありはしませんよ」
「そうだろうな」
「貴方が人間であるというだけの理由で件様に御館様を頼まれたというは癪です」
時雨は不思議そうに此方を見ました。当たり前です。私は彼がこの世に生を受けるよりも遥か前から御館様と共にあるのですから。


 時雨と無駄に喋っていられたのも束の間、子狐の鳴き声が屋敷に響き渡りました。
 大方、御館様が足元に纏わり付いてくる子狐の尻尾をお踏みになってしまったのでしょう。若しくは一緒に昼寝されたものの寝返りをお打ちになった拍子に子狐を下敷きになさってしまわれたのかもしれません。三日に一度くらいの頻度ではありますが、どちらもよくある事です。子狐に今行くと返事をして時雨が駆けて行きます。
 私と御館様だけだった屋敷が随分と騒々しくなったものです。しかし屋敷が煩いのも、時雨が亡くなるか子狐が子供でなくなるかの極短い期間だけです。もし、万が一ではありますが、この騒々しさが御館様や子狐の心の隙間を埋めるのに一役買っているのなら、それは捨てたものではないのでしょう。



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