チョコレート

 失敗した。
 帰宅した誠嗣サンが手にしていた紙袋の中身を察した瞬間、そう確信した。いつもの誠嗣サンの帰りを待つ時のふわふわとした幸福な気持ちが萎んでいく。落胆を悟られないよう普段通りの対応を意識してお帰りなさいと挨拶してコートと一緒に荷物を預かる。紙袋の口からは可愛らしさと上品さを兼ね備えた包装紙に包まれた小箱が覗いている。案の定、チョコレートだった。バレンタインデーという初めて経験する恋人らしいイベントに浮かれ過ぎていたのだ。軽やかな外装に反して結構質量のある紙袋が、俺の腕の中でずしりと存在を主張した。
「夕飯の後に一緒に食おう」
紙袋を覗く俺に気付いた誠嗣サンが笑って声をかけてくる。多分、俺がチョコレートを好きだと言ったのを覚えてくれているのだろう、嬉しい。今日がバレンタインでさえなければ。それが女性社員から貰った物でさえなければ。

 別に誠嗣サンが職場でチョコレートを貰う事に不満がある訳じゃない。決して面白くはないけど、それは所謂義理チョコで、人付き合いの一環でしかない事も知っている。寧ろこれが義理チョコだという事が問題なのだ。ブランドの、重厚な小箱に入った宝石みたいなチョコレート。それが、義理。俺が買ったチョコレートの存在を思い出して、情け無さで胸が苦しかった。
 俺は本命なのに、コンビニの比較的安価なバレンタインフェアの商品を買ってしまった。本当はもっとテレビで取り上げられているような華やかで如何にも本命らしいチョコレートが買いたかった。けど、そんなチョコを扱っている店は女の子で賑わっていたから諦めざるを得なかった。一応商品を手に取るところまではしたのだけど、レジに辿り着くまでに四グループくらいの女の人に話しかけられて心が折れた。女性だらけの空間に男が居るだけでも注目を浴びるのに、誠嗣サンに言わせれば俺は女が放っておかない容姿らしい。犇めく女性達の化粧品や香水の香り、高めの声、長い睫毛に縁取られた眼。可憐で愛らしい筈のそれ等は俺には恐怖の対象でしかなくて、早々に店から逃げ出してコンビニのフェア商品で手を打った。子供も買っていきそうな数百円のチョコレートでも、その時は初めてのバレンタインに浮かれていて、それでも充分だと思っていたのだ。よくよく考えれば俺が買い物をする金は全て誠嗣サンの稼ぎなのだから、余計に滑稽だ。


 約束通り夕食後にチョコレートを食べた。チョコレートの小箱は存外多くて、半分以上は冷蔵庫に入れて明日に持ち越す事になった。
 誠嗣サンの勤める所は所謂優良企業とかホワイト企業とか呼ばれる会社で、女子社員も多いし給金も多い。有名ブランドの宝石みたいなチョコレートから、経済的に自立したお洒落な女の人の匂いがした。きっと彼女達は誠嗣サンと同じく高学歴で聡明な人達なんだろう。何れにせよ、碌に学校にも行っていない俺とは正反対の、女の人。
 チョコレートを憂鬱な眼で見遣る俺に誠嗣サンは「流石にこの量は胸焼けするよな」と笑った。相変わらず鈍感だけど、だからこそ助かった。この感情を彼に知られたくなかったのだ。汚くて情無い事ばかり考えている事を知られたら、呆れられてしまう。

 誠嗣サンが風呂に入っていると、リビングは嫌に静かで、悪い事ばかり考えてしまう。かといってテレビを点ける気にもなれなくて、テーブルに突っ伏した。浮気を疑っている訳じゃない。安易に過去と同じ過ちを犯すような見下げた人間だとは思えない。でも、誠嗣サンは元々女の人の方が好きで、俺は学の無い男で。彼と最初に会った時なんて、俺は人間ともいえない生活だった。同情で俺に付き合っているんじゃないかという疑念が頭を過る。誠嗣サンにそのつもりは無くとも、他にもっと魅力的で彼に釣り合った人間が居る事に気付いたら、俺との関係は呆気無く終わってしまうかも知れない。
 成長期を終えた俺は昔みたいに華奢でも可愛くもない。相変わらず教養は無い。骨張っていて、背も高くなった。元異性愛者の誠嗣サンが男の俺に不満を覚えても、仕方が無い。でも、誠嗣サンに見限られたら、俺は死んでしまう。誠嗣サンと別れたら後の世の中なんて、生きている価値が有るとは思えなかった。
 セックスがしたい。
 思考が嫌な仮定で埋まっていくのが辛い。セックスはこれ以上無い逃避だと知っている。性欲があらゆる柵から眼を逸らさせてくれる。セックスの疲労は嫌な事を考える間も無く眠らせてくれる。セックスが唯一、俺が人並み以上に出来る事かもしれない。セックスは唯一、人に褒められた経験のある行為だった。俺の経験則が肉欲に救いを求めている。依存症なのかもしれない。
 誠嗣サンが入っている風呂に乱入して、その裸体をまさぐって行為に雪崩れ込んでしまおうかとすら考えた。そんな淫奔じゃ誠嗣サンに呆れられてしまいそうで、出来ない。開拓されきった身体は他の男の爪痕そのもので、それを強調してしまうのは酷く悲しかった。一般的には、他の男と関係を持った過去がある事はよろしい事ではないのだ。

 冷たいテーブルに額を擦り付けても、頭を占める嫌な熱は出ていかなかった。嫉妬というにはあまりにも一方的な不安と劣等感。
「青葉も風呂入れよ」
肩にタオルを掛けた誠嗣サンがリビングに顔を出す。湯船に浸かって皮膚が仄赤くなった誠嗣サンは色っぽくて、蟠った性欲に拍車をかけた。誠嗣サンが鈍感なのは幸いだった。此方が言わない限り、俺の漠然とした不安は隠し通せるに違いない。この悪い考えは、洗い浚い話してしまった後で「お前が好きだ」と言ってもらうだけで幾分か楽になるだろう。けど、それを口にするという事は、誠嗣サンを侮辱するのと同じだ。
 誠嗣サンは暫く俺を見つめた後、顎に手を当てて言いにくそうに切り出した。
「今年は部署に女子社員が増えたから、思ってたよりも沢山チョコ貰ってな」
去年はこんなに多くはなかったのだと言った。
「いくら好きでも、もう当分チョコなんて見たくないだろう」
言い訳みたいな言い回しに、もしやと思う。本命のくせに何も渡さなかった俺にフォローを入れようといったものではない。寧ろこれは誠嗣サンが俺に対して負い目があるような口調だった。
「ううん、嬉しかったよ」
これは嘘じゃなかった。甘い物は多幸感を引き出してくれる。特にチョコレートが舌の上で溶けるのは至福と言って良い。それを誠嗣サンが覚えていてくれた事も嬉しい。誠嗣サンは気恥ずかしそうにそうかと呟いて、冷蔵庫を漁った。冷蔵庫は引っ越す時に買い換えてしまったけど、相変わらず幼い娘さんの写真が磁石で留められている。その横には成人式の振り袖姿の彼女の写真も増えていてる。徐々に修復されつつある父娘関係を微笑ましく思うけど、不安に支配された心では誠嗣サンが安定していくのを素直に祝福出来なかった。ふとした瞬間に誠嗣サンが俺を自身には似つかわしくない存在だと気付いてしまうのではないかと思ったからだ。変わりゆく事全てが恐ろしかった。
 誠嗣サンが冷蔵庫の奥の奥に仕舞い込んだ小箱を取り出してテーブルの上に置いた。チョコレートだった。気不味そうに頬を掻く誠嗣サンは饒舌だった。
「青葉はこういうイベント好きだろうけど売り場は女性だらけで到底買えないんじゃないかと思って、俺が通販で買ったんだよ」
まさか誠嗣サンの方がチョコレートを用意してくれるなんて。通販という手があったかと感嘆する。尤も、俺個人ではオンラインショッピングのアカウントは持っていないので通販にしてしまうという手は彼にしか使えない気がした。テーブルの上に鎮座するダークブラウンのシックな小箱を誠嗣サンは憎々し気に見つめた。
「……貰い物と被るとは思わなかったんだよ」
誠嗣サンの節くれた指が箱を叩いた。どうせ職場でもチョコを貰うから少な目で良いと思って容量の小さい箱を買ったら、貰った義理チョコのひとつと被ってしまい渡しづらくなったのだと告げる誠嗣サン。実のところ、混沌とした精神状態でそれを悟られないよう振る舞いながらチョコレートを食べていたので、細かいパッケージまで覚えていなかった。
「は、はは」
口から情無い笑いが漏れる。脱力してしまえば、堪えていたものが滂沱と溢れた。
 ありがとうと言うべきなのに、泣けてきてしまって上手く言葉を紡げなかった。情緒不安定で申し訳ないけど、誠嗣サンが示す愛情に安心したら涙が止まらなかった。俺の大き過ぎるリアクションに当惑しながらも抱き締めてくれた誠嗣サンに、好きだと繰り返しながらしがみついた。誠嗣サンの手が頭部を優しく撫でるのが堪らなく愛しかった。風呂から上がって然程時間の経っていない誠嗣サンの身体からは俺が使っている洗剤と同じ匂いがして、独占欲も満ちる。
 青葉は表情豊かになった、と誠嗣サンは言った。泣いてしまった事に関する言及なのだろうが、思い当たる節は有った。昔から無表情ではなかったけど、泣いたり怒ったりという激しい感情の起伏を吐き出すような相手を困らせる対応は恐ろしくて出来なかったのだ。ここまで気を許せるのは後にも先にも誠嗣サンただ一人なのではないかと思う。不快にさせたとしても、この人は俺を酷く扱ったりはしないのだ。現に誠嗣サンは泣き止まない俺をこうして優しく宥めてくれる。困らせてでも一緒に居たい。そう思ってしまった。きっと俺は誠嗣サンに見限られるようなことになった時、泣いて喚いて意地汚くその腕に縋るのだろう。そうするのが自然な事に思えたら、不思議と肝が据わった。

 この際なのでコンビニで買った俺の安っぽいチョコレートも渡してしまった。俺がチョコレートを用意するという想定が無かった誠嗣サンは驚いていたが、コンビニの物だと白状すれば納得した。
 そしてチョコを受け取った誠嗣サンにバリトンボイスで風呂を勧められれば、期待するしかない。淫らな妄想に胸を膨らませつつ身体を清める。逃避じゃない、好意で満たされたそれに心が躍った。


 風呂を出て誠嗣サンの寝所を訪ねると、そこは甘い香りで満ちていた。
「チョコレート?」
香りの正体を訪ねると誠嗣サンが掌で温めていた液体を見せてくれた。
「チョコ風味のローション。これも通販で買った」
食べても問題の無いらしいそれは、カカオの匂いを振りまいて誠嗣サンの掌を艶かしく滑っていく。年甲斐も無く何をやっているんだと自嘲する口振りに反してその眼は楽しそうだ。ベッドの上で濃密にキスを交わす。
「毎年バレンタインはそれにしようよ」
そうしたら義理チョコと被ったりしないでしょ、なんて現金にも今後の関係まで予約してみれば、誠嗣サンは快く笑った。



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